ガイドブックによると、夢殿は聖徳太子の宮殿だった斑鳩宮跡に、
天平11年(739年)行信という高僧が聖徳太子をしのんで建てたという。
年表によると、聖徳太子が斑鳩宮を建てたのが601年、聖徳太子が没したのが622年。
太子の息子・山背大兄王が蘇我入鹿に殺され、太子一族が滅んだのが643年。
おそらくこのとき斑鳩宮は炎上し、廃墟になったのだろう。
ぼくがずっと不思議に思ってきたのは、なぜこの宮が廃墟のままにされたのかということだ。
翌々年には蘇我入鹿が中大兄皇子・中臣鎌足によって殺され、蘇我氏が滅んでいる。
聖徳太子の一族が皆殺しにされていたとしても、
蘇我氏を滅ぼした時点で斑鳩宮を再建するなり、なんらかの象徴的な施設を建てて、
太子の政治路線を復活・継承していけばよさそうなものなのだが、
中大兄皇子はどちらかというとアンチ仏教・反中国路線を突っ走っていく。
大和にもう一度仏教・中国路線が復活するのは、
彼が亡くなり、その息子が殺されてからだ。
聖徳太子崇拝が始まるのもそこからだ。
つまり、聖徳太子=大和朝廷のグローバリゼーション路線、
蘇我氏=アンチ聖徳太子・アンチ大和朝廷の逆賊、
中大兄皇子(天智天皇)=聖徳太子路線の復活という図式は成り立たないのだ。
聖徳太子一族と蘇我氏は仏教路線で同盟関係にあり、
蘇我入鹿による山背大兄一族皆殺しはその同盟の内紛・権力闘争にすぎなかったと思える。
不思議なのは後に神のように崇拝されることになる聖徳太子がなぜ天皇に即位できなかったのかだ。
これは太子のあと最大の政治家である中大兄皇子が、大化の改新から23年間も天皇に即位していないのと並んで、古代日本史最大の謎のひとつだ。
聖徳太子の場合、裏日本史の世界では、
「実は朝鮮半島から渡ってきた渡来人だった」という説がある。
たしかに太子が日本書紀で言われているような皇室のメンバーなら、
蘇我氏にファミリーが皆殺しにあったとしても、血のつながった皇子たちはたくさんいるのだから、
「一族滅亡」というのはおかしいような気もする。
蘇我氏も朝鮮半島から渡来した比較的新しい豪族だったというから、
新しい渡来系の豪族はどれだけ権力を握っても、天皇に即位するのは難しかったのかもしれない。
同じく裏日本史では中大兄皇子も百済王家の王子で、
だから唐・新羅の連合軍に百済が滅ぼされたあとも、朝鮮半島の大軍を送って唐と戦ったのだという説がある。
その説によれば、白村江の戦いで唐に敗れ、
大和盆地から逃げ出すかたちで大津に都を遷してから天智天皇として即位しているのも、
当時の国際社会からは認知されない変則的な行動だった可能性があるとのことだ。
その天智天皇は、ある日白馬に乗って散歩に出かけ、馬だけが戻ってきたという、
はなはだあいまいなかたちで亡くなっている。
そこから壬申の乱が起こり、天智の息子・大友皇子が殺され、
天智の弟といわれる大海人皇子が天武天皇に即位してから、
大和にもう一度中国・仏教文化の花が咲くことになる。
つまり、聖徳太子路線に戻ったわけだ。
裏日本史ではこの天武天皇も、実は天智より年上だったとか、
渡来系の将軍で、皇室の人ではなかったとか、いろいろ説があるのだが、
とにかく仏教伝来・中国の政治システム導入、つまり当時のグローバル路線は、
蘇我氏・聖徳太子あたりの積極推進からいろいろな紆余曲折を経て、
このあたりから日本の政治・国家運営に定着していくことになる。
そこで生まれた聖徳太子崇拝は、その先駆者として遺徳をたたえるということだったのだろうか?
だとすれば仏教導入の先駆者だった蘇我稲目はどうしてたたえられないのか?
太子は皇室メンバーで、蘇我氏は逆賊だからか?
それは本当なのか?
蘇我氏でも、太子より1世代前の稲目は逆賊とは言えないのではないか?
そこでぼくの思考はまた堂々巡りを始める。
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2009/1/6(火) 午前 7:26