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津島牛頭天王社巫女による織田信長の口寄せ
私が悪童たちと津島に足繁く通ったのは、彼らの多くが津島者だったこともあるが、第一はこの町が尾張一の都会で面白いものがたくさんあったからだ。中でも私のお気に入りはすあいのなかが経営する赤屋敷だった。
すあいとは人の間に立って商売の資金や場所、販売先などを世話する商売人のことだが、なぜか女が多かった。寺社が商人や職人の座を統括していた当時、加持祈祷や口寄せで神々のよりしろの役目を果たし、神仏と特別な関係を結んでいると考えられていた巫女のような職業に、独特の地位を占める女たちがいたが、そういう女たちは長じてすあいになることが多かったのだ。
なかは元々津島ではなく、尾張中村の日枝神社の巫女だったが、私の祖父・信定に見いだされて津島牛頭天王社と結んで多くの巫女・傀儡・遊女・白拍子を抱えるようになった。祖父の愛人だったとも言われるが、そのあたりのことはわからない。私自身なかに何度も聞いてみたが、いつも笑ってはぐらかされたからだ。
なかは巫女・傀儡・遊女・白拍子を本格的に組織して三河・駿河・相模・美濃・伊勢・近江で商売と諜報活動を行なった最初の女だった。元々彼女自身、巫女として様々な客のために口寄せや託宣を行ない、身体を売っていたから、噂どおり祖父や津島の社家や豪商たちと関係を持っていたとしても何の不思議もないのだが、彼らにとってなかの存在価値はなんといってもその諜報機関の力だったはずだ。
彼女は何度か夫を持っているが、それは商売と諜報活動のためだった。
当時彼女のような女は自分の意志で結婚・離婚を繰り返すことができたので、やり手の彼女は女の強みを最大限に利用したのだろう。
最後の夫になった中村の筑阿弥は針や日用品の小さな刃物を専門とする鍛冶や商人を束ねる頭領だった。鍛冶職人や針商人は自由に国を渡り歩くことが許されていたから、筑阿弥もなかに劣らず強力な諜報組織を作り上げていた。
彼らの結婚に恋愛感情があったのかどうかは疑問だ。子供はできなかったが、それが打算による結婚のせいなのか、2人ともかなりの歳だったからなのかは不明だが、とくかく彼らの結婚によって、尾張はさらに強力な諜報機関を持つことになった。
なかには何人かの娘と息子がいたが、娘は自分の下で巫女として育て、息子は筑阿弥に託して針商人兼間者にした。のちに木下藤吉郎・羽柴秀吉になる日吉丸も息子の一人だった。
子供の頃の藤吉郎は針売りとして三河から駿河を渡り歩いていたが、彼を含む筑阿弥の諜報・工作組織は三河豪族の切り崩しや、駿河の今川の動向把握にどれだけ役立ったかわからない。
私の死後、藤吉郎が太閤と呼ばれ、なかは大政所と呼ばれるようになるのだが、彼が書かせた伝記になかは貧しい百姓の後家で、子供たちを苦労しながら育てたという話が書かれているのを発見したとき、私は笑いが止まらなかった。
たしかになかは普通の女の何百倍も苦労したのだが、それは無力な女の苦労とはまるで違っていた。彼女はいつも明るく妖艶で知略に長けていた。自分が築き上げた組織を使って、あるいは男たちを操って邪魔者を消したことも一度や二度ではなかったし、欲しいものは必ず手に入れた。しかし、それはまわりの強欲な連中にそれなりのものを提供しながらだったのだ。
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