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「信秀様に竹千代君を奪われても動じなかった広忠は今川義元の信頼をさらに厚くしたようです。駿河でも軍備を整える動きがあるようですから、今川・松平の尾張侵攻は遠くないでしょう」
「どうして駿河のことまでわかる?」
「秘密の情報源がありますので」
猿はにやにや笑ったが、すぐに真顔になって、
「いつものあれのことですが」と弁解した。
御師たちの知らない情報源があるように受け取られると、場合によっては反間(二重スパイ)の疑いをかけられかねない。
「いつものあれ」とは色仕掛けのことだ。顔が醜い猿を抱こうとする男はいないが、女にはかなり気に入られている。特に豪商の妻や妾、武将の側室や御殿女中のような身分の高い女たちだ。まだ十歳にもならない頃から猿はそういう女たちに呼び出され、相手をさせられてきた。醜い男に体中を舐め回されたり、ふたつの穴を同時に責められるのが好きな女というのがいるのだ。相手が身分の卑しい醜い妖怪のような男だからこそ興奮するらしい。蔑みの中にはすでに欲情が混じっている。ときには穢らわしい者に屈服したいという衝動すら。
猿は子供の頃からそういう人の心を読み取り、操るのが得意だった。
手練手管は母親が営む怪しげな商売をのぞき見し、巫女や遊女たち、姉や従姉妹たちから学んだ。生まれつき人を楽しませることに長けているので、女たちにいちいち求められなくても、何をしたら欲情し、何をしたら昇天するかわかるのだ。猿にとって女たちを喜ばせ、意識を失わせるところまで追い込むことにまさる楽しみはない。
事が終わったあと、意識が朦朧とした女たちからさりげなく知りたい情報を引き出すのは簡単だ。夢から覚めたあとでも、猿がどんな情報を引き出したか気づかれることはない。
女たちから引き出せるのは、武将たちがあたりを憚りながら囁き合うような軍略・政略の話ではない。もっと日常のささやかな事実の断片だ。無数の断片そのむこうに、松平や今川の重臣たちですらまだ意識の端にのぼらせていないような、密かな戦略の気配、謀略の兆しが隠れているのだ。
猿の頭脳の中には東海から東国まで、様々な国の軍勢の数や地域分布、家臣たちの細かな諍いの歴史はもちろん、どの宿、どの村、どの町の寺神がどんな神仏を祀り、どんな武将たちが信仰し、どんな寄進をしているか、彼らがどんな血族を持ち、血縁・地縁・主従関係・信仰などでおたがいどのようにつながり、どこに亀裂の兆しがあるかといったことがすべて入っている。どんな細かな情報も、その緻密な曼荼羅の中に位置づけられるとたちまち様々な意味を持つ。
間者を兼ねて諸国を巡る行商人や芸能者たちは、子供の頃から国々の主要な宿場や領主について一通りの知識は頭に叩き込まれるのだが、それを猿のように自在に操ることができる者はいない。津島御師たちの中にすらいない。
津島天王社の社家の息子たちであり、津島の豪商、織田家に仕える武家の息子たちでもある御師たちは、祈祷や口寄せといった技、あるいは幻覚作用のある香や薬を使って相手を幻惑し、たぶらかしたり操ったりする術を心得ているし、武芸にも長けている。しかし猿にはそんな技はない。必要ともしていない。騙さなくても相手を説得し、動かすだけの根拠を持っているからだ。
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