イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

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        ま だ わ た し は 水 際 を ⋯ ⋯           
                                        


                                        
                                        
                                        
                                        
                                        
 マリコの前で広告会社の男にお尻をぶたれるのはとても苦痛だ。
 その日も仕事の打合せが終わったとき、男が「じゃあ、そろそろやりましょうか」と言ったのだ。まるで気の進まない仕事をさっさと片付けてしまおうといった感じだった。たとえば借金を取り立てるとか、担保にしていた家を差し押さえるとか⋯⋯。
「ええ」とぼくは言い、ソファから立ち上がってテーブルに両手をついた。
 ぼくの首輪は鎖でマリコの首輪とつながっていたので、彼女も首を引っ張られて立ち上がった。広告会社の男はぼくのズボンと下着を膝まで下ろし、平手でぼくのお尻をぶった。パシッという乾いた音がしたが、大して痛くはなかった。パシッ、パシッ、パシッと、広告会社の男はぼくのお尻をリズミカルに叩き続けた。その間ぼくは、
「ひとつ、ふたつ、みっつ⋯⋯」と数をかぞえていった。その日は百叩かれることになっていて、ぶった数を広告会社の男が気にしなくてすむように気を使ったわけだ。

 この広告会社では仕事が一段落すると、フリーランスのコピーライターのお尻を百回叩くことになっている。どこの広告会社もたいていそうだ。会社によって百十回とか百二十回とか、叩く回数は違うが、平手でコピーライターのお尻を叩くというのは変わらない。それが習慣になっているのだ。広告会社の社員たちはそのたびにいやそうな顔をする。そりゃそうだ。だれだって、三十過ぎの男のお尻なんて見たくない。もちろんぼくだってすごく恥ずかしい。特にマリコに見られるのは嫌だ。ぼくがお尻をぶたれている間、彼女は顔を窓のほうに向けている。
「奥さん、気を悪くしないでくださいよ」と男はマリコに言った。「ぼくだって好きでや
ってるわけじゃないんですから」
「ええ、わかってます」とマリコは言った。「仕事ですからね」
「どうです、よかったら奥さんも叩いてみませんか?」
「いえ、結構です。どっちかっていうと、叩くより叩かれるほうが気が楽ですから」
「ほんとにね」男はそう言って軽くため息をついた。「できたらご主人と代わってあげたいでしょうけど⋯⋯」
「わかってます」とマリコは言った。「それじゃ仕事になりませんものね」
 ぼくはお尻をぶたれながら海を見ていた。その広告会社は東京湾を見下ろす場所にあった。大型貨物船が出入りする埠頭では黄色いクレーンが次々と荷を下ろしていた。

 それからぼくらは運河沿いの公園を歩いて帰った。昼下がりのベンチには小さい子供を連れた母親たちがたくさん腰掛けてお喋りしていた。マリコはしきりに子供のほうを見ていたが、立ち止まって抱き上げたりはしなかった。ぼくが広告会社でお尻をぶたれた日は、ぼくに気を遣ってくれるのだ。彼女はぼくが子供、特に赤ん坊を恐れているのを知っている。赤ん坊は触れるにはあまりに柔らかすぎる。ちょっと触ると手足が取れてしまいそうな気がするのだ。
「いいよ」とぼくは言い、彼女の肩を抱いて立ち止まった。彼女も同時に立ち止まった。首輪の鎖が短かい日は、相手に知らせてから立ち止まらないと、首を締めてしまうことになるからだ。「赤ん坊を抱いてみたら?」
「いいわよ」とマリコは言った。
 ぼくらの足元で、歩き出したばかりという感じの赤ん坊がアヒルみたいによたよたと進んだり止まったりしていた。母親らしい女はベンチで笑いながら母親仲間と話し込んでいた。マリコはちょっとしゃがみかけたが、やめてしまった。
「いいから、抱かせてもらったら?」とぼくは言った。
「いいってば」とマリコは言った。
 赤ん坊はよたよた歩きまわりながら笑っていた。万歳をしてるみたいに両手を上げて、マリコがだっこしてくれるのを待っていた。ベンチで母親がぼくらを見ながら笑っていた。マリコは赤ん坊ではなくその母親を見ていた。ぼくもその母親を見つめた。彼女をどこかで見たことがあるような気がしたからだ。ぼくらは一緒にしゃがみこんで彼女を見つめた。目の前の赤ん坊が笑いながら、自分からマリコの腕の中に入ってきた。翼を取った天使みたいに可愛い赤ん坊だった。ぼくらを見つけた母親が、ベンチから立ち上がってこっちにやってきた。
「久しぶり」と彼女はマリコに言った。「元気だった?」
「ええ、まあ」とマリコは言った。
「あなたたちが一緒にいるのを見るなんて、奇跡みたい」と彼女は言った。それからぼくに向かって、「わたしが誰だかわからないんでしょ?」と言って笑った。

 彼女はぼくが知っているどの女にも似ていなかった。歳は四十をかなり越えているように見えた。長く伸ばしてゆるいパーマをかけた髪は茶色に染めていたが、根元のところがかなり白くなっていた。日本人には珍しく険しい、彫りの深い顔だちだった。フルマラソンを走った後のバネッサ・レッドグレーブといった感じ⋯⋯。
「わたしよ」と彼女は言い、ぼくのおちんちんを素早く掴んだ。「ミチコ」
「そうか」とぼくは言った。
 彼女の手を払いながら腰を引いたので、鎖がマリコの首輪を引っ張った。赤ん坊はびっくりした様子もなく、マリコの顔をいじっていた。
 その母親は一宮ミチコだった。一九六八年の初夏に聖書女学院の果樹園からリッキーと一緒に消えた女の子だった。
「一体どうしたっていうんだ?」とぼくは呟いた。目の前のこの歳とった母親がどうしてもあのミチコに見えなかったからだ。
「色々あったのよ」と彼女はぼくらに言った。「色々⋯⋯」

 ぼくらは歩いてわが家に戻った。ミチコと赤ん坊も連れて帰った。地上百三十メートルの居間から東京港を見下ろしながらぼくらはお茶を飲んだ。ミチコはいろんなことを話したが、窓際には決して近づかなかった。
「吸い込まれそうで恐いのよ」と彼女は言った。
 彼女は運河沿いにある公団住宅に住んでいた。わが家の居間からその建物がマッチ箱みたいに見えた。彼女の夫は運送会社に勤めていた。トラックの運転手だ。月に二十日は高速道路の上で過ごす仕事。東京に戻っても、家に帰るのは、酒を飲み、競艇かオートレースをやり、ソープランドで遊んでからだ。
「まあ、若いからね」と彼女は笑った。夫は二十一歳だった。
 それから話は一九六八年のキャンプのことになった。話すことは山ほどあった。ぼくらは聖書女学院の果樹園にあった木の一本一本を全部覚えていた。近くの小川の淵や瀬、そこで取れる魚、六甲山につながる広い丘陵地帯に広がっていた森やその中の池、そこで見た鳥や動物のことも⋯⋯。話しながら、ぼくらは二十年前の宝塚にいた。そこでぼくらがしたこと、話したこと、まわりにいた多くの人たちが蘇ってきた。
「ほんとに、あなたたちが一緒にいるのをもう一度見られるなんて」とミチコは言った。「やっぱり人間て、若いうちに出会った相手と一生暮らすべきなのよ。そうすればいつまでもそのときの思い出を共有できるもの」
「そうかな」とぼくは言った。

 ぼくとマリコはこの二十年間のことを話した。その中に共通の思い出はほとんどなかった。この二十年間の大部分、ほんの一年前まで、ぼくらはお互いが生きてるのかどうかさえ知らなかったのだ。
「それはちょっと悲しいことよね」とミチコは言った。「でも、いいじゃない。結局一緒になったんだから。わたしはあのときから、あなたたちはいずれこうなるんじゃないかって思ってたのよ」
「そう?」マリコがミチコの赤ん坊を抱きながら呟いた。彼女はじっとミチコを見つめていた。きっと冷静ではいられないのだろう。去年、結城に会ったときのぼくもそうだった。こういう相手とは永遠に昔のままの関係でしかありえないのだ。
 ミチコはひっきりなしに煙草を吸った。彼女が煙草を吸うのを見るのは初めてだった。一九六八年の彼女は煙草を吸わなかったからだ。彼女は煙草の火が唇につきそうになるまで吸うと、次の煙草を取り出してくわえ、前の煙草で火をつけるのだった。煙草を吸う彼女の手付きはとてもせかせかしていた。手の甲は皺だらけで、指先は茶色く変色していた。
 彼女はこの二十年間、何をしていたのか全く話そうとしなかった。ぼくはリッキーのことが聞きたかったので何度も水を向けたのだが、そのたびに彼女は話をそらしてしまった。
「色々あったのよ」と彼女はまた言った。「色々ね」
 色々⋯⋯。話せない色々。思い出したくない色々⋯⋯。

 日が暮れてしまった。秋の終わりの夜は素早くやってくる。赤ん坊はクークーと寝息を立てて寝てしまった。窓の外には東京の街と港の夜景が果てしなく広がっていた。ぼくらはテーブルを囲んで黙り込んでいた。別に話の種が尽きたからじゃない。なんとなく黙り込んでいたかったのだ。ぼくはマリコがミチコと二人きりになりたがっているのを感じていた。だから話の間、何度も首輪を外して席を立とうとしたのだが、そのたびに彼女たちに引き止められた。
「行かないで」とマリコは言った。「どこにも行かないでね。お願いだから」
 まるでぼくがそのままどこかへ消えてしまいそうな言い方だった。
「行っちゃだめよ」とミチコが言った。「今あなたたちに必要なのは、同じところに留まることなのよ」
「どこにも行かないよ」とぼくは言った。「一体どうしたっていうんだ」
「今のわたしたちに必要なのは、ずっと同じことを考え続けることなのよ」とミチコが言った。「しかも考えるのは、ごく当たり前のことについてでなきゃいけないし、その考え通りに暮らして楽しくなきゃいけないのよ」
「そうだね」とぼくは言った。彼女が何を言おうとしたのかはよくわからなかったが、そこには何かぼくにも思い当たることがあるような気がした。
「ああ、そうか」とぼくは言った。そこには懐かしい匂いがした。それはリッキーが今ここにいたら言ったかもしれないことだった。
「ねえ、リッキーのことを一つでもいいから教えてくれよ」とぼくは言った。「彼がしたこととか、言ったこととか、なんでもいいから」
「ねえ、それならいっそ、彼をここに呼んでみない?」とミチコは言った。それはあの世から聞こえてきたみたいに遠い声だった。

 ぼくらは大きな銀の杯に水を満たしてテーブルの真ん中に置いた。その横に置いた陶器の小鉢に米を入れ、ブランデーを注いで火をつけた。それからリッキーが座る席を用意し、その前にラム酒入りのオレンジジュースを満たしたグラスを置いた。リッキーが好きだった飲み物だ。灰皿も置いて、煙草を一本のせた。
「リッキーは煙草を吸わなかったと思うけどな」とぼくは言った。
「後から吸うようになったのよ」とミチコは言った。
 それからぼくらはまた一九六八年のリッキーについてしばらく話した。ジェーンとジャネットのことも。ミチコはジェーンについて話すことにまるでこだわりを見せなかった。むしろ彼女について懐かしそうに話した。
「わたし、一九七四年に彼女を訪ねたのよ」とミチコは言った。「リッキーと別れた後でね。彼女はオレゴンの両親の牧場にいたわ。十何ヘクタールもある敷地の中に、小さな小屋を立てて一人暮らしをしていたのよ。ジャネットはいなかったわ。交通事故で死んだのよ。車にはねられて。四つのときよ」
 ミチコは黙り込んでしまった。ぼくらは真っ暗な部屋でまた沈黙したまま時間を過ごした。東京の街の灯のかすかな光がぼくらの顔を照らしていた。その光はあまりに弱くて、ぼくはミチコが泣いているのかどうかさえ見分けられなかった。彼女はシュワッ、シュワッと音をさせながら、勢いよく煙草の煙を吸い込んでいた。
 リッキーの席は相変わらず空席だったが、オレンジジュースが少し減っていた。灰皿に置いた煙草にはいつのまにか火がついていて、煙が立ちのぼっていた。ぼくらはそこにリッキーがいるのを感じた。

 ぼくらは夜中までそうしていた。リッキーはゆっくり、何時間もかけてジュースを一杯飲み干した。煙草は途中で何度か新しいのと取り替えてやった。ぼくらは飽きもせずに彼の席を見つめた。彼はいつまでたっても気配だけで、姿を現さなかった。もちろん一言も喋らなかった。それでもぼくはなんとなくうれしかった。死ぬということが、それまで想像していたような完全な無ではなく、曖昧なかたちでその辺をぶらついてるようなものだとわかったからだ。それはリッキーにふさわしい生き方のように思えた。
 生き方?

 ミチコは眠ってしまった赤ん坊を抱いて帰っていった。また近いうちに、とぼくらは言い合った。家がすぐそこだから毎日でも会えるねと⋯⋯。それからぼくとマリコはベランダに出て、遥か下の道を眺めた。ミチコが住んでいるという公団住宅も闇の中で見分けることができた。ぼくらはミチコが赤ん坊を抱いて帰っていくとこを見ようと、ベランダで震えながら待っていた。彼女はいつまでたっても出てこなかった。
「変だな」とぼくは言った。「裏口から出たのかな?」
「そうかもしれないわね」とマリコが言った。
 ミチコはそれから二度と姿を見せなかった。電話番号をききそびれたので、ぼくらは公団住宅まで行って、彼女の住まいをたずねて回った。そのときになって、彼女が新しい姓を言わなかったことに気づいた。それでぼくらは一軒一軒しらみつぶしに訪ねていったが、ミチコはどこにもいなかった。誰も彼女らしい女に心当たりはなかった。もっとも、ぼくらのきき方が悪かったのかもしれないけれど。「フルマラソンを走ったばかりのバネッサ・レッドグレーブに似た女」なんて、どんな女だかわかる人はまずいない。
 その公団住宅にはトラックの運転手が二人住んでいた。どちらの奥さんもミチコではなかった。彼女は夫について、嘘をついていたのかもれしない。
 やれやれ。

「そりゃ幽霊だよ」と結城が言った。
「そうかなあ」とぼくは言った。
「だってミチコは死んだんだろ?」
「それは八重山ミチコだよ」

 ぼくらは夕暮れどきの窓際で闇が訪れるのを待った。リッキーを呼び出したテーブルだ。古いイギリス風の丸テーブルで、四五人が食事をするのにちょうどいい大きさだ。ぼくはミチコがやったように灰皿に煙草を乗せて置き、小鉢に米を入れ、ブランデーを注いで火をつけた。青みがかった紫の炎がチリチリと音を立てて米を焼きながらゆっくり燃えた。マリコはグラスにオレンジジュースを注ぎ、銀の杯に水を入れてテーブルの上に置いた。ときどきお互いが離れ過ぎて、首輪が鎖で引っ張られた。二人で別々のことをするときはいつもこんな具合だ。
「仲がいいのね」とノリコがぼくらに言った。
「まあね」とマリコが言った。
「首が痛くならない?」とノリコがきいた。
「それがまたいいのよ」とマリコが答えた。それから彼女は薄暗い灰色の闇の中でぼくの
顔を見つめながら笑った。
「気をつけろ」とぼくは言った。「きみはまた死神に取り憑かれてるよ」
「そう?」と彼女は言った。
「わたしたちも首輪をつけない?」とノリコが結城に言った。
「馬鹿言え」と結城は言った。

 ピアノが鳴った。『クライスレリアーナ』だった。テーブルを見ると、オレンジジュースが半分減っていた。煙草に火がついていた。煙草の火の赤は濃くなったり薄くなったりした。吸っているのだ。じゃあ、ピアノを弾いてるのは誰だ? もちろん八重山がピアノを弾き、ミチコが煙草を吸いながらオレンジジュースを飲んでいたのだ。
 ミチコ?

 ピアノは半透明の金属の液体みたいな音を部屋の中に振りまきながら暴れ続けた。八重山独特の清潔でしかも乱暴な音だ。演奏は二十分続いた。一九六七年の秋、文化祭の前夜とそっくり同じ音で。
 演奏が終わった。
「恐いよ」と結城が言った。彼はいつのまにかぼくの手を握っていた。ひどく怯えていた。ピアノの前に八重山がいたからだ。
「やあ」と八重山が言った。
 ぼくは彼が死んだ夜にも同じような声で「やあ」と言ったのを思い出した。ぼくらは一九六七年から一九六八年にかけて何度となく「やあ」と言った。あれは言葉数が少なくても事足りた時代だった。
「やあ」とぼくも言った。
「やあ」と結城が言った。「どう、調子は?」
 死人に「どう、調子は?」なんてきくもんじゃない。八重山はピアノの前に座ったまま、黙って床を見つめていた。丸坊主の頭は相変わらず傷だらけだったが、傷はそれほど肥大していなかった。
 ぼくらはしばらく黙っていた。ぼくらはお互いとても遠く離れているのだということが感じられたからだ。
「また小説を書いてるんだね」と八重山が言った。
「知ってるんだ?」とぼくは言った。
「ぼくはこの世の事象そのものだからね」と八重山は言った。「きみの小説もそうだ。これはとても大切なことだよ、世の中の複雑な事象をある一定のスタイルに定着させるのというのは」
「きみらしくない意見だな」とぼくは言った。「スタイルだなんて」

「ぼくはいつだってスタイルを創ろうとしていたんだよ」と八重山は言った。「『世界同時革命』だって、『セルフレス』だって、普段は隠れている事象の規則を具体化したものなんだ。もちろんあのときはそんな風に意識したわけじゃないけどね。あの頃は破壊が創造だなんて雑なことを考えてた。自分を知らなかったんだな」
「死んだ後であとで考えを変えたわけ?」と結城がきいた。
 ぼくは彼の手を強く握った。死者に彼が死んだことを思い知らせるような言葉は慎むべきだという気がしたのだ。
「ぼくは今でも考え続けてるよ」と八重山が言った。「死ぬってことは偏在することなんだ。生きてるうちはちょっとわからないだろうけど、人間は死ぬとこの世のあらゆる事象の中に含まれて存続するようになるのさ。もちろん生きてるうちだってそうなんだけど、肉体ってやつが邪魔するからね。生きてるうちにこの仕組みを理解するのは難しい。それができるのは表現する人間だけだよ」
「そうだね」とぼくは言った。「ところできみは目的を達したと思う? あの神戸の二週間で⋯⋯」
「まだまだだな」と八重山は言った。「あのときは満足したんだけど、死んでみて初めてわかったよ、表現は継続しないと意味をなさないってね。だからきみがまた書いてるのはとてもいいことなんだ」
「きみのお姉さんは、小説家は小説を書くのをやめたら死んでしまうんだって言ってたな」とぼくは言った。「つまりぼくは十何年間か死んでたわけだ」
「わたしはそうは言わなかったわ」とミチコが言った。彼女はぼくらのテーブルで煙草を吸っていた。
 ミチコ?

「わたしは『小説家が書くのをやめたら、作品も死んでしまう』って言ったのよ」とミチコは言った。
「そうだったね」とぼく。「つまり、『菜の花の家』は十何年間死んでたわけだ」
「そういうことね」とミチコ。「でも、新しい小説を書いたことで蘇ったわ。わたしがあのとき言いたかったのもそういうことなのよ」
 彼女はノイマン屋敷でよく着ていた夏物の部屋着を着ていた。薄い生地のむこうにかたちのいいおっぱいとへそとヒマワリ色のパンティがかすかに透けて見えた。その向こうに無数の星のような東京の街と港の灯が見えた。
「『マイ・フェイヴァリット・シングズ』は気に入った?」とぼくは彼女にきいた。「あれはきみのために書いたんだ」
「わたしを美人に書いてくれたからね」ミチコは煙草を吸いながら笑った。彼女は二十年前のままだった。男の子みたいに短く刈り込んだ髪、大きな眼、細いからだ⋯⋯。あの頃よりかえって子供っぽくなったように見えた。
「それはあなたが年取ったからよ」と彼女は言った。ぼくが何も言わないのにだ。もちろん彼女はぼくが考えたことを読み取ることができた。

 八重山がまたピアノに向かい、今度はぼくが好きだったバラードを弾いていた。ぼくはきみの毛皮コートのために、すみれの花を買ってきた云々⋯⋯。
 窓の外には銀河のような街の灯が輝いていた。無数の星が接近しあい、ぶつかってオレンジ色の炎を上げていた。それは一九六八年の十月八日から二十一日まで神戸の街を覆っていた火と同じ色をしていた。
「ほら」と八重山が言った。「『セルフレス』をやってる」
「そう?」とぼくは言った。「『コートにすみれを』に聞こえるけどな」
「『セルフレス』には決まったリズムもメロディもないからね」と八重山は言った。「この二十年間、世界のどこかでいつもこの曲は演奏されてきたんだ。もう誰もこの曲のことを知らないけど、それでもいつのまにか弾いてしまうわけさ」
 ぼくはミチコのからだ越しに東京の街の火を見ていた。オレンジ色の火は彼女の前に置かれたオレンジジュースと同じ色に輝いている。オレンジ色の火はあちこちから少しずつ広がり、次第に銀河全体を覆っていく。それは一九六八年の十月の火だった。
「そうか」とぼくは言った。「『セルフレス』はいつでも鳴ってたんだ」
「そうさ」と八重山が言った。
「そうよ」とミチコが言った。「その火は『菜の花の家』の中でも燃えていたのよ」
「そうだったね」とぼくは言った。ぼくは神戸の街を包むオレンジ色の炎をあの小説にたくさん描き込んだ。それは一九四五年の春の火だった。
「もう、その火は止められないのよ」とミチコが言った。「だからあなたは新しい小説を書いたんじゃない」
「そういうことだね」とぼくは言った。

 八重山とミチコは現れたときと同じようにいつのまにか消えていった。突然八重山のピアノが止まったとき、ぼくは窓の外を見ていた。東京の灯とぼくの間にはもうミチコのからだはなかった。煙草の火が消えていた。オレンジジュースは飲み干されていた。ピアノの前に八重山の姿はなかった。東京の街は炎に覆われていなかった。
「なんだ」と結城が言った。「いつまでたっても何も起こらないじゃないか」
「馬鹿みたい」とノリコが言った。「あなた、見えなかったの?」

 結城とノリコが帰った後、ぼくは自分とマリコの首から首輪をはずし、一緒に風呂に入った。それからベッドの中で久しぶりに時間をかけてセックスをした。それからベッドの上に二人並んで東京の街と港を眺めた。ぼくらのベッドは窓際にあって、ちょっとからだを起こすと街の灯がよく見えるのだ。とてもいい気分だった。ぼくらは首輪と鎖をはずしたままだった。いつもはすぐにそれをはめたがるマリコも、その夜は何も言わなかった。
 それ以後ぼくらは二度とそれをつけていない。
「なかなかだったね」とぼくは言った。
「うん」とマリコは言った。
「あれは夢だったと思う?」とぼくはきいた。「集団催眠とか幻とか、そんなものだったと?」
「いいえ、あれは現実だったわ」と彼女は言った。「わたしたちは夢から覚めたのよ」
「一度覚めちゃうと、二度と夢を見る気がしないね」とぼくは言った。
「そうね」と彼女は言った。
「ああ、今夜はなんていい気分なんだろう」とぼくは言った。
 それからぼくらは抱き合って眠った。


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