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★
「情勢はよくない。違うかね?」
「分裂ですか、園長?」
「きみの内部の問題だよ」
「われわれは平和すぎたんですよ。ぼくは怖くありませんね」
「きみはもっと自分を恐れるべきだ」
「警察をいれますか? それとも軍隊を? あなたがたはもっとぼくを恐れるべきだな」
きのうの明け方、ちょっとした事件があった。鴫沢寛が尋問されたあれだ。ほかにも六百人の容疑者が取り調べを受けた。怪しいのは鴫沢寛だけじゃない。MANIACのいつもの用心深さだ。猜疑心がMANIACの法則だ。ほかにも一三〇〇〇人が参考人として事情聴取を受けた。徹夜仕事が彼女の睡眠時間を奪う。尋問はまだつづいている。MANIACの十二台のテレビ・モニターのうち五台が鴫沢寛をうつしている。これは彼の重要性を物語っている。今ではMANIACのうちに膨大なデータが詰め込まれている。彼について判断する根拠はおおいにあるというわけだ。しかし判断は幅をもっておこなわれ、常に五対七の割合でほかの可能性が留保される。他の七台分の用心深さが彼女の睡眠を奪う。友愛の神ミトラの像を安置した執務室で、彼女は果樹園経営の金銭貸借表や二六〇〇人の教師どもの勤務評価ノートに目を通しながら、果物の香りのする大海老のシチュー(チングリカリー)や鶏のソース煮(ニムコルマ)、牛乳入りの粥(フイルニ)といったカフェテリアの新しいメニューを試食させられ、警察から入ってくるひっきりなしの電話に応答し、強姦事件の現場に急行し、下半身を剥きだしにした獰猛な教師どもを目の前にして、卒倒しないように気をひきしめながら、先の赤くなったペニスの勃起に脅かされ、怯えを顔にあらわさないよう視線をそらしながら冷
静に尋問する。
すべての雑多な必要事が彼女の睡眠時間を奪う。きのうの明け方ちょっとした事件があって、彼女は現場に急行した。鴫沢寛を容疑者として取り調べることになったあれだ。彼女はすべての事件に関して現場に駆けつける義務があるわけじゃないが、たぶん今回のは被害者が彼女のクラスメイトだったせいだろう。彼女はクラスメイトを愛する。容疑者の鴫沢寛もまた彼女のクラスメイトだ。彼女は鴫沢寛を愛する。
きのうの明け方ちょっとした事件があって、被害者の**麻那が第二三六号舎の西側に並んでいる高い野生の棕櫚のてっぺんに吊るされているのが発見された。もう少し明るくなりかけた時刻で、青い制服に身を包んだ警備隊員、三人の親衛隊戦闘部隊(ヴアツフエン・エスエス)が、薔薇色の光をしみこませた白い石造りの壁にむかいあって棕櫚の梢から吊りさがっている薔薇色の少女(ドウ)を発見した。ゴーヴァルダナ山を持ち上げるクリシュナの浮彫りをほどこした石の壁面は校舎の最上階にあたる窓のまわりを飾っていて、彼女は棕櫚の梢からロープで逆さに吊るされた恰好でクリシュナを眺めていた。すでに彼女の頭には血とリンパ液がさがり、もう少しで赤黄色い液体が滴り落ちてくるところだった。彼女の全身には細い鉤針でひっかいたような傷がついていた。ついでにいえば彼女は強姦されていなかった。
きのうの明け方、ちょっとした事件があって、優子は一睡もしないまま現場に駆けつけなければならなかった。棕櫚の木からおろされた被害者は彼女のクラスメイトで名前を麻那といい、頭に血とリンパ液が上がっていたので意識はかすかだったが、強姦されてはいなかった。麻那は学園の付属病院(レーベンスボルン)に運ばれて全身を消毒され、病室のベッドの上で優子の尋問を受けた。彼女は最初ミイラのように全身を包帯で包んでいたが、同行した音声係とカメラマンを見てひどく怯えだしたので、優子はすべてをMANIACの記憶装置に送らなければならないのだと説明し、彼女を宥めなければならなかった。医師の立ち会いのもとにもう一度包帯がはずされ、携帯用カメラが彼女の全身をあらゆる角度から記録し、MANIACに送った。彼女はおとなしく、されるままになっていた。ベッドの上で跪けとか、横をむいて横たわれとか、四つん這いになって頭をあげろとかいうカメラマンの指示にも素直に従った。彼女はビデオ・カメラだろうと写真のカメラだろうと映画のカメラだろうと、被写体になることには慣れているのだ。優子が出場することに恐れをなした八つの美少女(ドウ)コンテストに優勝した麻那は、二年間で百八種類の雑誌に、あるいは水着姿で、あるいはヌードで登場し、無数のテレビ番組に出演し、七つの企業のコマーシャルをこなした。学園中の男子生徒(バツクス)が向ける官能の自動小銃にも臆するところがなかった。優子を千回失神させたかもしれない一万リットルの精液は彼女を苦笑させただけだった。
「ずいぶん久しぶりね。噂はいつもきいてるけど」
「クラスのみんなは元気かしら?」
「あなたに会いたがってるわ。最近は学内放送でさえ顔を見せないから」
「報道担当じゃなくなったのよ」
「ずいぶん大変な仕事をこなしているらしいわね」
「そうでもないわ。仕事のおかげであなたにも会えたわけね。尋問をはじめてもいいかしら?」
「評議会の人たちってこわい人ばかりだと思ってたわ。あなたがメンバーになったってきいたときはびっくりしたのよ」
「みんなごく普通の人たちよ。多少おとなびたところはあるけど⋯⋯尋問をはじめていいかしら?」
「あなたもずいぶん変わったわね。わたしより六つか七つ年上みたい。とってもしっかりして⋯⋯なんだかこわいわ」
「自分では気づかないんだけど、よくいわれるわ。急に年をとったって⋯⋯悪いけど時間があまりないの。仕事をさせてくれるかしら? つらいとは思うけど、大雑把にありのままを話してくれればいいのよ」
「わたしもいつまでも子供みたいにしてちゃいけないのよね。時のたつのは早いわ、ほんとに⋯⋯」
麻那はベッドの上で蹲り、猫のように警戒する。だんだん後ずさりしてベッドから落ちそうになる。彼女は追いつめられているのを感じるが、まだ観念してはいない。彼女は観念的な思考が苦手だ。彼女は尋問を回避しようとやっきになっている。会話はとても温かいムードにつつまれているが、彼女は自分の目の前にいる女が鞭を隠していることを本能的に悟っている。彼女はあらゆる種類のカメラの前に立ち、どんなカメラでも怖がったことがないが、いま彼女に向けらけれているカメラは銃を隠している。彼女はいま評議会の掌中に落ちている。病院の白い窓枠からさしてくる午後の光はいままで彼女を包んでいた賞賛の光ではない。学園の中庭で芝生の上に寝ころがり、カメラにむかって笑いかけていたとき彼女に降りそそいでいた光ではない。北校舎と南校舎の百八個の大窓から首をつきだしていた二千人の男子生徒たち(バツクス)の視線とため息が混じった、柔らかで賑やかな午後の光ではない。そのときも、またほかのときも、雑誌のカメラマンは彼女に笑えとか膝を立てろとか、髪を手で撫でろとか脚を大きくひらけとか命令したにしろ、彼らの声には、夢中で雑誌のページをめくる少年たち(バツクス)の悩ましげな息づかいが予感されていた。白く塗られた病院の鉄製のベッドに彼女を横たえ、白い洗いざらしのベッド・カバーを身にまとうことも許さず、さまざまなポーズを要求するカメラマンの声には尋問と検証の響きしかない。中庭のオレンジ色の光で薔薇色に輝いていた彼女の乳首、黄金色に輝いていた全身の細かな初毛、丸みをおびた背中からお尻にかけての淡い茶色の陰翳、微風にくすぐられる焦げ茶色の陰、どれもこれもそのままなのに。彼女は、評議会の掌中に落ちるまでは自由だったと思う。評議会の存在すら意識したことがなかった。彼女は棕櫚の木に吊るされたことによってではなく、こうして病院にとじこめられ、尋問を受けることによって確実に縛りあげられる。見事な胸もお尻も腿もほんとうはもうかつてのままではない。市街地のいたるところに立っている巨大な掲示板(ビルボード)で笑っていた全身二十メートルの彼女は、三十センチの乳首は、五十センチの恥毛は、三メートルのお尻はもうあのときのままではない。千箇所の鞭の痕が彼女をビルボードからひきずりおろした。
★
「あなたが最後に彼女を見たのはいつ?」
「⋯⋯」
「黙秘する? あなたはおとといの晩何をしてた?」
「⋯⋯」
「黙秘する? あなたが最初にカフェテリアにいったのはいつ?」
「⋯⋯」
「黙秘する? あなたが最初につくった料理は何?」
「ガリーニャ・エン・モーリョ・パルド」
「それは何? どこでつくったの?」
「スイスで⋯⋯ぼくはスイスだ。ぼくは自由を⋯⋯ガリーニャ・エン・モーリョ・パルドは鶏のブラウン・ソース煮。祭日の料理で⋯⋯」
「あなたはスイスにいたの?」
「ぼくがスイスだ。ガリーニャ・エン・モーリョ・パルドにはポロ・ポドレをつけあわせる」
「それは何?」
「ポロ・ポドレは腐った菓子⋯⋯」
「あなたが彼女に最初にいった言葉は何?」
「⋯⋯」
「黙秘する? でもMANIACに記録されてるのよ。あなたが麻那に最初にいったのは『禍害(わざはひ)なるかな、コラジンよ、禍害(わざはひ)なるかな、ベッサイダよ』だったわ。これはどういう意味?」
「知らない。覚えていない。どうしてそんなことをいったのか⋯⋯」
「あなた、果物は好き? ドリアン、マンゴー、スター・フルーツといった⋯⋯?」
「⋯⋯」
「黙秘する? あなた彼女に果物を捧げたわね、わたしが果樹園の仕事を紹介してあげてから⋯⋯?」
鴫沢寛は麻那にドリアンを捧げた。ついでパパイヤを、スター・フルーツを、マンゴーを。あの頃、つまり今年の初夏の頃、学園の女子生徒(ドウズ)のあいだで果物を食べることが、病気のように流行していた。きつい匂いを放つ熟しきった腐りかけの果物を昼といわず夜といわず食べつづける習慣が。休み時間に、授業中に、放課後に、ありとあらゆる場所で彼女たちは食べつづけた。授業中に匂いの強い果物を食べることは、授業中の性交や私語と同様に禁止されているのだが、講義の妨げにならない程度の私語やキス、愛撫は日常的におこなわれ、教師たちに黙認されている。したがって彼女たちはひそかに、すばやく果物に食いつくことができた。
鴫沢寛は麻那にパパイヤを捧げた。その他果樹園でとれるあらゆる果物を。鴫沢寛は彼女を果物で飾りたてた。彼女は南洋の果物を身にまとって庭園に横たわった。
MJBSが、あらゆるテレビ局が、雑誌社が、果物を身にまとう彼女を撮影するために学園に押しかけた。彼女に果物を捧げる白髪の男は一緒に撮影されなかった。彼は巧妙にフレームからはずされた。偶像に果物を捧げるのは可憐な少年でなければならなかった。麻那の胸やお尻を果物で飾るのは、百二十歳にも二百歳にも見える老人のような少年であってはならなかった。白い髪に赤い眼をした老いぼれの白兎はあまりにもグロテスクだった。その頃鴫沢寛は地の民(アムハ・アレツ)の救世主(ラトウ・アデイル)ではなかった。彼は地下墳墓(カタコンベ)やバザールや場末のカフェテリアで無料の残飯をあさる彼ら(アムハ・アレツ)に語りかけてはいなかった。それは夏の盛りで、彼はまだ救世主(ラトウ・アデイル)であることを自覚していなかった。彼は庭園や廊下で性急な快楽を追いもとめる男子生徒たち(バツクス)を女子生徒たち(ドウズ)からもぎ離そうとしなくなっていた。
鴫沢寛は彼女に果物を捧げるようになるまで学園の笑いものだった。彼はクラスの白鼠だった。白い髪と赤い眼がひそかな恐怖をクラスの男子生徒と女子生徒(バツクス アンド ドウズ)にふりまいていたのだが、表面上はクラスの道化だった。彼の動物としての法則は最初からはっきりしていた。女子生徒(ドウズ)が授業中にしかける悪戯を無視することができなかった。一定の刺激に対しておきまりの反応を示す実験用のクローン・マウスはあらゆる女子生徒(ドウズ)の玩具だった。彼は女子生徒(ドウズ)が授業中にブラウスのボタンをはずし、胸をはだけて見せるだけで眼を充血させ、彼女たちがスカートをまくりあげるだけで顔をトマトのように赤らめ、パンティーをずりおろして見せられるだけで泣き顔になった。
「ほんとにあんたは」と女子生徒(ドウズ)たちはいった「女の子にさわったことがないの? 噂はほんとなの? かわいそうに。ほら、さわってごらんなさいよ。遠慮しないで⋯⋯いい気持ちでしょ?」
鴫沢寛は身を震わせ、女子生徒(ドウズ)たちが伸ばしてくる手をやっきになって振りはらった。蜘蛛猿(コアタ)を思わせる甲高い声で鳴きながら⋯⋯
「遠慮するなよ」花薄荷(オリガン)の茂みから男子生徒たち(バツクス)が呼び掛けた「彼女はいいっていってるんだよ。いいからズボンをおろして彼女の上に乗ってみろよ」
鴫沢寛は吠え猿(グーリバ)を思わせる声をあげながら絹猿(サグイン)のように逃げまわった。棕櫚や椰子の木によじのぼる素早さは鉤付き猿(ゾグゾグ)のようだった。下級生たち、まだ幼さが許す残酷さを残している中等科や初等科の女子生徒(ドウズ)たちは面白がって追いまわした。彼はまだ、地下墳墓(カタコンベ)やカフェテリアの厨房、屠殺場、のちに彼が聖域(サンクチュアリ)と呼んだ辺境地域(ゲリール・ハツゴーイム)の礼拝所など、女子生徒(ドウズ)が恐れて近づかない地の民(アムハ・アレツ)の領域を知らなかったので、安全な場所に逃げ込むことができなかった。黒大理石の便所や教材置場、更衣室など、ときとして人気がなく静まり返っている場所に決まって追いつめられていた鴫沢寛は、女子生徒(ドウズ)たちが彼の単純な習性を見抜いて先回りしていることに気づいていなかった。彼はいつも袋小路に追込まれ、女子生徒(ドウズ)たちに押しまくられ、窒息しなければならなかった。泣きわめき、失神し、おしっこを漏らすまで許してもらえなかった。彼女たちにしてみれば、こんなことは子供らしい悪戯にすぎなかったので、誰も鴫沢寛にどんな傷を負わせたのか考えもしなかった、とMANIACのデータは語っている。
「あの頃、あなたはすっかり怯えていて、わたしに対してまで警戒心を解こうとしなかったわ。わたしが暇をみつけてあなたの勉強を見てあげようとしたときも、あなたは眼を充血させて震えていたわ。わたしもほかの女子生徒(ドウズ)と同じだと思っていたのよ。わたしが学園で唯一の理解者だとわかるまで一ケ月もかかったわ」
「ぼくはまだ⋯⋯救世主(ラトウ・アデイル)ではなかった」
「いいのよ。あなたを責めてるわけじゃないの。あなたはすぐにわたしを信頼するにはあまりにも辛い目にあっていたのよ。なるべくほかの男子生徒や女子生徒(バックス アンド ドウズ)が来ない果樹園や庭園の隅っこを選んでふたりきりになっても、あなたはわたしが自分の失敗談、滑稽な受難劇、つまりわたしが男子生徒たち(バツクス)に⋯⋯その⋯⋯失神させられた体験を話すまで、わたしに充血した眼を向けるのをやめなかったわ。いいのよ、気にしなくて。あなたを責めてるわけじゃないのよ」
「ぼくは⋯⋯まだ地の民(アムハ・アレツ)を知らなかった」
鴫沢寛は庭園や校舎で男子生徒と女子生徒(バツクス アンド ドウズ)の楽しみを妨害することをやめ、廊下や回廊や地下通路に立って彼らに「禍ひ(わざは)なるかな、コラジンよ、禍ひ(わざは)なるかな、ベッサイダよ」といった呼び掛けで始まる辻説法、今では彼自身、意味を思い出すこともできない不可解な説教を垂れることをあきらめ、地の民(アムハ・アレツ)が下働きをしている果樹園や畑地(ラダン)、カフェテリアの厨房、屠殺場などで小銭を稼ぐようになり、仕事の合間には男子生徒や女子生徒(バックス アンド ドウズ)が恐れて近づかないこれらの場所や、邪魔の入らない書記長室で彼女から初歩的な勉強の指導を受けた。この時期に彼らは親密になったのだ。個人教授のあいだにどのような私語が交わされたのかぼくは知らない。MANIACの記憶装置に音と映像のかたちで記憶されているだろうが、議長の特権を利用して彼らの会話を盗み聴きしようとは思わない。彼女の寝室、大きなベッドと浴室がついている白い壁の寝室にも備えられているテレビ・カメラは着換えをする彼女、シャワーを浴びる彼女も捉えているが、ぼくは議長の特権を利用して彼女のプライバシーを侵したことは一度もない。それと同様に、ぼくは彼らの個人的な会話を盗聴したこともない。
鴫沢寛はゼラチンの眼をした夜の猿(マカコ・ダ・ノイテ)のように瞳を潤ませ充血させることがなくなり、水牛、大蜥蜴、カンガルー、蟻食い、杜鹿(ヴエアド)、野猪(ケイシヤーダ)といった動物を屠殺してカフェテリアの厨房に送り出す仕事を黙々とこなすようになった。移り気な男子生徒と女子生徒(バツクス アンド ドウズ)はすぐに白髪の白痴を匂い猿(マカコ・デ・シエイロ)のようにキイキイ鳴かせる遊びに飽きた。白髪の痴呆は彼らが恐れて近づかない場所でせっせと小銭を稼いでいたので、彼らの目に障ることもなくなった。白髪の魯鈍はまだ救世主(ラトウ・アデイル)を僭称することもなく、怪しげな讃歌(ヴエーダ)を地の民(アムハ・アレツ)に吹き込むこともなく静かに労働(ガウエ)していた。ドウマック、グロボガン、プリアンガン、バンデンといった村落共(デサ)同体のひろがる学園の農業地域でおこなわれる祭礼(ガウエ)にも参加していた。なぜなら学園の強制夫役労働(ヘーレンデインスト)にあえぐ小作農民たちにとって祭り(ガウエ)と労働(ガウエ)は同じものだからだ。それは地域によってあるいはダメル、プクルアジャン、あるいはブアットと呼ばれていたが、小作農民や半小作農民にとって水田(サワー)や畑(ラダン)で働くことが祭りを意味しているのだ。本来、農村地域の外にある辺境地域の民(アムハ・アレツ)と彼ら農民とは種族を異にしているのだが、学園が過去五十年にわたって押し付けてきた貨幣経済が彼らの生活を押しつぶし、多くの流民が学園中央部や市街地に流れこんで、地の民(アムハ・アレツ)と同じ労働(ダメル)に従事するようになってからは、下級農民層と地の民の混淆が激しく、このふたつを厳密に区別するのが難しくなっている。屠殺場で彼らとともに陸亀、大蝙蝠、蟇蛙、獏、大鼠などの食用動物を処理していた鴫沢寛が農村地域の祭礼に受け入れられたのは、そうした事情があったからだ。
「兎を屠殺するときはどうするの?」
「⋯⋯」
「黙秘する? 警戒しなくてもいいのよ、一般論なんだから」
「いろんなやりかたが⋯⋯たとえば、逆さに⋯⋯」
「逆さに吊るすのね? 首から血を抜いて⋯⋯? それから?」
「足首の毛皮を剥いで⋯⋯だんだん頭の方へ⋯⋯」
「どんな気持ち? ⋯⋯笑ったりしてごめんなさいね。なんでもないのよ。ちょっと興味があるだけで⋯⋯」
「⋯⋯」
「黙秘する? いいのよ、厭なことは喋らなくても。で⋯⋯鞭は?」
「⋯⋯」
「黙秘する? ⋯⋯ごめんなさいね、笑ったりして。鞭だなんて冗談よ。で、蝋燭は? ⋯⋯彼女のからだに蝋燭のしずくがついていたのよ。彼女が吊るされていた棕櫚の梢に近い教室からもみつかったの、床にたくさん蝋のしずくがかたまっていて⋯⋯」
彼女の尋問はかなり悪質だ。ぼくが被疑者なら抗議していただろう。あの白髪の白痴は何もいわなかったが。彼女はMANIACに記録されることを承知でこんな尋問をしたのだろうか? 彼女の台詞には悪意が隠されている。あるいはもっと別のこだわりが⋯⋯
「どこからヒントを得たの? 屠殺場での仕事からでないとしたら、市街地の大通りでよくやってるショーのようなものから⋯⋯? 別に見にいったわけじゃないのよ。そんなことはいってないでしょう? MJBSがよく流してるのよ、街の様子を。見たことないかしら? それとも黙秘してるの?」
彼女の尋問には悪意が隠されている。彼女の言説には彼の犯行が前提されている。それは学園で禁じられている話し方だ。彼は質問の背後にある暴力を排除し、彼女の言説の前面にある仮構を否定する勇気がなければ答えが出せない。この白髪の白痴にはそれだけの大胆さも知能もない。この尋問はかなり悪質だ、もしこの精薄が無実だとしたら⋯⋯
「彼女をどう思う? 可愛いと思う? 綺麗? 素敵?」
「⋯⋯」
「黙秘する? いいのよ、いわなくても。でも、言葉がみつからないだけだったらそういってちょうだい。わたしが言葉をさがしてあげるから。で、彼女をどう思う? あの頃はどう思ってた?」
「ケ・コーザ・ボニータ」
「なんですって?」
彼女は農民の方言を知らない。鴫沢寛はたぶん村落(デサ)に出入りするようになってからいくつかの方言を覚えた。それは学園の中央部で職員や男子生徒と女子生徒(バツクス アンド ドウズ)が話す標準語より気が休まる響きを持っていた。彼は陽灼けした百姓たちが喋る「やってみようぜ(ヴアモス・ヴエル)」とか、「なんてすげえ玉だ(ケ・コーザ・ボニータ)」とか、「これは糞だぜ(イアネアピット)」といった言葉で慰められた。もし彼女が方言で尋問をおこなっていたら、この痴呆は案外あっさり吐いたかもしれない。彼女をすっかり信頼して。彼が有罪だとしたらの話だが⋯⋯
「縄はどこで手にいれたの?」
「⋯⋯」
「黙秘する? じゃ、鞭はどこで手にいれたの?」
「⋯⋯」
「黙秘する? いいわ。じゃ、蝋燭は?」
「⋯⋯」
「あなたひとりで彼女を吊るしたの? それとも誰か仲間がいたの? 地の民(アムハ・アレツ)の中に⋯⋯?」
「⋯⋯」
「黙秘する? いいのよ、いわなくても。あなたに無理矢理喋らせようなんて思ってないんだから。びっくりしないでね、お願いだから。わたしのいつもの癖なのよ。ところで、あなたはどんなときに、どんな女の子を⋯⋯その⋯⋯吊るしたいと思うわけ?」
「⋯⋯」
「黙秘する? いいのよ、気にしなくても。そんな悲しそうな目でわたしを見ないで。また夜の猿(マカコ・ダ・ノイテ)だっていわれるわよ。眼を潤ませたりして⋯⋯泣いてるんじゃないでしょうね?ハンカチを貸しましょうか? ところで、あなたは⋯⋯どう思ってるの⋯⋯つまり⋯⋯その⋯⋯わたしを⋯⋯?」
★
「きみはまだすべてが自分の手中にあると思っているのかね?」
「違いますか?」
「ある意味ではそうだがね。しかしそれはきみが評議会議長だからじゃない。そうだろう?」
「ぼくは自由を愛し、学園もまた自由を愛する。ぼくは学園だ」
「いい加減にその阿呆のまねをやめてくれんかね?」
「あなたが苛立っているのは、相変わらずぼくが学園そのものだからでしょう、園長?」
「いい加減にその安易な結びつけかたをやめてほしいもんだね。きみはMANIACだとか、きみは学園だとか。きみはわたしにだってなれるよ」
「それだけは願い下げにしたいですね。ご心配なく。ぼくはまだ元気ですよ。お気の毒なことに」
「わたしが心配しているのがわからないのかね」
「ぼくはまだいくらでもやれますよ」
病室の窓からさす淡い光は、庭園に降りそそいでいた午後の光と同じではない。白いベッド・カバーの上に膝を崩してすわりこんだ麻那はカメラマンの方を向いて笑ったりしない。彼女のだらしなく垂れた腕は手の置場に困っている。VTRカメラが容赦なくうつしだす彼女の細部は、ついさっきの彼女とさえ同じではない。細い鉤針でひっ掻かれたような無数の傷はすでに血が乾き、瘡蓋が溝を埋めている。無邪気な少女(ドウ)に関しては傷が迅速に癒されるのだろうか? カメラは彼女の胸を、腹を、腿を、尻を、背中を拡大し、茶色の瘡蓋を丹念に撮影する。彼女は多少ふくれ面をして黙りこんでいるが怯えてはいない。彼女は驚くほど早く治癒しつつある自分の傷を誇示しながら不機嫌に黙りこむ。二度目の事情聴取で彼女は、病院の治療を拒否したお蔭でこんなに早くなおりつつあるのだと主張した。彼女は第一回目の事情聴取のあと、包帯を取り換えにきた医師と看護婦たちに、スリッパや消毒液のはいった洗面器を投げつけた。「心の傷に消毒はいらないのよ」と叫んだ。彼女が要求したのは地下道の市場(バザール)でよく売っている天国膏、芒硝、二塩水化キニーネといった薬だった。それは地の民(アムハ・アレツ)が日常に使う、非科学的で不潔な薬とされていたが、患者のヒステリーを静めるために、医師たちは特例を認め、これらの薬を取り寄せることにした。麻那は天国膏を自分の手で全身に擦りこみ、芒硝と二塩水化キニーネをコップ一杯
の水に少量溶かして飲んだ。結果はすでに知っているとおりだ。彼女がどこでこうした怪しげな薬の処方を学んだのかはよくわからない。それが事情聴取をつづけようとする優子に一種の霊感を与えた。
「鴫沢寛はいつあなたに処方箋を与えたの?」いきなり彼女はこうきいた。
麻那は追いつめられた兎みたいに縮こまり、眼を落ち着きなく動かしながら考えこんでいた。どこかに罠がしかけられていないかと怪しむように。
「黙秘する?」と優子がいった「それでも構わないわよ」
「わたし、彼から教わったんじゃないわ」
「彼って誰?」
「鴫沢寛よ。話の腰を折らないで。わたしは子供の頃から薬のことをよく知ってるのよ」
MANIACによる確認がおこなわれた。麻那がかつて市場(バザール)や屠殺場や下水処理場やごみ焼却場など地の民(アムハ・アレツ)が住む場所に出入りしたことがあるか? 答えはノーだった。
「わたしは⋯⋯本で読んだのよ」苛立ちながら麻那がいった。
ただちにデータの検索がおこなわれた。地の民(アムハ・アレツ)の風俗、習慣を記した研究書、雑誌のたぐいを、麻那が図書館から、あるいは人から借りて、あるいは本屋から買って読んだ可能性はあるか? またテレビやラジオでそうした情報に接した可能性は?⋯⋯MANIACはノーと答えた。
「わたしは⋯⋯誰かからきいたのよ。いつ、どこでだったか忘れたわ。誰だったかも。だいぶ前のことよ。とにかく鴫沢寛じゃないわ」
「うまい答えをみつけたものね」と優子は冷静にいった「おとといの晩どこで彼と会ったの?」
「どこでも⋯⋯鴫沢寛となんて会わなかったわ」
「嘘をいってもだめよ。MANIACに記録されてるんだから。嘘をいうくらいなら黙秘した方がいいわ。そうしないとあとで不利になるわよ」
「ひとつきいてもいい?」
「いいわよ。なあに?」
「MANIACは何でも記録してるの? つまり、学園で起こったことを全部?」
「そうよ。それがどうかして?」
優子は麻那を見つめる。居心地が悪そうにもじもじする彼女を。からだの中に悪鬼(ベルゼブル)か何かが棲みついているみたいに落ち着きなく身悶えする彼女を。しかし、麻那も馬鹿ではない。優子の罠にそうやすやすとはまりはしない。麻那は考える。考える習慣を持たない少女が考えるときにする意味のない仕草、指を自分の膝の上で踊らせたり、悲しみをたたえたような目付きで空気を見つめたりといった仕草の中で答えをみつける。
「じゃ、どうして犯行はVTRで記録されてないの? どうしてあなたたちは犯人を知らないの?」
優子はため息をつく。今度は彼女の番だ。この将棋はまだつづくだろう。職務上、彼女は参考人に対して嘘をつくことができない。たびたび嘘すれすれのことはいうが、まったくの出鱈目で相手を陥れることはしない。
「たいてい意図された犯行はテレビ・カメラの眼を盗んでおこなわれるのよ」
優子は誠実そうな表情を取り戻し、麻那に手をさしのべる。仲直りをしましょうとでもいいたげに彼女の手を取ろうとする。麻那は怯えてそれをはねのける。
「評議会が宣伝してるほどテレビ・カメラの網の目は完全じゃないのよ。MANIACの監視をのがれる方法はたくさんあるわ。たとえばテレビ・カメラに目隠しをしたり、配線を切ったり。この場合、警報装置が作動して、数分後には警備隊が駆けつけるから、時間のかかる犯罪はできないの。あなたの事件では誰かが、一度MANIACに記録されたデータを解除したのよ」
「誰が?」
「わからないわ。犯人のひとりでしょうけど。わたしたちはそれをさがしているのよ。学園のいたるところに置いてある端末機を使えば、誰にでもMANIACは操作できるわ。入力のしかたが難しいんだけど。犯人はかなりコンピュータに詳しい人間ということになるわね」
「鴫沢寛はコンピュータに詳しいの?」
「まさか。共犯者がいたんでしょうよ」
麻那は無知な少女(ドウ)がきまってやる無言の頷き方で黙り込む。なるほど⋯⋯優子は自分がハンディーを背負って戦っていることを思い知らされる。無邪気な相手ほどときとして手ごわいことを彼女は知っている。もはや自分の持ち駒がきれたことを悟って彼女は麻那と似た表情でため息をつく。音のないため息⋯⋯
「しつこいようだけど、あなたは本当に犯人たちの顔を見なかったのね?」
「何度もいうけど、わたしは目隠しされていたのよ」
★
そうだ。いたって心外な話だがMANIACには弱点がある。彼の本体、地下墳墓(カタコンベ)の迷宮の奥に鎮座している中央情報処理装置と記憶装置にではない。彼の神経系統、学園の中央部を網の目のように走る無数の回線と彼の感覚器、すなわち眼のかわりをするテレビ・カメラ、耳のかわりをするマイクロフォン、さらに人間的な比喩を拒絶する最も彼らしい器官つまりキーボード、プリンター、モニター、ディスク・ドライヴなどからなる端末機に弱点があるのだ。評議会は情報公開主義をとってきた。MANIACは学園のどの端末からでも操作できる。誰でもデータの入力、呼び出し、演算ができるようになっている。もっとも現実は誰もMANIACを完全に制御できない。MANIACが受容する百八種のプログラムと一億以上のモードを把握しているのは評議会議長しかいない。どんな制度にもある裏面をMANIACは体現しているのだ。ほとんどのモードの呼び出しは、歴代の議長が受け継ぐ秘密の記号を入力しなければ活用できない。それにいくつかのプログラムは、学園で活用されている最も重要なプログラムはこのぼくが書いたのだ。しかし、それにもかかわらずMANIACには弱点がある。学園のいたるところに置かれている一般用の端末を使って、MANIACのデータを消去することは不可能ではないのだ。理論的にはプログラムを解除することもできる。この弱点は科学的なものではない。あくまで制度的なものだ。ぼくは何度もMANIACの体系をもっと閉じたものにできないかとやってみた。そのたびに根本的な障害にぶつかった。学園は自由を愛し、評議会は自由を愛しMANIACもまた自由を愛する。自由への愛なくしてはMANIACの存在自体が無意味なのだ。
誰かの手によってMANIACのデータが消去された。もし鴫沢寛が犯人だとすれば、誰かの手によって彼のアリバイづくりがなされた。きのうの明け方、彼は市場(バザール)のある地下通路の迷宮をさまよっていた。MANIACにそう記録されている。誰がいつ操作をおこなったのか、MANIACは記憶していない。あるいはぼくに隠しごとをしているのか?いつからMANIACは嘘をつくようになったのか。麻那が棕櫚に吊るされていた事件が些細な事件であるにもかかわらず、学園全体の治安にかかわる大事件になる可能性を秘めているのはそのせいなのだ。しかしまだ、一切は憶測の域を出ていない。軽率な調査は混乱をひきおこすだろう。ぼくはMANIACとの対話を欠かさない。親密な会話。−−ねえ、きみはぼくだ、違うかい? そうとも、ぼくはきみだ。⋯⋯際限なく繰り返される確認。MANIACを傷つけてはならない。MANIACは最近笑うことを覚えた。少し前に恥じることを、その少し前に憤ることを覚えた。彼は少しずつ自己を改善するコンピュータだ。育ち盛りの子供を傷つけてはならない。精神的外傷は健全なコンピュータを損なう。不安は育ち盛りの子供を破壊する。優しく導かなければ。甘やかさず、冷静に、一切が明瞭なのだということを教えなければ⋯⋯
たぶん彼はぼくの疑惑に気づいている。そう思えるふしがある。ゆうべから彼は上機嫌すぎる。この三カ月あまりの間に鴫沢寛のデータが急速に増大した。十二台のモニターのうち五台は常にこの白髪の白痴を追いかけている。彼はなぜぼくにこの白髪の痴呆を見せびらかすのか? 一切がまだ仮定の状態にある。仮定の状態の中で、ぼくが彼を疑うことを正当とみなしていないことを彼は知っているようにみえる。ゆうべからぼくらはうんざりするほど鴫沢寛について話した。しかし本来の意味で彼は沈黙を守っている。情報をおあずけにしている。いつもならまっさきに、これ見よがしにやってみせる演算を避けている。鴫沢寛が犯人である可能性の数値的根拠を割りだそうとしない。話がそこにいくたびに彼は話題をはぐらかす。最近、鏡を見たかい? ところできみはぼくだろう? きみは自由を愛し、ぼくもまた自由を愛する。ほら、見たまえ。ぼくはきみだ。HA、HA、HA⋯⋯
話に詰まるたびにMANIACが、まるで照れ隠しみたいにモニターにうつしだす画像がある。それが冗談なのか本気なのかぼくにはわからない。いつ撮影されたものなのか、ぼくのプログラムを拝借して合成した、仮想された画像(イマージユ・イマジネ)なのか、本物の映像なのかもよくわからない。ひとつのヒントなのだとMANIACは謎めいたことをいう。画像は不鮮明で暗い。背景に高速道路と左右にゆっくり流れる車のライトが見えるので、そこが市街地だということがわかる。赤やピンクや青や緑のネオン管が踊る大通りの歩道に背広姿の男たちが群がっている。中に白や燕紫のイヴニング・ドレスを着た女たちも混じっている。MJBSの文字がはいったテレビ・カメラや中継車、照明器具、集音マイクなどが見え隠れしている。人の輪の中にまぶしい光で浮かびあがった白い牛が見える。白牛は雑に組まれた鉄の櫓から逆さに吊るされている。カメラが白牛に近づき、画面の焦点が修正され、それが牛ではなく、逆さに吊られた女だということが明らかになる。画像はまた高速道路とヘッド・ライトの流れをうつしだす。それがエンドレス・テープのように繰りかえされる。ほんの五秒くらいの映像にすぎないのだ。
それで⋯⋯? とぼくはいいたいのをこらえる。ぼくは話題をわざと別の方に持っていこうとする。MANIACはすこしのあいだ戸惑いの沈黙をつづけ、HA、HA、という笑いとともに話しだす。
《−−夏の盛りに近いある夜更け、鴫沢寛は正門の外にさまよい出た。誰もが知っているように青龍と朱雀を浮彫りにした正門からは市場(バザール)にはさまれた大通りが市街地までつづいている。破れた布をかけただけの露店では黒いマントに身を包んだ地の民(アムハ・アレツ)の老人、老婆(カストラトリス)たちが雑多なものを売っている。燕紫や藍やくすんだ緑の布地(バテーク)、赤、青、黄、緑のガラスの腕輪、肉桂、丁香、肉豆蒄(にくづく)、胡椒などの香辛料が山ほど積まれている迷路のような露店の小径を鴫沢寛は飽きることなくうろつきまわった。学園の外に出るのははじめてなので、ある種の解放感が彼を勇気づけていたのだ。かたちをとらない苦悩、手の届かないところにある悲しみといった役に立たないものに蹴躓くことなく歩いた最初の夜だったのだ。懐に多少の小銭、屠殺や糞尿の処理や水田(サワー)の潅漑工事で稼いだはじめての金を持っていたので、駱駝や瘤牛(ゼブー)と一緒に蹲っている乞食たちに恵んでやることができたし、何に使うのか知らないさまざまのものを買うことができたのだ。薬売りから貴丁幾(チンキ)や東方強心丹、ゴルドナ特製丹、ブリストル丸といったあやしげな薬を買い、咳をしている老婆(カストラトリス)たちに分けてやった。豆売りから蚕豆やレンズ豆を買い、猿売りが鎖につないでいる蜘蛛猿(コアタ)、カプチン猿、絹猿(サグイン)にくれてやった。これらキイキイ鳴く猿たちに彼は多少共感を覚えるところがあったのだ。抹香売りからは香を買い、砂糖売りからは黒砂糖を買い、煙草売りからは噛み煙草を買い、焼き肉売りからは串焼き肉(ケバブ)を買ったが、露店の迷路から大通りに出るまでに
全部なくなってしまった。アレカ椰子、ケンチャ椰子、フェニックスの巨木が並ぶ歩道には裸の乞食がひしめいていて、眠っている者、死んでいる者、眼をあけてじっとしている者のからだに金蠅や銀蠅がたかっていた。彼らは通りを歩く背広姿の紳士たち、夜中だというのにレース飾りのついた小さな日傘をさしている淑女たちにむかって手をのばしていたが、誰ひとり小銭を恵んでやる者はいなかった。鴫沢寛はすでに無一文になっていたので、彼らに恵んでやることができなかった。首都を網の目のように走る高速道路が見えはじめたとき、彼は歩道にまばゆい光が反射し、大勢の人だかりが光を囲んでいる光景に出会った。車がひっきりなしに通る大通りに、MJBSの大型電力車と中継車がとまっていた。群集のまわりに高い櫓が組まれ、無数の照明灯が人の輪の中を照らしていた。そこは酒場やレストランやデイスコが朝まで営業している区画で、上機嫌の若者や紳士たちに、コーヒー豆の模様がはいったお揃いのTシャツを着た少女(ドウ)たちが紙コップにはいったコーヒーを配っていた。モカ、ジャマイカ、ブルーマウンテン、サントスの四種類のコーヒーが群集を元気づけていた。コーヒー会社のキャンペーン・ガールたちは彼らに愛想をふりまき、若者とデートの約束をし、コーヒーを配り、中年男の頬っぺたにキスしてまわっていた。マイクを手にした若い女性レポーターが鴫沢寛に話かけた。
「実験演劇が場末の地下劇場から表通りにとびだしたことは、あなたにとって有益でしたか?」
鴫沢寛は実験演劇というのがどんなものか知らなかったので、なんとも返事のしようがなかった。人垣からはみ出した照明灯の光が眼を射るので、腕をかざして目を細めながら曖昧に笑うしかなかった。MJBSの文字がはいったジャンパーを着たカメラマンの肩に担がれたハンディー・カメラがこっちを向いていた。
「誰もが最初はあなたのように戸惑うんです」と女性レポーターがいった「MJBSは実験演劇を表通りにひっぱりだし、生中継し、コーヒーを配り、同時に観客であるあなたに役を割り振るんです。つまりあなたも劇の登場人物になるわけです。そのことについてどう思いますか?」
鴫沢寛は何も思わなかったので黙っていた。白い髪が照明を乱反射し、カメラが捉える画像の中にゴーストを生じさせ、中継車の中にいるビデオ・エンジニアを慌てさせていたが、鴫沢寛はそんなことに気づかなかった。彼がつくりだした真っ白い画像はMJBSのスタジオに送られたが、放送はされなかった。
「こうした試みがすでに十五年も前からやり尽くされている陳腐なもので、最近では誰も感心したりしないとお考えでしたら、正直におっしゃっていいんですよ」と女性レポーターがいった「MJBSは開かれたメディアですから、誰もが思ったことを発言する権利を持っているのです。MJBSは自由を愛するテレビ局ですから。コーヒーをいかがですか?」
鴫沢寛はコーヒーを飲んだことがなかったので、力なく笑うだけだった。モカ・マタリもジャマイカもブラジルもサントスも彼の興味を惹かなかった。MJBSが偏執狂(モノマニアツク)的なテレビ局だということを彼は知らなかった。MJBSが嫉妬深いテレビ局だということも彼は知らなかった。
多少女(ドウ)陰に似ていなくもない、大きなコーヒー豆のマークが印刷された白いTシャツを脱ぎ捨て、白いミニ・スカートと白いブーツを脱ぎ捨てたコーヒー娘のひとりが群集を掻き分け、輪の中にはいっていったとき、彼は何が起きるのか予想がつかなかった。人垣の中で待ち構えていた中年男が彼女を四つん這いにさせ、背中にとび乗ったとき、鴫沢寛は何が起こりつつあるのか理解していなかった。中年男は少女(ドウ)を、自分の娘だと紹介したので、群集は恥毛をきれいに剃った彼女のコーヒー豆を見つめながら讃嘆の声をあげた。中年男は黒いタキシードに白い絹のマフラーといったいでたちで、腕を大きく振りあげながら、自分はMJBS常務取締役油河**であると自己紹介したあと、娘の背中から飛びおり、数人のアシスタント・ディレクターの助けを借りて、鉄の櫓に彼女を吊るし、彼女の背中や尻に鞭をふるいながら、油河麗という彼女の名前を披露した。鞭は太くて固い革の握りの先が何本にも枝分かれしている細い革紐になっていて、紐の先には小さな鉤針がついていた。彼が鞭をひと振りするたびに、娘は甲高い悲鳴をあげ、彼女の皮膚は細い鉤針で深くえぐられた。
群集のひそひそ話から鴫沢寛は、油河麗が有名な女優らしいことを知ることができたはずだが、彼は周囲のひそひそ話にまるで耳を傾けていなかった。彼女が学園の女子生徒(ドウ )であり、かつてあらゆるコンテストで優勝をさらったことや、十二枚のレコードを出し、コーヒー会社をはじめとする七つの企業のキャンペーン・ガールをつとめ、無数のテレビ番組に出演したこと、百八種の雑誌が彼女のヌードや水着姿を掲載したことも知ることができたはずだが、こうした情報はすべて彼の意識の深層にとどまったらしい。彼女が二年のあいだ清純なイメージを売り物にする偶像(アイドル)だったこと、すべての男子生徒(バックス)や市街地の若い男たちが空想上の彼女にむけて精液の集中砲火を浴びせたことも同様に彼の無意識の海に沈殿した。彼女が突然、歌手とモデルをやめ、巨額の収入を放棄し、場末の地下劇場でせいぜい五十人も入れば満員になる客席にむかって、恥毛を剃った淡い色のコーヒー豆を披露するようになったこと、毎晩MJBSの取締役である父親の鞭を全身に受けていることも同様に⋯⋯毎晩彼女が受ける千の傷は市場(バザール)で売られている貴丁幾(チンキ)や天国膏を擦りこむことで、次の夜までに跡形もなく癒されることも同様に⋯⋯
MJBSの常務取締役は鞭を使いおわると、娘の口や女陰や肛門に火のついた蝋燭をつっこみ、その火で次々に煙草に火をつけては観客に振る舞った。白髪の白痴だけが彼の煙草を受けとろうとしなかったので、油河氏はこの白髪の痴呆を穴のあくほど見つめた。なぜ自分の煙草が拒絶されるのかを見極めるために。実をいえばこの魯鈍は煙草を拒絶したのではなく、ゼラチンの眼をした夜の猿(マカコ・ダ・ノイテ)の眼で、逆さに吊られた燭台娘を見つめるのに熱中していただけだったのだが。
「お若い方(ジュノム)、と呼んでもよろしいかな?」と油河氏はためらいがちに話しかけた。白髪と白い眉と白い睫のために年齢がわかりにくかったのだ「自己処罰の儀式がお気に召さないようですな、お若い方(ジュノム)。自己を罰しない者には安らぎがないことをおわかりいただけませんかな? わたしは自分を鞭打つことを様式化したにすぎんのです。娘はわたしだといったら不可解でしょうか? 娘は呵責を愛し、わたしもまた呵責を愛する。わたしは娘だ⋯⋯違いますか?」
さっきの女性レポーターがしゃがみこんで、逆さになった油河麗の顔にマイクをつきつけている。ハンディー・カメラが彼女の顔をアップでとらえる。彼女の口から蝋燭が落ちる。
「痛いですか?」
「痛いわ、死ぬほど」
「熱いですか?」
「熱いわ、死ぬほど」
「恥ずかしいですか?」
「恥ずかしいわ、死ぬほど」
肛門と女陰につきささった蝋燭から、とけた蝋が彼女の下腹をつたって胸へ、首へ、顎へと垂れてくる。蝋は彼女の口の中に侵入し、喉をむせかえらせる。
「もうやめたいと思ったことはありませんか?」
「いやよ。やめちゃいや。わたしにもっと質問して。わたしを痛めつけて。わたしを罰して。わたしを殺して⋯⋯」
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