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社長からマリコを取り戻すのはわけなかった。相手は六十いくつの年寄りだったし、もちろん妻子持ちだった。彼女はそいつのことなんか愛していなかった。
ぼくは社長室で彼女に会った。社長は頭がかなり白くなっていたが、がっしりしたからだつきの温和な紳士だった。どちらかと言えばぼくの父に似ていた。
「なるほどね」と社長は穏やかに笑いながら言った。「わたしの王子様がやってきたってわけだ」
彼女は何も言わずにデスクの上の花瓶に花を生けていた。かろうじて聞き取れるくらいのかすかな鼻歌で彼女は『いつかわたしの王子様がやってくる』をハミングしていた。古いスタンダード・ナンバーだ。彼女は少しも変わってなかった。ついさっきまで聖書女学院の制服を着ていた中学生が、ちょっといたずらして社長秘書風のスーツを着てみたという感じだった。社長はソファから立ち上がり、彼女の肩を掴んでぼくの向かいに掛けさせた。
「ひとつきいていいかな?」と彼はぼくに言った。
「どうぞ」とぼくは言った。
「どうして二十年も彼女をほっといたんだ?」
「ぼくにとって時間はずっと止まったままだったんです」
「金縛りにあっていた?」
「うまい表現ですね」
「ありがとう。これでも学生時代は小説家志望だったんだ」
「社長、そろそろお時間です」とマリコが言った。
「アメリカ大使と会うんだよ。すごいだろ?」と社長がぼくに言った。彼はデスクのわきに立って、マリコが生けたばかりの花をいじっていた。
「すごいなあ」とぼくは言った。内心はたいして感心していなかったのだが、ここは調子を合わせたほうがいいんじゃないかと思ったのだ。
「でも、きみは二十年間一度も彼女を捜さなかったんだろ?」と社長は言った。彼はその大きな花瓶を腕に抱えていた。「なぜだ?」
「ぼくはずっとあのときの彼女を探していたんです。あのときの彼女は一体何者だったんだろうって⋯⋯。ほかにもいろんな人を探しました。探すべき人間はあまりにもたくさんいたんです」
「つまり夢を見ていた?」
「そういう言い方も可能ですね」
「いいかい、彼女のことを考えるのと彼女を捜すのはまるで違うことなんだよ」
「おっしゃることはよくわかります」
「彼女に関してはもう夢を見ないと誓えるかい?」
「誓えます」
「それで安心したよ」彼は花瓶を愛撫しながら笑った。「わたしには娘が三人いてみんな嫁に行ったがね、どの娘のときもこんなに心配しなかったよ」
「社長、お時間です」マリコが立ち上がって言った。
「ありがとう」と社長が言った。「でも、きみはもう帰っていいよ」
「どうして?」
「きみはクビだ」
「まあ」
「今すぐこの男と腕を組んで帰るんだ。そしてもう二度と彼のそばを離れるんじゃない。
わたしの言ってる意味がわかるかね?」
「わたし、この仕事はわりと気に入ってるんですけど」
「結婚式をやるなら花ぐらい贈らせてもらうよ」
「わたし、けっこう有能な秘書だったのよ」と彼女はぼくに言った。
「ほかの仕事を探せばいいさ」とぼくは言った。「彼だって気持ちの整理をつけたいんだよ」
「きみたちはわたしの言ってる意味がわかってないね」と社長が言った。「きみたちはこんなに長く離れ離れになってたんだから、これからは少しでも多く一緒にいるべきだって言ってるんだよ」
「なるほど」とぼくらは言った。
「さよなら」と社長は言った。
ぼくらは腕を組んで社長室を出た。隣の部屋では数人の秘書たちがひとつのデスクに集まって雑談していたが、ぼくらを見ると笑って手を振った。マリコも笑って手を振った。秘書たちはもう彼女に何が起こったのか勘づいていた。おめでとうってわけだ。
そのとき部屋の中に変な空気が流れた。秘書たちの顔が一瞬こわばったのがわかった。振り返ると、社長がすぐ後ろにいた。大きな花瓶を頭の上に持ち上げて、ぼくらに投げつけようとしているところだった。さっきマリコが花を生けていた花瓶だ。ぼくはマリコの腕を掴んだまま飛びのいた。花瓶は毛足の長い絨毯の上で大きく弾み、秘書のデスクの角に当たって割れた。花と水しぶきがぼくらの顔まで飛んできた。
「中国の花瓶だよ」と社長が言った。「明の時代のね。何千万円もするんだ」
彼の様子はさっきと一変していた。髪は喧嘩の後みたいにくしゃくしゃに乱れていた。顔と眼は酔っ払ってるみたいに真っ赤だった。
ぼくは水仙の花を一本拾ってマリコの胸に插した。
「さよなら」とぼくは言った。
「くたばれ」と社長は言った。「地獄に落ちろ」
「さよなら」とマリコが彼に言った。
「久しぶりね」とマリコが言った。
「久しぶりだね」とぼく。「でもあんまり久しぶりなんで、ついこないだみたいな気がするよ」
「そう言えばそうね」
ぼくらは大きなベッドの上で腹ばいになっていた。大きな窓から午後の日差しがさしこんで、彼女の肩のうぶ毛を金色に輝かせていた。ぼくは彼女と愛し合ったばかりで、元気一杯だった。まるで二十年前にも彼女と寝たことがあるみたいな気がした。この二十年間何度もこんなことがあったような気もした。たぶん彼女もそんな気がしていただろう。でも、本当にぼくらは久しぶりだった。彼女は中学生みたいに可愛かった。
「もうどこにもいかないでくれよ」とぼくは言った。
「もうどこにもいかないわ」とマリコ。
「ああ、今日はなんていい気分なんだろう」とぼくは言った。「まるであのときのキャンプがまだ続いてるみたいだ。そう思わない?」
彼女はもう静かに寝息を立てていた。ぼくは彼女の赤ん坊みたいにつるつるしたからだを眺めながら、ゆっくり背中を撫でてやった。眠っている彼女の皮膚は熱を帯びてかすかに湿っていた。毛穴の一つ一つが寝息を立てていた。多分彼女は深い休息を必要としていたのだろう。赤ん坊みたいに親指を口に含んでちゅうちゅう吸っていた。冬が近づいていたが、降り注ぐ太陽のせいでベッドの上は温かかった。ぼくはマリコに足を絡めて双子の胎児のように眠った。
目を覚ますとマリコが寝言を言っていた。学生時代に誰と誰と誰と寝たかという話だった。それから大企業の秘書になって誰と誰と誰と誰と誰と寝たかという話になった。男の数があまり多くて、寝言はなかなか終わらなかった。ぼくはわりと記憶力がいいほうだが、そのときはしかたなくメモを取った。ぼくは夢を書き留める習慣があるので、いつもサイドテーブルにメモ用紙と鉛筆を置いているのだ。男の数は名前がわかるやつだけで何十人にもなった。
「ずいぶんだなあ」とぼくは独りごとを言った。
メモをしげしげと眺めているうちにぼくは結城という名前が二回出てくるのに気づいた。マリコが最初にやった相手が結城という名前だった。それから彼女と一度結婚してすぐ離婚したのも結城という男だった。
結城⋯⋯?
寝言が終わるとマリコはまた深い眠りに落ちていこうとしたので、ぼくはキスで起こしてやった。彼女がそのまま死んでしまうんじゃないかと心配になったのだ。彼女は「モゴモゴモゴモゴ」と言いながら眠りの国から戻ってきた。
「寝言を言ってたよ」とぼくは言った。
「そう?」
「男たちのこと」ぼくはメモを見ながら男たちに名前を読み上げた。
「やだなあ」彼女は照れ臭そうに笑った。
「夢を見てたの?」
「あなたに告白してる夢よ。今までどんな男と寝たかって⋯⋯」
「そうか」
「あなたは話してくれないの?」
「聞きたい?」
「聞きたくないけど、わたしだけじゃ不公平じゃない」
「そうか」
ぼくはかいつまんで女たちのことを話した。話してみるとぼくはずいぶん彼女たちを乱暴に扱っていたんだということがわかった。女がぼくを好きになるまではとても優しくするのに、好きになったとたんに冷たくしだすのがぼくの病気だった。わざと相手の神経を痛めつけるようなことをやったりもした。
なぜだろう?
「わたしよりわざと少なめに言ってる」とマリコが言った。
「そんなことないよ」とぼくは言った。
「わかってるわ」彼女は笑った。「冗談よ。でも、どうして女の子に冷たくするの?」
「どうしてだろう?」
「わたしときどきあなたのことを思い出したわ」
「ぼくはいつも思い出してたよ」
「嘘」と彼女は言った。
彼女の言う通りだった。この二十年間、ぼくはそんなにしょっちゅう彼女のことを思い出してたわけじゃない。いや、ほとんど思い出さなかったかもしれない。思い出したのはノリコに会ったときだ。でも、どうしてあのときいきなりマリコのことを、ぼくが出会った女たちの中で唯一結婚すべきだった女だと確信できたんだろう? それは彼女も同じだった。彼女も口で言うほど何度もぼくのことを思い出していたわけじゃない。それでも思い出すたびに、これが結婚すべきだった男だと確信していた。だからぼくが突然現れたときも、全く迷わなかったのだ。
なぜだろう?
ぼくらは四十階の少し広いアパートメントに引っ越した。家賃が上がった分だけ余計に稼がなければならなかったが、仕事はいくらでもあった。ぼくはせっせと仕事をし、マリコはせっせと料理を作った。暇なときは原稿のコピーを取ったりファクシミリで送ったり、ワードプロセッサを打ったりしてくれた。彼女はほんとに有能な秘書だったのだろう。
ぼくの仕事はすごくはかどった。何時にどこへ行って何を打合せするのか、どの仕事から優先的に片付ければいいのかといったことを彼女は適切に指示してくれた。ときには難しい調べ物のために国会図書館に行ったり、パーソナルコンピュータで外国のデータベースサービスからデータを取り寄せたりした。ぼくは原稿のことだけ考えていればよくなった。
「きっときみのほうが優秀なコピーライターになれるね」とぼくは言った。
「だめよ、文章が下手だもん」
「すぐに慣れるよ」
本当に彼女はすぐ慣れてしまった。彼女はコピーも書くようになった。言葉遣いにあまり個性はなかったが、わかりやすかったし、客の評判もよかった。お陰でぼくらはそれまでの倍以上の仕事をこなすようになった。彼女が忙しくてぼくが暇なときは、ぼくが料理を作った。しかし、彼女はぼくが家事をやると文句を言った。
「わたしはあなたのお手伝いがしたかったのよ」と彼女は言った。
「ずいぶん助かってるよ」とぼくは言った。
「料理はわたしが作るわよ」
「うん」
ぼくは料理が嫌いじゃなかった。キャンプみたいで楽しいからだ。でも腕前はマリコのほうがはるかに上だった。それでぼくは主に掃除と洗濯をやるようになった。
「わたしはあなたの役に立ちたいのよ」ぼくから掃除機を引ったくりながら彼女は言った。「だから料理はきみに任せるよ」とぼくは言った。
「わたしが言ってるのはそういうことじゃないのよ」と彼女は言った。「あなたはわたし
に書けないようなものを書くべきなのよ」
ぼくは仕事の合間を見つけてまた小説を書くようになった。まずマリコとよく遊んだ頃の話を書いた。一九六八年の春、ぼくの家族が聖書女学院の桃畑に面した庭でキャンプをしたときのことを。マリコは聖書女学院のバスケットボール部の合宿で、桃畑にキャンプを張っていた。ぼくも彼女もまだ中学三年生だった。一九六八年には本当にいろんなことがあった。
小説を書き出すと、ぼくはその頃のことをよく夢に見るようになった。
あるとき、夜中に目を覚ますと、マリコがぼくの顔をのぞき込んでいた。
「夢を見てたでしょ?」と彼女が言った。
「うん」とぼくは言った。
「ファミリー・キャンプの夢?」
「うん。よくわかったね」
「うなされてたわ」
「いろんなことが絡み合ってるんだ」
「彼女が出てきたのね?」
「いや、違うよ」
それは嘘だった。ぼくはマリコが言ったまさにその女の子の夢を見ていたのだ。
あのときマリコには好きな女の子がいて、名前をミチコと言った。ぼくにも総愛学院に好きな男の子がいた。そういう年頃だったのだ。ぼくはそのミチコに襲われる夢を見ていた。ミチコはバスケットボール部のキャプテンで、マリコと桃畑にキャンプを張っていた。彼女はぼくとやりたがっていた。それはマリコを傷つけた。だからぼくはミチコが夢に出てきたことをマリコに知られたくなかったのだ。
ぼくはそれからまたしばらく眠った。また夢を見たが、それは聖書女学院の夢じゃなかった。八重山が結城やぼくの前でピアノを弾いてる夢だ。彼の姉もそこにいた。八重山の両親は少し前に死んでいた。姉のミチコが彼の親代わりだった。彼女は両親に代わって神戸の鉄工場を経営していた。
「ミチコ?」とマリコが言ったので、ぼくは目を覚ました。
彼女はまたぼくの眼を上からのぞき込んでいた。ぼくはすごい汗をかいていた。シーツ
の肩のあたりがじっとりと冷たかった。
「違うよ」とぼくは言った。「八重山のお姉さんだよ。あの頃きみにも話したことがある
じゃないか」
「聞いたことないわ」と彼女は言った。
「そうだったかな?」
汗が冷えてきて、ぼくは寒さに震えていた。シーツに染み込んだ湿り気はどんどん広がって粘りを帯びてきていた。まるでおねしょをしたみたいだとぼくは思った。
「その人のこと知りたいわ」左の手首をこすりながら彼女は言った。
「そのうち話すよ」とぼく。
「小説に出てくる?」
「たぶんね」
ぼくは彼女がしきりにこすっている手首を眺めた。黒ずんだ垢みたいなものがそのあたりからボロボロ剥げ落ちていた。ぼくは起き上がって彼女の腕を掴んだ。起き上がるとき、シーツがねっとりとした粘りを帯びているのを感じた。
「うわあ」とぼくは叫んだ。「一体どうしたっていうんだ」
「平気よ。もう乾いたから」とマリコが笑った。
シーツには乾きかけた血で黒い模様が描かれていた。ベッドの隅に大きなサバイバルナイフが落ちていた。彼女の左手首にはピンク色の傷が大きく口を開いていた。
ぼくは絶えずマリコを見張っていなければならなくなった。特に夜中に手首を切らないように、寝るときはぼくの左手と彼女の右手を紐で縛ることにした。それでも彼女はマットレスとボードの間にサバイバルナイフを隠しておいて、夜中にこっそり右の手首を切った。ぼくはまた粘っこい血の海で目を覚ました。
「一体どうしたっていうんだ」とぼくは叫んだ。
「ミチコって言ったわ」
「何だって?」
「あなた、今寝言でミチコって言ったわ」
「頼むからそれくらいのことで手首を切らないでくれよ」
「わたしはあなたに隠し事をしてほしくないのよ」
「隠してなんかいないよ。ただ全部を話すのはとても難しいんだ。何もかもが絡みあっていて⋯⋯」
「ひとつずつ話せばいいのよ。思いつくままに」
「そうするよ」とぼくは言った。
本当にありのままを話すのは難しい。それでぼくは小説に熱中するようになった。彼女に話すよりも文章にするほうがやさしいような気がしたのだ。昼間は二人でさっさと仕事を片付け、夜になるとぼくが小説を書き、それをマリコがワードプロセッサに打ち込んだ。ぼくらは最初、お互いの手首を手錠でつないでいた。でも、それだと仕事にならないので、犬の首輪を二つ買ってきてお互いの首にはめ、それを一本の鎖で結んだ。ぼくらは三メートルの範囲でなら自由に動けるようになった。トイレや風呂には一緒に入らなければならなかったが、ぼくらは仲がよかったから、大して苦にならなかった。
「まあまあだね」とぼくは言った。
「そうね」と彼女も言った。
広告代理店や制作会社にもぼくらは二人で出掛けた。仕事の効率は悪かったが、いつも一緒にいられるというのはなかなか楽しかった。
「仲のいいことで」と首輪を見た代理店や制作会社の人たちは言った。
「それほどじゃないですけどね」とぼくは言った。
マリコは横でニコニコしていた。
それでも彼女は全くあきらめたわけじゃなかった。どこで手にいれるのか、いつのまにかナイフをベッドのどこかに隠しておいて、夜中に手首を切ろうとした。ぼくが彼女の知らないことを寝言でいったときが危なかった。それから外でかわいい赤ん坊を見かけたときも⋯⋯。彼女は相変わらず赤ん坊を見ると理性を失ってしまう癖が抜けていなかった。どんなに急いでるときでも、赤ん坊を見かけると近づいていって抱こうとした。
「あ、赤ちゃん」彼女が普段と全然違う甲高い声でそう叫ぶたびにぼくはぞっとした。
「だめだよ。時間がないんだから」
「だって可愛いんだもん」
彼女が笑って頼めば、どんな母親でもまず赤ん坊を抱かせてくれた。どう見たって、夜中に亭主の目を盗んで手首を切ろうとする女には見えなかったからだ。彼女が赤ん坊を抱いている間、ぼくは注意深く彼女を見張っていなければならなかった。放って置くと必ず胸をはだけて、赤ん坊におっぱいを吸わせようとするからだ。
「おたくも早く作ればいいのに」と母親は必ずぼくらに言った。
「できるといいんですけどね」とぼくは言った。
それは本心だった。でも、なんだかぼくらには永遠に子供ができないような気がした。理由は別にないけど、今でもそんな気がする。
そしてそんな夜、必ずマリコはこっそり手首を切るのだ。
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ぼくは急いで『ファミリー・キャンプ』という小説を完成させた。マリコと彼女が愛していた聖書女学院の上級生ミチコが出てくる話だ。マリコはそれを何度も読み返して、少し落ち着きを取り戻した。自分とミチコの関係がかたちを与えられたことでなんとなく安心したのだ。
しかし、ぼくはまだ安心していなかった。彼女はもう一人のミチコのことを知りたがっていた。ぼくがしょっちゅう寝言で口にする女だ。一九六八年に出会ったもう一人のミチコ。ぼくはその頃、毎日のようにマリコに会っていた。彼女にはこのミチコのことは何度となく話したと思っていたから、彼女がまるで記憶にないと言い張ったとき、ぼくはとても不思議な気がした。もしかしたら彼女が忘れているだけなのかもしれない。
もちろん、ぼくが勘違いしてるという可能性もあるが⋯⋯。
とにかく彼女はもう一人のミチコのことを知りたがっていた。ぼくが寝言でこの女の事を口にするたびに、マリコは情緒不安定になり、サバイバルナイフやかみそりに助けを求めた。ぼくは彼女が夜中にこっそり手首を切らないように、寝る前に彼女をうつ伏せにして、両手首と両足首を一つにまとめて縛り上げた。縛られているあいだ、彼女はベッドの上でおとなしくしていた。縛り上げられた彼女のからだは変てこな現代美術のオブジェみたいに見えた。
「悪いね」とぼくは言った。「でも、きみのためなんだ」
「わかってるわよ」と彼女は言った。「あなたがこういうことをしたいんなら、わたしは平気よ」
「そういうんじゃないんだけどな」とぼくは言った。
「あのときもこんなことがあったわね」マリコは一九六八年のことを思い出して楽しそう
に言った。
「そうだったっけ?」
「リッキーの奥さんのジェーンがこんな格好で縛られてたじゃない」
「そうだったね」
確かにそんなことがあった。ぼくらはその朝、聖書女学院の桃畑にジェーンというアメリカ人を訪ね、彼女が素っ裸で縛り上げられているのを発見したのだ。彼女の亭主のリッキーは、ミチコとどこかへ消えてしまった男だ。ぼくはそのことを小説に書いたが、ジェーンが両手と両足を縛られてたことなんてすっかり忘れていた。
「これも書き加えるべきなんじゃない?」とマリコは縛られたまま言った。
「そうしよう」とぼくは答えた。
ぼくはどうして縛られたジェーンのことを忘れていたのかよくわからなかった。思い出してみると、『ファミリー・キャンプ』という小説は、この場面なしには成立しないような気さえした。
「ねえ、このままセックスしない?」とマリコが縛られたまま言った。
「だめだよ」とぼくは答えた。
「あなたはこういうの好きなんだって思ってたわ」
「好きじゃないよ」
それは嘘だった。あのときぼくはジェーンの縄をほどいてやりながらすごく勃起していたし、今もベッドの上で縛られているマリコを見てすごく勃起していた。でも、ぼくはそれが罠だということを知っていた。それが結局リッキーを殺したのだ。リッキーは有名な詩人兼小説家だった。一九八四年に彼は拳銃の弾をこめかみにぶちこんで自殺した。
「こういうのってフェアじゃない」ベッドの上に座ってマリコの髪を撫でながらぼくは言った。
「今なんて言ったの?」もう半分眠っていたマリコが言った。
「こういうのってフェアじゃないよ」とぼくは言った。
もう一つの小説、八重山と総愛学院が出てくる小説のほうは、『ファミリー・キャンプ』と違ってひどく難航した。ぼくは出だしの二、三十ページを何度も書き直したが、それ以上先にはどうしても進めなかった。
「一体どうしたっていうんだろう?」とぼくは呟いた。
文章そのものは書こうと思えばいくらでもスラスラ出てきた。子供のときから毎日書いてきたお陰で、ぼくは言葉に詰まるということがないのだ。でも、この小説は書けば書くほど書くべきことがわからなくなってくるのだった。
「『マイ・フェイヴァリット・シングズ』⋯⋯」とマリコは小説の題名を口に出して言ってから、中身を読んだ。読み終わると彼女は言った。「なかなか面白いじゃない」
「そう?」
「悪くないわよ」
「ぼくは一九六八年に何があったのか全然わかってないんだ。あのときもわかってなかったし、今もわかってない。書けば書くほどそのことが明らかになってくるんだよ」
結城とノリコが遊びに来たとき、ぼくは彼らにも『マイ・フェイヴァリット・シングズ』の書き出しを見せた。彼らは結婚する様子もなかったし、一緒に住んでもいなかったが、相変わらず休みの日には海辺の工場地帯を回って、お尻のビデオを撮っていた。ぼくはあの夜のことで彼らが喧嘩別れしてしまうんじゃないかと気を揉んでいたのだが、そんな心配はまるで無用だったらしい。
「よくわからないな」と結城は言った。「どうしてこんなに何通りも書くんだ?」
「スタイルを探ってるんじゃない」とノリコが言った。「それくらいわからないの?」
「みんな同じじゃないか」と結城は言った。
「あんた馬鹿じゃないの?」とノリコが言った。「全然違うじゃない」
「そうかな?」
「結城は当事者だからそう見えるんだよ」とぼくは弁護した。「事実を知ってる人間にとっては、文体なんて関係ないんだ」
ひどい雨が降ってる日曜日の午後だった。窓の外は霧で真っ白だった。うちのマンションはあんまり高いので、雨雲が低く垂れ込めてくると、上のほうが雲の中に入ってしまうのだ。
「まるで六甲山にいるみたいだな」と結城が言った。
「うん」とぼくは言った。
総愛学院は六甲山の中腹にあって、晴れた日には神戸の街と港を見渡すことができた。でも山にはよく霧が出て、一メートル先さえ見えなくなることがあった。市街地の上は晴れているのに、山だけが霧に包まれていることも珍しくなかった。霧は布団の綿みたいに固まって次から次へと流れてきて校舎や校庭を覆った。生ビールの泡みたいに重くて濃い霧だった。あるいはホイップクリームみたいに⋯⋯。秋から冬にかけて霧は特に濃くなった。それは霧と言うより雨雲だった。冷たい雨が降る日に神戸の街から見上げると、山はすっぽり雲の中に隠れていた。
女たちはテレビを見ていた。姉妹で仲よく木の床に腹ばいになって⋯⋯。画面には大きくお尻が映っていた。ぼくと結城は窓際のソファに座っていた。
「おい」と結城がノリコに言った。
女たちが同時にこっちを振り向いて笑った。結城はあのときみたいにテレビを消そうと、椅子から腰を浮かしかけたが、マリコに笑いかけられて動きを止めてしまった。その日、マリコと顔を合わせたときから、彼が決して彼女に話しかけようとしないのをぼくはちゃんと見ていた。マリコも彼に話しかけようとはしなかったが、絶えず彼に笑顔を見せていた。彼女の無邪気な笑顔に会うと、結城は石みたいに固くなった。
「テレビを消してこっちに来ない?」とぼくは彼女たちに言った。
「テレビをつけたままでいいなら行ってもいいわよ」とマリコが言った。
「つけたままでもいいけど、何か別のを見たほうがいいんじゃないか?」と結城。
「よく同じビデオを見ていて飽きないね」とぼくはノリコに言った。初めて結城のマンションに行ったときも、彼女はお尻のビデオをしつこく見ていたからだ。
「お姉ちゃんが見たいって言うんだもん」とノリコが言った。「それに、これ前のと違うのよ。今日撮ったんだもの」
結城が怯えたような顔でぼくを見た。確かにそのビデオはいつか結城の家で見たのと少し違っていた。あのときのやつは夜の闇の中に、照明に照らされた白い大きな桃みたいなお尻が映っていたが、今見ているやつは朝か昼間に撮られたもので、白い霧があたりを包んでいた。それに、映っているお尻もなんだかこのあいだのお尻じゃないような気がした。それは肌が少し浅黒くて、固く引き締まったお尻だった。
「散歩に出ないか?」と彼は言った。「彼女たちはほっといて」
「いや」とぼくは言った。「ここでビデオを見よう」
そんなわけで、お尻はテレビの画面一杯に映し出されたままになった。
「マリコと何があったの?」とぼくは結城に言った。
「別に何も」と結城は言った。
「そう」とぼくは言った。「それならいいんだ」
結城は怯えたねずみみたいにぼくを上目使いに見ていた。ぼくは一九六八年の彼を思い出した。ぼくは何度も彼に傷つけられたことがあった。結城がそんな顔をするときは、必ず何かぼくを傷つけるようなことを隠しているのだ。
「マリコが前に結婚してたやつの名前が結城っていうらしいんだ」とぼくは言った。
「彼女からそれしか聞いてないのか?」と結城は言った。
「いや、他にも聞いたよ」とぼく。「彼女が学生時代に初めて寝た男も結城っていうらしいんだ」
「馬鹿みたい」とノリコがこっちを振り返って言った。「夫婦なのにそんな話もしてないの?」
「まだ夫婦じゃないのよ」とマリコが笑いながら言った。
ぼくらはまだそのとき正式に結婚していなかった。別に結婚を送らせる理由があったわけじゃない。ただ忙しくてなんとなく一日延ばしになっていたのだ。
「どうして彼に話さなかったの?」とノリコがマリコにきいた。
「話したと思ってたわ」とマリコは言った。「夢の中で」
「馬鹿みたい」とノリコが言った。「きっと彼が結婚しようとしないのはそのせいよ」
「違うよ」とぼくは言った。
かなり興奮していたのかもしれない。最後の言葉はほとんど怒鳴り声になっていたし、いつのまにか立ち上がってテーブルを強く叩いていた。
「この変態男はお姉ちゃんが最初に寝た相手だし、最初に結婚した相手なのよ」とノリコは結城を眼で差し示しながら言った。
「もう一度言ってみろ」結城がソファから立ち上がってノリコに言った。「もう一度言ったらおまえの顔をケツみたいに腫れ上がらしてやるからな」
「よせよ」とぼくは彼に言った。「いいじゃないか、事実なんだから」
「おれは変態じゃないぞ」と彼は言った。
「あんたは立派な変態よ」とノリコはテレビの画面を指差しながら言った。
ぼくらはビデオのお尻に見入った。何かがおかしかった。ミルクみたいな霧の中で揺れているお尻の下に何か異質なものが映っていた。それは男のお尻だった。
「おれはまともな男になりたかったんだよ」と結城はぼくに言った。「強くて有能で女に優しい立派な男になろうと努力したんだよ」
「きみはちゃんとした男だよ」とぼくは言った。
「嘘」とノリコが言った。
「嘘」とマリコが言い、天使みたいな顔で笑った。
「おれは女の腐ったような男なんだ」結城はそう叫びながらテーブルをドンと叩いた。「おれはずっと女の子になりたかったし、半分はいつも女だったんだよ」
「よせよ」とぼくは言った。
「おれは自分だけを見つめて生きてきたんだ」と彼は言った。「いくら女たちを見ようとしても、おれの眼にはおれしか映らなかったんだよ」
「よせったら」
ぼくはかなり腹を立てていたらしい。いつのまにか結城に向かって腕を振り上げようとしていたからだ。一九六八年にだってぼくは一度も彼をぶったことがなかったのに⋯⋯。結城は男にいじめられることに慣れてる女みたいに、腕で顔を守ろうした。
「ぶたないでくれよ」と彼は泣き声で言った。「きみにぶたれたら、おれは死んでしまうよ」
ぼくは我に返って、振り上げた手を下ろした。
「ごめん」とぼくは言った。「本気でぶつつもりはなかったんだ」
「もしかしたら、あのときあなたが好きだった男の子って彼のことだったの?」とマリコがぼくにきいた。彼女はおかしそうに笑っていた。
「うん」とぼくは言った。
「やっぱりね」と彼女は言った。「そうだと思ったわ」
「ぼくはきみに話したことがあると思ってたよ。一九六八年に⋯⋯」
「話してくれなかったわ」とマリコ。
「そう?」
彼女はきっと忘れているんだろう。ぼくが話さなくても、あの頃、ぼくと結城のことは神戸とその周辺に住んでる人間なら誰でも知っていた。
「あなたはこないだも話してくれなかったわ」と彼女は言った。「わたしが全部話したのに」
「悪かったね」とぼくは言った。「話しづらかったんだ。あれはとても特殊な時期の特殊な出来事だったからね」
「あなたは他にも一杯隠してるわ」とマリコは言った。
「もう隠してないよ」とぼく。
「嘘」とマリコ。
「嘘」とノリコも言った。「こないだわたしがベッドに潜り込んだことは話した?」
「話さなかったけど、あのときは何もなかったじゃないか」
「そうね」とノリコ。「でも、話さなかったのね?」
「そんなに何もかも話せないよ」とぼくは言った。「正確に話すのはとても難しいんだ」
「何もかもが絡み合っていて?」とマリコ。
「そう」とぼくは言った。「それに、ひとつひとつのことが同時にいろんな意味を持ってるんだ。それをいちいち組み合わせてたら、無数の真実ができてしまうんだよ」
「だから、『マイ・フェイヴァリット・シングズ』も、いろんなバリエーションができるわけ?」とマリコ。
「そういうことだね」とぼく。
「諦めちゃだめよ」とマリコが言った。「何通りでも、書けるだけ書くべきなのよ。ストーリーは何通りあってもいいのよ」
「そうだね」
とぼくは言い、『マイ・フェイヴァリット・シングズ』という小説を書いた。
書いているあいだにぼくはマリコと結婚し、結城はノリコと結婚した。
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