イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

全体表示

[ リスト ]

                  
        わ た し は 水 際 を 見 張 っ て い る 


                                        

 一九八七年の秋に、ぼくは横浜の工場地帯を走る高速道路の下の道を歩いていた。右手はビール工場、左手は石油コンビナートだった。もう日は暮れかかっていて、空の最後の赤みはまだビール工場の煙突の上にかすかに残っていたが、高速道路のお陰でぼくの歩いている道はほとんど真っ暗だった。ぼくはずいぶん長いこと歩いていた。たしか川崎あたりで電車を降りて散歩を始めたのだ。いつどこで高速道路の下に入ったのかはわからなかったが、とにかくいつのまにかぼくは車の轟音がはるか頭上で響いているのを聞きながら、海に近い工場地帯を歩いていた。ぼくは長い散歩が好きだった。果てしなく続いている真っすぐの道をどこまでも歩いていくのが⋯⋯。
 ぼくはそのまま歩いて横浜駅まで行こうとしていた。だから、突然行き止まりにぶつかったときはひどいショックをうけた。あんまりびっくりしたので、しばらくそこでぼんやりしていた。それはビール工場の正門だった。暗くてよくわからなかったのだが、そばに近づいてみると灰色の鉄格子がぼくの行く手をしっかりふさいでいた。
「道路が突然終わってしまうなんて⋯⋯」とぼくは思わず呟いた。
「行き止まりだよ」と灰色の鉄格子の門が言った。
 ぼくは道路が途中で終わってしまうなんて夢にも思わなかったので、すごくがっかりしてしまった。
「どこにだって行き止まりはあるだろ」と灰色の鉄格子の門は言った。
「でも、高速道路の下の道が突然終わっちゃうなんて」とぼくは言った。「こんなに大きい道なのに」
 たしかにそれは大きい道だった。ちゃんと両側に広い舗道があったし、車が何台も並んで通れそうな中央分離帯があって、そこには車の代わりに高速道路を支えている太いコンクリートの柱が並んでいた。
「ここは普通の道じゃないんだよ」とビール工場の鉄格子の門が言った。「ウイークデー
にトラックが工場に出入りするための道なんだ」
「なるほど」とぼくは言った。
 確かにその道には車が一台も通っていなかった。歩いてる人もいなかった。その日は日曜日だったからだ。いや、文化の日か勤労感謝の日だったかな⋯⋯? まあとにかく休日に閉まってるビール工場に遊びにくるやつはいない。
「なんだ、がっかりだな」ぼくは立ち去りぎわにもう一度鉄格子の門のほうを振り向いて言った。「横浜駅まで歩いてやろうと思ったのに」
「おあいにくさま」とビール工場の鉄格子の門は言った。

 ぼくはビール工場のフェンスに沿って、来た道を引き返した。どこまで歩けばこの長い袋小路から出られるのか見当もつかなかった。フェンスのむこうはビルやピラミッドみたいに積み上げられたビールの空き壜の山とキリン草の枯れ草の海だった。
「こんなのってやだな」とぼくは口に出して言ってみた。
 何か喋らないと頭が変になりそうな気がしたからだ。高速道路は相変わらずすごい音を響かせていたが、ぼくはとても孤独だった。
「道はこんな風に造るべきじゃないんだ」とぼくはまた独りごとを言った。「海も空も見えないし、おまけに途中で終わっちゃうなんて⋯⋯」
 一体これまでどれだけの人間がここに迷い込んだのだろうとぼくは考えた。ここに迷い込んだ人間はきっと死にたくなるような思いを味わったに違いない。ぼくは暗闇の中を歩きながら、自分が生きてるのかどうかさえわからなくなっていた。

「こんなとこで何してるんだ?」
と言う声が聞こえたのは、ビール工場のフェンスが破れているところで立ち止まっていたときだった。闇の中から大きなヒマワリみたいな光がぼくを照らしていた。ぼくは眩しくて思わず手を目の前にかざした。光はどんどん近づいてきた。ぼくは怖くて光から顔を背けていた。逃げ出したかったが、足が動かなかった。
「ハラじゃないか」と同じ声が言った。
 フェンスの破れ目の向こうに結城が立っていた。そのヒマワリみたいな懐中電燈を自分の顔に当てて。十何年ぶりかの再会だった。
「こんなとこで何してるんだ?」とまた結城がきいた。
 彼はクリーム色のポロシャツにチョコレート色のズボンをという恰好で、手には大きなバッグとそのヒマワリみたいな懐中電燈を持っていた。いや、よく見ると、そのヒマワリは大きなバッテリーに接続された特殊な照明装置だった。ビデオの撮影のときなんかにマニアが使うやつ。
「散歩してたんだけど、迷っちゃったんだ」とぼくは言った。
「そうか」と結城は言った。
 彼はヒマワリみたいな照明装置で闇の中を照らしながら歩いた。まるでヘッドライトをつけた車に乗って夜中の道をゆっくり走ってるみたいだった。
「懐かしいな」と彼は言った。
「うん」とぼくは言った。
 結城とは総愛学院で一時期とても親しくしていたことがあった。一九六八年のほんの一時期だったが、ほとんど毎日行動を共にしていた。それからなぜか急にお互いほとんど口をきかなくなってしまった。別に喧嘩したわけじゃなかったが、いろんなことがあったのだ。一九六八年はそういう年だった。
「うちへ来いよ」と彼は言った。
「うん」とぼくは言った。
 結城には連れがあった。暗くてよく見えなかったが、グレーの長いコートを着た女だった。
「***だ」と結城は言った。
 多分名前を言ったのだと思うが、頭上の高速道路を走る車の音がうるさくてよく聞こえなかったのだ。ぼくは彼の右側にいて、女は左側を歩いていた。彼女はぼくのほうを見もしなかった。

 結城はすぐ近くの、運河を見下ろすマンションに住んでいた。ベランダからオレンジ色の炎を上げている石油コンビナートの塔が見えた。そのまわりには白い石油タンクと送油管が複雑に入り組んだ精製施設がひしめきあっていた。それは未来都市の廃墟みたいな風景だった。
 部屋の中では結城と女が言い争っていた。彼が何か料理を作れと女に言い、女はそれをせせら笑って無視したのだ。
「おれの神戸時代の親友なんだよ」と彼は言った。
「それがどうしたのよ」と女が言った。
 彼女はずっと笑っていた。それはとても変な笑い方だった。結城を馬鹿にしてると同時に自分を嘲ってるような⋯⋯。
「何もいらないよ」とぼくは彼らに言った。「おなかはすいてないんだ」
 それは嘘だった。ぼくはおなかがぺこぺこだった。昼間から歩き通しだったから、何も食べていなかったのだ。でも、それはどうでもいいことだった。ぼくはあの死後の世界みたいな高速道路の下の袋小路から無事に抜け出せただけでほっとしていた。しかも途中で道連れに出会うなんて、奇跡みたいなものだった。それだけで十分ありがたかったのだ。

 ぼくらは居間で結城がいれてくれた紅茶を飲んだ。
 部屋はとても広くて、板張りの床の上にきれいな茶色の木目のグランドピアノが置いてあった。ぼくはピアノの前に座り、いくつか曲の断片を弾いた。『星影のステラ』『嘘は罪』『水辺にたたずみ』『柳よ泣いておくれ』⋯⋯
「懐かしいな」と結城がまた言った。
「うん」とぼくは言った。「でも、きみがピアノを弾くとは思わなかったな」
「小学校のときおふくろに習わされたんだ」と彼は言った。「総愛学院にいた頃は全然弾かなかったけど、大学に入ってまたやり始めてね」
「そうか」とぼくは言った。
 ぼくの知ってる結城はサッカーと体操とテニスとバスケットボールのクラブを掛け持ちする少年だった。どのスポーツも全然うまくなかったが、音楽とはもっと無縁なタイプだった。
「今でも八重山が夢に出てくるんだ」と結城が言った。
「八重山が?」ぼくはそうきき返しながら心臓がピクピク震えるのを感じた。
 なぜだろう?
「八重山が夢に出てきて、笑いながらピアノを弾くんだ。あの傷だらけの頭で」
 八重山はぼくらの同級生で、総愛学院のピアニストだった。子供の頃からコンクールで何度も優勝していたし、一九六八年には神戸のジャズ喫茶で演奏していた。
「『クライスレリアーナ』弾ける?」とぼくが言った。
「無理だな」と結城。
 それでも彼はつっかえながら『クライスレリアーナ』を少し弾いてくれた。このシューマンのピアノ組曲は八重山の十八番のひとつだった。もう二度と聴けない名演奏⋯⋯。

「あ〜あ」と女がソファの上で退屈そうな声を上げた。
「どうしたんだ?」と結城がきいた。
「つまんない」と女が答えた。
 彼女はソファに横になってだらしなくビデオを見ていた。濃いブルーにピンクの縁取りのあるワンピースが皺くちゃになり、裾が大きくまくれ上がっていた。テレビには白い大きなお尻が映っていた。茶色の枯れ草の中で強い光に照らし出されたお尻が震えていた。
 それはテレビ番組じゃなかった。画面の暗さから見て、明らかに家庭用ビデオで撮影されたものだった。ぼくはグランドピアノにもたれたまま結城の顔を見た。彼もぼくの顔を見て微かに笑った。とても弱々しい笑いだった。
 それから結城はテレビのところへ行ってスイッチを切り、不機嫌そうに女のそばに座った。そのテレビに映ったお尻が何なのか、説明は全くなかった。
「おなかすいた」と女が子供みたいに言った。
「何か買ってくるよ」と結城はぼくに言った。
 結城がいなくなると、女はすぐにまたテレビのスイッチを入れた。同じ白い大きなお尻が現れた。桃みたいにきれいなお尻だった。背景はすみれ色の闇で、遠くに石油コンビナートのオレンジ色の炎が揺れていた。
「それ誰なの?」とぼくはきいた。
 彼女は答えなかった。ソファに寝そべったまま頬杖をつき、つまらなそうに画面を見ていた。ぼくは手持ち無沙太なので、ピアノの前に座ってまた少しやさしい曲を弾いた。
「あなた、わたしのことわざと無視しようとしたでしょ?」突然女が状態を起こしてぼくに言った。顔は笑っているのに、変に人を咎めるような言い方だった。
「いつ?」とぼくは言った。「そんなことないよ」
「わたしのこと気になる?」
「もちろん」
「どうして?」
「若い女の子だからさ」とぼく。「わりと可愛いし」
 彼女は「ふん」と息で笑うと、ぼくから眼をそらしてまたテレビの画面に見入った。スカートの裾がずり上がって、腿の付け根まで丸見えだった。白くて柔らかそうな腿だった。彼女はこの寒い日にパンティストッキングをはいていなかった。
「これ、もしかしたらきみなの?」とぼくはきいた。
「最初からわかってたくせに」彼女は鼻の奥で笑った。「あなたのお友達は変態なのよ。知ってた?」
 彼女はソファの上で起き上ると、結城のことを糞味噌に言った。臆病で、気位が高くて、心の狭い変態だと。彼は日曜日に彼女を連れ出しては横浜や川崎の工場地帯のあちこちでビデオを撮影しているのだった。空き地の草叢やがらんとした工場の敷地や誰もいない高速道路の下で、彼女のお尻を。
「おかしい?」と彼女はきいた。
 ぼくが話を聞きながら、彼女の真似をして鼻で笑ったからだ。
「きみはこういうことするの嫌いなの?」とぼくは言った。
「別に」と彼女は言い、不機嫌そうにぼくをちらっと見た。
「いやじゃないなら別にいいじゃない」
 彼女はまた「ふん」と笑った。それから、
「そういう問題じゃないのよ」と言った。
 ぼくはもうそれ以上彼女と喋る気がしなかったので、ピアノで曲の断片を弾き続けた。

 結城は戻ってくると、部屋のドアのところに立ってしばらくぼくらを見ていた。ピアノの前に座っているぼくと、ソファに寝転んでいる彼女と。特に彼女のまくれ上がったスカートをじろじろ見た。それから台所のほうへ、買ってきた食料の袋を運んだ。
 彼は一人で料理を作った。ぼくは食器を出すのを手伝ったが、女はソファの上に寝転がったまま、皿一枚運ぼうとしなかった。ぼくらはソファの横にある食事用のテーブルについて食事を始めた。結城が作った食事はひどくまずかった。かじきまぐろのステーキにスクランブルドエッグ、パックに入ったポテトサラダ、インスタントのコーンポタージュ、パサパサのパン⋯⋯。それでもぼくはガツガツ食べた。飢え死にしそうだったのだ。食事の間、テレビはずっとついていた。石油コンビナートと運河を背景に、女の下半身が映っていた。寒さでピンク色になったおなかや太腿、砂漠の枯れ草みたいに風に揺れている陰毛⋯⋯。結城はときどき画面を横目で見ながら、ぼくと総愛学院の思い出話をした。女はずっと画面を見つめていた。
「テレビを消せ」と結城が女に言った。
「やだ」と女が画面を見つめたまま言った。
 結城は突然立ち上がり、テレビのところに行って乱暴にスイッチを切った。女は跳ねるように椅子から飛び出していってスイッチを入れた。結城がまた切ろうとすると、平手で彼の耳のあたりをぶん殴った。結城も平手で彼女の顔をぶった。
 それからしばらく二人は黙って睨み合っていた。
「そろそろ失礼するよ」とぼくは言った。
「それはないだろ」と結城が言った。「せっかく会えたんだ。もっと昔の話をしようぜ」
「また今度ね」と言いながらぼくはコートを着た。
「わたしも帰る」と女が言い、ぼくの横でコートを着た。
「勝手にしろ」と結城は言い、不貞腐れてソファに横になった。それからぼくに「その女おまえにやるよ」と言った。
「偉そうに」女が鼻で笑った。

 タクシーが拾える通りまでかなりの距離を歩かなければならなかった。
「家はどこ?」とぼくは彼女にきいた。コースから外れていなければ送ってやろうと思ったのだ。
「教えない」彼女はくすっと笑った。
 ぼくはちょっとむっとした。さっきの結城のマンションですでに感じていたことだが、はっきり言って彼女はいやな女だった。だからぼくはタクシーを止めると、挨拶もしないでさっさと乗り込んだ。運転手はドアを開けたまましばらく待っていた。彼女が乗り込むものと思ったのだろう。
「いいんだ」とぼくは言った。「車を出してくれよ」
「だめですよ」
 運転手は軽く咳払いして、前を向いたまま後ろの開いてるドアを指さした。外で彼女がドアを押さえていた。あいてるほうの手で彼女は長い髪をしきりに掻き上げていた。目を伏せて、せわしなく唇を舐めながら、何かしきりに考え込んでるような感じだった。それから強ばったからだを座席に押し込むように乗り込んできた。
「少しはうれしそうな顔したっていいじゃない」車が走り出してから彼女は言った。
 ぼくは黙っていた。
「ずいぶん勇気がいったのよ」彼女はぼくの左腕を掴んだ。それから頭をぼくの肩に乗せてきた。
「送っていくのはごめんだよ」とぼくは前を見たまま言った。
「いいわよ」彼女は笑った。「あなたの家で降りるから」

 ぼくの住まいは東京港を見下ろす四十階建てのマンションの三十六階にある大きなワンルームだった。夜の黒い海と宝石をぶちまけたような東京の夜景が、大きな窓のむこうに広がっていた。
「暗いわね」と彼女は言った。
 部屋の中は小さなライトをいくつかつけているだけだった。
「夜景を楽しみたいんだよ」とぼくは言い、シャワーを浴びに浴室に行った。
 部屋に戻ってくると、彼女は窓際のソファで煙草を吸っていた。大きなスープ皿を勝手に灰皿に使っていた。
「奥さんいないの?」
「御覧の通りさ」ぼくは床が一段高くなったところにあるベッドに腰掛けて言った。
「そうだと思ったわ」彼女はまた笑った。
「そうかい」
 ぼくはさっさとパジャマに着替えてベッドに潜り込んだ。ひどく疲れていて、全身が茹でたソーセージになったみたいだった。
「シャワー浴びていい?」と彼女がきいた。
「どうぞ」ぼくは目をつぶったまま言った。
 彼女はカサカサ音をたてながら服を脱いだ。しばらくすると洗面所のほうで引き出しを乱暴に開ける音が聞こえた。目を開けると、ソファやテーブルの上に服や下着が散らばっていた。ベージュのパンティが裏返しになって床に落ちていた。ぼくはベッドから這い出していって、服を全部畳んでソファの上に重ねた。部屋の中が散らかっていると我慢できない性分なのだ。最後にパンティを拾うと、股のところが黄色く汚れていた。ぼくはそれを重ねた服のてっぺんにそのまま乗せた。ベッドに戻ってもう一度ソファのほうを見ると、深海のような闇の中で、天井の小さなライトに照らされて、黄色く汚れたパンティが博物館の展示物みたいに輝いていた。
「なによ、冷たいじゃない」そう言いながら彼女がベッドに潜り込んできたのは、ぼくがようやく眠りに落ちようとしているときだった。
 彼女のからだはひどく冷たかった。水でシャワーを浴びたんだろうか? 彼女は湿ったからだをくっつけてきた。
「わたしを忘れたの?」
「忘れるわけないだろ」とぼくは言った。
「やっぱり忘れたんだ」と彼女は言った。
「明日は仕事?」とぼくはきいた。
「うん」
 彼女は結城の会社で受け付けをやっていた。職場はすぐ目と鼻の先だ。それは問題ない。でも日曜日と同じ服で出社するのはどういうもんだろう? 結城が見たらいやな思いをするかもしれない。たしかに彼は「その女おまえにやるよ」と言ったのだが、だからといって彼がショックを受けないとは限らない。
 でも、まあいいや。
 結城とはこの二十年間まるでつきあいがなかったんだし、これからも会わないようにすればいいのだ。
 やれやれ。

「あなた、仕事は何してるの?」と彼女がきいた。
「広告とかパンフレットの原稿書き」とぼくは言った。
「一応初志貫徹してるわけね」
「何が?」
「小説は書いてないの?」
「書いてないよ。仕事が忙しくてね」
 この女、いつまで喋り続けるつもりだろうとぼくは考えた。寝不足のまま会社に出て平気なんだろうか? 多分平気なんだろう。ぼくよりかなり若いのだ。問題は寝不足よりも、彼女がうんこだかおしっこだかで黄色くなったパンティをまたはいて会社に行くのかどうかだ。
「ねえ、寝ちゃったの?」彼女がぼくの肩を揺すった。
「寝てないよ」彼女に背中を向けたままぼくは呟いた。
「どうしてあなたが小説書いてること知ってるのか、不思議に思わない?」
 思わない、とぼくは頭の中で言った。もう眠くて口が動かなかった。
「わたしの名前は何?」彼女はぼくの耳を引っ張った。
「聞いてないよ」とぼくは囁いた。
「嘘」彼女はぼくの耳を噛んだ。「最初に彼がちゃんと紹介したじゃない。ノリコって」
「そうだったかな?」
「わたしはあなたを覚えてたわ」
「ノリコ⋯⋯」とぼくは呟いた。
「昔あなたの家に泊りに行ったわ、お姉ちゃんと」
「お姉ちゃん⋯⋯」とぼくは繰り返した。「マリコ⋯⋯」
「ファミリー・キャンプ」とノリコが言った。
 ぼくはベッドの上で跳ね起きた。毛布がぼくの肩の上で持ち上がり、彼女のからだがシーツの上で魚みたいに跳ねた。
「きみはマリコの妹だ」とぼくは言った。
「やっとわかったの?」
「マリコはどうしてる?」
「死んだわ」
「何だって?」
「嘘よ。元気にしてるわ」
「どこにいる?」
「会いたい?」
「会いたい。彼女はぼくの人生で唯一結婚すべきだった女なんだ」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
「お姉ちゃんに最後に会ったのはいつ?」
「わからない。たぶん高校のときだよ」
「二十年近く前じゃない。あれからお姉ちゃんはずいぶん変わったわ。わたしも変わったし」
「きみはあのときまだ小学生だった」
「あなたはちっとも変わってないのね。すぐわかったわ」
「マリコはどうしてる?」
「結婚して子供がいるわ」ノリコはまたくすっと笑った。
「そうか」
 柔らかく太ったマリコが校外の家の庭で子供たちと遊んでるところが目に浮かんだ。柔らかいからだ、柔らかい日差し、柔らかい風、柔らかい子供たち⋯⋯。彼女には幸せになる権利があるとぼくは思った。マリコは小学校時代の同級生だった。大きなおっぱいと大きなお尻をしていた。一九六八年の春、彼女は聖書女学院の先輩に恋していた。彼女の恋は報われなかった。彼女はぼくと仲良しだった。うちの家族が庭にテントを張ってキャンプ生活をしていたとき、ノリコを連れてよく泊まりに来た。ぼくの書いた小説を何度も清書してくれた。赤ん坊を見るととろけそうになった。
「だめよ、過去ばかり振り返ってちゃ」とノリコが言った。
「過去じゃないよ」とぼく。「あれは永遠なんだ」
「あのときわたし、自分が子供だってことに腹を立ててたわ」彼女はぼくの腕を掴んで強く引っ張った。ぼくはベッドの上で腹ばいになった。「わたしはあなたに追いつきたかったのよ」と彼女はぼくの肩に顎を乗せながら言った。
「マリコはぼくに会いたがらないだろうな」
「わたしが大人になったとき、あなたはもう神戸にいなかったわ」
「マリコはすっかり変わっちゃったかな?」
「東京であなたを捜してるうちに、何人か総愛学院の卒業生に会ったけど、誰もあなたがどこでどうしてるか知らなかったわ」
「ぼくはシベリアにいたんだ」
「シベリア?」
「スイスにもいた」
「スイス?」
「スイスは自由を愛し、ぼくもまた自由を愛する。ぼくはスイスだ」
「あなた頭おかしいんじゃない?」
「マリコに会わせてくれよ」
「だめ」
「彼女に迷惑はかけないよ。ちょっと話をするだけでいいんだ」
「いやよ」
「遠くから見るだけでもいいよ」
「せっかくあなたを手に入れたと思ったのに」
「何だって?」
 ノリコは急に起き上がった。東京湾とそのむこうの街を見下ろす大きな窓に近づき、振り返ってぼくを見た。まぶしい宝石の輝きを背にした彼女のからだは黒い影になって見えた。それがあのノリコだという実感はどうしても湧いてこなかった。マリコに連れられて遊びに来た、小さくて痩せっぽちの小学生。マリコと色違いのビキニを着て水浴びをしていた彼女。ぼくはノリコの顔が思い出せなかった。その夜会ったノリコの顔からは、あのときのマリコの妹のノリコの顔は浮かんでこなかった。
 彼女は黒い影のからだを宝石の光でかすかに光らせながら下着をつけ始めた。黄色く汚れたパンティもそのままはいてしまった。
「お姉ちゃんが結婚してるっていうのは嘘よ」服を着ながらノリコが言った。
「何だって?」とぼく。
「離婚したの。子供はいないわ」
 ぼくはベッドの上で起き上がった。
「じゃあ、ぼくと結婚しようと伝えてくれ」
「あなた頭おかしいんじゃない?」と彼女はまた言った。「お姉ちゃんには恋人がいるのよ」
「どんなやつだ?」
「大きな会社の社長よ。お姉ちゃんは秘書をしてるの」
「秘書兼愛人てわけだ」とぼくは言った。


.
shu*i*ha*a
shu*i*ha*a
男性 / B型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事