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ぼくはリッキーを責めるべきだったんだろうか? 妻のジェーンを悲しませたことで?一の宮ミチコと何となく変なことをしていたことで?あれが本当は何だったのか、結局のところわからずじまいだった。リッキーは、あのときミチコと何をしていたのか、何をするつもりだったのか、そしてぼくらが行ってしまった後で実際に何をしたのか、一切話そうとしなかった。ぼくもまた、何もきかなかった。よくわからないまま確かめようがなくなってしまう謎というのがある。今ではこれも確かめようがない。二十年も時がたってしまったし、当人たちはもういない。どうしてあのとき確かめておかなかったのか、今では不思議でしかたないが、あのときはそんな風には考えなかった。たぶん一九六八年には気になることがほかにたくさんあったのだ。
ぼくとリッキーは相変わらず二人で釣りに出掛け、池のほとりで魚を焼いて食べたり、リッキーが自分の詩を朗読したり、ぼくが 新しく書いた"A Tale Of A Little Thief"の一章を読んで、リッキーに直してもらったりしていた。
「おれが詩を書きだしたのは十五のときだったよ」と彼は言った。
ぼくが彼にどうして詩を書きだしたのかときいたのだ。
「アメリカを発見したかったんだ。つまりおれがどこにどうやって生きてるのかをね」
「アメリカは発見された?」
「ああ、少しはね。でも、おれがアメリカを発見したのは二十九のときさ」
「どうやって発見したの?」
「結局のところおれは自分を発見したんだよ。おれが何者なのかをね」
「リッキーは何者だったの?」
「おれは鰻みたいなやつだったよ。おれはアメリカに首根っこをおさえられるたびに、するりと抜け出したのさ」
「ふうん」とぼくは言った。
「世の中がおまえに言い聞かせようとする真面目くさったことを本気にしないことだよ。そうすればおまえは日本を発見できるよ」
「ふうん」とぼくは言った。「ぼくは日本を発見する⋯⋯」
「でも、目をそむけちゃいけないよ。誰かがおまえに突きつけてくる真面目腐ったことをそっくりそのまま別の言葉に置き換えるんだ。それがおれの逃げ方なんだ」
「ふうん」
ぼくはそのとき彼が言ってることを全然理解できなかった。それがぼくを悲しくさせる。彼は理解してくれる相棒を必要としていたのだ。彼は素朴で弱い人間だった。どんなことにもたやすく打ちのめされてしまうところがあった。でも、ぼくは彼のそんなところがまるで目に入らなかった。ぼくは彼の相棒になるには子供すぎたのだ。ぼくは彼をへら鹿みたいに悠然と自然の中で生きてる根っからの野生児だと思い込んでいた。そんなへら鹿みたいなやつがどうして詩を書かなきゃいけないのかなんて考えもしなかった。
いやはや⋯⋯。
ある日、コットンキャンディマンがやってきて、
「ベイビー、元気かい?」と言った。
「ぼくは赤ん坊じゃないって言ったろ」とぼく。
「悪かったな、ベイビー。今度から気をつけるよ、ベイビー」と彼は言った。「でも、今日は友達を連れてきたんだぜ、ベイビー」
彼は二人の大男を従えていた。どちらも金髪を短く刈り上げた、二十歳そこそこの若造だった。
「ヨロシク」と大男たちはぎこちない日本語で言い、ぼくと握手した。リッキーとも握手しようとしたが、急に顔を赤くして二人で顔を見合わせたかと思うと、途中で手をひっこめてしまった。
「ヘイ、マン」とコットンキャンディマンはリッキーに言った。「この二人はおまえのファンなんだってよ」
二人の若者はなんとか笑おうとした。リッキーは草の上に寝そべったまま、握手のかわりに軽く手を挙げて指先をゆらした。それからヒゲの下の唇をちょっと歪めて笑った。赤ん坊みたいな笑い。ぼくらが大好きな笑いだった。彼の笑顔を見たら誰でも好きにならずにいられなかった。
それから若者とリッキーは崩れた英語で喋り始めた。
どこから来たんだい?
日本で何をしてる?
アメリカじゃどんなことが起こってる?
といったようなことをリッキーがたずね、二人が答えていた。
アメリカ人がアメリカのことを喋ってる間に、コットンキャンディマンがぼくに言った
。「ベイビー、おれのファンキーな友達の言うところによると、あのふるちん野郎はロサンゼルスじゃ有名な詩人なんだってよ」
「ああ、知ってるよ」とぼくはやや得意になって言った。
「ベイビー、そりゃ、あのふりちん野郎が自分でそう言っただけだろ。何かの間違いじゃないかな。あんなふるちん野郎が詩人だなんて信じられるかい、ベイビー?」
その頃リッキーはまだ日本で全然知られていなかった。彼の詩集が最初に翻訳されたのは一九七五年のことだ。でもアメリカ西海岸では違っていた。一九六八年にはもうすでに彼は伝説の詩人だった。
「リッキーにはアメリカを受け入れる力があるんだ」とぼくは言った。「彼はあるがままのアメリカを、誰にもできないようなピュアなかたちで発見したんだよ」
ぼくはリッキーと二人の若造のほうをちらっと見た。何か妙な感じがした。それが何なのかはすぐにわからなかった。彼らはごく普通に話しているように見えたからだ。しかし何度目かに彼らを見たとき、ぼくは何が奇妙なのかわかった。二人ともカーキ色の半ズボンをはいていたが、その下腹あたりが大きく盛り上がっていたのだ。
「あいつら何か変だよ」とぼくはコットンキャンディマンに言った。
「大目に見てやってくれよ」と彼は声を潜めていった。「やつらはベトナムから逃げてきたんだ。ちょっと神経が参ってるのさ」
「ふうん」とぼくは言った。
ぼくはコットンキャンディマンのために、頭に入っているリッキーの詩のひとつを即興
で翻訳してやった。かなりいい加減な訳だったと思う。もうすっかり忘れてしまったが、
それは大体こんな内容の詩だった。
あるときぼくはコンクリートの川のかたちをしたアメリカに出会った。
やあ、こんちは、川のかたちをしたアメリカさん、とぼくは言った。
コンクリートの川には鋼鉄の川鱒がたくさん泳いでいた。
坊や、ここで釣ったってなんにもとれやしないよ、
と川のかたちをしたアメリカが言った。
そうかなあ、とぼくは言い、ありあわせの釣り竿から釣り糸を垂らした。
鋼鉄製の川鱒はどんどん釣れた。
ブリキのバケツの中で、大きなできたてのネジみたいに、
鋼鉄製の川鱒はピンピンはねた。
けっこう生きがいいみたいですよ、とぼくは言った。
ふん、そんなことわしゃ知らんよ、
と川のかたちをしたコンクリートのアメリカは答えた。
「なんだ、その変てこな詩は」とコットンキャンディマンは言った。「そりゃ、ベイビー、おまえが今いい加減にこしらえたんじゃないのかい?」
そうだったかもしれない。今ではよくわからない。なんせ、二十年も前のことなのだ。
「とにかくおれは、ディランやジミの書く詩のほうが好きだね」と彼はつけ加え、『オール・アロング・ザウォッチタワー』を口ずさみだした。
そのときリッキーと二人のアメリカの若造の間にもっと奇妙なことが起こっていた。
若造たちは真っ赤な顔をしてリッキーを殴りつけていた。リッキーも華奢なほうじゃなかったが、若造たちは二メートル近くもある大男だった。彼らは丸太みたいな腕で彼を殴り倒すと、彼の顔に唾を吐いて、顔を引きつらせながら行ってしまった。コットンキャンディマンは慌てて彼らの後を追いかけた。
「どうしたの?」ぼくはリッキーを抱き起こした。
「何でもないよ」と彼は言った。鼻から血が流れていた。彼は撃たれた駝鳥みたいに震えていた。「何でもないんだよ」と彼はもう一度言った。
もっと変だったのは、その後リッキーが二人組と桃畑で顔を合わせるたびに、何もなかったみたいに雑談していたことだ。ぼくはわけがわからなかった。誰も何も説明してくれなかった。ぼくはまだ子供だったから、大人たちが説明してくれるのが当然だと思っていた。だから彼らは何か隠してるのだとぼくは考えていた。今でもこれが何だったのかはさっぱりわからないが、一つだけ悟ったことがある。あのときは彼らも、つまり殴った若造の二人組も殴られたリッキーも、何が何だかわからなかったのだ。
変なの。
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ぼくらはよく犬を食べるようになった。ミチコがみんなに熱心に勧めたからだ。それに聖書女学院の農園の豚や羊は、あまりにも数が少なかったので、すでに底をついてしまっていた。その点、犬はどこにでもいた。そこらの道端に、ゴルフ場や山の中に、そして住宅街のあらゆる庭に⋯⋯。
もちろんぼくらは野良犬を優先的に捕まえていた。ちゃんと保健所から感謝状ももらった。一九六八年にはいたる所に野良犬がいて、子供を襲っていたからだ。犬殺しのプロはいつのまにか姿を消していた。
犬取りと呼ばれる犬殺しのプロはぼくらが小学生の頃はどこにでもいた。彼らは人の家の庭にまで入ってきて飼い犬を捕まえていった。肉は缶詰工場やハム工場に売り、毛皮は三味線屋に売っていた。安い三味線の皮は猫ではなく犬からとるのがその頃の常識だった。しかし、時代は変わっていた。犬入りの安い缶詰やハムは売れなくなっていた。三味線も流行らなくなっていた。だから犬取りは商売ができなくなり、野良犬はふえる一方だった。野良犬の一部は山に入り、徒党を組み、半分野生化して、ゴルファーやハイカーたちを襲っていた。
野良犬狩りにはいろんな方法があった。一の宮ミチコとバスケットボール部員の中の勇敢な女の子たちは主に素手で犬を組み伏せ、登山ナイフで喉を切るという捕まえ方をしていた。ヒッピーたちは針金で罠をしかけていた。脱走兵の二人組は拳銃を持っていて、それで大きな犬を撃った。
犬の解体から料理まで、みんな自分たちでやっていた。動物の解体なんて経験のあるやつは一人もいなかったが、けっこうやってるうちに慣れてくるのだ。肉は料理に使い、毛皮は薬品処理をしてテントの中に敷いた。毛皮の処理は恐ろしくいやな臭いがしたが、肉のほうは案外うまかった。犬の種類によってまずいのもいたが、食べられないほどひどいのはいなかった。
たしかに野良犬より飼い犬のほうがうまかったのは事実だ。飼い犬は栄養がいいからだ。でもそれはぼくらが飼い犬を食べていたということじゃない。ぼくらが食べていたのは、まだ首輪が新しい野良犬、逃げ出してからあまり時間がたっていない新米の野良犬だ。ときにはその犬を食べてるときに、飼い主が探しに来たりすることがあった。
「わりと大きいオールドシープドッグなんですけど」と飼い主のおばさんが言う。「ほら、毛のふさふさした、目が隠れちゃって見えないやつ」
「誰か見た?」とミチコがバスケットボール部員たちを見回しながら言う。手にはオールドシープドッグのシチューが一杯入った器を持っている。
部員たちは黙って首を横に振る。彼女たちの後ろには剥いだばかりの毛皮が、水を張った木桶の中に漬けてある。
「見なかったわよね」とミチコはもう一度確認してから、聖書女学院独特のお嬢さん言葉でおばさんに言う。「残念ですけど、誰も見てないようですわ」
「見かけたら連絡してもらえるかしら?」おばさんは疑わしげな目で彼女たちをじろじろ見ながら住所と電話番号と名前を書いたメモを渡す。
「ええ、喜んで」ミチコは聖書女学院特有の上品で優雅な笑顔を見せながら言う。「きっと真っ先にお知らせしますわ」
ヒッピーたちも犬を盗まないというルールは守っていた。遠山恵の家のスピッツを食べてしまったのは彼らだったが、それは犬が彼らのところへ遊びにやってきたからだ。桃畑に面した家の垣根は取り払われていたから、犬たちは自由に農園に入ってきた。遠山家のスピッツもヒッピーたちのところに遊びに来ていた。
「これは逃げ出したんだよな」とあるときヒッピーの一人が言った。
「もちろんさ」と別のヒッピーが言った。
「こういう犬は食っても平気だよな」とまた別のヒッピーが言った。
「もちろんエニタイム、オーケーさ」とコットンキャンディマンが言った。
そこで腹が減っていた彼らはスピッツを昼のご飯にしてしまった。
食べてしまってから遠山恵が犬を探しにやってきた。
「うちのビッキー見なかった?」と彼女はきいた。
「リッキーなら釣りに行ったよ」とヒッピーの一人が言った。
「リッキーじゃなくてビッキーよ」と彼女は言った。
ヒッピーたちは顔を見合わせた。彼らはばつの悪い思いをしていた。彼らはスピッツが遠山家のビッキーだということを知っていて食べてしまったのだ。食べてしまうまではあまりに腹が減っていたので、これは遠山家のビッキーじゃないかもしれない、スピッツなんてどこにでもいるじゃないかといった言い訳を心の中で繰り返していたのだが、腹が一杯になってみると弁解の余地はないように思えた。
遠山恵はすぐに草の上に広げてあるビッキーの毛皮を見つけてしまった。まだ生のままの皮で、舌を垂らした首がそっくりついていた。ヒッピーたちは腹が減っていて、毛皮の処理まで手が回らなかったのだ。
「あなたたち、ビッキーを食べたのね」彼女は声をふるわせながら言った。
「これはビッキーじゃないよ、ハニー」とコットンキャンディマンが言った「スピッツなんて、みんな同じ顔してるじゃないか。そうだろ、ハニー?」。
「そのハニーって言い方やめてくれない?」と彼女は言った。コットンキャンディマンは聖書女学院の女の子全員に《ハニー》と呼び掛けていた。ぼくに《ベイビー》と言い、リッキーやその他大人の男たちに《ヘイ、マン》と言ったように。
「わかったよ、ハニー」と彼は言った。「今度から気をつけるよ、ハニー」
「あなた手に何持ってるの?」彼女はコットンキャンディマンが後ろ手に何か隠し持っているのを見つけて言った。
「なんでもないよ、ハニー」と彼は後ずさりながら言った。「おれは犬の首輪なんか持ってないよ、ハニー」
彼女は素早く彼の腕を掴んで、隠し持っているものをひったくった。それはまさしくビッキーの首輪と鎖だった。
「ハニー、信じておくれよ」とコットンキャンディマンは弁解した。「これは犬の鎖と首輪に似てるけど、ほんとはヒンズー教の儀式で使う道具なんだ。ブラフマーを讃えるための」
遠山恵はコットンキャンディマンにそれ以上言わせなかった。彼に思い切り平手打ちを食わせると、鎖を引きずりながらさっさと行ってしまった。あとにはすごく気まずい空気が残った。ヒッピーたちはビッキーを食べてしまったことを恥じていたし、コットンキャンディマンはそれに輪をかけて下らない嘘の言い訳をしようとしたことを恥じていた。
「おれはブルシットだよ、まったく」と彼は首を振りながら言った。「ヒンズー教の儀式で使う道具だなんて」
それでもコットンキャンディマンは遠山恵と仲直りすることができたらしい。しばらくの間、彼は彼女が桃畑を通るたびに、
「ハニー、許してくれよ。悪気はなかったんだよ、ハニー」と言いながら彼女の後をくっついていった。
彼女は学校へ行くときは近道になるので桃畑を通り抜けることにしていたのだが、ビッキーが殺されてからもその習慣を変えようとしなかった。だから毎日のようにコットンキャンディマンにつきまとわれることになった。
「彼女はコットンキャンディマンにつきまとわれるのが好きなのよ」とマリコがぼくに言った。
「まさか。あんなにつんけんしてるじゃないか」とぼくは言った。
「あなたは女の子の気持がわかってないわね」と彼女。
そうだ。ぼくはあのとき何ひとつわかっちゃいなかった。
遠山恵がコットンキャンディマンに好意を持っているとはっきりわかったのは、森の中で彼らを見かけたときだ。薄紫の花が一杯に咲いている桐の木にもたれて彼らはキスをしていた。ぼくはマリコやその他のバスケットボール部の中学生たちと野良犬の群れを探している最中だった。少女たちの一人が、「ウー、ワンと犬の声を真似して唸ったので、二人はぼくらに気づいた。
「ベイビー」とコットンキャンディマンがうれしそうに言った。「そんなに大勢女の子を連れてどこへ行くんだい? おれは一人だけでもうへとへとだぜ、ベイビー」
そういう下品な冗談が嫌いだった遠山恵は彼の頬っぺたにビンタを食わせた。彼はまたこっちを向いて照れ笑いした。
「ベイビー、おれは女のビンタが大好きだよ。気分がしゃきっとするもんな」
「このあたりで犬を見なかった?」とマリコが言った。「晩ご飯に犬が足りないの」
コットンキャンディマンはちょっと慌てて「シーッ!」と言いながら、唇に人さし指を当てた。遠山恵の前で犬を食べる話はタブーだったのだ。
「わたしたちも犬を探してるのよ」遠山恵はわりと陽気に笑いながら言った。「ビッキーの代わりになるスピッツがほしいから」
「オーケー」とぼくは言った。「スピッツを見かけたら食べないで捕まえとくよ」
「お願いするわ」と彼女は言った。
「それからシスターたちに会ったら、きみが森の中でヒッピーとセックスしてたって告げ口してやるよ」そう言ってぼくは笑った。
「しようがないわね」と彼女も笑った。「でも、まだキスしただけよ」
「でも、どうせやるんだろ?」
「さあね」
森の奥の草地でぼくらは大きな犬の群れを見つけた。大小とり混ぜて五十匹はいた。
「こりゃ大漁だな」とぼくは言った。
「だめよ。こっちの人数が足りないわ」とマリコが言った。
「わかってるさ」
ぼくらは十人足らずしかいなかった。そのうち登山ナイフを持っているのはぼくとマリコとあと二三人だった。ほかの女の子たちはみんな年下で、ただ散歩ついでにくっついてきたのだ。犬の群れは草の上に固まって日向ぼっこをしていた。ボスらしい黒くて大きなシェパードのまわりに雑多な雌犬が数匹うずくまっていた。あとは舌を垂らしてぼんやり森を眺めたり、自分の毛をなめたり、セックスしたりしていた。
ぼくは一年生の少女の一人にミチコを呼んでくるように言った。
「いいかい、犬は五十匹いるって言うんだ。五十匹だよ。ぼくらは登山ナイフを持ってるのが五人しかいない。そう報告するんだ。あとは彼女にまかせればいい」
少女はもじもじしていた。
「どうした? 早く行ってくれよ」
「一人じゃいやよ」と彼女は言った。
「わたしがついてくわ」とマリコが言った。
「きみはだめだよ」とぼく。「武器を持ってる人は残らなきゃ」
「二人きりにしてあげようか?」マリコの同級生がからかった。
彼女たちの間でぼくとマリコはすっかりできてるという噂だった。
「ぼくが一人で行ってくるよ」
「無理しちゃって」彼女たちが一斉に笑った。
ぼくはマリコに自分の登山ナイフを渡そうとした。
「持ってなきゃだめよ」と彼女は言った。「危ないから」
少女たちは興奮してキャーキャー叫んだ。
「すごい恋人思い」と一人が言った。
「ワウー、ワウワウワウワウワウー」と何人かが犬の真似をして吠えた。
「よせよ」とぼくは言った。
草地で犬たちが首を起こしてこっちを見ていた。
「仲間を呼んでくるまでおとなしくしてるんだ。下手に刺激するとやられるぜ」
ぼくは森の中でまたコットンキャンディマンに会った。彼は一人で走っていた。
「ベイビー、女の子たちはどうした?」と彼は言った。
「犬の大群がいるんだ」ぼくはかいつまんで事情を話した。
「スピッツはいたかい?」
「いや、その中にはいなかったよ」
「おれたちはスピッツが何匹かいる大群を見つけたんだ。それでハニーはすっかり興奮しちまって、捕まえると言ってきかないんだよ、ベイビー」
遠山恵は一人で犬を見張っているらしかった。コットンキャンディマンはぼくらに加勢を頼もうと思ってやってきたのだろう。
ぼくは第二の大群がいる場所を彼から聞くと、あとで行くからと約束して彼を遠山恵のところに帰し、一人で桃畑に走った。陽が翳って森の中が心持ち暗くなったような気がした。木立ちの中を犬が数匹、ぼくと同じ方向に走っているのが見えた。なんだか変な予感がした。
ぼくはかなりの人数を連れて森へ引き返した。ヒッピーたち、バスケットボール部の高校生たち、リッキー、ベトナムからの脱走兵たち、それからぼくの兄⋯⋯。ミチコは先頭に立っていた。リッキーはそのすぐ後ろをぼくと並んで走った。兄は読書の邪魔をされたのであまり機嫌がよくなかったが、それでも走っている最中にぼくのそばに寄ってきて、荻生徂徠とその弟子たちは元禄時代に中国語で会話していたらしいといったようなことをぼくに耳打ちした。
「それから彼らは孔子の時代の言葉で書くこともできたんだ。春秋戦国時代の文体で」
「ああそうかい」とぼくは言った。
ぼくは何匹かの犬がさっきと同じように、かなり距離を置いてついてきているのに気づいていた。犬はときどき見えなくなったが、しばらくするとまたちゃんと現れた。
「いやな感じだ」とぼくは言った。
誰もそれに答えなかった。遠くで犬の鳴き声がした。
ぼくが犬の群れとマリコたちを残してきた森の中の草地には誰もいなかった。
「場所を間違ってない?」とミチコがきいた。
「そんなわけないよ」とぼくは言った。その森はぼくらが毎日歩き回っていた森だった。
さらに森の奥に入っていくと、中学一年生の女の子が立っていた。大きな木にもたれかかってぼんやりこっちを見ていた。
「みんなは?」とミチコがきいた。
「犬が襲ってきたの」とその子は言った。すっかり怯えている様子だった。細い脚に少し血がついていた。
「みんなは?」とミチコがもう一度きいた。
「わからない。たぶんもっと奥よ」
ぼくらは彼女が指さしたほうに進んでいった。途中に一人、また一人と女の子が倒れていた。最初の子は気絶していたが、怪我はしていなかった。
「どうしたの?」ぼくが彼女を助け起こしてきいた。
「わからない」と彼女が言った。「犬が急に襲ってきたから必死で逃げたの」
二人目の子はぼくらが抱き起こそうとすると、自分で起き上がって笑った。
「死んだふりしてたの」と彼女は言った。
マリコと残りの少女はさらにしばらく行ったところにある草地で犬の群れと戦っていた。草地の入口に犬が何匹か血まみれになってもがいていた。女の子たちはひとかたまりになって登山ナイフを構えていた。犬が彼女たちを囲んでいた。一匹が唸りながら大きく宙を飛んで、ほとんど頭の上からマリコに襲いかかった。元アメリカ兵が戦闘用のベストのポケットから拳銃を抜いた。
「だめよ」とミチコが叫んだが、同時にバンという音がして、ぼくらは地面に倒れた。音があんまり大きくてびっくりしてしまったのだ。
マリコは草の上に倒れていた。白いユニフォームが胸からズタズタに裂けていた。茶色の日本犬が彼女の腿に顎を乗せてうずくまっていた。なんだか愛犬が主人と一緒に昼寝をしてるみたいに見えた。よく見ると犬の耳の下に大きな赤黒い穴があいていて、血が少しずつ流れ出していた。ミチコが近づいていって犬をどけた。毛皮みたいにぐんにゃりしていた。弾は犬の頭を貫通していて、反対側にはもっと大きな穴があいていた。そっちの穴からはドラム缶をひっくり返したみたいに血がどんどん流れ出していた。マリコの腰のあたりは血でずぶ濡れだった。
「軍隊で射撃だけは誰にも負けなかったんだ」といったようなことをアメリカ兵が英語で言った。それから彼らは二人で、草地の奥にかたまっている犬の群れに向かって拳銃を撃ち続けた。草の上はたちまち犬の死骸だらけになった。
「わたしたちも三匹やったのよ」とマリコが言った。
彼女はミチコに上体を抱きかかえられていたが、左のおっぱいと腕に犬の爪の跡があるだけで、大した傷は負っていなかった。
リッキーは妙に赤い顔をしていた。チョッキのポケットに手を突っ込んで、おちんちんをブラブラさせながらそこらへんを歩き回った。頭を乱暴に振ったり、元アメリカ兵に向かって英語で何か叫んだりした。
「これはフェアじゃない。おれたちはこんなことをすべきじゃないんだ」そんな意味のことだった。「拳銃で殺すなんて馬鹿げてる。しかも食いきれないほど殺すなんて。こんなことをしたら、自然の中の肝心なものがこわれちまうんだ」
彼は一人で歩き回りながら喋り続けた。誰も聞いていなかった。英語だったから、女の子たちにはわかりにくかったのだ。アメリカ兵の二人組は犬を全部殺し終わると、さっさとコットンキャンディマンを捜しにいってしまった。女の子たちはミチコとマリコのまわりでぼんやりしていた。ぼくでさえそのときはリッキーが何を言おうとしてるのかわからなかった。かわいそうなリッキー。彼は完全に孤立していた。一人で傷ついていた。病気になったリスみたいに。
ミチコが立ち上がってアメリカ兵を追い掛けようとしたとき、リッキーは彼女をじっと睨んでいた。澄んだ眼がとても悲しそうに見えた。
「お願い」とミチコがリッキーの腕にからだをくっつけながら言った。「今は何も言わないで。わたしたちを行かせて」彼女は完全に女の子だった。
アメリカ兵とヒッピーたちはもう森の中に入り込んで姿が見えなくなっていた。彼らには聖書女学院のバスケットボール部員よりもコットンキャンディマンを救い出すことのほうが大切だったのだ。ミチコは中学生をキャンプに帰すことにした。ほんとは部員を全部帰して、自分だけ行こうとしたのだが、高校生がついていきたがったのだ。ぼくは中途半端な立場にいた。一応中学生だったが、ミチコの支配下にいるわけではなかった。ぼくは帰りたくなかった。コットンキャンディマンはヒッピーの中で一番親しい友達だったし、何よりそのとき森の中で最後に彼に会ったのはぼくだったのだ。
「ぼくは行ってみるよ」
「わたしも」とマリコが言った。
ミチコはだめと言わなかった。いつもより険しい顔をしていたが、心細さが目にあらわれていた。結局マリコ以外の中学生は、狩りがあまりうまくない高校生のバスケットボール部員が数人ついてキャンプに帰ることになった。リッキーはややうなだれながらヒッピーたちが消えていった森のほうへ歩きだした。ぼくらもあとについて行った。陽が翳って急に寒くなってきた。空はまだ明るかったが、風が強くなってきた。あちこちから犬の遠吠えが聞こえてきた。悲しそうな犬の声がいくつも消防車のサイレンみたいに重なり合い風に乗ってぐるぐる回っているような感じに聞こえた。
それは大きな火事のときに感じるあの暗くて冷たい感じを思い出させた。
ぼくらは森の中で倒れているコットンキャンディマンを見つけた。森はひどく暗かった。ぼくが彼を見たときはすでにヒッピーたちが助け起こしているところだった。
「頭が痛いよ」とコットンキャンディマンは大きなアフロヘアのかたまりを両手で抱えながら言った。その髪はスズメバチの巣みたいにスプレーでガチガチに固めてあったから、どんなにさわっても頭の地肌に触れることはできなかった。
「ファッキンな犬の野郎がおれの頭を咬みやがったんだ」と彼は言った。
なるほどアフロヘアのてっぺんあたりが少し噛り取られていた。でもアフロヘアのかたまりは少なくとも厚さが二十センチ以上あったから、頭本体には全然届いていなかった。花柄模様のシャツと赤いベルボトムのズボンが少し食いちぎられてはいたが、彼もマリコと同様たいした傷は負ってなかった。
風の中でまたバンバンという破裂音がした。アメリカ兵が拳銃で犬を撃ったのだ。犬が気違いじみた声で吠えるのが聞こえた。少し先に木立ちが途切れた場所があり、アメリカ兵とヒッピーの何人かはそこにいた。ぼくらもコットンキャンディマンを助け起こしてそっちに行った。そこでぼくは遠山恵と犬たちを見た。その瞬間、マリコが後ろを向いてしまった。ほとんど同時に女の子たちはみんな後ろを向いてしまった。
「見ちゃだめ」とマリコがぼくに言った。
でもぼくは見ないではいられなかった。ぼくはミチコと一緒に前に進んだ。
「糞!」とミチコは言った。「蓄生!」
ぼくは彼女の顔を見た。左眼がぼくを睨んでいた。彼女はすっかり男の子になっていた。リッキーが後ろから彼女の腕を掴んでいたが、彼女は彼を引きずりながら前に進んでいった。拳銃は続けて発射され、少し途切れてはまた発射された。ぼくは前に進んでいくにつれて遠山恵をはっきり見ることができた。彼女は草の上に倒れていた。全身をめちゃくちゃに咬まれ、肉を食いちぎられていた。犬たちは彼女に群がっていた。拳銃が発射されるたびに何匹もの犬が死んだり、傷を負って逃げ出したが、同時に新しい犬が彼女に食いついてきた。マリコのときとはまるで様子が違っていた。犬たちは拳銃の弾を全然怖がってなかった。腹が減って死にそうだったのかもしれない。飢え死にするよりは肉にありついてから撃たれるほうがまだましだとでもいうように、あとからあとから襲いかかってきた。遠山恵はもう見分けがつかないくらいにからだ中を食いちぎられていた。お腹から飛び出している腸を犬たちがソーセージみたいに奪い合いながら食べていた。
「ハニー」と後ろでコットンキャンディマンが言った。すごく弱々しい声だった。ヒッピーの女たちが彼をおさえこんで、それ以上進ませないようにしていた。彼は遠山恵を見ることができなかった。「ハニー」と彼はまた言ったが、ヒッピーたちを振りきって前に出ようとはしなかった。
ぼくは犬が次々に拳銃で撃たれて飛び上がるのを見ていた。その中にはビッキーに似たスピッツが何匹もいた。スピッツも遠山恵の腸をガツガツと食べていた。それはまるでビッキーが彼女を食べてるみたいに見えた。そして何匹ものビッキーが彼女の腸を食べては次々に撃たれて死んでいった。
「神様」とマリコが後ろを向いたまま眼をつぶって言った。
「アーメン」と別の誰かが言った。
ぼくも心の中でアーメンと言った。まったく、こういう場合には、キリスト教徒でなくても、アーメンとしか言いようがない。
「糞!」とミチコがぼくの横で言った。「蓄生!」
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