|
★
「坊や、おまえさんは死神に取り憑かれてるよ」とリッキーが言った。
「そうかな」とぼくは言った。
ぼくは彼の言うことに賛成できなかった。《死神》という言葉はリッキーにふさわしく
ないような気がしたのだ。リッキーはアメリカ西部の森や草原の匂いがした。灰色熊やへ
ら鹿と一緒に大きな鮭を釣ったり焚火で食事をする彼の姿をぼくはよく思い描いていた。
そこには死神なんて入り込む余地はないように思えた。死神がふさわしいのは古い教会が
ある街であって、オレゴンやモンタナの何もない山の中ではない。
「でも、ここにはちゃんと教会があるぜ」とリッキーが言った。
彼は桃畑のむこうに聳えている聖書女学院の礼拝堂を見ていた。鋭い尖塔がまわりのす
べてを威嚇するように、空へ向けて立っていた。塔の中にある鐘は毎日朝九時と正午と午
後三時と午後六時にけたたましい音を立てた。
「坊や、おまえさんは死神に取り憑かれてるよ」とリッキーが言った。
「そうかなあ」とぼくは言った。
「きみは死神に取り憑かれてるよ」とぼくはマリコに言ってみた。
「そうかなあ」と彼女は言った。
ぼくらは我が家の芝生の上にいた。白いテーブルに向かってマリコはぼくが書いたばか
りの "A Tale of A Little Thief" の一章を清書していた。ぼくの字は恐ろしく汚かった
ので、いつもカークパトリック神父に文句を言われていたのだ。その点、マリコの字は小
学校時代からすごくきれいだった。彼女はぼくの原稿をレポート用紙に清書してくれただ
けでなく、綴りの間違いを直したり、女主人公の描き方について、女の子の観点からアド
バイスしてくれたりした。小学校時代と同様、中学に入っても彼女のほうが学力は上だっ
たから、英語についても色々と教わるところがあった。
清書された原稿は、さらにリッキーの添削を受けた。原稿はかなりズタズタにされ、大
幅な書き直しをしなければならないことが多かった。マリコが見てくれるお陰で綴りや文
法上の間違いを直されることはなくなったが、小説の技法としてはまだまだ幼稚なところ
があったからだ。ぼくが書き直した原稿をマリコはまた清書してくれた。
「悪いね」とぼくは言った。
「いいのよ」と彼女は言った。「楽しいもの」
「清書するのはリッキーが見てくれたあとでいいよ」
「平気よ。原稿がよくなっていくのを見るのは楽しいもの」
こんなふうだから、母はマリコがぼくのことを好きなのだと思い込んでいた。母はマリ
コのことを気に入っていた。ぼくのほうがマリコにそれほどでもないらしいのが、母にと
ってはまたうれしかったのだ。
「あの子はいい子よ」と母はぼくに言った。「結婚するならああいう子がいいのよ」
「そりゃそうだろうね」とぼくは言った。「総愛学院のやつはみんなそう思ってるよ」
それは本当だった。一の宮ミチコが卒業したら、マリコがミス聖書女学院に選ばれるの
は確実だったし、その年だって彼女は総愛学院のアンケートで《妹にしたい女の子》部門
と《結婚したい女の子》部門の第一位だったのだ。
兄のガールフレンドもなかなかきれいだったが、母はあまり気に入ってなかった。日本
の母親は誰でも長男に執着する。母にとって兄は他の女に渡したくない男だったのだ。兄
がガールフレンドを心から愛しているのも、母の気に入らないところだった。兄は母のこ
ともすごく愛していた。彼が結婚するまでかなりの時間を必要としたのは、たぶんそのせ
いだったのだろう。
「リッキーはぼくが死神に取り憑かれてるって言うんだ」とぼくはマリコに言った。
「そう?」ぼくの原稿を清書しながらマリコが言った。
「もしかしたら一の宮のことを言ってるんじゃないかな」
マリコは何も言わなかった。虻が一匹飛んできて、彼女の腕にとまった。よく晴れた午
後だった。バスケットボール部員たちは桃畑の草の上で昼寝をしていた。一の宮ミチコは
どこかへ出掛けていった。ぼくは何もすることがなくて、彼女の腕にとまった虻を眺めて
いた。
「彼女が池でぼくに『やるべきだ』って言ったときから、なんか変なんだ」
「彼女が?」とマリコは清書を続けながら言った。
「ぼくがさ。何を見ても前と違って見えるんだ」
「それはいいことかもしれないわよ」
「きみはどう? 何か変わったことない?」
「わたしは相変わらずよ。ただ毎日が楽しいだけ」
「ふうん」とぼくは言った。彼女の言葉は何となく的はずれだという気がしたが、どこが
どうおかしいのかはよくわからなかった。
彼女の毎日は充実していた。明け方に起き、ミチコと自分の二人分の洗濯をしているの
をよく見かけた。洗濯をするときの彼女はすごくうれしそうだった。ミチコのテントの中
を掃除したり、毛布を干したりするのも彼女だった。毎晩ミチコのテントに泊まっていく
のもすっかり習慣になっていた。ミチコが眠るまで本を読んで聞かせているのだと彼女は
言っていた。
「彼女は意外と子供っぽい人なのよ」
「そんなこと続けてたらからだがもたないぜ」とぼくは忠告した。
たぶん彼女は毎日四〜五時間しか寝ていなかった。
「でも全然疲れないのよ」と彼女は言った。
眠りが深いから睡眠時間が短くても平気なのだというのが彼女の言い分だった。たしか
に彼女は少しスマートになったが、相変わらず大きな胸とお尻をしていたし、赤ん坊みた
いに血色がよかった。
リッキーが悪魔はらいをしてくれる夢を見た。
リッキーとぼくは駅から聖書女学院へ坂を上りきったところにある木立ちの中にいた。
「坊や、おまえは死神に憑かれてるんだ」と彼は言った。「そいつを追い出さないと死ん
でしまうよ」
「あんたがそんなこと言うなんて信じられないよ」とぼくは言った。「あんたはそんな迷
信家じゃなかったはずだ」
「おれは若い頃、死神が退治されるのを見たことがあるんだ」と彼は言い、昔目撃した死
神退治の話をしてくれた。
場所はモンタナの荒れた土地にある小さな村だった。彼はまだそのときのぼくくらいの
歳だったが、その村の大工のところに一人で住み込んで手伝いをやっていたのだ。ある日
突然、親方の大工が暴れ出した。斧を振り回して村中を駆け回り、農家の女の頭を割って
しまった。彼は女の首のつけ根まで斧の刃が食い込むのを見た。大工がどうして狂ったの
か、理由はわからない。とにかく突然暴れ出したのだ。ヒゲ面の大男だった。ふだんはお
となしくて陰気な男だった。四十を過ぎてるのに嫁さんもいなかった」
「その大工が死神だったの?」とぼくはきいた。
「いいや、そいつに死神が取り憑いていたのさ」
「じゃあ、ぼくも突然人を殺すかもしれないの?」
「おまえはたぶん自分を殺すだろうね。自殺するのと人を殺すのは、大きな意味では同じ
ことなんだ」
リッキーは自分のお腹を手で切り裂くまねをした。ハラキリのつもりだったんだろう。
そこへ歳をとった坊主がやってきた。アメリカに布教に来た日本の真言宗の坊主だった
。そいつがマントラを唱えると、大工の動きが止まり、お尻のあたりから緑色をした小さ
な光がうんこみたいに落ちた。光は鬼みたいなかたちをしていた。坊主は持っていた杖で
そいつをぶった。鬼は両手で頭を抱えながら走っていってしまった。大工は魂が抜けたみ
たいにその場に坐り込んでいた。保安官に取り調べを受けたとき、彼は斧を振り回したこ
とは覚えているが、からだが勝手に動いて自分を抑えられなかったんだと言った。
「嘘だあ」とぼくは言った。
「ほんとさ」
その真言宗の坊さんは鬼を退治した呪文をリッキーにも教えてくれた。やたらと長いサ
ンスクリット語の言葉だった。オンバザラサトサトサクソワカ⋯⋯ノウポウアキャシャキ
ャラバヤオンアリキャマリボリソワカナンタラカンタラ⋯⋯彼はぼくのほうに手を伸ばし
て、目をつぶったままその呪文を唱えた。するとほんとにぼくの腰のあたりから緑色の光
る鬼が出てきた。
「きみは死神かい?」とぼくは鬼にきいた。
「そうだよ」と鬼は答えた。「でも頼むからぶたないでくれよ。痛いのにはすごく弱いん
だ」
「ぶたないから教えてくれよ」とぼくは言った。「このアメリカ人が追い出さなかったら
、きみはぼくの中で何をするつもりだったんだい?」
「おれはきみの元気をちょっといただいてただけなんだよ。これからだってたいしてひど
いことをするつもりはなかったんだ」
鬼は小さくて、ほんとに醜い顔をしていた。小学校のときクラスでよくいじめられてた
やつみたいだった。いつも泣いてるような、恨んでるような変な顔をしているやつ。顔を
見ただけでいじめたくなるような⋯⋯。
「きみは一の宮ミチコにも取り憑いてるの?」とぼくはきいた。
「彼女にはもっと恐ろしいやつが入ってるよ」緑の鬼はちょっと恥ずかしそうに笑った。
「おれたちは性格によって取り憑く相手が違うんだ。きみみたいな弱虫にはおれみたいな
弱虫しか入れないんだよ」
「とっとと失せろ、このクソ野郎」とリッキーが鬼に言った。
鬼はびっこを引きながら彼に近づいていき、突然彼のおちんちんに飛びついたかと思う
と消えてしまった。
「あんたに入っちゃったよ」とぼくは言った。
「なんてことはないさ」と彼は笑った。「おれは死神をたくさん飼ってるんだ」
そのときぼくらは森の中にミチコを見た。彼女はジェーンみたいに素っ裸で、とても陰
気な顔でぼくらのほうを見ていた。口をすぼめて変な音の口笛を吹いていた。
白っぽい犬が一匹、坂をゆっくり上ってきた。眼の細い、柔和な顔をした犬だった。ミ
チコは口笛でそいつをおびき寄せて首を絞めた。犬はしばらく脚をばたつかせていたが、
ゆっくりとおとなしくなっていった。
「犬を食おうよ」と彼女はぼくらに言った。「犬はうまいらしいよ。中国や朝鮮には昔か
ら犬の料理があるんだ」
ミチコは登山ナイフで手際よく犬の皮を剥いでいった。毛皮を剥ぐと、中から桃色の乳
首をした大きなおっぱいが出てきた。
「だめだ、だめだよ、やめるんだ」ぼくは大声で叫んだ。
その声で目が覚めた。ぼくはテントの中で汗をかいていた。夢の最後の場面がまだ目の
前にちらついていた。ぼくはひどいショックを受けていた。皮を剥がれていた犬がマリコ
だったからだ。
ぼくの横では兄が江戸時代の夢を見ながら眠っていた。その頃の彼は毎日、江戸時代の
夢を見ていた。その夢があんまり楽しいので、彼はいつもぼくに自慢そうに話してくれる
のだ。そのときの夢は、彼が大商人の招きで吉原の遊廓に遊びに行き、ガラス張りの天井
に金魚や鯉がたくさん泳いでいる部屋で、すごい美人の花魁とうまいことやっているとい
った内容だった。その日の晩に彼がそう言ったのだ。彼はほかにもいろんな江戸時代の夢
を見た。蓮の花で埋め尽くされた不忍池に舟を浮かべて松尾芭蕉やその弟子たちと俳諧の
連句を詠んでいる夢や、江戸城の中で浅野内匠頭が吉良上野介に刀を振るっているのをう
ちの家族と一緒に見物しているといった夢だ。ふだんの兄はわりと神経質そうな顔をして
いたが、江戸時代の夢を見ているときの彼は、江戸時代の本を読んでいるときの彼と同じ
ようにリラックスしていた。
外はやっと明るくなり始めた時間で、桃畑の草の上には薄く霧が漂っていた。ぼくはミ
チコのテントに行った。中にはマリコが一人で寝ていた。横向きにからだを丸め、パンテ
ィ一枚の裸でよじれた毛布を抱きしめながら静かな寝息を立てていた。赤ん坊みたいに毛
布の隅のほうを口にくわえていた。
「一の宮はどこ?」ぼくはマリコの肩を揺すりながらきいた。
彼女が目を覚ますまでずいぶん時間がかかった。その間ぼくは彼女の寝顔を眺めながら
、桃の木で啼きだした小鳥たちの声を聞いていた。
「どうしたの?」目をあけたマリコが不思議そうにきいた。
「一の宮がいないじゃないか」
「きっと散歩よ」起き上がりながら彼女は言った。「この頃は毎日早起きして散歩するの
」 彼女のおっぱいは夢の中で犬の毛皮の中から出てきたのと同じかたちをしていた。
「ぼくらも散歩に行かない?」
「ちょっと待ってね」
マリコは敷き布の上に正座して、枕もとにきれいに畳んである服を一枚ずつ着けていっ
た。スカートさえ膝をついたまま頭から器用に着てしまった。ぼくは女の子が服を着ると
ころを初めて見たのですごく感動した。
「ぼくらは今こそやるべきだと思うんだ」とぼくは言ってみた。
「嘘つき」彼女はぼくを見て笑った。
彼女の言う通りだった。ぼくは全然勃起してなかったし、緊張さえ感じてなかった。た
だこういうケースでやろうとしないのは異常なんじゃないかという気がしただけだ。ぼく
は総愛学院に好きな男の子がいた。彼とはちょっと話すだけでも胸が苦しくなった。いや
、彼がその場にいてもいなくても、その頃のぼくはいつも胸が苦しくなるような思いを味
わっていた。好きになるというのはそういうものだということをぼくは知っていた。
「きみはぼくと全然やりたくない?」
「うん、全然」と彼女は確信を込めて言った。
ぼくらは散歩に出た。ゴルフ場に行く途中、聖書女学院の校門の外に続いている林の中
にぼくらはリッキーとミチコを見つけた。リッキーはいつものように西部劇風の帽子をか
ぶり、素肌にくたびれたチョッキを着て、ウエスタン・ブーツをはいていた。いつものよ
うに下半身には何も着けていなかった。彼のペニスが大きく勃起してるのが見えた。ミチ
コは後ろ姿しか見えなかったが、文字通り何も着けていなかった。靴さえはいていなかっ
た。二人は十メートルほど離れて向かいあい、手を腰の後ろで組み、休めの姿勢で立って
いた。お互いの顔をじっと見つめていたが、一言も口をきかなかった。
マリコはぼくの手を掴んで帰ろうとした。ぼくは逆にその手を引っ張って林の中に入っ
ていった。そこは夢の中でリッキーがぼくから緑色の鬼を追い出し、ミチコがマリコでも
ある白い犬を殺して皮を剥いだ場所だった。ぼくらはミチコの斜め後ろから近づいていっ
た。リッキーからは丸見えのはずだったが、彼はぼくらに全く気づいていなかった。ぼく
はマリコを引っ張って二人の中間地点まで行った。ぼくはミチコの顔を見た。彼女はリッ
キーとぼくらを同時に見ていた。つまり右眼でリッキーを見て、左眼でぼくらを見ていた
のだ。眼球の黒眼の位置がほんの少しずれただけなのに、彼女の顔は化け物みたいに見え
た。それでも彼女はぼくとマリコに何の反応も示さなかった。
「ひどいわ」とマリコが言った。「あんなところをわざわざ覗きに行くなんて」
ぼくらは農園に戻ってきていた。彼女がぼくを引っ張ってきたのだ。彼女は泣いていた
。「彼らがぼくらに気づかないだろうって気がしたんだ」とぼくは言った。「事実その通
りだったじゃないか」
「わたしはああいうとこを見たくなかったのよ」
「ぼくは一の宮の眼が見たかったんだ。彼女はあのときも同じ眼をしていたんだよ」
ぼくは池で釣りをしたときのことを話そうとした。マリコはそんな話は聞きたくないと
いうそぶりをした。
「わたしだって彼女がああいう眼をするのは見たことあるわよ」マリコは憤慨していた。
「何度も何度も見たわよ。数えきれないくらい」
「彼女が好きなら、どうして逃げたんだい?」とぼくは言った。「リッキーに取られても
いいのかい?」
「一の宮はリッキーのことなんて好きじゃないのよ」とマリコは言った。
「じゃあ、なおさら彼女にあんなことさせておくのはよくないじゃないか」
「あなたにはわからないわ」
「ああ、ぼくにはわからないよ」
「彼女はわたしのことも好きじゃないのよ」
ぼくはリッキーのテントに行った。彼がしていることをジェーンに告げ口するのは気が
進まなかったが、何かしないではいられない気分だったのだ。マリコはぼくを引き止めよ
うとしていろんなことを言ったが、説得しながら後からついてきた。
テントの中には変なものが置いてあった。白っぽい、何とも言えないかたちをした大き
な石みたいなものから、ごつごつした太い丸太みたいなものが四本突き出していて、それ
が縄でひとつにまとめられていた。脚が四本しかない大きなイカのお化けが暴れないよう
に縛られているといった感じだった。
イカのお化けはいびきをかいていた。ぼくはしばらく何もしないでそこに立っていた。
テントの中は暗くて、お化けが何者なのか、いくら見つめてもはっきりしなかった。
赤ん坊のジャネットは入口の篭の中にいた。もう目を覚ましていて、右手の親指を口に
加えながら「ワウワウワウワウ」と言っていた。マリコはジャネットを抱き上げた。
「よせよ」とぼくは言った。「泣きだしたら困るじゃないか」
「だって可愛いんだもん」とマリコがいつもとまるで違う高い声で言った。赤ん坊に頬ず
りしながら自分でも「ワウワウワウワウ」という声を出した。ジャネットも笑いながらそ
れに応えて「ワウワウワウワウ」と言った。
自分が子供のくせに、赤ん坊を抱くと母親みたいになってしまう女の子がいる。マリコ
も小学校の頃から赤ん坊を見ると、からだがとろけそうになるタイプの女の子だった。
「おっぱいがほしいのかな」とマリコが言った。
ジャネットがマリコの大きな胸に顔をくっつけて、ブラウスの上からおっぱいのてっぺ
んあたりをしゃぶっていた。マリコは自分のブラウスのボタンをひとつ外した。
「まさか自分のをやろうって言うんじゃないだろうな」とぼく。
「だって欲しそうにするんだもん」とマリコ。
「よせよ、おっぱいが出るわけじゃないんだぜ」ぼくは妙に慌てていた。
「しゃぶるだけでもいいじゃない」
ぼくは彼女の大きなおっぱいからミルクが溢れるように出てくるところを想像した。ミ
ルクが入っていないなら、どうして彼女のおっぱいはあんなに大きかったんだろう?
そのとき地面に転がっていたイカのお化けが、
「モゴモゴモゴモゴモゴ」と言った。
ぼくは一歩後ろにさがった。後ろにいたマリコが半分テントからはみ出した。入口の布
が少しまくれあがって中に光が入ってきた。お陰で足元に転がってるものが、イカのお化
けではなくジェーンだということがわかった。彼女はからだを大きく弓なりに反らせて両
手首と両足首を四本まとめてひとつにくくられていた。口には赤いバンダナの猿轡がして
あった。
「どうしたの?」とぼくは言った。
「モゴモゴモゴモゴモゴ」と彼女は言った。
後ろで「モゴモゴモゴモゴモゴモゴモゴ」とジャネットが言った。振り返るとマリコが
ブラウスの胸を開け、ブラジャーを片方引き下ろして、大きなオッパイをジャネットに吸
わせていた。
「よせったら」とぼくは言ったが、マリコはこっちをちらっと見て笑っただけだった。
「モゴモゴモゴモゴモゴ」ともう一度ジェーンが声を出したので、ぼくは急いで彼女の猿
轡をほどいた。
「どうしたの?」もう一度ぼくはきいた。
「あのクソ野郎に縛られたのさ」とジェーンは言った。《クソ野郎》とは、状況から見て
リッキーのことに違いなかった。
「どうして?」とぼくはきいた。
「あのナメクジ野郎はもうあたしが相手じゃ立たないって言うんだ」ジェーンはもじゃも
じゃの黒くて長い髪を振り乱しながら言った。なんだか白人に捕まったインディアンの女
みたいだった。「だからあいつの言う通りにさせてやったのさ」
「そしたら、出て行っちゃったんだ?」
「何言ってるの。あいつは変態なんだってば。縛られた女じゃないと立たないんだよ」
「ふうん」とぼくは言った。
ぼくは木立ちの中でミチコと向かいあって立っていたリッキーのことを思い出した。あ
そこに縛られた女はいなかったが、彼はちゃんと勃起していた。それまでにもぼくは彼が
勃起するのを何度も見ていたが、縛られた女がいたことはなかった。ぼくは縛られたジェ
ーンの変な格好をもう一度じろじろ見た。マリコのほど大きくはないが、ミルクの一杯詰
まったおっぱいが敷き布の上で潰れていた。敷き布には黒い染みが広がっていた。ミルク
がしみ出していたのだ。テントの中には甘いミルクの匂いが漂っていた。まるで後ろにい
るマリコが本当にミルクを飲ませてるみたいだった。
「何じろじろ見てるんだよ」とジェーンがとがめるように言った。「早く縄をほどいとく
れよ」
ぼくはすごく狼狽していた。からだ全体が痺れたみたいになって、手が思うように動か
なかった。彼女の縄をほどいているあいだ、手が彼女の柔らかいからだに触れるたびに息
が止まりそうになった。ぼくは大きく勃起していて、彼女の大きなお尻やその下に開かれ
た黒い陰毛だらけの性器からどうしても目が離せなかった。
それにしてもどうして彼女はあんな格好で縛られたまま眠ることができたんだろう?
「リッキーはね⋯⋯」とぼくが言った。
「散歩してたわ、坂道のあたりを」ぼくを遮ってマリコが言った。
「知ってるよ」ジェーンが立ち上がってマリコから素早く赤ん坊をひったくった。「あの
おまんこ野郎が何してるかくらいはね」
彼女は素っ裸のまま地面にうずくまって娘に本物のおっぱいをやった。「モゴモゴモゴ
モゴモゴ」とジャネットは言った。ぼくは石器時代の住居を覗き見してるみたいな気がし
た。
「あんたもあの蛆虫野郎みたいになりたくなかったら」とジェーンが言った。「ちゃんと
女を好きにならなきゃだめだよ」
「うん」とぼくは言った。
★
ぼくはリッキーを責めるべきだったんだろうか? 妻のジェーンを悲しませたことで?
一の宮ミチコと何となく変なことをしていたことで?
あれが本当は何だったのか、結局のところわからずじまいだった。リッキーは、あのと
きミチコと何をしていたのか、何をするつもりだったのか、そしてぼくらが行ってしまっ
た後で実際に何をしたのか、一切話そうとしなかった。ぼくもまた、何もきかなかった。
よくわからないまま確かめようがなくなってしまう謎というのがある。今ではこれも確か
めようがない。二十年も時がたってしまったし、当人たちはもういない。どうしてあのと
き確かめておかなかったのか、今では不思議でしかたないが、あのときはそんな風には考
えなかった。たぶん一九六八年には気になることがほかにたくさんあったのだ。
|