イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

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ファミリー・キャンプ3

                ★

 初夏のような四月が去って、真夏のような五月がやってきた。ヒッピーたちは暑さにうだり、谷間の川や池に飛び込んだり、農園に面している家の庭からホースで水をかけてもらったりしていた。白いユニフォームを着たバスケットボール部員たちは、早朝から坂道やぼくの家の近所の道でランニングをやり、桃畑で筋力トレーニングをやった。彼女たちのかん高いかけ声で、ぼくら住民は明け方の五時に目を覚ました。バスケットボール部は農園を独占するため、ゴールデンウイークの初めから桃畑にキャンプを張っていた。休日は筋力トレーニングの後、体育館で練習。授業のある日も早朝練習をやり、桃畑から登校した。
 彼女たちは四〜五人ずつのグループに分かれてテントの中で暮らしていた。一の宮ミチコは小さなテントを一人で使っていて、マリコが彼女の世話をしていた。
 ぼくは明け方まで眠れないことが多くなった。そんなときは芝生の上に置いた白い椅子に座り、ぼんやりと桃畑を眺めたり、テーブルで小説を書いたりした。
 まだ太陽が顔を出す前の、白っぽい空気の中で、ミチコのテントから這い出てくるマリコを見かけることがあった。最初に見たとき、彼女はすぐにぼくに気づいてうれしそうに大きく腕を振った。
「ずいぶん早いね」とぼくは言った。
「最近よく眠れるの」と彼女は言った。
「ぼくはあんまり眠れないんだ」
 彼女はテントの外で立ったまま白いユニフォームを着た。つまり起き出してきたときは下着姿だったのだ。服を着ているあいだ、彼女は絶えずぼくに笑顔を見せていた。そんなに幸せそうな顔は見たことがなかった。

 彼女たちは農場や近所の庭から野菜や卵や肉をもらい、池や川で魚をとって、桃畑で料理していた。ぼくはミチコやマリコと連れだって釣りに出掛けた。駅から聖書女学院に続く曲がりくねった坂道の横を流れる谷川や、途中にある小さな池でも釣れたが、素っ裸のヒッピーたちが水浴びをしていたから、彼女たちはあまりそこで釣りたがらなかった。それに、ゴルフ場を抜けて山のほうへ行くと、もっといい釣り場がたくさんあった。ミチコは深い草叢や薮の中に平気で入っていき、鋭い葉やとげで腕や脚の皮膚を切って血を流してもまるで平気だった。いつも白いユニフォームを着ていた。背はぼくよりも高かったが、ちょっと離れて見ると、田舎で育った少年みたいに見えた。マリコは泥や草の汁で汚れたミチコのユニフォームを洗濯しようとするのだが、ミチコはなかなか着替えようとしなかった。彼女はだんだん薄汚れてきた。顔が浅黒くなり、短く刈り込んだ髪がつやをなくし、埃と汗で固まり、束になってもつれ、逆立ってきた。手足も傷だらけで、おまけに泥で汚れていた。
「そばに寄らないでくれよ」とぼくは彼女に言った。「なんだか臭うよ」
「気取るんじゃないっての」と彼女は男の子みたいに笑いながら、わざとぼくにからだをすりつけてきた。ぼくの首を腕で締め上げたりした。
 ミチコのからだは草の匂いがした。筋力トレーニングのおかげで男みたいに引き締まって見えたが、触れてみるとババロアみたいに柔らかかった。ぼくは彼女が間違えて女のからだを持って生まれてきてしまった男なのだということに気づいた。
 彼女は小学生のガキ大将が子分をいじめるときよくやるように、ぼくのおちんちんを握ったしりた。あんまりすばやく掴むので、ぼくは逃げる暇がなかった。
「どうした?」と彼女は笑いながら言った。「全然元気ないじゃないか。ミス聖書女学院に抱きつかれてるってのにさ」
 それは本当だった。ミチコは一九六八年のミス聖書女学院だった。ぼくら総愛学院の生徒たちは毎年、学校に内緒でミス聖書女学院を選んでいた。高等部の二年生が秘密の委員会を組織し、投票箱を回すのだ。聖書女学院の内部でも秘密投票が行われ、両方の票の合計がミス聖書女学院を決める。一の宮ミチコは総愛学院では僅差で二位だったが、聖書女学院ではぶっちぎりで一位だったため、総合でミス聖書女学院に選ばれた。
「全然勃起しないよ」とぼくは言った。「きみは男だからね」
 ミチコは笑いながらぼくを押し倒し、お腹にニードロップをくわせた。彼女は恐ろしく力が強かった。
「嘘つき」と彼女は言った。
「嘘つき」と傍らでマリコが言った。
 もちろん嘘だった。彼女のからだは十分柔らかかった。ただぼくが女の子のからだに馴染めなかっただけなのだ。

 深い森の中にある翡翆色をした池でぼくらは釣りをした。岸の草叢には黄色い夏の日差しが照りつけていたが、暗い木立ちから流れてくる風は冷たかった。魚はたくさん釣れた。釣り竿を地面に刺しておくだけでいつのまにか針にかかっているのだ。ぼくらはすぐに退屈した。
「泳ごうぜ」とミチコが男みたいな口調で言った。
「魚が逃げちゃう」とマリコが言った。
「十分釣ったじゃないか」
 ミチコは子供みたいにせかせかと着ているものを脱いだ。まるで自分のそばからどんどん遠ざかっていく時間を逃がすまいとしているみたいだった。跳びはねながら最後の下着を脱ぐと、小さなお尻の肉が皿に落としたプリンみたいに細かくふるえた。彼女は跳びはねながら水の中に入っていった。
「足を切らないように気をつけて」とマリコが言った。
「下はきれいな砂だよ」ミチコが振り返って笑った。
「きれいだね」とぼくがマリコに囁いた。彼女は何も言わなかった。
 ミチコは跳び上がって頭から水に潜った。水面でイルカみたいに何度もからだをくねらせた。
「ついでにからだを洗うんだ」
 彼女は水面に顔を出してそう言うと、ものすごいスピードで岸から離れていった。

 ぼくらから少し離れた砂地に兄がガールフレンドとやってきた。彼は江戸時代の本を抱えていた。ぼくは彼のガールフレンドを初めて見た。電話でちょっと話したことはあったが、家に来たことがなかったからだ。彼女は藤色の地に細かい花柄のワンピースを着て、同じ生地の帽子をかぶっていた。流木の上に腰を下ろすとスカートの下から、白い下着のレースの縁どりと焦げ茶色のブーツが見えた。
 釣りをしたのは彼女だった。兄はそばに寝そべって本を読んでいた。
「お兄さまは勉強家ね」とマリコが言った。
「学者にでもなるんだろ」とぼく。
「何の?」
「江戸時代のさ」
「ふうん」マリコはすぐに納得した。「きっと偉い学者になるわ。あんなに勉強してるんだもん」
「そうかな」
 そうはならなかった。兄は五年後に銀行員になった。父がいた銀行だ。そしてこのとき花柄のワンピースを着て釣りをしていたガールフレンドと、一九八〇年に結婚した。つまりそれから十二年も付き合ってからだ! 今でも彼は江戸時代の本を読んでいる。江戸時代の本は無限にあるらしい。

「一の宮が見えない」マリコが急に立ち上がって言った。
 緑色の水はさざ波ひとつ立っていなかった。ついさっきまでミチコは池のちょうど真ん中あたりを泳いでいたのだ。
「平気だよ」とぼくは言った。「あんなに泳ぎがうまいんだ」
「心臓麻痺を起こしたのかもしれない」とマリコ。
「潜ってるんだよ」
 ぼくがそう言い終わらないうちにミチコが向こう岸の近くに頭を出した。脚の立つところで立ち上がり、白いしぶきを上げながら岸に駆け上がると、砂の上に大の字に倒れて足をばたばたさせた。
「気持いい」とその足が言っていた。
「きみも行けばよかったのに」とぼくはマリコに言った。
「だめよ」
「恥ずかしい?」
「違う」
 彼女は白いブラウスに紺と緑のチェックのミニスカートをはいていた。
「一の宮はわたしがついてったらきっといやがったわ」
「そうかな」
「ひとりでいたいときはちゃんとわかるのよ。男の子みたいになるから」
「ふうん」とぼく。「彼女のことを深く知ってるわけだ」
 マリコは上眼づかいにぼくを見た。
「そんなことないわ」と彼女は言った。「大事なことは何も話してくれないんだもの。あの人、ここんとこに傷跡があるの。自殺しかけたみたいな傷」
 そう言って彼女は左の手首の内側を見せた。そういう彼女の手首にも小さく盛り上がったような傷があった。
「一体どうしたっていうんだ?」とぼくは呟いた。

 彼女はバスケットの中から大きな折畳みナイフを取りだし、近くの薮から笹を数本取ってきた。それから小学生が縄跳びをやるときみたいに、スカートの裾を下着の中にたくし込んで水の中に入った。釣った魚を入れておいた篭を引き上げると、一匹ずつ魚のえらから口に笹を通した。魚はどれもよく太っていて、濃い灰色や銀色の背に白い腹をしていた。笹を通そうとすると、魚たちはえらからしこたま血を流しながら暴れた。マリコの白い腿に水で薄められた血が流れた。
「一体どうしたって言うんだ?」とぼくは彼女に言った。
 彼女から生温かい魚の血の臭いが漂ってきた。
「持って帰って食事当番に渡すのよ」と彼女がぼくを不安そうに見つめながら言った。
「行かないでくれよ」
「もうじき夕食の支度が始まるのよ」
「一の宮が呼んでるよ」
 むこう岸で寝転んでいたミチコが上体を起こしてぼくらを手招きしていた。白い歯を見せて笑っているのがわかった。
「あなたを呼んでるのよ」
「どうしてわかるんだ?」
「それゃわかるわ」マリコは悲しそうに笑った。
 むこう岸でミチコが立ち上がり、水の中に入っていくのが見えた。行きよりもすごいスピードで泳ぎながらこっちに戻ってきた。
「頼むからここにいてくれよ」とぼくは言った。
「だめよ」とマリコ。「わたしがいたらすごく怒られるわ」
 マリコは魚をいっぱいぶらさげた笹を肩に担いで森の中に消えていった。まるで北海道の木彫りの熊人形みたいだった。

 ミチコが水の中で立ち上がり、しぶきを上げて跳びはねながら岸に近づいてきた。マリコの気配はどこにも残っていなかった。ミチコはよろけながら走ってきて、ぼくのわきに腰を下ろした。
「ずいぶん大声で呼んだのよ」彼女はいやに女らしい高い声で言った。
「聞こえなかったな」
 彼女はすごく可愛い笑顔でぼくの顔を覗き込んだ。
「すっかりきれいになったわ」と、自分のからだについた水を手で払い落としながら言った。
「うん、きれいだよ」ぼくは水面でじっとしているピンク色の浮きをじっと見つめたまま言った。
「釣れる?」
「きみが飛び込んでから全然」
 彼女が水に入ったせいで、魚たちはどこかへ行ってしまっていた。それでもぼくは釣りをやめなかった。もうバスケットボール部と我が家の分は十分釣れていたが、釣りをやめてはいけないような気がしていた。ぼくはミチコを見ないようにしていた。水から出てきた彼女はすっかり女の子になっていた。それがとても不気味だった。それからマリコがどこへ行ったのかきこうとしないのがとても不気味だった。
「こっちを向きなさいよ」とミチコが言った。
 カチッという軽い機械音がしたのでそっちを向くと、ミチコが草の上にしゃがんで小さい銀色のカメラを構えていた。彼女は写真が趣味で、小型のコンタックスを持っていた。前のふたを開けると小さなレンズが出てくるやつだ。それでよく森の花や鳥や山の風景を撮っていた。
「わたしも撮ってくれる?」ミチコはぼくにカメラを押し付けてきた。
 ぼくはしかたなくそれを受け取り、地面に坐ったままシャッターを押した。ファインダーの中の彼女は草の上に膝をついて、片手で髪を触っていた。もう片方の手を腰骨のところに軽く当てて、モデルみたいに笑っていた。おっぱいは小さくて、からだつきはほっそりしていたが、全身が女の子だった。
「どうせなら二人並んで撮りたいわね」と彼女は言った。「あそこに人がいるから頼んでみようか」
 彼女はぼくの兄とガールフレンドのほうを見ていた。
「やめときなよ。邪魔になるかもしれないから」
「だって女の子は釣りをしてるし、男の子は本を読んでるだけよ」
「でもきっといやがると思うよ」
「あの人たちのこと知ってるの?」
「知らないけど、さっきから見ていてそんな気がするんだ」
 ぼくは彼がぼくの兄弟だということを言うべきなのかどうかわからなかった。言ったらミチコが彼らのところに行ってシャッターを押してくれと頼むんじゃないかという気がしたことは確かだ。ぼくは裸の女の子といるところを兄に見られるのはいやだった。こっちから声をかけないかぎり、彼はぼくに気づかないだろう。彼は本を読みだしたら、他のことは一切気にならなくなるタイプだった。

「わたしたち、今こそここでやるべきだと思うわ」ミチコがぼくを見つめながら強い口調で言った。
「そうかな」ぼくは小さな声で言った。彼女の自信ありげな口調に戸惑ってしまったのだ。やりたいというならともかく、どうして《やるべきだ》なんて断言できるのかよくわからなかった。
「最初会ったときからそう思ったのよ。あなたもそう思ってるって顔に書いてあったわ」
「そんなことないよ」
「怖いの?」
「そんなことないよ」
「誰でも最初は初めてなのよ」
「そうだろうね」
「わたしも初めてなのよ」彼女はまばたきもしないでしばらくぼくの眼をじっと覗き込んでいた。
 それから彼女はまたコンタックスでぼくの写真を撮った。そのカチリというかすかな音がぼくの心臓をふるわせた。全身の血が冷たくなっていくのがわかった。ぼくはたいていの少年と同じように、もう長いことこういう場面を夢に見ていた。つまり年上のすごい美人がにっこり笑ってやらせてくれるところをだ。そしてミチコは空想していたどんな美人よりもきれいだった。そのときはどうして彼女とやりたくないのか自分でもよくわからなかった。彼女はどう考えても完璧な女の子だったが、ぼくは全然勃起していなかった。
「あなたは女の子に押し倒されたいタイプなの?」
 ミチコがカメラから顔を離して笑った。ぼくは自分が何を怖がっているのかわかったような気がした。コンタックスのファインダーから離れた彼女の左眼が三十度くらい外側に向いていた。彼女の顔は一変していた。見えない暴力で歪められた何かが苦痛の叫びを上げているような顔だった。ぼくは腰を浮かして立ち上がろうとしたが、からだに力が入らなかった。彼女は片眼でぼくを見つめ、もう片方の眼で森のほうをぼんやり眺めながら近づいてきて、ぼくを草の上に押し倒した。ぼくはひっくり返った亀みたいにもがいた。喉が詰まって声も出なかった。ミチコはすごい力でぼくを抑えつけようとし、ぼくは彼女のマシュマロみたいなからだを手当たり次第に殴ったり叩いたりした。何度もお互いのからだが上になったりしたになったりした。ぼくはそのあいだずっと目をつぶっていた。彼女の眼を見たら力が抜けてしまいそうな気がしたからだ。
 何度目かに彼女のからだに馬乗りになったとき、機械が壊れるグシャッという音がして彼女が悲鳴を上げた。彼女が上体を起こすと、その下でコンタックスの蓋が開いて、レンズがとれていた。フィルムがボディからはみだしていた。
「ああ⋯⋯」とミチコは言った。
 彼女は草の上にしゃがみこみ、しばらく無言で壊れたカメラをいじっていた。彼女の白い背中には四角いカメラの跡が赤くついていた。
「ごめん」とぼくは言った。「壊れちゃった?」
「いいのよ」彼女はかすかな、息みたいな声で呟いた。「修理に出すから」
 それから彼女はぼくのほうへ顔を向けた。左眼は元に戻っていた。
「でもフィルムが、あなたの写真がだめになっちゃった。あなたが撮ってくれたわたしの写真も」
 彼女はさみしそうな顔で、いつまでもこわれたカメラをいじっていた。
 ぼくは「また撮ろうよ」とは言わなかった。言いたかったが、口が動かなかった。また彼女の左眼がカメレオンみたいに外を向くのを見なければならないような気がしたからだ。
 あたりは少し薄暗くなってきた。いつのまにか兄とガールフレンドはいなくなっていた。どうしてそんなに時間がたってしまったのかわからなかったが、とにかく草の上に坐り直してミチコと池を眺めたときには、彼らの姿はなかった。ミチコはなかなか服を着ようとしなかった。草と泥で汚れた彼女のユニフォームと下着がすぐ近くに落ちていた。
「わたしに恋人がいた話はマリコから聞いた?」と彼女は池を見つめながら言った。
「聞いてない」とぼく。
「去年のことよ。総愛学院のバスケットボール部の男の子でね。歳は二つ上だったわ。彼がわたしの家に遊びに来たとき、わたしは彼に今こそやるべきだって言ったの。彼はそんなことないって言ったわ。わたしたちはまだ子供なんだから、そういうことはやるべきじゃないっていうのが彼の考え方だった。高校を卒業して大人になったらやろうと言うのよ。そういうのって卑怯だと思わない?」
「さあ」とぼくは言った。「ぼくにはわからないよ。いつになったら大人になれるのか、いくつになったら楽しんでやれるのか⋯⋯」
「わたしもそう言ったの」ミチコはぼくの手の甲に手のひらを乗せながら言った。「そんなのは学校がわたしたちをだましてるだけだって。学校はただわたしたちにいろんなことを禁止したいだけなのよ。子供だから今はがまんしろって。大人になったら好きなことができるんだって。でもきっと卒業しても同じことよ。いろいろ真面目に考えて、まだ自分が子供だってことを発見するだけなのよ。そして一番大事なことを一日のばしにしていくのよ」
「そうかなあ」とぼくは言った。彼女の言ってることがだんだんよくわからなくなってきたのだ。最初は高校生のうちにセックスをするかどうかという話だったはずだ。それがいつのまにか、みんないくつになってもセックスができないという話にすり替わっているような気がした。それともミチコはもっと別の話をしているつもりだったのだろうか?
「それでわたしは彼の前で服を脱いで、脚を広げてやったの。『今できないことは一生できないわよ』って言ったら、彼は震えだしたわ。からだの中で犬か何かが暴れてるのをじっと我慢してるって感じだった」
 遠くで犬が吠える声が聞こえた。ミチコは腰を浮かしてぼくにからだをくっつけた。ゴルフ場から上の山には野犬が出るという噂だった。住宅街で捨てられた犬や逃げ出した犬が野生化し、群れを作ってうろつきまわっていた。子供が襲われたという話もあった。あたりはすっかり暗くなっていた。空はきれいな紺色だった。月が出ていないので、すぐ横にあるミチコの顔さえ見えないくらいだった。向こう岸にオレンジ色の光が三つ見えた。誰かが焚火をしているらしかった。
「それで?」とぼくが言った。ミチコがしばらく黙っていたからだ。
「その夜わたしは風呂場で手首を切ったの」と彼女は言った。「彼に拒絶されて、生きてるのが怖くなったのよ。彼も同じ頃自分の部屋で首を吊ったわ。でもクローゼットのドアに紐を引っ掛けただけだったから、すぐはずれて助かったの。わたしも睡眠薬をのんで手首を切ったんだけど、湯舟の中で眠ってしまって、眼が覚めたら病院に運ばれてた。寝ているうちに腕をお湯から出してしまったので、傷口が乾いて血が止まっちゃったのよ。馬鹿みたい」彼女はおかしそうに笑った。
「それで?」とぼくは言った。「彼とはどうなったの?」
「それきりよ。首に茶色の痣を残したまま卒業してったはずよ。大学に行ったんじゃないかな。よく知らないわ」

 遠吠えする犬の数が増えてきた。このあたりの野犬が全部、あちこちで呼び合ってこの池に向かっているような気がした。だから背後の森の中で、下草を掻き分けるカサカサという音がしたときは思わず立ち上がってしまった。
「立つなよ、馬鹿」とミチコが言った。それは今まで失恋のことを話していた彼女ではなかった。声が男に戻っていた。急にスイッチが切り替わって元に戻ったという感じだった。「動いたらこっちの位置がばれるだろ」と彼女はまた男の声で言った。「犬は鼻と耳がいいんだよ」
 振り返ると、森の中に懐中電灯の光が見えた。近づいてきたのはマリコだった。
「着替えを持ってきたの」と闇の中で彼女は言った。ぼくらはほとんどお互いの輪郭さえ見分けられなかった。
「悪い」ミチコは服をひったくるようにして受け取った。
「もうじき晩ご飯よ」マリコが母親みたいに言った。
「暗くて服が着れないよ」ミチコが子供みたいに文句を言い、マリコが少し後ずさって懐中電灯でミチコを照らした。スポットライトの中に突然裸の彼女が浮かび上がり、せかせかと服を着だした。着替えも昼間着ていたのと同じような白いユニフォームだった。
「今度犬を食おうよ」ミチコが何の脈絡もなく言った。
「どうして?」とマリコが言った。ぼくは何を言っていいのかわからなかったので黙っていた。
「一杯犬がいるだろ。今度捕まえて食おうよ。犬はうまいらしいよ。中国でも朝鮮でも犬の料理があるんだ。日本だって昔は食ってたんだし」
「そうなの?」マリコは子供のたわごとの相手をするみたいに適当な返事をしていた。ミチコの扱いに慣れてるという感じだった。ミチコは立ったまま器用に靴下をはいていた。小さく跳びはねながら靴下をはく仕草も小さな男の子みたいだった。
 ぼくは手探りで釣りの道具を片付けた。マリコはバスケットにミチコの汚れたユニフォームと下着を詰め込んだ。ミチコはその隙にさっさと行ってしまった。森の中で草を踏む音と、彼女の犬の鳴きまねをする声が聞こえた。ワウー、ワウワウワウワウー。

 ぼくはマリコと闇の中を戻った。からだを彼女にすり寄せるようにして歩いた。彼女はバスケットを持ち換えたり、歩く速度を変えたりしてぼくから離れようとした。ぼくは彼女からバスケットを奪い、釣りの道具と一緒に左手で持ちながら、右腕で彼女の首を捕まえた。彼女はミチコよりもっと柔らかかった。
「お願いだから少し離れてくれない?」と彼女は言った。
「怖いんだ」とぼくは言った。腕はほどかなかった。
「臆病者」と彼女。
「ぼくのこと怒ってるの?」とぼく。
「別に」
「一の宮とは何もなかったよ」
「言わなくてもわかってるわよ。あなたは拒絶したんだわ」
「どうしてわかるの?」
「顔に書いてあるもん」
 それは嘘だった。ぼくらは完全な暗闇の中にいて、お互いの顔を見ることさえできなかった。
 ぼくはミチコが手首を切り、ボーイフレンドが首を吊った話をした。彼女は黙って聞いていたが、どんどんからだが固くなっていくのがわかった。
「あなたは一の宮を傷つけたのよ」最後に彼女はぽつんと言った。
「ぼくだって傷ついたかもしれないんだ。でも、どうしようもなかったんだよ。ぼくは怖かったんだ」
 自分がどうしようもない屑みたいに感じられた。マリコにからだをくっつけていないと怖くてしかたなかった。でも彼女は全身でぼくを嫌っていた。
「きみは彼女と一緒のテントに寝て、怖いと思ったことはないのかい?」
「あなたが何を怖がってるのかよくわからないわ。わたしは一の宮のためになることをしたいのよ」
「きみはいつ手首を切ったんだ?」
「小学校を卒業したときよ。あなたに嫌われたまま会えなくなるんだって思ったから」
 ぼくらは足を止めた。彼女は行こうとしたが、首に巻きつけた腕で引き戻した。首の脈が激しく動いているのがわかった。
「嘘だ」とぼくは言った。
「嘘よ」
 マリコが喉の中で笑ったのが腕の感触でわかった。
「ほんとはあなたと下着を買いに行った晩に切ったの」
「どうして?」
「わからない。たぶん男の子が怖かったのよ」
「嘘だ」
「嘘よ」また彼女が喉の奥でゴクンと笑った。
「ほんとは一の宮の傷を見たときに切ったのよ」
「どうして?」
「あの人がかわいそうだったから」
「嘘だ」
 また彼女が喉でゴボゴボと笑った。「よくわかるわね」
「きみが好きだ」とぼくは言った。
「嘘よ」彼女は笑わなかった。
 確かにそれも嘘だった。ぼくは彼女が好きなわけじゃなかった。ただ彼女とならやれそうな気がしただけだ。
「いつ手首を切ったの?」とぼくはまたきいた。
「言わない」と彼女は言った。ぼくらはいつのまにかまた早足で歩き出していた。
「どうして?」
「自分でもわからないからよ、どうして切ったのか」
「きみは一の宮なんかとくっついてるべきじゃないんだ」とぼくはマリコに言った。
「くっついてるってどういうこと?」彼女は真面目な声できいた。
「きみには彼女が見えないんだ」
「あの人は誤解されやすいタイプなのよ」
「きみは彼女に首から血を吸われてるんだ」

           ★

 ゴールデンウイークにぼくはもう一度だけ天使に会った。よく晴れた日の夕方、ゴルフ
場のわきの道を散歩していたときだった。彼は赤と茶色のチェックの綿シャツに黒いコー
ル天のズボンをはいていた。
「やあ」と彼はぼくを見て言った。腕に藁半紙の束を抱えていた。
「やあ」とぼくも言った。「調子はどう?」
「まあまあだね」
「今日は何をしてるの?」
「宣伝活動さ」
「天国の?」
「人間にとって必要なことを宣伝するんだよ」
「たとえば?」
 彼は藁半紙を一枚見せてくれた。それはガリ版刷りのビラだった。ベトナムから脱走し
た四人のアメリカ兵を救おうといったようなことが書かれていた。
「これが天使の仕事なの?」
「まあ、そういうことさ」天使は曖昧に言った。
「なんだか普通の大学生がやってることと変わらないみたいだな」          
「きみはいくら出せる?」
「ぼくお金持ってないよ」
「一円もかい?」
「二千円持ってるけど、レコードを買いに行くんだ」
「へえ。何を買うんだ?」
「ビッグブラザーとホールディングカンパニーの『チープスリル』」
 それはジャニス・ジョプリンがいたバンドだ。その後彼女は独立し、二枚目のソロアル
バムを録音中に死んでしまった。一九七〇年の十月のことだ。その年の九月にはジミ・ヘ
ンドリックスが死んだ。その次の年にはドアーズのジム・モリソンが死んだ。みんな薬の
やりすぎだった。
「それはいいアルバムだ」と天使が言った。「今度おれが貸してあげるから、その二千円
をくれないかな?」
「いやだよ」とぼくはきっぱり断った。
「じゃあ、女の子の下着はいらないか?」天使はあたりに目を配りながら、急に声をひそ
めて言った。
「いらないよ」
「聖書女学院のかわい子ちゃんのだぜ」
「いらないってば」
 ぼくはいらいらしていた。この天使のことは嫌いじゃなかった。ぼくの部屋に彼がやっ
てきたとき以来、ぼくは自信をもって小説が書けるようになっていた。今度会ったらお礼
を言おうと思っていたのだ。しかしぼくは小説のことを口に出さなかった。それはおれの
おまじないがきいたんだから二千円をよこせと言うに決まっているからだ。
「その痣どうしたの?」とぼくは天使にきいた。
「これかい? これは生まれつきさ」弱々しい微笑を浮かべながら天使が答えた。どうや
らそれは一番きかれたくないことらしかった。彼の首には細い筋状の赤痣がついていた。
「きみはもしかしたら、総愛学院の卒業生で、一の宮ミチコのボーイフレンドだったんじ
ゃない?」                                   
「それはおれが天使になる前の話さ。おれは一度死んで生まれ変わったんだよ」
「ふうん」とぼくは言った。「じゃあ、きみは死んで天国に行ったんだ」
「そういうことだね」
「死ぬってどんな気分?」
「まあ、高校を卒業して自由の身になるっていうのと似てるかな」
 その頃、自殺はそんなに特別なことじゃなかった。一九六八年の学生は誰でも自殺に興
味を持っていたし、どんなに鈍いやつでも一度は自殺を考えたことがあった。中学生や高
校生には二十歳過ぎまで自分が生きてるなんて想像もできなかった。しかし、孤独を理由
に自殺するやつはまずいなかった。今と違って自殺はそれほどさみしいことじゃなかった
のだ。ぼくらは孤独になりようがなかった。近くにあまりにも友達や仲間が大勢いたし、
自分が関係ないと思ってるようなことでも、誰かがむこうのほうから近づいてきて、これ
は他人事じゃないんだと主張した。自分に無関係なことなんてこの世にはありえないんだ
ということを認めるまで離してもらえなかった。
「どうしてきみは一の宮とやらなかったの?」とぼくはきいた。こういう時代だったから
何でもきくことができたのだ。
「彼女は自分じゃぼくをセックスに誘ってるつもりだったのかもしれないけど、ほんとは
ぼくと一緒に死のうとしただけなんだ。彼女にとってそれは欲望なんだよ」
「ふうん」とぼくは曖昧に言った。
 別に納得したわけじゃなかった。死ぬことが欲望の対象になるということが子供のぼく
にはまだよく理解できなかったのだ。


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