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一九六八年にはヒッピーがいたるところにいた。これは一八六八年にはニホンオオカミがいたるところにいたというのと同じくらい重要なことだ。ジーパンをはき、丸いサングラスか銀縁眼鏡をかけ、バンダナを頭に巻いて、彼らは聖書女学院の農場に入り込んできた。最初は校庭にテントを張ったのだが、警察を呼ばれて追い出されたので、こっちに落ち着いたというわけだ。世間はまだ彼らにそれほど冷淡ではなかった。彼らがあちこちで殺人事件を起こしたり、悪魔を拝んだり、人肉を鍋で煮て食べたりして社会から犯罪者扱いされるようになるのは一九六九年以後のことだ。あいている土地があり、人にあまり迷惑をかけさえしなければ、学校は彼らを叩き出そうとはしなかった。
彼らは草の上にキャンプを張り、谷間で魚を釣り、それを焼いて食べた。ギターを弾き、歌をうたい、ときにはマリワナを吸い、香を焚き、瞑想し、ヨガをやり、ベトナム戦争の話をし、セックスをした。
ぼくの母は顔をしかめはしたが、彼らがフェンスを乗り越えて調味料を借りに来たりすると、鍋やまな板まで貸してやった。一九六八年のヒッピーと一般の人々との間にはモラトリアムの季節が存在したのだ。
「ピース」と彼らは母に言った。
「たばこは置いてないわよ」と彼女は答えた。
このやりとりがすべてを物語っている。彼らは有害でも無害でもなかった。ただ鳥のようにそこにいたのだ。よく見ればけっこう気持のいいやつもいた。彼らの決まりはただひとつ、笑うことだった。相手が微笑む前に自分から微笑むこと。彼らは草の上に寝るだけで世界を幸福にできると考えていた。
そのうちフェンスが取り払われた。ぼくの家だけでなく、聖書女学院の桃畑に面している家のフェンス全部だ。ヒッピーたちが勝手にはずしたのだが、誰も文句は言わなかった。桃畑と自由に行き来できるようになったことをけっこうみんなが楽しんでいたのだ。農園から溢れたヒッピーたちがそうした家の庭にテントを張ることもあった。
最初に来た連中はわが家の庭にごみの山を残していった。池にはパン屑や使用済みの生理用品が浮いていた。父は今度やつらが来たら警察を呼んでやるといきまいた。
次に現れたヒッピーたちは前の連中が残していったごみをきれいに片付けてくれた。そればかりか魚を分けてくれたり、庭の芝を刈ってくれたりした。ぼくには一度だけこっそりマリワナを吸わせてくれた。喉がむせて胸が苦しくなっただけだったので、二度と吸いたいとは思わなかったが、それでもマリワナを吸った経験があるというだけで、なんとなくうれしい気がした。母は彼らが気に入った。結局父は警察を呼ばなかった。前の連中と同じく昼間からギターを弾いてうたったり、公民権運動について語ったり、セックスをしたり、クリシュナを讃える祈りを捧げたりしたが、それでも彼らにはどことなく気品があったのだ。
ぼくらはすっかりヒッピーたちに慣れてしまった。何人か友達もできた。中には白人もいた(ぼくと兄は彼らを『本物のヒッピー』と呼んでいた)。ヒッピーたちは何かというとすぐ裸になって日光浴や水浴びをした。白人の裸はにわとりを連想させ(羽をむしったやつだ)、日本人の裸はヤリイカ(茶色の薄皮をむいてないやつだ)を思わせた。ぼくと兄が女のヒッピーたちを眺めていても、母は何も言わなかった。彼女にもヒッピーたちの裸は(男も女も)にわとりとヤリイカにしか見えなかったのだ。
庭にいたヒッピーたちが行ってしまうと、母は急に物足りなさを感じた。それで今度はぼくらが庭でキャンプを張ることになった。キャンプ用品一式を買い込んできてテントを張り、焚火を起こして料理を作った。ヒッピーたちと谷間の渓流や池で川鱒やなまずを釣った。野菜は聖書女学院の農場からヒッピーたち経由で回ってきた。母もせっせとトマトやナスやピーマンの苗を植え、レタスやほうれんそうや二十日大根の種をまいた。暇なときは母と兄とぼくでトランプをやった。家の中に入るのは、雨の日だけだった。兄は芝生の上に椅子を置いて江戸時代の本を読んだ。彼は百年以上前に書かれた本しか読まなかった。遊廓や床屋や風呂屋を舞台にした恋愛小説やユーモア小説、それから侍たちが城を攻めたり殺し合ったり、妖怪が出てきたりする伝奇ロマン。兄は百年前の東京の物価や食べ物、町並みや市民の生活にとても詳しかった。
ぼくはテーブルを出して小説を書いた。マリワナやセックスはやらなかったが、それでもけっこう解放的な気分だった。父は相変わらず遅く帰ってきたが、夜は池のわきにある水銀灯の光で本を読み、テントの中で眠った。
「けっこういい生活じゃないか」と彼は言った。
銀行の取締役になった彼は、毎朝テントから起きだし、芝生の上で母が作ったトーストとベーコン・エッグとサラダとミルクティーの朝食を食べ、迎えに来た車で出勤した。
四月の初め、春休みの終わり頃、マリコが妹を連れて泊りに来た。彼女の家の近所でもファミリー・キャンプがブームになっているということだった。彼女と妹はうちでもキャンプを張ろうと両親に持ちかけたが、マリコの両親はキャンプとか飯ごう炊さんが大嫌いだったので耳を貸してもらえなかった。そこで彼女たちはシュラフだけ買ってもらってうちにやってきたわけだ。
マリコの話だと、聖書女学院の生徒の三人に一人が家でキャンプをやってるということだった。やはりヒッピーたちに刺激されたのだ。そういえば我が家の近所でも庭にテントを張ってる家がたくさんあった。あの遠山恵の家でさえときどきは庭で食事をしていた。そういう季節だったのだ。友達のヒッピーたちを訪ねて農園をうろついていると、水着姿の彼女が芝生の上で水浴びをしているのが見えたりした。
「覗きに来たんでしょ」遠山恵がぼくに声をかけた。
「やあ、こんにちは」ぼくは笑って挨拶した。
「あなたの学校に言いつけてやるから」と彼女はまた言った。
ぼくは彼女の水浴びを覗いていたわけじゃなかった。彼女の家の庭は、ぼくの家と同様、聖書女学院の農園にいればどこからでも見ることができたのだ。まわりに全裸のヒッピーたちがいくらでもいたから、水着を着て水浴びをしてる女の子を見ても全然興奮しなかったし、なんだかとても間が抜けて見えた。それに遠山恵はとてもスタイルが悪かった。顔もぼく好みじゃなかった。
マリコは小学校三年生の妹とシュラフを持ってやってきた。母はとても喜んだ。ぼくらは昼間のうち庭の池に潜って鯉を取ったり、ホースで水浴びをしたり、トランプをしたりした。彼女たちはおそろいの、とても小さなビキニの水着を着ていた。マリコのがオレンジに黄緑の縁どり、妹が黄色にブルーの縁どりだった。マリコは母の料理を手伝い、兄は江戸時代の本を読み、ぼくは斧で太い薪を割った。
「おねえちゃん、きれいだと思う?」マリコの妹のノリコがぼくの薪割りを眺めながら言った。
「うん、まあね」
「無理しちゃって」ノリコがくすっと笑った。「おねえちゃんのこと好きでしょ」
「うん、まあね」
「じっと見てるからわかるわ」
「そんなに見てないよ」
「見てたわ」
「そうかな」
「見てたもん」
ぼくはノリコを見て、それから母のそばで野菜を刻んでいるマリコを見た。細くて平べったいノリコを見てから水着がはちきれそうなマリコを見ると、リオデジャネイロのカーニバルを見ているような気がした。確かにすごく可愛かった。少なくとも農園にいるヒッピーの女の子みたいにヤリイカに見えたりはしなかった。しかし、だからといってぼくはマリコを見て勃起したりしなかった。それはちょっと微妙な問題だ。小学校三年生のノリコにどう説明していいかわからなかったのでぼくは黙って薪割りを続けた。
「いけませんわね」という女の声が聞こえた。「年ごろの女の子を裸にして息子さんに近づけたりして」
振り返ると遠山夫人が日傘をさして、よく陽の当たる桃畑に立っていた。
「なんかいやらしい言い方ね」とノリコがぼくに耳打ちした。
「あの人はいつもいやらしいことばっかり考えてるんだ」とぼく。
「すぐにその子を家に帰さなければ、シスターを呼んできますわよ」遠山夫人は母に警告を発しているのだった。
「どうぞ、お好きに」と母が言った。
「おたくのぼっちゃんがどんなに危険な状態にあるかおわかりにならないんですの?」遠山夫人が声を荒くした。
「うちの子が犬みたいに庭で勃起してるとでもおっしゃるの?」母も鋭い声を上げた。彼女は自分の息子を絶対に疑わないタイプの母親だった。
「《ぼっき》ってなに?」とノリコがぼくにきいた。
「さあね」とぼく。
母の気迫に押されて遠山夫人はよろけながら行ってしまったが、しばらくしてシスターたちと一緒に戻ってきた。彼らはひそひそ何か話していた。
「まだ何か話がおありなんですか?」母はいい加減頭に来ていた。
「ほら、母親からしてあんなふうなんですよ」と遠山夫人が言った。
「でも、お母様がいらっしゃるならね」シスターの一人が言った。
「まあ、あまり感心したことじゃないですけど」と別のシスターが言った。
「そんなにうるさく言うなら、あそこでやってるヒッピーでも警察に突き出したらどうなのよ」と母は叫んだ。
桃畑ではヒッピーたちが昼寝をしていたが、そのうちいくつかのカップルはセックスの最中だった。シスターたちは彼らを見て尼僧服の袖で目を覆った。
「あれ何してるの?」とノリコがヒッピーを指さしながらぼくにきいた。
「さあね」とぼく。
マリコがこっちを見て笑った。彼女はリオデジャネイロのカーニバルで踊るブラジル娘みたいだった。
わが家にはテントが二つあった。一つには両親が、もう一つにはぼくと兄が寝ていた。
その夜はぼくのテントにマリコとノリコが寝て、ぼくと兄は芝生の上に寝た。温かい夜だったから、シュラフにもぐりこめば寒くなかった。兄はシュラフの中で懐中電灯をつけ、江戸時代の本を読んでいた。外のほうが気持よさそうだと言って、マリコとノリコもテントから出てきた。父と母も芝生に出てきて寝た。父は大きなシュラフに母と入っていたが、やはり懐中電灯をつけてガルブレイスの『豊かな社会』を読んでいた。
ぼくとマリコはシュラフから首を出して頬っぺたがくっつきそうなくらい顔を近づけ、風みたいなひそひそ声でいろんなことを話した。
「今度一の宮に会ってくれる?」とマリコが言った。
「いいよ」
なんだかぼくが彼女の女友達で、一の宮ミチコがボーイフレンドみたいだと思った。一の宮ミチコというのは例のバスケットボール部の先輩のことだ。
一の宮ミチコはクラブの練習がない日もマリコを学校に呼び出していた。二人だけでバスケットボールの練習をしたり、筋力トレーニングをしたり、プールで泳いだりした。
「それから?」
「庭園でお話したり」
「それだけ?」
「そうよ」マリコはぼくの鼻に鼻をくっつけながら闇の中でぼくの目を見つめた。彼女の髪はとてもいい匂いがした。
ぼくは彼女にキジの話をした。
ヒッピーたちがやってくる前、聖書女学院の果樹園にはキジがいた。雄と雌だ。彼らはいつも草叢から首を出して、途方に暮れた様子でまわりをキョロキョロ見回していた。去年、つまり一九六七年のことだ。ぼくは黒い猫がキジの巣に近づき、卵を食べてしまうのを見た。キジの雄は猫が近づくと、わざと巣から離れたところで羽をバタバタさせた。怪我をしたふりをして猫の注意を惹こうというのだ。黒猫はその手に乗らないで、ちゃんと卵を全部食べてしまった。殻を噛み砕くバリバリという音がぼくのところまで聞こえてきた。とろっとした黄身が猫のだらしない口元から垂れていた。雌のキジはそばでキョロキョロあたりを見ていた。雄はずっと怪我の真似をしてバタバタやっていた。猫が行ってしまうとキジの夫婦は巣に戻ってきて、ぼんやり巣を見つめていた。
ぼくはキジがよそへ行ってしまうだろうと思っていたのだが、しばらくすると彼らは少し離れた場所に巣を作り直した。ぼくは卵があるかどうか見に行った。卵はあった。ぼくはすぐに引き返そうとした。雌のキジがびっくりしたような目でぼくを見ていたからだ。そのとき雄のキジが十メートルほど離れたところでピョンピョン跳んでいるのが見えた。ぼくの注意を惹こうとしているのだ。ぼくは急に腹が立ってきて、卵をポケットに入れて持って帰った。卵は四つあった。ぼくはそれを台所のごみ箱に捨てて、棒でグチャグチャになるまで潰した。二階の自分の部屋に戻って果樹園を見ると、キジは巣に戻り、途方に暮れた顔であたりをキョロキョロ見回していた。ぼくは窓の手摺に顔をつけて泣いた。
一九六七年の秋のことだ。
「どうしてそんなことしたの?」とマリコがきいた。
「わからない」
「キジはどうしたの?」
「わからない。どこかに行っちゃった」
「ヒッピーが来たからよ」
「ぼくのせいだよ」
「こんなにヒッピーが来ちゃったら、あなたが何もしなくても、今ごろはどこかに行っちゃってたわよ」
「でも、卵を潰したのはぼくなんだ。キジはそれからすぐいなくなったんだよ」
ぼくは顔を上げて両親のほうを見た。父はシュラフから顔だけ出して懐中電灯の光で本を読んでいた。母の顔は見えなかった。眠ってしまったのだろう。ぼくはキジの夫婦が草叢から顔を出してあたりをキョロキョロ見回している姿を思い出した。ぼくの両親にはキジを連想させるところがあった。彼らは庭でキャンプを張っている間、毎朝目を覚ますたびに、自分たちはどうしてここにいるんだろうといった様子であたりをキョロキョロ見回していたからだ。
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春休みが終わって学校が始まると、ぼくと兄は毎朝父と同じように庭から学校に出掛けた。総愛学院でも三人に一人が家でファミリー・キャンプをやっていた。山の中腹や丘の上に家があるやつは、例外なく近所にヒッピーがキャンプを張っていて、それに影響されてファミリー・キャンプを始めたのだ。まだファミリー・キャンプをやっていなかったやつらも、その話を聞いて家の庭にテントを張った。最初の一週間で、ファミリー・キャンプをやってる生徒の数は三人に二人になった。
ぼくは春休みの間に書きだした英文小説をカークパトリック神父に渡し、神父は早速英作文の授業でそれを一章分ずつ朗読しだした。十九世紀のイギリスを舞台にしたチャールズ・ディケンズ風の小説だった。孤児で泥棒の少年が間違って人を殺してしまい、逃亡の生活を続けながら人間的に成長していくというストーリーで、大金持ちの令嬢に愛されたり、最後にはなぜか突然、彼は人を殺していないということが証明されたり、実は孤児じゃなくて貴族の落とし胤だったということが判明したりといった具合で、かなりご都合主義のところもあったが、カークパトリック神父の朗読のうまさも手伝って、けっこう人気を博した。ぼくはどうやったら読者の興味をつなぎとめられるかちゃんと知っていた。だから各章ごとに乱闘や意外な発見や愛の告白といった山場を一つずつ入れ、次の章に期待を持たせるような謎や新しい人物の登場で締めくくった。
「すごいぜ、坊や」とカークパトリック神父はぼくをほめてくれた。「学校中の先生がびっくりしてる。総愛学院だけじゃないぜ。聖書女学院にもコピーを持っていってやったんだ。そしたら尼さんたち、『おたくじゃどんな教え方してらっしゃるの?』だってよ。ざまあみろだ」
"A Tale Of A Little Thief"(というのがこの小説の題名だった)は結局三十二章で完結し、一九七〇年に上智大学の語学実験室から英語のサイドリーダーとして出版された。結局、三年間でこの本は一万部刷られ、ぼくは一冊につき十円の印税をもらった。でも、これはずっとあとの話だ。一九六八年には、ぼくはただ書くことが楽しくて書いていた。完結するかどうかさえ考えていなかった。
「ところで坊主」とカークパトリック神父が続けて言った。「おまえは春休みに聖書女学院のかわいこちゃんとデートしてるところをPTAに見つかって、騒ぎを起こしたそうじゃないか」
「すみません」とぼくは言い、ついでに遠山恵が紙袋を犬に破られて、パンティがあたりに散らばった話をしてやった。
「そいつはお手柄だったな」と神父は言った。「でも、それはそれとして神崎神父がおまえに話があるそうだ」
ぼくは訓育主任の神崎神父のところへ行き、運動場を三十周走るように言われた。遠山母娘はちゃんと目的を果たしたわけだ。
土曜日の午後、聖書女学院の農園に白いバスケットボールのユニフォームを着た少女たちが現れた。ヒッピーたちは寝転がっていた草地を明け渡し、眩しそうに彼女たちを眺めた。聖書女学院のバスケットボール部の少女たちは軍隊的な規律を持った天使の群れみたいに見えた。きれいな隊列を作り、かけ声をかけながら何周か走ると、草地の上に広がって腕立て伏せや腹筋、スクワットを百回ずつやった。
ぼくは芝生の上で小説を書いていた。しばらくすると彼女たちは休憩に入り、マリコが桃畑を抜けてこっちに近づいてきた。すごく背の高い、髪を短く切った美人が一緒だった。つまり一の宮ミチコだ。マリコは彼女を紹介してくれた。ぼくは以前にも坂道で学校の帰りに何度も彼女を見たことがあった。彼女は一口で言うと、とても目立つタイプだった。痩せていて、胸はマリコみたいに大きくなかったが、ファッション・モデルみたいにきれいだった。大きな茶色の目を見ていると、吸い込まれそうな気がした。そばにいるマリコがとても子供っぽく見えた。
「どうして急に農園でトレーニングするようになったの?」とぼくは彼女たちにきいた。
「学校に許可を取ったのよ」と一の宮ミチコが言った。「ヒッピーたちだけに使わせておく手はないでしょうって言ったら、あっさりOKしてくれたわ」
ぼくは彼女の顔をじっと見ていた。彼女はそれ以上何も言わなかった。はっきり言って彼女の説明は答えになっていなかった。ぼくは今まで校庭や体育館でやってた練習をどうして農園の草の上でやろうとしたのかときいたのだ。
「土曜日は体育館も校庭も人で一杯なのよ」とマリコが言った。「だからボールを使わないトレーニングはここでやることにしたの」
顔を赤くして、ちょっと息を弾ませていた。彼女は小学校の頃からランニングや筋力トレーニングが苦手だった。白いユニフォームが汗で濡れて、赤くなった皮膚に張りついていた。
ぼくのほうにも紹介する人たちがいた。
「こっちがリッキー、それからジェーン、それから娘のジャネット」とぼくは言った。
リッキーとジェーンはぼくの横で白い椅子に腰掛けていた。赤ん坊のジャネットはリッキーが肩車していた。彼らはアメリカから来た夫婦で、桃畑のへりにテントを張っていた。リッキーはサンフランシスコで詩集を三冊出したことがある詩人だった。ジェーンも詩を書いていたが、まだ出版したことはなかった。
「こんにちは」とマリコが顔を赤くしたまま言った。
「こんにちは」とジェーンが日本語でいった。リッキーもジェーンも日本語はすごくうまかった。
「よろしく」とリッキーが言った。やさしくて感じのいい笑顔だった。娘のジャネットに負けないくらい。
「はじめまして」とミチコが言った。彼女はちょっと顔をこわばらしていた。
リッキーとジェーンはヒッピーたちの中にキャンプを張っていたが、彼らとは一線を画しているようなところがあった。ヒッピーたちの中にはカップルもいたし、子供を育てている連中もいたが、みんなもっと大きなグループをつくってその中で暮らしていた。子供もそのカップルのものというよりグループの共有財産のようなところがあった。一九六八年の原始共産制。
リッキーとジェーンは二人だけで行動していた。教会で結婚式は上げなかったが、ちゃんと結婚届けを出し、家族や仲間を呼んでパーティーもやった。リッキーはヒッピーのことを「ガキども」と呼んでいた。彼はモンタナ州の田舎の母子家庭で育ち、一九四〇年代から放浪生活をしていた。
「やつらがおしめをあててた頃からおれは鱒を釣って食ってたんだ」と彼は言った。「やつらがロサンゼルスやサンフランシスコのハイスクールに行ってたときも、おれはアイダホやモンタナやワイオミングの山の中で鱒を釣ってたんだ」
マリコもミチコも挨拶をしたあとはじっと黙っていた。リッキーとジェーンの顔を交互に見ては目をそらし、救いを求めるようにジャネットを見た。
赤ん坊のジャネットは何も着ていなかった。丸々と太って血色がよかった。オランダ・ルネッサンスの画家が描いたような天使から翼を取ったらジャネットになった。そんな感じの赤ん坊だった。
リッキーは口髭を生やしていた。銀縁の眼鏡をかけていた。ジーンズのチョッキを着ていた。ウエスタン・ブーツをはいていた。ジェーンは黒い髪をクリーム色のスカーフで包んでいた。縁なしの細い眼鏡をかけていた。黒い牛革のブーツをはいていた。そして二人ともそれ以外は一切何も身につけていなかった! リッキーは栗色の陰毛とかたちのいいおちんちんを、ジェーンはミルクの一杯詰まったおっぱいと真っ黒い陰毛を陽に当てていた。これが彼らのふだんの格好だった。ぼくが最初に彼らと会ったときも同じ格好をしていた。ぼくらはよく一緒に魚を釣り、日向ぼっこをした。ぼくは彼らと一緒にいても、決して素っ裸にはならなかったが、彼らは別にそれについて何も言わなかった。リッキーはぼくに自作の詩を読んでくれたり、ぼくの英文小説の間違いを直してくれたりした。ぼくの家族は最初のうち彼らを敬遠していた。兄は江戸時代の本を読み耽って、彼らがきても一切相手にしなかった。母は彼らが庭に来るとさっさと家に入ってしまった。彼女は聖書女学院の農園の中でヒッピーが素っ裸になろうとセックスしようと、平然と眺めていることができた。彼らは裸のまま近づいてくることはなかったからだ。ところがリッキーは庭に入ってきて、おちんちんをぶらぶらさせながら、
「やあ、こんにちは。息子さんはなかなか才能がありますね」なんて言ったりした。
最初のうち母はショックでしばらく口がきけなくなった。兄は本で顔を隠して彼らに気づかないふりをした。父は最初にジェーンを見たとき、池のそばにある大きな岩の陰に隠れてしばらく出てこなかった。
「なんだあの人たちは?」と彼はぼくにきいた。「変な宗教にかぶれてる連中じゃないだろうな?」
「平気だよ」とぼくは言った。「あの人たちは自然が好きなだけなんだ」
リッキー一家と最初から話すことができたのはぼく一人だった。ぼくは彼らのリラックスした感じが好きだった。ジャネットは天使みたいだったし、ジェーンはお人好しだった。リッキーはよく見るとすごく整った顔をしていたが、笑うと子供みたいだった。ぼくの家族も慣れてくると、リッキー一家のいいところがわかるようになったらしく、彼らが庭にやってきても何も言わなくなった。
「あの人たちは、なんて言うか⋯⋯鹿に似てるわね」と母はぼくに言った。
リッキーもジェーンもよく陽に焼けた褐色の肌をしていた。
「練習は終わりかい?」リッキーがマリコとミチコに言った。
「これから体育館に戻ってボールを使った練習をやるのよ」ミチコが眉間に皺を寄せながら言った。マリコが不安そうに彼女を見た。
「精が出るね」とリッキーが言った。内容はどうでもいいけど、何か言いたかったというような口ぶりだった。
「そうかしら」とミチコが言った。
リッキーはじっとミチコを見つめていた。重苦しい沈黙が続いた。ジェーンはいつのまにか夫のおちんちんを握っていた。喧嘩っ早い夫をなだめようとして、肩を掴むかわりにそこを握ってみたという感じの握り方だった。
「きみらはもうちょっとリラックスする必要があるな」とリッキーが言った。
「そうかな」とミチコ。
「彼女たちを見てみろよ。みんなのびてるじゃないか」とリッキー。
ぼくらは桃畑のほうを見た。バスケットボール部員たちが桃の木にもたれたり草地の上で四つん這いになったりしてゲエゲエ吐いていた。たぶん彼女たちは、というより彼女たちを指揮していたミチコたち高等部の二年生は、初めて農場でトレーニングをやるにあたって、ヒッピーたちにちょっといいところを見せておきたいと思ったのだろう。いつもより腹筋や腕立て伏せやスクワットの回数を多くしたのだ。
「わたしだって同じ回数やったんだから」とミチコが言った。
「きみと結婚する男は体力がいるだろうな」とリッキーが笑った。
ジェーンはしかめ面をしながら彼の固くなったペニスをはじいた。それは怖いくらい大きく固く勃起していた。ミチコはそれを無視してぼくに、「またね」と言い、さっさと部員たちのほうへ戻っていった。
マリコがつらそうな顔でぼくを振り返りながらついていった。
それからリッキーとジェーンが英語で罵り合いを始めた。早口なので何を言ってるのかわからなかった。たぶんジェーンは彼が少女たちを見て勃起したことに腹を立てていたのだろう。ふだん彼女は彼がおちんちんを露出させてることについて、「どの女にあいつが勃起するかすぐわかるって寸法なのよ」と冗談ぽく言っていた。だからぼくは彼女の神経質な反応が意外だった。
ジャネットが泣きだしたので、夫婦は喧嘩をやめた。彼らはぼくのほうを見て照れ笑いした。
「女ってやつはあれのことになると理性をなくしちまうんだ」とリッキー。
「男のここは女を見ると理性をなくしちゃうってわけよ」と、彼のおちんちんを指差しながらジェーン。
初夏みたいに暑い日が続き、農園には聖書女学院の少女たちが毎日入れ替わりやってきて、運動部は筋力トレーニングをやり、美術部はスケッチをやり、音楽部は演奏し、合唱部は合唱し、演劇部は台本を持って稽古をやった。ヒッピーたちはそれを面白そうに見ていた。音楽部や合唱部の練習中に、シタールやサントゥールを鳴らして邪魔をする連中がいた。筋力トレーニングをやってる少女たちのわきで、素っ裸のヒッピーたちがまねをすることもあった。それを見た少女たちが怖がって逃げ出すこともあった。でもそういう悪戯はしょっちゅうあったわけじゃないし、すぐにシスターたちがやってきて、ものすごい顔でどなったので、ヒッピーたちはおとなしく謝った。怖がってテントをたたんで逃げ出したやつもいた。
バスケットボール部員たちは一番頻繁にやってきた。一番腕立て伏せや腹筋やスクワットの回数が多かったのも彼女たちだった。そしていつも何人かの少女たちが途中でひっくり返ったり吐いたりした。農場に現れるときはいつも全員が真っ白いユニフォームを着ていたが、帰っていくときは汗でずぶ濡れで、背中やお腹は草の汁で緑色に汚れていた。
ミチコはどんなときでも先頭に立っていた。腕立て伏せでも腹筋でもスクワットでも、彼女はみんなの倍の速さでやることができたし、何百回やってもほとんど汗をかかなかった。自分のノルマをこなしてしまうと、彼女はみんなのところを回って、ごまかしたり怠けたりしないように見張っていた。
「どうした?」と彼女は下級生に言った。「こんなことでへばってたらヒッピーたちに笑
われるぜ」
そんなときの彼女は完璧に男の子みたいだった。男子校によくいるタイプの、しごきが好きな上級生に彼女はとてもよく似ていた。
「どうした?」と彼女は腹筋の途中でへばってしまったマリコのところへ行き、大きく盛り上がった胸を靴で踏んづけながら言った。「まさかおっぱいが重くて持ちあがらないっていうんじゃないだろうな」
マリコは赤い顔をして伸びていた。白いシャツとショートパンツが汗で透き通って、真っ赤な肌にぴったり貼り付いていた。ミチコに叱られたので、彼女はまた頭の下に両手をあてがって腹筋を始めようとしたが、ミチコの足は相変わらず彼女の胸を踏んづけていたので、彼女は上体を起こすことができなかった。
「がんばれ」とミチコはおかしそうに笑いながら言った。
彼女はとても楽しそうだった。
「わからない」とリッキーがミチコとバスケットボール部のトレーニングを見つめながら言った。「あの子はどうしてあんなひどいことをするんだ?」
「よくあることさ」とぼくは言った。「日本人はああいうのが好きなんだ」
「どうして彼女たちはあんなことをされて黙ってるんだ?」
「さあね」とぼくは言った。「彼女たちもああいうのが好きなんだよ、きっと」
「ひどいな」とリッキーは言った。「日本人は自由に振る舞うことを怖がってるみたいに見えることがよくあるじゃないか。なぜだ?」
「ぼくらはまだまわりと触れあうことを学んでいるんだよ」とぼく。
中学生にしてはませたセリフだと思われるかもしれないが、そのとき確かにぼくはこの通りの言葉を使った。一九六八年の中学生はみんなけっこう議論が得意だった。
「まわりと触れあって感じた恐怖をバネにして自分のからだを攻撃する、これが彼らの刻苦精励の秘密だよ」とぼくは言った。
ぼくはリッキーと話すときは日本人を《彼ら》と呼ぶことにしていた。とても自分がその一員だとは思えなかったからだ。
コットンキャンディマンがやってきて、
「ベイビー」とぼくに言った。「ハッピーかい?」
「ああ、ハッピーだよ」とぼくは答えた。
コットンキャンディマンはぼくがハッピーかハッピーでないかはっきり言うまでしつこく「ハッピーかい?」ときく男だった。ぼくはハッピーというのがどういう状態かまだよくわかっていなかったが、とにかくハッピーだと答えることにしていた。「ハッピーって一体なんだい?」なんて言おうもんなら、彼お得意の何時間も続く議論が始まってしまうからだ。
「でも、そのベイビーはやめてくれないかな」とぼくは付け足した。「ぼくは赤ん坊じゃ
ないんだから」
「気に触ったかい、ベイビー」とコットンキャンディマンは言った。「今度から気をつけるよ、ベイビー」
コットンキャンディマンはアフロ・ヘアを自慢にしていた。アフロ・ヘアというのは当時黒人がよくやっていた髪型で、細かく縮れた髪を綿飴みたいに大きく膨らませたやつだ。コットンキャンディマンは黒人ではなかった。よく陽に焼けていて、メキシコのギャングみたいな顔をしていたが、ハワイにもタヒチにも沖縄にもいそうな顔だった。彼の髪は黒人みたいに縮れていなかったので、細かいパーマをかけてヘアスプレーでガチガチに固めていた。寝るときも枕がいらないくらい彼のアフロ・ヘアは完璧だった。いつも花柄の派手なシャツに赤いベルボトムのスラックスをはいていた。ジミ・ヘンドリックスが彼のアイドルで、ときどき『フォクシー・レイディ』や『ラヴァーマン』を口ずさんでいた。
「おれたちは日本人に必要なリラクゼーションについて話してたんだよ、坊や」とリッキーがコットンキャンディマンに言った。「おれはあの天使みたいに可愛い女の子たちがどうして自分を痛めつけようとするのかわからないって言ったんだ」
「ヘイ、マン」とコットンキャンディマンは一歩身を引いて構えながらリッキーに言った。《マン》を黒人みたいに《メェン》と伸ばして発音するのが彼の癖だった。「今度おれのことを坊やなんて呼んだらあんたのおちんちんを引っこ抜いちまうぜ、マン」
「気に触ったかい、坊や?」とリッキーが笑った。「今度から気をつけるよ、坊や」
リッキーの正確な歳はわからない。でもコットンキャンディマンよりかなり年上だったことは確かだ。彼はコットンキャンディマンのことをいつも《坊や》と呼んでいた。
「日本人はリラックスしてるさ」リッキーとの喧嘩を避けることにしたコットンキャンディマンが言った。「特におれたち若いやつらはね。リラックスしてないのは年寄りだけだよ」
「あの白鳥みたいに可愛い女の子たちはリラックスしてるかい、坊や?」とリッキー。
「もともと子供たちはリラックスしてるものさ。そうだろ、ベイビー?」とコットンキャンディマンがぼくに言った。
「ぼくらはリラックスして世界と接することを覚えたいのに、学校が邪魔をするんだ」とぼくは言った。
「ヘイ、マン」とコットンキャンディマンはリッキーに言った。「このベイビーの言う通りだぜ。あの尼さんたちが時代遅れなんだ。それだけさ、マン」
「でも、やっぱり女の子たちは尼さんたちにプレッシャーをかけられてるんだろ?」とリッキーが笑った。
「そりゃプレッシャーは感じるわ」一番手前で腹筋をやっていたバスケットボール部員の女の子が息を弾ませながら言った。「でも、シスターたちは心配症なだけで、悪気があるわけじゃないのよ」
「腹筋に集中したほうがいいよ、お嬢ちゃん」とリッキー。
むこうのほうで「八十八、八十九、九十、九十一、九十二、九十三⋯⋯」と声を出して数えながら、部員たちを励ましているミチコの姿が見えた。女の子たちの何人かはすでに途中でのびたり、ゲロを吐いたりしていた。
「それにこれはわたしたちがしたいと思ってしてることなのよ」と手前から二番目にいたマリコが言った。彼女はすでに七十三回でのびてたままだった。
「問題はきみたちがとてもセクシーだってことなんだ」とリッキーが言った。
彼は椅子に座ってリラックスしていたが、いつのまにかおちんちんだけがかなり緊張していた。ジェーンはその場にいなかったので、夫のペニスを昔の飛行機の操縦竿みたいに握る人間はいなかった。
「ヘイ、マン」とコットンキャンディマンが笑った。「おまえのそのおちんちんをリラックスさせろよ、マン」
ぼくとリッキーはマリコの汗で半透明になった白いユニフォームを眺めていた。その下には下着が透けて見えた。ぼくと一緒に買いに行った白いブラジャーとパンティ。一口に言って、彼女は『プレイボーイ』のピンナップ・ガールよりセクシーだった。
「ヘイ、マン」とコットンキャンディマンがリッキーに言った。「おまえやおまえのかあちゃんはセクシーじゃないって言うのかい、いつもパブリック・ヘアまで見せてさ」
ぼくとリッキーは一瞬顔を見合わせた。たぶんコットンキャンディマンは陰毛を意味する pubic hair (ピュービック・ヘア)という言葉をどこかの本で見て、public hair と読んでしまったのだろう。しかし、パブリック・ヘアという言い方は、ざっくばらんなところが妙に現代英語に合ってるように思えたので、ぼくはそれについて何も言わなかった。リッキーもちょっと笑っただけだった。
「たしかに、隠したり禁止したりすることで生きのびるっていうのがエロティシズムの秘密なんだ」とぼくはコットンキャンディマンに言った。
「こいつがおちんちんを出してるのは全然いやらしくないってわけか、ベイビー?」コットンキャンディマンはかっとなっていた。
「たしかに、隠されたものに勃起するってのは、おれのほうにも問題があるんだろうな」リッキーがそう言いながら苦笑いした。
「ヘイ、マン」とコットンキャンディマンは強い口調で言った。「たしかにおまえには問題が大ありだよ、マン」
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