イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

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ファミリー・キャンプ1

                                       
                                        
                                                                          
                                       
   フ ァ ミ リ ー ・ キ ャ ン プ                                                     
                                        
                       亡きR.B.に⋯⋯    
                                    
                                    
                                        






 一九六八年の春には何だって起こり得た。二十年後の今では、このことは案外忘れられている。忘れられてはいないのかもしれないが、少なくとも大声で語られることはなくなっている。このあいだも友達の一人にそう言ったら、
「ああ、またそのことかい?」といやな顔をされた。
 ぼくはそれまで一度も彼に、一九六八年の春には何だって起こり得たなんて言ったことはなかったのにだ。彼にとって一九六八年はいやなことがあった年だったのかもしれない。あるいは一九六八年について、ぼくの知らないところでこれまであまりにも多くのことが語られてしまったのかもしれない。一九六八年についていやな顔をした友達は他にも何人かいる。
 なぜだろう?

 一九六八年はぼくが家族と庭にキャンプを張った年だ。ぼくは春にはまだ十四才で、その年の七月に十五才になった。兄は五月に十七才になった。母は四十二才で、父はたぶん四十九才だった。大阪の小さな銀行に勤めていた父は三月のある日突然、運転手つきの日産プレジデントに乗って帰ってきた。
「重役になったんだ」と彼は母に言った。
 一応少しは笑っていたが、それほどうれしそうでもなかった。たぶん責任が重くなるのがいやだったのだろう。父はあまり仕事が好きじゃなかった。
「あらそう」と母が父に言った。彼女もあまりうれしそうじゃなかった。ちょっと不安そうな顔をしていた。母は料理や洗濯は得意だったが、銀行のことはあまりよくわからなかったのだ。
                                        
 ぼくらは宝塚の丘の上に住んでいた。ぼくの部屋からは大阪平野が見えた。神戸は見えなかったが、海の気配は感じることができた。台風がきた日には潮の香りがあたりに漂った。
 うちの庭は東南側が聖書女学院の小さな農園に接していた。フェンスをへだてたむこう側は小さな桃畑だった。そのむこうに野菜畑と家畜小屋があり、そのむこうは崖になっていた。崖の下は駅だった。駅の名前は《聖書女学院前》。
 単純明快でしょう? 
 駅ができたときこのあたりには聖書女学院しかなかったのだ。ぼくの部屋からは小さな森と谷を隔てて、聖書女学院の鉄の門と礼拝堂の塔が見えた。

 一九六八年の春はとても温かくて、早くから桃の花が咲いた。灰色の尼僧服に身を包んだシスターたちと、ブルーの制服を着た聖書女学院の生徒たちが脚立を持ってやってきた。人工授粉をするためだ。書道に使う筆で桃の花の中心を一つ一つくすぐりながらめしべに花粉をつけていく。彼女たちは一様に厳しい表情をしていた。なぜだろう?
 ぼくは彼女たちの仕事を見るのが好きだった。シスターにはドイツ人やスペイン人がいたから、ヨーロッパの農場に滞在してるみたいな気分が味わえた。しかしそれは彼女たちにとってあまり愉快なことではなかったらしい。部屋の窓にもたれて授粉作業を眺めていると、必ず誰かがぼくを見つけてすごい目で睨んだ。
「ソコデナニヲシテイル?」と白人のシスターが言った。
 ぼくの家のぼくの部屋から何を見ようとこっちの勝手なわけだが、シスターから堂々とそう言われると、すごく恥ずかしいことをしてるような気がした。

 一九六八年の春には何だって起こり得た。
 夕方に桃畑を緑の光が通過していったのもその年の春だった。すでに暗くなりかけた農場の草の上を、まぶしい緑の光がゆっくり通り過ぎていったのだ。幅一メートルくらいの細長い光が横向きに、東から西へゆっくり移動していった。コピー・マシンのふたをあけたままスイッチを押してしまったことがある人なら想像がつくにちがいない。ちょうどあんな光だった。
 いたずらで手のひらのコピーを取ろうとしたことはありませんか?         
 あるいは顔のコピーを?
 一九六八年の春休みにぼくは緑色の光が聖書女学院の農場を移動していくのを見た。しかし宇宙人が地球のコピーを取ろうとしているのだと考えたりはしなかった。そのころはまだコピー・マシンなんて見たこともなかったからだ。

 その光を見た晩からぼくは四十度近い熱を出して寝込んでしまった。医者はただの流感だと言った。たぶんそうだったのだろう。熱は一週間近く続いたが、医者のくれた薬をのんでいるうちに治ってしまった。
 熱にうなされながらぼくはいろんな夢を見た。一番鮮明に覚えているのは天使がやってきた夢だ。いや、夢じゃない。ほんとに来たのだ。一九六八年の春には何だって起こり得た。
 天使は茶色と黄色のチェックの綿シャツにチョコレート色のコール天のズボンといういでたちで、桃畑に面した一番大きな窓から入ってきた。といっても飛んでくるところを見たわけじゃない。窓が開く音がしたときぼくは半分眠っていたからだ。目を覚ましたとき、天使は鼻歌をうたいながら衣装たんすの引き出しを開けて、中をひっかき回しているところだった。
「誰?」とぼくがきくと、天使はびっくりしてこっちを振り向いた。
「おどかさないでくれよ」と彼は言った。
「それはこっちの言うセリフじゃないかな」ぼくの声は熱のせいで弱々しく、どこか遠くのほうから聞こえてくるようだったが、そのわりに気のきいたことが言えたのでぼくはうれしかった。
「いきなりやってきてすまないね」と彼はやさしい微笑を浮かべながら言った。「天使っていうのもやっかいな商売さ」
「きみは天使なの?」
「ほかの何に見える?」彼は両手を広げておどけてみせた。
「さあ。ただの高校生か大学生に見えるけど⋯⋯」
「ただの高校生か大学生が窓から飛び込んでんでくるかい?」
「そうか」とぼくは素直に認めた。「でも、どうしてたんすなんか開けてるの? それじゃ誰だって下着泥棒か何かだと思っちゃうよ」
「思いたいやつには思わせておくさ」彼は多少気を悪くしたみたいだった。「でも、きみは下着をどこに入れておくんだ?」
「うちじゃ下着はお風呂場の脱衣室にあるたんすに入れてるんだ」
「なるほど」と天使は言った。
 ぼくは枕から頭を少し上げて、彼の姿をしげしげと見た。夜中に翼を金色に輝かせた天使が窓から入ってきて、天国に入れる人間の名簿を見せてくれるといった内容の詩があったのを思い出した。英作文の授業で習ったのだ。目の前にいる天使は別に金色に輝いてもいなかったし、翼もつけていなかったが、たぶんこれが現実というものなのだろうという気がした。
「天使がぼくに何の用なの?」とぼくはもっともな質問をした。
「まあ、日常業務さ。子供たちの見回り」
「天使だったら願いごとをかなえてくれる?」
「あんまり難しいのはだめだぜ。担当が違うからね。空を飛びたいとか、金の卵を出してみろとかいうのはだめだ」
「そんなんじゃないよ。ぼくは詩人になりたいんだ。小説家でもいいけど。だから才能がほしいの」
「なんだ、そんなことか」天使は安心したようだった。「お安い御用だけど、ただしきみがそれなりの努力をしなけりゃ才能は死んでしまうぜ」
「もちろん努力するよ」とぼくはきっぱり断言した。「去年からもうノート十冊分くらい書いてるんだ。まだちっともうまく書けないけど」
「そのうちうまくいくよ。きみはなかなか読書家らしいし⋯⋯」
 彼は部屋の北側にある作り付けの大きな本棚を眺めながら言った。そこにはサムエルソンの『経済学』やリースマンの『孤独な群衆』、チェーホフ全集といった大人向けの本がぎっしりつまっていた。それはほとんど父の本だったが、ぼくはせっかくほめられたのを否定するのがいやで黙っていた。天使はぼくを少しのあいだ見つめていたが、やがてベッドのそばに跪いて右の手のひらをぼくの額に当てた。ぼくはちょっと怖くなって目をつぶっていた。
「何か見えるかい?」と天使がきいた。
「何も」とぼくは答えた。
「幸運な人間には時代の変わり目がはっきり見えることがある。今、世界は変化の真っただ中にあるんだ。幸運で勤勉な者だけが、変わっていく様を手にとるように見ることができる」
「ぼくこないだ見たよ」とぼくは言った。
「え?」と天使は言った。
 ぼくは例の緑色の光の話をした。
「なるほど」彼は笑った。「きみには資格があるよ」それから目を閉じてぼくの額に手を置いたまま何か祈りのような言葉を呟いた。
 それからぼくはまた眠ってしまい、再び目を覚ましたとき天使の姿はなかった。衣装だんすの引き出しが全部開いていて、中からぼくの衣類がでたらめに飛び出していた。あれは夢だったんだろうか? そんなことはない。一九六八年には何だって起こり得た。

 もう一つよく覚えているのはマリコが桃畑の草の上に寝ている夢だ。これは確かに夢だった。一九六八年の日記にちゃんと書きとめられている。
《朝、雨戸を開けると、まだ薄暗い聖書女学院の桃畑にマリコが寝ているのが見えた。寝袋もなしに、霜が下りた枯れ草の上で、きれいに気をつけの姿勢をして、上を向いて眠っていた。白いセーターに赤と緑のチェックのミニスカートをはいていた。
「そんなとこで寝たら風邪ひくよ」とぼくは声をかけた。
 彼女は静かに置き上がり、
「平気よ」と言った。「結核患者は雪山の療養所でわざとベランダに寝るのよ」
 ぼくが家族にマリコが桃畑に寝ていた話をすると、そんなにからだにいいなら我々もやってみようということになった。夜になるのを待ってフェンスを乗り越え、桃畑に入った。ぼくと兄が母を挟むようにして草の中に寝た。いがらっぽい枯れ草の匂いがなかなかよかった。
「これならもっと早くやればよかったね」と母が言った。
 遅くに帰ってきた父が背広のまま、ぼくらの頭のほうに九十度の角度で寝た。ふと見ると、いつのまにかマリコが少し離れたところに寝ているのが見えた》

 マリコは小学校時代の同級生で、一九六八年には聖書女学院の中等部の三年生だった。学校の帰りや桃畑でよく見掛けることがあったが、それほど親しかったわけじゃない。聖書女学院は生徒の男女交際にうるさかった。おまけにぼくは総愛学院の生徒だった。総愛学院は同じ修道会が経営している、聖書女学院の兄弟校だ。男子校には神父たちが、女子校にはシスターたちが修道院生活を送っているというわけだ。そしてそれぞれ預かっている子供たちを監視していた。
 小学校の頃、ぼくはマリコと長いこと隣り合わせの席に座っていた。よく口喧嘩をしたが、仲は悪くなかった。マリコは小学校の五年生のときからブラジャーをしていた。歩くと胸が大きく弾んだ。お尻も胸に負けないくらい大きかった。オッパイ・マリコというのが彼女のあだ名だった。男の子と口喧嘩をするときは、よく「デブ」と言われていた。ぼくもよく彼女のことを「デブ」と言った。
「フン、頭に来ちゃう」と彼女は言った。
 それでも本気で怒ってるようには見えなかった。なぜなら口喧嘩の後でも気前よく消しゴムや定規を貸してくれたからだ。よく宿題も教えてもらった。彼女のほうが成績は格段よかったのだ。
 一九六八年のマリコは相変わらず大きな胸とお尻をしていたが、もう「デブ」とは言えなかった。ウエストが引き締まり、脚が細くなったからだ。道で出会ってもぼくはなるべく目を合わせないようにしていた。帰り道にはよく他にも聖書女学院の生徒が歩いていた。告げ口されたらぼくもマリコも学校で面倒なことになる。それにぼくとしては今では何となくマリコが怖かった。もちろん大きなおっぱいのせいだ。
 ぼくに「デブ」とも「オッパイ女」とも言われなくなったので、彼女は余裕のあるところを見せていた。ぼくを追い掛けてきて、前にまわって顔を覗き込んだり、
「へっ、へっ、へっ」と笑ったりした。

 そのマリコが一九六八年の春休みに突然訪ねてきた。桃畑で寝ていた夢を見た直後のことだ。白いセーターに赤と緑のチェックのミニスカートをはいていた。それと白いソックス。夢とそっくりの格好をしていたからといってぼくは別に驚かなかった。一九六八年の少女たちはたいていみんなタータンチェックのミニスカートに白いソックスをはいていたのだ。
 彼女は胸に『サウンド・オヴ・ミュージック』のサウンド・トラック盤のLPを抱えていた。小学校のときに借りていたのを返しにきたのだと彼女は言った。
「そう」とぼくは言った。「それ、おふくろのだよ、きっと」
 小学校時代、彼女はぼくの母と仲よしだった。よくぼくに勉強を教えに来ては、そのあと母と話し込んでいた。ぼくは彼女が『サウンド・オヴ・ミュージック』のレコードを借りていたことすら知らなかった。どうして急に返しにきたのかぼくにはよくわからなかったが、とにかく彼女はうちに上がり、『サウンド・オヴ・ミュージック』を聴きながら、居間で母とお喋りを始めた。
「返すの遅くなってすみません」とマリコは大人びた挨拶をした。
「あら、いつでもよかったのに」と母が言った。
 ふたりは丸二年も会っていなかったはずだが、まるで先週借りたレコードを返しに来たみたいだった。その二年間、マリコはレコードのことを忘れていたんだろうか? それとも頂戴しちゃおうと考えていたんだろうか? それにしてもどうして急に返そうと思い立
ったんだろう? どうしてそのことをふたりとも口に出さないんだろう? ぼくは几帳面な性格だったから、それがとても気になった。
 母は近所に入った下着泥棒の話をした。マリコも自分の家に入った下着泥棒の話をした。そしてお互いに「まあ」と感心したような声を上げた。
 その二人の下着泥棒は同一人物のようだった。なぜならどちらのケースも下着が盗まれた直後に、茶色と黄色のチェックの綿シャツにチョコレート色のコール天のズボンをはいた学生風の男が、ボストンバッグを下げて近くを歩いているのを目撃されていたからだ。
「わたしの下着はみんな取られちゃったのに、妹のは全部無事だったんです」とマリコは真剣な顔で言った。
「まあ」と母も真顔で言った。
 ちなみにマリコの妹は一九六八年にはまだ小学校の三年生だった。三年のときにはマリコだってまだ平たい胸をしていた。
 ぼくの母はマリコに、近所で一時ぼくが下着泥棒の嫌疑をかけられていたという話をした。被害にあったのは聖書女学院に通ってる高校生だった。ぼくが熱を出して寝ていたときだ。後でその話を聞いたぼくは母に、
「よかった。ぼくは熱を出してのびてたんだからアリバイがあるわけだ」と冗談を言った。母はその話を面白いと思ったので、下着泥棒にあった女の子の母親に話した。すると相手は、
「そうかしらねえ」と言いながら、母の顔を覗き込んだというのだ。
 母とマリコはおかしそうに笑った。それから、レコードに合わせて「わたしのお気に入り(マイ・フェイヴァリット・シングズ)」をハミングした。ぼくはそれに加わらなかった。メロディをよく知らなかったし、その場の雰囲気にも馴染めなかったからだ。ぼくは『サウンド・オヴ・ミュージック』を映画でも舞台でも見たことがなかった。ジョン・コルトレーンがこの曲を何度も演奏していることも知らなかった。一九六六年に彼が来日してこの曲を吹いたことも、一九六七年に彼が死んだことも知らなかった。

「その下着泥棒、ぼくの部屋にも来たんだよ」歌が終わったところでぼくが言った。母とマリコにはずいぶん唐突に聞こえたらしい。二人声を揃えて、
「まあ」と言った。
 ぼくは例の天使の話をしてやった。
 女たちは、それはまさしく下着泥棒にちがいないと言った。そして男の子のくせに下着を盗まれるなんてと言って涙が出るまで笑った。ぼくは本当に下着をとられたわけじゃないと弁解した。リサーチ不足だった泥棒が、間違えて入ってきただけだと。
「それで」とマリコが言った。「何を取られたの?」
「何も取られやしないさ」
 女たちはまた腹を抱えて笑った。
「でも、そいつは天使だったのかもしれない」とぼくは言った。
「何それ?」とマリコが言った。
「自分でそう言ったからさ」
 母とマリコはまた顔を見合わせて笑った。
「そいつは天使を自称する下着泥棒だと言いたいんだろ?」ぼくはやや気を悪くしていた。「でも下着泥棒を装ってあちこち見回ってる天使かもしれないじゃないか」
「下着泥棒をやってる天使かもしれないじゃない」とマリコが言った。
「それもありうるわね」と母が言った。
 そう。あらゆる可能性がありうる。何にせよ物事を決めつけてかかるのはよくない。ぼくが言いたかったのもそのことなのだ。

 すでに外は暗くなっていた。母はぼくにマリコを送っていくように言った。
 ぼくらはゴルフ場のほうへ行き、高いフェンス越しに山を見ながら歩いた。六甲山は黒い影になっていて、空は炎のように赤かった。空の赤みは上に行くにしたがって鮭の肉みたいに淡くなり、真上から東にかけての空は濃い藍色に包まれていた。
「ぼくに何か話があったんじゃない?」とぼくはマリコにきいた。
「いろんなことがごちゃまぜになってるのよ」と彼女は悲しそうに言った。
「まとめようとしないで、思いついたことから話してごらんよ」
「学校に尊敬してる先輩っている?」
「いないね。ぼくは上の連中と付き合うことなんてまずないんだ。クラブに入ってないからね」
「わたしはバスケットボール部に入ってるの」
「わかったぞ」とぼくは言った。「そこに美人で頭がよくて人気があってポイントゲッターの先輩がいるんだ」
「まあ、そんなところね」
「好きになったんだ」
「そんなんじゃないわよ」マリコの声が急にか細くなった。
 ぼくらは街灯の下で立ち止まってゴルフ場の滑らかな芝の起伏を眺めた。
「あなた学校に好きな男の子いる?」とマリコがきいた。
「まあね」とぼくは答えた。
「その子とどんなことするの?」
「何もしやしないさ」
「そう」
「きみは?」とぼくはきいた。「その先輩のこと好きじゃないの?」
「わからない」
「きっと好きなんだよ」
 ぼくらはまた歩きだした。山の上の赤みはもう縁どりみたいに細くなっていた。ゴルフ場の木立ちや芝生の広がりも闇の中にかすんでいた。
「わたし小学校のときあなたのこと好きだったわ」
「知ってるよ」
 ぼくはマリコの手紙を盗み読みしたことがあった。六年生のときだ。クラスの女の子たちはよく手紙のやりとりをしていた。郵便で出すのではなく、交換日記みたいに毎朝お互いに手渡すのだ。あるときぼくが仲間とクラスの女の子の机を物色していたら、偶然マリコがその子にあてた手紙を見つけてしまった。手紙には「もしハラくんに好きな人がいたらどうしよう?」と書いてあった。ぼくには好きな女の子がいなかったが、その手紙を読んでマリコのことが好きになった。ぼくはそういうタイプだったのだ。
 その手紙を一緒に盗み読みした友達はぼくのことをからかった。ぼくは彼らにマリコのことなんて好きじゃないと断言した。
 彼らは「じゃあ、これからはあいつと口きいちゃだめだ」と言った。
 ぼくは「絶対無視してやる」と力を込めて約束した。
 今から考えると、どうして連中にそんなことを要求する権利があると思ったのかよくわからないが、そのときはそれが当然のような気がしたのだ。
「ひどい」とマリコが言った。「わたしあのときあなたに嫌われてるんだって思ったわ」
「ぼくはそういうタイプなんだ」

 ぼくらは川に出た。マリコの家は橋を渡って丘を上ったところにあった。彼女は橋の手前で立ち止まってしばらく何か考えていたが、やがて緊張した声で、
「ここでいいわ」と言った。
「きみの家まで行くよ」
「買い物があるのよ」
 彼女は川に沿って道を下り始めた。ぼくも並んで歩きだした。川下には《聖書女学院前》より大きな駅があり、商店街とスーパーマーケットがあった。
「ぼくもつきあうよ」
「ひとりでも平気よ」
「それじゃ送ってきた意味がないじゃないか」
「いいから帰ってよ」彼女は立ち止まって大きな声を出した。通りかかった人がぼくらのほうを見た。マリコはぼくの腕を掴んで歩きだしながら耳打ちした。「これから下着買いに行くのよ。全部盗まれちゃったから」
「そう?」
 ぼくは彼女と歩き続けた。彼女はもう帰れとは言わなかった。
「いいこと教えてあげようか?」マリコはぼくのほうを向いて後ろ向きに歩きながら言った。
「何?」
「わたし今日は妹のパンツはいてるの」と彼女はうれしそうに言った。
 ぼくはそれがどうして「いいこと」なのかよくわからなかった。

 スーパーマーケットは閉店まぎわで混雑していた。マリコは下着をしこたま買い込んだ。何十枚も。どうしてそんなにたくさんいるのか、ぼくにはどうしてもわからなかった。店を出ようとしたとき遠山恵に会った。ぼくのうちの近所で下着を盗まれた聖書女学院の高校生だ。母親と犬も一緒だった。犬はよく吠えるスピッツだ。ぼくはこの一家と犬が大嫌いだった。
「どういう神経してるんだろ?」と母親のほうがぼくらにも聞こえるような声で娘に言った。犬がその下で跳びはねながら吠えた。
「学校が休みなら何してもいいと思ってるのよ」と娘が母親に言った。
 聖書女学院とその関係者たちの価値観を知らない人にはわかりにくいかもしれないが、女たちはぼくとマリコがスーパーマーケットでデートしているのだと思い込み、そのことを非難しているのだった。
「今晩は」とぼくは遠山親子に挨拶した。
「今晩は」とマリコも遠山恵に言った。
「今晩は」と遠山恵の母親がぼくに言い、犬が腕の下で唸り声を上げた。
「今晩は」と遠山恵がマリコに言った。
「言っときますけど」遠山夫人が気難しい顔でぼくに言った。「わたくしこのことをあなたのお母さまに申し上げないわけにはいきませんからね」
「どうぞ」とぼくは言った。
「わたしシスター**に言うわ」と遠山恵がマリコに言った。「黙ってたことがわかったら、わたしが叱られるもの」
「なるほど」とマリコが言った。
 彼女はわりと平気な顔をしていた。
 ぼくは憂欝だった。きっと休みが明けたら教会かPTAを通じて噂が大げさに広がるだろう。すごく狭い社会なのだ。学校では神父たちがぼくをとっちめるだろう。本当にデートしてたんじゃなかったとしても、まわりに誤解されるようなことをしたのはいけないと言われるだろう。それから校庭三十周とか、便所掃除一週間とか、冴えない罰が待っているのだ。
 そのときスピッツが遠山恵の持っていた紙袋に咬みついた。紙袋は大きく破れて床に中身をまき散らしながら転がった。中身は何十枚ものパンティだった。遠山夫人は犬の頭を何度も叩いた。娘は床に散らばった下着を拾い集めたが、中には人がうっかり踏んでしまったのもあった。
「おっと失礼!」とその女の人は言った。
 パンティを拾ってくれた人もいた。「一体どうなすったの?」とその人はパンティを遠山夫人に差し出しながら言った。遠山夫人はそれを受け取ろうともしなで黙って娘を見つめていた。
 すぐに人垣ができ、その真ん中で遠山恵はせっせとパンティを拾っていた。マリコも二三枚拾うのを手伝ったが、遠山恵はありがとうも言わずにそれをひったくった。
「言っときますけど」と遠山夫人はぼくに言った。「こんなこと人に言いふらしたら、あなたもその娘さんもただじゃおきませんからね」

 川沿いの道を戻りながら、ぼくはこれで遠山親子が今日のことを総愛学院の神父たちに言い付けることはないだろうと考えていた。
「おあいこってわけだ」とぼくは言った。「あいつらだって恥はかきたくないだろうからね」
「そうかしら?」とマリコは言った。「あの人たちは絶対わたしたちのことを言いふらすわよ」
「じゃあこっちもパンツのことを言いふらしてやる」
「あの人たちはおあいこだなんて思ってないのよ。わたしたちのことは言いつけるのが義務だと思ってるし、下着のことは黙ってるのがわたしたちの義務だと思ってるのよ」
「そうか」とぼくは言った。なんだかマリコのほうが正しいような気がした。小学校時代もいつだって彼女のほうが正しかった。彼女のほうが頭が良かったし、大人だったのだ。
「じゃあぼくらは助からないわけだ」
「わたしはちっともこわくないわ。だって本当じゃないんだもの」
 ぼくは前に回って彼女の顔を覗いた。マリコはうれしそうな顔をしていた。そのときは何がなんだかわからなかった。でも今考えると、たぶん彼女にはもっと知られたくない秘密があって、それがカムフラージュできると期待していたのだろう。もちろん美人の先輩のことだ。聖書女学院の女たち(生徒もシスターも含めて)にとって、男女交際は危険な行為だったが、同性愛は犯罪だった。彼女はより危険な秘密を隠すためなら、多少の誤解はしかたないと考えるタイプだった。


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