イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

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ファミリー・キャンプ5

                   ★

 ぼくはリッキーを責めるべきだったんだろうか? 妻のジェーンを悲しませたことで?一の宮ミチコと何となく変なことをしていたことで?あれが本当は何だったのか、結局のところわからずじまいだった。リッキーは、あのときミチコと何をしていたのか、何をするつもりだったのか、そしてぼくらが行ってしまった後で実際に何をしたのか、一切話そうとしなかった。ぼくもまた、何もきかなかった。よくわからないまま確かめようがなくなってしまう謎というのがある。今ではこれも確かめようがない。二十年も時がたってしまったし、当人たちはもういない。どうしてあのとき確かめておかなかったのか、今では不思議でしかたないが、あのときはそんな風には考えなかった。たぶん一九六八年には気になることがほかにたくさんあったのだ。

 ぼくとリッキーは相変わらず二人で釣りに出掛け、池のほとりで魚を焼いて食べたり、リッキーが自分の詩を朗読したり、ぼくが 新しく書いた"A Tale Of A Little Thief"の一章を読んで、リッキーに直してもらったりしていた。
「おれが詩を書きだしたのは十五のときだったよ」と彼は言った。
ぼくが彼にどうして詩を書きだしたのかときいたのだ。
「アメリカを発見したかったんだ。つまりおれがどこにどうやって生きてるのかをね」
「アメリカは発見された?」
「ああ、少しはね。でも、おれがアメリカを発見したのは二十九のときさ」
「どうやって発見したの?」
「結局のところおれは自分を発見したんだよ。おれが何者なのかをね」
「リッキーは何者だったの?」
「おれは鰻みたいなやつだったよ。おれはアメリカに首根っこをおさえられるたびに、するりと抜け出したのさ」
「ふうん」とぼくは言った。
「世の中がおまえに言い聞かせようとする真面目くさったことを本気にしないことだよ。そうすればおまえは日本を発見できるよ」
「ふうん」とぼくは言った。「ぼくは日本を発見する⋯⋯」
「でも、目をそむけちゃいけないよ。誰かがおまえに突きつけてくる真面目腐ったことをそっくりそのまま別の言葉に置き換えるんだ。それがおれの逃げ方なんだ」
「ふうん」
 ぼくはそのとき彼が言ってることを全然理解できなかった。それがぼくを悲しくさせる。彼は理解してくれる相棒を必要としていたのだ。彼は素朴で弱い人間だった。どんなことにもたやすく打ちのめされてしまうところがあった。でも、ぼくは彼のそんなところがまるで目に入らなかった。ぼくは彼の相棒になるには子供すぎたのだ。ぼくは彼をへら鹿みたいに悠然と自然の中で生きてる根っからの野生児だと思い込んでいた。そんなへら鹿みたいなやつがどうして詩を書かなきゃいけないのかなんて考えもしなかった。
 いやはや⋯⋯。

 ある日、コットンキャンディマンがやってきて、
「ベイビー、元気かい?」と言った。
「ぼくは赤ん坊じゃないって言ったろ」とぼく。
「悪かったな、ベイビー。今度から気をつけるよ、ベイビー」と彼は言った。「でも、今日は友達を連れてきたんだぜ、ベイビー」
 彼は二人の大男を従えていた。どちらも金髪を短く刈り上げた、二十歳そこそこの若造だった。
「ヨロシク」と大男たちはぎこちない日本語で言い、ぼくと握手した。リッキーとも握手しようとしたが、急に顔を赤くして二人で顔を見合わせたかと思うと、途中で手をひっこめてしまった。
「ヘイ、マン」とコットンキャンディマンはリッキーに言った。「この二人はおまえのファンなんだってよ」
 二人の若者はなんとか笑おうとした。リッキーは草の上に寝そべったまま、握手のかわりに軽く手を挙げて指先をゆらした。それからヒゲの下の唇をちょっと歪めて笑った。赤ん坊みたいな笑い。ぼくらが大好きな笑いだった。彼の笑顔を見たら誰でも好きにならずにいられなかった。
 それから若者とリッキーは崩れた英語で喋り始めた。
 どこから来たんだい?
 日本で何をしてる?
 アメリカじゃどんなことが起こってる?
といったようなことをリッキーがたずね、二人が答えていた。
 アメリカ人がアメリカのことを喋ってる間に、コットンキャンディマンがぼくに言った
。「ベイビー、おれのファンキーな友達の言うところによると、あのふるちん野郎はロサンゼルスじゃ有名な詩人なんだってよ」
「ああ、知ってるよ」とぼくはやや得意になって言った。
「ベイビー、そりゃ、あのふりちん野郎が自分でそう言っただけだろ。何かの間違いじゃないかな。あんなふるちん野郎が詩人だなんて信じられるかい、ベイビー?」
 その頃リッキーはまだ日本で全然知られていなかった。彼の詩集が最初に翻訳されたのは一九七五年のことだ。でもアメリカ西海岸では違っていた。一九六八年にはもうすでに彼は伝説の詩人だった。
「リッキーにはアメリカを受け入れる力があるんだ」とぼくは言った。「彼はあるがままのアメリカを、誰にもできないようなピュアなかたちで発見したんだよ」
 ぼくはリッキーと二人の若造のほうをちらっと見た。何か妙な感じがした。それが何なのかはすぐにわからなかった。彼らはごく普通に話しているように見えたからだ。しかし何度目かに彼らを見たとき、ぼくは何が奇妙なのかわかった。二人ともカーキ色の半ズボンをはいていたが、その下腹あたりが大きく盛り上がっていたのだ。
「あいつら何か変だよ」とぼくはコットンキャンディマンに言った。
「大目に見てやってくれよ」と彼は声を潜めていった。「やつらはベトナムから逃げてきたんだ。ちょっと神経が参ってるのさ」
「ふうん」とぼくは言った。

 ぼくはコットンキャンディマンのために、頭に入っているリッキーの詩のひとつを即興
で翻訳してやった。かなりいい加減な訳だったと思う。もうすっかり忘れてしまったが、
それは大体こんな内容の詩だった。

 あるときぼくはコンクリートの川のかたちをしたアメリカに出会った。
 やあ、こんちは、川のかたちをしたアメリカさん、とぼくは言った。
 コンクリートの川には鋼鉄の川鱒がたくさん泳いでいた。
 坊や、ここで釣ったってなんにもとれやしないよ、
 と川のかたちをしたアメリカが言った。
 そうかなあ、とぼくは言い、ありあわせの釣り竿から釣り糸を垂らした。

 鋼鉄製の川鱒はどんどん釣れた。
 ブリキのバケツの中で、大きなできたてのネジみたいに、
 鋼鉄製の川鱒はピンピンはねた。
 けっこう生きがいいみたいですよ、とぼくは言った。
 ふん、そんなことわしゃ知らんよ、
 と川のかたちをしたコンクリートのアメリカは答えた。              

「なんだ、その変てこな詩は」とコットンキャンディマンは言った。「そりゃ、ベイビー、おまえが今いい加減にこしらえたんじゃないのかい?」
 そうだったかもしれない。今ではよくわからない。なんせ、二十年も前のことなのだ。
「とにかくおれは、ディランやジミの書く詩のほうが好きだね」と彼はつけ加え、『オール・アロング・ザウォッチタワー』を口ずさみだした。

 そのときリッキーと二人のアメリカの若造の間にもっと奇妙なことが起こっていた。
 若造たちは真っ赤な顔をしてリッキーを殴りつけていた。リッキーも華奢なほうじゃなかったが、若造たちは二メートル近くもある大男だった。彼らは丸太みたいな腕で彼を殴り倒すと、彼の顔に唾を吐いて、顔を引きつらせながら行ってしまった。コットンキャンディマンは慌てて彼らの後を追いかけた。
「どうしたの?」ぼくはリッキーを抱き起こした。
「何でもないよ」と彼は言った。鼻から血が流れていた。彼は撃たれた駝鳥みたいに震えていた。「何でもないんだよ」と彼はもう一度言った。
 もっと変だったのは、その後リッキーが二人組と桃畑で顔を合わせるたびに、何もなかったみたいに雑談していたことだ。ぼくはわけがわからなかった。誰も何も説明してくれなかった。ぼくはまだ子供だったから、大人たちが説明してくれるのが当然だと思っていた。だから彼らは何か隠してるのだとぼくは考えていた。今でもこれが何だったのかはさっぱりわからないが、一つだけ悟ったことがある。あのときは彼らも、つまり殴った若造の二人組も殴られたリッキーも、何が何だかわからなかったのだ。
 変なの。

               ★

 ぼくらはよく犬を食べるようになった。ミチコがみんなに熱心に勧めたからだ。それに聖書女学院の農園の豚や羊は、あまりにも数が少なかったので、すでに底をついてしまっていた。その点、犬はどこにでもいた。そこらの道端に、ゴルフ場や山の中に、そして住宅街のあらゆる庭に⋯⋯。
 もちろんぼくらは野良犬を優先的に捕まえていた。ちゃんと保健所から感謝状ももらった。一九六八年にはいたる所に野良犬がいて、子供を襲っていたからだ。犬殺しのプロはいつのまにか姿を消していた。
 犬取りと呼ばれる犬殺しのプロはぼくらが小学生の頃はどこにでもいた。彼らは人の家の庭にまで入ってきて飼い犬を捕まえていった。肉は缶詰工場やハム工場に売り、毛皮は三味線屋に売っていた。安い三味線の皮は猫ではなく犬からとるのがその頃の常識だった。しかし、時代は変わっていた。犬入りの安い缶詰やハムは売れなくなっていた。三味線も流行らなくなっていた。だから犬取りは商売ができなくなり、野良犬はふえる一方だった。野良犬の一部は山に入り、徒党を組み、半分野生化して、ゴルファーやハイカーたちを襲っていた。
 野良犬狩りにはいろんな方法があった。一の宮ミチコとバスケットボール部員の中の勇敢な女の子たちは主に素手で犬を組み伏せ、登山ナイフで喉を切るという捕まえ方をしていた。ヒッピーたちは針金で罠をしかけていた。脱走兵の二人組は拳銃を持っていて、それで大きな犬を撃った。
 犬の解体から料理まで、みんな自分たちでやっていた。動物の解体なんて経験のあるやつは一人もいなかったが、けっこうやってるうちに慣れてくるのだ。肉は料理に使い、毛皮は薬品処理をしてテントの中に敷いた。毛皮の処理は恐ろしくいやな臭いがしたが、肉のほうは案外うまかった。犬の種類によってまずいのもいたが、食べられないほどひどいのはいなかった。
 たしかに野良犬より飼い犬のほうがうまかったのは事実だ。飼い犬は栄養がいいからだ。でもそれはぼくらが飼い犬を食べていたということじゃない。ぼくらが食べていたのは、まだ首輪が新しい野良犬、逃げ出してからあまり時間がたっていない新米の野良犬だ。ときにはその犬を食べてるときに、飼い主が探しに来たりすることがあった。
「わりと大きいオールドシープドッグなんですけど」と飼い主のおばさんが言う。「ほら、毛のふさふさした、目が隠れちゃって見えないやつ」
「誰か見た?」とミチコがバスケットボール部員たちを見回しながら言う。手にはオールドシープドッグのシチューが一杯入った器を持っている。
 部員たちは黙って首を横に振る。彼女たちの後ろには剥いだばかりの毛皮が、水を張った木桶の中に漬けてある。
「見なかったわよね」とミチコはもう一度確認してから、聖書女学院独特のお嬢さん言葉でおばさんに言う。「残念ですけど、誰も見てないようですわ」
「見かけたら連絡してもらえるかしら?」おばさんは疑わしげな目で彼女たちをじろじろ見ながら住所と電話番号と名前を書いたメモを渡す。
「ええ、喜んで」ミチコは聖書女学院特有の上品で優雅な笑顔を見せながら言う。「きっと真っ先にお知らせしますわ」

 ヒッピーたちも犬を盗まないというルールは守っていた。遠山恵の家のスピッツを食べてしまったのは彼らだったが、それは犬が彼らのところへ遊びにやってきたからだ。桃畑に面した家の垣根は取り払われていたから、犬たちは自由に農園に入ってきた。遠山家のスピッツもヒッピーたちのところに遊びに来ていた。
「これは逃げ出したんだよな」とあるときヒッピーの一人が言った。
「もちろんさ」と別のヒッピーが言った。
「こういう犬は食っても平気だよな」とまた別のヒッピーが言った。
「もちろんエニタイム、オーケーさ」とコットンキャンディマンが言った。
 そこで腹が減っていた彼らはスピッツを昼のご飯にしてしまった。
 食べてしまってから遠山恵が犬を探しにやってきた。
「うちのビッキー見なかった?」と彼女はきいた。
「リッキーなら釣りに行ったよ」とヒッピーの一人が言った。
「リッキーじゃなくてビッキーよ」と彼女は言った。
 ヒッピーたちは顔を見合わせた。彼らはばつの悪い思いをしていた。彼らはスピッツが遠山家のビッキーだということを知っていて食べてしまったのだ。食べてしまうまではあまりに腹が減っていたので、これは遠山家のビッキーじゃないかもしれない、スピッツなんてどこにでもいるじゃないかといった言い訳を心の中で繰り返していたのだが、腹が一杯になってみると弁解の余地はないように思えた。
 遠山恵はすぐに草の上に広げてあるビッキーの毛皮を見つけてしまった。まだ生のままの皮で、舌を垂らした首がそっくりついていた。ヒッピーたちは腹が減っていて、毛皮の処理まで手が回らなかったのだ。
「あなたたち、ビッキーを食べたのね」彼女は声をふるわせながら言った。
「これはビッキーじゃないよ、ハニー」とコットンキャンディマンが言った「スピッツなんて、みんな同じ顔してるじゃないか。そうだろ、ハニー?」。
「そのハニーって言い方やめてくれない?」と彼女は言った。コットンキャンディマンは聖書女学院の女の子全員に《ハニー》と呼び掛けていた。ぼくに《ベイビー》と言い、リッキーやその他大人の男たちに《ヘイ、マン》と言ったように。
「わかったよ、ハニー」と彼は言った。「今度から気をつけるよ、ハニー」
「あなた手に何持ってるの?」彼女はコットンキャンディマンが後ろ手に何か隠し持っているのを見つけて言った。
「なんでもないよ、ハニー」と彼は後ずさりながら言った。「おれは犬の首輪なんか持ってないよ、ハニー」
 彼女は素早く彼の腕を掴んで、隠し持っているものをひったくった。それはまさしくビッキーの首輪と鎖だった。
「ハニー、信じておくれよ」とコットンキャンディマンは弁解した。「これは犬の鎖と首輪に似てるけど、ほんとはヒンズー教の儀式で使う道具なんだ。ブラフマーを讃えるための」
 遠山恵はコットンキャンディマンにそれ以上言わせなかった。彼に思い切り平手打ちを食わせると、鎖を引きずりながらさっさと行ってしまった。あとにはすごく気まずい空気が残った。ヒッピーたちはビッキーを食べてしまったことを恥じていたし、コットンキャンディマンはそれに輪をかけて下らない嘘の言い訳をしようとしたことを恥じていた。
「おれはブルシットだよ、まったく」と彼は首を振りながら言った。「ヒンズー教の儀式で使う道具だなんて」

 それでもコットンキャンディマンは遠山恵と仲直りすることができたらしい。しばらくの間、彼は彼女が桃畑を通るたびに、
「ハニー、許してくれよ。悪気はなかったんだよ、ハニー」と言いながら彼女の後をくっついていった。
 彼女は学校へ行くときは近道になるので桃畑を通り抜けることにしていたのだが、ビッキーが殺されてからもその習慣を変えようとしなかった。だから毎日のようにコットンキャンディマンにつきまとわれることになった。
「彼女はコットンキャンディマンにつきまとわれるのが好きなのよ」とマリコがぼくに言った。
「まさか。あんなにつんけんしてるじゃないか」とぼくは言った。
「あなたは女の子の気持がわかってないわね」と彼女。
 そうだ。ぼくはあのとき何ひとつわかっちゃいなかった。

 遠山恵がコットンキャンディマンに好意を持っているとはっきりわかったのは、森の中で彼らを見かけたときだ。薄紫の花が一杯に咲いている桐の木にもたれて彼らはキスをしていた。ぼくはマリコやその他のバスケットボール部の中学生たちと野良犬の群れを探している最中だった。少女たちの一人が、「ウー、ワンと犬の声を真似して唸ったので、二人はぼくらに気づいた。
「ベイビー」とコットンキャンディマンがうれしそうに言った。「そんなに大勢女の子を連れてどこへ行くんだい? おれは一人だけでもうへとへとだぜ、ベイビー」
 そういう下品な冗談が嫌いだった遠山恵は彼の頬っぺたにビンタを食わせた。彼はまたこっちを向いて照れ笑いした。
「ベイビー、おれは女のビンタが大好きだよ。気分がしゃきっとするもんな」
「このあたりで犬を見なかった?」とマリコが言った。「晩ご飯に犬が足りないの」
 コットンキャンディマンはちょっと慌てて「シーッ!」と言いながら、唇に人さし指を当てた。遠山恵の前で犬を食べる話はタブーだったのだ。
「わたしたちも犬を探してるのよ」遠山恵はわりと陽気に笑いながら言った。「ビッキーの代わりになるスピッツがほしいから」
「オーケー」とぼくは言った。「スピッツを見かけたら食べないで捕まえとくよ」
「お願いするわ」と彼女は言った。
「それからシスターたちに会ったら、きみが森の中でヒッピーとセックスしてたって告げ口してやるよ」そう言ってぼくは笑った。
「しようがないわね」と彼女も笑った。「でも、まだキスしただけよ」
「でも、どうせやるんだろ?」
「さあね」

 森の奥の草地でぼくらは大きな犬の群れを見つけた。大小とり混ぜて五十匹はいた。
「こりゃ大漁だな」とぼくは言った。
「だめよ。こっちの人数が足りないわ」とマリコが言った。
「わかってるさ」
 ぼくらは十人足らずしかいなかった。そのうち登山ナイフを持っているのはぼくとマリコとあと二三人だった。ほかの女の子たちはみんな年下で、ただ散歩ついでにくっついてきたのだ。犬の群れは草の上に固まって日向ぼっこをしていた。ボスらしい黒くて大きなシェパードのまわりに雑多な雌犬が数匹うずくまっていた。あとは舌を垂らしてぼんやり森を眺めたり、自分の毛をなめたり、セックスしたりしていた。
 ぼくは一年生の少女の一人にミチコを呼んでくるように言った。
「いいかい、犬は五十匹いるって言うんだ。五十匹だよ。ぼくらは登山ナイフを持ってるのが五人しかいない。そう報告するんだ。あとは彼女にまかせればいい」
 少女はもじもじしていた。
「どうした? 早く行ってくれよ」
「一人じゃいやよ」と彼女は言った。
「わたしがついてくわ」とマリコが言った。
「きみはだめだよ」とぼく。「武器を持ってる人は残らなきゃ」
「二人きりにしてあげようか?」マリコの同級生がからかった。
 彼女たちの間でぼくとマリコはすっかりできてるという噂だった。
「ぼくが一人で行ってくるよ」
「無理しちゃって」彼女たちが一斉に笑った。
 ぼくはマリコに自分の登山ナイフを渡そうとした。
「持ってなきゃだめよ」と彼女は言った。「危ないから」
 少女たちは興奮してキャーキャー叫んだ。
「すごい恋人思い」と一人が言った。
「ワウー、ワウワウワウワウワウー」と何人かが犬の真似をして吠えた。
「よせよ」とぼくは言った。
 草地で犬たちが首を起こしてこっちを見ていた。
「仲間を呼んでくるまでおとなしくしてるんだ。下手に刺激するとやられるぜ」

 ぼくは森の中でまたコットンキャンディマンに会った。彼は一人で走っていた。
「ベイビー、女の子たちはどうした?」と彼は言った。
「犬の大群がいるんだ」ぼくはかいつまんで事情を話した。
「スピッツはいたかい?」
「いや、その中にはいなかったよ」
「おれたちはスピッツが何匹かいる大群を見つけたんだ。それでハニーはすっかり興奮しちまって、捕まえると言ってきかないんだよ、ベイビー」
 遠山恵は一人で犬を見張っているらしかった。コットンキャンディマンはぼくらに加勢を頼もうと思ってやってきたのだろう。
 ぼくは第二の大群がいる場所を彼から聞くと、あとで行くからと約束して彼を遠山恵のところに帰し、一人で桃畑に走った。陽が翳って森の中が心持ち暗くなったような気がした。木立ちの中を犬が数匹、ぼくと同じ方向に走っているのが見えた。なんだか変な予感がした。

 ぼくはかなりの人数を連れて森へ引き返した。ヒッピーたち、バスケットボール部の高校生たち、リッキー、ベトナムからの脱走兵たち、それからぼくの兄⋯⋯。ミチコは先頭に立っていた。リッキーはそのすぐ後ろをぼくと並んで走った。兄は読書の邪魔をされたのであまり機嫌がよくなかったが、それでも走っている最中にぼくのそばに寄ってきて、荻生徂徠とその弟子たちは元禄時代に中国語で会話していたらしいといったようなことをぼくに耳打ちした。
「それから彼らは孔子の時代の言葉で書くこともできたんだ。春秋戦国時代の文体で」
「ああそうかい」とぼくは言った。
 ぼくは何匹かの犬がさっきと同じように、かなり距離を置いてついてきているのに気づいていた。犬はときどき見えなくなったが、しばらくするとまたちゃんと現れた。
「いやな感じだ」とぼくは言った。
 誰もそれに答えなかった。遠くで犬の鳴き声がした。

 ぼくが犬の群れとマリコたちを残してきた森の中の草地には誰もいなかった。
「場所を間違ってない?」とミチコがきいた。
「そんなわけないよ」とぼくは言った。その森はぼくらが毎日歩き回っていた森だった。
 さらに森の奥に入っていくと、中学一年生の女の子が立っていた。大きな木にもたれかかってぼんやりこっちを見ていた。
「みんなは?」とミチコがきいた。
「犬が襲ってきたの」とその子は言った。すっかり怯えている様子だった。細い脚に少し血がついていた。
「みんなは?」とミチコがもう一度きいた。
「わからない。たぶんもっと奥よ」
 ぼくらは彼女が指さしたほうに進んでいった。途中に一人、また一人と女の子が倒れていた。最初の子は気絶していたが、怪我はしていなかった。
「どうしたの?」ぼくが彼女を助け起こしてきいた。
「わからない」と彼女が言った。「犬が急に襲ってきたから必死で逃げたの」
 二人目の子はぼくらが抱き起こそうとすると、自分で起き上がって笑った。
「死んだふりしてたの」と彼女は言った。

 マリコと残りの少女はさらにしばらく行ったところにある草地で犬の群れと戦っていた。草地の入口に犬が何匹か血まみれになってもがいていた。女の子たちはひとかたまりになって登山ナイフを構えていた。犬が彼女たちを囲んでいた。一匹が唸りながら大きく宙を飛んで、ほとんど頭の上からマリコに襲いかかった。元アメリカ兵が戦闘用のベストのポケットから拳銃を抜いた。
「だめよ」とミチコが叫んだが、同時にバンという音がして、ぼくらは地面に倒れた。音があんまり大きくてびっくりしてしまったのだ。
 マリコは草の上に倒れていた。白いユニフォームが胸からズタズタに裂けていた。茶色の日本犬が彼女の腿に顎を乗せてうずくまっていた。なんだか愛犬が主人と一緒に昼寝をしてるみたいに見えた。よく見ると犬の耳の下に大きな赤黒い穴があいていて、血が少しずつ流れ出していた。ミチコが近づいていって犬をどけた。毛皮みたいにぐんにゃりしていた。弾は犬の頭を貫通していて、反対側にはもっと大きな穴があいていた。そっちの穴からはドラム缶をひっくり返したみたいに血がどんどん流れ出していた。マリコの腰のあたりは血でずぶ濡れだった。
「軍隊で射撃だけは誰にも負けなかったんだ」といったようなことをアメリカ兵が英語で言った。それから彼らは二人で、草地の奥にかたまっている犬の群れに向かって拳銃を撃ち続けた。草の上はたちまち犬の死骸だらけになった。
「わたしたちも三匹やったのよ」とマリコが言った。
 彼女はミチコに上体を抱きかかえられていたが、左のおっぱいと腕に犬の爪の跡があるだけで、大した傷は負っていなかった。

 リッキーは妙に赤い顔をしていた。チョッキのポケットに手を突っ込んで、おちんちんをブラブラさせながらそこらへんを歩き回った。頭を乱暴に振ったり、元アメリカ兵に向かって英語で何か叫んだりした。
「これはフェアじゃない。おれたちはこんなことをすべきじゃないんだ」そんな意味のことだった。「拳銃で殺すなんて馬鹿げてる。しかも食いきれないほど殺すなんて。こんなことをしたら、自然の中の肝心なものがこわれちまうんだ」
 彼は一人で歩き回りながら喋り続けた。誰も聞いていなかった。英語だったから、女の子たちにはわかりにくかったのだ。アメリカ兵の二人組は犬を全部殺し終わると、さっさとコットンキャンディマンを捜しにいってしまった。女の子たちはミチコとマリコのまわりでぼんやりしていた。ぼくでさえそのときはリッキーが何を言おうとしてるのかわからなかった。かわいそうなリッキー。彼は完全に孤立していた。一人で傷ついていた。病気になったリスみたいに。
 ミチコが立ち上がってアメリカ兵を追い掛けようとしたとき、リッキーは彼女をじっと睨んでいた。澄んだ眼がとても悲しそうに見えた。
「お願い」とミチコがリッキーの腕にからだをくっつけながら言った。「今は何も言わないで。わたしたちを行かせて」彼女は完全に女の子だった。
 アメリカ兵とヒッピーたちはもう森の中に入り込んで姿が見えなくなっていた。彼らには聖書女学院のバスケットボール部員よりもコットンキャンディマンを救い出すことのほうが大切だったのだ。ミチコは中学生をキャンプに帰すことにした。ほんとは部員を全部帰して、自分だけ行こうとしたのだが、高校生がついていきたがったのだ。ぼくは中途半端な立場にいた。一応中学生だったが、ミチコの支配下にいるわけではなかった。ぼくは帰りたくなかった。コットンキャンディマンはヒッピーの中で一番親しい友達だったし、何よりそのとき森の中で最後に彼に会ったのはぼくだったのだ。
「ぼくは行ってみるよ」
「わたしも」とマリコが言った。
 ミチコはだめと言わなかった。いつもより険しい顔をしていたが、心細さが目にあらわれていた。結局マリコ以外の中学生は、狩りがあまりうまくない高校生のバスケットボール部員が数人ついてキャンプに帰ることになった。リッキーはややうなだれながらヒッピーたちが消えていった森のほうへ歩きだした。ぼくらもあとについて行った。陽が翳って急に寒くなってきた。空はまだ明るかったが、風が強くなってきた。あちこちから犬の遠吠えが聞こえてきた。悲しそうな犬の声がいくつも消防車のサイレンみたいに重なり合い風に乗ってぐるぐる回っているような感じに聞こえた。  
 それは大きな火事のときに感じるあの暗くて冷たい感じを思い出させた。

 ぼくらは森の中で倒れているコットンキャンディマンを見つけた。森はひどく暗かった。ぼくが彼を見たときはすでにヒッピーたちが助け起こしているところだった。
「頭が痛いよ」とコットンキャンディマンは大きなアフロヘアのかたまりを両手で抱えながら言った。その髪はスズメバチの巣みたいにスプレーでガチガチに固めてあったから、どんなにさわっても頭の地肌に触れることはできなかった。
「ファッキンな犬の野郎がおれの頭を咬みやがったんだ」と彼は言った。
 なるほどアフロヘアのてっぺんあたりが少し噛り取られていた。でもアフロヘアのかたまりは少なくとも厚さが二十センチ以上あったから、頭本体には全然届いていなかった。花柄模様のシャツと赤いベルボトムのズボンが少し食いちぎられてはいたが、彼もマリコと同様たいした傷は負ってなかった。
 風の中でまたバンバンという破裂音がした。アメリカ兵が拳銃で犬を撃ったのだ。犬が気違いじみた声で吠えるのが聞こえた。少し先に木立ちが途切れた場所があり、アメリカ兵とヒッピーの何人かはそこにいた。ぼくらもコットンキャンディマンを助け起こしてそっちに行った。そこでぼくは遠山恵と犬たちを見た。その瞬間、マリコが後ろを向いてしまった。ほとんど同時に女の子たちはみんな後ろを向いてしまった。
「見ちゃだめ」とマリコがぼくに言った。
 でもぼくは見ないではいられなかった。ぼくはミチコと一緒に前に進んだ。
「糞!」とミチコは言った。「蓄生!」
 ぼくは彼女の顔を見た。左眼がぼくを睨んでいた。彼女はすっかり男の子になっていた。リッキーが後ろから彼女の腕を掴んでいたが、彼女は彼を引きずりながら前に進んでいった。拳銃は続けて発射され、少し途切れてはまた発射された。ぼくは前に進んでいくにつれて遠山恵をはっきり見ることができた。彼女は草の上に倒れていた。全身をめちゃくちゃに咬まれ、肉を食いちぎられていた。犬たちは彼女に群がっていた。拳銃が発射されるたびに何匹もの犬が死んだり、傷を負って逃げ出したが、同時に新しい犬が彼女に食いついてきた。マリコのときとはまるで様子が違っていた。犬たちは拳銃の弾を全然怖がってなかった。腹が減って死にそうだったのかもしれない。飢え死にするよりは肉にありついてから撃たれるほうがまだましだとでもいうように、あとからあとから襲いかかってきた。遠山恵はもう見分けがつかないくらいにからだ中を食いちぎられていた。お腹から飛び出している腸を犬たちがソーセージみたいに奪い合いながら食べていた。
「ハニー」と後ろでコットンキャンディマンが言った。すごく弱々しい声だった。ヒッピーの女たちが彼をおさえこんで、それ以上進ませないようにしていた。彼は遠山恵を見ることができなかった。「ハニー」と彼はまた言ったが、ヒッピーたちを振りきって前に出ようとはしなかった。
 ぼくは犬が次々に拳銃で撃たれて飛び上がるのを見ていた。その中にはビッキーに似たスピッツが何匹もいた。スピッツも遠山恵の腸をガツガツと食べていた。それはまるでビッキーが彼女を食べてるみたいに見えた。そして何匹ものビッキーが彼女の腸を食べては次々に撃たれて死んでいった。
「神様」とマリコが後ろを向いたまま眼をつぶって言った。
「アーメン」と別の誰かが言った。
 ぼくも心の中でアーメンと言った。まったく、こういう場合には、キリスト教徒でなくても、アーメンとしか言いようがない。
「糞!」とミチコがぼくの横で言った。「蓄生!」

ファミリー・キャンプ6

                    ★

 それから夜中まで大騒ぎが続いた。警察の人間が何十人も来た。ぼくらは遠山恵の家で刑事の事情聴取を受けた。特にコットンキャンディマンはしつこくいろんなことをきかれた。最後に遠山恵を見たのは彼だったし、チョコレート色に日焼けした顔やメキシコ人じみた顔、馬鹿でかくふくらましたアフロヘアが、警察に何となく胡散臭い印象を与えたからだ。遠山夫人は反狂乱だった。ぼくやミチコに向かって、
「訴えてやる」といきまいたり、床に坐り込んで泣きわめいたりした。彼女は娘の姿を見てすっかり取り乱してしまったのだ。死体は遠山恵かどうかわかるような状態じゃなかった。血だらけの骨がグシャグシャとかたまってるだけの代物だったからだ。検死官たちがちゃんと死体専用の袋に詰めて運び出さなければ、うっかり犬と一緒に大鍋に入れてスープをとってしまいそうだった。
 ぼくらがすっかり意気消沈していたので、母がヒッピーたちや近所のおばさんたちを集めて夕食を作ってくれた。アメリカ兵の拳銃で殺されたとんでもない数の犬は全部桃畑に運び込まれていた。そのうちの十数匹を使ってその夜の食事が作られた。犬のカツレツ、犬のシチュー、犬の蒸し肉、犬のステーキ、犬の唐揚げ、犬の臓物の煮込み⋯⋯。残りはハムやベーコンやソーセージや干肉にした。犬の干肉はけっこういける。特にプードルとかダックスフントとか、小型の犬がうまい。ドッグジャーキー。ぼくらはそう呼んでいた。山にハイキングに行くときはそいつをどっさり持っていったし、釣りの餌に困ったときはそれを針につけると鯰や牛蛙がたくさんとれた。
 ぼくらは元気がなかったが、腹がひどく減っていたのでふだんの倍は食べた。腹がふくれると、ようやく気持が落ち着いてきたので、焚火を囲んでみんなで話をしたり歌をうたったりした。遠山恵の思い出話もした。彼女とはみんなあまり親しくなかったし、いい思い出も少なかったが、それでもなんとか彼女のいいところを思い出して話そうとした。ぼくはマリコとスーパーマーケットに下着を買いに行ったときのことを話した。遠山恵はわりといやな女の子だったが、最近はかなりよくなっていた。特にコットンキャンディマンとつきあいだしてからは。ぼくは最後に彼女を見たときのことも話した。彼女は森の中でコットンキャンディマンとキスしていた。彼らはわりと真剣に愛し合ってたんだと思う。それはちょっとした救いのような気がした。もし彼女が犬の群れに食べられてしまう前にコットンキャンディマンと一度でもセックスしたのだとしたら、それはかなりの救いになるような気がした。
「ぼくは言ってやったんだ、シスターに言い付けてやるってね」とぼくはみんなに話した。「それまでぼくはさんざん彼女に告げ口されてひどいめにあってたからさ。そのとき彼女は『しょうがないわね』と言って笑った。それは今までと全然違う彼女だったんだ。彼女はすっかり変わってた。もう人のあら探しをしたり告げ口したりする女の子じゃなかった。すごく優しくなってたんだ。彼女が生きてたらきっと仲よくなれたと思うよ」
 女の子たちは泣いていた。遠山恵のことをよく知らない子も、その日森に行かなかった子も、みんな彼女のために泣いていた。女の子たちは泣いたり笑ったりしやすい年ごろだったし、一九六八年には泣くことはちっとも恥ずかしいことじゃなかった。

 ぼくらは彼女のためにうたった。歌はほとんどがフォークソングだった。『五〇〇マイル』とか『風に吹かれて』とか『ウィー・シャル・オーバーカム』とか。それからコットンキャンディマンと彼のバンドがジミ・ヘンドリックスの『紫の煙』とか『レッド・ハウス』をやりだした。コットンキャンディマンがジミ・ヘンドリックスそっくりの声でうたい、ジミ・ヘンドリックスそっくりのスタイルでギターを弾いた。つまり歯でひいたり、左手で弦を思い切りチョークしたりギターをアンプのスピーカーに近づけてハウリングさせたりといった弾き方だ。一九六八年にはたいしたイフェクターはなかったが、コットンキャンディマンはジミ・ヘンドリックスの工夫をそっくりまねして、実にいろんな音を出していた。
 一九六八年にはジミ・ヘンドリックスはまだ生きていた。彼が死ぬのは一九七〇年のことだ。彼はまだ有名になり始めたばかりだった。日本ではほとんど知られていなかった。彼はまだマーチン・ルーサー・キング牧師のためにうたったりはしていなかった。ロンドンでデビューしたばかりの、麻薬と愛についてうたうおそろしく不健康なミュージシャンという感じだった。それでもぼくらはコットンキャンディマンが演奏するジミ・ヘンドリックスの曲が大好きだった。女の子たちは彼のギターに乗って踊るのが好きだった。みんなでフォークソングをうたったすぐあとに、ジミ・ヘンドリックスの曲で踊ることは少しも不自然じゃなかった。フォークソングとロックはちゃんと共存していたビートルズは『ヘルタースケルター』や『バック・イン・ザUSSR』が入ってるLPに『マザー・ネイチャーズ・サン』や『ジュリア』や『アイ・ウィル』といった曲を入れていたし、一九六九年のウッドストック・コンサートではジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックスと同じステージでジョーン・バエズもうたったのだ。

 みんなが焚火を囲んで踊っている間、ミチコは草の上でリッキーの胸にもたれて泣いていた。彼女は責任を感じていたのだ。
「遠山恵が死んだのはわたしのせいなのよ」と彼女は言った。
「そんなことはないよ」とリッキーが言った。
「わたしが犬を食べようなんて言い出さなければ、みんな犬を食べなかったし、犬を食べなければ、うちの女の子たちに森で犬狩りをさせたりしなかっただろうし、わたしが犬を食べようなんて言わなければ、ビッキーも食べられずにすんだだろうし、そうしたら彼女は森にビッキーの代わりのスピッツを探しに行ったりしなかったはずなのよ」
「きみは混乱してるよ」リッキーは優しくミチコの髪を撫でながら言った。「女の子たちを森にやったのはきみの責任だけど、彼女たちはちゃんと無事に帰ってきたじゃないか。遠山恵が死んだのはきみと何の関係もないよ」
 彼女はバスケットボール部のユニフォームを着ていたが、完全に女の子だった。リッキーはいつも通り帽子とチョッキとブーツしか身に着けていなかった。彼女が彼の裸の脚に挟まれて抱かれている図はなんとなく変だったが、彼はいつもと変わらない静かで優しい眼をしていた。
 ぼくの隣に坐っているマリコが彼女をじっと見つめていた。膝を腕で抱えて、膝小僧に顎を乗せ、何も言わずに火とそのむこうのミチコを見つめていた。ぼくは彼女の肩を抱いていた。彼女はいやがらなかったがぼくにもたれかかってきたりはしなかった。
「キャンプが終わっちゃうって知ってた?」と彼女が言った。
「どうして?」とぼくが言った。
「バスケットボール部のキャンプは明日で終わりなのよ」
「どうして?」

「頭が痛いよ」とコットンキャンディマンがマイクに向かって言った。
 彼は突然演奏を止めてしまい、フラフラと草の上に坐った。ホワイト・ラムを壜から直接飲み、マリワナを一服吸うと少し落ち着いたみたいだったが、もう一度演奏をやろうとはしなかった。
「悪いな、みんな」と彼は言い、自分のテントのほうへ歩きだした。「頭が痛いんだ。今夜はお先に失礼するよ」

「わたしたちのキャンプは明日で終わりよ」突然ミチコがみんなに言った。コットンキャンディマンの演奏が急に終わってしまって、死後の世界みたいな静けさがあたりを浸していた。少女たちだけでなく、ヒッピーたちもミチコを見た。彼女は自然に人の注意を惹きつけてしまうところがあった。「さっきシスターたちに呼ばれてキャンプを中止するように言われたの」
「そんなのあんまりだわ」と誰かが言った。
「野犬をとるなっていうならわかるけど、キャンプまで止めろっていうのは行き過ぎよ」
「違うのよ」ミチコはちょっと笑った。「次が待ってるの。ソフトボール部とサッカー部
とバレーボール部もキャンプをやりたいって言ってるの。わたしたちだけがここを占領してるわけにはいかなくなったのよ」
 一瞬、桃畑全体がザワザワと音を立てた。ぼくらのまわりにはヒッピーたちや近所の家の人たちがいた。彼らも一緒に犬料理の夜食を食べ、コットンキャンディマンの演奏を聴いていたのだ。
「びっくりしたなあ」とヒッピーの一人が言った。「おれたち尼さんに追い出されるのかと思ったよ」
「女の子の数がふえてきたらそれもありうるぜ」と別のヒッピーが言った。
「残念だわ」と近所のおばさんの一人が呟いた。それはもしかしたらぼくの母だったかもしれない。「せっかく仲よくなれたのに」
 ミチコはリッキーから離れて少し火のそばに寄った。草の上に膝をついて短い髪をかきあげながら、まわりを眩しそうに見回した。「みなさん、ほんとにありがとう」と彼女は言った。「短い間だったけど、こんなに楽しい合宿は初めてでした。ほんとにありがとう
」彼女は完全に女の子だった。聖書女学院で一番美人の女の子だった。仕草も話し方も完全に聖書女学院のお嬢さんだった。彼女は美しさだけでも大人たちの心を動かすことができた。
「またいらっしゃいよ」と近所のおばさんが言った。振り向くと、それはぼくの母だった。「わたしたちもけっこう楽しかったわ。だからまた順番を待って、もう一度いらっしゃいよ」
「ありがとう」とミチコは言った。彼女は泣いていた。
 みんな黙り込んでしまって、火だけがバチバチ燃えていた。まるでみんなで自殺しようと決めたみたいな静かさだった。女の子たちはもう誰もいやだとはいわなかった。ミチコがみんなで死のうと言いだしても、やっぱり誰も反対しなかっただろう。彼女には人を動かす力があった。女の子たちは何が正しいのか、何をすべきなのか考えるということをしなかった。そういうことはすべてミチコが一人でやっていたのだ。彼女が命令しなければ、みんな朝までそのままでいただろう。ぼくらは完全に凍りついてしまっていた。
「さあ、みんな寝るのよ」と彼女はバスケットボール部員に命令した。
 それでおしまいだった。みんな二三人ずつ火のそばを離れてテントに戻っていった。誰も逆らわなかった。それから彼女はぼくらの外を取り囲んでいた近所の人たちにもう一度「ありがとう」と言った。それは「さよなら」に近い「ありがとう」だった。彼らも彼女にそう言われておとなしくそれぞれの家に帰っていった。その中にはぼくの両親や兄もいた。母は笑いながらぼくに小さく手を振って、闇の中に戻っていった。
 最後にミチコとリッキーとマリコとぼくが残った。ミチコとマリコのテントは火のすぐそばにあった。リッキーのテントは桃畑の奥だった。彼はゆっくり立ち上がり、いつものようにおちんちんをブラブラさせながら歩きだした。
「どこに行くの?」とミチコがきいた。
「我が家に帰るのさ」と彼が答えた。
「ジェーンはいないわよ」
「知ってる」

 ジェーンはジャネットを連れて行ってしまった。それをミチコに教えたのはぼくだった。ジェーンはその日の午後、ぼくが女の子たちと犬狩りに出掛ける前にジャネットを抱いてやってきたのだ。彼女は西部劇に出てくるようなスエードのスーツを着ていた。『アニーよ銃をとれ』といった感じのスタイルだった。背中には布製の大きなリュックサックを背負っていた。彼女が服を着ているところを見るのは初めてだった。
「行くわよ」と彼女はぶっきらぼうに言った。「あのキンタマ野郎は釣りに行ったわ。会ったら言っといてちょうだい。わたしは行っちゃったって」
「どこに?」とぼくはきいた。
「それを教えたら、行っちゃうことにならないでしょ」彼女はくすっと笑った。前歯が唇から大きくせり出した。彼女はけっこう出っ歯だった。いつも縁なし眼鏡をかけて、険しい表情をしていた。そのせいでぼくは彼女のことをかなり歳のおばさんだと思い込んでいたのだが、そのときの彼女はわりと若く見えた。ひょっとしたらまだ二十代の前半だったのかもしれない。
「アメリカに帰るのよ」彼女はぽつんと言った。
「アメリカに帰る」とぼくは馬鹿みたいに繰り返して呟いた。「飛行機で?」
「泳いで帰るわけにいかないでしょ」ジェーンはまた笑った。それからオクラホマ州とアーカンソー州に親が油田と牧場を持っていること、兄がロサンゼルスで出版社を経営していて、そこから最初の詩集を出す話が進んでいることなどを話してくれた。つまり彼女はわりといいとこのお嬢さんだったのだ。
「なかなかでしょ?」と彼女は言った。
「なかなかだね」とぼくは言った。
「さよなら」と彼女は言った。
「さよなら」とぼくも言った。

 ぼくはその話をリッキーにする暇がなくて、夕方桃畑で会ったミチコに話しただけだっ
た。でもリッキーはジェーンが何をしようとしてるのか、とっくに勘づいていた。そうい
う予知能力に関しては、へら鹿なみだった。
「どうするの?」とミチコが自分のテントに戻っていくリッキーに言った。
「どうもしないさ」とリッキーが言った。
 それは嘘だった。

 明け方目を覚ますとマリコがぼくのシュラフに潜り込もうとしてるところだった。
「どうしたの?」ぼくはまだ半分眠りながら言った。
「彼女がいないの」
 マリコのからだは冷えきっていた。おまけにかなり濡れていた。ぼくは手ざわりがいいので、しばらく何も考えずに彼女の背中を撫でていたが、急に彼女が何も着てないことに気づいて手を止めた。
「どうしたの?」ぼくは狭いシュラフの中で彼女から離れようともがいた。「どうして裸なんだ?」
「パンツはいてるわよ」彼女はちょっと笑った。「あのとき一緒に買いに行ったやつ」
「どうして濡れてるの?」
「明け方雨が降ったの。草が濡れてるのよ」
 マリコの頬っぺたに草がこびりついていた。ぼくはそれをとってやった。テントの中で兄が何か寝ごとを言った。ぼくらは顔をくっつけ合って彼のシュラフのほうを見た。すごく楽しそうな顔で笑っていた。きっとまた江戸時代の遊廓かどこかで女とうまいことやってる夢でも見てたんだろう。
「リッキーと一緒だよ、きっと」とぼくはマリコに言った。
「リッキーもいなかったわ」と彼女は言った。
「散歩かもしれないよ、いつかみたいに」とぼく。
「ずいぶん探したんだけど、どこにもいなかったわ」とマリコ。
「ちょっと遠出したのかもしれないよ」とぼく。
「そうかもしれないわね」とマリコ。
 でも散歩じゃなかった。
 その日一日待っても、彼らは戻ってこなかった。何日たっても現れなかった。彼らは姿を消してしまったのだ。一緒にどこかへ行ったという証拠はない。リッキーがいなくなり、ミチコがいなくなったというだけのことだ。リッキーのことは誰も探さなかったが、ミチコのことは家族が警察と探偵社を使ってそこら中探した。でも彼女は出てこなかった。
ぼくは彼らのことを考えた。どこかの農園か森でキャンプを張ってるところを。リッキーがおちんちんをブラブラさせながら釣りに出掛け、ミチコが素っ裸で赤ん坊を抱いてるところを。それ以外の彼らは考えられなかった。

 予定通りバスケットボール部のキャンプは終わり、続いてサッカー部のキャンプが始まった。聖書女学院はその頃宝塚で唯一女子サッカー部のある学校だった。一九六八年には女子サッカー部は日本全国でもまだ数えるほどしかなかった。彼女たちはバスケットボール部ほどかわいくなかったが、それでも近所のおばさんたちは同じように世話をしてやった。彼女たちが野犬狩りをやらなくてもすむように、肉料理を作ってやったりもしていた。ヒッピーたちも相変わらずキヤンプを張っていた。人は絶えず入れ替わっていたが、テントの数も、やってることもあまり変わらなかった。彼らは魚を釣り、ときどき犬を捕まえ、マリワナを吸い、焚火で料理を作り、ギターを弾き、昼寝をし、ときには昼間からセックスした。ぼくは新しく来た連中とも適当に付き合っていたが、リッキーみたいに親しくなることはなかった。彼がいなくなってから、何かが決定的に変わったような感じだった。マリコは学校の帰りに現れて、母の料理を手伝った。ときにはノリコを連れて泊りにきたりもした。彼女は一見かなり陽気に見えた。ブラジル娘みたいな水着をつけてうちの池で水浴びをしたり、歌をうたったりしているのを見ていると、ミチコのことをすっかり忘れてしまったのではないかとさえ思えた。
 しかしぼくらはミチコとリッキーの話だけはしなかった。言い出せるような雰囲気じゃなかった。マリコはどこか神経がピンと張りつめていて、その話題に触れたとたん、扇風機にひっかかった虫みたいにバラバラになってしまいそうな感じだった。
 ビキニを着ると、彼女の胸は小さなブラからはみ出しそうになった。野犬の爪がおっぱいにつけた傷はかすかな跡になって残っていた。ほとんど見えないほどかすかな傷だったが、光の加減でくっきり浮き出して見えることがあった。それは張りつめている彼女の神経のようだった。
 触れてはいけない話題はけっこうたくさんあった。
「あのときは楽しかったね」というのはだめ。
「また犬狩りをやりたいね」というのもだめだった。ミチコに必然的につながってしまうからだ。
「ジャネットにきみがおっぱいを飲ませようとしたとき⋯⋯」というのも、
「森の奥の池で釣りをしたとき⋯⋯」というのもだめだった。
 やれやれ。

 よく晴れた日曜日の午後にマリコは登山ナイフで手首を切った。ぼくがちょっと目を離してる隙に。ノリコの泣き叫ぶ声がしたので振り返ると、マリコが池の中で震えながら立っていた。ブラジル風のビキニを着て、登山ナイフを右手に持ち、左手をちょっと持ち上げるようにしてぼくのほうを見ていた。
「心配しないで」と彼女は言った。「わたしは平気よ」
 手首から血が細い糸を引くみたいに流れ落ちて、緑の水に赤い模様を広げていた。
 そのときは庭に家族全員揃っていた。ぼくらは池に飛び込んで彼女を引っ張り上げた。
傷はそんなに深くなかった。血はすぐに止まった。
「ごめんなさい」と彼女は母に言った。「池を汚しちゃって」
「ううん。わりときれいな色だったわ」と母が慰めを言った。
「江戸時代の染め物には数百種類の赤があったんだ」と兄が言った。「昔から赤は無数と言っていいほどある。血の赤、空の赤、楓の赤、ざくろの花の赤、南天の実の赤、くちなしの実からとれる汁の赤⋯⋯」
「ランボーは母音に色をつけたんだ」と父が言った。「それによると赤はIだった。Iは溢れ出る血の赤。怒りの中で、あるいは苦い酔いの中で美しい唇に浮かぶ笑い⋯⋯」
 一九六八年には誰もがランボーを暗唱していた。小さな銀行で重役をしていた父も例外じゃなかった。彼は日曜日の夕暮れに草の上で息子たちにランボーやボードレールやマラルメやアポリネールの詩を朗読して聴かせるのが好きだった。

              ★

 真夏がやってくる前にコットンキャンディマンが死んだ。遠山恵が死んでから、彼はずっと「頭が痛いよ、ベイビー」と言い続けていたが、ある日急に草の上に突っ伏して死んでしまったのだ。解剖してみると、彼の頭蓋骨の中から小さなクモがたくさん出てきた。
彼自慢のアフロヘアの中にクモがいつのまにか巣を作っていたらしい。彼は綿飴みたいにきれいにふくらませた髪をヘア・スプレーでガチガチに固めていたから、クモが中に巣を作っていることに気づかなかったのだ。ぼくらは彼がずっと髪を洗おうとしないことにちょっと不安を感じることがあった。彼は毎日農園の水道のホースでからだを洗っていたが、頭にはただ上から水をかけるだけだった。シャンプーも使わなければ、髪をゴシゴシ洗うこともしなかった。
「あいつはきっと頭の皮に一杯あせもができてるぜ」とヒッピー仲間は言っていた。でもまさかクモが巣を作って頭皮を食い破ってるとは思わなかった。
 一番の謎はどうしてそんなになるまで我慢できたのかということだった。それから、どうして血が一滴も出なかったのかというのも不思議だった。これは医者にもうまく説明できなかった。
「まあ、考えられるのは」と医者は苦笑いしながら言った。「クモがちょっとずつ食っていったので、大きな傷が開かなかったということでしょうなあ」
「なるほど」とぼくらは言った。
 医者もぼくらも全然納得してなかったが、とりあえずの説明がほしかったのだ。

 ぼくらは農園でコットンキャンディマンの葬式をやろうとしたが、彼の家族というのがどこからともなく現れて、病院の死体解剖室から彼の遺体を持っていってしまった。
 ぼくらにとってショックだったのは、コットンキャンディマンが本名を水野良夫という日本人で、両親が大阪の住吉区で電器屋をやってるということだった。彼は大阪経済大学を中退していた。歳は二十一才だった。ぼくはなんとなくだまされたような気がした。別に彼のことを本物の黒人だとは思っていなかったが、少なくともポリネシアのどこかから来たとか、沖縄生まれのハーフだとか、そういうたぐいの、ちょっと不思議な男であってほしかったのだ。
 葬式は電器屋の店を片付けて行われた。すごく暑い日だった。ありきたりの葬儀屋が用意した、ごく普通の葬式だった。黒と白の太い縞模様の幕、白い布で覆われた壇、金メッキの飾りに白いローソク、白い菊の花、まだ普通の髪をして笑っているコットンキャンディマンの写真、線香の臭い、坊主のお経と木魚の音。ヒッピーたちが好きだったシタールの演奏も、甘い匂いのする乳香の煙もなかった。もちろんジミ・ヘンドリックスのレコードもかけられなかった。
 ぼくはマリコと数人のバスケットボール部員たちと学校の制服を着て焼香に行った。ヒッピーたちが受付係をやっていた。男は黒っぽい上着に黒いジーパン、女は黒のワンピースかスーツに真珠のネックレスかカメオのブローチをしていた。みんな見事に日本人だった。アメリカ人やオーストラリア人のヒッピーたちは一人も来ていなかった。友達だったはずのベトナムからの脱走兵も。
 ぼくはヒッピーたちと顔を見合わせてニヤニヤ笑った。なんとなく自分に似つかわしくない格好をしていたからだ。いや、むしろ逆だ。その日の服装がぼくらの正体だった。ふだんのぼくら、桃畑のぼくらはちょっとした仮装パーティーをやっていただけだった。そのことが明らかになって、ぼくらはお互いにちょっと照れ臭かったのだ。
「笑っちゃうね」とヒッピーの一人が言った。
「うん」とぼくは言った。
 マリコと女の子たちはハンカチを眼に当てて泣いていた。

 女の子は泣くのが好きだ。
 彼女たちは遠山恵の葬式のときも泣いていた。ぼくが無表情だったと言って彼女たちはぼくのことを白い眼で見た。しかし、葬式が終わると彼女たちはすぐにユニフォームに着替え、桃畑でキャーキャー騒ぎながらバスケットボールの練習をやった。そして夕方になると、それぞれ自分の家に帰っていった。別れ際にはみんな笑いながら手を振っていた。その日はキャンプの最終日だったのだ。そしてリッキーとミチコが消えてしまった日でもあった。いろんなことがあったわりには、ずいぶんあっけない終わり方だった。ぼくはその晩、食事が喉を通らなかった。この世から一番大事なものが消えてしまったような気分だった。
「こういうのって、フェアじゃないよ」とぼくは言った。
「あら、そう?」と母が言った。
 マリコは次の日、何もなかったように遊びに来た。ミチコがいなくなったことをまだ知らないみたいに、あどけない顔で笑っていた。
「やあ、調子はどうだい?」とぼくはきいた。
「まあまあよ」と彼女は言った。そして天使みたいな顔で笑った。
 女の子は笑うのがうまい。心のそこに何を隠していても同じように笑う。そして笑いながら手首を切って見せたりするのだ。彼女がブルーのビキニを着て、池の中で手首を切ったのはそれから数日後だった。
 女の子は悲しみを表現するのがうまい。
 マリコは手首を切った後も、何もなかったように笑いながら、毎日ぼくの家に遊びに来た。彼女の笑顔は赤ん坊のジャネットの笑顔に似てきた。それはあんまり無邪気すぎてぼくの胸を締めつけるほどだった。
 そして、それから数日後にコットンキャンディマンの死がやってきた。
「あなた、また涼しい顔してる」葬式の席でマリコがぼくに言った。
 彼女はきれいな顔で泣いていて、ぼくは泣いていなかった。
「冷たい」とバスケットボール部の女の子たちが言った。
「やれやれ」とぼくは言った。
 日本人に戻ったヒッピーたちも、コットンキャンディマンの家族と一緒に泣いていた。

 ぼくはマリコと手をつないでコットンキャンディマンの葬式から戻った。土曜日の暑い
午後で、ぼくは汗だくだった。ぼくらは水着に着替え、庭でホースの水をかけあった。そ
れから芝生の上に寝そべってからだを焼いた。
「練習に行かなくちゃ」マリコがぼくのほうを見ながら言った。
「休んじゃえばいいのに」とぼくは言った。
「だめよ」と彼女は言った。「叱られるわ」
 ぼくらは顔を上げて桃畑を眺めた。いつものようにヒッピーたちが草の上に坐ったり寝転んだりしていた。その手前でサッカー部の女の子たちが腹筋をやっていた。マリコのクラスメイトなのだろう、女の子が一人、腹筋をやりながらこっちに手を振った。マリコも手を振って応えた。するとほかの女の子たちも彼女に手を振った。ミチコがいなくなった今、マリコは聖書女学院で一番可愛い女の子の一人だった。彼女は学校中の女の子に人気があった。
「お願いだから行かないでくれよ」とぼくは言った。
「じゃあ、あと少しいるわ」とマリコは言った。
「お願いだからどこにも行かないでくれよ」とぼく。「みんないなくなっちゃったんだ。
きみまでいなくなったらぼくは生きてけないよ」
「あなた、何言ってるの?」マリコは顔を上げてぼくを見た。
 リッキーはもういなかった。ミチコもいなかった。マリコがぐずぐずと練習をサボッていられるのは、ミチコがいないからだった。彼女にとってこわい上級生はミチコしかいなかった。というより、ミチコの顔を見るために彼女は練習に出ていたのだ。
「今度はいつキャンプをやるの?」とぼくはマリコにきいた。
「さあ。とにかく夏まではだめなんじゃないかしら」と彼女。「予約が一杯なのよ。もしかしたら、今年は順番が回ってこないかもしれないって先輩が言ってたわ」
「来年か⋯⋯」とぼくは呟いた。「来年の春になったら一の宮もリッキーも帰ってくるか
な?」
「帰ってくるといいわね」

 ぼくらはキャンプが永遠に続くものと思い込んでいたのだ。子供はあまりにも早く習慣を身につける。その年の春に突然始まったヒッピーたちと近所の住人と少女たちのキャンプが、真夏を前にしてもう永続性を持った習慣みたいに思えたのだ。ぼくだけでなく、マリコも、仲間の女の子も、ヒッピーたちも、うちの家族も、みんながそう思っていた。
 なぜだろう?

 ぼくらは間違っていた。
 秋になって冷たい風が吹き始めると、突然ヒッピーたちはどこかへ行ってしまった。聖書女学院の運動部もキャンプをやらなくなった。テント生活はやはり夏のもので、寒い季節には向いていなかったのだ。
 ぼくはヒッピーたちが消えた日を覚えている。十月二十一日の月曜日だ。多少とも当時のことを知ってる人間なら、ヒッピーたちがいつ、どんな風に消えていったか、誰でも正確に覚えているはずだ。彼らは十月八日に何の前触れもなく三分の一くらいがごそっといなくなった。それからさらに少しずつ減っていき、二十日までに半分くらいになっていたのだが、二十一日になって突然一人もいなくなってしまった。それはなんとなく渡り鳥の出発に似ていた。だからよけいに彼らがまた来年の春に戻ってくるような気がしたのだ。

 ぼくは間違っていた。
 ヒッピーたちは二度と戻ってこなかったし、聖書女学院のキャンプも二度と行われなかった。一九六九年になると、もう誰もキャンプのことを覚えていなかった。近所の人も、聖書女学院の女の子たちも。ぼくはマリコとあまり会わなくなり、ついには全然会わなくなった。道でたまに出会っても、声もかけなければ眼で挨拶したりもしなかった。高校生になって、ぼくらは全然別の人間になってしまったのだ。何がどう変わったのかはよくわからない。とにかくいろんなことが全部変わってしまったのだ。男の子と立ち話をしてはいけないという、聖書女学院のよそよそしい不文律がまた実行されだしていた。それがよけいにぼくらを疎遠にした。
 ヒッピーたちは忽然と姿を消してしまった。ニホンオオカミのように。あるいは、ぼくの兄の言い方を借りれば東洲斎写楽のように。外国に行ってしまった連中もいたらしいが、ほとんどは一般人に戻って都市に溶け込んでしまったのだ。アメリカのヒッピー・ムーブメントは何年もかかってゆっくり広がり、また何年もかかって衰退していったのだが、日本のそれは一九六八年の春に突然燃え上がり、その年の秋に突然消えてしまった。一部のヒッピーたちのなれの果てが悪魔を拝んだり、女の子を殺して、人肉を食べたりしたがほとんどのヒッピーたちは都市に流れ込んで広告代理店の課長になったり、テレビ局のディレクターになったり、喫茶店のマスターになったりした。

 アメリカに帰ったジェーンが詩集を出したのかどうかはわからない。でも、日本で紹介されて話題になるほど有名な詩人にならなかったことは確かだ。彼女の姿は一九七五年に日本で翻訳が出たリッキーの第一詩集の表紙で見ることができる。その写真はまだリッキーとジェーンが日本に来る前のものだ。リッキーは口ヒゲを生やし、帽子を被り、チョッキにブーツにコートといういでたちだ。いや、それだけじゃない。ちゃんとチョッキの下にシャツを着て、ジーパンもはいている。ジェーンも縁なし眼鏡は変わらないが、ベルベットの上着に白っぽいロングスカート、首にはたくさんのネックレスと、けっこうお洒落ないでたちをしている。一九七五年にぼくは大学生だったが、この写真を見たときは思わず泣いてしまった。それは死後の世界から届いた頼りのようなものだった。すでに毀れてしまったもの、ぼくが最初に出会ったときから崩れてしまっていたものが、そこでは眩しい輝きと共に記録されていた。どうしてこの写真を撮ったときの彼らに会えなかったんだろう、とぼくは何度も考えた。

 あのとき桃畑にキャンプを張っていた人たちの中では、リッキーだけがかなり後までの人生を辿ることができる。彼はすっかり有名な詩人兼小説家になってしまったからだ。雑誌のインタビューやテレビのクイズ番組に出てくるタイプの作家ではなかったけれど、彼の作品はアメリカで発表されるたびに、何か月か遅れで翻訳が出ていた。彼の新作には彼のその後の生活が反映されていたから、ぼくは彼がどんな生活をしているのか、わりと正確に知ることができた。
 それらの作品によると、彼は日本人の女と一緒にアメリカと日本を行ったり来たりしながら暮らしていた。金が入ってきたせいか、もうテント暮らしはしていなかった。彼と恋人はまともな家に住んでいた。その女がミチコなのかどうかはわからない。彼は二度と本の表紙にその手の写真を使わせなかった。少なくとも作品に出てくる日本女性からはミチコらしいところは感じられなかった。
 それからしばらくするとリッキーは日本人の恋人と別れてしまったという小説を書いた。作品の中では女のほうが彼にうんざりして出ていってしまったのだというふうに書かれていた。作品の中の彼はその女のことを未練たらしく思い出していた。女々しく、うじうじと。
 それから彼はまたたくさんの本を書いた。どれもこれもあまり面白くなかった。初期の作品のいいところがまるでなくなっていた。イマジネーションがすっかりだらけていた。ぼくはあまり彼の作品を読まなくなってしまった。
 彼は一九八四年に拳銃自殺した。そう新聞に出ていた。かわいそうなリッキー、とぼくは思った。彼の作品を読まなくなっていたことさえも、彼に対してひどいことをしたみたいに思えた。彼はへら鹿みたいにでかくてタフに見えたが、実は森の中のリスみたいに小さくて弱々しかったのだ。ぼくは一九六八年にそのことを理解しているべきだった。子供だったというのは言い訳にならない。ぼくはリスみたいに孤立して震えているリッキーを何度となく目撃していたのだ。一九七五年以降、時代は彼にとってますますひどいものになってきていた。彼のような人間が生きていけないような世の中になってきていた。ぼくはそのことをもっとよく理解しておくべきだった。その頃ぼくはもう十五歳の子供じゃなかったのだから。それなのにぼくはただ彼をだめになった作家として見捨てていた。それは赦しがたいことだった。
 かわいそうなリッキー。

「きみだけはどこにもいかないでくれよ」とぼくはまた言った。芝生の上に腹這いに寝て、腕の上に顎を乗せながら。頭の上で虻がブンブン言っていた。一九六八年の初夏のことだ。ぼくはまだ十四歳で、英文小説を書いていた。
「どこにも行かないわよ」とマリコが言った。彼女は笑っていた。透き通るような白い肌が日に焼けて赤くなっていた。彼女はブラジル娘のようなビキニを着ていて、大きなおっぱいと大きなお尻が水着からこぼれそうだった。ぼくらはまだヒッピーたちを眺めていた。キャンプ生活はまだ続いていた。
「ああ、なんていい気持なんだろう」とぼくは言った。
 池の水が太陽の光を反射してぼくの顔を照らしていた。黄色い光がぼくの目の前に溢れていた。
「わたしはどこにも行かないわよ」とマリコが言った。
「ああ、なんていい気持なんだろう」とぼくはまた言った。「今日はなんていい気持なんだろう」

                  
        わ た し は 水 際 を 見 張 っ て い る 


                                        

 一九八七年の秋に、ぼくは横浜の工場地帯を走る高速道路の下の道を歩いていた。右手はビール工場、左手は石油コンビナートだった。もう日は暮れかかっていて、空の最後の赤みはまだビール工場の煙突の上にかすかに残っていたが、高速道路のお陰でぼくの歩いている道はほとんど真っ暗だった。ぼくはずいぶん長いこと歩いていた。たしか川崎あたりで電車を降りて散歩を始めたのだ。いつどこで高速道路の下に入ったのかはわからなかったが、とにかくいつのまにかぼくは車の轟音がはるか頭上で響いているのを聞きながら、海に近い工場地帯を歩いていた。ぼくは長い散歩が好きだった。果てしなく続いている真っすぐの道をどこまでも歩いていくのが⋯⋯。
 ぼくはそのまま歩いて横浜駅まで行こうとしていた。だから、突然行き止まりにぶつかったときはひどいショックをうけた。あんまりびっくりしたので、しばらくそこでぼんやりしていた。それはビール工場の正門だった。暗くてよくわからなかったのだが、そばに近づいてみると灰色の鉄格子がぼくの行く手をしっかりふさいでいた。
「道路が突然終わってしまうなんて⋯⋯」とぼくは思わず呟いた。
「行き止まりだよ」と灰色の鉄格子の門が言った。
 ぼくは道路が途中で終わってしまうなんて夢にも思わなかったので、すごくがっかりしてしまった。
「どこにだって行き止まりはあるだろ」と灰色の鉄格子の門は言った。
「でも、高速道路の下の道が突然終わっちゃうなんて」とぼくは言った。「こんなに大きい道なのに」
 たしかにそれは大きい道だった。ちゃんと両側に広い舗道があったし、車が何台も並んで通れそうな中央分離帯があって、そこには車の代わりに高速道路を支えている太いコンクリートの柱が並んでいた。
「ここは普通の道じゃないんだよ」とビール工場の鉄格子の門が言った。「ウイークデー
にトラックが工場に出入りするための道なんだ」
「なるほど」とぼくは言った。
 確かにその道には車が一台も通っていなかった。歩いてる人もいなかった。その日は日曜日だったからだ。いや、文化の日か勤労感謝の日だったかな⋯⋯? まあとにかく休日に閉まってるビール工場に遊びにくるやつはいない。
「なんだ、がっかりだな」ぼくは立ち去りぎわにもう一度鉄格子の門のほうを振り向いて言った。「横浜駅まで歩いてやろうと思ったのに」
「おあいにくさま」とビール工場の鉄格子の門は言った。

 ぼくはビール工場のフェンスに沿って、来た道を引き返した。どこまで歩けばこの長い袋小路から出られるのか見当もつかなかった。フェンスのむこうはビルやピラミッドみたいに積み上げられたビールの空き壜の山とキリン草の枯れ草の海だった。
「こんなのってやだな」とぼくは口に出して言ってみた。
 何か喋らないと頭が変になりそうな気がしたからだ。高速道路は相変わらずすごい音を響かせていたが、ぼくはとても孤独だった。
「道はこんな風に造るべきじゃないんだ」とぼくはまた独りごとを言った。「海も空も見えないし、おまけに途中で終わっちゃうなんて⋯⋯」
 一体これまでどれだけの人間がここに迷い込んだのだろうとぼくは考えた。ここに迷い込んだ人間はきっと死にたくなるような思いを味わったに違いない。ぼくは暗闇の中を歩きながら、自分が生きてるのかどうかさえわからなくなっていた。

「こんなとこで何してるんだ?」
と言う声が聞こえたのは、ビール工場のフェンスが破れているところで立ち止まっていたときだった。闇の中から大きなヒマワリみたいな光がぼくを照らしていた。ぼくは眩しくて思わず手を目の前にかざした。光はどんどん近づいてきた。ぼくは怖くて光から顔を背けていた。逃げ出したかったが、足が動かなかった。
「ハラじゃないか」と同じ声が言った。
 フェンスの破れ目の向こうに結城が立っていた。そのヒマワリみたいな懐中電燈を自分の顔に当てて。十何年ぶりかの再会だった。
「こんなとこで何してるんだ?」とまた結城がきいた。
 彼はクリーム色のポロシャツにチョコレート色のズボンをという恰好で、手には大きなバッグとそのヒマワリみたいな懐中電燈を持っていた。いや、よく見ると、そのヒマワリは大きなバッテリーに接続された特殊な照明装置だった。ビデオの撮影のときなんかにマニアが使うやつ。
「散歩してたんだけど、迷っちゃったんだ」とぼくは言った。
「そうか」と結城は言った。
 彼はヒマワリみたいな照明装置で闇の中を照らしながら歩いた。まるでヘッドライトをつけた車に乗って夜中の道をゆっくり走ってるみたいだった。
「懐かしいな」と彼は言った。
「うん」とぼくは言った。
 結城とは総愛学院で一時期とても親しくしていたことがあった。一九六八年のほんの一時期だったが、ほとんど毎日行動を共にしていた。それからなぜか急にお互いほとんど口をきかなくなってしまった。別に喧嘩したわけじゃなかったが、いろんなことがあったのだ。一九六八年はそういう年だった。
「うちへ来いよ」と彼は言った。
「うん」とぼくは言った。
 結城には連れがあった。暗くてよく見えなかったが、グレーの長いコートを着た女だった。
「***だ」と結城は言った。
 多分名前を言ったのだと思うが、頭上の高速道路を走る車の音がうるさくてよく聞こえなかったのだ。ぼくは彼の右側にいて、女は左側を歩いていた。彼女はぼくのほうを見もしなかった。

 結城はすぐ近くの、運河を見下ろすマンションに住んでいた。ベランダからオレンジ色の炎を上げている石油コンビナートの塔が見えた。そのまわりには白い石油タンクと送油管が複雑に入り組んだ精製施設がひしめきあっていた。それは未来都市の廃墟みたいな風景だった。
 部屋の中では結城と女が言い争っていた。彼が何か料理を作れと女に言い、女はそれをせせら笑って無視したのだ。
「おれの神戸時代の親友なんだよ」と彼は言った。
「それがどうしたのよ」と女が言った。
 彼女はずっと笑っていた。それはとても変な笑い方だった。結城を馬鹿にしてると同時に自分を嘲ってるような⋯⋯。
「何もいらないよ」とぼくは彼らに言った。「おなかはすいてないんだ」
 それは嘘だった。ぼくはおなかがぺこぺこだった。昼間から歩き通しだったから、何も食べていなかったのだ。でも、それはどうでもいいことだった。ぼくはあの死後の世界みたいな高速道路の下の袋小路から無事に抜け出せただけでほっとしていた。しかも途中で道連れに出会うなんて、奇跡みたいなものだった。それだけで十分ありがたかったのだ。

 ぼくらは居間で結城がいれてくれた紅茶を飲んだ。
 部屋はとても広くて、板張りの床の上にきれいな茶色の木目のグランドピアノが置いてあった。ぼくはピアノの前に座り、いくつか曲の断片を弾いた。『星影のステラ』『嘘は罪』『水辺にたたずみ』『柳よ泣いておくれ』⋯⋯
「懐かしいな」と結城がまた言った。
「うん」とぼくは言った。「でも、きみがピアノを弾くとは思わなかったな」
「小学校のときおふくろに習わされたんだ」と彼は言った。「総愛学院にいた頃は全然弾かなかったけど、大学に入ってまたやり始めてね」
「そうか」とぼくは言った。
 ぼくの知ってる結城はサッカーと体操とテニスとバスケットボールのクラブを掛け持ちする少年だった。どのスポーツも全然うまくなかったが、音楽とはもっと無縁なタイプだった。
「今でも八重山が夢に出てくるんだ」と結城が言った。
「八重山が?」ぼくはそうきき返しながら心臓がピクピク震えるのを感じた。
 なぜだろう?
「八重山が夢に出てきて、笑いながらピアノを弾くんだ。あの傷だらけの頭で」
 八重山はぼくらの同級生で、総愛学院のピアニストだった。子供の頃からコンクールで何度も優勝していたし、一九六八年には神戸のジャズ喫茶で演奏していた。
「『クライスレリアーナ』弾ける?」とぼくが言った。
「無理だな」と結城。
 それでも彼はつっかえながら『クライスレリアーナ』を少し弾いてくれた。このシューマンのピアノ組曲は八重山の十八番のひとつだった。もう二度と聴けない名演奏⋯⋯。

「あ〜あ」と女がソファの上で退屈そうな声を上げた。
「どうしたんだ?」と結城がきいた。
「つまんない」と女が答えた。
 彼女はソファに横になってだらしなくビデオを見ていた。濃いブルーにピンクの縁取りのあるワンピースが皺くちゃになり、裾が大きくまくれ上がっていた。テレビには白い大きなお尻が映っていた。茶色の枯れ草の中で強い光に照らし出されたお尻が震えていた。
 それはテレビ番組じゃなかった。画面の暗さから見て、明らかに家庭用ビデオで撮影されたものだった。ぼくはグランドピアノにもたれたまま結城の顔を見た。彼もぼくの顔を見て微かに笑った。とても弱々しい笑いだった。
 それから結城はテレビのところへ行ってスイッチを切り、不機嫌そうに女のそばに座った。そのテレビに映ったお尻が何なのか、説明は全くなかった。
「おなかすいた」と女が子供みたいに言った。
「何か買ってくるよ」と結城はぼくに言った。
 結城がいなくなると、女はすぐにまたテレビのスイッチを入れた。同じ白い大きなお尻が現れた。桃みたいにきれいなお尻だった。背景はすみれ色の闇で、遠くに石油コンビナートのオレンジ色の炎が揺れていた。
「それ誰なの?」とぼくはきいた。
 彼女は答えなかった。ソファに寝そべったまま頬杖をつき、つまらなそうに画面を見ていた。ぼくは手持ち無沙太なので、ピアノの前に座ってまた少しやさしい曲を弾いた。
「あなた、わたしのことわざと無視しようとしたでしょ?」突然女が状態を起こしてぼくに言った。顔は笑っているのに、変に人を咎めるような言い方だった。
「いつ?」とぼくは言った。「そんなことないよ」
「わたしのこと気になる?」
「もちろん」
「どうして?」
「若い女の子だからさ」とぼく。「わりと可愛いし」
 彼女は「ふん」と息で笑うと、ぼくから眼をそらしてまたテレビの画面に見入った。スカートの裾がずり上がって、腿の付け根まで丸見えだった。白くて柔らかそうな腿だった。彼女はこの寒い日にパンティストッキングをはいていなかった。
「これ、もしかしたらきみなの?」とぼくはきいた。
「最初からわかってたくせに」彼女は鼻の奥で笑った。「あなたのお友達は変態なのよ。知ってた?」
 彼女はソファの上で起き上ると、結城のことを糞味噌に言った。臆病で、気位が高くて、心の狭い変態だと。彼は日曜日に彼女を連れ出しては横浜や川崎の工場地帯のあちこちでビデオを撮影しているのだった。空き地の草叢やがらんとした工場の敷地や誰もいない高速道路の下で、彼女のお尻を。
「おかしい?」と彼女はきいた。
 ぼくが話を聞きながら、彼女の真似をして鼻で笑ったからだ。
「きみはこういうことするの嫌いなの?」とぼくは言った。
「別に」と彼女は言い、不機嫌そうにぼくをちらっと見た。
「いやじゃないなら別にいいじゃない」
 彼女はまた「ふん」と笑った。それから、
「そういう問題じゃないのよ」と言った。
 ぼくはもうそれ以上彼女と喋る気がしなかったので、ピアノで曲の断片を弾き続けた。

 結城は戻ってくると、部屋のドアのところに立ってしばらくぼくらを見ていた。ピアノの前に座っているぼくと、ソファに寝転んでいる彼女と。特に彼女のまくれ上がったスカートをじろじろ見た。それから台所のほうへ、買ってきた食料の袋を運んだ。
 彼は一人で料理を作った。ぼくは食器を出すのを手伝ったが、女はソファの上に寝転がったまま、皿一枚運ぼうとしなかった。ぼくらはソファの横にある食事用のテーブルについて食事を始めた。結城が作った食事はひどくまずかった。かじきまぐろのステーキにスクランブルドエッグ、パックに入ったポテトサラダ、インスタントのコーンポタージュ、パサパサのパン⋯⋯。それでもぼくはガツガツ食べた。飢え死にしそうだったのだ。食事の間、テレビはずっとついていた。石油コンビナートと運河を背景に、女の下半身が映っていた。寒さでピンク色になったおなかや太腿、砂漠の枯れ草みたいに風に揺れている陰毛⋯⋯。結城はときどき画面を横目で見ながら、ぼくと総愛学院の思い出話をした。女はずっと画面を見つめていた。
「テレビを消せ」と結城が女に言った。
「やだ」と女が画面を見つめたまま言った。
 結城は突然立ち上がり、テレビのところに行って乱暴にスイッチを切った。女は跳ねるように椅子から飛び出していってスイッチを入れた。結城がまた切ろうとすると、平手で彼の耳のあたりをぶん殴った。結城も平手で彼女の顔をぶった。
 それからしばらく二人は黙って睨み合っていた。
「そろそろ失礼するよ」とぼくは言った。
「それはないだろ」と結城が言った。「せっかく会えたんだ。もっと昔の話をしようぜ」
「また今度ね」と言いながらぼくはコートを着た。
「わたしも帰る」と女が言い、ぼくの横でコートを着た。
「勝手にしろ」と結城は言い、不貞腐れてソファに横になった。それからぼくに「その女おまえにやるよ」と言った。
「偉そうに」女が鼻で笑った。

 タクシーが拾える通りまでかなりの距離を歩かなければならなかった。
「家はどこ?」とぼくは彼女にきいた。コースから外れていなければ送ってやろうと思ったのだ。
「教えない」彼女はくすっと笑った。
 ぼくはちょっとむっとした。さっきの結城のマンションですでに感じていたことだが、はっきり言って彼女はいやな女だった。だからぼくはタクシーを止めると、挨拶もしないでさっさと乗り込んだ。運転手はドアを開けたまましばらく待っていた。彼女が乗り込むものと思ったのだろう。
「いいんだ」とぼくは言った。「車を出してくれよ」
「だめですよ」
 運転手は軽く咳払いして、前を向いたまま後ろの開いてるドアを指さした。外で彼女がドアを押さえていた。あいてるほうの手で彼女は長い髪をしきりに掻き上げていた。目を伏せて、せわしなく唇を舐めながら、何かしきりに考え込んでるような感じだった。それから強ばったからだを座席に押し込むように乗り込んできた。
「少しはうれしそうな顔したっていいじゃない」車が走り出してから彼女は言った。
 ぼくは黙っていた。
「ずいぶん勇気がいったのよ」彼女はぼくの左腕を掴んだ。それから頭をぼくの肩に乗せてきた。
「送っていくのはごめんだよ」とぼくは前を見たまま言った。
「いいわよ」彼女は笑った。「あなたの家で降りるから」

 ぼくの住まいは東京港を見下ろす四十階建てのマンションの三十六階にある大きなワンルームだった。夜の黒い海と宝石をぶちまけたような東京の夜景が、大きな窓のむこうに広がっていた。
「暗いわね」と彼女は言った。
 部屋の中は小さなライトをいくつかつけているだけだった。
「夜景を楽しみたいんだよ」とぼくは言い、シャワーを浴びに浴室に行った。
 部屋に戻ってくると、彼女は窓際のソファで煙草を吸っていた。大きなスープ皿を勝手に灰皿に使っていた。
「奥さんいないの?」
「御覧の通りさ」ぼくは床が一段高くなったところにあるベッドに腰掛けて言った。
「そうだと思ったわ」彼女はまた笑った。
「そうかい」
 ぼくはさっさとパジャマに着替えてベッドに潜り込んだ。ひどく疲れていて、全身が茹でたソーセージになったみたいだった。
「シャワー浴びていい?」と彼女がきいた。
「どうぞ」ぼくは目をつぶったまま言った。
 彼女はカサカサ音をたてながら服を脱いだ。しばらくすると洗面所のほうで引き出しを乱暴に開ける音が聞こえた。目を開けると、ソファやテーブルの上に服や下着が散らばっていた。ベージュのパンティが裏返しになって床に落ちていた。ぼくはベッドから這い出していって、服を全部畳んでソファの上に重ねた。部屋の中が散らかっていると我慢できない性分なのだ。最後にパンティを拾うと、股のところが黄色く汚れていた。ぼくはそれを重ねた服のてっぺんにそのまま乗せた。ベッドに戻ってもう一度ソファのほうを見ると、深海のような闇の中で、天井の小さなライトに照らされて、黄色く汚れたパンティが博物館の展示物みたいに輝いていた。
「なによ、冷たいじゃない」そう言いながら彼女がベッドに潜り込んできたのは、ぼくがようやく眠りに落ちようとしているときだった。
 彼女のからだはひどく冷たかった。水でシャワーを浴びたんだろうか? 彼女は湿ったからだをくっつけてきた。
「わたしを忘れたの?」
「忘れるわけないだろ」とぼくは言った。
「やっぱり忘れたんだ」と彼女は言った。
「明日は仕事?」とぼくはきいた。
「うん」
 彼女は結城の会社で受け付けをやっていた。職場はすぐ目と鼻の先だ。それは問題ない。でも日曜日と同じ服で出社するのはどういうもんだろう? 結城が見たらいやな思いをするかもしれない。たしかに彼は「その女おまえにやるよ」と言ったのだが、だからといって彼がショックを受けないとは限らない。
 でも、まあいいや。
 結城とはこの二十年間まるでつきあいがなかったんだし、これからも会わないようにすればいいのだ。
 やれやれ。

「あなた、仕事は何してるの?」と彼女がきいた。
「広告とかパンフレットの原稿書き」とぼくは言った。
「一応初志貫徹してるわけね」
「何が?」
「小説は書いてないの?」
「書いてないよ。仕事が忙しくてね」
 この女、いつまで喋り続けるつもりだろうとぼくは考えた。寝不足のまま会社に出て平気なんだろうか? 多分平気なんだろう。ぼくよりかなり若いのだ。問題は寝不足よりも、彼女がうんこだかおしっこだかで黄色くなったパンティをまたはいて会社に行くのかどうかだ。
「ねえ、寝ちゃったの?」彼女がぼくの肩を揺すった。
「寝てないよ」彼女に背中を向けたままぼくは呟いた。
「どうしてあなたが小説書いてること知ってるのか、不思議に思わない?」
 思わない、とぼくは頭の中で言った。もう眠くて口が動かなかった。
「わたしの名前は何?」彼女はぼくの耳を引っ張った。
「聞いてないよ」とぼくは囁いた。
「嘘」彼女はぼくの耳を噛んだ。「最初に彼がちゃんと紹介したじゃない。ノリコって」
「そうだったかな?」
「わたしはあなたを覚えてたわ」
「ノリコ⋯⋯」とぼくは呟いた。
「昔あなたの家に泊りに行ったわ、お姉ちゃんと」
「お姉ちゃん⋯⋯」とぼくは繰り返した。「マリコ⋯⋯」
「ファミリー・キャンプ」とノリコが言った。
 ぼくはベッドの上で跳ね起きた。毛布がぼくの肩の上で持ち上がり、彼女のからだがシーツの上で魚みたいに跳ねた。
「きみはマリコの妹だ」とぼくは言った。
「やっとわかったの?」
「マリコはどうしてる?」
「死んだわ」
「何だって?」
「嘘よ。元気にしてるわ」
「どこにいる?」
「会いたい?」
「会いたい。彼女はぼくの人生で唯一結婚すべきだった女なんだ」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
「お姉ちゃんに最後に会ったのはいつ?」
「わからない。たぶん高校のときだよ」
「二十年近く前じゃない。あれからお姉ちゃんはずいぶん変わったわ。わたしも変わったし」
「きみはあのときまだ小学生だった」
「あなたはちっとも変わってないのね。すぐわかったわ」
「マリコはどうしてる?」
「結婚して子供がいるわ」ノリコはまたくすっと笑った。
「そうか」
 柔らかく太ったマリコが校外の家の庭で子供たちと遊んでるところが目に浮かんだ。柔らかいからだ、柔らかい日差し、柔らかい風、柔らかい子供たち⋯⋯。彼女には幸せになる権利があるとぼくは思った。マリコは小学校時代の同級生だった。大きなおっぱいと大きなお尻をしていた。一九六八年の春、彼女は聖書女学院の先輩に恋していた。彼女の恋は報われなかった。彼女はぼくと仲良しだった。うちの家族が庭にテントを張ってキャンプ生活をしていたとき、ノリコを連れてよく泊まりに来た。ぼくの書いた小説を何度も清書してくれた。赤ん坊を見るととろけそうになった。
「だめよ、過去ばかり振り返ってちゃ」とノリコが言った。
「過去じゃないよ」とぼく。「あれは永遠なんだ」
「あのときわたし、自分が子供だってことに腹を立ててたわ」彼女はぼくの腕を掴んで強く引っ張った。ぼくはベッドの上で腹ばいになった。「わたしはあなたに追いつきたかったのよ」と彼女はぼくの肩に顎を乗せながら言った。
「マリコはぼくに会いたがらないだろうな」
「わたしが大人になったとき、あなたはもう神戸にいなかったわ」
「マリコはすっかり変わっちゃったかな?」
「東京であなたを捜してるうちに、何人か総愛学院の卒業生に会ったけど、誰もあなたがどこでどうしてるか知らなかったわ」
「ぼくはシベリアにいたんだ」
「シベリア?」
「スイスにもいた」
「スイス?」
「スイスは自由を愛し、ぼくもまた自由を愛する。ぼくはスイスだ」
「あなた頭おかしいんじゃない?」
「マリコに会わせてくれよ」
「だめ」
「彼女に迷惑はかけないよ。ちょっと話をするだけでいいんだ」
「いやよ」
「遠くから見るだけでもいいよ」
「せっかくあなたを手に入れたと思ったのに」
「何だって?」
 ノリコは急に起き上がった。東京湾とそのむこうの街を見下ろす大きな窓に近づき、振り返ってぼくを見た。まぶしい宝石の輝きを背にした彼女のからだは黒い影になって見えた。それがあのノリコだという実感はどうしても湧いてこなかった。マリコに連れられて遊びに来た、小さくて痩せっぽちの小学生。マリコと色違いのビキニを着て水浴びをしていた彼女。ぼくはノリコの顔が思い出せなかった。その夜会ったノリコの顔からは、あのときのマリコの妹のノリコの顔は浮かんでこなかった。
 彼女は黒い影のからだを宝石の光でかすかに光らせながら下着をつけ始めた。黄色く汚れたパンティもそのままはいてしまった。
「お姉ちゃんが結婚してるっていうのは嘘よ」服を着ながらノリコが言った。
「何だって?」とぼく。
「離婚したの。子供はいないわ」
 ぼくはベッドの上で起き上がった。
「じゃあ、ぼくと結婚しようと伝えてくれ」
「あなた頭おかしいんじゃない?」と彼女はまた言った。「お姉ちゃんには恋人がいるのよ」
「どんなやつだ?」
「大きな会社の社長よ。お姉ちゃんは秘書をしてるの」
「秘書兼愛人てわけだ」とぼくは言った。

 社長からマリコを取り戻すのはわけなかった。相手は六十いくつの年寄りだったし、もちろん妻子持ちだった。彼女はそいつのことなんか愛していなかった。
 ぼくは社長室で彼女に会った。社長は頭がかなり白くなっていたが、がっしりしたからだつきの温和な紳士だった。どちらかと言えばぼくの父に似ていた。
「なるほどね」と社長は穏やかに笑いながら言った。「わたしの王子様がやってきたってわけだ」
 彼女は何も言わずにデスクの上の花瓶に花を生けていた。かろうじて聞き取れるくらいのかすかな鼻歌で彼女は『いつかわたしの王子様がやってくる』をハミングしていた。古いスタンダード・ナンバーだ。彼女は少しも変わってなかった。ついさっきまで聖書女学院の制服を着ていた中学生が、ちょっといたずらして社長秘書風のスーツを着てみたという感じだった。社長はソファから立ち上がり、彼女の肩を掴んでぼくの向かいに掛けさせた。
「ひとつきいていいかな?」と彼はぼくに言った。
「どうぞ」とぼくは言った。
「どうして二十年も彼女をほっといたんだ?」
「ぼくにとって時間はずっと止まったままだったんです」
「金縛りにあっていた?」
「うまい表現ですね」
「ありがとう。これでも学生時代は小説家志望だったんだ」
「社長、そろそろお時間です」とマリコが言った。
「アメリカ大使と会うんだよ。すごいだろ?」と社長がぼくに言った。彼はデスクのわきに立って、マリコが生けたばかりの花をいじっていた。
「すごいなあ」とぼくは言った。内心はたいして感心していなかったのだが、ここは調子を合わせたほうがいいんじゃないかと思ったのだ。
「でも、きみは二十年間一度も彼女を捜さなかったんだろ?」と社長は言った。彼はその大きな花瓶を腕に抱えていた。「なぜだ?」
「ぼくはずっとあのときの彼女を探していたんです。あのときの彼女は一体何者だったんだろうって⋯⋯。ほかにもいろんな人を探しました。探すべき人間はあまりにもたくさんいたんです」
「つまり夢を見ていた?」
「そういう言い方も可能ですね」
「いいかい、彼女のことを考えるのと彼女を捜すのはまるで違うことなんだよ」
「おっしゃることはよくわかります」
「彼女に関してはもう夢を見ないと誓えるかい?」
「誓えます」
「それで安心したよ」彼は花瓶を愛撫しながら笑った。「わたしには娘が三人いてみんな嫁に行ったがね、どの娘のときもこんなに心配しなかったよ」
「社長、お時間です」マリコが立ち上がって言った。
「ありがとう」と社長が言った。「でも、きみはもう帰っていいよ」
「どうして?」
「きみはクビだ」
「まあ」
「今すぐこの男と腕を組んで帰るんだ。そしてもう二度と彼のそばを離れるんじゃない。
わたしの言ってる意味がわかるかね?」
「わたし、この仕事はわりと気に入ってるんですけど」
「結婚式をやるなら花ぐらい贈らせてもらうよ」
「わたし、けっこう有能な秘書だったのよ」と彼女はぼくに言った。
「ほかの仕事を探せばいいさ」とぼくは言った。「彼だって気持ちの整理をつけたいんだよ」
「きみたちはわたしの言ってる意味がわかってないね」と社長が言った。「きみたちはこんなに長く離れ離れになってたんだから、これからは少しでも多く一緒にいるべきだって言ってるんだよ」
「なるほど」とぼくらは言った。
「さよなら」と社長は言った。
 ぼくらは腕を組んで社長室を出た。隣の部屋では数人の秘書たちがひとつのデスクに集まって雑談していたが、ぼくらを見ると笑って手を振った。マリコも笑って手を振った。秘書たちはもう彼女に何が起こったのか勘づいていた。おめでとうってわけだ。
 そのとき部屋の中に変な空気が流れた。秘書たちの顔が一瞬こわばったのがわかった。振り返ると、社長がすぐ後ろにいた。大きな花瓶を頭の上に持ち上げて、ぼくらに投げつけようとしているところだった。さっきマリコが花を生けていた花瓶だ。ぼくはマリコの腕を掴んだまま飛びのいた。花瓶は毛足の長い絨毯の上で大きく弾み、秘書のデスクの角に当たって割れた。花と水しぶきがぼくらの顔まで飛んできた。
「中国の花瓶だよ」と社長が言った。「明の時代のね。何千万円もするんだ」
 彼の様子はさっきと一変していた。髪は喧嘩の後みたいにくしゃくしゃに乱れていた。顔と眼は酔っ払ってるみたいに真っ赤だった。
 ぼくは水仙の花を一本拾ってマリコの胸に插した。
「さよなら」とぼくは言った。
「くたばれ」と社長は言った。「地獄に落ちろ」
「さよなら」とマリコが彼に言った。

「久しぶりね」とマリコが言った。
「久しぶりだね」とぼく。「でもあんまり久しぶりなんで、ついこないだみたいな気がするよ」
「そう言えばそうね」
 ぼくらは大きなベッドの上で腹ばいになっていた。大きな窓から午後の日差しがさしこんで、彼女の肩のうぶ毛を金色に輝かせていた。ぼくは彼女と愛し合ったばかりで、元気一杯だった。まるで二十年前にも彼女と寝たことがあるみたいな気がした。この二十年間何度もこんなことがあったような気もした。たぶん彼女もそんな気がしていただろう。でも、本当にぼくらは久しぶりだった。彼女は中学生みたいに可愛かった。
「もうどこにもいかないでくれよ」とぼくは言った。
「もうどこにもいかないわ」とマリコ。
「ああ、今日はなんていい気分なんだろう」とぼくは言った。「まるであのときのキャンプがまだ続いてるみたいだ。そう思わない?」
 彼女はもう静かに寝息を立てていた。ぼくは彼女の赤ん坊みたいにつるつるしたからだを眺めながら、ゆっくり背中を撫でてやった。眠っている彼女の皮膚は熱を帯びてかすかに湿っていた。毛穴の一つ一つが寝息を立てていた。多分彼女は深い休息を必要としていたのだろう。赤ん坊みたいに親指を口に含んでちゅうちゅう吸っていた。冬が近づいていたが、降り注ぐ太陽のせいでベッドの上は温かかった。ぼくはマリコに足を絡めて双子の胎児のように眠った。
 目を覚ますとマリコが寝言を言っていた。学生時代に誰と誰と誰と寝たかという話だった。それから大企業の秘書になって誰と誰と誰と誰と誰と寝たかという話になった。男の数があまり多くて、寝言はなかなか終わらなかった。ぼくはわりと記憶力がいいほうだが、そのときはしかたなくメモを取った。ぼくは夢を書き留める習慣があるので、いつもサイドテーブルにメモ用紙と鉛筆を置いているのだ。男の数は名前がわかるやつだけで何十人にもなった。
「ずいぶんだなあ」とぼくは独りごとを言った。
 メモをしげしげと眺めているうちにぼくは結城という名前が二回出てくるのに気づいた。マリコが最初にやった相手が結城という名前だった。それから彼女と一度結婚してすぐ離婚したのも結城という男だった。
 結城⋯⋯?

 寝言が終わるとマリコはまた深い眠りに落ちていこうとしたので、ぼくはキスで起こしてやった。彼女がそのまま死んでしまうんじゃないかと心配になったのだ。彼女は「モゴモゴモゴモゴ」と言いながら眠りの国から戻ってきた。
「寝言を言ってたよ」とぼくは言った。
「そう?」
「男たちのこと」ぼくはメモを見ながら男たちに名前を読み上げた。
「やだなあ」彼女は照れ臭そうに笑った。
「夢を見てたの?」
「あなたに告白してる夢よ。今までどんな男と寝たかって⋯⋯」
「そうか」
「あなたは話してくれないの?」
「聞きたい?」
「聞きたくないけど、わたしだけじゃ不公平じゃない」
「そうか」
 ぼくはかいつまんで女たちのことを話した。話してみるとぼくはずいぶん彼女たちを乱暴に扱っていたんだということがわかった。女がぼくを好きになるまではとても優しくするのに、好きになったとたんに冷たくしだすのがぼくの病気だった。わざと相手の神経を痛めつけるようなことをやったりもした。
 なぜだろう?

「わたしよりわざと少なめに言ってる」とマリコが言った。
「そんなことないよ」とぼくは言った。
「わかってるわ」彼女は笑った。「冗談よ。でも、どうして女の子に冷たくするの?」
「どうしてだろう?」
「わたしときどきあなたのことを思い出したわ」
「ぼくはいつも思い出してたよ」
「嘘」と彼女は言った。
 彼女の言う通りだった。この二十年間、ぼくはそんなにしょっちゅう彼女のことを思い出してたわけじゃない。いや、ほとんど思い出さなかったかもしれない。思い出したのはノリコに会ったときだ。でも、どうしてあのときいきなりマリコのことを、ぼくが出会った女たちの中で唯一結婚すべきだった女だと確信できたんだろう? それは彼女も同じだった。彼女も口で言うほど何度もぼくのことを思い出していたわけじゃない。それでも思い出すたびに、これが結婚すべきだった男だと確信していた。だからぼくが突然現れたときも、全く迷わなかったのだ。
 なぜだろう?

 ぼくらは四十階の少し広いアパートメントに引っ越した。家賃が上がった分だけ余計に稼がなければならなかったが、仕事はいくらでもあった。ぼくはせっせと仕事をし、マリコはせっせと料理を作った。暇なときは原稿のコピーを取ったりファクシミリで送ったり、ワードプロセッサを打ったりしてくれた。彼女はほんとに有能な秘書だったのだろう。
 ぼくの仕事はすごくはかどった。何時にどこへ行って何を打合せするのか、どの仕事から優先的に片付ければいいのかといったことを彼女は適切に指示してくれた。ときには難しい調べ物のために国会図書館に行ったり、パーソナルコンピュータで外国のデータベースサービスからデータを取り寄せたりした。ぼくは原稿のことだけ考えていればよくなった。
「きっときみのほうが優秀なコピーライターになれるね」とぼくは言った。
「だめよ、文章が下手だもん」
「すぐに慣れるよ」
 本当に彼女はすぐ慣れてしまった。彼女はコピーも書くようになった。言葉遣いにあまり個性はなかったが、わかりやすかったし、客の評判もよかった。お陰でぼくらはそれまでの倍以上の仕事をこなすようになった。彼女が忙しくてぼくが暇なときは、ぼくが料理を作った。しかし、彼女はぼくが家事をやると文句を言った。
「わたしはあなたのお手伝いがしたかったのよ」と彼女は言った。
「ずいぶん助かってるよ」とぼくは言った。
「料理はわたしが作るわよ」
「うん」
 ぼくは料理が嫌いじゃなかった。キャンプみたいで楽しいからだ。でも腕前はマリコのほうがはるかに上だった。それでぼくは主に掃除と洗濯をやるようになった。
「わたしはあなたの役に立ちたいのよ」ぼくから掃除機を引ったくりながら彼女は言った。「だから料理はきみに任せるよ」とぼくは言った。
「わたしが言ってるのはそういうことじゃないのよ」と彼女は言った。「あなたはわたし
に書けないようなものを書くべきなのよ」

 ぼくは仕事の合間を見つけてまた小説を書くようになった。まずマリコとよく遊んだ頃の話を書いた。一九六八年の春、ぼくの家族が聖書女学院の桃畑に面した庭でキャンプをしたときのことを。マリコは聖書女学院のバスケットボール部の合宿で、桃畑にキャンプを張っていた。ぼくも彼女もまだ中学三年生だった。一九六八年には本当にいろんなことがあった。
 小説を書き出すと、ぼくはその頃のことをよく夢に見るようになった。
 あるとき、夜中に目を覚ますと、マリコがぼくの顔をのぞき込んでいた。
「夢を見てたでしょ?」と彼女が言った。
「うん」とぼくは言った。
「ファミリー・キャンプの夢?」
「うん。よくわかったね」
「うなされてたわ」
「いろんなことが絡み合ってるんだ」
「彼女が出てきたのね?」
「いや、違うよ」
 それは嘘だった。ぼくはマリコが言ったまさにその女の子の夢を見ていたのだ。
 あのときマリコには好きな女の子がいて、名前をミチコと言った。ぼくにも総愛学院に好きな男の子がいた。そういう年頃だったのだ。ぼくはそのミチコに襲われる夢を見ていた。ミチコはバスケットボール部のキャプテンで、マリコと桃畑にキャンプを張っていた。彼女はぼくとやりたがっていた。それはマリコを傷つけた。だからぼくはミチコが夢に出てきたことをマリコに知られたくなかったのだ。
 ぼくはそれからまたしばらく眠った。また夢を見たが、それは聖書女学院の夢じゃなかった。八重山が結城やぼくの前でピアノを弾いてる夢だ。彼の姉もそこにいた。八重山の両親は少し前に死んでいた。姉のミチコが彼の親代わりだった。彼女は両親に代わって神戸の鉄工場を経営していた。
「ミチコ?」とマリコが言ったので、ぼくは目を覚ました。
 彼女はまたぼくの眼を上からのぞき込んでいた。ぼくはすごい汗をかいていた。シーツ
の肩のあたりがじっとりと冷たかった。
「違うよ」とぼくは言った。「八重山のお姉さんだよ。あの頃きみにも話したことがある
じゃないか」
「聞いたことないわ」と彼女は言った。
「そうだったかな?」
 汗が冷えてきて、ぼくは寒さに震えていた。シーツに染み込んだ湿り気はどんどん広がって粘りを帯びてきていた。まるでおねしょをしたみたいだとぼくは思った。
「その人のこと知りたいわ」左の手首をこすりながら彼女は言った。
「そのうち話すよ」とぼく。
「小説に出てくる?」
「たぶんね」
 ぼくは彼女がしきりにこすっている手首を眺めた。黒ずんだ垢みたいなものがそのあたりからボロボロ剥げ落ちていた。ぼくは起き上がって彼女の腕を掴んだ。起き上がるとき、シーツがねっとりとした粘りを帯びているのを感じた。
「うわあ」とぼくは叫んだ。「一体どうしたっていうんだ」
「平気よ。もう乾いたから」とマリコが笑った。
 シーツには乾きかけた血で黒い模様が描かれていた。ベッドの隅に大きなサバイバルナイフが落ちていた。彼女の左手首にはピンク色の傷が大きく口を開いていた。

 ぼくは絶えずマリコを見張っていなければならなくなった。特に夜中に手首を切らないように、寝るときはぼくの左手と彼女の右手を紐で縛ることにした。それでも彼女はマットレスとボードの間にサバイバルナイフを隠しておいて、夜中にこっそり右の手首を切った。ぼくはまた粘っこい血の海で目を覚ました。
「一体どうしたっていうんだ」とぼくは叫んだ。
「ミチコって言ったわ」
「何だって?」
「あなた、今寝言でミチコって言ったわ」
「頼むからそれくらいのことで手首を切らないでくれよ」
「わたしはあなたに隠し事をしてほしくないのよ」
「隠してなんかいないよ。ただ全部を話すのはとても難しいんだ。何もかもが絡みあっていて⋯⋯」
「ひとつずつ話せばいいのよ。思いつくままに」
「そうするよ」とぼくは言った。

 本当にありのままを話すのは難しい。それでぼくは小説に熱中するようになった。彼女に話すよりも文章にするほうがやさしいような気がしたのだ。昼間は二人でさっさと仕事を片付け、夜になるとぼくが小説を書き、それをマリコがワードプロセッサに打ち込んだ。ぼくらは最初、お互いの手首を手錠でつないでいた。でも、それだと仕事にならないので、犬の首輪を二つ買ってきてお互いの首にはめ、それを一本の鎖で結んだ。ぼくらは三メートルの範囲でなら自由に動けるようになった。トイレや風呂には一緒に入らなければならなかったが、ぼくらは仲がよかったから、大して苦にならなかった。
「まあまあだね」とぼくは言った。
「そうね」と彼女も言った。
 広告代理店や制作会社にもぼくらは二人で出掛けた。仕事の効率は悪かったが、いつも一緒にいられるというのはなかなか楽しかった。
「仲のいいことで」と首輪を見た代理店や制作会社の人たちは言った。
「それほどじゃないですけどね」とぼくは言った。
 マリコは横でニコニコしていた。
 それでも彼女は全くあきらめたわけじゃなかった。どこで手にいれるのか、いつのまにかナイフをベッドのどこかに隠しておいて、夜中に手首を切ろうとした。ぼくが彼女の知らないことを寝言でいったときが危なかった。それから外でかわいい赤ん坊を見かけたときも⋯⋯。彼女は相変わらず赤ん坊を見ると理性を失ってしまう癖が抜けていなかった。どんなに急いでるときでも、赤ん坊を見かけると近づいていって抱こうとした。
「あ、赤ちゃん」彼女が普段と全然違う甲高い声でそう叫ぶたびにぼくはぞっとした。
「だめだよ。時間がないんだから」
「だって可愛いんだもん」
 彼女が笑って頼めば、どんな母親でもまず赤ん坊を抱かせてくれた。どう見たって、夜中に亭主の目を盗んで手首を切ろうとする女には見えなかったからだ。彼女が赤ん坊を抱いている間、ぼくは注意深く彼女を見張っていなければならなかった。放って置くと必ず胸をはだけて、赤ん坊におっぱいを吸わせようとするからだ。
「おたくも早く作ればいいのに」と母親は必ずぼくらに言った。
「できるといいんですけどね」とぼくは言った。
 それは本心だった。でも、なんだかぼくらには永遠に子供ができないような気がした。理由は別にないけど、今でもそんな気がする。
 そしてそんな夜、必ずマリコはこっそり手首を切るのだ。

              ★

 ぼくは急いで『ファミリー・キャンプ』という小説を完成させた。マリコと彼女が愛していた聖書女学院の上級生ミチコが出てくる話だ。マリコはそれを何度も読み返して、少し落ち着きを取り戻した。自分とミチコの関係がかたちを与えられたことでなんとなく安心したのだ。
 しかし、ぼくはまだ安心していなかった。彼女はもう一人のミチコのことを知りたがっていた。ぼくがしょっちゅう寝言で口にする女だ。一九六八年に出会ったもう一人のミチコ。ぼくはその頃、毎日のようにマリコに会っていた。彼女にはこのミチコのことは何度となく話したと思っていたから、彼女がまるで記憶にないと言い張ったとき、ぼくはとても不思議な気がした。もしかしたら彼女が忘れているだけなのかもしれない。
 もちろん、ぼくが勘違いしてるという可能性もあるが⋯⋯。
 とにかく彼女はもう一人のミチコのことを知りたがっていた。ぼくが寝言でこの女の事を口にするたびに、マリコは情緒不安定になり、サバイバルナイフやかみそりに助けを求めた。ぼくは彼女が夜中にこっそり手首を切らないように、寝る前に彼女をうつ伏せにして、両手首と両足首を一つにまとめて縛り上げた。縛られているあいだ、彼女はベッドの上でおとなしくしていた。縛り上げられた彼女のからだは変てこな現代美術のオブジェみたいに見えた。
「悪いね」とぼくは言った。「でも、きみのためなんだ」
「わかってるわよ」と彼女は言った。「あなたがこういうことをしたいんなら、わたしは平気よ」
「そういうんじゃないんだけどな」とぼくは言った。
「あのときもこんなことがあったわね」マリコは一九六八年のことを思い出して楽しそう
に言った。
「そうだったっけ?」
「リッキーの奥さんのジェーンがこんな格好で縛られてたじゃない」
「そうだったね」
 確かにそんなことがあった。ぼくらはその朝、聖書女学院の桃畑にジェーンというアメリカ人を訪ね、彼女が素っ裸で縛り上げられているのを発見したのだ。彼女の亭主のリッキーは、ミチコとどこかへ消えてしまった男だ。ぼくはそのことを小説に書いたが、ジェーンが両手と両足を縛られてたことなんてすっかり忘れていた。
「これも書き加えるべきなんじゃない?」とマリコは縛られたまま言った。
「そうしよう」とぼくは答えた。
 ぼくはどうして縛られたジェーンのことを忘れていたのかよくわからなかった。思い出してみると、『ファミリー・キャンプ』という小説は、この場面なしには成立しないような気さえした。
「ねえ、このままセックスしない?」とマリコが縛られたまま言った。
「だめだよ」とぼくは答えた。
「あなたはこういうの好きなんだって思ってたわ」
「好きじゃないよ」
 それは嘘だった。あのときぼくはジェーンの縄をほどいてやりながらすごく勃起していたし、今もベッドの上で縛られているマリコを見てすごく勃起していた。でも、ぼくはそれが罠だということを知っていた。それが結局リッキーを殺したのだ。リッキーは有名な詩人兼小説家だった。一九八四年に彼は拳銃の弾をこめかみにぶちこんで自殺した。
「こういうのってフェアじゃない」ベッドの上に座ってマリコの髪を撫でながらぼくは言った。
「今なんて言ったの?」もう半分眠っていたマリコが言った。
「こういうのってフェアじゃないよ」とぼくは言った。

 もう一つの小説、八重山と総愛学院が出てくる小説のほうは、『ファミリー・キャンプ』と違ってひどく難航した。ぼくは出だしの二、三十ページを何度も書き直したが、それ以上先にはどうしても進めなかった。
「一体どうしたっていうんだろう?」とぼくは呟いた。
 文章そのものは書こうと思えばいくらでもスラスラ出てきた。子供のときから毎日書いてきたお陰で、ぼくは言葉に詰まるということがないのだ。でも、この小説は書けば書くほど書くべきことがわからなくなってくるのだった。
「『マイ・フェイヴァリット・シングズ』⋯⋯」とマリコは小説の題名を口に出して言ってから、中身を読んだ。読み終わると彼女は言った。「なかなか面白いじゃない」
「そう?」
「悪くないわよ」
「ぼくは一九六八年に何があったのか全然わかってないんだ。あのときもわかってなかったし、今もわかってない。書けば書くほどそのことが明らかになってくるんだよ」

 結城とノリコが遊びに来たとき、ぼくは彼らにも『マイ・フェイヴァリット・シングズ』の書き出しを見せた。彼らは結婚する様子もなかったし、一緒に住んでもいなかったが、相変わらず休みの日には海辺の工場地帯を回って、お尻のビデオを撮っていた。ぼくはあの夜のことで彼らが喧嘩別れしてしまうんじゃないかと気を揉んでいたのだが、そんな心配はまるで無用だったらしい。
「よくわからないな」と結城は言った。「どうしてこんなに何通りも書くんだ?」
「スタイルを探ってるんじゃない」とノリコが言った。「それくらいわからないの?」
「みんな同じじゃないか」と結城は言った。
「あんた馬鹿じゃないの?」とノリコが言った。「全然違うじゃない」
「そうかな?」
「結城は当事者だからそう見えるんだよ」とぼくは弁護した。「事実を知ってる人間にとっては、文体なんて関係ないんだ」
 ひどい雨が降ってる日曜日の午後だった。窓の外は霧で真っ白だった。うちのマンションはあんまり高いので、雨雲が低く垂れ込めてくると、上のほうが雲の中に入ってしまうのだ。
「まるで六甲山にいるみたいだな」と結城が言った。
「うん」とぼくは言った。
 総愛学院は六甲山の中腹にあって、晴れた日には神戸の街と港を見渡すことができた。でも山にはよく霧が出て、一メートル先さえ見えなくなることがあった。市街地の上は晴れているのに、山だけが霧に包まれていることも珍しくなかった。霧は布団の綿みたいに固まって次から次へと流れてきて校舎や校庭を覆った。生ビールの泡みたいに重くて濃い霧だった。あるいはホイップクリームみたいに⋯⋯。秋から冬にかけて霧は特に濃くなった。それは霧と言うより雨雲だった。冷たい雨が降る日に神戸の街から見上げると、山はすっぽり雲の中に隠れていた。

 女たちはテレビを見ていた。姉妹で仲よく木の床に腹ばいになって⋯⋯。画面には大きくお尻が映っていた。ぼくと結城は窓際のソファに座っていた。
「おい」と結城がノリコに言った。
 女たちが同時にこっちを振り向いて笑った。結城はあのときみたいにテレビを消そうと、椅子から腰を浮かしかけたが、マリコに笑いかけられて動きを止めてしまった。その日、マリコと顔を合わせたときから、彼が決して彼女に話しかけようとしないのをぼくはちゃんと見ていた。マリコも彼に話しかけようとはしなかったが、絶えず彼に笑顔を見せていた。彼女の無邪気な笑顔に会うと、結城は石みたいに固くなった。
「テレビを消してこっちに来ない?」とぼくは彼女たちに言った。
「テレビをつけたままでいいなら行ってもいいわよ」とマリコが言った。
「つけたままでもいいけど、何か別のを見たほうがいいんじゃないか?」と結城。
「よく同じビデオを見ていて飽きないね」とぼくはノリコに言った。初めて結城のマンションに行ったときも、彼女はお尻のビデオをしつこく見ていたからだ。
「お姉ちゃんが見たいって言うんだもん」とノリコが言った。「それに、これ前のと違うのよ。今日撮ったんだもの」
 結城が怯えたような顔でぼくを見た。確かにそのビデオはいつか結城の家で見たのと少し違っていた。あのときのやつは夜の闇の中に、照明に照らされた白い大きな桃みたいなお尻が映っていたが、今見ているやつは朝か昼間に撮られたもので、白い霧があたりを包んでいた。それに、映っているお尻もなんだかこのあいだのお尻じゃないような気がした。それは肌が少し浅黒くて、固く引き締まったお尻だった。
「散歩に出ないか?」と彼は言った。「彼女たちはほっといて」
「いや」とぼくは言った。「ここでビデオを見よう」
 そんなわけで、お尻はテレビの画面一杯に映し出されたままになった。
「マリコと何があったの?」とぼくは結城に言った。
「別に何も」と結城は言った。
「そう」とぼくは言った。「それならいいんだ」
 結城は怯えたねずみみたいにぼくを上目使いに見ていた。ぼくは一九六八年の彼を思い出した。ぼくは何度も彼に傷つけられたことがあった。結城がそんな顔をするときは、必ず何かぼくを傷つけるようなことを隠しているのだ。

「マリコが前に結婚してたやつの名前が結城っていうらしいんだ」とぼくは言った。
「彼女からそれしか聞いてないのか?」と結城は言った。
「いや、他にも聞いたよ」とぼく。「彼女が学生時代に初めて寝た男も結城っていうらしいんだ」
「馬鹿みたい」とノリコがこっちを振り返って言った。「夫婦なのにそんな話もしてないの?」
「まだ夫婦じゃないのよ」とマリコが笑いながら言った。
 ぼくらはまだそのとき正式に結婚していなかった。別に結婚を送らせる理由があったわけじゃない。ただ忙しくてなんとなく一日延ばしになっていたのだ。
「どうして彼に話さなかったの?」とノリコがマリコにきいた。
「話したと思ってたわ」とマリコは言った。「夢の中で」
「馬鹿みたい」とノリコが言った。「きっと彼が結婚しようとしないのはそのせいよ」
「違うよ」とぼくは言った。
 かなり興奮していたのかもしれない。最後の言葉はほとんど怒鳴り声になっていたし、いつのまにか立ち上がってテーブルを強く叩いていた。
「この変態男はお姉ちゃんが最初に寝た相手だし、最初に結婚した相手なのよ」とノリコは結城を眼で差し示しながら言った。                       
「もう一度言ってみろ」結城がソファから立ち上がってノリコに言った。「もう一度言ったらおまえの顔をケツみたいに腫れ上がらしてやるからな」
「よせよ」とぼくは彼に言った。「いいじゃないか、事実なんだから」
「おれは変態じゃないぞ」と彼は言った。
「あんたは立派な変態よ」とノリコはテレビの画面を指差しながら言った。
 ぼくらはビデオのお尻に見入った。何かがおかしかった。ミルクみたいな霧の中で揺れているお尻の下に何か異質なものが映っていた。それは男のお尻だった。
「おれはまともな男になりたかったんだよ」と結城はぼくに言った。「強くて有能で女に優しい立派な男になろうと努力したんだよ」
「きみはちゃんとした男だよ」とぼくは言った。
「嘘」とノリコが言った。
「嘘」とマリコが言い、天使みたいな顔で笑った。
「おれは女の腐ったような男なんだ」結城はそう叫びながらテーブルをドンと叩いた。「おれはずっと女の子になりたかったし、半分はいつも女だったんだよ」
「よせよ」とぼくは言った。
「おれは自分だけを見つめて生きてきたんだ」と彼は言った。「いくら女たちを見ようとしても、おれの眼にはおれしか映らなかったんだよ」
「よせったら」
 ぼくはかなり腹を立てていたらしい。いつのまにか結城に向かって腕を振り上げようとしていたからだ。一九六八年にだってぼくは一度も彼をぶったことがなかったのに⋯⋯。結城は男にいじめられることに慣れてる女みたいに、腕で顔を守ろうした。
「ぶたないでくれよ」と彼は泣き声で言った。「きみにぶたれたら、おれは死んでしまうよ」
 ぼくは我に返って、振り上げた手を下ろした。
「ごめん」とぼくは言った。「本気でぶつつもりはなかったんだ」
「もしかしたら、あのときあなたが好きだった男の子って彼のことだったの?」とマリコがぼくにきいた。彼女はおかしそうに笑っていた。
「うん」とぼくは言った。
「やっぱりね」と彼女は言った。「そうだと思ったわ」
「ぼくはきみに話したことがあると思ってたよ。一九六八年に⋯⋯」
「話してくれなかったわ」とマリコ。
「そう?」
 彼女はきっと忘れているんだろう。ぼくが話さなくても、あの頃、ぼくと結城のことは神戸とその周辺に住んでる人間なら誰でも知っていた。
「あなたはこないだも話してくれなかったわ」と彼女は言った。「わたしが全部話したのに」
「悪かったね」とぼくは言った。「話しづらかったんだ。あれはとても特殊な時期の特殊な出来事だったからね」
「あなたは他にも一杯隠してるわ」とマリコは言った。
「もう隠してないよ」とぼく。
「嘘」とマリコ。
「嘘」とノリコも言った。「こないだわたしがベッドに潜り込んだことは話した?」
「話さなかったけど、あのときは何もなかったじゃないか」
「そうね」とノリコ。「でも、話さなかったのね?」
「そんなに何もかも話せないよ」とぼくは言った。「正確に話すのはとても難しいんだ」
「何もかもが絡み合っていて?」とマリコ。
「そう」とぼくは言った。「それに、ひとつひとつのことが同時にいろんな意味を持ってるんだ。それをいちいち組み合わせてたら、無数の真実ができてしまうんだよ」
「だから、『マイ・フェイヴァリット・シングズ』も、いろんなバリエーションができるわけ?」とマリコ。
「そういうことだね」とぼく。
「諦めちゃだめよ」とマリコが言った。「何通りでも、書けるだけ書くべきなのよ。ストーリーは何通りあってもいいのよ」
「そうだね」
とぼくは言い、『マイ・フェイヴァリット・シングズ』という小説を書いた。

 書いているあいだにぼくはマリコと結婚し、結城はノリコと結婚した。

小説『MANIAC』について

『MANIAC』は1983年、僕が30歳の頃に書いた小説です。

当時読んだジョン・バースの『山羊少年ジャイルズ』に触発されて思いついた習作的な作品ですが、今読み返してみると、多少幼稚ではあっても、今の年取った僕にはない勢いとみずみずしさがあると感じます。

当時はまだ普及してなかったコンピュータのことが得意げに描かれていることや、エスニックブームにのってレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』などの言葉が多用されているのが鼻につくかもしれませんが、

その後のグローバル化した国際社会とそのひずみ、中東・北アフリカのイスラム革命、イスラム原理主義の動きなどが予言的に描かれているのはけっこう悪くないなと我ながら思います。

ユダヤ教や原始キリスト教、古代中東の多神教のパロディも、現代社会、近未来社会を描くのに、わりと効果的に使われていますが、人によってはいやみな衒学趣味と感じるかもしれません。

インドネシアの農村の様子が言葉だけで強引に接ぎ木されていたりするのも、同様の無神経、傲慢さを感じる人もいるかもしれません。

文中やたらと(●●●)による補足が出てきますが、これは元々の原稿ではルビとして振られている言葉です。漢字で表記されている言葉がルビによって中東や古代インド、東南アジアなどの世界に接続されるという仕組みになっているんですが、これも人によっては煩わしいと感じるかも。

当時講談社の『群像』という文芸雑誌の新人賞に応募したら予選落ちしたので、もっとわかりやすく書いたのが『出楽園』の第一部『ファミリー・キャンプ』です。

こちらは最終選考まで残りましたが、選考委員の仲で圧倒的な権力を持っていた柄谷行人に「村上春樹の露骨な模倣」とけなされて落とされました。
僕としては初期の村上春樹もパクっていたリチャード・ブローティガンがピストル自殺したので、その哀悼のために書いただけで、ほかの選考委員にはそれを理解してくれた人もいましたが、文学業界・文芸雑誌にも政治権力的なものが存在し、権力者ににらまれるとその賞はとれないということのようでした。

ほかにも文学賞の最終選考に残ったことがありましたが、そちらでもSM的なことが権力者の編集長と、委員の一人に嫌われて受賞にはいたりませんでした。

まあ今となってはどうでもいいことですが、それ以後僕は文学業界と関係ないところで書きたいこと、書くべきことを書いています。


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