イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

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 八重山ミチコは『ヴォーグ』とか『エル』といった外国のファッション雑誌から抜け出してきたような女だった。バナナみたいに細いからだにいつもミニのワンピースを着て、黒いタイツをはいていた。短く切った髪は茶色に染めていた。一言で言えば彼女は長身のピーターパンみたいだった。
「初めまして」とぼくは言った。
「初めまして」と結城も言った。
「この部屋はわたしたちの両親が使ってたの」ミチコはソファからソファへ飛び移りながら言った。「戦争中のことよ」
 一九六八年にはそんなふうに挨拶抜きで相手が予期しないことを言うのが流行だったのだ。
「そうか」とぼくは言った。
 ぼくらは東翼のサンルームにいた。一九六七年の秋、八重山とここを訪れたぼくがよく昼寝をした部屋だ。ミチコはサンルームとその隣に続いている居間と寝室を使っていた。どの部屋もすっかりきれいになっていた。壁紙や天井の漆喰や床板が新しくなっただけでなく、部屋の隅々まで光が溢れていた。窓の外の眺めもまるで違っていた。黒ずんだ深い緑と褐色の枯れ葉に覆われていた山や谷が、菜の花の黄色と明るい黄緑に染まっていた。ところどころに桃の花も咲いていた。

 ミチコはちょっと変な女だった。ぼくらと話そうともしないでソファからソファへバレエのステップやターンを繰り返しながら跳びはねていたかと思うと、急に八重山の手を取って、
「わたしたち、今こそやるべきだと思うのよ」と言ったりした。
 最初ぼくは彼女が何を言ってるのかわからなかった。それがセックスのことらしいとわかったのは、彼女が八重山の股間に手を伸ばしておちんちんを掴もうとしたからだ。
「馬鹿」と八重山は言い、不愉快そうに彼女の手を払いのけた。
 ぼくと結城は顔を見合わせて笑った。ミチコという女が想像していたのとまるで違っていたからだ。ぼくらは彼女の噂から、勝手な偶像を作り上げていた。つまり、両親を亡くして大学をやめ、弟の面倒を見ながら工場で働く、けなげで清楚な感じの、働き者のお姉さんを想像していたのだ。

 実際の彼女はアメリカの富豪に甘やかされて育ったわがまま娘みたいだった。ぼくらと一緒にいるあいださえ、少しもじっとしていなかった。子供の頃からバレエを習っていたから、踊るのが癖になっていたのだ。彼女は東京でモデルのアルバイトをしたこともあった。雑誌に詩を発表したり、ロックバンドを作って歌ったり、イラストを描いたり、レコードのジャケットをデザインしたこともあった。つまり当時の流行のタイプだったのだ。

 彼女は控えめということを知らない女だった。自分がやってきたことをきかれもしないのにペラペラ喋った。別にことさら自慢するわけではなかったが、とにかく自分のこと以外話そうとしなかった。
「ふうん」とぼくは彼女の話にちょっとうんざりしながら言った。
「そういうわけなのよ」と彼女は言った。すごくまじめな顔をしていた。
 ミチコは絶えずガムを噛みながら煙草を吸っていた。昼間から酒を飲んでいることもあった。もちろんマリワナやLSDも。
「現代の正義はね」と彼女は長いつけ睫毛をバサバサ言わせながらぼくに言った。「決して止まらないことなのよ」
「ふうん」とぼくは言った。
「へえ」と結城が言った。
「嘘つけ」と八重山が言った。それからぼくたちに「こいつの言うことを信用しちゃいけないよ。ただのおっちょこちょいなんだ」と言った。

 彼女はアクセサリーの鎖をチャラチャラ言わせながら、部屋の中をバレエのステップで回り続けた。
「ノイマンがこの屋敷を借りていたとき、わたしたちの両親はこのサンルームから神戸が焼け野原になっていくのを見ていたのよ」と彼女は言った。「真っ暗になった街にアメリカの爆撃機が丹念に爆弾を落としていって、まぶしいオレンジ色の火が広がって海と山と空を明るく照らすのを眺めながら長椅子に並んで座っていたの」
「ふうん」とぼく。
「父と母はそのとき絶対にセックスしなかったのよ」
「どうして?」
「夫婦じゃなかったからよ」ミチコは変に力を込めて言った。「素敵じゃない?」
「そうかなあ」

 八重山の父と母は第二次世界大戦のとき、まだ夫婦じゃなくて弟と兄嫁だった。戦争の最中に兄つまり八重山の伯父に当たる男は病気で死んでしまったが、戦争が終わるまで彼らは結婚できなかった。
「母は最初の夫だった伯父と一度もセックスしなかったのよ」とミチコは言った。
「どうして?」とぼく。
「伯父は結婚する前から病気で寝ていたからよ」と彼女はまた力を込めて言った。「素敵じゃない?」
「そうかなあ」
「だからわたしと弟とはセックスする義務があるのよ」
「そうかなあ」


 ぼくは春休みのあいだ何度もノイマン屋敷に遊びに行った。四月になって新しい学年が始まると毎日行くようになった。ミチコは変な女だったが、何度か会ってるうちにわりと楽しい話相手だということがわかったからだ。
「わたしたち気が合うわね」と彼女は言った。
「まあね」とぼくは言った。
 ミチコはたいてい自分の続き部屋のどこかにいて、ステレオで音楽をかけながら化粧をしているか、バレエの稽古をしていた。一体いつ会社の仕事をしてるんだろうと不思議に思ったものだ。
「景気がいいのよ」とミチコは言った。「会社が儲かってるときの社長は暇なのよ」
 東京オリンピックの後、景気はどんどんよくなっていた。車も電気製品も飛ぶように売れていた。八重山鉄工のネジやホイールもそれにつれて飛ぶように売れていた。

 八重山はノイマン屋敷に住もうとはしなかった。東翼に一応自分の部屋とピアノを持っていたが、ミチコのかけるステレオの音がうるさかったし、絶えずいろんな人間が出入りしていて落ち着かなかったからだ。
 彼はその頃ピアノのテクニックを極限まで突き詰めようとしていた。
「ピアノで完全な自由を表現したいんだ」と彼はぼくに言った。「でもメロディや和音がからみついてきて、ぼくの指を縛り付けようとするんだ」
「そんなものかな」とぼくは言った。
「音楽は時間との戦いなんだ。止まったらおしまいなのさ」
「きみのお姉さんもそんなことを言ってなかったかな」
「あいつは何にもわかってないんだよ」彼は不愉快そうな顔をした。

 八重山は誰にも邪魔されない場所でピアノを弾かなければならないと感じていた。できれば完全に外の音を遮断した密室で。
「頭の中で弾いてるんじゃなかったの?」とぼくは言った。
「頭が破裂しそうなんだ」と彼は言った。
 彼の坊主頭は確かに破裂しそうな感じだった。魚の腸みたいに白かった手術の傷がその頃はピンク色に充血していた。傷の柔らかい表面がピクピク脈を打っているのが見えた。
「少し休んだほうがいいと思うけどな」とぼくは言った。
「頭は冷やせば平気なんだ」と彼は言った。「ちょっと血が上ってるだけだからね」
 ぼくらは谷底に降りて冷たい川の水で顔を洗った。八重山は頭を水の中に浸けた。水は手が痺れるくらい冷たかった。頭を水から上げると八重山の手術の傷は羊の脳味噌みたいに白くなっていた。

 八重山は洞窟の中にピアノを置くことを思い付いた。誰もやってこない静かな場所だったからだ。ピアノは冷凍鹿のいる地下広場に置かれた。そこは春になっても相変わらず冷凍室のように寒かったが、八重山の指が凍えて動かなくなるといったことはなかった。
「指がすごく熱いんだ」と彼はぼくの頬っぺたに指をくっつけながら言った。彼の指は湯たんぽみたいに熱かった。たぶんピアノの弾きすぎだったんだろう。
 冷凍鹿の前に置かれたのは小さなアップライトピアノだった。ミチコは浪費を何とも思わない女だったから、別にグランドピアノだって買ってくれただろうが、小さいピアノでないと洞窟に入らなかったのだ。

 彼は好きなときに授業を抜け出して、誰にも邪魔されずにピアノを弾くことができた。ピアノの音は洞窟を通して反響し、庭園や学校のあちこちで聞こえたが、たいていはすごくかすかな音だったから、洞窟にピアノがあって、八重山が弾いてるのだということを知らない連中には、それがピアノの音だということさえわからなかった。
「カラスが鳴いてる」と言うやつがいた。
「いや、鹿だよ」と別のやつが言った。

             ★

 ノイマン屋敷には絶えずアーティストたちが出入りしていた。ほとんどそこに住んでると言ってもいいような連中もいた。一九六八年にはいたるところにアーティストがいた。若いやつらは誰もがアーティストになろうとしていた。
 彼らとヒッピーの違いを説明するのは難しい。どちらも髪や髭を伸ばし、マリワナやその他の薬をやり、ベトナム戦争について話したからだ。インドの神に祈ったり、ヨガをやったりする連中がいること、シタールやダルシマやサントゥールを弾く連中がいることも共通していた。違いと言えばヒッピーたちが屋外、特に自然の中で寝起きするのを好むのに対して、アーティストは屋内、特に都会のビルやノイマン屋敷みたいに雰囲気のある洗練された昔の建物を好むことだった。
 それからもうひとつ、作品を作るか作らないかというのもアーティストとヒッピーを見分ける大きなポイントだ。アーティストは道路に絵を描いたり、裸の女の子にペンキを塗ったり、空缶を溶接したりして思い思いの作品を作っていた。それに対してヒッピーたちの主な日課は川や池で釣りをしたり、焚き火で料理を作ったりすることだった。ぼくは宝塚の自宅のまわりにキャンプを張っているヒッピーたちとはつきあいがあったが、アーティストたちとはノイマン屋敷で初めて接したので、彼らのすることがとても新鮮に見えた。彼らのすることを見ていると、自分までがとても自由になったような気がした。

「どうしてきみも作品を作らないんだ?」とアーティストの一人が言った。彼はキャンバスに錆びた鉄板を貼り付けて色を塗るのが得意だった。「自分の手法を発明すれば誰でもアーティストになれるんだよ」
「ぼくにはどうやって手法を発明したらいいかわからないんだ」とぼくは言った。
「そんなの簡単さ。まだ誰もやってないことなんていくらでもあるじゃないか。山の木に穴をあけるとか、砂に色を付けて道路にまくとか⋯⋯」
「そうか」とぼくは言った。
「女の子とセックスするのが好きなら、それを作品にしてもいいじゃないか。街でそれをやれば立派な作品になるよ」
「ぼくは今のところ男の子のほうに興味があるんだ」とぼくは言った。ぼくの横には結城がいた。彼はぼくの手を力を込めて握っていた。
「そいつはすごい」とそのアーティストは目を輝かしながら言った。「男とやるってのはかなり話題になるぜ。アルパインに相談してみるといい。彼なら売り込み方まで考えてくれるよ」
「いや、いいよ」とぼくは後退りしながら言った。
「どうして?」アーティストは不思議そうな顔をした。「当たると思うけどなあ」

 アルパインというのはその頃ノイマン屋敷に滞在していたアメリカ人のアーティストのことだ。彼はニューヨークで若いアーティストたちのアイドルだったし、日本でも一九六七年に個展をやってすっかり有名人になっていた。
 アルパインは絵も描いたし、シルク印刷という謄写版みたいな手法も使ったが、一番得意なのは立体物だった。彫刻を彫るのではなく、石膏の型を作り、そこにプラスチックみたいなものを流し込んでオブジェを作り、表面に特殊な塗料で色をつけるのだ。彼の出世作はマルボロとキャメルの煙草の巨大な模型だった。シルク印刷によるジョン・F・ケネディの顔のシルエットというのもあった。『ボンジョルノ・ブルックリン』という、やたらと裸がたくさん出てくる映画も撮った。要するに何でも屋なのだ。

 その春、最初にノイマン屋敷を訪ねたとき、ぼくは正面ロビーで数人の若いアーティストが馬鹿でかい謄写版みたいなシルク印刷器を使ってジェーン・フォンダの顔を印刷しているのを見た。その隣の客間にはケンタッキー・フライドチキンのシンボル、カーネル・サンダースの人形が何十体も並んでいた。最初ぼくはジークムント・コッホ神父がたくさんいるのかと思った。
「うわあ」とぼくは言った。「これも誰かの作品なの?」
「その中の一つは本物のカーネル・サンダース人形で、あとは全部アルパインの作品だよ」とそばにいた黒人の男が教えてくれた。
「見分けがつかないや」とぼく。
「うまくできてるからね」と黒人の男。

 ぼくはそのときまだケンタッキー・フライドチキン自体を知らなかったから、カーネル・サンダースが何者で、カーネル・サンダース人形がどういうものなのか、まるで見当がつかなかった。たしかケンタッキー・フライドチキンが日本に上陸したのは一九七〇年、大阪で万国博覧会が開かれた年だった。あとで聞いたところによると、アルパインはケンタッキーの出身で、カーネル・サンダースは子供のときから彼のアイドルだったらしい。

 しかし、ぼくが知っているのはカーネル・サンダースにそっくりのコッホ神父と、彼を模
して作られたはりぼての人形だけだった。一九六七年の秋に八重山と初めて出会ったとき、霧の中の校庭に並べられていたやつだ。もちろん、アルパイン作のカーネル・サンダースは張りぼてのコッホ神父なんかより数段精巧に作られていた。
「なるほど」とぼくは言った。
 よくはわからなかったが、ぼくはそのとき初めて世界的に認められている芸術を直に見
たので、なんとなく感動していたのだ。

 アルパインを初めて見たとき、ぼくは病人がノイマン屋敷にいるのかと思った。彼はサングラスをかけ、椅子に座ってぼんやりしていた。髪も眉毛も睫毛も真っ白で、顔は皺だらけだったから、二百歳の老人にも見えた。
 ミチコがぼくを紹介してくれたのだが、アルパインはぼくが挨拶してもしばらく何が起こっているのかわからないといった感じでぼんやり窓の外を見ていた。そのあいだぼくは豚の脂身みたいに白く透き通った彼の上唇を眺めていた。
「コウベはいいね」二十分くらいたってから、彼はサングラスを外しながらぼくのほうを向いてそう言った。
「そうかな」とぼくは言った。
「まるで空から海を見てるみたいだ」とアルパインが言った。
 確かにノイマン屋敷は神戸の街に張り出した尾根の上に建っていたから、眺めはすごくよかったが、ぼくにはなんだかアルパインがすごくつまらないことを言ってるみたいに思えた。

 サングラスをとると、彼の目はきれいな淡いブルーだったが、インディアンの目みたいに小さくて、おまけにちょっとやぶにらみだった。それは日本人に殴られたせいだとミチコは言っていた。
 アルパインが最初に来日したのは一九六七年の春だったが、そのときは個展を開くのが目的だった。日本で初めて個展を開くにあたって、彼は一番有名な日本人の石膏人形を造ろうと考えた。
「日本人で一番有名なのは誰かな?」と彼はニューヨークのアトリエでまわりのスタッフに相談した。
「さあ、クロサワじゃないかな」と誰かが言った。
「毛沢東だろう」と別のスタッフが言った。
「あれは日本人じゃないよ」とまた別のスタッフが言った。
「日本人のアイドルはやっぱりエンペラーよ」と女性スタッフの一人が言った。

 アルパインはこの女性スタッフのアイデアを採用することにした。
 ところが東京で個展が開催されたとたんに、紺色の作業服みたいな制服を着た数十人の男たちが会場に乱入して、会場をめちゃくちゃに壊し、入口付近に並んでいた問題の人形数十体を持ち去ってしまった。男たちはそばで口を開けて自分たちをぼんやり見ていたアルパインをついでに殴りつけた。
「悪気はなかったんだけどね」と彼らは警察の取り調べで語った。「人形と間違えちゃったんだ」

 アルパインは二週間入院し、片方の目が外を向いたままになってしまった。しかし彼は日本でひどい目にあったとは感じなかったらしい。まもなく横浜の港を見下ろす丘の上に古い洋館を借りて、そこに腰を落ち着けてしまったからだ。それは聖書女子大のすぐ近くだった。
「日本という国にはぼくをインスパイアする何かがあるんだ」と彼は美術雑誌のインタビューで語った。

 好奇心旺盛な女子大生たちがすぐに彼のアトリエに入り込んできた。彼女たちもアーティストになりたかったのだ。アルパインは来るものは拒まずという態度だったので、すぐに彼のまわりには女の子の親衛隊ができた。彼女たちの何人かはマリワナを吸ったり彼のちょっとした手伝いをするだけでなく、彼が撮っていたストーリーのない変てこな映画に出たりした。決まった台詞があるわけじゃないから、誰でもよかったのだ。
 ぼくは後に何度かアルパインの映画を見たが、どれも若い女の子が裸になって、男たちとでたらめにセックスしたり、からだにペンキを塗ったり、酔っ払って踊ってるだけだった。

 ミチコがアルパインと出会ったのも、そうした聖書女子大の友達を通してだったが、彼女は最初から彼に一目置かれていた。彼女がすでにモデルやアーティストとして名前が売れかかっていたからかもしれないし、ただ彼の取り巻きの女の子たちに比べてかなり美人だったからかもしれない。とにかく彼女はすぐにアルパインと仲よくなった。

 ミチコは東京と横浜で楽しくやっていたから、神戸に戻らなければならなくなったとき、このまま何もかも終わりにしてしまうのはごめんだと思った。だからノイマン屋敷を修復するとき、アルパインを神戸に呼ぶことを考えたのだ。
 ノイマン屋敷の改装にかかると同時に彼女は横浜のアルパインに電話をかけた。
「ねえ、神戸で作品を作ってみない?」
「コウベというのはキョウトの近くかい?」とアルパインはきいた。
「ええ、すぐ近くよ」とミチコは答えた。
「ぼくはキョウトに住みたいんだ」
「神戸はほとんど京都みたいなものよ」
 それはちょっと強引な説明だったが、アルパインは初めてノイマン屋敷にやってきたとき、すぐにそこが気に入ってしまった。摩耶山から見下ろす海と神戸の街はパノラマのようだと彼は思った。
「キョウトはどこ?」とアルパインは子供みたいにきいた。
「すぐそこよ」とミチコは東のほうを指差しながら、子供をだまそうとする母親みたいに答えた。

 結局アルパインはそれほど本気で京都に執着していたわけではなかったらしい。まもなく彼はノイマン屋敷に腰を落ち着けて新しいシルク印刷のシリーズの制作に入った。それは京都とは何の関係もない絵だった。彼の絵は飛ぶように売れたが、入ってきた金は機材や材料の購入のほか、映画の制作や麻薬類に消えていった。彼のまわりには訳のわからない連中がたくさん集まってきた。薬目当ての女の子たち。彼女たちは映画で裸になれば薬がもらえた。薬目当ての男の子たち。彼らも映画で女の子の相手をしたり、制作の手伝いをすれば薬が好きなだけもらえた。それから胡散臭いバンドの連中。アメリカの西海岸から来たのもいれば、東京や横浜からくっついてきたのもいた。彼らは薬目当てだけでなく、アルパインにくっついていればレコード・デビューのチャンスがやってくるのではないかと考えていた。そして彼ら全員が何らかの意味でアーティストだった。少なくとも自分のことをアーティストと考えていたし、お互いにそう認め合っていた。

 二階のサンルームでアルパインに紹介されたとき、彼は死にかけの老人みたいに椅子に座ってぼんやり外を見ていた。ミチコが日傘をさしかけてやっていた。白子の彼は直射日光に弱いのだ。温かい太陽の光が広く細長いガラス張りの部屋いっぱいに溢れていた。まわりの山は菜の花に覆われていた。細かい波がキラキラ光る静かな海にはたくさん貨物船が浮かんでいた。海沿いに並ぶ製鉄所の溶鉱炉がちぎれ雲みたいな水蒸気の塊を吐き出していた。
「きみは何がやりたい?」とアルパインは固い木の椅子に腰掛けたまま言った。彼はそんな意味のことを英語で言ったのだが、なんだかひどくぎこちない喋り方だった。
「さあ、別に」とぼくは言った。そのころぼくは英語で小説を書き出していたが、そんなことを言ってみたって何にもならなかった。

 ぼくと八重山と結城は彼の椅子のそばに立っていた。アルパインは八重山のことを知っている様子だったが、最初から最後まで彼の顔を見ようとしなかった。
「まだ子供なのよ」といった意味のことをミチコが英語で言った。
 アルパインは多分ぼくが彼のアトリエで何か仕事にありつこうと思ってる若者だと思ったのだろう。絵の制作を手伝ったり、映画の撮影で裸の女の子とうまいことやったりしてるうちに、芸術家として売り出してもらえるんじゃないかと考えてるやつらの仲間だと。
 アルパインはひどく神経質な男だった。ぼくみたいな子供と話すときも手がかすかに震えた。ぼくの顔も決して正面から見ようとしなかった。

「コウベはヨコハマよりいいね」と彼はまたぼくに言った。
「そうかな」とぼくは曖昧に言った。ぼくは横浜に行ったことがなかったからだ。
「山が高い。まるで港を空から見下ろしてるみたいだ」
「そう?」とぼくは言った。
 彼はそれだけ話す間にも何度となく助けを求めるような目でミチコを見た。彼女はそのたびにウインクをして見せたり、彼の腕を撫でたりした。日本のマスコミは彼が取り巻きの女の子たちとやりまくってるといったようなことを記事に書いていたが、それはでたらめだった。彼は女の子たちに対してわりとよそよそしかった。その中でミチコだけは例外だった。彼女はアルパインがリラックスして喋れる唯一の人間だった。それは多分彼女が彼の姉か母親のように振る舞っていたからだろう。

「ひとつきいていい?」とぼくはアルパインに言った。
「どうぞ」と彼は言った。
「どうして煙草のパッケージとか有名人の顔とか、誰でも知ってるものばかり描くの?」
「誰も知らないものを描いた芸術家なんていないよ」と彼は答えた。「いたとしてもそんなやつは誰にも認めてもらえないだろうね。だって人間は芸術の中に自分を発見する手掛かりを求めるんだから」
「ふうん」とぼくは言った。何だかはぐらかされたような気がしたが、それ以上どうやって突っ込んだらいいのかわからなかった。

「ぼくは自由を発明したんだ」とアルパインは言った。
「へえ」とぼくは言った。
「嘘ばっかり」とぼくの横で八重山が呟いた。
「今までの芸術にはタブーが多すぎたんだよ」とアルパインは言った。「芸術家は世の中のタブーをそのまま受け入れちまうお人好しだったのさ」
「おまえもその一人じゃないか」と八重山がまた呟いた。彼の声はアルパインの耳に届かなかったらしい。あるいは聞こえないふりをしていただけなのかもしれない。芸術家は強ばった顔で笑いながらミチコを見上げていた。
「ぼくのほんとの作品は、マルボロの煙草の模型でもジェーン・フォンダのシルエットでもない。何をしても平気だという考え方そのものなんだ」
「おまえは寄生虫なんだよ」と八重山はまた呟いた。
 ミチコが彼のほうを見て笑った。変な雰囲気だった。アルパインは半身付随の病人みたいに椅子に座ったまま神戸の街を見下ろしていた。

             ★

「ノイマンがこの屋敷に火をつけたのよ」とミチコがぼくに言った。「ひどいと思わない?」
「思うよ」とぼく。
「それでいて、この家は八重山屋敷じゃなくて、ノイマン屋敷って呼ばれてるのよ」とミチコは言った。「ひどいと思わない?」
「思うよ」とぼく。
「あなたはわたしから身を守ろうとしてるみたい」とミチコは言ってちょっと笑った。
「どうして?」
「男の子をいつもそばに置いてるからよ」
「結城はぼくらの仲間なんだ」とぼくは言った。「ぼくと八重山の」
「その子を置いとけば、わたしが襲ってこないと思ってるのよ」
「そんなことないよ」
 ぼくと結城はサンルームのソファにならんで腰掛けていた。八重山はいなかった。ピアノを弾いていたのかもしれない。ミチコは風に吹かれてるみたいにふわふわと部屋の中を踊りながら回ったり、ぼくらと向き合って座ったりした。
「ノイマンがこの屋敷に火をつけて逃げ出したのは、一九四五年の四月二十九日の夜よ」
「そう?」
「どう思う?」
「どう思うって?」
「一九四五年の四月二十九日はヒトラーが自殺した日なのよ。どう思う?」
「さあね」とぼくは曖昧に言った。別に何も思わなかったからだ。
 ミチコは一枚の写真を見せた。ナチスの親衛隊の制服を着た若いドイツ人らしい男が写っていた。その顔はどこかで見たことがあるような気がしたが、どこでだったか思い出せなかった。まだ子供だったぼくには、ドイツ人はみんな同じような顔に見えた。
「ノイマンはドイツ人商人じゃなかったの?」
「日本に来る前は親衛隊員だったのよ」
「どうしてこんな写真を持ってるの?」
「研究してるのよ」

 彼女は聖書女子大で日本史を専攻していた。中退してしまったので卒業論文を書くことはできなくなったが、その頃の彼女はそれに代わる論文を書こうとしていた。テーマは神戸とノイマンと第二次世界大戦だった。彼女はぼくに書き出しの部分を見せた。タイトルはただ「プロローグ」となっていて、論文全体のタイトルはまだ決まっていなかった。そのプロローグはレポート用紙百枚以上に細かい字でびっしり書き込まれていて、それだけで一冊の本になりそうな分量だった。
「すごいなあ」とぼくは言った。

 その頃のぼくには作品のボリュームに対する信仰があったのだ。長い作品は中身の質いかんに関わらず、それだけで特別な値打ちを持っているように思われた。その頃ぼくが好んで読んだ小説は、『デイヴィッド・コパーフィールド』にしろ、『レ・ミゼラブル』にしろ、『戦争と平和』にしろ、『静かなドン』にしろ、みんなとても長かった。ぼくは自分でもいつかこんな長いものを書いてみたいと思っていた。
「プロの意見を聞かせてもらいたいのよ」とミチコはぼくに言った。
「ぼくはプロじゃないよ」

 ミチコはぼくと八重山が発見した洞窟に注目していた。ぼくらは彼女を案内して何度か洞窟に潜ったが、ミチコはまるで自分が何か大きな発見をしたみたいに興奮していた。
「これは地下道よ」と彼女は言った。
「だからそう言ったじゃないか」と八重山が言った。
「これは人工的に作られた抜け穴なのよ」
「そうかもしれないな」
 彼女は特に総愛学院の神父館や校舎がノイマン屋敷と地下道で結ばれていることに強い興味を示した。
「これはノイマンが逃げるために使った抜け穴なのよ」と彼女は言った。
「そんな馬鹿な」とぼくは言った。
「逃げるんなら三の宮に続いてる地下道だけで十分じゃないか」
「逃げるっていうのはそんなに簡単じゃないのよ」

 アルパインは洞窟の冷凍鹿に強い興味を示した。
「まるで本物そっくりじゃないか」と彼は言った。
「本物だよ」とぼくは言った。「凍ってるんだ」
「そうか」と彼は言った。ちょっとがっかりしたみたいだったが、それでも熱心に鹿を見つめていた。「でも、まるで生きてるみたいじゃないか」と彼は言った。
 彼の関心は現実の模倣にあった。もっと正確に言うと、ぼくらが現実の世界から受け取っている印象を複写することにあった。それが彼の芸術の根底をなしていた。彼は実物には興味を抱かなかった。彼が惹かれるのは常にコピーされたものだったのだ。

「総愛学院がノイマンを逃がしたのよ」とミチコが言った。
「どうして?」とぼくが言った。
「ローマ・カトリック教会はいたるところでナチ党員を匿ったり逃がしたりしたのよ」と彼女は言った。
 彼女はポーランドやオーストリアやフランスで教会や修道院がいかに積極的にナチ党員やその協力者の逃亡に手を貸したか、いくつも例を上げながら話した。
「ふうん」とぼくは言った。
「父と母はノイマンの顔を知ってたのよ」と彼女は言った。
「そうだろうね」
「父と母は一九六六年にもう一度ノイマンを見たのよ」と彼女は急に大声を上げた。「あの人たちはノイマンに殺されたのよ」
「まさか」とぼくらは言った。
 ミチコは両親とノイマンのことになると冷静さを失ってしまうところがあった。ときどき叫び声を上げながらそこら中を転げ回ることもあった。薬のせいもあったのかもしれない。でも、とにかく彼女は両親がノイマンに殺されたものと信じ込んでいた。
「ノイマンは二十年間他人に化けていたのよ」と彼女は言った。「それを父と母に見つかったから殺したのよ」

 彼女のノイマン研究のプロローグは、レポート用紙百枚以上にわたって両親のことが書かれていた。
 大正時代にお祖父さんが貿易で大儲けをした話、鉄工や造船からキャバレー、カフェまであらゆる事業に手を広げた話、その二人の息子のうち長男つまりミチコの伯父は生まれつきからだが弱くて寝たきりだったという話、その伯父に聖書女学院を卒業したばかりのお嫁さんが来た話、そのとき父はまだ創立されて間もない総愛学院の一年生だったという話、伯父が寝たきりだったため、お嫁さんとセックスできなかったという話、ちゃんとしたセックスの代わりに彼らがベッドの上で何と何と何と何と何と何と何をしたかといった話(どうしてミチコはそんなことまで調べることができたんだろう?)、伯父が自分のお嫁さんと弟の間を疑っていたという話、彼らに向かって「やったら承知しないぞ」と何度も繰り返し脅した話、「頼むからやらないでくれ」と何度も泣きながら頼んだ話、妻と弟つまり後のミチコの母と父がそのたびに絶対やらないと誓ったという話、実を言うと父は何度も母にやろうと持ちかけたのだが、そのたびに拒絶されていたという話、伯父が最後に「悪かったね。もうやってもいいよ」と言い残して死んでいった話、その頃もう戦争がひどくなっていて、毎晩神戸がアメリカの爆撃機に空襲されていた話、兄がいなくなったので彼らはすぐにセックスしようとしたのだが、あんまり長いこと我慢していたのでうまくいかなかったという話、そのとき母が「ああ、あたしはなんて馬鹿だったんだろう。こんなことならもっと前にやっておくべきだったわ」と言ったという話。父は「あせることないよ。これからいくらだってできるじゃないか」と言ったという話。母は「だめよ。日本は戦争に負けてもうじきみんな死ぬんだわ」と言ったという話。父は「戦争が終わるまで生き延びようよ。戦争が終わったら結婚して思う存分やろうよ」と言ったという話⋯⋯⋯⋯。

 正直に言ってミチコのプロローグはとてもひどい出来だった。文法や言い回しが間違いだらけだったし、内容的にもあちこち混乱していた。おまけに途中から小説みたいになっていた。
「ノイマンのことを書くのに、どうして両親についてこんなに詳しく書かなきゃいけないのかな」とぼくは言った。
「わたしの両親だからよ」とミチコが言った。
「でも、ノイマンとどういう関係があるの?」
「ノイマンがあの人たちを殺したからよ」

               ★

 アルパインはミチコを主役にした『ビースト』という映画を撮っていた。ビーストというのは野獣という意味だ。彼はミチコを野獣と見ていたのだろうか? そういえば、
「彼女の中には野獣がいる」と彼が言うのを聞いたことがある。
 美女と野獣(ザ・ビューティ・アンド・ザ・ビースト)⋯⋯。その頃は気づかなかったが、アルパインは陳腐な着想を平気で使うところがあった。彼は美術だけでなく、言葉に関しても引用やコピーにこだわるタイプだった。
『ビースト』は『ボンジョルノ・ブルックリン』と同様、これといったストーリーのない映画だった。ただ、乱交パーティーや女の子の裸はそれほどたくさん出てこないことになっていた。もちろん全然出てこないというわけではなかったけれど⋯⋯。裸やフリー・セックスが出てこない映画なんて当時は芸術と認めてもらえなかったのだ。

 この作品では控えめなセックスの代わりに、ミチコがノイマンの影を求めて神戸のあちこちを歩き回ることになっていた。ノイマン屋敷、総愛学院、庭園、神戸港、八重山鉄工の工場、かつては八重山家のものだった様々な工場やビル、あるいはその跡地、やはり八重山家のものだったキャバレーやカフェ、ナイトクラブ⋯⋯。いたるところでミチコは延々と喋り続けた。ノイマン研究の「プロローグ」に書いたような彼女の両親のこと、どうしてノイマンを研究しようと思ったのか、東京でのモデルやアーティストとしての活動、横浜での学生生活、アルパインとの出会い、両親の死、神戸に戻ってくることになった前後のこと⋯⋯。

 ぼくらはよく撮影隊にくっついて神戸の街を歩き回った。アルパインは街角でいきなり撮影を始めるのが好きだった。
「風景に不意打ちを食わせるのさ」と彼は言った。
 どこでもすぐに人だかりができた。白人が多い神戸でも、アルパインの白髪や透き通った皺だらけの肌はよく目立ったし、第一彼は一種の有名人だった。アメリカでも日本でも、彼はアーティストたちのアイドルだったし、一九六八年の神戸はそこら中にアーティストあるいはその卵たちが溢れていた。
 歩道にしゃがみこんで絵を描いてるやつ、裸の女の子のからだに絵を描いてるやつ、あるいはただカップルでキスしてるだけのやつ⋯⋯。みんなそばに空缶を置いていた。
 作ってるものあるいはやってることを芸術として鑑賞し、なにがしかの金を置いていけというわけだ。
 一九六八年にはただのキスでも当人たちが芸術だと言えば、それは一応芸術として認められた。どの程度の芸術かということはまた別問題だったが、とにかく「これは芸術だ」と提示された作品が、「こんなもの芸術じゃない」と言われる心配はなかった。そして空缶にはたいていいくらかの小銭が入っていた。

「ねえ、ぼくの芸術を体験してみないか」と薄汚い男が声をかけてきた。
「芸術を体験する?」とぼくはきいた。そのころのぼくは、芸術と言えば鑑賞するものであって、体験するものじゃないと思っていたからだ。
「ぼくの芸術はただ鑑賞するだけじゃだめなんだ」と彼は言った。髭と髪を長く伸ばして、麻でできたインド風のシャツを着ていた。首には大きな鎖の首飾りを下げていた。つまり一九六八年の都市ならどこにでもいた手合いだ。
 そのアーティストはぼくを変な箱の前に連れていった。汚い紙を貼り付けて、たくさんボタンの絵が描いてあるベニヤ板の箱だ。
「これ何?」とぼくはきいた。
「夢の自動販売機さ」とアーティストは胸を張って言った。「このコイン投入口に百円入れてここをノックするんだ」
「百円で夢が見られるの?」
「とにかくやってごらんよ」アーティストはそう言って箱の中に入ってしまった。
 ぼくは百円を入れてその箱をトントン叩いた。すると中からトントンと応答する音がした。ぼくは夢が出てくるのを待った。箱の中からは何の物音も聞こえてこなかった。いくら待っても何も起こらなかった。
「夢が出てこないよ」ぼくは箱をドンドンと叩きながら、大きな声を出してみた。
「きみはわかってないなあ」箱の中からアーティストが這い出てきて言った。「百円入れたことできみは何が出てくるか期待しただろ?」
「まあね」
「それがこの機械の売ってる夢なんだよ」
「インチキ」
「インチキじゃないよ」
 彼のアーティスト仲間が集まってきた。彼らはみんな肩まで髪を垂らして髭を伸ばしていた。ぼくを取り囲んで不機嫌そうにじろじろ眺めた。
「これがインチキだってよ」自動販売機男は自分の作品をトントン叩きながら仲間に言った。
「わかってないね」と仲間の一人が言った。彼も本気で怒ってるみたいだった。
「まだ子供なんだ」と別のアーティストが言った。
 そういう時代だったのだ。

 ぼくと結城は暇さえあればミチコとアルパインの撮影隊にくっついていったが、八重山は一緒に来ようとしなかった。街に溢れているアーティストたちを眺めるより、ピアノを弾いてるほうがよかったからだ。それに神戸の街はもう彼の好みに合わなくなっていた。
「すっかりきれいになっちゃったからね」と彼は言った。
「そうかな」とぼくは言った。

 神戸の街は相変わらず迷路みたいな路地がいたるところにあって、小さくて汚い店がひしめきあっていた。一番賑やかな三の宮センター街のあたりでさえ、ちょっと裏通りに入れば黒ずんだわけのわからない店かたくさん並んでいた。ただ、娼婦たちは姿を消していた。フリー・セックスの季節だったからだ。若者は母親くらい年を食った女を買わなくても、恋人と好きなだけやることができた。あるいはただの友達の女の子と。あるいはちょっとした顔見知りや友達のガールフレンドのそのまた友達の女の子と。
「娼婦のいない街なんて街じゃないよ」と八重山は言った。
「そうかな」とぼくは言った。

 彼はほんの時たま街をうろついて、いろんな店から現金を盗み、その金で福原のトルコ風呂に通っていた。その頃彼はもうジャズ喫茶やナイトクラブでピアノ弾きのアルバイトをしていたが、そこで稼いだ金はピアノのレッスンを受けるために使っていた。彼はこの二種類の資金調達法とその使い方を絶対に混同しなかった。ピアノで得た金はピアノに、盗みで得た金は売春に、そして飲食は食い逃げで、というわけだ。
「金は稼ぎ方と使い方次第で人間的なものになるんだ」というのが彼の信念だった。ミチコは彼が要求すればいくらでも金をくれたはずだが、彼はそれを自分に禁じていた。
「ぼくがどうして姉貴から金をもらわないかわかるかい?」と彼はぼくにきいた。「それから、ぼくがどうして女を買うかわかるかい?」
「わからない」とぼくは答えた。
「姉貴とやらないためさ」彼は大切な秘密を打ち明けるみたいに声をひそめて言った。
「ふうん」とぼくは言った。
「ふうん」と結城も言った。

              ★
                                       
 ミチコが初めて総愛学院にやってきたのは、五月の父兄参観日だった。その日の彼女はいつもよりドレッシーな服を着ていた。チョコレート色のベルベットのワンピースには白っぽいレースの大きな襟がついていて、スカート丈はもちろんほとんどお尻が見えそうなミニだった。赤と黄色の太い横縞のタイツをはいたところは、なんだか発育のいい小学生がいたずらをしてるみたいな感じだった。首には金色の大きな鎖のネックレスをして、腰にはそれよりもっと大きな鎖のベルトをしていた。ぴったり撫でつけた短い髪は、耳の上のところで大きくカールしていた。眼のまわりは紫とブルーのアイシャドーが渦を巻いていた。蝿が捕まりそうなくらい大きい付け睫毛、星の形をした大きな付けぼくろも彼女お得意のアクセサリーだった。

 どう贔屓目に見ても彼女は親たちの中で一人浮いていたが、当人はまるで気にしていなかった。
 彼女はぼくらを見掛けると、「ピース」と言いながら近寄ってきて、八重山のおちんちんを握ろうとした。
「弟はわたしとやりたいくせに、意地を張ってるんですのよ」と彼女は聖書女学院風の上品な口調でまわりの父兄に言った。
「まあ」と誰かの母親が言った。あるいはぼくの母だったかも知れない。
「あの子は(とぼくを指差しながら)、わたしに強姦されるのが恐くて、男の子が好きだというふりをしてるんですの」とミチコは言った。
「まあ」とまた誰かの母親が言った。

 中三B組にすごい美人がきてるという噂はあっというまに広がってしまった。ほかのクラスからぼくらの教室にたくさん野次馬が押しかけてきた。高等部の生徒の中にはミチコのことを知っているやつもいた。彼女は何年か前のミス聖書女学院だったからだ。
「その頃はこの学校でわたしの写真が一枚三万円で売り買いされてたんですのよ」と彼女はそばにいた誰かの母親に囁いた。
「まあ」とその母親は言った。
「わたしの写真を見ながらオナニーする子がたくさんいたんですの」
「まあ」
「そのくせわたしにセックスしようと申し込む子は一人もいなかったんですのよ」
「まあ」
「素敵じゃありません?」
「さあ、どうですかしら」

 午後になると、授業は庭園でおこなわれた。一九六八年の五月は真夏みたいに暑くて、冷房設備のない総愛学院の校舎では授業にならなかったからだ。その点、山の斜面の木立の中は、ちょっと薄暗かったけれどもとても涼しかった。あちこちに泉が湧いていて、六甲山の冷たくておいしい水を好きなだけ飲むことができた。生徒にとって一番好都合なのは、机も椅子もないからこっそり授業を抜け出してもわからないことだった。最初のうち、ぼくと八重山と結城はしょっちゅう洞窟に潜って遊んでいた。冷凍鹿のいる地下広場で八重山はピアノを弾き、ぼくと結城は曲に合わせて踊った。

 ところが洞窟の入り口のそばで授業をしていたカークパトリック神父がピアノの音を聞きつけて、地下広場に乗り込んできた。せっかく秘密にしていた地下道は、そのとき神父とクラスのやつらに見つかってしまった。
「なんてこった」とカークパトリック神父は冷凍鹿を見ながら言った。
「まるで生きてるみたいでしょ」とぼくは言った。
「ここは死霊だらけだぜ」とまわりを見回しながら神父が言った。
「そうかなあ」とぼく。

 そのとき一緒に入ってきた生徒の一人が転んで頭を打った。下は分厚い万年氷に覆われていて、滑りやすくなっていたのだ。転んだやつは気を失ってしまった。ほかの連中は寒さでぶるぶる震えていた。
「よかったらここで授業をやらない?」とぼくは言った。
「とっとと出るんだ、この死神小僧」と言いながら神父はぼくらの首を掴んで外に引きずり出した。「おれは暗くて寒いところが大嫌いなんだ」
 どうしてぼくと八重山と結城があの洞窟の中で平気でいられたのに、ほかの連中がすぐに凍えそうになったのか、今でもはっきりした理由はわからない。カークパトリック神父は、ぼくらのことを死神に取り憑かれてると言った。
 そうだったのかもしれない。
 死神に取り憑かれると、からだが火照るのだ。

 というわけで、父兄参観日の午後もたいていのクラスが庭園で授業をした。ぼくらの学年はカークパトリック神父の英作文の合同授業だった。               
「来たな、死神女」と神父がミチコの顔を見て言った。
「無理しちゃって」と彼女が言った。
 二人はすでに顔見知りだった。カークパトリック神父は聖書女学院でも英語を教えていたからだ。
「あいつは高校生のときおれとやりたがったのさ」と神父はあとでぼくに言った。「おれが相手にしなかったんで恨んでるんだ」
「あいつはわたしとやりたいのを我慢してたのよ」とあとでミチコがぼくに言った。「それで今でもわたしのことを怖がってるの」
 一体どっちがほんとなんだろう? 
 十四歳の子供にそんなことがわかるわけはなかった。三十五歳の今だって、それほどわかってるわけじゃない。でも、たぶんどっちの言うこともほんとだったんだろう。そんな気がする。

 そんなわけで、ぼくらは庭園の斜面で英作文の授業を受けた。カークパトリック神父は入り口をふさぐような感じで洞窟の前に立ち、ぼくらはその下に広がる木立の中で、幹に凭れたり下草の上に座ったりして彼を見上げていた。父兄たちがぼくらを取り巻いて立っていた。ヒッピーたちがその外側でシタールを弾いたり、香を焚いたり、瞑想に耽ったり、昼寝をしたり、セックスしたりしていた。

 その日の授業の呼び物は、”A Tale of A Little Thief ” の朗読だった。カークパトリック神父はそれまで授業のたびに朗読してきた分をまとめてタイプ原稿を作り、そのコピーを生徒と父兄たちに配った。その日の朗読は、言ってみれば総集編だった。神父と生徒たちが役割を分担して、父兄たちにこの小説を読んで聴かせるのだ。神父が地の部分を担当し、登場人物の台詞は生徒たちがそれぞれ役を割り当てられた。生徒全員が参加できるように、一章ごとに役者は入れ替わった。

 ジェーンの役はみんながいやがった。ジェーンというのは主人公の泥棒ハロルドが惚れてしまう金持ちのお嬢さんだ。この小説はかなり登場人物が多かったが、この五月の時点でまともに台詞のある女の役はジェーンだけだった。彼女の役を振られたやつらは顔を真っ赤にして騒ぎ立てた。そりゃそうだ。誰だって母親の前で女の子の真似なんかしたくない。みんなは結城にやらせろと主張した。女の子の台詞を口にしても違和感がないのは確かに彼くらいなものだった。それにみんな彼とぼくの仲を知っていたのだ。しかし、これには結城の親が反対した。

「うちの子が女の子みたいだっておっしゃるんですの?」と彼の母親が言った。
「あるいはうちの子がおかまだと⋯⋯?」と彼の父親が言った。
 もちろん彼らはぼくと彼がキスしてることを知らなかった。
「とんでもない」とカークパトリック神父が言った。「おたくのお子さんは立派な男の子ですとも」

 生徒たちがざわざわと騒いだ。「嘘つけ」「あのおかま野郎」といった言葉が囁かれた。カークパトリック神父は窮地に立っていた。彼はもともと結城に女の役をやらせたいとは思ってなかった。ぼくと結城のことを知っていたからだ。でも、結城本人はそれほどいやがってなかった。彼はそのときずっとぼくに凭れかかっていたし、背中でこっそりぼくの手を握っていた。「おかま」という言葉が飛び出すたびに彼はくすくす笑った。
「馬鹿みたい」と彼は言った。「みんなぼくとやりたがってるくせに」
 結局、ジェーンの役はカークパトリック神父が自分でやることになった。もちろん彼は演技力に自信があったし、それまではいつもすべての役を自分一人でこなしていたのだ。
 しかし、話が進んでいくにつれて、生徒も父兄も物語の世界に引き込まれていき、一種独特の雰囲気が生まれていった。誰もが他人の台詞を聞きながらすべての役になりきっていたのだ。みんなテキストを見ながら、小声で地の文とすべての台詞を呟いていた。そして、途中でジェーンが登場したときは、誰もが彼女になりきっていた。

 彼女の最初の台詞をカークパトリック神父が言おうとしたとき、言葉を横取りしてしまったのはミチコだった。彼女はテキストを見もせずにジェーンを演じ始めた。ときどきテキストにない台詞を即興で口走ったりもしたが(「ああ、ハロルド、あなたのおちんちんをわたしの中にぶちこんでみないこと?」「ほほほ、あなただってとっくに勃起してるくせに」「わたくし、口の使い方だって自信ありますのよ」etc.⋯⋯)、演技力はなかなかのものだった。彼女の登場で、みんないよいよ物語の世界に没入していった。ミチコはそれまで ”A Tale of A Little Thief ” の原稿をぼくが一章ずつ仕上げるたびに読んでいた。
 ぼくはカークパトリック神父に原稿を渡す前に、何人かの人に読んでもらうことにしていたが、彼女もその一人だった。彼女は英語が得意だったし、ぼくの小説の熱心なファンだった。たぶん彼女はこの作品を一字一句暗記していたのだろう。

 物語が突然終わってしまったとき、ぼくらはしばらくぼんやり木立の中に突っ立っていた。誰も、何も言わなかった。物語が終わってしまったことが信じられなかったのだ。誰もがまだどこかに続きが隠されているんじゃないかと感じていた。もちろんそれは正しかった。ぼくはこの作品を書いている途中で、すでに書かれていた部分はまだ全体のおよそ三分の一にすぎなかった。書き上がったのはその年の七月十日、ぼくの十五歳の誕生日だ。ぼくらは物語の中断を受け入れることができないまま、お互いの顔を眺めたりため息をついたりしていた。鹿たちが木立の中で不思議そうにぼくらを見ていた。ヒッピーたちもヨガや瞑想やセックスをやめてぼくらを見つめていた。

「なかなかのもんだね」と鹿がぼくに目で話しかけた。
「ありがとう」とぼくは言った。
 一九六八年の日本にはまだ物語というものが生きていた。劇的な空間というやつも、それほど苦労しないで作り出すことができた。”A Tale of A Little Thief ” は十九世紀のイギリスを舞台にした時代遅れの物語だったが、それでもみんなで朗読するだけで、素晴らしい興奮と感動を生み出すことができたのだ。


 ミチコがシュテルマッハー校長と初めて会ったのはこの日だったかもしれない。
 ぼくらは放課後か休み時間に彼女と庭園の斜面を歩いていた。シュテルマッハー校長は谷を隔てた向こうの斜面にいて、例によって鉄砲を担いで鹿を探しまわっていた。ぼくらは校長が狩りをしてるとは知らずに、鹿たちに餌をやっていた。ミチコがバスケット一杯にクッキーを持ってきていたのだ。チョコレートが入ったのや、ドライフルーツを詰めたのや、パイみたいにさくさくしたのや、いろんな種類があって、どれもおいしそうなバターの匂いがした。
「焼きたてよ」と彼女は鹿にクッキーをやりながら言った。「わたしが自分で焼いたんだから」
 鹿たちはもそもそと気乗りのしない様子でクッキーを食べていた。ぼくらがクッキーを手にかざしても、寄ってこない鹿もいた。
「もうひとつだな」と鹿の目が言っていた。「おれたちはバターがあんまり好きじゃないんだ」
「悪かったね」とぼくは鹿に言った。
「もうちょっと鹿の身になって考えてくれよ」と鹿が言った。
「でも、もうちょっとうまそうに食べてくれないかな」とぼくは鹿に囁いた。「作った彼女がかわいそうだからさ」
「わかったよ」と鹿は言った。
 それで鹿たちはミチコの手から争ってクッキーを食べ始めた。
「ほら、見て」と彼女はうれしそうな声を上げた。「だんだんクッキーの味がわかってきたみたい」
 
 カークパトリック神父はすぐ近くでぼくらを眺めていたが、一緒にクッキーをやろうとはしなかった。彼はもともと鹿が好きじゃなかったのだ。
「やつらは臭うんだよ」と彼は言った。
 まるでアメリカ南部の無教養なじいさんが、「くろんぼは臭うんだよ」と言ってるみたいな口調だったので、ぼくはとてもいやな気がした。それはいつも公平で健康だった彼に似合わない台詞だった。今から考えると、彼はミチコと久しぶりに会ったことでちょっと動揺していたのかもしれない。もちろん彼は彼女に会う前から鹿が嫌いだったが、それはたぶん鹿たちがいつも夫婦か仔鹿を含んだ家族連れで行動していたからだろう。彼は独身者として夫婦や家族を恐れていた。

「おれは独身者機械じゃないからな」というのが彼の口癖だった。
〈独身者機械〉というのはどういう意味だろう? たぶん、神父にならなくても結婚できない性格の人間という意味だったのだろう。今ならそういうことは容易に推測できる。ぼくだってついこのあいだまで独身者機械だったのだし、一九八〇年代は一九六八年に比べて独身者機械がずいぶんありふれたものになっているからだ。しかし、十四歳のぼくが〈独身者機械〉という言葉から連想したのはただからだが機械でできている男だった。カークパトリック神父の首をつけた巨大なコンバインみたいな機械が、鹿を次々と巻き込んですり潰していく夢を見たりもした。

 突然ドスンという大きな音がして、ミチコの手からクッキーを食べていた鹿が倒れた。
 鹿の首に大きな穴があいて、血が噴水みたいに噴き出した。血は消防艇が式典のときにまく色付きの水みたいに大きく弧を描いて飛び、鹿が地面で痙攣するたびに方向を変えながら、ミチコとそのわきでクッキーをやっていた八重山を血まみれにした。
「やあ、どんなもんだい」と言いながら校長がやってきて、倒れた鹿を靴の底でぐいぐい踏みつけながら得意そうにまわりを見回した。
「危ないじゃない」とミチコが言った。
「ごめんごめん」と校長はドイツ訛りの日本語で言った。「でも、わたしは鉄砲の腕に自信があるんだよ」



 生き残った鹿たちは逃げてしまっていた。ぼくらは死んだ鹿をみんなで引きずって斜面を下り、谷川の砂地に出た。八重山とミチコは淵に飛び込んで、からだについた血を洗い流した。ぼくと結城とカークパトリック神父は校長が鹿の首を切り落とし、皮を剥ぐのを手伝った。ほんとはそんなことしたくなかったのだが、校長に青い目で見つめられて、「やあひとつよろしく」とドイツ訛りで言われると、なんとなく断れなかったのだ。

 いや、むしろ、ぼくらはいつのまにか進んで鹿を担いだり皮を剥いだりしていた。六十歳を超えた大男のシュテルマッハー神父には確かに威厳があったが、それ以上に人をいつのまにか動かしてしまう不思議な力を持っていたのだ。
「悪いね」と校長はからだを洗っているミチコをじろじろ見ながら言った。
「どういたしまして」と彼女はすました顔で言った。
 知らないうちに砂地にはアルパインと若いアーティストたちが来て、十六ミリのカメラを回して映画を撮影していた。ミチコはすっかり着ているものを脱いでいたが、みんなに見られても、フィルムに撮られても、特に気にしている様子はなかった。
「セクシーだね」とシュテルマッハー校長は彼女に言った。
「なかなかでしょう?」ミチコはそう言って笑いながらポーズをとって見せた。
「馬鹿」と淵の奥のほうで八重山が言った。
 彼は服を着たままその辺を泳ぎ回っていた。流れが小さな滝になってるところに頭を突っ込むと、血まみれになっていた顔と頭がすっかりきれいになった。しかし頭の傷だけは充血してピンク色になっていた。それはピアノに熱中しているときの色だった。

 もう一度ドスンと大きな音がして、ミチコのそばの水が大きくしぶきを上げた。
「おっといけない」校長がそう言って鉄砲を垂直に立てた。彼がうっかり銃の引き金に指をかけてしまったのだ。「もう一発弾が残ってたんだっけ」
「気をつけてよ」とミチコが言った。
 水から上がってきた彼女はがたがた震えていた。鉄砲で撃たれたのが恐かったのだろう。それに水も冷たかった。彼女は震えながら浅瀬で服を一枚ずつ洗っては絞った。化粧はすっかり落ちてしまったが、素顔の彼女はとてもきれいだった。
 八重山はなかなか上がってこなかった。水に冷やされて、頭の傷もすっかり白くなっていたが、それでも彼はバシャバシャ水しぶきを上げながら泳ぎ回っていた。ときどきこっちを見て笑ったが、顔は青白くて、唇が紫色になっていた。

「早く上がってこいよ」とぼくは声をかけた。
 彼はもう一度強ばった顔で笑うと、流れに乗って滑るように川を下って行ってしまった。まるで放流された養殖魚みたいだった。
「あの子は勃起してるとこを見られるのがいやなのよ」とミチコがぼくに言った。
「どうして勃起するのさ?」とぼくはきいた。
「わたしを見たからよ」と彼女は答えた。

 それから彼女はテープレコーダーにつながったマイクを持ち、カメラに向かって、どうして彼女と弟がセックスしなければならないかについて長々と喋った。そのシーンは完成した映画『ビースト』でもかなり長く使われている。しかし、実際にはその十倍以上喋り続けたのだ。濡れた服や下着がどんどん乾いてカサカサになっていくので、フィルムがかなり切り刻まれていることがわかる。

 真夏みたいな強い日差しのせいで少し白っぽくなった画面の中に、裸の彼女がいる。大きな石の上に脚を組んで座り、マイクを舐めるようにぴったり唇をつけながら、大声で怒鳴っている。雑音がひどいが、それはたぶん川の音だろう。彼女のまわりにはぼくらも写っている。そのときは変に殺気立った気分だったような気がするのだが、カメラに写ったぼくは絶えずニヤニヤ笑っている。結城と手をつないで、髪の毛を互いにこすり合わせたりしてふざけさえしている。

 ミチコは画面にアルパインと校長を引っ張りだし、二人を紹介した。彼女は鉄砲で撃たれたショックから立直っているように見える。自分を二度撃ちそこねたシュテルマッハー校長に対して、とても愛想のいい口をきいている。まるで彼とこうしているのがうれしいみたいだ。
「紹介します」と彼女はカメラに向かって言い、それから校長に向かって「アルパインよ」と言った。
「初めまして」とアルパインは校長と握手しながら言った。彼はぼくと初めて会ったときみたいに変な態度は取らなかった。どちらかというとへりくだった感じの笑いを顔に浮かべていた。
「よろしく」と校長は言った。
「誰だっけ?」とミチコがまわりを見回しながら言った。
「校長だよ」と画面の外から男の声が叫んだ。たぶんカークパトリック神父だろう。
「あら、わからなかったわ」と彼女は照れ笑いしながら言った。
「よろしく」校長は彼女とも握手した。

 アルパインは校長と気が合うようだった。すぐに彼はミチコと一緒にしょっちゅう総愛学院に現れて、校長と話し込んだり、コッホ神父も加えて神父館で食事をしたりするようになった。アルパインはきれいなドイツ語を話した。ミチコも少しはドイツ語ができたので、彼らは英語とドイツ語をごちゃまぜにして話した。特にぼくらがそばにいるときは、ドイツ語で喋るようにしていた。
 なぜだろう?

 アルパインはコッホ神父にカーネル・サンダース人形の完璧なコピーを何体かプレゼントした。その人形が神父にあまりにもよく似ていたからだ。コッホ神父はそれを校庭のあちこちに立てた。ぼくらはどこにいてもその人形のどれかを見ることができた。
「教室では鹿が、校庭ではコッホ神父がいつも子供たちを見張っているというわけだ」といった意味のことを校長がアルパインとミチコに言った。

 まもなくぼくらのあいだで、そのカーネル・サンダース人形を殴ったり蹴とばしたりするのが流行りだしたが、何回かに一回は本物のコッホ神父を殴ってしまうことがあった。
 それほどカーネル・サンダース人形は彼にそっくりだったのだ。
「ワウップ」と彼は殴られるたびに言った。                    

 ぼくらは人形ではなく本物を殴ってしまったとわかると、彼の大きな腹にもう二三発パンチをお見舞いして完全に気絶させてしまった。そうしておけば訓育生が駆け付けて、現行犯でぼくらを捕まえるといった事態は避けられるし、うまくいけばコッホ神父が殴った生徒の顔を忘れてくれるかもしれないと思ったからだ。

「実に完璧な芸術ですな」といった意味のことをコッホ神父はドイツ語でアルパインとミチコに言った。「お陰でわたしは何度殴られたかわからない」
「わたしも日本のエンペラーの人形を発表したお陰で大勢の日本の若者に殴られましたがね」といった意味のことをアルパインはドイツ語でコッホ神父に言った。「芸術家はいつもテロに見舞われる危険を犯しているのですよ」

 コッホ神父が美少年を釣るためにいつも保健室に用意しているアイスクリームや生クリーム、それにフルーツやチョコレート・ソースを加えて作る色とりどりのパフェは、アルパインを感動させていた。彼はコッホ神父のパフェを完璧な芸術として認めていた。そしてパフェがただ鑑賞され、食べられるだけでなく、美少年を誘惑する力を秘めているということが彼の感動を一層高めていた。
「まったく」と彼はドイツ語で言った。「完璧な芸術ですな」

 シュテルマッハー校長は、アルパインとミチコがやってくると、いつも鉄砲で歓迎した。 
 ドスン。
「やあ、いらっしゃい」というわけだ。
 校長室からは摩耶山と庭園の間の谷間がよく見渡せた。アルパインとミチコはいつも何人かの若いアーティストたちを連れて谷を下り、庭園の斜面を上ってきた。
 ドスン。
 彼が鉄砲をぶっぱなすたびに、鹿が一頭ずつ倒れた。
 鹿のはく製はもう学校中に溢れていた。廊下の半分は鹿のはく製に占領されて、休み時間には満足に歩けなくなった。それでぼくらはこっそり少しずつはく製を地下道に運び込んだ。冷凍鹿のいる地下広場ははく製の貯蔵庫になった。アルパインはそれを見てまた感動した。
「本物そっくりじゃないか」

 アルパインとミチコの一行が校庭に現れても、校長は鉄砲をぶっぱなした。
 ドスン。
「ようこそ」
 ドスン。
「やあ、元気かい?」
 アルパインはそのたびに首を横に振った。あきれたときに白人がよくやるしぐさだ。ミチコは怯えて若いアーティストにしがみついた。

「いつも鉄砲で撃たれて恐くない?」とぼくは彼女にきいたことがある。どうして鉄砲で撃たれるのがわかってるのにわざわざやってくるのか不思議だったのだ。
「もちろん恐いわよ」と彼女は答えた。
「じゃあ、どうしてやってくるの?」
 彼女はしばらく考え込んでいた。そんなことはそれまで考えてみもしなかったという感じだった。それから彼女はぼくを見つめながら答えた。
「そうねえ、よくわからないわ」
「でも、なんとかしなきゃいけないと思うよ」
「考えてみるわ」

 あるとき彼女は突然校長室に現れてシュテルマッハー校長を驚かせた。いつも谷間を見下ろす崖の上で彼女がやってくるのを見ながら鉄砲を撃つのに慣れていたシュテルマッハー校長は、不意を突かれて慌てたのか、天井に向けて鉄砲をぶっぱなしてしまい、大きな穴をあけてしまった。
 ドスン。
「一体どこから来たんだ?」と彼はドイツ語で彼女にきいた。
「空からよ」と彼女はドイツ語で答えた。
「地下道があるんだ」と横からアルパインが言った。
 校長はしばらく彼らを見つめたまま黙っていたが、また不意に鉄砲を撃った。
 ドスン。
 それから彼は「おや、そうかい」と言った。
 校長室に掛かっていた鹿の首に大きな穴があいた。
「お願いだからわたしたちを撃たないで」と彼女は震えながら校長に言った。
「大丈夫さ」と校長は言った。「わたしは鉄砲の名人なんだ」
 それから彼はまた銃に弾を込めた。
 ドスン。

「鉄砲で撃たれて恐くない?」とぼくは彼女にきいた。
「そりゃ、恐いわ」と彼女。
「撃たれるってどんな感じ?」
「そうね、スリルのあるセックスをしてるときみたいな感じよ」
「ふうん」
 ぼくはその頃まだセックスをしたことがなかったから、彼女の説明がよくわからなかった。
「校長って、いやなやつじゃない?」
「そうねえ」と彼女は言った。「でも、神父ってセックスできないんだから、鉄砲を撃つくらいやってもいいんじゃないかな」

               ★

 カークパトリック神父は庭園を歩き回りながら授業をするようになった。ただ ”A Tale of A Little Thief ”を暗唱しながら五十分間ひたすら歩き続けるのだ。文法の説明も、例文の紹介も、練習問題の作文も一切放棄されてしまった。ぼくがその日に持ってきたこの小説の新しい一章を朗読しながら歩き、それが終わると前の章に逆のぼって暗唱しながら歩いた。授業参観のときみたいにぼくら生徒に役を割り振って、台詞を言わせることもあった。その頃には、ほとんどの生徒がこの小説を暗記していて、誰かが台詞につまると別のやつがすぐに入れ替わってその役を演じることができた。みんなすっかりこの朗読の輪唱、山を歩きながらの演劇が気に入っていて、誰も役をいやがるやつはいなかった。

 山で出くわすヒッピーたちもぞろぞろついてきて、この朗読・演劇に加わった。ヒッピーの女の子がジェーンの役をやると、華やかさが加わって授業が一層楽しくなった。
 ときにはミチコもぼくらについてきた。彼女もぼくら以上に山歩きが大好きだったからだ。いつもなら庭園で授業をやると何人もこっそり逃げ出すやつがいるのに、彼女が加わったときはなぜか人数が増えてしまった。ほかのクラスや学年からも生徒がやってくるからだ。相変わらずミニスカートをはいていて、本物のモデルみたいにきれいだったから、生徒たちは彼女を歓迎した。八重山とカークパトリック神父を除いては⋯⋯。

「どうしておれにつきまとうんだ?」と神父は彼女に言った。
「わたしは授業に参加してるのよ」と彼女は言った。「あなたにつきまとってるんじゃないわ」
「授業参観は終わったぜ」
 彼はまたとっとと歩き出した。彼の歩くスピードはどんどん早くなっていった。最後にはいつもほとんど走っていた。
「無理しちゃって」と彼女はぼくと結城に聞こえるように言った。
「馬鹿」と横で八重山が言った。「とっとと消えろよ」
「ほんとはうれしいくせに」と彼女はまたぼくと結城に言った。
 ミチコが現れると、八重山はいつも途中で姿を消してしまった。照れ臭かったのだろう。しばらくすると山のどこかから彼のピアノの音が聞こえてきた。たぶん冷凍鹿の洞窟で弾いていたのだろう。ほんのかすかだが、氷の木琴を叩いてるみたいな音だった。

 走り出したカークパトリック神父の姿もぼくらの視界から消えてしまうことがあった。笹をかき分けるガサガサという音に掻き消されながら、彼の男性的な太い声が山の斜面にこだまして聞こえてきた。それは相変わらずぼくの英文小説の朗読だった。彼は地の文を怒鳴るように暗唱していた。そしてぼくらは各登場人物の台詞を彼の消えた方向に怒鳴り返した。
 それがぼくらの授業だった。

 カークパトリック神父の声が消えてしまうこともときにはあった。残されたぼくらは途方に暮れて闇雲に斜面を歩き回った。山の上のほうで熊笹のガサガサいう音に混じって風の音が舞っていた。それはときどき人間の声みたいに聞こえた。カークパトリック神父の断末魔の叫びみたいに⋯⋯。
 それがぼくらの授業だった。

 カークパトリック神父がいなくなると、ぼくらは自分たちでいろんなことを話し合った。一九六八年の中学生にとって一番知りたいのは自分が何者なのかということだった。ぼくらは自分が何者なのかということについて何時間も喋り続けた。授業が終わり、休み時間がきて、また次の授業が始まっても、ぼくらはずっと自分が何者なのかということについて話し合っていた。結論はなかなか出なかった。いや、結論は一度も出たことがなかった。ぼくらは自分たちに結論が出せるとは思ってなかった。それでも自分が何者かということについて考えるのは楽しかった。ほかの連中の考えを聞くのも楽しかった。一九六八年の中学生にとって自分が何者なのかを知ることはとても大切なことだった。ぼくらは大学生になることも、大人になって金を稼ぐことも考えていなかった。勉強も適当にやってはいたが、自分が何者なのかを知ることのほうがずっと大切だということを知っていた。

「ぼくは人間の屑なんだ」と結城が言った。
「ぼくは小説家の卵だけど、女の子とセックスするのが恐いんだ」とぼくは言った。
「わたしは⋯⋯そうねえ⋯⋯グエンドリンかしら?」とミチコが言った。
「グエンドリン⋯⋯」とぼくらは言った。
 ぼくらは誰もジョン・ウイリーのボンデージ・コミック『スウィート・グエンドリン』を知らなかった。大体、一九六八年にはボンデージなんて、日本ではまるで知られていなかった。ジョン・ウイリーは一八九七年生まれのイギリス人で、アメリカに渡って、文字通り風変わりな雑誌『ビザール』を発行した。『ビザール』(フランス語で『変てこな』という意味)は通信販売で読者に届けられるいかがわしい雑誌で、中にはウイリー自身の手になる写真やイラストが載っていた。どれもハイヒールをはいた美女が縛られてるといった類のものだ。『スウィート・グエンドリン』シリーズは、ウイリーがこの雑誌に連載した漫画だ。グエンドリンという名前の可愛い女の子が悪党と戦う物語なのだが、何かというとグエンドリンは捕まって縛られてしまう。まるでひどい目に遭うために戦ってるような感じなのだ。
 そんな話をミチコはぼくらにしてくれた。
 なぜだろう?

 ポロポロポロンと洞窟からピアノの音が聞こえてきた。それは八重山が自分について語っているのだった。
「自分をわざと変な風に言うのはよくないよ」とぼくはミチコに言った。
「そうね」と彼女は言った。「わたしは弟とやりたいわ。カークパトリックともやりたいわ。もちろん校長とも。それだけよ」
 ポロポロポロポロポロンと洞窟の中の八重山が言った。
「いやだってさ」と結城が言った。
「違うよ。嘘つきって言ったんだ」とぼく。
 ポロポロポロポロポロポロポロポロポロポロポロンと八重山が言った。
「きみは禁じられてることをやりたいことと混同してるんだってさ」とぼく。
「あらそう」とミチコが言った。
 彼女は腕を組み、首をちょっと傾げて考え込んだ。二十歳の彼女も自分が何者なのかについて真剣に考えていたのだ。
 それがぼくらの授業だった。

「熊だ」と結城が木の幹を指さして言った。
 細い杉の幹が真ん中からきれいに折れていた。確かにそれは熊が腕の一振りでなぎ倒したみたいに見えた。鋭い爪で樹皮を削った跡もあった。山の上のほうで熊笹がガサガサガサガサガサと言っていた。
「先生はどうしたんだろう?」と誰かが言った。
 山の上の熊笹がガサガサガサガサガサと言い、木が折れるバキバキバキという音も聞こえてきた。ぼくらは急いで斜面を上った。もちろんカークパトリック神父を助けるためだ。非力なぼくらに熊をやっつける力はなかったが、そんなことは考えつかなかった。もちろん誰も逃げ出したりはしなかった。一九六八年の中学生は合理的にものを考えるのが苦手だった。誰かが困っていたら迷わず危険を冒すのが当時のぼくらの習性だった。洞窟の中の八重山さえも外に飛び出してきて一緒に斜面を上り出した。
「ポロポロポロポロポロポロポロポロポロポロポロン」と彼は口で言った。頭にはまだピ
アノ演奏の余韻が残っていたのだ。
 彼はこのとき一体なんて言ったんだろう?
 忘れてしまった。

 山のてっぺんにはカークパトリック神父がいた。彼は一人で熊笹を踏み潰しながら歩き回っていた。ときどきその太い腕で細い杉をなぎ倒した。杉はすごく簡単に真ん中から折れた。バキバキバキバキ⋯⋯。
 熊はいなかった。ぼくらが熊だと思ったのはカークパトリック神父だったのだ。彼はぼくらのほうを振り向いて、
「ガオー」と言った。
「やれやれ」とぼくらは言った。

 その日からカークパトリック神父は、毎日庭園や谷間の斜面で木を折ったり倒したりしだした。当時の六甲山には木が豊富に生えていたが、ぼくらはなんとなく不安だった。すぐに山の木が残らず倒されてしまうような気がした。山の中で遊ぶことに慣れていたぼくらは、自然が破壊されることに敏感だったのだ。それでホームルームのときに、〈山の木をいかに守るか〉という議題で話し合い、担任のカークパトリック神父に、無闇と木を折らないように要求した。
「わかったよ、畜生」と神父は言った。
 それがぼくらの授業だった。

 カークパトリック神父は木を折ることをあっさりやめてしまった。少なくとも庭園や学校のまわりでは⋯⋯。というのは、ぼくと八重山と結城が裏山の一番高い尾根を越えて、ミナミさんが消えていった裏六甲の斜面を探検していると、カークパトリック神父がこっそり折ったらしい杉の無残な残骸があちこちに見つかったからだ。彼は夜中にこっそり神父館を抜け出し、そこで木を折っては明け方戻ってくるらしかった。ぼくらはノイマン屋敷に泊まって神父館を見張っていたが、たしかに夜中になるとガサガサガサガサガサという熊が歩くような音が聞こえてきたのだ。

 ミチコは相変わらず毎日のように谷を越えて総愛学院にやってきた。そのたびにシュテルマッハー校長は銃をぶっぱなした。ぼくらはホームルームで〈山の鹿を守る決議〉というのを採択し、校長に山で銃を撃たないよう要求した。
「わかったよ、畜生」と校長は言った。
 しかし、校長は銃を撃つのをやめなかった。
「いや、カラスを撃ったんだよ」とか、「ちょっと手が滑ってね」とか、そのつどいろんな言い訳をしながら、彼は銃を撃ち続けた。
 ミチコは相変わらず撃たれるとひどく怯えたが、校長の狩りに文句を言うどころか、ぼくらの〈山の鹿を守る決議〉を非難しさえした。
「わたしは彼に撃たれるために来てるのよ」と彼女は言った。
「どうして?」とぼくはきいた。
「あなたも大人になればわかるわ」と彼女は言った。
 ぼくらはホームルームでそのことについて何度も話し合った。どんなに話し合っても結論は出なかった。
 ぼくにはどうしても彼女の気持がわからなかった。どうしてわざわざ銃で撃たれるためにやってくるのか⋯⋯。
 誰もわかるやつはいなかった。
 それがぼくらの授業だった。
                                        

   3  熱 機 械 工 場


 ぼくは七月十日に " A Tale of A Little Thief " を書き上げた。その日はぼくの十五歳の誕生日だった。ぼくはそのことを誰かに言いたくてたまらなかった。その日を境に何かが決定的に変わったような気がしたからだ。何が変わったのかはわからない。小説を書き上げたぼくは大きく息をして、自分の腕や脚を眺めた。何も変わったところはなかった。

 自分の中の何が変わったのか知りたくて、ぼくはいろんな人に話を聞こうとした。
「小説を書き上げたんだ」とぼくは父に言った。
「そうかい」と父は言った。「おめでとう」
「英語で小説を書いたんだ」とぼくは母に言った。
「偉いわね」と母は言った。「でも、そんなことはとっくに知ってたわ」
「そうか」とぼくは言った。

 我が家では春から庭にテントを張って、家族でキャンプ生活をしていた。聖書女学院の桃畑にはヒッピーたちがたくさんテントを張っていた。聖書女学院の運動部の生徒たちもキャンプを張っていた。リッキーもバスケットボール部の女の子たちももういなかったが、マリコはしょっちゅうぼくの家に遊びに来て、庭の白いテーブルで " A Tale of A Little Thief " の清書を手伝っていた。
「終わっちゃったわね」と彼女は言った。
「そうだね」とぼくは言った。

 ぼくらは強い日差しの下で庭の芝生に腹ばいに寝て、日光浴をしていた。彼女はブルーにピンクの縁取りをしたビキニの水着を着ていた。白い大きなおっぱいが芝生の上で押し潰されているのが見えた。髪の上にルリハンミョウがとまっていた。メキシコオパールみたいにオレンジや黄色や緑色に輝くこの昆虫は、地面の上をヘリコプターみたいに低空飛行しては人のからだに止まり、肌についた汗の塩をなめていく。
 一九六八年の七月十日にマリコの髪にとまったそのルリハンミョウは、彼女の汗をなめながらゆっくりと背中を下り、お尻から脚へと移っていったと思うとまた背中へのぼってきた。
「お願いだからどこにも行かないでくれよ」とぼくは彼女に言った。
「どこにも行かないわ」と彼女は言った。

 そのときぼくは結城を愛していて、彼女は聖書女学院の先輩である一の宮ミチコを愛していたが、一の宮はもう姿を消していた。マリコは失恋の悲しみの中にいたのだ。それなのに総愛学院の男の子を愛していたぼくは、彼女を慰めもしなかった。彼女に英文小説の清書を手伝ってもらい、綴りの間違いを教えてもらい、家に一人でいるのは寂しいからというだけの理由で彼女にそばにいさせようとしていた。そのくせ結城とノイマン屋敷に遊びに行ったりするときは、彼女のことなんて思い出しもしないのだ。ぼくはとてもいやな子供だった。

「ああ、なんていい気持ちなんだろう」とぼくは言った。
 ルリハンミョウがマリコの背中の汗を吸っていた。彼女はちょっと頭を上げてまぶしそうに目を細めながら、くすぐったそうに笑った。それが彼女の最後の微笑だった。すぐに夏休みがやってきて、彼女は遊びに来なくなった。
 ぼくは彼女のことを忘れてしまった。

              ★

 その年の夏はアフリカの夏に似ていた。朝から黄色い太陽が地面をレンガみたいに焼き、水分を吸い尽くした。蒸気は空に上ってソフトクリームみたいな雲をたくさん作った。
 午後には空気の中の蒸気は飽和状態になり、手を軽く振るだけで水滴が飛び散るほどだった。そして夕方には雷と一緒に激しいスコールがきた。
 時間はほとんど止まってしまった。強すぎる太陽の光の中で、街や人や街路樹は遠い昔の夢の中に浮かんでいるように見えた。まぶしい太陽のせいで影はあまりにも黒く、真昼なのにそこだけ夜がひそんでいた。日焼けした人間が日陰にうずくまっていると、暗闇にひそむ黒豹みたいに眼だけが光って見えた。
 その年の春は夢のような春だったが、その年の夏は遠い過去の夢のような夏だった。
 夏休み⋯⋯。

 ぼくは毎日ノイマン屋敷に遊びに行った。摩耶山の長い坂を上ると、暑さで頭の中が沸騰して、目の前が黄色くなった。汗で濡れた服がからだにぴったり貼りついて、皮膚の毛穴を窒息させた。汗はジーパンの裾からおしっこみたいに垂れて、坂の石畳に点々と黒い染みを作った。

 ミチコは庭のプールで遊ぶのが好きだった。いつも若いアーティストたちと裸で泳いだり、プールサイドでマリワナを吸ったりしていた。お尻に訳のわからない薬を注射し合ってるときもあった。彼らはとにかく薬が好きだった。ハイになると大きな芝刈り機に乗って屋敷のまわりをドライブしたり、絵の具をお互いのからだに塗りっこしたり、でたらめに楽器を弾いたり、潜水ごっこをしたり、とにかくありとあらゆることをした。もちろんセックスも⋯⋯。

 ミチコはあらゆる遊びの先頭に立っていた。集団で薬をやるときは、だれか強い人間がみんなを引っ張らないと、面白い体験はできない。彼女はいつも牽引車の役を演じていた。どれだけ薬をやっても平気だったし、みんなを楽しませる天性の才能があったからだ。
 でも、彼女自身は完全に飛んでしまうことはなかったような気がする。どんな狂乱の最中でも、ぼくが現れると彼女は急に普通に戻って、いつものようにきれいな笑顔で「ハイ」とか「チャオ」とかいうのだ。そしてぼくには絶対に薬をやらせなかった。保護者としての責任を感じていたのだろうか?

 ノイマン屋敷に現れたときのぼくはいつも汗でずぶ濡れだったから、若いアーティストたちは寄ってたかってぼくの服を脱がし、プールに引きずり込んだ。女の子たちはぼくの服を植え込みの上に広げて干してくれた。彼らは親愛の情を込めてぼくの首筋にキスすることはあったが、それ以上のことはしなかった。ミチコが言い聞かせていたからだ。それにぼくはいつも結城と一緒だった。彼らはぼくらを一応カップルと見做していた。
「いい気持ちだね」と結城が言った。
「ああ」とぼくは言った。

 ぼくらは水の中にいた。眼の下には神戸の街が広がっていた。赤茶けた製鉄所や工場や倉庫、繁華街の錆びた屋根がチョコレート色に沈んでいた。結城はニコニコ笑いながらときどきぼくの顔をのぞき込んだ。酔っ払った女の子みたいな眼をしていた。
「ぼくとやりたい?」と結城がきいた。
「ああ」とぼくは言った。
「どうしてやろうとしないの?」
「わからない」
 ぼくは結城とキスしかしていなかった。彼と口もきけなかった頃は、彼とやることばかり考えていたのに、キスするようになってからはそれ以上のことはする気がしなかった。
 なぜだろう?

「夢だからさ」と八重山は言った。「あいつはきみにとって夢なんだよ」
「夢じゃないよ」とぼくは言った。「実物の彼が好きなんだ」
「きみは夢から覚めたという夢を見てるんだ」と八重山は言った。「夢から覚めるときは全ての夢から覚めなきゃいけないんだよ」
「そうかな」

「ぼくはまだ完全にきみのものじゃないんだ」と結城が言った。
「そうだね」とぼくは言った。
「きみはぼくを完全に自分のものにしたいと思わない?」
「思うよ」
「ぼくを支配したいと思わない?」
「思わないね」とぼくは言った。「ぼくは自由を探してるんだ」
「自由になるってことは、人を支配するってことだよ」
「違うと思うな」とぼくは言った。「自由になるってことは人を解放するってことだよ」

「わたしと一緒に自分を解放してみない?」とミチコが言った。
「薬ならごめんだよ」とぼくは言った。
「薬じゃないわよ」と彼女は言った。「薬で自由は手に入らないわ」
 ぼくらはプールの中にいた。ミチコをはさんで右側にぼく、左側に結城がいた。彼女の長い腕は結城の首に巻き付いていた。
「まず手始めにこの子を解放してみようかしら」と彼女は言った。「いい?」
「何が?」とぼくはきいた。
「とぼけちゃって」と彼女は言った。

「ぼくは誰にも何も禁止しないんだ」とぼくは言った。「ぼくは誰も束縛しないし、支配
もしないんだ」
 結城はすでに彼女の腕の中で眼をとろんとさせていた。顔が真っ赤になっていた。もちろんミチコが彼に薬をやったのだ。
「眠い」と結城が言った。
「昼寝をしなさい」とミチコが言った。「ベッドを貸してあげるわ」
 アーティストたちが彼を担いで家の中に入っていき、彼女がゆっくりとその後に続いた。彼女は部屋の中に消える瞬間、振り向いてぼくに手を振った。笑顔がすごくきれいだった。そしてレンガ敷きのテラスからフランス窓を大きく開いた居間の中に消えた。太陽の光があんまり強いので、部屋の中は真っ暗な闇だった。

 アルパインは忠実な二三人のアシスタントと仕事を続けていた。大きな薄い布を部屋一
杯に張って、巨大なシュテルマッハー校長の顔を印刷してるところだった。
「総愛学院からの注文でね」とアルパインは言った。「けっこういいギャラをくれるらしいんだ」
「勤勉だね」とぼくは言った。「この暑いのに」
 ぼくはそれまでなんとなくアルパインのことを怠け者だと思っていたのだ。あるいは神経過敏症のせいでいつもためらったり茫然自失しているタイプの芸術家だと⋯⋯。しかしこの頃の彼はほとんど休みなく何かを作っていた。

「ぼくは手を動かしてないと考えられないんだ」とアルパインは言った。「それにものを
作るのはなかなか楽しいしね」
「そうか」とぼくは言った。

 一九六八年のアフリカの夏はとても作業には向いていなかった。ただじっとしていても頭がボーッとするようなひどい暑さだった。特に " A Tale of A Little Thief " を書き上げたばかりのぼくはすごく疲れていて、何もする気がしなかった。少なくともこの夏が終わらなければ次の作品のことは考えられないと思っていた。だからアルパインの予想外の勤勉さはぼくにとってけっこうショックだった。

 アフリカの夏の昼下がりに、彼は黒いニットのセーターに黒い革のズボンをはいていた。アシスタントたちは全身から汗を滴らせていたが、彼は全く汗をかいていなかった。暑そうな表情さえ浮かべてなかった。彼のプラチナ色の髪が氷でできてるみたいに見えた。
「ぼくは体温が低いんだ」と彼は言った。「触ってごらん」
 ぼくは彼の皺だらけの腕に指先を触れてみた。それは肉屋の冷蔵庫に保存されている羊の腿肉みたいに冷たかった。

「アーティストの条件は勤勉さよ」とミチコが柄にもないことを言ったのは、そのアフリカの夏の初めだった。
 ぼくらはノイマン屋敷のまわりを埋め尽くしている背の高いヒマワリの中を散歩していた。ぼくと彼女はよくヒマワリの中を散歩した。歩きながらいろんな話をした。結城が一緒のときもあったが、彼はたいてい家の中で昼寝をしていた。ヒマワリの中にいると、ぼくとミチコは二人きりになることができた。

 夏みたいな春の終わり、山を覆っていた菜の花が完全に枯れてしまった頃、彼女はヒマワリの種を大量に仕入れて屋敷のまわりに蒔いたのだ。お陰でぼくらは一九六八年の夏も、春と同じ鮮やかな黄色の中を散歩することができた。ヒマワリの黄色は菜の花の黄色より濃く深く激しかったが、アフリカの夏の太陽はそれ以上に黄色く、光はとても強かった。
 ぼくらは果てしない黄色の海の中を散歩することになった。

「ヒマワリはいいのよ」とミチコはやや唐突に言った。
「そうだね」とぼくは意味もわからずに答えた。暑さで頭がぼんやりしていたのだ。
「日蔭を作ってくれるし、夏の終わりには種が取れるわ」と彼女は言った。「種はおいしいのよ。油もとれるし⋯⋯」

 ヒマワリはぼくらの背より高かったので、ぼくらはちょっとした木立の中を散歩してるような感じだった。ヒマワリの葉の緑と花の黄色以外は空の青さしか見えなかった。ヒマワリの林の中には小道が通っていた。ときどき若いアーティストたちが散歩してるのに出くわすこともあった。彼らはたいてい裸だった。
 カップルは手をつないでいた。あるいはからだをぴったりくっけて、手をお互いの腰に回していた。女の子はたいていクローバーか何かで作った冠かネックレスをつけていた。彼らは山の涼しい木陰にセックスしに行くところか、セックスを終わって帰ってくるところだった。
「やあい、両刀使い」と彼らはぼくに言った。つまり結城とミチコの両方を相手にしてる
という意味だ。
「やれやれ」とぼくは言った。


 ぼくらはヒマワリの中でいろんなことを話し合った。今世界で何が起こっているのかについて、われわれは今何をすべきかについて⋯⋯。
 その頃は誰もが絶えずそんな話をしていたのだ。
 ミチコは世界中で人間が解放されつつあるという意見だった。社会の矛盾やそれを作り出している固定観念が次第に明らかになり、それにつれて人間は完全な自由を獲得しようとしていると彼女は言った。その頃は若い連中の多くがそんなことを考えていたのだ。

「だからわたしは弟とやるべきなのよ」と彼女は熱を込めていった。
 彼女はまだ八重山とセックスできないでいたのだ。
「そうかなあ」とぼくは言った。

 彼女はぼくにすぐ新しい小説を書くべきだとも言った。芸術家は絶えず創造していなければならないというのが彼女の意見だった。
「人間は創造してるときだけ芸術家になるのよ」と彼女は言った。「創造するのをやめて一度普通の人間に戻ったら、できた作品も死んでしまうのよ」
「そうかなあ」
「少なくとも自分のものじゃなくなってしまうのよ」

 そのときは彼女の言ってることがよくわからなかったが、創造し続けることが大切だということは感じていた。アルパインというお手本に刺激されていたからだ。ぼくはそれまでわりと古いタイプの詩人を理想としていた。霊感が訪れるまでいつまでも待っているような⋯⋯。しかし時代は変わっていた。十九世紀流のロマン主義はもう流行らなかった。
 ぼくもそのことは痛感していた。
「人間は機械なのよ」とミチコは言った。
「そうだね」とぼくは言った。

              ★

「完全な自由を発見したよ」と八重山が言った。
 アフリカの夏の初めだった。ぼくらは三の宮のはずれにある小さなジャズ喫茶にいた。彼はその夏ずっと、毎晩そこに出演していたのだ。
「ついにメロディの支配から抜け出したんだ」と彼は言った。「コードもスケールもヴォイシングも、何も気にせずに、完全に自由な音が出せるんだ」
「よかったね」とぼくは言った。
 その店には有名なジャズの演奏家たちの写真が飾られていた。ビル・エヴァンスを除いて全員が黒人だった。写真も板壁もコーヒーの湯気と煙草の煙で焦げ茶色になっていた。
「毎日ここで六時間演奏してるんだ」と八重山が言った。「最初は三十分演奏して三十分休んでたんだけど、そのうち四十分演奏して二十分休むようになって、最近ではほとんど休まなくなったよ。休むと手が錆びついてくるような気がするんだ」
 話している間も彼の指は腰のあたりで目まぐるしく動いていた。空想上の鍵盤を叩いていたのだ。頭の傷跡はすっかりピンク色に充血していた。それは血を一杯吸った蛭みたいに丸々と太っていた。毛が生えていた部分は段々領土を冒されて、今ではほとんど見えなくなっていた。だから彼の頭の傷は傷跡というより、恐ろしく膨張した脳みそみたいに見えた。

 ぼくはベーシストとドラマーに紹介された。どっちもぼくらの倍くらいの背丈がある黒人だった。ベーシストはゲイリー・ピーコックと名乗った。
「聞いたことあるだろ?」とゲイリー・ピーコックは言った。
「ジャズのレコードは持ってないんだ」とぼくは言った。
「そうか」とゲイリー・ピーコックは残念そうに言った。
 ゲイリー・ピーコックは英語しか喋れなかったし、ぼくもたどたどしい英語で話した。今から考えると、そのとき彼はゲイリー・ピーコックという名前を聞いたことがあるかと言ったのだが、ぼくはレコードを聴いたことがあるかと言ってるんじゃないかと思ったのだ。ぼくはそのときゲイリー・ピーコックの名前さえ知らなかった。知ったのはかなりたってから、彼がキース・ジャレットとスタンダード・ナンバーを演奏するようになった頃だ。ドラムのジャック・ディジョネットを加えて彼らは今、《世界最強のピアノ・トリオ》と呼ばれている。
 八〇年代になって、ゲイリー・ピーコックが何者かわかったとき、ぼくはびっくりしてレコードを買いに行き、彼らが来日したときはコンサートに出掛けて花束を楽屋に届けた。しかしステージで見たゲイリー・ピーコックは何だかちょっと変だった。二十年前とすっかり顔が変わっていた。というより一九六八年のゲイリー・ピーコックは一九八八年のゲイリー・ピーコックとは別人じゃないかという気がした。

 ゲイリー・ピーコックの経歴を見ると、確かに六〇年代の終わりから七〇年代の始めにかけて京都に住んでいる。禅を研究するためだ。当時はそういう外国人がたくさんいたのだ。しかし、彼が神戸の小さなジャズ喫茶に出演していたという記録はどこにもない。八重山のバックをつとめていたゲイリー・ピーコックはもしかしたら偽者で、冗談が好きな無名のジャズマンだったのかもしれない。なぜなら彼はときどきポール・チェンバースと名乗ることもあったからだ。エディ・ゴメスと名乗ったり、スコット・ラファロと名乗ることさえあった。彼にとっては名前を名乗ること自体が一種のジョークだった。
 たぶん彼は一九六八年の夏、三の宮のジャズ喫茶で初めてぼくと会ったとき、ぼくを笑わせるためにゲイリー・ピーコックと名乗ったのだろう。ところがぼくが本物のゲイリー・ピーコックの顔どころか名前さえ知らなかったので、その冗談は宙に浮いてしまったのだ。ドラマーもやはり大柄の黒人だったが、彼はエルビン・ジョーンズと名乗っていた。
 これもぼくは後から知ったのだが、エルビン・ジョーンズというのはジョン・コルトレーンとコンボを組んでいたドラム奏者の名前だ。

「ついにぼくはメロディからもコードからも自由になったんだ」と八重山はうれしそうに言った。「トニックやドミナントやサブドミナントからも、ロー・インターヴァル・リミットからもフレージングからも⋯⋯」
 そして彼はゲイリー・ピーコックとエルビン・ジョーンズに合図して演奏を始めた。
 その演奏はぼくを戸惑わせた。それは演奏というより雑音の寄せ集めみたいに聴こえたからだ。
 ブーブー、ヒーヒー、ガンガン、ゴーゴー⋯⋯。
 その雑音は三十分以上も続いた。
「それ何て曲?」とぼくは演奏が終わるのを待って彼にきいた。
「『ヒマラヤ』っていうんだ。すごいだろ?」と八重山は言った。
「すごいね」とぼくは言った。
「『祈り』って曲もあるんだけど、聴いてみるかい?」
「いいね」
 実のところぼくはすぐにその店から逃げ出したい気分だったのだが、そんなことをしたら八重山がすごくがっかりすることは目に見えていたので、我慢してもう一曲聴くことにした。

 ビービー、ゴツゴツ、ガーガー、ドードー⋯⋯。
 八重山はピアノの鍵盤に肘打ちを食わしたり、平手で太鼓のように叩いたり、ときには膝で上に乗ったりした。彼の首筋から夕立みたいに汗が流れていた。露出した脳みそみたいな頭の傷は血が上って真っ赤になっていた。それは凸凹のある赤い風船に似ていた。演奏を聴いているうちに気分がおかしくなったぼくは、幻覚の中でその風船が破裂して血が飛び散るところを何度も見た。
「その曲はメロディがないんだろ?」とぼくは言った。
「そうだよ」と八重山が言った。
「じゃあ『ヒマラヤ』と『祈り』はどうやって区別するの?」
 八重山はちょっと困った顔をした。
「正確に説明するのはすごく難しいんだけど」と彼は言った。「ぼくらは曲ごとにメロディじゃなくて最低限のイメージとか雰囲気みたいなものを決めてるんだ」
 彼は変な巻物みたいなものを出してきた。広げるとザラザラの和紙に墨で絵が描かれていた。全体に波の模様があり、その上に波しぶきが上がったり、猿や兎や蛙が踊ったり、千鳥が飛んだりしていた。一口に言えばそれは『鳥獣戯画』を幼稚園児が模写したみたいな下手糞な絵だった。
「ぼくらの曲には楽譜はないけど、最初は演奏するときのために、便宜上こういう進行表を作ってるんだ。慣れてくると捨てちゃうんだけど」
「なるほど」とぼくは言った。
「これは『世界同時革命』っていう新曲なんだけど」と彼はその『鳥獣戯画』をひらひらさせながら言った。「聴いてみるかい?」
「もちろんさ」とぼくは言った。
 ボコボコボコボコ、ビンビンビンビン、ガーガーガーガー、ズンズンズンズン⋯⋯。

             ★

「芸術家は立ち止まったら死ぬのよ」とミチコはヒマワリの林の中で言った。
「そうだね」とぼくは立ち止まって呟いた。
 ヒマワリの密林の隙間から、茶色い神戸の街と沸騰して蒸気が漂っている海が見えた。港の黒い貨物船は赤錆びた腹を見せてのびていた。時間が止まっていた。

 アフリカの夏。
 ぼくはそのとき " A Tale of A Little Thief " の次に書く小説について話していたのだった。その小説のプランは春からできていた。ただぼくはそれを書くべきかどうか自信が持てなかったのだ。ミチコはもちろん書くべきだという意見だった。
「小説家は書き続けることで小説家になるのよ」と彼女は言った。
「そうだね」とぼくは言った。

 新しい小説は日本語で書かれることになっていた。 " A Tale of A Little Thief " を英語で書いたのは、十九世紀のイギリスを舞台にしているからだった。今度の小説はタイトルを『菜の花の家』と言い、一九四〇年代の神戸を舞台にしていた。

 あらすじ⋯⋯
 神戸の山の上に立つ洋館に、若い兄弟が住んでいる。兄は二十歳で弟は十四歳だ。兄は病気でずっと寝ている。弟は中学生だ。親は死んでしまった。親が経営していた会社も潰れてしまって、兄弟はすごく貧乏だ。広い家なのにお手伝いさんもいない。給料が出ないので辞めてしまったのだ。
 その年の春、山を菜の花が埋め尽くした頃、兄にお嫁さんがやってくる。病気で寝たきりでおまけに貧乏な青二才にどうしてお嫁さんがやってくるのかわからないが、とにかく彼女は聖書女学院を卒業したばかりのお嬢さんだ。

「いいのよ」とミチコが言った。落ちぶれた家の貧乏な青二才のところに聖書女学院出のお嬢さんがお嫁に来るという筋書のことだ。ぼくはその設定がリアリティを欠いているんじゃないかという気がして不安だったのだが、彼女は自信ありげな様子でぼくを勇気づけてくれた。「だってその通りだったんだもん」
 彼女の母つまり八重山の母は事実、聖書女学院の卒業生だったし、彼女の伯父つまり八重山の伯父は落ちぶれた家の貧乏で寝たきりの青二才のだった。そして彼女の父つまり八重山の父はその弟で、当時創立されたばかりの総愛学院に通っていた。

 あらすじの続き⋯⋯
 もちろん兄嫁はすごい美人だ。おまけに兄は病気でセックスができない。しかし彼女はそれについて一切不満を言わない。お淑やかなタイプなのだ。もちろん弟は兄嫁のことが好きになる。兄嫁のほうもまんざらでもないのだが、もちろん彼女は自分ではそれに気づかない。うぶな女なのだ。
 しかし病気で寝たきりの兄は敏感だ。何でもすぐに勘づいてしまう。
「おまえたち、やったら承知しないからな」と彼は二人に宣言する。
 それを聞いて弟と兄嫁は逆にびっくりしてしまう。そんなこと考えもしなかったからだ。セックスなんて絶対やらないと二人は兄に誓う。もちろん本気だ。うぶな女とうぶな少年⋯⋯。
 しかし、同時に弟はこう考え始める。「セックス⋯⋯」
 戦争がひどくなってくる。神戸に爆撃機がやってきて爆弾を落とし出す。もうじきアメリカ軍がやってきて、本土決戦が始まるだろう。大人たちは最後の一人まで戦うんだと言っている。つまり近いうちにみんな死ぬのだ。
 弟は兄の部屋から遠く離れた場所で兄嫁にセックスしようともちかける。
「だめよ」と兄嫁は言う。「絶対だめよ」
 真面目なタイプなのだ。
 弟は力ずくで兄嫁とやろうとする。彼女は死に物狂いで抵抗する。
「だめよ、だめよ、だめよ」と彼女は言う。「絶対に」
「わかったよ」と弟は言う。
 子供だから素直なのだ。
 病気の兄はだんだん弱ってくる。それに連れてどんどん神経過敏になる。
「おまえたち、やっただろう」と彼は言う。
「やってないよ」と弟が言う。
「やってないわ」と兄嫁が言う。                         
「頼むからやらないでくれよ」と兄は泣きながら言う。
 兄嫁と弟は絶対やらないともう一度誓う。

「おかしいかな?」とぼくはきいた。
「いいんじゃない」とミチコは言った。「それもほんとにあったことだもん」
 彼女はどうやってそんなことまで知ったんだろう? 母親が話してくれたんだろうか?

 一年たって一九四五年の春がやってくる。敗戦の年だ。屋敷のまわりは菜の花で覆われている。山もその下の平地も黄色一色。市街地には毎晩爆弾が落とされる。
 兄はすっかり衰弱し、やがて猿の干物みたいに干からびて死んでしまう。
「さあ、いいわ」と兄嫁が弟に言う。「約束は守ったんだから。今こそたっぷりやりましょう」
「うん」と弟が言う。
 しかしなんだか変だ。あれほどやりたかったはずなのに、弟はどうやっても勃起しない。兄嫁もさっぱり感じない。
「どうしたのかしら?」と彼女。
「変だな」と弟。
 窓の外では神戸の街がオレンジ色に染まっていく。爆撃機の轟音で窓ガラスがビリビリ言う。二人は床に転がったまま呆然と焼けていく街を眺める。
「いやだな」と弟が言う。「もうじき死ぬっていうのに」
「ああ、わたしはなんて馬鹿だったんだろう」と兄嫁が言う。「こんなことになるなら、あのときやっておけばよかった」

「それで?」とミチコが言った。
「それでって?」とぼくはきき返した。
「結末は?」
「まだ決めてないんだ。プランは二人がそのまま死んじゃうっていうのと、戦後まで生き延びて結婚するっていうのと二通りあるんだけど」
 両方書くべきだと言うのが彼女の意見だった。「ものごとはあらゆる角度から見るべきなのよ」
「でも二通りの結末がある小説なんて変じゃないかな?」
「それこそ立体的な小説になるわ」と彼女は言った。六〇年代は今よりずっと前衛的な手法に寛大な時代だった。「結末は百通りあったっていいのよ」


 ヒマワリの中の散歩から戻ると、たいてい結城はベッドの上でぼんやりしていた。細かい花柄の白いシーツの上で、同じ柄の上掛けを体に巻き付けて、眠そうに目をこすっている彼はほんとに可愛かった。裸の肩と細い腕が生まれたての仔鹿みたいに、今にも壊れそうだった。
「ああ、よく寝た」と彼は言った。
「そう」とぼくは言った。

 ぼくは彼をじろじろ見つめた。それから部屋の中を何度も見回した。ミチコはそこにいなかった。彼女は隣の居間でバレエの稽古をしていた。いや、その横についている小さなキッチンでお茶をいれていたのかもしれない。ぼくは落ち着かなかった。結城がベッドの上にいるのはとても不思議な感じがした。なぜならそこはミチコの寝室だったからだ。
 それがアフリカの夏の昼寝だった。

「坊やとやったわ」とミチコが言ったのはヒマワリの林の中だった。
 坊やというのは結城のことだ。
「やっぱりね」とぼくは言った。
「よかった」と彼女は言った。
「何が?」
「あなたが怒るんじゃないかと心配してたのよ」
「もちろんあいつを絞め殺してやるよ」

「わたしは?」彼女は喉の奥でコロコロと笑った。喉のどこが音を立てたのかわからない。とにかくそんな音がしたのだ。彼女の笑いはちょっと変だった。顔を上気させて、泣いてるようにも見えた。涙は出ていなかったけれど、眼はよく澄んだ湖の水面下から覗いてるみたいに光っていた。
「わたしのことは絞め殺さない?」彼女はぼくの顔を覗き込むようにして言った。
「わからないよ」とぼくは言った。「でも、絞め殺したいくらい怒ってるよ」
「よかった」

 彼女は眼を閉じて、首を差し出すように伸ばしながらぼくに近づいた。彼女の首は鹿みたいにほっそりしていた。ぼくでも片手で絞め殺せそうだった。ぼくは右手で彼女の首を掴んだ。それは鳩の雛みたいに柔らかかった。彼女は眼を閉じたまま唇をちょっと舐めた。肩がかすかに震えた。彼女はベアトップの白い部屋着を着ていた。白いからだも白い部屋着もヒマワリが反射する光で黄緑色に光っていた。ぼくは彼女の首から手を離して二歩後ろにさがり、黄緑色の鳥みたいな彼女をしげしげと眺めた。部屋着の布地が薄いので、乳首と臍がかすかに透けて見えた。

「どうしたの?」彼女が眼を開けて不安そうにきいた。
「きみはきれいだね」
「ありがとう」
 彼女はうれしそうに髪を撫でた。生まれて初めてきれいだねと言われたみたいだった。
 そう、彼女みたいな美人には誰も改まってきれいだねとは言わない。
「殺すのがいやになった?」と彼女は一歩ぼくに近づいて言った。
「八重山とやってからでないと、かわいそうだからね」とぼくは言った。
「ありがとう」彼女は笑った。「殺すのをやめたわけじゃないのね?」
「もちろんさ」とぼくは言った。

               ★

「学校で毎日何してるの?」とぼくは言った。
「何もしてないわよ」とミチコは言った。「それに毎日なんて行ってないし」
「そう?」

 それは嘘だった。ぼくは毎日彼女が庭園の斜面を上っていくのをノイマン屋敷の彼女の部屋から見ていた。校長が上から彼女を銃でドスンと撃つところや、弾が彼女の耳元をかすめ、彼女が怯えてその場にしゃがみこんでしまうところも。校長は夏になるといよいよ頻繁に鹿を撃つようになった。

「夏はやたらと鹿が増えるからね」と彼は言い訳していた。
 確かに鹿は増えていた。どこから湧いてくるのかと思うほどたくさんいた。校長が一日何頭撃っても全然減らなかった。

 それからぼくは彼女が校長とカークパトリック神父と三人で校庭を歩いているところも見た。ときにはそれにコッホ神父やアルパインが加わることもあった。

「セックスに決まってるだろ」と八重山が言った。総愛学院で毎日彼女が校長やカークパトリック神父としてることについてだ。
「そうかな」とぼくは言った。
 ぼくの印象は違っていた。もっと不吉なことが行われてるような気がした。ただのセックスなら彼女が隠すわけがない。

 ぼくらは探りを入れるためにノイマン屋敷から洞窟を通って学校まで行こうとした。別に谷を渡って行ってもよかったのだが、なんとなく連中の不意を突いたほうがいいんじゃないかという気がしたのだ。
 しかし、その頃ぼくらの地下道はひどく混雑していた。アフリカの夏の暑さに参ったヒッピーたちが大勢入り込んできたからだ。

 地下道は相変わらずひどく寒かった。ヒッピーたちはみんな鹿の毛皮を羽織っていた。校長が撃った鹿だ。毎日たくさん鹿を殺すので、毛皮があまってしまい、彼らに無料で配っていたのだ。彼らの毛皮のせいで、ぼくらは石器時代の洞窟に紛れ込んだような気分になった。

 冷凍鹿の地下広場も混雑していた。そこにはアーティストたちがたくさんいた。そして冷凍鹿もたくさんいた。アルパインが次から次へと鹿を冷凍していたからだ。
「新しい表現を発見したよ」と彼はぼくらに冷凍鹿を見せながら言った。「どうだい、生きた鹿にそっくりだろう?」
「あたりまえじゃないか」と八重山がぼくの後ろで言った。「本物の鹿なんだから」

 アルパインが冷凍鹿を作る手順は次の通り。
 まず、校長から撃ったばかりの鹿をもらいうける。次に、弾丸の穴にシリコン樹脂を詰めて、血を止めてしまう。次に、毛皮に着いた血を谷川のきれいな水で洗う。最後に鹿を地下広場に運び込む。あとは凍るのを待つだけ。
「ポーズが意外と難しいんだ」とアルパインは言った。「生きてるように見せなきゃいけないからね」

 地下広場では何十人という彼のアシスタントがまだ柔らかい鹿たちを手で押さえていた。凍るまで半日はそうしていなければならないのだ。
「まず百体完成させて、個展を開こうと思うんだ」と彼は続けた。「会場全体を冷凍庫にしてね。いいアイデアだろ?」
「そうだね」とぼくは言ったが、実を言うとあんまり感心していなかった。本物のカーネル・サンダース人形そっくりのアルパイン作のカーネル・サンダース人形もくだらなかったが、この本物の冷凍鹿はもっとくだらないような気がした。というより、自然に対する冒涜のように思われた。

「邪魔だな」と八重山が言った。「ぼくらは奥へ行きたいんだ」
「一体どこへ?」とアルパインがきいた。
「よけいなお世話だよ」と八重山が言った。
「でも、この先はもっと混雑してるよ」とアルパイン。「冷凍カラスを作ってるからね」
 確かに広場から先の何本かの地下道はみんなアーティストたちで塞がっていた。
「やつらをどけてくれよ」と八重山が言った。「あんた、わざと塞いだんだろ?」
「今、外に出したら半分凍ったカラスが解けて水膨れになっちゃうよ」とアルパイン。「あと二三時間で凍るから、ちょっと待ってくれよ。カラスは鹿と違って小さいから、わりと早く凍るんだ。その間、ピアノでも弾いてさ。ぼくはきみのファンなんだ」

 八重山は渋々ピアノの前に座った。アルパインにファンだと言われて悪い気はしなかったのかもしれない。あるいは、ただいつもピアノを弾いていないと不安だったからかもしれない。彼はその頃ますます神戸のジャズ喫茶や練習スタジオで時間を過ごすことが多くなっていた。ぼくらとノイマン屋敷で遊ぶのは相変わらず嫌いじゃなかったが、以前ほど楽しそうには見えなかった。
 彼は寒さに震えながら即興で弾き始めた。それは『世界同時革命』や『ヒマラヤ』よりは親しみやすい曲だった。それは地下広場にいる人々全員の気持ちを明るくする力を持っていた。心なしか凍りつつある鹿までが表情を少し和らげていた。無表情だったのは元祖冷凍鹿だけだった。彼はピアノの前に堂々と座って、新米の冷凍鹿たちや作業をしている人間たちを、傲然と睨んでいた。

 八重山のピアノには、彼の怒りといらだちが込められていた。
「何もかも不完全だ」と彼のピアノは言った。「完全なものなんてないのはわかってるけど、不完全なものが生き延びる唯一の道は動き続け、変わり続けることなんだ」
「若いのによくわかったね」と初代冷凍鹿が眼で言った。「生き物は冷凍されたらおしまいなんだ」
「ぼくは姉貴とやるべきなんじゃないかな?」と彼のピアノが言った。「それがどんなにつまらないことでも、ためらったり、足踏みしてると、死が後ろから迫ってくるような気がするんだ」
「それは錯覚だよ」とぼくは心の中で言った。「それは一種のノイローゼなんだ。そのうちきみは、意識の上ではいやだと思ってるけど、おれはほんとは姉貴とやりたいんじゃないか? なんて言い出すことになるぞ」

「きみは早く結城をやっちゃうべきなんだ」と彼は言った。「姉貴とやったなんて許せないよ。そうじゃないか?」
「それとこれとは別だよ」とぼくは言った。「ぼくは憎しみからやりたくはないんだ」
「きみは気持を抑圧してるよ」と彼は言った。「早く自分を解放しないと、自分の首を絞めることになるぞ」

 結城はぼくのすぐ横にいた。
「ぼくのこと怒ってる?」と彼はぼくにもたれかかりながらきいた。もちろんミチコとやったことについてだ。「あれはミチコさんがいけないんだよ。ぼくが半分眠ってるあいだにベッドに入ってきたんだ」
「いいや」とぼくは言った。「怒ってないよ」
「ほんとに?」結城はぼくの腕を抱き締めながら言った。「でも、女の子とセックスするのって、すごく変な気分だな。自分が全然別の生き物になっちゃったみたいな気がするんだ。こんなこと言ってもきみは怒らないよね?」
「ああ、怒らないよ」とぼくは言った。

 それは嘘だった。ぼくはすごく傷ついていた。すぐにでも彼を殺してやりたいくらいだった。それができなかったのはたぶんあまりにも寒かったからだ。ぼくは半分凍えかけていた。ぼくの怒りと憎しみは内臓の中で凍結されてしまった。それ以来、ぼくは二度と男の子を好きにならなかった。そして自分が好きになった女の子には決して本心を語らなくなった。思えばこの地下広場から、ぼくの精神はねじれ始めたのだ。

 冷凍鹿の後ろで女の歌声が聞こえた。オペラ歌手のソプラノみたいな高い澄んだ声だった。
「歌ってる」とぼくは言った。
「ランランラン」と八重山が歌った。彼のピアノも同時に女の歌に合わせて歌っていた。
「歌じゃないよ」とアルパインが言った。「あれはミチコが泣いてるんだ」
「どうしてわかるの?」とぼくはきいた。
「映画に撮ったからね」と彼は言った。
 彼はその頃何でもフィルムに残すようにしていた。彼のそばではいつでも十六ミリのカメラが回っていた。もちろんぼくらもそのとき映画に撮られていた。冷凍鹿や冷凍カラスの制作風景を撮っていたのだ。

「それで」とぼくは言った。「彼らは何をしていたの?」
「それは言えないよ」と彼は言った。「約束したからね」
「そんなに変なことをしてるの?」とぼくは言った。
「ああ」とアルパインは言った。「でも、言えないんだ」
「だって映画を発表するときにはわかっちゃうじゃないか」
「わからないように使うって約束なんだ」
「でも、ぼくはどのシーンがそれなのかきっとわかると思うよ」
「そうだね」と彼は言った。「困ったな」
 ほんとに困ったという顔をしていた。ぼくはなんとなく腹が立った。彼がほんとのことを言ってくれないからというより、大のおとながぼくみたいな子供に対して真面目に隠し事をしているというのが、何とも言えず馬鹿げていると思ったからだ。
 結局アルパインは出来上がった映画『ビースト』にそのシーンを使わなかった。
 なんて警戒心だろう。

               ★

 八重山が出演していたジャズ喫茶は連日満員だった。ジャズの評論家やミュージシャンたちも来ていた。それからテレビ局や雑誌の記者たちも。アルパインがインタビューで八重山のことを褒めたからだ。
「彼の音楽は決して破壊じゃないんだ」と彼はインタビューの中で言っていた。「むしろこの世界のあらゆる存在様式の丹念な模写なんだよ」
 そのインタビュー記事を読んだ若いアーティストたちが店に集まってきた。アルパインはアーティストたちのアイドルだったからだ。アーティストたちは八重山の騒音じみた音楽を真面目な顔で聴きながら、足でリズムを取ってみたり、メロディを口ずさんでみたりしたが、みんなてんでばらばらだった。八重山の音楽には規則的なリズムやメロディがなかったからだ。
 ガスンガスンガスン、ピンピンピンピン、ガーガーガーガー⋯⋯。
「最高だね」とアーティストの一人が言った。「これはアーティストに対する最高の励ましだよ」
「そうかな」とぼくは言った。
「つまりぼくらは何をしてもいいってことなんだ」
「そうかな」

 ジャズ喫茶は地下にあったが、あまりにも狭かったので、表の入り口付近にはいつも大勢の客が溢れていた。そこには大きなスピーカーが置かれ、中に入らなくても八重山の演奏が聴けるようになっていた。そしてもちろん店の経営者はちゃっかり彼らにも飲み物を売って金を儲けていた。
 客はアーティストやマスメディアの関係者だけじゃなかった。セールスマンや税理士もいたし、工員や道路工夫、沖仲仕、トラックの運転手、自転車の修理屋、靴職人、売春婦、虚無僧、修験者、能楽師といった人たちもいた。
「すごいな」と沖仲仕が言った。「これはおれたちのための音楽だぜ」
「そう?」とぼくは言った。沖仲仕にそう言われると、なぜか八重山の音楽がほんとにすごいんじゃないかという気がした。
「つまりおれたちは何をしてもいいってことなんだよ」力を込めて沖仲仕は言った。「そう思わないか?」
「何をしてもいいっていうのは人を殺してもいいってこと?」
「ちょっと違うな」と沖仲仕は主張した。薄汚れた灰色の作業服を着ていて、丸々と太った大男だった。茶色い顔の皮は牛みたいに分厚くて、大きな目は赤く血走っていたが、しゃべり方はまるで大学教授みたいに堂々としていた。「もちろん人を殺さなきゃならないときだってあるかもしれないけど、それはしかたなしにやることなんだ。おれが今言った何をしてもいいっていうのは、おれたちが心底やりたいことで禁じられてることは何もないっていう意味だよ」
「人を心底殺したいと思ってる人はどうなるの?」とぼくはきいた。
「殺意は理由なしに湧いてきたりしないものだよ」と沖仲仕は言った。「殺意にしろ、ただの憎しみにしろ、攻撃されて意識が歪められたときに生まれるんだ。歪みはそれ自体束縛なんだよ。人を殺したいってやつは、まず束縛から自分を解放することが先決なんだ。それから自分が何をしたいかってことが始まるわけさ。たとえばこの音楽には束縛を打ち破る力がある。人間すべてに対する励ましだね。解放する力だよ」
「ふうん」とぼくは彼をじろじろ見ながら言った。「おじさんは人を殺したいと思ったこ
とある?」
「人を殺したこともあるよ」と沖仲仕は言った。「二三人ね。もちろんすごく後悔してるよ」
 一九六八年の神戸には、人を殺したことのある沖仲仕と世間知らずの中学生が真面目に議論できるこうした場所があったのだ。

 屋外の客があんまり増えてきたので、店ではテーブルと椅子を歩道にたくさん並べて客席を作った。ちょっとしたビアガーデンみたいな雰囲気だった。そのうち客はもっと増えて、車道も向こう側の歩道も埋め尽くしてしまった。八重山と偽ゲイリー・ピーコックと偽エルビン・ジョーンズは地上に出てきて演奏するようになった。店の中は息苦しかったし、古いアップライト・ピアノしかなかったからだ。八重山は自宅からグランドピアノを運んできて演奏した。彼の自宅は八重山鉄工株式会社の工場と隣接していたから、トラックが自由に使えたのだ。運ぶのは若い工員たちがやってくれた。毎日仕事が終わるとピアノをトラックに積んで三の宮まで運び、夜中に演奏が終わるとまた持って帰るのだ。なかなかできることじゃない。

「おれたちは彼のファンだからね」と工員の一人が言った。「彼の演奏を聴いてると元気が湧いてくるんだ」
「あれはおれたちのための音楽だよ」と別の工員が言った。
「それにおれたちはミチコさんのファンでもあるしね」とまた別の工員が言った。彼はちょっと顔を赤らめていた。ぼくと歳がいくつも違わない若い工員だった。
「きみはミチコさんとやったことあるかい?」とまた別の工員が言った。
「ないよ、もちろん」とぼくは言った。
「そりゃよかった」とその工員は言った。「おれたち、ミチコさんとやったことがあるやつはぶん殴ることにしてるんだ」
 それはほんとらしかった。現に彼らがぼくにそう言った夜、ぼくはアルパインが歩道の客席で彼らにぶん殴られてるところを見た。

 ぼくらは演奏が終わった後、ピアノを積んだトラックの荷台に乗って神戸の街を走り回った。ぼくらというのはぼくと八重山とミチコと工員たちのことだ。ぼくらはみんな酔っ払っていた。ミチコは薬をやってたのかもしれない。眼が宝石みたいに光っていた。
「楽しいわね」と彼女はぼくらに言った。
 彼女はぼくと八重山の間に座っていたが、腕は弟の首にしっかり巻き付いていた。というよりずっと彼の首におでこや唇を押しつけっぱなしだった。
「好きよ」と彼女は言った。
「ああ、そうかい」と八重山が言った。でも、いつもと違って彼女の腕をふりほどいたりはしなかった。
「わたしたち、うまくやれると思うの」と彼女は言った。「セックスでも何でも」
「そうだろうね」と八重山は言った。ピアノを弾いた直後の彼はいつでも少し放心状態だった。

 工員たちはミチコが八重山とやりたがってることを知っていたが、別にそれについて腹を立ててる様子はなかった。
「しかたないよ」と彼らの一人は言った。「姉弟なんだから」
「まあ、ミチコさんとやっても許せるのは彼くらいだな」と別の工員が言った。「ぼくは彼のファンだからね」
 彼らはほんとに八重山とミチコのことが好きだった。しかし、ほんとにこの姉弟がセックスすることについて、何にも感じていなかったのだろうか? もしかしたら彼らは姉弟でセックスなんてできやしないと考えていたのかもしれない。
「それは普通のセックスじゃないんだよ」と彼らの一人が言った。
「そうだろうね」とぼくは言った。
「それは一種の苦悩の表れなんだよ」
 苦悩⋯⋯?
 その工員は一体何を言おうとしたんだろう? 
 ぼくは彼の顔をまじまじと見た。彼はぼくより一つ年上の新米工員だった。頬っぺたがやけに赤い少年で、まだ中学生の子供っぽさが表情に残っていた。そして彼は「苦悩」という言葉をすごく真面目な顔で発音した。

 ぼくらはよく真夜中の路上でトラックを停め、神戸の街をうろついたり、トラックの上で八重山にピアノを弾かせたりした。彼は酔っ払っているせいか、『世界同時革命』や『ヒマラヤ』といった新しい曲ではなく、『四月の思い出』や『コートにすみれを』といった親しみやすいスタンダード・ナンバーを弾いた。
 ミチコはピアノを聴いているうちに眠ってしまうことがあった。たまたまそばにいた工員の一人に抱きついたまま寝入ってしまうのだ。眠りに落ちていきながら、彼女はその工員に、「素敵」とか「好き」とか囁きかけた。工員は辛そうな顔をしていた。
「好きだってさ」とぼくは彼に言った。
「ぼくのことじゃないよ」と彼は言った。
 その夜ミチコが抱きついていたのはぼくより一つ年上の、一番若い工員だった。

 ミチコが眠ってしまうと、ぼくらはトラックを降りて街を散歩した。彼女に抱きつかれた工員はしかたなく荷台に残ったが、あとはほとんど全員が参加した。八重山はすごく楽しそうだった。口笛を吹いたりスキップしたりした。酒屋を見つけると、みんなでシャッターを持ち上げて中に押し入った。次の晩に飲む酒を確保するためだ。八重山はレジの金をポケットに入れた。たいていはつり銭の残りくらいしか入っていなかったが、ぼくは彼が金を盗むのを見るのが苦痛だった。
「まだ病気が治ってないみたいだね」とぼくは言った。
「最近、また頭が痛むんだ」と八重山は真面目な顔で言った。
 そういえば、彼の露出した脳みそみたいな頭の傷跡はますます赤く腫れ上がっていた。それは血が一杯詰まった透明なビニールの袋みたいに見えた。

 ぼくらはいろんなところに忍び込んだ。センター街の商店やデパート、倉庫やオフィス、そして個人の家⋯⋯。八重山はどこに押し入っても金を盗んだ。工員たちは盗みはやらなかったが、床におしっこやうんこをしたり商品や書類を滅茶苦茶にしたりするのは大好きだった。みんなひどく酔っ払っていたから、大して悪気はないのだが、ぼくはあまりいい気持はしなかった。
「あいつを止めなきゃ」とぼくは工員たちに言った。「こんなことしてちゃいけないよ」
「そうだね」と彼らは言った。「そのうち言ってみるよ」

 八重山は通り掛かりの女の子に襲いかかったりもした。公園の暗がりに引きずり込んだりするのじゃなく、大通りの歩道でいきなり押し倒してしまうのだ。一九六八年の夏にはよく真夜中にミニスカートをはいた女の子が一人で街を歩いていた。
 一体何をしていたんだろう?
 女の子を襲うときの八重山の動作はなんとなく柔道に似ていた。真正面に立ちふさがって両手を大きく上げて威嚇したり、相手の肩のあたりを掴んで足を払ったり投げを打ったりするのだ。女の子もそれに釣られて八重山の両手を掴んだり、腰を引いて投げられまいと踏ん張ったりした。あたりはしんとしていたから、彼らの服が擦れる音と荒くなった息遣いが大きく響いて聞こえた。
 シュッシュッ、ゼーゼー、ハーハー⋯⋯。
 それはとてもスポーツらしい光景だった。女の子は悲鳴を上げたり泣いたりしなかった。ときには八重山に足払いをかけたりもした。結局は八重山の方が強くて、女の子は歩道に押し付けられてやられてしまうのだが、ぼくはなんとなく最後まで柔道の試合を観てるみたいな気がした。少なくとも婦女暴行の陰惨さは感じられなかった。別にほかの暴行を見たことがあるわけじゃないから、よくわからないけれど⋯⋯。

 ぼくら、つまりぼくと工員たちは、そのあいだまわりで成り行きを見守っていた。もちろんときどきは声をかけたり肩を揺すったりして八重山を止めようとした。一応良心の呵責を感じていたのだ。でもそれ以上のことはしなかった。なぜだろう? やっぱり女の子がやられるところを見たかったのかもしれない。

「負けたわ」勝負が終わると女の子は決まってそう言った。それから地べたに座ったままあたりに散らばっていた服をゆっくり掻き集めて着た。
 ぼくら、つまり八重山とぼくと工員たちはまわりにしゃがんで彼女を眺めていた。ぼくはやられた後の女の子がどういう気持でいるのかとても興味があった。たぶん工員たちも同じだったろう。しかし八重山はなんとなく無表情な、つまらなそうな顔をしていた。口元にちょっと笑いを浮かべてることもあったけれど。ぼくは彼がそういうときに何を考えていたのかついに理解することができなかった。

「どう?」とぼくら、つまりぼくと工員たちの一人が必ず女の子にきいた。どんな気分かということだ。
「そうね」と女の子はわりと真面目に答えた。「最初はもちろんびっくりしたわ。戦ってるときは何が何だかよくわからなかった。とにかく負けたくないって思うのよ。勝負ってそういうもんでしょ?」
「で?」とぼくらはきいた。「その後は?」
「そうね」女の子は髪の毛を掻き上げながら真面目に考え込んだ。一九六八年の女の子はみんなすごく真面目だった。「よくわからないわ」
「怒ってない?」とぼくらはきいた。
「そうね」と女の子は言った。「怒ってはいないわ」
「やっぱりね」とぼくらは言った。
 個人差はあったが、八重山に押さえ付けられた後の女の子はみんなわりと気持ちよさそうにしていたからだ。その点に関しては、八重山の技術は大したものだった。女の子が腹を立てて警察を呼んだりしなかったおかげで、ぼくらは毎晩無事に帰ることができた。

「こんな事してちゃいけないよ」とぼくは八重山に言った。
 ぼくらは珍しく二人きりだった。夜中の街を歩いていた。あるいは前後に工員たちがいたのかもしれないが、とにかくぼくらは二人きりで話していた。
「きみは自由を履き違えてるよ」とぼくは言った。「自由っていうのは何をしてもいいって事じゃないんだ」
「そう?」と八重山は言った。
「きみは音楽でたくさんの人の魂を解放したんだ」とぼくは続けた。「中にはぼくらよりずっと大人で人生経験も豊富な人だっている。そういう人がきみの音楽で救われたって言ってるんだ。きみは責任を持たなきゃいけないよ」
「そうか」と八重山は言った。彼は真っすぐ前を見ていたが、何かを見つめていたわけじゃなかった。完全に放心状態だった。女の子をやった後だったからかもしれない。
「自由ってことは、何をやってもいいってことじゃないんだ」とぼくはしつこく言った。
「人殺しとか暴行とか盗みとかは抑圧された精神がやりたがるもので、解放された人間はそんなことをしたいとは思わないんだよ」
 ぼくは懸命に八重山を説得しようとした。ぼくが言ったことは例の沖仲仕が言ったことの受け売りだった。ぼくは彼のことが忘れられなかった。彼の言ったことが完全にぼくを捉えていた。ぼくは八重山にも彼を裏切らせたくなかったのだ。
「なんて言うのかな」さんざん考えた挙げ句、八重山はぼんやり呟いた。「ぼくにはよくわからないんだよ」
 それだけだった。

              ★

 工員たちと仲よくなって、ぼくは八重山鉄工の工場に遊びにいくようになった。工場は六甲山系の尾根が神戸の市街に大きく張り出しているあたりにあった。学校の体育館の廃墟みたいな建物で、固く踏み固められた土の上に機械が直に並んでいた。その裏手に古ぼけた木造の家があり、その一階にある昔の学校の職員室みたいなところが事務所になっていて、二階と三階が八重山とミチコの住まいだった
 八重山は三階を一人で占領していた。そこは一つの大きな部屋になっていて、神戸の街や山や海をぐるりと見渡すことができた。それは部屋というより山の温泉旅館のロビーみたいだった。真ん中にグランドピアノが置いてあり、そのまわりに痛んだソファや壊れたピンボールの台、何十年も昔に造られたようなバー・カウンターなどがごちゃごちゃとひしめきあっていた。テレビやステレオ、冷蔵庫、クーラーといった電機製品だけはどれも新しかった。それも違うメーカーの似たような製品が何台も揃っていた。
「集めるのが趣味なんだ」八重山はちょっと戸惑い気味に笑った。
 ぼくは彼がこうした電機製品をどうやって手に入れたか知っていた。もちろん盗んだのだ。ぼくもちょっと戸惑っていた。八重山はぼくが気づいていることを知っているのでよけいに戸惑っていた。彼は盗むことに大きな喜びを感じていたが、ぼくがそれを嫌っていることで心を痛めてもいたのだ。
 彼はぼくの注意を電機製品からそらすためにピアノを弾いた。それも実験的なオリジナルではなく、ぼくの好きなシューマンやショパンとか、ジャズのスタンダード・ナンバーばかり弾いた。彼なりに気を使っていたのだ。

 ぼくらはよく工場の中を歩き回った。工員たちはぼくらを見ると、どんなに忙しくても笑いながら手を振った。ぼくらも笑いながら手を振った。工場の中はいつも四〇度を超える暑さだった。工員たちは灰色の半袖シャツに灰色のズボン、爪先に鉄の入った黒い作業用の長靴をはいていた。シャツもズボンも汗で黒々と濡れて、からだにぴったり貼り付いていた。彼らはひっきりなしに水を飲んでいた。そうしないと脱水症状を起こすのだ。水飲み場には食塩の壜が置いてあった。水を飲んだときに塩を舐めて、汗と一緒に流れ出した塩分を補給するのだ。
 ときどき奥にある一番大きな機械のてっぺんから、ポンという音と一緒に大きな火の玉が飛び出した。それは握りこぶしくらいの赤く焼けた鉄の塊だった。車のホイールを作るときに出る金属のカスなのだ。火の玉は大きく弧を描いて工場の端のほうに落下して細かく割れた。それは花火みたいにきれいだった。

 工場にはほかにもきれいなものがいっぱいあった。解けた鉄のオレンジ色をした液体や、機械から出る生クリームみたいな水蒸気の塊もきれいだったし、できたてのホイールやネジもきれいだった。できたてのホイールは機械の排出口から、長い溝を次から次へと転がって出てくる。もちろんあつあつで触れば火傷してしまうから、取り出すときは毛布で作った分厚い手袋をはめる。一度油に浸けられてから出てくるので、できたてのホイールはいつも淡い虹色に光っている。それは焼きたてのケーキみたいにきれいだった。
 ネジは機械の排出口からジャラジャラとパチンコの玉みたいに溢れ出てきた。たっぷの油の中をくぐってくるので、海から上がったばかりのカタクチイワシみたいに青く光っている。大きな鉄の篭ですくい取ると、本物の魚みたいにピンピン跳ねる。それはそのまま口に入れてしまいたくなるほどきれいだった。

 ネジの仕分け係には一人だけ若い女の子がいた。とてもきれいな子だった。工員たちと同じ服を着て、頭には白い帽子を被っていた。彼女はぼくらを見ると笑いながら近づいてきて、いきなり八重山のおちんちんを掴んだ。とても素早かったので、八重山は逃げることができなかった。
「わたしたち、今こそやるべきだと思うのよ」と彼女は八重山のおちんちんから手を放しながら言った。
「馬鹿」と八重山はおちんちんをズボンの上から押さえながら言った。とても痛そうな顔をしていた。
 ぼくは彼らをかわるがわる眺めながら呆然と突っ立っていた。口もきけないほどびっくりして……。女の子がミチコだったからだ。
「ノイマン屋敷にいないときはここにいるのよ」と彼女はぼくに言った。
「そう?」とぼくは言った。
「いつもノイマン屋敷でバレエの稽古ばかりしてると思ってたでしょ?」と彼女は言った。「あなたが家で小説を書いてるとき、わたしはここで仕事をしてるのよ」      
 彼女は昼間は工場で働き、夜は事務所で伝票の整理や帳簿付けをやっていた。
「少しは社長らしくしなきゃね」と彼女は笑った。
 工員たちと働いたり、帳簿付けをするのがどうして社長らしいことなのか、ぼくにはよくわからなかった。
「芸術は労働なのよ」と彼女は言い、恥ずかしそうに笑った。「労働は愛なのよ」

「ぼくも働くよ」数日たってからぼくは彼女に言った。「労働は芸術だからね」
「あなたの仕事は『菜の花の家』を書くことなのよ」と彼女は言った。
「もちろん書くよ」とぼくは言った。「でも、ぼくはノイマン屋敷と同じくらいここが気に入ったんだ」
「わたしもここが好きなの」と彼女は言った。「気が合うわね」
「労働は愛だからね」とぼくは言った。


「働かないか?」とぼくは八重山に言った。「ぼくらには労働が欠けてるよ」
「いいね」と八重山は言った。「芸術は労働だからな」
 ぼくらはホイール積みを始めた。溝を転がってきたホイールをパレットと呼ばれる木の台に決まった個数だけ積み上げるのだ。積み終わると工員がフォークリフトで倉庫に持っていく。積み方が悪いと途中でホイールが崩れてしまう。けっこう難しいのだ。ぼくらは毎日四五時間、汗みずくになってホイールを積んだ。それから八重山は自分の部屋でピアノの練習をやり、ぼくはその横で小説を書いた。ホイール積みが終わるとへとへとに疲れていたが、小説を書き出すとすぐに元気になった。八重山も全然疲れていなかった。ぼくらは労働を発見したのだ。

「ぼくはいやだよ、ホイール積みなんて」と結城が言った。「ぼくは女の子を発見したんだ」
 彼はその頃だんだんぼくらと別行動を取るようになっていた。女の子とデートしてるという噂だった。
「労働のない愛なんて何の値打ちもないよ」とぼくは言った。
「そうかな?」と結城は言った。「きみはまだ女の子を知らないんだ」
 その言葉はぼくをすごく傷つけた。結城がミチコとやったことを思い出させたからだ。彼はますますぼくから遠いところに行こうとしていた。
「結城をやっちゃうべきなんだよ」とホイールを積みながら八重山が言った。「労働と芸術と愛が何なのか、わかってないってことをあいつに思い知らせてやるんだ」
「そうだね」とぼくは言った。

             ★

 たくさんのネジがミチコのからだに打ち込まれている夢を見た。彼女は裸で工場の鉄扉の前に立っていた。鉄扉は土色のペンキが剥げ落ちて、いたるところ錆が浮いていた。彼女のからだも白茶けた土色で、ところどころ錆びついていた。三角の陰毛も赤い錆のようだった。鉄扉にもミチコにも同じようにネジが打ち込まれていたので、重ねてみると彼女のからだは鉄扉の中に溶け込んで、見えなくなってしまいそうだった。
 ぼくは次の日、ミチコに夢の話をした。
「あなたはよく見てるわね」と彼女は言った。
「何を?」とぼくはきいた。
「わたしのからだは錆だらけなのよ」と彼女は言った。
 ぼくはじろじろ彼女のからだを見つめた。それは工場の裏手にある八重山家の二階だった。彼女は白っぽいジョーゼットのワンピースを着ていた。薄い布地を通して見える彼女のからだは生クリームみたいに白かったが、どこにも錆は浮いていなかったし、ネジも打ち込まれていなかった。淡い薔薇色の乳首がちょとネジに似てはいたけれど⋯⋯。
「働きすぎなんじゃない?」とぼくは言った。
「それほどでもないわよ」と彼女は言った。「毎日ノイマン屋敷に遊びに行くし、ときどきは総愛学院にも行ってるのよ」
 ぼくは彼女のからだをじろじろ見ていた。彼女は夏になって次第に痩せ始めていた。もともと細いからだがますます細くなっていた。なんだか痛々しい気がした。でもぼくが彼女のからだをじろじろ見つめていたのは、彼女が気の毒だったからじゃなかった。彼女がすごくきれいで、見つめないではいられなかったからだ。
「きれいだね」とぼくは彼女の服の下にかすかに透けて見える、三角の陰毛を見つめながら言った。それは赤錆の色にちょっと似ていなくもなかったが、夕映えの雲の影みたいにきれいだった。
「ありがとう」と彼女は言った。

 アルパインはもちろん工場や事務所で働くミチコを映画に撮った。ついでにぼくと八重山がホイール積みをやってるところも。彼女はネジを手際よく箱に詰めながら、カメラに向かって労働と芸術と愛について延々と語った。そのまわりで撮影隊にくっついてきたアーティストたちがマリワナを吸ったりペッティングをやったりしていたが、彼女は彼らのことをまるで気にしていなかった。彼女にとって労働は愛だったからだ。
「きみの弟にピアノを弾いてもらいたいんだけど」とアルパインが彼女に言った。
「いいわよ」と彼女は言った。
 そんなわけで工員たちがグランドピアノを引っ張り出してきて工場の機械の前に置いた。一九六八年の八重山鉄工の工場や倉庫にはグランドピアノが何台も無造作に置かれていたのだ。八重山はどこにいてもピアノが弾けるようになっていないと気がすまなかったし、毎晩神戸のジャズ喫茶に運んで演奏するためにも、すぐ運び出せる場所に置いておく必要があったのだ。それに、一度ジャズ喫茶に運んで使ったピアノはトラックに揺られて弦が緩むので、何台も交替で使わなければならなかった。音が狂ったピアノは休ませている間に、調律士に弦を調整してもらうのだ。
 八重山はホイール積みをしながら工場の真ん中にピアノが運ばれるのをちらちら見ていた。そしてピアノがセットされると、汗だくのままピアノに向かい、いきなり『ヒマラヤ』を弾き始めた。あるいはそれは『祈り』だったかもしれない。ぼくにはその頃の八重山の曲が区別できなかったのだ。アルパインはピアノが運び込まれるところや、八重山がホイール積みを中断してピアノに向かうところも丹念に撮影した。
 八重山は怒りを込めて演奏した。アルパインの映画に利用されるのが面白くなかったのかもしれない。彼はアルパインを嫌っていた。それからたぶん、彼がピアノを弾くことをミチコが勝手に承諾してしまったのも気に食わなかったのだろう。それでもピアノを見ると弾かずにいられない自分にも、あるいは腹を立てていたのかもしれない。
 彼の攻撃的なピアノに刺激された工員たちはアルパインを殴り、アーティストたちを袋叩きにした。アーティストたちがノイマン屋敷でミチコとやりまくってると思い込んでいたからだ。おかげでカメラを回したり照明やマイクを持ったりする人間がいなくなってしまった。ぼくはしかたなくカメラを回し、工員たちがほかの機材を扱った。それでもちゃんと映画は撮影できた。後に『ビースト』が発表されたとき、ぼくは何度もこの作品を見たが、ぼくらが撮影した工場の場面もかなり長く使われていた。

「あんたの芸術には労働が欠けてるよ」とピアノを弾き終わった八重山がアルパインに言った。
「そうかな」とアルパインは言った。「けっこう手間はかけてるんだけどね」
 彼は工場の土の地面に伸びていて、ミチコが真っ白い彼の頭を抱き起こし、膝の上に乗せていた。鼻から口にかけて血まみれになっていた。なんとなく十字架から降ろされたキリストみたいだった。

              ★

『菜の花の家』は順調に進んでいた。日本語で書いていたせいもあって、毎日 " A Tale of A Little Thief " のときの何倍も書くことができた。ぼくはどこへ行くにも原稿用紙を持ち歩いていた。どんなときでもペンを握れば言葉は溢れ出てきた。
「すごいわね」とミチコは言った。
「ぼくは自由を発見したんだ」と言いながら、ぼくは『菜の花の家』の弟と兄嫁が結婚する場面を書いていた。本当は戦争が終わったところで物語も終わるはずだったのだが、ペンのほうが勝手に動き出して止まろうとしなかった。原稿はもう七百枚を超えていた。ぼくは次第に主人公たちの一挙手一投足まで克明に描写するようになっていった。ミチコが次から次へと新しい資料を発掘してくるので、それも付け加えていった。彼女の論文はプロローグさえ仕上がらないまま放り出されていた。彼女は自分の文章のまずさを知っていたので、ぼくの作品のほうに期待をかけるようになっていたのだ。そのせいで、ぼくの小説は彼女の論文のプロローグの内容にどんどん近づいていった。彼女の文章を読みやすく直しただけでそっくり使ったところもあった。彼女はそれをすごく喜んでいた。
「わたしが書きたかったのはこういう作品なのよ」と彼女は言った。
 彼女にとっては小説と伝記の区別なんてまるで意味がなかった。どちらも言葉で組み上げられた装置だったのだ。ぼくは言葉による装置という考え方に夢中になった。人間の意識も、社会制度も、工場の機械もすべて同一次元の機械であり、すべての運動はつながっているのだ。小説を装置と考えることでぼくは限りなく豊かな言葉の鉱脈を手にいれたのだった。そして『菜の花の家』はますます事実に近づいていった。時代はどんどん現在に近づいていった。やがて主人公の夫婦に娘が生まれ、息子が生まれ、姉はバレエを習い、弟はピアノを習うことになった。総愛学院も聖書女学院も登場した。そしてぼくも⋯⋯。
 秋までに原稿は二千枚を超え、時代は一九六八年にさしかかっていた。小説の執筆はほと
んどぼくの日記の丸写し、あるいはもっと克明な描写を加えた書き直しになっていった。作品の世界を豊かにするために、ぼくはさらにミチコや八重山やアルパインの声をそこに挟み込んでいった。最終的に『菜の花の家』は一万枚を超えることになるのだが、それはまだ先の話だ。とにかくアフリカの夏のぼくは、トーマス・ウルフとマルセル・プルーストが合作したような作品を書いているつもりだった。
「ぼくは現実世界を発見したんだ」とぼくは八重山に言い、そう日記と小説に書いた。
「よかったね」と八重山が言い、ぼくはそう日記と小説に書いた。

             ★

「わたしはもう出てこない?」とマリコが言った。
 それは一九八八年の秋だった。
「そう、『菜の花の家』にはね」とぼくは言い、そう日記と小説に書いた。小説というのは『マイ・フェイヴァリット・シングズ』のほうだ。
「嘘」と彼女は言った。「あなたがほんとにすべてを書いてるなら、わたしはもう一度出てくるはずよ」
「ぼくらは一九六八年の夏から会って話をすることはなくなったんだよ」とぼくは言い、そう日記と小説に書いた。
「あなたは忘れてるのよ」とマリコは言った。「わたしは覚えてるわ」
「そうだったかな?」とぼくは言った。「じゃあ、『菜の花の家』を読み返してみるよ」

 ぼくはそう書いた。

             ★

 源義経になって、鵯越の山の上で馬に乗っている夢を見た。アフリカの夏のことだ。ぼくはそう『菜の花の家』にも書いた。
 夜中だった。闇の中に雄の鹿二頭と牝の鹿一頭が現れ、目の前の急斜面を下っていった。下るというより崖を転がり落ちていく感じだった。下の平家の陣地では、突然鹿が降ってきたので大騒ぎをしていた。ぼくらはこんな崖みたいな斜面を馬で下れるのかどうかでもめていた。
「鹿が降りられるなら馬だって平気さ」と源義経のぼくは言った。
「あんなの、ただ落ちてっただけじゃないか」と武蔵坊弁慶が言った。
「ぼくはやだね」と金売り吉次が言った。
「怪我するだけだよ」と伊勢の三郎が言った。
「でも、下には福原のトルコがあるぜ」と常陸坊海尊が言った。彼はなんとなく八重山に似ていた。坊主頭が傷だらけだったからだ。
「そうか」と武蔵坊弁慶が言った。「悪くないな」
 彼は偽ゲイリー・ピーコックに似ていた。
「とにかく行こうよ」とぼくは言い、斜面を駆け降りた。百騎くらいの家来が後に続いた。
 斜面は上から見たより急で、ほとんど垂直の崖と言ってもいいくらいだった。ぼくらは馬に乗ったままゆっくり落ちていった。ぼくは馬に乗っていながら源義経の自分を外から眺めることができた。源義経はテレビで見たようなきれいな鎧と兜を着けていたが、なんとなくちんちくりんで不恰好だった。
 何百メートルか下のほうで平家の陣地が明るい照明に輝いているのが見えた。それは福原のトルコ街で、輝いているのは極彩色のネオンだった。崖にはたくさん穴があいていて、穴居人たちが顔を出してぼくらを見ていた。みんな髪をボサボサに伸ばして、鹿の毛皮を着ていた。卓袱台でご飯を食べてる家族もいた。薬局になってる穴もあって、風邪薬や強壮剤、避妊具といったものを売っていた。ぼくらはすごくゆっくり落下していたので、そういったものを好きなだけ取ることができた。金は払わなかった。薬局の穴居人は、髪を振り乱して何か叫んでいたが、ちっとも恐くなかった。彼らは総愛学院の庭園でキャンプを張っているヒッピーたちに似ていた。
「やあい」と源義経のぼくが言った。「ざまあみろ」
「覚えてろ」と穴居人たちが言った。
 ぼくのすぐ上では、八重山に似た常陸坊海尊が別の穴からご飯のおかずを盗んでいた。
「やあい」と常陸坊海尊の八重山が言った。「ざまあみろ」
「覚えてろ」と穴居人たちが言った。

 地面にぶつかる少し前に、馬が崖を蹴ったので、ぼくらは宙を飛んでゆっくりと平家のトルコ風呂陣地に降り立った。そこはほんとに眩しいくらい色とりどりのネオンが輝いていた。歩道には細い柳が植えられていた。四つ辻のアーチには「福原柳筋」というネオン文字が掲げられていた。通りは平家の侍たちで溢れていたが、みんな話にならないくらい弱くて、刀を振り回すだけでいくらでも首を吹っ飛ばすことができた。
 トルコ風呂はどこも派手なネオンで飾られていて、ネオン管がバチバチ音を立てていた。出てくる男たちはみんな背広にネクタイ姿だった。ぼくはそいつらの首もはねてやった。だから結城が女の子に抱かれるようにして出てきたときは危なく彼の首を切り落としそうになった。
「おっと危ない」とぼくは言った。「でも、どうしてこんなとこにいるの?」
「え?」と結城は言った。ちょっと戸惑った顔をしていた。
「みんなが戦ってるのにどうしてこんなとこにいるの?」とぼくは言った。「愛は労働なんだよ」
「あなたには思いやりが欠けてるのよ」と結城の肩を抱いていた女の子が言った。それはマリコだった。

《「ほんとだ」と一九八八年の秋にぼくは言った。「ほんとにきみが出てきた」ぼくは久しぶりに『菜の花の家』を読み返していたのだ。「違うわよ」とその部分を読んだマリコが言った。「これはあなたが見た夢じゃないの。わたしはもう一度現実に出てくるのよ」「そうか」とぼくは言った。「夢を見てちゃいけないよ」という八重山の言葉を思い出した。》

「きみはここで何をしてるの?」と源義経のぼくは言った。
「御覧のとおりよ」と夢の中のマリコは不機嫌そうに言った。彼女はブルーにピンクの縁取りのビキニの水着を着ていて、右側のおっぱいが結城の肩に強く押し付けられて水着から半分はみだしていた。
「お母さんに言いつけてやるからな」と源義経のぼくは言った。
「いいわよ」マリコは小学生のときよくやったように、腰に手を当てて、ちょっと首を傾げながら言った。それは彼女が憤慨したときのポーズだった。結城はその横で背広にネクタイという恰好をしていて、なんだかサラリーマンみたいだった。ふたりとも抱き締めたいくらい可愛かった。
「じゃあね」とぼくは言い、また通りを馬で走り出した。


 ぼくはずっとミチコを捜していた。馬に乗ったままトルコ風呂の中に押し入って、一軒一軒調べていった。なんとなく彼女がトルコ風呂で働いてるような気がしたのだ。しかし彼女はどこにもいなかった。
 通りは鎧を着た侍たちの死骸で埋まっていた。四つ辻に人だかりがしているので、馬で人をかき分けて近づいていくと、鹿が三頭倒れていた。鵯越の崖を先に落ちていった鹿たちだった。雄の二頭はもうすっかり皮を剥がれ、肉が切り分けられているところだった。
雌は長い首を矢で貫かれたまま、眼を丸くして倒れていて、それをぼくの家来たちが代わる代わる犯していた。家来たちはなんとなく八重山鉄工の工員に似ていた。源義経のぼくは彼らを怒鳴りつけ、やるんだったらトルコ風呂に行ってこいと命令した。
 彼らは「こっちのほうがいいのにな」といったようなことをブツブツ言いながら行ってしまった。
「大丈夫?」とぼくは鹿に声をかけた。
 鹿は眼をパチパチさせながら、首を起こしてぼくを見つめた。
「助けてくれたからって大きな顔しないでね」と鹿は言った。「あなただってみんなとおんなじなんだから」
「わかってるよ」とぼくは言った。
 鹿はもちろんミチコだった。

              ★

 工場で働いているあいだにぼくはいつのまにか結城をやってしまおうと決心していた。どうしてだかわからない。とにかく虹色に焼けたホイールを積んだり、アジかイワシみたいに青く光るネジの山を眺めたりしているうちに、なんとなくそんな気になったのだ。激しい労働でぼくのからだは少しずつ鍛えられていた。何も恐いものはないような気がした。何も恐れていないことを確かめてみたいような気もした。
「結城をやっちゃおう」とぼくはホイールを積みながら八重山に言った。
「やっとその気になったね」と彼は言った。
「でも、どうしてだろう?」とぼくは言った。「とても強いロボットになったような気分なんだ」
「人間もピアノも機械だからね」と彼は言った。

 ぼくらは小説の執筆とピアノの稽古の時間を削って神戸中をうろつき回るようになった。結城を探すためだ。彼がどこに立ち寄ったか、何をしていたかといった情報は、どこでも簡単に手にいれることができた。誰でも結城のことをよく知っていた。彼みたいな美少年は神戸にそう何人もいなかったからだ。
「やるのかい?」といたるところできかれた。
 もちろん結城をという意味だ。ぼくと八重山もすっかり有名になっていた。八重山はジャズ喫茶で売出し中のピアニストとしてだけでなく、お姉さんがノイマン屋敷に住んでる《アルパインの恋人!》で、元モデルで、鉄工会社の社長で、しかもアルパインの映画に出演しているすごい美人だということでも有名だった。ぼくはと言えば、《あの少年愛の巣窟!》の総愛学院で英語の小説を書いたやつとして有名だった。そして結城に《振られた》間抜けなやつとしても⋯⋯。
「あいつなら女の子とデートしてたよ」といたるところで言われた。
 みんな薄笑いを浮かべてぼくの顔をじろじろ見た。
「かわいそうに」と眼が言っていた。

 結城はなかなか捕まらなかった。逃げていたのかもしれない。神戸の街を歩いていれば、ぼくらが捜し回ってることはすぐにわかっただろうから。それでも彼は女の子とデートするのをやめたりはしなかった。
 どこに行っても、「あのかわい子ちゃん(結城のことだ)ならついさっきまでここにいたよ」と言われた。
 しかたなくぼくらは彼の家の近くで待ち伏せすることにした。海を見下ろす高台にある南フランス風のきれいな家で、庭には大きな蘇鉄がたくさん植えられていた。すぐ下に市民プールがあった。ぼくと八重山は水に浸かりながら鰐みたいに結城の家を見上げていた。水の中に隠れていないと結城に見つかってしまうからだ。それにアフリカの夏は日差しがきつくて、とてもプールサイドに長くはいられなかった。甲羅干しをしてる連中はみんな黒人みたいに日焼けしていた。
 最初の数日は成果がなかった。昼過ぎから夕方まで待ったのだが、結城は帰ってこなかった。八重山はピアノを弾かなければならなかったし、ぼくは小説を書かなければならなかったので、ぼくらは夕暮れどきになると引き上げなければならなかった。

「結城はわざと帰りを遅らせてるんじゃないかな」とぼくは水の中で八重山に言った。
「そんなに頭の回るやつじゃないと思うけどな」と彼は言った。「きっとそのうちプールに女連れで現れるよ」
「そうだね」とぼくは言った。確かに結城はとても頭の悪いやつだった。

 五日目に結城が女の子を連れてプールに現れた。八重山の言った通りだったので、ぼくはなんとなく悲しかった。実際、結城はとても間抜けなやつだった。
 女の子はブルーのビキニを着ていた。とても可愛い子だった。でも、結城の方がもっと可愛かった。というより、ぼくは結城しか見ていなかったのだ。
 アフリカの夏の黄色い太陽がコンクリートのプールサイドを日乾しレンガみたいに焼いていた。結城の真っ黒な影が彼の足元にまとわりついて揺れていた。それは小さな闇だった。アフリカの夏はいたるところに影を落として小さな闇の世界を作っていた。結城のからだもミルクチョコレート色に焼けていた。きっとよく泳いでいたのだろう。それに比べて女の子は雪だるまみたいに真っ白だった。多分彼女はその夏初めてプールに来たのだ。結城は毎日違う女の子とデートしてるという噂だった。


 チョコレート色の結城と影の闇と雪だるま色の女の子は、山を背にしたフェンスのそばに寝そべった。どちらもつまらなそうにしていた。彼はときどきぎこちない手つきで女の子のからだを撫でたり、首筋にキスしたりした。 
「下手糞」と八重山が水の中で言った。
 ぼくらは水面から眼だけ出して結城を見ていた。だから八重山の言葉は正確には「ボコボコボコボコ」と聞こえた。

 ぼくらは鰐みたいにゆっくり水から上がり、プールサイドに闇のような影と細かい闇のしぶきのような水の雫を落としながら結城に近づいた。すぐそばまできても彼はまるで気づかなかった。女の子とキスするのに夢中だったからだ。ぼくらは真上から彼の顔を見下ろしながら、
「やあ」と言った。
 ぼくらの顔の影が結城の顔の上で闇を作っていた。彼は胡椒とバターの匂いがした。それは汗がプールサイドの埃と混じり、アフリカの夏に焼かれて放つ匂いだった。彼の眼はぼくらの落とす影の闇の中でふくろうみたいに怯えていた。

「やあ」とぼくらはもう一度言った。
「やあ」と彼も言った。
 結城が見上げたぼくらの顔はきっと影の闇の中に隠れていただろうが、声でぼくらだとわかったはずだ。女の子はぼくらを見上げながら、
「ああ」と言った。
 ぼくらはプールから出て、すぐ後ろにある結城の家に行った。ぼくらというのはぼくと八重山と結城のことだ。女の子はプールサイドに残った。
 ぼくらは「すぐ戻ってくるよ」と彼女に言ったのだ。
「ちょっと話があるだけだから」と結城も彼女に言った。

 結城の家はしんと静まり返っていた。とても大きな家だったが、ほとんどの部屋は鎧戸で閉ざされていた。スペインや北アフリカの昼寝の時間といった雰囲気だった。
「ママは留守なんだ」と結城が言った。
「そう」とぼくは言った。
「そりゃよかった」と八重山が言った。
 玄関には牛が入りそうなくらい大きな冷蔵庫が置いてあった。扉が全部開いていて、中は空っぽで、クローブとシナモンを混ぜ合わせたような匂いがした。台所には冷蔵庫から取り出されたらしい食品がごちゃごちゃと置かれていた。食堂の大きなテーブルには、レタス、きゅうり、そらまめといった野菜類が山積みになっていた。
「夕方に電機屋が来るんだ」と結城は言った。「新しい冷蔵庫を買ったんだ」
「そう」とぼくらは言った。「そりゃよかった」
「で、話って何?」と結城が言った。
「きみの話をしよう」とぼくは言った。
「おまえは愛が何なのかを知らないんだ」と八重山が言った。
「そうかな」と結城が言った。「ぼくはただ女の子とセックスしたいだけなんだ」
「おまえの愛には労働が欠けてるよ」と八重山が言った。
「もう、ぼくのこと好きじゃない?」とぼくは言った。
「わからないよ」と結城が言った。「ぼくはきみのものになりたかったんだ。でも、きみはぼくをきみのものにしてくれなかったんだよ。だからぼくは女の子を自分のものにしたんだ」

「ぼくは誰も支配しないし、きみだって誰も支配しちゃいけないんだよ」とぼくは言った。「そんなことできるわけがないんだ。ぼくらは一度自由を発見したんだから」
「それが愛ってやつさ」と八重山が言った。
「ぼくは愛なんて知らないよ」と結城が言った。
「おまえに愛を教えてやるよ」と八重山が言った。
 それからぼくらは結城を家中追いかけまわした。彼は追いかけられる前から逃げ出していた。つまり何をされるか知っていたのだ。
 家はとても広かった。結城が本気で逃げたらとても捕まりっこなかった。いたるところに納戸やクロークがあって、隠れ場所には困らなかっただろうからだ。でもぼくらはすぐに結城を捕まえてしまった。彼は食堂の大テーブルに積まれたレタスの山の中に隠れていた。ぼくらは二階で彼を見失って食堂に戻ったのだが、そこでかすかにレタスの山が震えているのを発見したのだ。結城というのはそのくらい頭の悪いやつだった。
「愛を受け止めてやれよ」と八重山が言った。
 ぼくは結城の首を締め上げていた。八重山は彼の服を手際よく脱がせた。結城はほとんど抵抗しなかった。シュテルマッハー校長に銃で撃たれた鹿みたいにぐんにゃりしていた。溶け出したチョコレートみたいに温かかった。
「お願いだから殺さないで」と結城は言った。
「殺しやしないさ」と八重山が言った。「おとなしくしてればね」
「ありがとう」と結城は言った。


 それからぼくらは結城にいろんなことをした。一九六八年の男の子が考えつくことは全部やった。『菜の花の家』の一九六八年の章には、何と何と何と何と何と何をしたか克明に書いてあるが、三十五歳のぼくはそれをいちいち繰り返す気になれない。一九六八年は特殊な時代だったのだ。一九六八年の子供たちは、一九八八年の大人でさえ考えつかないようなことを平気でしていた。
 とにかくぼくが男の子とやったのはそれが最初で最後だった。そしてまだそのときは女の子とやったことはなかった。我ながらひどい人生のスタートだった。
 終わった後、結城はしばらく泣き続けていた。彼が痛がるような、拷問じみたことをいろいろやったからだ。
「痛かった?」とぼくは彼の頭を膝に抱えて撫でてやりながら言った。
「うん」と結城は言った。「愛はぼくには苦しすぎるんだ」
 そのとき彼は電気のコードでからだをぐるぐる巻きにされていた。コードの間から柔らかい肉が盛り上がって、おいしそうなスモーク・ハムみたいだった。

 玄関のチャイムが鳴ったので、八重山が応対に出た。来たのは電機屋だった。新しい冷蔵庫を届けに来たのだ。
「どうぞ」と八重山は二人の若い電機屋に言った。
 電機屋は彼をじろじろ見た。Tシャツを着ているだけで、下半身は裸だったからだ。ぼくはジーパンをはいていて、上半身は裸だった。そして結城は素っ裸のまま電気コードでぐるぐる巻きにされて床に転がっていた。電機屋たちはそれを見ながら黙って新しい冷蔵庫を運び込んだ。新しい冷蔵庫は象が入りそうなくらい大きかった。八重山は生ぬるい缶ビールを電機屋たちに渡した。ぼくらはさっきからぬるいビールを飲んでいた。冷蔵庫が使えなかったからだ。
「ぬるくて悪いね」と八重山が大人びた口調で言った。
「いえ」と電機屋の一人が言った。
「冷蔵庫が壊れたもんでね」
「そうでしょうね」
「モゴモゴモゴモゴ」と結城が床の上で言った。
 彼は余計なことを喋らないように猿ぐつわを噛まされていたのだ。電機屋の一人が彼をじろじろ見ていた。
「やりたいかい?」と八重山がきいた。
「そりゃあね」と電機屋が言った。「こんな可愛い子はめったにいませんからね」

 電機屋が帰ったと思ったら、今度はさっき結城がプールに連れてきた女の子がやってきた。開けっ放しにした玄関のドアから外の眩しい光が見えた。彼女は白っぽい麻のワンピースを着ていたが、その下にブルーの水着がかすかに透けて見えた。彼女はぼくの顔をじろじろ見た。からだのほうは見ようとしなかった。
「すぐ戻るって言ったのに」と彼女は神経質そうな顔で言った。
「悪かったね」とぼくは言った。「話が長引いちゃったんだ」
「あなたが彼に何をしたか知ってるわ」と彼女は言った。
 それからぼくと八重山が結城にしたことを次から次へと並べ出した。ちょっと違ってるのもあったが、ほとんど当たっていた。どうしてわかったんだろう?
「上がらない?」とぼくは言った。「ぼくらの用はすんだんだ」
「わたしの用もすんだわ」と彼女は言った。そしてさっさと帰ってしまった。

             ★

「ほら、出てきた」とマリコが言った。
「これがきみ?」とぼくは言った。
「知ってるくせに」と彼女は言った。
「そうだったかな?」とぼくは言った。
 ほんとに忘れていたのだ。もしかしたら『菜の花の家』を書いたときでさえ、覚えていなかったのかもしれない。覚えていたとしたら実名で出てくるはずだからだ。
「どうしてきみのことを忘れることができたんだろう?」とぼくは言った。
「無理しちゃって」とマリコは言い、クックッと笑った。「あなたはあの頃、彼のことしか見てなかったのよ」
「そうか」とぼくは言った。「そうだったね」

 今ならもう少し別のことも思い出すことができる。『菜の花の家』に書かなかったことを補足しておこう。

⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
「わたしの用もすんだわ」とマリコは言った。
「どこにも行かないでくれよ」とぼくは彼女に言った。
「だめよ。あなたは死神に取り憑かれてるわ」と彼女は言った。
 そしてさっさと帰ってしまった。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯

 こんなとこだ。

「きみはどうしてあのとき結城に会わずに帰ってしまったの?」とぼくは一九八八年の秋のマリコにきいた。
「別にどうでもよかったからよ」と彼女は言った。
「彼のことを愛していなかった?」
「あのときはね。ほかにガールフレンドがたくさんいたし⋯⋯」と彼女は言った。「でも、彼はいい人だったわ。そんなに利口なほうじゃなかったけど」
「彼とはどうして結婚したの?」
「さあ、よく覚えてないわ」
「最初の男だったから?」
「彼と結婚したのは一九七六年の夏よ。大学を出た年」と彼女はおかしそうに言った。「彼と最初にセックスしたのは一九六八年のあの夏よ。その間にいろんなことがあったわ。いろんなことが」
「一九六八年⋯⋯」とぼくは言った。「ミチコの事をそんなに早く忘れちゃったの?」
「彼女のことを忘れるために男の子と付き合おうとしたのよ」と彼女は答えた。
「もしぼくが誘ったら、ぼくとセックスした?」
「たぶんね」と言って彼女はおかしそうに笑った。
「どうして離婚したの?」
「仕事がしたかったからよ」とマリコは六〇年代の女の子みたいな口調で言った。「わたしにとって愛は労働だったし、同時にわたしは労働を愛してもいたのよ」
「そうか」とぼくは言った。

              ★

 アフリカの夏の終わり頃、工場の若い工員たちが突然働くのをやめた。彼らは機械の前でお互いの顔を見合ったまま、動かしていた手を止めてしまったのだ。ぼくらの横のラインでホイール積みをやっていた若者は、毛布の手袋を地面に落とし、湯気を吹いている機械の山の上を見上げていた。そこではまだ溶けた金属がホイールの鋳型に流し込まれていた。彼の前には溝を転がってきたホイールがどんどんたまっていった。
「どうしたの?」とぼくは彼に声をかけたが、彼はぼくのほうを見もしなかった。機械の音がうるさくて、ぼくの声は彼のところまで届かなかったのだ。

 ネジのラインでもできたてのネジが受け台の上に溢れて地面にこぼれ落ちていた。機械の山のてっぺんからは立て続けにポンポンと火の玉が飛んできてぼくに命中し、作業服を焦げ跡だらけにしてしまった。
 やがて工場のすべての機械が止まった。あるいはミチコが止めさせたのかもしれない。このままネジやホイールを作っていても、ラインの末端で溢れてしまうだけだったからだ。工場が急に静かになって、みんなのろのろと中央の通路に集まってきた。ミチコは一人でせっせとネジ詰めを続けていたが、みんながそろったのを見ると、作業をやめた。八重山は最初からぼんやりと自分の持ち場に突っ立っていた。彼の足元にも溢れたホイールの山ができていた。
「どうしたの?」とミチコがみんなにきいた。
「わからない」と工員の一人が言った。「働く気力がなくなっちゃったんだ」
「どうして?」とミチコは言った。「働くのは楽しくない?」
「要するにぼくらはアーティストじゃないってことなんだ」と別の工員が言った。
「つまりぼくらは人間の屑ってわけさ」とまた別の工員が言った。
「そんなことないわ」とミチコは言った。「芸術だって労働なのよ」
「でも、労働は芸術じゃないよ」
「でも、労働は愛なのよ」
「ごまかしてもだめだよ」
「もうぼくらはだまされないからね」
「ミチコさんはノイマン屋敷のアーティストとなら誰とでもセックスするけど、ぼくらとはしないじゃないか」
「わたしは誰とでもやってるわけじゃないわ」ミチコは大きなレンチでそばにあった機械を思い切り叩いた。カキンという気持ちのいい音がした。「わたしがやりたいのは弟だけよ」
「でも、彼とはやってないね」
「ええ、まだね」彼女は八重山のほうを見た。彼はホイールの山に腰を下ろして考え込んでいた。「愛はデリケートなのよ」
「やってるのはノイマン屋敷のアーティストたちとなんだ」
「ええ、まあね」と彼女は認めた。「でも、誰とでもってわけじゃないわよ」
「そして、ぼくらとは絶対やらないんだ」


 それからみんな黙ってしまった。工員たちは汗を垂らしながらうなだれていた。誰もミチコの顔を見ていなかった。逆にミチコは腰に手を当てて、彼らを睨みつけていた。彼女は怒ってる様子だった。でもそれは彼女が自分に負い目を感じてる証拠だった。嘘をついてるときや自分が間違ってるのにそれを認めたくないとき、彼女はとても堂々とした態度をとることができた。そんなときの彼女はすごくきれいだった。
「わかったわ」と彼女は言った。「わたしがみんなとやればいいのね?」
「そんなこと言ってないよ」と工員の一人が言った。
「ミチコさんがいやがってるのにやるなんてできないよ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「わからない」と工員たちは言った。「とにかく街に出て愛を探してみるよ」
「あなたたちはきっとわたしの弟みたいに、街で女の子を襲うようになるんだわ」
「とりあえずはそうなるかもしれないね」
「それならわたしとやっても同じじゃない」
「全然違うよ」と工員たちは口を揃えて言った。「ぼくらはミチコさんが好きなんだ」
「わたしだってあなたたちのことが好きなのよ」とミチコは言った。「少なくともノイマン屋敷にいる連中よりはね」
「ほんとに?」
 工員たちの眼が輝き出した。彼らはすごく純朴な人たちだった。ミチコの言ったことは明らかに嘘だったし、それは彼らにもわかったはずだ。彼女は他人を愛せるようなタイプの女じゃなかった。それでも彼女に好きだと言われたことは彼らを夢中にさせた。
「どうしてあんなこと言ったの?」とぼくは後で彼女にきいた。
「わたしはあの子たちが好きなのよ」
「嘘だ」
「もちろんあなたのことも好きよ」彼女はとても可愛く笑いながらぼくのおちんちんを掴んだ。

 そんなわけでミチコは工員たちとセックスするようになった。彼らは熱く焼けた機械の上でやるのが好きだった。機械の熱が彼らをより興奮させるからだ。それに彼らはミチコをみんなのものだと考えていたので、みんなが見てる前でやるのが一番公平だということになったのだ。

「あんなことしてちゃいけないよ」とぼくは彼女に言った。
「あなたもやりたいくせに」と彼女は笑った。
 工場で彼女とやらないのはぼくと八重山だけだった。ぼくは彼女が痛々しくて見ていられなかったのだ。暑さとセックスのせいで彼女のからだはますます痩せていった。それでも彼女はどんなモデルよりもきれいだった。
「きみは自分をすり減らしてるよ」とぼくは言った。
「わたしには手に入れたいものがあるのよ」と彼女は言った。
「きみは死神に取り憑かれてるよ」とぼくは言った。
「でも、ノイマンを見つけたわ」
「なんだって?」
「ノイマンがいたのよ」
「どこに?」
「言えないわ」彼女はおかしそうに笑った。「わたしは彼のものなのよ」

「わあい」と工員たちは言った。「自由を見つけたぞ」
 彼らは毎日熱狂的に働いた。ぼくが文章を書くことの中に、八重山がピアノの演奏の中に自由を見つけたように、彼らも仕事の中に自由があることを知ったからだ。彼らは熱く焼けた機械の上にミチコを乗せてセックスした。彼女の肉は鉄板で焼かれる牛肉みたいに機械の上でジュウジュウと音をたてて焼けた。
「熱くない?」とぼくはきいた。
「いい気持ちよ」と彼女は答えた。
 彼女のからだはクローブの匂いがした。香料が焼けた肉の匂いを一層香ばしくした。彼女と工員たちのからだから流れ落ちる汗が、鉄板の上で湯玉になって転げ回った。
 ジュウジュウジュウジュウ⋯⋯。

 工員たちは熱狂的に働き、終業ベルが鳴ると熱狂的に神戸の街へ飛び出していった。彼らは熱狂的にトラックでピアノを運び、熱狂的に八重山のピアノを聴き、熱狂的に真夜中の路上で女の子たちを襲い、熱狂的に商店を打ち壊してものを盗んだ。
「わあい」と彼らは言った。「ぼくらは完全に自由なんだ」
「そうらしいね」とぼくは言った。
 ぼくは彼らの熱狂に加わらなかった。ぼくが小説の中に発見した自由と、彼らが街の中に発見した自由はついに噛み合わなかったのだ。八重山だけが彼らと一緒に店と女の子を襲っていた。
「こんなこと、いつまでも続くわけないよ」とぼくは彼に言った。
「そうだね」と彼は言った。「でも、気がつくとついやっちゃってるんだ」
「きみはずっとそうやってきたからな」とぼくは言った。「でも、彼らを引っ張りこんじゃいけないよ」
「そうだね」と彼は言った。「でも、今じゃ彼らがぼくを引きずってるんだ」
 店や女の子を襲ってるのは彼らだけじゃなかった。アフリカの夏の終わりには、街にそんな連中が溢れていた。アフリカの太陽に焼かれた彼らは、薬をやったり、道路に絵を描いたり、街中でセックスしたりするだけでは満足しなくなっていた。彼らは完全な自由と喜びを求めて街をうろつき回った。そこら中で車がひっくり返されて焼かれ、銀行やデパートや商店が掠奪され、若い男の子や女の子が強姦された。
 一九六八年の夏休みの終わりだった。
                                        


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