イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

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 4 . セ ル フ レ ス



 アフリカの夏が終わった。それがどんな風に終わったのか、ぼくはもう正確に覚えていないが、とにかくいつのまにか少しずつ夏の色が褪せていき、ある日突然、秋が六甲山を覆っていることに気づいたのだ。地面を焼き続けた黄色い日差しも、闇のような影も消えてなくなっていた。絵の具を溶かしたような濃い空の青やヒマワリの黄色も⋯⋯。そうした色が褪めていく間、ぼくはずっと他のことを考えていて、まわりの変化にまるで注意を払わなかったのだ。

 アフリカの夏が終わったことを最初に強く感じさせたのは、アルパインが拳銃で撃たれたときだった。夏休みが終わり、学校が始まった最初の週だった。ぼくと八重山は放課後ノイマン屋敷に遊びに行っていた。オレンジ色の大きな太陽が摩耶山の西に傾き、屋敷と庭のプールを橙色に染めていた。日差しはまだきつくて、ぼくはミチコやアーティストたちと一緒に水浴びをしていた。八重山は大きな居間でアップライトピアノを弾き、アルパインは助手たちとシルク・スクリーンで何か刷っていた。
 ボンという大きな音がしたので居間のほうを見ると、大きく開いたフランス窓の前に、ベージュのコートを着た髪の長い女の子が立っていた。ぼくの位置からは彼女が握っている拳銃は見えなかったが、肩のあたりに青みがかった煙が見え、火薬の臭いがした。部屋の中から「ノー、ノー」と言う声が聞こえたが、そのときはアルパインが撃たれたということはわからなかった。たいして意味のない冗談が何かのはずみで実行されてしまったといった感じだった。女の子は一歩部屋の中に入ってさらに二発拳銃を撃った。それからプールのほうを振り向いて、
「みんなブタよ」と叫んだ。「夏は終わったのよ。アルパインはわたしに影響を与え過ぎたわ。こんなおふざけはもうやめにすべきなのよ」
 彼女はそれだけ言うと、さっさと坂を降りていってしまった。誰も止めようとしなかった。拳銃が恐かったというより、何がなんだかわからなかったのだ。
 居間の中は血の海だった。弾はアルパインの腹と胸と首に大きな穴を開けていた。彼は壊れた人形みたいに手足をバラバラに広げて床の上に倒れていた。まるでシュテルマッハー校長に仕留められた鹿みたいだった。

 彼がぴくりとも動かないので、ぼくらは彼が即死したものと思っていた。ところが病院に運ばれた彼は、十八時間の手術の末に一命をとりとめた。しかし、ぼくらにとってはそれが彼を見た最後になった。彼はそのまま一か月間神戸の病院に入院し、それから東京の病院に移り、一九六八年の暮れにはニューヨークに帰ってしまったのだ。ノイマン屋敷には二度とやってこなかった。作りかけの作品や道具類は側近の助手たちがさっさとアメリカに持っていってしまった。そしてアルパインがいなくなると、若いアーティストたちもだんだんノイマン屋敷に寄りつかなくなり、九月の半ばには、ミチコと八重山とぼくだけが残った。

 アルパインを撃ったのは、ノイマン屋敷によく出入りしていたヒッピーの女の子だった。彼女はセックスしようとしない唯一のヒッピーだった。男をすべて抹殺し、女だけの社会を造るべきだというのが彼女の思想だった。彼女は《カス》という政治結社に属していると言っていたが、この《カス》というのは完全に彼女の空想の産物だった。彼女はアルパインの映画の中でこんなことを言っている。
「ブタを皆殺しにしなきゃいけないわ。ブタはママのおっぱいにかじりついたまま、ズボンの中に糞を垂れながら死ぬべきなのよ」
 ブタというのはつまり男のことだ。

 こんな危険な女の子をどうして野放しにしておいたのか、不思議に思われるかもしれないが、一九六八年にはこの手の意味不明の思想を掲げる連中はそんなに珍しくなかったし、思想として主張されたことはどんな思想にせよ、一応敬意を払うべきだという雰囲気があったのだ。
 彼女がどうしてこんな考えを持つようになったのか誰も知らない。彼女は摩耶山を降りたその足で警察に自首したが、取り調べのときも意味のあることは一切言わなかった。
「ブタを撃ったのよ」と彼女は堂々と言った。「あなたたちだって知ってるでしょ? アルパインはママのあそこに首を埋めながらオナニーしてる子ブタだって」
 警察を戸惑わせたのは、彼女がアルパインに恨みや憎しみを感じなければならない必然性がどこにも見当たらないことだった。確かに彼女は男全般を憎んでいて、誰とも口をきこうとしなかったが、アルパインだけは例外で、ときどき話をしたり、映画の撮影を見にきたりしていた。彼が男性でも女性でもない特殊な存在だったからだ。アルパインも彼女の考えを面白いと思っていたらしい。だから『ビースト』にも出演させたのだ。警察から事情聴取を受けたヒッピーやアーティストたちはみんな一様にそんなようなことを証言した。結局、彼女がどうして突然ほかの男たちではなくアルパインを撃つ気になったのかはわからないままになった。彼女自身もわかっていなかっただろう。それは今でもわからない。それは謎のまま時がたち、どうでもよくなってしまった無数の事柄の一つになってしまった。
 それだけのことだ。
 彼女は警察でも政治結社《カス》の活動方針について長々と弁じ立て、おかげで不起訴になり、刑務所ではなく精神病院に送られることになった。

 急にがらんとしてしまったノイマン屋敷でぼくらは呆然とまわりを見渡した。ヒマワリの花に埋め尽くされて、目に痛いほど黄色に輝いていた山がいつのまにか茶色に変色していた。アフリカの夏の終わりだった。
「やれやれ、せいせいした」と八重山が言った。「彼女が撃たなくても、いずれは誰かがやるべきだったんだよ」
「そうかしら?」とミチコが言った。
 彼女はふさぎこんでいた。彼女にとってアルパインはある意味で大切な男だったからだ。自分の作品を作らない彼女は、いつも生産し続けている人間を必要としていた。それに、彼を撃った女の子と同じように、ミチコもアルパインの男とも女ともつかない特殊な性格に親近感を覚えてもいた。たぶんアルパインは彼女とセックスしなかった数少ない男の一人だろう。彼女はそういうタイプの男を何人も必要とする女だった。
「ヒマワリが枯れたわ」と彼女は山を見渡しながらさみしそうに言った。

               ★

 アフリカの夏が終わったとたん、八重山の様子がずいぶん変わってしまったことにぼくは気づいた。いつのまにか彼はひどくやつれていた。頬の肉がナイフで削ぎ落としたみたいにこけて、白桃みたいだった肌の色が黒ずんでいた。ときどき上目使いにぼくを見ながら、
「もうだめだ」と言ったりした。
「何が?」とぼくはきいた。
「何もかもがさ」と言って八重山は笑った。「もうぼくにはこれ以上曲は書けないよ」
「まさか」とぼくは言った。
 ぼくらはまだ十五歳だった。自分の作品を作り始めて一年しかたっていなかった。彼の演奏は神戸中を熱狂させていたし、レコードを出す話だってきていた。
「まだ始まったばかりじゃないか」とぼくは言った。「ぼくらの収穫はこれからなんだ。こんなところで引き返しちゃいけないよ」
「クライマックスっていうのは始まったと思ったときには終わってるものなんだよ」と彼は言った。「滅茶苦茶な生活をしていた芸術家が急に真面目に仕事をしだす。まわりの人は、『ああ、よかった。これで彼もまともな作品を作るだろう』といって喜ぶ。ところがそいつは次の作品を完成させる前に死んでしまうのさ」
「何それ?」とぼくは言った。
「人間は機械なんだ」と彼は言った。
「そうだね」とぼくは言った。
「機械には寿命があるんだよ」と彼は言った。

 学校が始まってから、八重山はもう何週間もジャズ喫茶で演奏していなかった。当然、夜中にトラックで神戸の街を流して回ったり、店を襲撃して酒や金を盗んだり、女の子を襲ったりすることもなくなっていた。酒も薬もやめ、夜は早く寝て、朝は早く起き、ほとんど一日中ピアノに向かっていた。学校には毎日やってきたが、授業にはほとんど出てこなかった。教師たちの目を盗んで講堂のグランドピアノを弾くか、地下広場で自分のアップライトピアノを弾いていた。ぼくは彼が盗みや食い逃げや婦女暴行をやめてピアノに専念しだしたことを喜んでいた。これからいよいよたくさんの曲が書かれ、レコードが発売されて、日本中をびっくりさせることになるだろう。成功はすぐ目の前まできていた。
「きみらしくないよ」とぼくは言った。「そんな弱気になるなんて」
「そうだね」と彼は言い、弱々しく笑った。
 ぼくはそれを同意のしるしだと思って安心した。一九六八年のぼくは、八重山が何者なのか本当には知らなかったのだ。彼は自分が干からびかけていることを知っていた。そしてすぐそばにいるぼくがそのことを理解してくれないので思わず苦笑したのだ。
「疲れたら少し休めばいいんだ」とぼくはさらに言った。「機械にも休みは必要だよ」
「そうだね」と八重山は言い、弱々しく笑った。

 ぼくらはそのとき講堂にいた。常設灯だけをつけた薄暗いステージで、八重山はピアノを少し弾いては急に中断してぼくに話しかけようとした。
「機械の休憩だ」と言って彼は笑った。
「どうして途中で演奏をやめるの?」とぼくはそのたびに言った。「続けなきゃだめだよ。芸術は持続と反復なんだ」
「そうだね」と彼は言った。「でも、きみこそ小説を書かなきゃいけないよ。こんなところでぼくみたいなミイラにつきあって、時間を潰してるべきじゃないんだ」
「小説のほうは順調だよ」とぼくは言った。「今はきみが心配なんだ」
「ありがとう」と彼は言った。
「どうしてきみは曲を書こうとしないの?」
「書いたよ」
「なんて曲? ぼくは聴いてないよ」とぼくは言った。「絵はあるの?」
 絵というのは、『世界同時革命』のとき八重山が楽譜代わりだと言って見せてくれた、『鳥獣戯画』みたいなやつのことだ。波の上に千鳥が飛んだり、兎や猿や蛙が跳ねているやつ⋯⋯。八重山はぼくを見上げながらしばらくぼんやりしていた。まるでぼくが何を言ったのかわからなかったみたいだった。それからまた弱々しく笑った。
「『セルフレス』っていうんだ」と彼は言った。

「どんな曲?」とぼくはきいた。
 彼はまた病人みたいな顔で笑った。両手を広げて、肩をすくめながら⋯⋯。まるで何も持ってないのが恥ずかしいみたいに⋯⋯。
「この曲はすごく難しいんだ」と彼は言った。
「そう?」とぼくは言った。
「『ヒマラヤ』や『世界同時革命』のときみたいに絵で曲のイメージを表現する事さえできないんだ」
「そう?」とぼくは言った。「それじゃ合奏できないの?」
「わからない」と彼は言った。「でも、この曲は一人じゃできないんだ」
「困ったね」とぼくは言った。
 そう言いながらなんとなく後ろめたい気がした。弱ってる八重山をわざと追い詰めようとしていたからだ。ぼくは『セルフレス』という曲が本当に存在するかどうか疑わしいと思っていた。八重山は疲れ切っていた。とても曲なんて書けそうに見えなかった。今のぼくなら彼を休ませようとしただろう。ところがそのときのぼくは彼をさらに駆り立てることばかり考えていた。一九六八年はそういう時代だったのだ。
「手伝ってくれるかい?」と八重山が言ったとき、ぼくはしばらく何のことかわからなかった。八重山は今や人間の脳みそが露出したみたいに膨らんでいる頭の傷をぼくに見せながら、上目使いにぼくを見つめていた。
「いいよ」とぼくはとりあえず言った。何にせよ頼まれたらいやと言わないのが一九六八年のぼくらの流儀だったからだ。
「『セルフレス』は正確に言うと、曲じゃないんだ」と彼は言った。
「曲じゃない?」とぼくは馬鹿みたいに繰り返した。
「『セルフレス』はすべての曲なんだ」
「すべての曲?」
「今まで世界中で書かれたすべての曲を含んでいるんだ」と彼は言った。「これから書かれるすべての曲もね」
「これから書かれる?」
「『セルフレス』は一人じゃできないんだ」と彼はまた言った。「『セルフレス』はコミュニケーションの実践なんだよ」
「コミュニケーション」とぼくは言った。
「手伝ってくれるかい?」
「いいとも」

 彼は椅子に座ったままつま先でリズムを取り始めた。それから左手の指先でピアノの上を軽く叩き出した。初めて耳にするリズムだった。ずっと一定のリズムを刻んでいるように聴こえるのに、いつのまにか違うリズムに移っていたり、また元に戻ったりした。彼はぼくにも手と足でリズムを取れと眼で合図した。ぼくは言われた通りにした。とても難しそうなリズムなのに、不思議と最初から八重山の手と足の動きにぴったり合わせることができた。それから八重山は鍵盤から三つの音を拾い出した。今ではよく覚えていないが、たぶんCとEとGといった単純な組み合わせだったと思う。彼はこれを延々と繰り返した。ぼくは頭の中でこの音を反復した。音はぼくの中で弾け出し、勝手に上がったり下がったりし出した。ぼくは不安になって変化していくその音を声に出してみた。すると八重山のピアノがそれと同じ音を出し始めた。というより、ピアノがぼくの中の音の変化を先取りして、一瞬早く音を変えていくような感じだった。ぼくは不安から解放され、音の変化にからだを任せた。まるで自分の中に別の生き物が入ってるみたいだった。無数の音楽がぼくの中から弾け出してきた。中には有名な曲の断片もあったし、全く聴いたことのない新しいフレーズもたくさんあった。ぼくは自分がすごい作曲家になったような気分になり、自分の中から飛び出してくるフレーズを書き留めておきたいと思ったが、実際にはそんな余裕はなかった。音がぼくを引きずっていき、どこでもない、何もない空間に解き放ってしまったような感じだった。強い歓喜がどこからともなく沸き上がってきた。
「ああ⋯⋯」とぼくは心のどこかで言った。「なんていい気持ちなんだろう」

『セルフレス』が終わったとき、ぼくらは校舎の屋上にいた。明け方の最初の光が鏡みたいに滑らかな大阪湾の海の上で金色に輝いていた。
「なんてこった」とぼくは言った。
『セルフレス』を始めたとき、ぼくらは放課後の講堂にいたのだ。いつのまにそこを出たのか、そのあいだ何をしていたのか、まるで記憶がなかった。
「一体、何をしてたんだろう?」とぼくは呟いた。
「決まってるさ」と八重山が言った。「『セルフレス』を演奏してたんだよ」
「そうか」とぼくは言った。「一晩中続けられるなんてすごい曲だね」
 八重山は海に背を向け、ぼくの横で石の手摺にもたれてしゃがみ込んでいた。背中を丸めて銀縁眼鏡を膝に押し当てながらぐったりしていた。
「この曲は一度始まったら二度と終わらないんだ」と彼は言った。
「終わらない?」とぼくは言った。
「きみの中でずっと鳴り続けるよ」と彼は言った。
「そうかなあ」とぼくは言った。
 ぼくは自分の中の音に耳を澄ましてみた。何も聞こえなかった。
「そのうちわかるよ」と八重山は言った。「いろんな音が地下水脈みたいにきみの中を流れて、ある日突然溢れ出してくるから。これからはどんな曲がきみの中で鳴っても、それは『セルフレス』なんだ」
「そうか」とぼくは言った。

 ぼくは自分が完全に解放されているのを感じた。『セルフレス』を演奏していたときの快感は消えることがなかった。小説はますます快調に書くことができたし、勉強は授業をぼんやり聴いてるだけで何もかも理解できた。一度読んだり見たり聴いたりしたことは二度と忘れなかった。それは一九六八年の始めから少しずつ表れていた兆候だったが、ここにきてはっきりひとつの力のかたちをとり始めていた。すべては八重山との出会いから始まったことだ。ぼくはそれを改めて強く感じた。ぼくを解放したのは彼だったのだ。

 ぼくはときどき急に三つの音が頭の中で鳴っているのに気づくようになった。それは『セルフレス』を演奏したとき、八重山が最初にくれた音の組み合わせに似ていた。授業中、ぼくは小さく声に出してみた。
「フンフンフン」
「何か言った?」と隣のやつがぼくにきいた。
「フンフンフン」とぼくは歌った。
「フンフンフン」と彼も歌った。
 その日一日、彼はぼくの顔を見るたびに、「フンフンフン」と歌った。そのたびに三つの音の組み合わせは変わっていた。彼の頭の中で音が鳴り続け、勝手に変化しているのだった。
 放課後、別のやつが擦れ違いざまに「フンフンフン」と歌うのを聴いた。どこに行っても誰かが「フンフンフン」と歌っていた。
「なんてこった」とぼくは言った。それから心の中で「フンフンフン」と歌った。
 ぼくは校庭で、別のクラスのやつが下級生を前にして「フンフンフン」と歌っているのを見掛けた。気がつくとそこら中で、いろんなやつが「フンフンフン」と合唱していた。
ぼくはちょっと不安になって八重山を探した。彼は校舎の裏で何人かの上級生を集めて「フンフンフン」と歌っていた。
「これでいいのかな?」とぼくは言った。
「わからない」と彼は言った。「でも、もう止められないよ」

 その週の終わりには、どの教室でも「フンフンフン」の合唱が聴こえた。授業中に全員
が立ち上がって「フンフンフン」と歌い出すクラスもあった。教師たちは朝礼で、「変な鼻歌はやめるように」と注意した。
 みんなはすぐに授業中「フンフンフン」と歌うことをやめた。総愛学院の生徒は全般的に従順だったからだ。それでも休み時間や放課後にはどの教室でも「フンフンフン」がかすかな地鳴りみたいに響いていた。神経を尖らせた神父たちは校舎を絶えず見回るようになった。彼らは授業中だけ「フンフンフン」が止めばいいと考えていたわけじゃなかった。自分たちの知らないところで生徒が「フンフンフン」とやっていることさえ許せなかったのだ。彼らは漠然と不安を感じていた。ローマ・カトリック教会の伝統を受け継ぐ彼らは、人間を解放するものに対してとても敏感だった。

「やめさせてくれないかな?」と神崎神父が言った。
「何を?」とぼくはきき返した。
 彼はニヤッと笑って黒い皮の手袋を外した。懐かしい彼の鉄の手が現れた。訓育室の壁には何十もの義手が並んでいた。黒っぽいのや青みがかったのやら、素材の金属によって微妙に色が違っているのが変にきれいだった。
「とぼけるなよ」と彼は言い、ぼくの首を鉄の手で掴んだ。「おまえと八重山がからんでることはわかってるんだ」
「ウップ」
とぼくは言い、素直にそれが『セルフレス』という八重山の新曲で、特に決まったメロディもリズムもなく、絶えず変化しながら人から人へ伝わっていく性質を持っていることを話した。神崎神父の鉄の手が恐かったからだ。
「詳しいことは八重山にきかないとわからないけど」とぼくは言った。
言いながら、自分が八重山を裏切ってるような気がした。
「あの化け物は逃げちゃったよ」と神父は言った。「すばしこいやつだからな」
「あいつは病気なんです」とぼくは言った。
「そりゃそうだろう」と神父は言った。「今度やつを退学処分にするつもりだよ」

 そんなわけで、八重山は退学になった。表向きの理由は『セルフレス』を学校中に広めたからではなく、未成年のくせにジャズ喫茶で金を稼いだり、酒を飲んだりしたことだった。万引きや無銭飲食やつり銭泥棒や婦女暴行やトルコ風呂通いはまったくとがめられなかった。
 なぜだろう?
 知らなかったからだろうか? そんなことはない。八重山がそういうことをしているのは、神戸中の誰もが知っていた。
 たぶん神父たちは彼のそういう大胆さを恐れていたのだ。彼らにはあんまり大胆な罪からは反射的に目をそらす癖があった。

 シュテルマッハー校長は、処分が発表される前に彼を校長室に呼び出して引き止めようとした。八重山みたいなピアニストを簡単に手放すのは惜しいような気がしたからだ。
「変てこな音楽をやめて、クラシックのピアノに専念すると誓ってくれたら、退学は取り消してもいいんだけどね」と校長は言った。
「あんたこそうちの姉貴に変なことするのはやめてくれないかな」と八重山は言った。
「変なことなんてしてないよ」と校長は笑いながら言った。
「おれだって変なことはしてないよ」と言って八重山も笑った。
「惜しいね」と校長は言った。「こんなに早く人生を踏み外すなんて」
「余計なお世話だよ」と八重山は言った。「おれはあんたの抑圧を発見したんだ。安っぽいいかさまの手口もね」
 八重山はだだっ広い校長室を見回した。壁という壁からたくさんの鹿の首が突き出していた。校長の大きな仕事机の後ろには、十メートル四方もある巨大な彼の肖像が掛かっていた。それはシルクスクリーンで刷られた絵で、もちろんアルパイン作だった。
「きみは自由について勘違いしてるんだ」と校長は言った。「自由はとても恐いものなんだ。ほとんど病気と言っていいほどね。ときには死ぬことだってある」
「ああそうかい」と八重山は言った。
 それだけ言うと、彼はさっさと部屋から出ていった。
「つらくなったら戻っておいでよ」と校長が彼の背中に声をかけた。「いつでも温かく迎えてあげるからね」
 八重山が学校に来たのはそれが最後になった。

「これからどうするの?」とぼくはきいた。
「別に」と八重山は言った。「今まで通りさ。また神戸でピアノを弾くよ」
「ぼくはきみを裏切らなかったよね?」
「もちろん」彼はちょっと笑い、眼鏡の奥でウインクして見せた。「おれたちはいつでもいいコンビだったよ」
「これからもだろ?」とぼくは言った。
「これからもさ」と彼は言い、またちょっと笑った。心をなごませてくれるような、いい笑顔だった。
「『セルフレス』を神戸で弾くの?」とぼくはきいた。
「正確に言うと、『セルフレス』を神戸にばらまくってことになるね」
「いつやるの?」
「まだ日程は決まってないんだ」
「決まったら教えてくれよ」とぼくは言った。「きっと行くから」
 彼はちょっと悲しそうな顔をしてぼくを見た。それから、
「きみはもうどこにいても『セルフレス』に参加してるんだ」と言った。「でも、決まったらきっと教えるよ」
 それは嘘だった。
 彼はぼくに日程を隠していた。そのときすでに彼は十月八日に例のジャズ喫茶で『セルフレス』を発表することになっていたのだ。ぼくはそのことを後から知った。どうして彼は嘘をついたんだろう? やっぱりぼくが『セルフレス』のことを神崎神父に喋ってしまったからだろうか?
 いや違う。もっと別の理由があったはずだ。彼はすでにそのとき様子が変だった。

「ぼくはもうすぐ死ぬんだ」と彼は言った。
「おやおや」とぼくは言った。冗談だと思ったのだ。
 ぼくらはそのとき地下広場にいた。彼は小さな自分のアップライト・ピアノで静かなバラードを弾きながらぼくに病人じみた笑顔を見せていた。冷凍鹿たちがぼくらを見ていた。アフリカの夏の間にアルパインが作った冷凍鹿は、彼が入院してしまってからもそのまま地下広場に置かれていた。彼らは八重山のピアノを取り巻くように、何重にも並んでいた。一番奥には元祖冷凍鹿がいた。彼は無表情な目でぼくらを見つめていた。
「きみに一度話しておこうと思ったんだけど」と彼は言った。「もう姉貴とやっていいよ」
「なんだって?」とぼくは言った。
「もうぼくに遠慮しないで姉貴とやっていいよ」彼は一言一言はっきり区切りながら言った。まるで日本語がよくわからない外国人に話しかけるみたいに。
「姉貴とやりたくない?」と彼は言った。
「やりたいよ」とぼくは答えた。ほんとはやりたいかやりたくないかよくわからなかったのだが、そのときはやりたいと答えなきゃいけないような雰囲気だったのだ。
「ぼくに遠慮してたんだろ?」と八重山は言った。
「まあね」とぼくは言った。そう口に出してみると、ほんとにそんな気がした。
「ぼくもほんとは姉貴とやりたくてしょうがなかったんだ」と彼は言った。
「おやおや」とぼくは言った。
「つまりぼくは死神に取り憑かれたわけさ」
「きみは欲望とタブーを取り違えてるよ」とぼくは言った。「人間は気が弱くなると禁止されてることを欲望の対象と勘違いするんだ。ぼくはそれがやりたいんだ、でも、それは禁止されてるんだ、なんて具合に悩み出して、結局人間を縛ろうとする卑怯者の手に落ちていくんだよ。そんなことはきみだってわかってたはずじゃないか」
「ああ、わかってたよ」と彼は言った。「でも彼女は特別なんだ。ミチコはぼくにとって特別な女なんだよ」
 彼の眼から涙がこぼれたかと思うと、頬のあたりで凍って小さな真珠になった。真珠は凍った床に落ちて跳ねながら軽い音を立てた。それはぼくの頭の中で鳴っていた三つの音によく似ていた。

               ★

 校誌に掲載される予定だった『菜の花の家』が、突然掲載拒否にあったのも同じ週だった。
「これはおまえが書いたのか?」と、国語の教師でもあり新聞部の顧問でもある河原神父が新聞部のルームでぼくにきいた。新聞部というのは学校新聞と校誌を編集しているクラブのことだ。
「ええ」とぼくは言った。
「もう誰かに読ませたのか?」
「いえ、まだ」とぼくは言った。
 ほんとはミチコや八重山や結城に読ませていたのだが、そういうことはなんとなく言いづらい雰囲気だった。河原神父がなんだか汚らわしいものでも見るような目でぼくと原稿を代わる代わる見ていたからだ。
「この小説のことは忘れろ」神父はそう言って、原稿を一枚一枚細かく破っては屑箱に捨て始めた。
「あああ」とぼくは言った。
 頭の中では河原神父を殴り倒して原稿を奪い返すところを想像していたが、実際にはただ呆然と突っ立って、次々と紙吹雪になっていく原稿用紙を見つめているだけだった。
 なぜだろう?
 たぶんその頃の総愛学院では、神父を殴るなんて考えられないことだったからだろう。それにぼくは "A Tale of A Little Thief" があまりにもやすやすと成功をおさめたので、第二作がこんなひどい目に遭うとは予想もしていなかった。だから、目の前で行われてることがどんなことなのか、すぐにはピンとこなかったのだ。ぼくは空想癖が強くて、目の前の現実には敏捷に対応できないたちの子供だった。
 そんなわけで『菜の花の家』の原稿はあっさり紙吹雪になってしまった。もっともそれはこの作品のほんの書き出しの部分で、病気の兄が死んで、兄嫁と弟がセックスしようとして失敗するところで終わっていた。しかも、河原神父に見せるために清書した原稿だったから、元原稿のほうはまだノイマン屋敷に保管されていた。つまり、紙吹雪になってしまっても、原稿の内容が失われたわけではなかったのだ。しかし、ぼくは作品が否定され、拒絶されたことにショックを受けていた。それは初めての経験だった。
「どうしてこんなものを書いたんだ?」と河原神父はひどい悪戯をした生徒を叱るような口調で言った。「こんなもので一体何が言いたかったんだ」
「書きたかったのは自由と抑圧の問題です」とぼくは言った。
 河原神父の眉毛が片方だけ大きく吊り上がった。
「なんだって?」
「自由と抑圧の⋯⋯」
「馬鹿を言うな」神父は突然立ち上がって怒鳴った。「子供に自由と抑圧がわかってたまるか」
 ぼくは黙って神父の顔を見上げていた。たやすく反論できそうな気もしたが、何から話していいかわからなかった。話が通じるという自信もなかった。ぼくは架空の読者を想定しながら書く作家だった。話の通じない相手に語りかけるのは苦手だった。
「元気を出せ」最後に河原神父は急ににっこり笑ってぼくの肩を叩いた。「おまえは才能があるんだ。またいいものが書けるさ。ちょっと何を書いていいかわからなくなっただけだよ。子供だから仕方ないさ。なんて言ったかな、あの英語の小説みたいなのを書けよ。
ああいう美しい物語を」
「ええ、まあ、そのうち」とぼくは言った。ぼくの頭の中には、どうして "A Tale of A Little Thief" が美しくて、『菜の花の家』が美しくないのかという疑問が渦を巻いていた。しかし疑問は一言も口から出てこなかった。

「ひどいな」とヒューストンが言った。
 ヒューストンというのは新聞部の部長だ。別に外国人じゃない。ヒューストンというのはあだ名だ。本来、歳から言えば高等部の三年になっているはずだったが、二度留年しているのでまだ一年だった。それでも年齢のせいで生徒たちからも教師からも一目置かれていた。勉強はできなかったが、文学に関しては学校の誰よりも詳しいという噂だった。《ヒューストン》というあだ名がどうしてつけられたのかはよくわからない。みんながそう呼んでいたのだ。もしかしたら落第するときの音を表現した言葉なのかもしれない。当時はアメリカの人工衛星の打ち上げ基地もヒューストンにあった。
「ひどいじゃないですか」とヒューストンは河原神父に言った。神父が原稿を紙吹雪にし終わったときだ。
「そうかい」と河原神父が言った。
「これは画期的な作品ですよ」とヒューストンはごみ箱の中を指差しながら言った。「この作品に比べたら、今まで校誌に載せてきた小説は子供の作文です」
「画期的ねえ」と河原神父は言った。
「こういう時代ですからね」とヒューストンは得意げに言った。「うちの校誌も画期的な小説を載せるべきなんですよ」
「画期的⋯⋯」と河原神父は繰り返した。
 ぼくは横で聞いていて首のあたりが痒くなるのを感じた。なぜだろう? たぶんヒューストンの喋り方が変だったからだ。彼はしきりに画期的という言葉を使ったが、それを「ガキテキ」と発音した。神父はそのたびに「カッキテキ」と訂正したが、ヒューストンは構わず「ガキテキ」と繰り返した。きっと彼は子供のうちにこの言葉を間違って覚えてしまい、そのまま「ガキテキ」と発音するものだと思い込んだまま高校まできてしまったのだろう。ぼくにはそれがなんとなく悲劇的なことのように思われた。
 なぜだろう?

「まかせとけ」とヒューストンは河原神父が行ってしまってからぼくに言った。「きみの小説はちゃんと校誌に載せてやるからな」
「大丈夫ですか?」とぼくは言った。
「まかせとけ」とヒューストンは言った。彼は浅黒い顔に焦げ茶色の縁のすごく高そうな眼鏡をかけていたし、表情はとても知的で大人びていた。彼に「まかせとけ」と言われると、なんとなくもう安心という気がした。なにしろ彼はもう三年も新聞部の部長を務めていたのだ。
「見てろよ。河原を大衆団交で吊るし上げてやるからな」ヒューストンは楽しそうに笑った。
「タイシュウダンコウ」とぼくは呟いた。
 そのときぼくは大衆団交がどういうものなのか知らなかったのだ。
「今夜、大衆団交をやるんだ」とヒューストンは言いい、愉快そうに笑った。「教師を全員集めてな。もう校庭三十周とか便所掃除とか海軍兵学校みたいな制服とはおさらばさ。明日からビートルズみたいな恰好で登校できるんだ」
「ふうん」とぼくは言った。
《ビートルズみたいな恰好》という表現からぼくが連想したのは、アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のジャケットに写っている彼らの恰好、黄色とか赤とか青のけばけばしい軍服みたいな服装だった。

 ぼくはその夜、大衆団交を見にいった。校舎の最上階にある大教室に高等部のほとんどの生徒が集まっていた。
 一九六八年の高校生の間では、大衆団交が流行っていた。ロングヘアの禁止とか、制服制帽の着用とか、学校帰りの飲食の禁止とか、当時の総愛学院は生徒を規則でがんじがらめに縛っていたのだが、高校生たちはこうした規則を廃止して、生徒の自治を学校に認めさせようとしていた。もっとも、そういうことがわかったのはもっと後のことだ。そのときのぼくはただぼんやり大教室の中を覗いていただけだった。高等部の連中は中等部を子供扱いしていたので、ぼくらは中に入れてもらえなかったのだ。
 中等部の生徒が他にも数人、窓の隙間から覗いていた。彼らは中等部の中でもわりとませた連中で、大衆団交で何かが変わることを期待していた。
 大教室の中は眩しい光が溢れていた。中の高校生はみんな立ち上がって腕を振り回しながら何か叫んでいた。 
 ぼくには彼らが「ガーガーガーガー」と言ってるように聞こえた。
「ガーガーガーガーガーガー」
 高さ一メートルほどの大きな教壇の上には神崎神父と訓育生たちが立っていた。ほかに神父たちはいなかった。神崎神父は片目をくすぐったそうにつぶりながらにやにや笑っていた。訓育生たちは神父の後ろで腕を後ろに組み、脚を少し開き、真っすぐ前を向いたまま動かなかった。彼らはいつもの服装、つまり白いトレーニング・パンツに白い襟なしのワイシャツ、白い運動靴といった白ずくめの恰好をしていた。頭は特に念入りに刈り上げて、ほとんど禿げ頭みたいになっていた。
 高校生たちは一時間ほど「ガーガーガーガー」と叫んでいた。
「ガーガーガーガーガーガーガーガーガーガー」
 それから気の短い連中が一人二人と教壇の上に飛び上がり出した。彼らは神崎神父に掴みかかりながら、「ガーガーガーガーガー」と叫んだ。すぐに後ろに並んでいた訓育生たちが彼らを神父から引き離し、おなかを蹴ったり後頭部を殴ったりしておとなしくさせた。席にいる生徒たちは相変わらず手を振り上げて「ガーガーガーガー」と言っていた。教壇に上がろうとする生徒はあとを断たなかったが、みんな一人か二人ずつ上がっていくので、簡単に訓育生に押さえられてしまった。春からの訓練が訓育生を鍛えていた。彼らは一発のパンチや膝蹴りで、簡単に相手を気絶させることができた。
「ばかだなあ」とぼくの横で中を覗いていた中等部の生徒が言った。「もっと大勢で一度にかかっていけばいいのに」
 彼は廊下の窓を大きく開けて、教壇に向かって「ガーガーガーガー」と叫んだ。
「よせよ」と彼の横にいた別の中学生が言った。「見つかっちゃうじゃないか」
「かまうもんか」と最初の生徒が言った。「あんなやつら、恐くないよ」
 ぼくは大教室の真ん中あたりにヒューストンがいるのを見つけた。彼は他の生徒と同じように立ち上がって腕を振り上げながら「ガーガーガーガー」と叫んでいた。ぼくは騒音の中で、彼がぼくの作品を擁護し、校誌か学校新聞に連載するよう求める言葉を聞き取ろうとした。しかし、ぼくの耳には「ガーガーガーガー」という声しか聞こえなかった。
 そのうち神崎神父と訓育生たちは、教壇から降りて廊下に出てきた。高校生たちの何人かが彼らを行かせまいとして出口に立ちふさがったが、あっさり腹を蹴られて廊下にはじき出された。
「やあ、来てたのかい」と神崎神父がぼくを見つけて声をかけてきた。同時に鉄の義手が伸びてきて、ぼくの首を掴んだ。とたんに金属の冷たい感触がぼくの全身にしみわたった。
「今晩は」とぼくは言った。
「きっと来てると思ったよ」
 神父はそう言いながらちょっとうれしそうに笑うと、あっさりぼくの首から手を離して行ってしまった。ぼくは呆然と彼と訓育生たちを見送った。ふと気がつくと、ぼくの足元にはさっき教室の中に向かって「ガーガーガー」と叫んでいた中等部の生徒が蹲っていた。訓育生に殴られたのだろう。教室の中では高校生たちがまだ「ガーガーガーガー」と叫んでいた。
 その晩の大衆団交はそれでおしまいだった。
 一九六八年の総愛学院で開かれた大衆団交もそれが最後になった。

 大衆団交が行われたのは土曜日の夜だった。そして月曜日の朝、ぼくが登校すると、高等部の生徒たちが運動場を走らされていた。頭は訓育生と同じようにツルツルに剃られていた。全員が素っ裸で、四列従隊を組み、おちんちんをブラブラさせながら走っていた。大衆団交に参加した連中だった。ヒューストンも列の後ろのほうで、頭から湯気を立て、息を切らしながら走っていた。校舎の前で、大衆団交に加わらなかった高校生たちが、やや蒼ざめた顔で笑いながら見物していた。彼らはその日夕方まで運動場を走らされていた。多分百周以上しただろう。
 それが大衆団交の結末だった。

「大丈夫ですか?」とぼくはヒューストンに声をかけた。
 夕方の新聞部の部室で、彼は椅子を三つ並べてその上に死んだように横たわっていた。頭を剃った彼はなんとなく壇家の奥さんとセックスした後の坊さんみたいに見えた。
「心配するな」彼はぼくの声を聞くと、バネ仕掛けのおもちゃみたいに元気よく起き上がった。
「一体あれから何があったんです?」
「まあ、色々さ」彼は悪びれずに言った。
「色々⋯⋯」とぼくは呟いた。
 彼が案外ケロッとしてるので、ぼくは安心すると同時にちょっとがっかりした。なんとなく真剣みが足りないような気がしたからだ。
 土曜日の大衆団交の後、学校は高等部の生徒の親に電話をかけ、日曜日に全員を学校に呼びだした。神崎神父は彼らに、息子たちの頭を丸坊主にしろ、さもないと退学にするぞと脅した。親たちはびっくりして飛んで帰り、息子たちを丸坊主にしてしまった。そして息子たちは月曜日の朝、一時間早く登校させられ、素っ裸で走らされるはめになったというわけだ。
「心配するな」とヒューストンはまた力強く言った。「それよりきみは小説を書けよ。こんなことくらいで挫けちゃだめだ」
「ええ」とぼくは言った。「でも、校誌に乗せるのはもう無理でしょうね?」
「そんなことはないよ。この次はやつらをねじ伏せてやる」
「大丈夫ですか?」
「まかせとけ」ヒューストンは軽く胸を叩いて笑い、また椅子の上に横になった。
「もっと大勢で一度に飛び掛かれば訓育生なんて簡単にやっつけられたのに」とぼくは言った。
「そうか」と言いながら、ヒューストンはまた勢いよく起き上がった。「それは気づかなかったな」
「そうでしょう」とぼくは言った。「一度に飛び掛かるにかぎりますよ」
「そうだな」とヒューストンは言った。
 しかし、すべてはそれでおしまいだった。
 結局、高校生は二度と大衆団交を開こうとしなかったし、『菜の花の家』は校誌に掲載されなかった。

              ★

 十月に入ると、六甲山に冷たい霧雨とホイップクリームみたいな霧が戻ってきた。天気の悪い日には運動場も校舎も一日に何度となく霧に覆われ、一メートル先も見えなくなった。窓の外一杯に広がっていた神戸の街のパノラマは白い闇の中に飲み込まれてしまった。ホイップクリームの霧の中では、よく生徒たちが走らされていた。授業中の雰囲気がだらけているとか、朝礼のときの態度が悪かったといった理由で⋯⋯。それは春から途絶えていた習慣だった。どうしてそれが突然復活したのかよくわからない。高等部の生徒たちが大衆団交の直後に坊主頭で走らされてから、神父たちはかつての自信を取り戻したのかもしれない。特に神崎神父は見違えるように元気になっていた。
「ほら見ろ」と彼は廊下ですれちがったとき、ぼくに言った。「いつかはこうなると思ってたんだ」
「こうなる」とは、また生徒を好きなときにいじめることができるようになるという意味だ。
「やれやれ」とぼくは言った。
 それでも、こんなふうになったことを、みんなそれほど不思議なことだとは感じていなかったような気がする。ぼくらは毎日のように校庭を何十週も走らされるようになったが、すぐに慣れてしまった。子供は新しい習慣にすぐ馴染む。ましてほんの半年ほど中断していた習慣なら、なおさらのことだ。ぼくらは再び校庭を走るようになって、懐かしい感覚が蘇ってくるのを感じた。体を冷たい水でごしごし洗われるような感じだ。総愛学院に半年でも通ったことがある人間なら誰でも知っている。この感覚に馴染むのに時間はかからない。そして、いくら長い期間忘れていても、すぐに思い出すことができる。
 なぜだろう?
 ぼくらはすぐに春以来この習慣が途絶えてしまっていたことすら忘れてしまった。
 なぜだろう?
 ぼくらはショート・パンツ一枚の裸、それも裸足で冷凍庫みたいに冷たいきりの中を走らされていたが、それが馬鹿ばかしくて惨めなことだとは誰も感じていなかった。
 なぜだろう?

 一九六八年の秋の霧はとりわけ濃厚だった。洞窟の中の空気のように冷たくて、かすかに果物の匂いがした。ぼくらの学年はとりわけしょっちゅう裸で校庭を走らされたので、ぼくらのからだは生クリームと果物の匂いがした。
 ぼくらはホイップクリームの霧の中をカサカサ音を立てながら走った。カサカサという音は半分凍った裸足のステップの音や、霧に紛れて交わされるヒソヒソ話の声だった。ときどきからだとからだがこすれあうシュッシュッという音も聞こえた。霧で一メートル先も見えないので、どうしても互いにぶつかってしまうのだ。それからもっと大きなプシュップシュッという音が聞こえることもあったが、これはからだとからだが激しくぶつかったり、躓いて倒れたり、倒れたやつにまた躓いて倒れたりするやつらの立てる音だった。
 プシュップシュッという音が聞こえたら、ぼくらはやたらとピョンピョン跳びはねなければならなかった。倒れたやつに躓かないようにするためだ。跳びはねると、着地したときに倒れてるやつを踏んづけてしまうこともあったが、何十人も将棋倒しになるのを避けるためには、とにかく跳ぶしかなかったのだ。
 プシュップシュッという音とともに、ホイップクリームの霧の中からイチゴのトッピングソースみたいなものが流れてきて、アイスクリームみたいに凍えているぼくらのからだにふりかかった。それは倒れたやつの鼻血だった。これもちょっと懐かしい匂いだった。
 一九六七年の秋からぼくは何度となくこの赤いソースを浴びていたからだ。

 霧の中で神崎神父がマイクを通して喋る懐かしい声が聞こえた。
「逃げるなよ」と彼は言った。その声は校庭のあちこちに取り付けてあるラッパ型のスピーカーから流れて、ゆっくりと水の波紋みたいに濃い霧の中を広がり、あちこちの山の尾根にぶつかってはこだまになって戻ってきた。「逃げるなよ。逃げても、逃げても、無駄だからな、無駄だからな。おれは、おれは、いつでも、いつでも、おまえたち、おまえたちを、見張ってるからな、見張ってるからな。どんなにどんなに霧が霧が深くたって深くたって、おれには、おれには、おまえたちが、おまえたちが、はっきり見えるんだ、はっきり見えるんだ」

 ぼくは一九六七年の秋みたいに霧に紛れて隊列からこっそり離れた。校庭のまわりには一九六七年の秋みたいにカーネル・サンダース人形にそっくりのコッホ神父の人形が並んでいた。それは一九六七年のはりぼてより数段精巧にできていた。もちろんそれはアルパインが神父に進呈した偽のカーネル・サンダース人形だったが、進呈したあとアルパインはそれをコッホ神父人形だと主張していた。まあ、コッホ神父はカーネル・サンダースにそっくりだったから、どっちでも同じことなのだけれど⋯⋯。ぼくはそのコッホ神父人形を蹴り倒して庭園まで走った。もうこの手の子供だましに怯えるような年ではなくなっていたのだ。この一年でぼくはいろんな経験を積んでいた。秋の山の静けさも、冷たい雨や霧も去年そのままだったが、ぼく自身はすっかり変わっていた。自分が何者なのかはわからなかったが、自分が変わったことだけははっきり感じていた。
 ぼくの後ろではまだ神崎神父の「逃げるなよ。おれはおまえたちをちゃんと見ているぞ」と言う声が反響していたが、誰も追い掛けては来なかった。ホイップクリームの霧の中で逃げる生徒を見つけるなんて、本当はできるはずがないのだ。「おまえたちをちゃんと見てるぞ」というのも、カーネル・サンダース人形と同じ子供だましの脅しだった。ぼくはもう神父たちの手口を知り抜いていた。

 ぼくは庭園の斜面を駆け下り、洞窟の入り口の一つに潜り込んだ。中には冷凍鹿や冷凍カラスがたくさん置いてあったが、夏みたいにヒッピーたちが暑さを避けてたむろしてるということがなかったので、楽に歩くことができた。しかもカラスもカチコチに凍っていたが、洞窟の中の空気はホイップクリームの霧の中より少し温かかった。
「ああ」とぼくは言った。
 洞窟の中で「ああ」という声が幾重にもこだまして響きながら消えていった。それはまるで冷凍カラスが鳴いてるみたいだった。ぼくはひとりぼっちだった。すごく孤独だった。
 ぼくは八重山のピアノと元祖冷凍鹿がいる地下広場に行った。そこには相変わらず何十頭もの冷凍鹿がピアノと元祖冷凍鹿を何重にも囲んで坐っていた。まるで彼らがコンサートの客で、これから元祖冷凍鹿がピアノの独奏をやるみたいな感じだった。ぼくは入り口にもたれて、ぼんやりと待っていたが、もちろんいつまでたっても演奏は始まらなかった。
「何か弾いてよ」とぼくは元祖冷凍鹿に言った。「できればバラードか何かを」
「おれはピアノが苦手なんだ」と鹿が言った。「なんなら自分で弾いたらどうだい?」
 ぼくはピアノのところへ行き、冷えきった手で『コートにすみれを』を弾いた。一九六八年の秋から一年かかってマスターした曲だ。八重山が弾くバラードの中でぼくが一番好きだった曲だ。彼は自分で弾くときみたいにブロックコードでメロディの一音一音を支える弾き方ではなく、ぼくにも弾けるようなやさしいアレンジを考えてくれたのだ。
『コートにすみれを』はマット・デニスが一九四一年にトミー・ドーシー楽団のために書いた曲だ。このとき歌ったのは、当時この楽団の専属歌手をしていたフランク・シナトラだった。作詞はトム・アディアで、ニューヨークの冬の恋を歌っている。
 真冬のマンハッタンで、男は買ってきたすみれの花を彼女の毛皮のコートにさしてやる。十二月だというのに、彼らのまわりだけはまるで春が来たように温かくなる。雪がちらちら舞い落ちてきて、すみれの花びらの上にかかってはすぐに溶けていく。彼女が男にやさしく微笑みかけ、男は自分たちが完璧な恋の中にいることを知る⋯⋯。そんな内容のラブバラードだ。
 二十年後に、晩年のビリー・ホリデイがこの曲を吹き込んでいるが、そこでは歌詞の男と女が逆になっている。
 そしてその少し前、一九五七年にジョン・コルトレーンは初のリーダー・アルバムでこの曲を吹いている。ピアノは当時マイルス・デイビス五重奏団で同僚だったレッド・ガーランド。一九六八年の春に八重山の家で初めて聴いてから、この曲はこの年のぼくのテーマ曲になった。夏のように暑かった春にも、アフリカみたいに暑かった夏のあいだもずっと、ぼくの耳の底にはこの曲が流れていた。そして冷たい雨と霧の秋になって、ますますぼくは耳の底でこの曲を聴くようになっていた。完璧な恋を歌ったバラードなのに、ぼくにはこの曲がなぜか遠い過去に失われた恋を歌っているように感じられた。それは歌詞がすべて過去形になっているからだろうか? 多分それだけじゃないだろう。メロディにもかけがえのないものが失われてしまったときの孤独が漂っている。ぼくは『コートにすみれを』を何度も弾きながら、自分の孤独をかみしめていた。もう八重山も結城もそばにいなかった。

 その頃、結城とはもうほとんど口もきかなかった。別に喧嘩したわけじゃない。ただ、ぼくのほうで彼と話すのが苦痛になったのだ。彼のほうは、毎日教室で顔を合わせるたびに、ぼくに笑いかけたり、小さく手を振ったりした。彼はアフリカの夏に起こったことをなんとも思っていなかったのだ。
 彼は運動部の連中と夏休みにものにした女の子たちのことを話し合っていた。その大半はでたらめか、かなり誇張された手柄話だったが、結城の顔にはほんとに女の子とやったという誇りと余裕が表れていた。もう誰も彼を女の子みたいに扱わなかった。
 ぼくのほうはそのことでひどく傷ついていた。だから彼の目を見つめたり、笑顔を見せたりできなかった。ぼくには彼がすぐそばにいること自体がとてもつらいことになっていたのだ。

              ★

「結城とはどうして別れたの?」とぼくはマリコにきいた。
 一九八八年のことだ。
「市民プールであなたがわたしからあの人を取ろうとしたからよ」と彼女は答えた。
「悪かったね」とぼくは言った。「でもそれは一九六八年の夏の話だろ。ぼくが言ってるのは結婚したときのことさ」
「なんだ」とマリコは言って、ちょっと笑った。「あの人は男らしくしようと努力してたけど、わたしにはそれがとても気詰まりだったのよ。たぶんあの人にとってもすごく息苦しかったと思うわ」
「そうか」とぼくは言った。
「でも、あの人はいい人だったわ」と彼女はつけ加えた。「今でもたぶんいい人よ」
「そうだね」とぼくは言った。

            ★

「へたくそ」と元祖冷凍鹿が言った。
 一九六八年の地下広場でのことだ。ぼくは飽きもせずに繰り返し『コートにすみれを』を弾いていた。元祖冷凍鹿がそう言わなかったら、朝までだって弾いていただろう。
「しょうがないよ」とぼくは手を止めて元祖冷凍鹿に言った。「ぼくは八重山じゃないんだから」
「人には役割ってものがあるんだよ」と元祖冷凍鹿は言った。「おまえの仕事は小説を書
くことじゃなかったのか?」
「書いてるよ」とぼくは言った。
「どんな小説だ?」
「『菜の花の家』っていうんだ」
「題名がよくないな」と元祖冷凍鹿は言った。「『天使よ、故郷を見よ』みたいな気のきいたタイトルを考えたほうがいいぞ」
「考えてみるよ」
 ぼくはピアノ越しに元祖冷凍鹿をじろじろ眺めた。オルガンみたいに小さいアップライト・ピアノだったから、椅子にかけたままでも向こうがよく見えたのだ。元祖冷凍鹿は去年からずっと同じ位置に蹲っていた。ピアノから数メートル離れて、いくつか抜け穴のあいた岩の壁を背にして坐り、四本の足を優雅に折り曲げて、長い首をピンと立てて、黒いガラスみたいな眼でぼくを見つめていた。ときどきかすかな風が穴のどこかから吹き込んできて、ぼくの鼻をくすぐった。元祖冷凍鹿は黴の臭いがした。
「さみしくない?」とぼくはきいた。
「さみしいよ」と元祖冷凍鹿は答えたが、その声はカークパトリック神父の声に似ていた。「永遠にそこに坐ってるつもり?」とぼくはきいた。
「できればそうしていたいけど、無理だろうね」と元祖冷凍鹿がカークパトリック神父の声で言った。「おれは校長に飼われてる家畜なんだ」
「きみは夢を見てるんだよ」とぼくは言った。「夢から覚めなきゃいけないよ」
「わかってるさ」と元祖冷凍鹿がカークパトリック神父の声で叫んだ。「自分の力で覚めることができるものなら覚めてみたいよ」
 ぼくは立ち上がって身を乗り出し、ピアノの向こう側をのぞき込んだ。カークパトリック神父の声がピアノのすぐそばで聞こえたからだ。
 神父はそこにいた。ピアノにもたれかかり、膝を抱えてしゃがみ込んでいた。隠れんぼで隠れたままみんなに忘れられてしまった子供みたいだった。
「先生」とぼくは言った。

 カークパトリック神父に会うのは久しぶりだった。新学期が始まってから、一度も英作文の授業に出てこなかったからだ。カークパトリック神父は病気だという発表があり、別の神父が代わりに授業をやっていた。
「おれはすっかりどうかしちまったよ」と言いながらカークパトリック神父は立ち上がった。「魂を吸い取られちまったんだ」
 彼のからだはミイラみたいに痩せこけていて、立ち上がるときカサカサと音がした。二百年前の葡萄酒の壜みたいに強烈な黴の臭いがした。彼はもう神父の服装をしていなかった。神父の服というのは黒い上着に黒いズボンに黒いシャツに白い付け襟のことだ。真夏にはグレーのズボンに白いシャツを着ることもあったが、正装はあくまで黒ずくめに白カラーだった。ところがそのときのカークパトリック神父は汚れたブルージーンズのパンツに茶色と赤のチェックの綿シャツを着て、カウボーイ・ブーツをはいていた。アメリカの落ちぶれた農場主といった感じだった。ずいぶん老けて見えた。
「先生」とまたぼくは言った。「しっかりしてよ。一体どうしたっていうのさ?」
「何度も言わせるなよ」と神父は言った。「おれは死神に取り憑かれてるんだ」
「死んじゃやだよ」とぼくは言った。「あの小説を出版してくれるって約束したじゃないか」
「安心しな」と神父は言った。「あの原稿はもう上智大学の語学実験室に渡ってるんだ。おれが死んじまっても本は出るよ」
「そう」とぼくは言った。「そりゃよかった」
 実のところ、ぼくはちっともうれしくなかった。ぼくが言いたかったのは、本が出るかどうかじゃなかったからだ。ぼくは半分あの世に足を踏み込んでしまったカークパトリック神父を引き戻したかったのだ。
「先生はもう一度生きるべきなんだよ」とぼくは言った。
「もうだめさ」と神父は言った。それからぼくの顔をじろじろ見ながら薄笑いを浮かべた。変な笑い方だった。「おれは恐いんだよ。自由ってやつがね。校長にしっかり首を掴まれてるんだ。おまえには見えないだろうけど、おれのここには校長のつけた首輪がしっかりはまってるんだよ」そう言いながら彼は自分の首を精一杯伸ばし、喉仏のあたりを指差して見せた。彼の喉は皺だらけだった。だぶついた皮が赤茶けて、剥いだ後の鹿の腹の皮みたいだった。
「一体何があったの?」とぼくはきいた。「夏のあいだずっと見てたんだ。先生は校長や八重山のお姉さんと一緒に毎日何かしてただろ? 一体何をしてたのさ?」
「言えないよ」神父はさみしそうに笑った。「校長に怒られるからね。最近の校長はすごく厳しいんだ」

「ひどいな」とぼくは言った。「先生はそんな人じゃなかった。夏までの先生はもっと勇気があって、ちゃんとしてたじゃないか」
「大人を信用しちゃいけないよ」と神父は言った。「大人ってやつは平気で子供に嘘をつくんだ。自分が人間の屑のくせに、子供の過ちは大威張りで怒鳴りつける。それもこれも臆病だからさ」
「そうだったのか」とぼくは言った。「じゃ、さよなら」
 ぼくはピアノから離れた。神父と元祖冷凍鹿からゆっくりと離れた。彼らと反対側にあいている穴からノイマン屋敷に続く地下通路に入ろうとした。
「行っちゃうのかい?」と神父が言った。
「うん」ぼくは彼のほうをちょっと見た。神父は不安そうな顔をしていた。
「いやに冷たいじゃないか」神父は酔っ払ってるみたいな顔でぼくを睨みつけながら笑っていた。
「用事があるんだよ」とぼくは言った。
 それは嘘だった。ぼくは校庭三十周の罰から裸で逃げ出してきただけで、これからどこへ行こうという予定はなかった。ただそれ以上カークパトリック神父を見ていたくなかっただけだ。彼は変わってしまっていた。すっかりボロボロになってしまっていた。当時の彼の歳に近くなって、自分もボロボロになりかけている今なら話は別だが、一九六八年のぼくはまだ十五歳で、人間の堕落とか衰弱、疲労といったものにひどく冷淡だったのだ。
 ぼくはそのときもうそれ以上彼と話していることに耐えられなかった。
「彼女に会いにいくんだろ?」と神父は言った。
「そうだよ」とぼくは言った。《彼女》というのはミチコのことだ。ぼくはそのときまでミチコに会いにいこうなんて考えていなかったが、そう言われてみると、ノイマン屋敷に行ってみるのも悪くないんじゃないかという気がした。
「よろしくいってくれよ」と神父は言った。
「わかったよ」とぼくは言った。
「どうせ、今夜会うだろうけどね」
「さよなら」とぼくは言い、地下通路から摩耶山へ続く谷間の斜面に出た。

            ★

 霧はきれいに晴れていた。谷間の木立の中はヒッピーたちでごった返していた。相変わらず焚き火をたいて夕食を作っている連中もいたが、中にはテントをたたんでる連中や、大きな荷物を背負って山を降りていく連中もいた。
「どうしたの?」とぼくは言った。
「見りゃわかるだろ」とヒッピーの一人が言った。「山を降りるのさ」
「どうして?」
「もうこの山はキャンプを張るには寒すぎるんだよ」
「これからどこにいくの?」

「街に出てみるよ。街は燃えてるって噂だからね」
 ぼくらのいる場所からはわずかに神戸の海べりのあたりが見えるだけだったが、それでも街のところどころでオレンジ色の火が焚かれているのが見えた。
「どうしたんだろう?」とぼくは言った。
「火を焚いてるのさ」とヒッピーが言った。
 若い連中が街のいたるところで焚き火をしているという噂だった。焚き火の火は確かに街のネオンの明かりとはまるで違う色をしていた。金色や、それよりやや濃いオレンジ色の細かな光の点が星のように輝いていた。彼らは街の角という角で焚き火をして車の流れを止めていた。火のまわりには何十人、何百人という人間が集まって火を眺めていた。
 最初はほんの数人が歩道の角のところで小さな紙屑を燃やすのだ。そのうち板切れやたくさんの紙屑を持った人たちが一人二人とやってくる。火はだんだん大きくなって、四つ角あるいは信号のある大きな交差点の真ん中へと広がっていく。交通が遮断されるが、別に問題は起こらない。文句を言いに車から降りてきたドライバー、ライトバンで品物を納品に行く営業マン、九州や四国や東北まで荷物を運ぶ途中のトラックの運転手なども、喋っているうちに次々と焚き火に加わっていく。
 そんな噂だった。
「一体何が始まったの?」とぼくはきいた。
「さあね」とヒッピーが言った。
「歌をうたってるらしいよ」と別のヒッピーが言った。
 そういう噂だった。
 神戸の街では角という角で何十何百という人が集まって火を焚きながら歌をうたっていた。そして六甲山の谷間では、ヒッピーたちの約半数が山を降りて焚き火と歌に加わろうとしていた。
「どんな歌?」とぼくはきいた。
「さあね」とヒッピーが言った。「いろんな歌さ」

 ノイマン屋敷はひっそり静まり返っていた。あたりはもう薄暗かったが、どこにも明かりひとつついていなかった。若いアーティストたちは一人もいなかった。アルパインが行ってしまってから、みんな山を降りていったのだ。ヒッピーたちの噂ではアーティストたちの多くはやはり神戸で焚き火に加わってるということだった。
 ミチコは二階のサンルームにいた。部屋は外と同じくらい薄暗かったが、真ん中に彼女が座り込んでるのはよく見えた。真夏にいつも着ていた白いベアトップの部屋着を着ていたからだ。サンルームには一面に平たい小石が敷き詰められていた。ゴキブリの子供みたいに小さな石だった。ツルツルした感触がぼくの凍えた足の裏には心地よかった。
 ミチコは少し伸びた髪を揺するようにときどき首を振りながら、小石を一つずつ口に放り込んでいた。
「待ってたのよ」と彼女は言った。それから石をコリコリと噛んだ。
「なんだか恐いんだ」とぼくは言い、彼女にからだをくっつけるように座り込んだ。
「女の子みたいなこと言わないの」と彼女は言い、ぼくの凍えたからだを裸の腕で抱き寄せた。彼女の腕はすごく柔らかく、羊の内臓みたいに温かかった。
「食べる?」と彼女は言い、床に積もった小石を一すくいしてぼくに差し出した。
 小石は南国の甲虫みたいに白い縦縞模様がついていた。ぼくは首を横に振った。ミチコはいくつか小石の皮を剥き、細かい中身をぼくの鼻の下に差し出した。小石の中身はゴキブリの赤ちゃんみたいに小さかったが、クルミを噛んだときのような香ばしい匂いがした。ミチコの手のぬくもりと彼女独特の淡い草の香りが一緒にぼくの鼻の下で揺れていた。
「ヒマワリの種よ」と彼女は言った。
「ヒマワリ?」とぼくはきいた。
「ヒマワリよ」と彼女は言った。
「ヒマワリだ」とぼくは言った。

 サンルームの床一面に厚く敷き詰められていたのはヒマワリの種だった。そうとわかった瞬間に、部屋一杯にアフリカの夏の匂いが蘇ってきた。ミチコは夏の終わりに一人で枯れたヒマワリの花を刈り、巨大な花の残骸から無数の種を集めたのだった。種は彼女がすっぽり入ってしまうほど大きな篭に何杯も取れた。彼女が大きなフライパンでていねいに煎ると、それは香ばしい真夏の匂いを屋敷中に振りまいた。過ぎ去ったアフリカの夏を偲ぶために、彼女はそれをサンルーム一杯に敷き詰めた。
「全部一人でやったのよ」と彼女は言い、ぼくの口にヒマワリの種の中身をまとめて放り込んだ。ぼくはそれをコリコリと噛んだ。脂っこい甘い味が口一杯に広がった。
「口一杯の真夏だ」とぼくは言った。
 ヒマワリの種を噛み締めながら、ぼくは過ぎ去ったアフリカの夏を味わい、窓の外に広がる茶色い草の海を眺めた。それはミチコに首を刈られたヒマワリの茎の海だった。巨大な葉っぱも、人間より高かった茎も、今では惨たらしく黒ずんでばらばらに倒れていた。
「アフリカの夏が消えちゃった」とぼくは言った。
 口の中で噛みしめていたヒマワリの種があっというまに噛み砕かれ、喉の奥に流れて消えてしまったからだ。
「平気よ」とミチコは床からまたヒマワリの種をすくいながら言った。「ここにはいくらでも真夏があるんだから」
 ぼくも床から種をすくって一つ一つ皮を剥き、口の中に放り込んだ。またつかの間の夏が戻ってきた。ミチコはアフリカの夏を口の中で噛みしめながら、たっぷりした部屋着の裾を持ち上げて、ぼくの冷えきったからだにすっぽりとかぶせ、自分も肩と腕と首をその中に潜り込ませてきた。白く柔らかい木綿の部屋着は小さなテントみたいにぼくとミチコを包み込んだ。部屋着の中は彼女のからだのぬくもりで温かかった。彼女は半分凍っているぼくのからだを抱き寄せ、自分のむいたヒマワリの種を次々とぼくの口にねじ込んだ。
母鳥からエサをもらう雛みたいにぼくは大きな口をあけてアフリカの夏のかけらをぱくついた。

「種をとるのは大変だったのよ」と彼女は言った。
「誰も手伝ってくれなかったの?」
「アーティストたちが山を降りちゃったからね」と彼女は言った。「最近はあなたも弟も来てくれなかったし⋯⋯」そう言いながら彼女はちょっと笑った。まるで何か楽しい冗談を言ったみたいだった。
「学校で毎日走らされてるんだ」とぼくは言った。「秋だからね。八重山は学校をやめちゃったし、結城は女の子のことばかり話してるし⋯⋯。さみしかったけど、ここに来る時間がなかったんだよ」
「ここは真夏よ」とミチコは言い、かたちのいい胸をぼくの方に押しつけながら笑った。
 彼女の部屋着の中はとても明るかった。ぼくはショートパンツ一枚だったが、彼女も部屋着の中は淡い玉子色の小さなパンティをはいてるだけだった。ぼくらは部屋着のテントの中で頬っぺたをくっつけ合いながら子供みたいに笑った。彼女のからだはかすかに夏の花の匂いがした。朝露をたっぷりのせたグラジオラスやホウセンカの匂いだった。
「頼むから教えてよ」とぼくは言った。「毎日学校で何をしてるの?」
「毎日なんか行ってないわ」と彼女は言った。「ときどき行くだけよ」
「嘘だ」とぼくは言った。「そういうごまかしにはもう耐えられないよ。ぼくはこのままじゃ死んじゃいそうなんだ」
 ぼくはミチコの痩せた腕を掴んだ。
「痛い」と彼女は言って、かすかに笑った。「わたしはとてもこわれやすくできてるのよ。わたしを殺したいなら首を絞めてくれない?」
「ぼくはきみが学校に何をしに行くのか知りたいんだ」とぼくは言った。
「知ってるくせに」と彼女は笑いをこらえているような、高く澄んだ声で言った。鈴がコロコロと鳴るような声だった。
「知らないよ」とぼくは言った。「きみは学校に来るときはぼくと顔を合わせないようにしてるじゃないか」
「わかってた?」彼女はまたそう言ってコロコロと笑った。コロコロコロコロ⋯⋯。
 彼女は秋になって学校が始まってからも毎日総愛学院にやってきていたが、ぼくは彼女がいつやってくるのか、学校のどこで何をしているのかまるでわからなかった。いつも、「八重山のお姉さんが来てたぜ」という生徒たちの囁き声で、彼女が来ていることを知るのだった。秋になって総愛学院からどんどん自由な空気が失われていったので、ぼくは思うように学校の中を歩き回って彼女を捜すことができなかった。どこを歩いていても必ず訓育生が後ろをついてきて、まだ行ったことのない場所に踏み込もうとするたびに呼び止められた。それを無視しようとすると便所掃除の罰を食らうのだ。

「痛いわ」とミチコは言いながらコロコロと笑い続けた。
「訓育生たちはいつもこんなふうにぼくを扱うんだ」とぼくは言った。
「そう?」と彼女は言った。「ひどいわね。コロコロコロコロ⋯⋯」
 ぼくは彼女の腕を背中にまわしてねじりあげていた。
「コロコロコロコロ」と彼女は言った。「ああ⋯⋯コロコロコロコロ」
「教えてくれよ」とぼくは言った。
「いいわ」と彼女は言った。
 ぼくは彼女の手を放した。
「よおく聞いてね」と彼女はぼくの目をのぞき込みながら言った。彼女の瞳の中には裸のぼくがいた。「わたしが学校でしてるんじゃなくて、シュテルマッハーがわたしにしてるのよ」
「校長はきみに何をしてるの?」
「ノイマンが母にしていたことよ」と彼女は言った。
「そうか」とぼくは言った。「やっぱりね」
 そんなことはとっくの昔に知ってたような気がした。秘密というのはそういうものだ。

            ★


「ノイマンは彼女のお母さんに何をしていたの?」とマリコがぼくにきいた。
「『菜の花の家』の中で、屋敷を借りていたドイツ人が兄嫁にしていたことさ」とぼくは言った。
「『菜の花の家』の中でそのドイツ人は彼女に何をしていたの?」
「言えないよ」とぼくは言った。
「どうして?」とマリコは言った。
「あまりにもひどいことだからさ」とぼくは言った。
「それじゃあなたもほかの人と一緒じゃない」と彼女は言った。「たとえそれがどんなにひどいことでも、それが必要なら小説家は読者に知らせるべきなのよ」
「そうだね」とぼくは言った。「だからぼくは『菜の花の家』にはそのことを書いたよ」
「でも、あなたはその小説を見せてくれないじゃない」
「見せたじゃないか」
「一部分だけよ。全部は見せてくれてないわ」
「まだ完成していないからね」
「嘘」とマリコは言った。「あなたは十五歳のときに直視できたものから、三十五歳になって目をそらそうとしてるのよ」
「ごめん」とぼくは言った。「『菜の花の家』を好きなだけ読んでいいよ。でも、これはほんとに特殊な季節の特殊な精神状態で書かれた作品なんだ」

 そうぼくは書いた。

            ★

 ぼくらはミチコの部屋で『菜の花の家』の校正をやった。彼女がいつも午後のお茶を飲む丸テーブルには校正刷りが山のように積まれていた。ぼくが書いた原稿を彼女は片っ端から印刷工場に渡していたのだ。ぼくはそのときまで彼女がただ原稿に目を通して保管しているだけだと思っていたので、校正刷りの山にはびっくりしてしまった。
「ああ」とぼくは言った。「まだ色々直したいところがあったのに」
「いくらでも直していいのよ」と彼女は言った。「そのための校正刷りなんだから」
 ぼくは赤インクのボールペンで校正の余白に修正を入れていった。それは修正というより際限のない加筆だった。一ページの文字数はあっというまに倍以上に膨れあがった。
「これじゃ印刷屋が怒っちゃうよ」とぼくは言った。
「平気よ」とミチコが言った。「印刷屋はお金さえ払えば何度でも校正を出してくれるわ」
「ぼくにはそんなお金はないよ」とぼくは言った。
「わたしは持ってるわ」とミチコが言った。「社長だもの」

 ぼくは自分の小説が活字になっているのを見て興奮していた。それは初めての経験だった。まだ "A Tale of A Little Thief" は本になっていなかったから、出版されていたら『菜の花の家』が実際にはぼくの最初の本ということになっただろう。
 出版されていたら⋯⋯。

 ぼくは校誌に載ることになっていた『菜の花の家』の最初の部分が、河原神父にどんなふうに扱われたかをミチコに話してやった。
「それはひどいわね」と彼女は言い、コロコロと笑った。
 笑いをこらえるような笑い⋯⋯。
「もしかして」とぼくは言った。「もう、とっくに知ってた?」
「いいえ」と彼女は言った。「コロコロコロコロ」
「嘘つき」とぼくは言い、また彼女の腕を掴んだ。
「ごめんなさい」と彼女は言った。「学校で起こったことは大体知ってるわ。特にあなたに起こったことは全部。コロコロコロコロ⋯⋯」
 それでぼくは納得がいった。彼女はぼくの『菜の花の家』が校誌に載る前に紙吹雪になってしまったのを知って、自分の手で自費出版してやろうと考えたのだ。

 そのときぼくが校正刷りに書き加えたのはノイマンのことだった。それまでこのドイツ人は物語の中でほとんど何の役割も果たしていなかった。ただこれといった収入のない兄嫁と弟が、生活費稼ぎのために屋敷の中央部分を貸していたドイツ人商人として、ちょっと触れていただけだった。ノイマンがナチスの将校だったとわかるのはドイツの敗戦の直前だ。四月二十九日。この日の夜、というより三十日の未明、ノイマンは屋敷に火をつけて姿を消した。この日の午後、ベルリンでヒトラーとエヴァ・ブラウン、というより二十九日にヒトラーと結婚したヒトラー夫人が地下司令部で自殺した。ゲッベルスは同僚たちと一緒にヒトラー夫妻の死体をガソリンで焼いた。マルチン・ボルマンは行方をくらました。
 四月三十日にはいろんなことが起きる。一九四五年のベルリンも、一九七五年のサイゴンもこの日に陥落した。
 そんなわけでノイマンがノイマン屋敷と呼ばれるようになる前のこの屋敷に住んでいたのはごくわずかの期間だった。『菜の花の家』の第一稿で、ぼくはノイマンが兄嫁と弟にしたこと、つまり彼女の母と父にしたことについてほとんど触れていなかった。ミチコが話してくれなかったからだ。彼女が書いた論文のプロローグにも、ノイマンはあまり登場してこなかった。本格的なノイマン研究を展開すべき本編はついに書かれなかった。
「わたしは才能がないから」と彼女は言った。「ノイマンについて書く前に息切れしちゃったのね」
「そうか」とぼくは言った。
 それは嘘だった。
 彼女はノイマンについて、特にノイマンが彼女の両親にしたことについて書くことを恐れていたのだ。それがほかでもない、彼女にその論文を書かせることになった動機でもあるのだが、それは同時に彼女にとって触れるのが恐い題材でもあった。つまり彼女は自己矛盾の中で立ちすくんでいたのだ。
 もっとも、一九六八年のぼくはそこまで彼女を理解してはいなかった。彼女の気持ちを理解するようになったのはつい最近のことだ。それがぼくに『マイ・フェイヴァリット・シングズ』を書かせることになったのだ。

 そんなわけでぼくは校正に赤を入れながら、一九四四年の秋から四五年の春にかけて、この屋敷で何が行われていたかをミチコから聞き出した。聞き出しながら、それを『菜の花の家』に書き加えていった。話を聞き出すのにはずいぶん苦労した。ミチコが話したがらなかったからだ。
「話してくれなきゃ書けないよ」とぼくは言った。
「そうね」と彼女は言った。「わかってるわ」
「ほんとは話したくないんだ」とぼくは言った。
「そんなことないわ」と彼女は言った。「話したいけど恐いのよ」
 ときどきぼくは腹を立てて彼女の手首を掴み、軽くねじり上げたりした。
「痛い」と彼女はか細い声で言い、コロコロコロと笑いながらくるりと後ろを向いた。そして「言うわ」と彼女は言った。「言うからこの手を放して」
 それは嘘だった。
 ぼくは彼女の手を放して赤いボールペンを握り、辛抱強く待ったが、彼女は何も話さなかった。落ち着きなく指先を唇に当てたり髪を撫でたりするだけだった。細い指が震えていた。
「話してよ」と言いながらぼくはまた彼女に手を伸ばした。
「痛い」と彼女は言った。
 そして目を固くつぶったままポツリポツリと話し始めた。話はぼくの手が彼女に触れている間だけ続いた。手を放すと彼女の話も止まった。接触の悪いスイッチみたいだった。
 そんなことが幾晩も続いた。

           ★

「それはリッキーがジェーンにしたことじゃないの?」とマリコが言った。
「そんなことはないよ」とぼくは言った。
 つい今朝がたのことだ。ぼくはマリコにせがまれて、ぼくがノイマン屋敷でミチコにしたことについて話していた。
「嘘」とマリコは言った。いつになくきつい声だった。
「ごめん」とぼくは言った。「確かにきみの言う通りだよ。でも、そんなにひどいことはしてないんだ。ちょっとだけ、彼女がかすかに痛みを感じる程度に軽く触れただけで」
「あなたもやっぱり死神に取り憑かれていたのね」
「そうだろうね」
「それはリッキーを殺した死神と同じなんじゃない?」
「そうだろうね」
 ぼくらはベッドの中にいた。寒い朝だったが、羽毛布団にもぐっていたからからだは暖まっていた。ぼくは冬用の分厚いネルのパジャマを着て天井を向いていた。マリコはぼくに腹ばいの姿勢でからだをくっつけていた。彼女は何も着ていなかった。裸でないと熟睡できないタイプなのだ。彼女の体温はいつもぼくより高い。彼女がからだをくっつけてくると、ぼくはからだ中が温まってよく眠れる。
「あなたはわたしにも同じ事をしたいのにがまんしてるのかしら?」とマリコは言った。
「ぼくはもうそんなことしたくないよ」とぼくは言った。「ぼくは死神とおさらばしたんだ。ずいぶん長くかかったけどね」
「わたしはまだ死神を飼ってると思う?」
「たぶんね」
「追い出せるかしら?」
「たぶんね」
 ぼくらは朝早くにこうやってベッドの中で会話する。夜寝る前よりは頭が冴えているし、ベッドの外では話しにくいことも気軽に話せるからだ。なぜだろう?
 お互いの顔を見つめずにすむからかもしれない。それから軽くからだを触れ合わせていられるからかもしれない。
「それがノイマンのした事なのね?」とマリコは言った。
「そうだよ」とぼくは言った。
「それが毎日総愛学院で、八重山ミチコにシュテルマッハー校長とカークパトリック神父がしていたことなのね?」
「そういうことだよ」とぼくは言った。「意味的にはね」

          ★

「大丈夫」とノイマンはドイツ訛りの日本語で言った。「夏にはすべてが終わります。そうしたら弟さんと結婚なさい。あなたならきっと幸せになれるでしょう」
「ああ」とミチコは言った。「ああ、痛い」
「あなたの国は呪縛されているんですよ」とノイマンは言った。「わたしの国と同様にね。もっともドイツ帝国は間もなく消え去ることになるんですが⋯⋯。自由が訪れるでしょう。自由と昼が。わたしは死の世界に逃げることになる。元々夜の世界の住人ですからね。自由は恐ろしい快楽です。ほとんどの人間が自由のために自分を失い、腐っていく。まもなくこの国にも自由が蔓延するでしょう。そのときのためにわたしはあなたがたにその恐ろしい時代の生き延び方を教えてあげようというわけです」
「ああ」とぼくが言った。「行かないで。ぼくらを見捨てないで」
「心の中に神をお持ちなさい」とノイマンは言った。「神の手がいつでもあなたたちをこうして掴んでいる。そのことを忘れなければ、この世に恐ろしいことは何もありません」
「ああ」とぼくらは言った。「ああ、痛い」
 ぼくらはノイマンを通して神の手がぼくらに触れていることを感じていた。神の前で跪くのはすごく気持ちがよかった。不安が消えた。窓の外はオレンジ色の海だった。真夜中の、明かりひとつついていない神戸の闇を、春の山焼きのように明るいオレンジ色の火が覆っていた。街の上空に陽炎が渦を巻いていた。街全体が海流を通して見る透明な海の底のように揺れていた。
 ぼくらはサンルームにいた。ぼくとミチコのからだは五十センチほどしか離れていなかったが、ふたりともからだ全体をきつく固定されていたので、お互いに触れ合うことはできなかった。
「ああ」とぼくは言った。「ああ、姉さん」
 ノイマンの手はぼくの首に深く食い込んでいて、ぼくはほとんど息ができなかった。意識がだんだん朦朧としてきたが、からだ中に幸福感が溢れていて、自分がまるで果汁たっぷりの果実になったみたいな気がした。
「このまま死にたくないかね?」とノイマンがぼくに言った。
「はい」とぼくは言った。「殺してください」
 ほんとにそのときはこのまま死にたいと思ったのだ。死はそれまで思い描いていたようなものではなかった。死は充実であり、快感だった。
「あなたも死にたい?」とノイマンがミチコに言った。彼のもう一本の手は彼女の首に食い込んでいた。
「はい」と彼女は言った。「ああ、でも、もう少しだけ生かしておいてください。一度も彼と愛し合わずに死ぬのはあまりにも悲しいから」
「なるほど」とノイマンは言った。彼はぼくらの首から手を離した。
 それがぼくらの結婚式だった。一九四五年四月のことだ。


              ★

「ミチコ?」とマリコが言った。
「うん」とぼくは言った。「それがミチコと八重山のお母さんの名前だよ」
 ぼくらは『菜の花の家』のページをめくっていた。それが一九六八年の秋にノイマン屋敷で校正をやりながら書いた部分だった。舞台はノイマン屋敷と呼ばれる前のノイマン屋敷で、中央部分にはノイマンが住んでいた。空襲で焼けていく神戸の街を見下ろしながら、毎晩ノイマンがミチコと八重山の両親に何をしていたのか、ぼくはそのとき初めてミチコから聞き出すことができた。聞き出すためにはノイマンが彼女の両親にしていたことを、ぼくが彼女にしてやらなければならなかった。つまりぼくは彼女から聞き出す前に、答えを自分で見つけていたのだ。
 どうやって答えを見つけたんだろう?
 わからない。でも、ごく自然に見つかったのだ。
「どうして《ぼく》なの?」とマリコがぼくの顔をじろじろ見ながら言った。「どうしてこの主人公だけほんとの名前を使わなかったの?」
「それはほんとにぼくだからさ」とぼくは言った。「意味的にはね」

            ★

 ぼくらはノイマン屋敷のサンルームにいた。窓の外はオレンジ色の火が春の菜の花畑のように広がっていた。神戸の街のネオンはついさっきまでよく晴れた夜空の星のように闇を埋め尽くしていたのだが、今では春の山焼きのような火が街全体を覆っていた。
「きれいだね」とぼくはミチコに言った。
「ああ」とミチコは言った。「きれい」
 藍色の夜が摩耶山と屋敷の庭を浸していた。サンルームの中もすみれ色の闇が夜の水槽みたいに部屋中を満たしていた。ミチコのからだは淡いオレンジ色に染まっていた。彼女の膝の下で、床に敷き詰められたヒマワリの種がギシギシと鳴った。彼女は窓際に膝をついて街の火を眺めていた。彼女はとてもきれいだった。ぼくが「きれいだね」と言ったのは彼女のことだったのだ。
 ぼくはいつもここで原稿を書くときに使う丸テーブルに肘をついて、『菜の花の家』の校正刷りに赤インクのボールペンで挿入部分を書き加えていた。ノイマンがミチコの両親にしたことについて⋯⋯。彼女はぼくの手に促されて少しずつ喋った。ぼくはほとんど速記者のように彼女の言葉をそのまま書き取っていた。喋っているあいだずっと彼女は窓の下に広がるオレンジ色の神戸を見下ろしていた。ぼくの手が、あるいは足先が伸びてきて、かすかな痛みを感じさせるときだけぼくのほうを向いた。向きを変えるたびに彼女の膝がヒマワリの種を踏み締め、ギシギシギシギシと音を立てた。ぼくはテーブルの上の小さな蝋燭の光で赤い文字を書き続けていた。蝋燭のオレンジ色の光に照らされた赤ボールペンの赤い文字はとても見づらかったが、ぼくはほとんど文字を見ていなかった。ぼくはミチコをずっと見つめていた。ミチコは小さな蝋燭の弱々しい光の輪の外にいて、窓の外の神戸の街を覆っているオレンジ色の光でぼんやりと輝いていた。ぼくはずっと彼女だけを見つめていたくて、彼女にずっと手を触れていた。彼女があまりの痛さにか細い声で悲鳴を上げても、ぼくの手は彼女から離れなかった。
「あああ」と彼女は言った。「ああああああああ⋯⋯」

 ぼくがあんまり長い時間触れていると、彼女はもう一九四五年の春にノイマンが彼女の母にしたことについて語れなくなった。ぼくは赤インクのボールペンを右手で握ったまま彼女の言葉を待っていたが、彼女の口はもう言葉を語らなかった。彼女はぼくの左手を神の手のように愛していた。
「ノイマンの手ね」と彼女は後になって言った。
「ぼくの手だよ」とぼくは言った。
「わたしはノイマンを見つけたわ」

 ぼくらは何日もそうやって過ごした。ぼくは昼も夜もぶっ続けに『菜の花の家』の加筆校正をやり、ときどき死んだように眠った。ミチコはぼくの手の要求に応じて、知っていることを話したり、必要な資料を引っ張りだしたり、ぼくが新しく書いた部分を読んで意見を述べたりした。食事を作ったり風呂を沸かしてくれたりもした。ぼくは彼女がそばにいないと不安だったので、たえず校正刷りと赤ボールペンを持って彼女の後をついて回った。彼女が一階の厨房で料理を作っているあいだはそこのテーブルで書き、彼女が洗濯をしたり風呂を沸かしたりするときは洗面所の壁にもたれて書いた。
「サンルームに戻ったら?」とミチコは言った。「そんなことしてたら落ち着いて書けないわよ」
「きみがいなくなるんじゃないかと心配なんだよ」とぼくは言った。
「馬鹿ねえ」と彼女は笑いながら言った。「こんな恰好じゃどこにもいけないわよ」
 彼女はおどけて両腕を広げて見せた。そう。彼女は冷凍庫みたいな寒さの中でパンティ一枚しか着けていなかった。ぼくがそうさせたのだ。彼女がこっそり総愛学院に行かないように⋯⋯。ぼくはその頃とても疑り深くなっていた。
「どこにも行かないでくれよ」とぼくは彼女に言った。
「どこにも行かないわ」と彼女は言った。
 それは嘘だった。

 次の日の午後、ミチコのベッドの上でうたた寝から目を覚ますと、窓の外に谷間の斜面を上ってくる彼女の姿が見えた。
「どこに行ってたの?」とぼくはきいた。
「散歩してたのよ」と彼女は言った。
「嘘だ」とぼくは言い、彼女の腕と首を掴んだ。「学校に行ってたんだろ?」
「ごめんなさい」と彼女は言い、喉の奥でコロコロコロと笑った。

 ぼくは彼女の首に縄を結び、もう一方の端を自分の手首に結び付けた。彼女が屋敷のどこにいても、縄を引っ張れば彼女がやってくるという仕組みだった。お陰でぼくはサンルームで原稿を書き、彼女は屋敷の中を自由に歩き回って家事をすることができるようになった。ノイマン屋敷はとても広かったので、縄はとても長くなった。ぼくはちょっと不安を感じるたびに思い切り縄を引っ張った。彼女はフライパンや掃除用のモップを持ったまま、引きずられるようにやってきた。
「ああ苦しかった」と彼女はうれしそうに言った。「死ぬかと思ったわ」
「どこにも行かないでくれよ」
「どこにも行かないわ」

 それは嘘だった。
 ある日の夕方、ぼくは大きな肉切り包丁を持って谷間を駆け降りていく彼女を見た。縄は首から五十センチのところで切られていた。
「誰か彼女を捕まえてくれ」とぼくは谷間に向かって叫んだ。
「よしきた」と何人かのヒッピーが答えた。
 その頃、谷間からはかなりの数のヒッピーたちがいなくなっていたが、まだところどころに彼らのテントが残っていた。男のヒッピーたちが木立の中でミチコにタックルした。彼らはみんなずっと彼女にタックルしたいと思っていたのだ。彼女は生け捕りにされた鹿みたいに無言で手足をバタバタさせていた。
「ごめんなさい」と彼女は迎えに行ったぼくを見上げながら言った。
「やれやれ」とぼくは言い、彼女を引きずるようにして屋敷に戻った。

              ★

 束の間の眠りの中でぼくはよく夢を見た。一番よく覚えているのはカークパトリック神父が死ぬ夢だ。
 ぼくは地下の階段を何時間も降りて、体育館みたいに広い部屋に着いた。地底のはずなのに、部屋の南側には巨大な窓が並んでいて、神戸の夜景がそのむこうに広がっていた。街も港もオレンジ色の火に覆われて、空に低く垂れこめた雲までが金色に光っていた。部屋には一面にソファや低いテーブルが置かれ、大勢の人がトランプをやったり雑談したり酒を飲んだり食事をしたりしていた。空気はひどく濁っていた。土埃みたいな黄色い霧がうっすらとかかっていて、何もかもが古代遺跡みたいだった。
「どうして地下から神戸が見下ろせるんだろう?」とぼくは呟いた。
「だってここは山なのよ」とぼくの横でミチコが言った。
「そうか」とぼくは言った。
 彼女はヒマワリ色のパンティをはいていた。それだけしか着ていなかった。首には途中で着れている縄が巻き付いていて、手には大きな肉切り包丁を持っていた。ぼくは薄汚れたショートパンツ一枚の裸だった。校庭を走らされてる途中で抜け出してきたらしい。
「やあ」と部屋の真ん中あたりでシュテルマッハー校長が立ち上がってぼくらに手を振りながら言った。そのコーナーにはコッホ神父やカークパトリック神父もいた。
「校長だ」とぼくは言った。
「ノイマンよ」とミチコが言った。
 校長に似たノイマンはグレーのズボンに白い開襟シャツを着ていた。口には黒っぽいパイプをくわえていたが、これだけが校長らしくない点だった。神父は煙草を吸わないからだ。ノイマンは北アフリカで休暇中のドイツ軍将校といったリラックスした態度でぼくらをソファに座らせた。向かい側でコッホ神父がきれいな顔だちの男の子の手を軽く握りながら話をしていた。少年はぼくより年下で、やはり白いショートパンツ姿だった。たぶん中等部の一年生で、夕方、運動場を走らされていたのだろう。カークパトリック神父だけがソファの後ろに立っていた。彼も開襟シャツを着ていたが、二人のドイツ人ほどリラックスしてるようには見えなかった。彼はぼくと目を合わせないようにしていた。あるいはミチコと⋯⋯。腕を後ろに組んで、絶えず遠くのほうに目をやっていた。

「ノイマン男爵です」と校長に似たノイマンがぼくに言った。校長と同じくらいうまい日本語だった。
「男爵⋯⋯」とぼくは言った。貴族というのを初めて見たので珍しかったのだ。
「本来ならライン川沿いの古城を相続して、農場と飛行機のエンジンメーカーを経営しているはずだったんですが、若気のいたりで間抜けな気違い集団に味方したために、こうして極東の地で朽ち果てようとしているわけです」とノイマンは言った。
「なるほど」とぼくは言った。ほんとはもっと他のことが言いたかったのだが、うまく言葉にならなかったのだ。ぼくにとって意外だったのは、ノイマンがナチスのことを《気違い集団》と呼んだことだ。
 ぼくのすぐ後ろで生暖かい空気が動いていた。振り向くとカークパトリック神父の腰のあたりがぼくの目の前にあった。彼はうつむいたまま黙って服を脱いでいた。彼のからだはナツメグをきかせた肉料理の匂いがした。
「彼は今夜自殺するんですよ」とブランデーのグラスを胸のあたりで止めてノイマンが言った。「ねえ、そうだろう?」
「ええ」とカークパトリック神父が言った。
 彼はすっかり裸になってしまった。濃い赤毛の陰毛と黒々とした大きなおちんちんがぼくの目の前にあった。ぼくは彼の顔を下から見上げたが、神父の視線は斜めにそらされていてぼくの目を見ようとしなかった。
「どうして?」とぼくは言った。
「わたしが命令したからさ」とノイマンが言った。彼は歯のない口を少し開けて、ぼくを見つめながら笑った。「わたしの命令は絶対だからね」
「どうして?」とぼくは言った。
「わたしたちがそう望んだからよ」とミチコが言った。
「うわあ」とぼくは言った。
 彼女の顔が一変していたからだ。彼女の左眼が大きく外を向いていて、美しい顔だちがそれだけで不気味な爬虫類みたいになってしまっていた。
「わたしたち?」とぼくは言った。自分の全身に鳥肌が立っているのがわかった。
「わたしと彼よ」ミチコはカークパトリック神父のほうを指差した。
「なんてこった」とぼくは言った。

 神父は両手を重ねて自分のおちんちんを隠しながらもじもじしていた。ぼくは彼のからだをじろじろ見た。ひどく痩せてはいたが、相変わらず胸板は厚かったし、胸も腕も足も赤い毛でびっしり覆われていた。
「さあ、そろそろやって見せてくれよ」とノイマンが神父に言った。
「はい」と神父はかすかな声で言い、ホールの壁ぎわにある一段高くなった場所に行った。そこには椅子が一脚置いてあり、天井から太いロープが下がっていた。ロープの先は輪になっていた。
 彼は椅子に上ってロープの輪を首にかけた。ホールの客たちが拍手した。
「先生」とぼくは言ったが、彼はぼくのほうを見もしなかった。
 ミチコはからだをねじって彼のほうを見ながら、他の客と同じように軽く拍手していた。「先生」とぼくはもう一度言った。「どうして?」
 神父は椅子の上でぼんやりあたりを見回していた。拍手がやんで、奇妙な静けさがホールに漂っていた。神父は両手でロープの輪を握ったままじっと椅子の上に立っていた。
「どうした?」とノイマンが言った。「早くやれよ」
 神父はノイマンのほうを見て、
「約束が違いますよ」と言った。「彼女も一緒に死ぬはずだったのに」
「心配するなよ」とノイマンが言った。「すぐ後でやるさ」
「先に行ってて」ミチコが彼に手を振りながら言った。「すぐ行くから」
 まるでお姉さんが小さい弟に言ってるみたいだった。
「彼女と一緒にぶらさがるんでなきゃいやだ」神父は首からロープを外しながら言った。「こんなところじゃひとりで死ねない」
「また痛い目に遭いたいのかね?」ノイマンが立ち上がって言った。
 カークパトリック神父は調教師に鞭を振るわれた動物みたいに首をすぼめて後ろを向いた。彼の背中からお尻にかけては、紫色の裂傷が無数に走っていた。中にはまだ大きく裂けて赤い傷が濡れて光っているところもあった。
「ひとりで死ぬなら誰も見ていないところで死にたい」と神父は泣きながら言った。
「しょうがないな」とノイマンが言った。「隣でさっさと死にたまえ」
 神父はおちんちんを両手で隠しながらホールの隅にあるドアから出ていってしまった。客たちは口々に不平を漏らしていた。人が死ぬところを見たかったからだ。

 それからしばらく沈黙が続いた。みんなグラスを固く握って唇に当てたまま、隣の部屋の物音を聞いていた。壁越しに家具を動かすような、ガタガタガタという音が聞こえてきた。物音が止まったとき、客たちはふうと息をついた。ノイマンだけが変わらないペースでブランデーを飲んでいた。禿げ上がった額に、薄くなった金色の毛が少し垂れていた。こめかみのあたりに汗の粒が浮いていた。縁なし眼鏡の向こうにある大きなブルーの目は遠くを見つめていた。その顔はずっと後になって写真で見たナチの幹部の顔に似ていた。
 隣の部屋で音が消えてかなりたった。客たちは誰からともなく腰を浮かして席を立とうとしていた。天井からぶらさがったカークパトリック神父を見に行くためだ。
「先生」とぼくは叫んだ。
 みんなの動きが止まった。ぼくはいつのまにか立ち上がっていた。
「行くんじゃない」とノイマンが命令口調で言った。「まだ死んじゃいないよ」
「お願いだから」とミチコが言いながらぼくの手を掴んだ。「彼の言うことをきいて」
 ぼくは彼女の手を振り払い、
「先生」ともう一度叫んだ。
 それから小走りに隣の部屋に続くドアのところまで行った。誰もぼくを止めなかった。
「先生?」と小声で囁きながらぼくはゆっくりドアを開いた。ドアの向こうは一メートルほど低くなった物置のような部屋で、ウイスキーやワインの樽、埃だらけの古びた家具、壊れた時計やスロットマシン、ビリヤードの台などが置いてあった。ビリヤード台の上に、天井からロープが下がっていた。カークパトリック神父の姿は見えなかった。
「先生?」とぼくはまた言った。
 部屋のどこかでシューシューというガスが漏れるような音がしていた。それは天井のあたりを回っているように聞こえた。ぼくは部屋の中を隅々まで見渡した。いろんなものが雑然と積まれていたから、ぼくなら隠れようと思えばどこにでも隠れることができそうだった。でも、二メートル近いカークパトリック神父が隠れるような場所はなかった。
 ぼくはビリヤード台のそばに大きな靴が揃えて置かれているのを見た。それは神父の靴だった。総愛学院にはそんなに大きな靴をはいてる神父は他にいなかった。ぼくは腰をかがめてビリヤード台の下を覗いた。もしかしたらカークパトリック神父が寝そべっているんじゃないかと思ったのだが、誰もいなかった。

 シューシューという音がだんだん大きくなってきた。
「先生?」とぼくは泣きそうな声で言った。「まだ死んでないよね?」
 そのときぼくのすぐ後ろでガサガサという音がした。熊が笹をかき分けて現れるときのような音だった。
「ウワア」という叫び声と一緒に、カークパトリック神父が開けっ放しになっていたドアの陰から飛び出してきた。ドスンという音がしてドアが大きく動き、ぼくは床に投げ出された。
「ウワアアアアア」と神父は叫びながらぼくに襲いかかってきた。彼の顔は一変していた。まるで西洋史の教科書の最初に出てきたネアンデルタール人のイラストみたいだった。
 「うわあ」とぼくも言った。
 神父はぼくの首を締めようとした。ぼくは彼の下腹を蹴った。二三度蹴りを入れると、ぼくの首を絞めていた彼の手から力が抜けた。彼の表情は憎しみに満ちていたが、明らかにぼくが誰なのかわかっていないようだった。
「先生」とぼくは叫んだ。「一体何をしてるつもりなんだよ。これがぼくの英文小説を朗読してくれたあの先生なの? ぼくには信じられないよ」
「え?」とカークパトリック神父は言った。急に自分を取り戻したみたいだった。それから照れ臭そうな顔で陰気に笑った。「そうか」と彼は言った。「坊主、おまえだったのか。おれはまた校長かと思ったよ」
「校長はどこにいるの?」とぼくは言った。
「さっき隣にいたじゃないか」と神父が言った。
「あれはノイマンじゃないの?」
「校長がノイマンなんだよ」
「なんだ」とぼくは言った。「道理で似てると思った」
「じゃあな」と神父は言い、ゆっくりビリヤード台に上がった。
「やっぱり死んじゃうの?」
「ああ。命令だからな」
「どうしてあんなやつの命令をきくのさ?」
「おまえも大人になったらわかるよ」
「そう?」ぼくは大げさに首を傾げて見せた。納得がいかないということを神父に強くアピールしたかったからだ。ぼくは授業中にもよくそんな手を使ったのだ。
「じゃあな」と彼は言い、自分の首にロープをかけた。
「死ぬのって恐くない?」とぼくはしつこく食い下がった。喋ってるかぎり神父を引き止めることができそうな気がしたからだ。

「そりゃ恐いさ」神父は笑った。「だからためらってたんだ。どうしてやつらが生きてておれだけ死ななきゃならないんだって、わかりきった疑問がまたぞろ頭をもたげてきてね」
「ほんとだよ」とぼくは言った。「どうして先生だけ死ななきゃならないのさ?」
「もういいよ」と彼は言った。「わかってるんだ。それは正しいことなんだよ。おれは死ぬべきなんだ」
「どうして?」
「命令されたからさ」
「先生は彼女を愛してた?」
「誰をだって?」
「八重山のお姉さんさ」
「ああ、たぶんね」
「じゃあ、彼女を残して死ぬのはつらくない?」
「まあつらいことはつらいよ。さっきも言ったろ? 彼女とおれは同時に殺されるという約束だったんだ」
「校長は約束を破ったんだろ? なのにどうして死ぬのさ」
「でもまあ、彼女もすぐあとから死ぬっていうことらしいからな」
「そんなのあてにならないよ。校長は約束なんて何とも思ってないかもしれないよ」
「そうかな?」神父は首のロープに手をかけて言った。
「先生だけ死なせて、彼女とうまいことやろうと思ってるのかもしれないじゃないか」
「うん、まあそれはあるな」と彼は言った。「でもしかたないよ。彼女は彼のものなんだから」
「彼女は先生じゃなくて校長を愛してるんだ?」
「そうじゃないよ。人間は誰でも支配されることが必要なんだ」
「どうして?」
「不安だからさ」
「今年、ぼくらは完全な自由を発見したんだ」
「よかったね」神父は弱々しく笑った。「おまえたちが大人になる頃には、もしかしたら世の中がガラッと変わっているのかもしれないな。そうなることを祈ってるよ」
 神父は手振りでぼくにあっちへ行けと命令した。ぼくはそのまま後退りしてドアを閉めた。どうして素直に言うことをきいてしまったのかわからない。命令されたからだろうか? とにかくぼくはもう説得しても無駄だということをその仕種から悟ったのだ。
 ドアごしにガタンという音が聞こえた。ロープのギシギシギシギシという音も。それから静寂がきた。ぼくは振り返ってホールの中を見渡した。みんなが黙ってぼくを見つめていた。ぼくはドアをもう一度開いた。
 天井の梁からカークパトリック神父がぶらさがってゆっくりと回っていた。ビリヤードの台は一メートル以上横にずれていた。飛び降りるときに思い切り蹴ったのだろう。神父は固く目を閉じて完全に死んでいるようだった。からだがゆっくり回るに連れて、ロープがギシギシギシギシと鳴っていた。おちんちんが大きく勃起して、先から粘液が垂れていた。お尻からは赤黒い液体が流れ出て、足を伝って床に滴り落ちていた。恐ろしい臭いがした。それが死の臭いだった

 ぼくは闇の中で目を覚ました。そこはミチコの寝室だった。遠くで彼女の泣き声が聞こえていた。ぼくはベッドから飛びだし、手首に結んだ縄を引っ張った。手ごたえはあった。とたんにぼくの心は喜びに満たされた。ぼくはなんとなく彼女がまた屋敷を抜け出して総愛学院に行ってるんじゃないかと思っていたのだ。
 ぼくは縄を引っ張るのをやめて階段を駆け降りた。ミチコは台所にいた。全裸で、石の床の上に膝を突き、左手でおなかを押さえながら、右手で例の肉切り包丁の刃を握り締めていた。血が指の間から流れていた。
「だめだわ」と彼女は叫んだ。「自分じゃとても死ねない」
「あたりまえじゃないか」とぼくは言い、彼女から包丁を取り上げた。
 傷はたいしたことなかった。おなかにはかすり傷しかついてなかったし、包丁を握っていた指のほうもそれほど深く切れてなかったので、消毒して包帯を巻いてやると、血はすぐに止まった。
「カークパトリック神父が死んだんだ」とぼくは彼女に言った。
「そう?」と彼女は言った。
 ぼくも彼女も疲れきっていた。ぼくはベッドの中で彼女を抱き締めながら眠った。

               ★

 ぼくは闇の中で目を覚ました。
 ミチコはいなかった。遠くから大勢の人のざわめきや楽器の演奏、グラスや食器の擦れ合う音が聞こえてきた。サンルームから長い廊下を通って中央棟に行き、階段を降りるとそこは何十ものシャンデリアが輝くノイマン屋敷の大広間だった。大勢の人が集まっていた。巨大な窓からはすみれ色の闇と神戸の街を焼くオレンジ色の火が見えた。
「やあ」とシュテルマッハー校長が言った。
「校長⋯⋯」とぼくは言った。
「わたしはノイマンだよ」と彼は言った。
 部屋も客たちの様子もすべてが夢のままだった。ただカークパトリック神父とミチコがいなかった。
「あのアメリカ人なら死んだよ」とノイマンが言った。
「あんたが殺したんだ」とぼくは言った。
「自殺したんだよ」とノイマンは言った。「死にたがっていたからね」
「彼女は?」
「さあ」ノイマンはくすっと笑った。「今までいたんだけど、どこへ行ったかな? きっときみが来たんで隠れちゃったんだよ」
「出せよ」とぼくは言った。
「彼女の意志だからね」とノイマンは楽しそうに言った。「彼女はきみに自殺の邪魔をされるんじゃないかと恐れてるんだ」
「もう止めないよ」とぼくは言った。「だから出せよ」
「ほんとに?」という声がぼくの後ろで聞こえた。
 振り向くとミチコがいた。さっき台所で見たときと同じように、裸で床の上に両膝をつき、眩しそうに手を額のあたりにかざしながらぼくを見上げていた。
「ああ」とぼくは言った。「もう止めないよ」
「お願いがあるんだけど」と彼女は言った。
「殺してくれっていうんだろ?」とぼくは言った。
「よくわかるわね」彼女は照れ笑いしながらいった。
「いやだよ」とぼくは言った。「ぼくはきみを殺さないからね。死にたかったら自分で死ぬんだ」
「わたしがどんなに弱い人間か、あなたさっき見たでしょ?」

 ノイマンがぼくの肩を掴んだ。彼の手にはサーベルのようなものが握られていた。
「そう真剣に考えることはないよ」と彼は言った。「被害者はどこにもいないんだ」
「いやだ」とぼくは言った。「こんなのってフェアじゃない」
「なんだって?」とノイマンが言った。
「こんなのってフェアじゃないよ」とぼくは叫んだ。「彼女もあんたたちもみんな勘違いしてるんだ。こんなのって絶対にフェアじゃないよ」
「やれやれ」ノイマンは肩をすくめながらそう言うと、ミチコのそばに近づいた。
「もう一度きくけど」と彼は彼女に言った。「きみは死にたいんだろ?」
「はい」と彼女は言った。「殺してください」
 ノイマンはサーベルを抜いて彼女のおなかを刺した。刃は音もなく体内に吸い込まれていった。
「あああ」と彼女は言い、サーベルの刃を両手で握り締めた。
 ノイマンがさっと剣を引き抜くと、彼女のおなかからどっと血が流れ出した。彼女のからだはシュテルマッハー校長に撃たれた鹿みたいに音もなく床に崩れた。
「どう?」とノイマンが彼女に声をかけた。「後悔してるかい?」
「いいえ」と彼女はぼくらを見上げながら言った。「ありがとう。全然後悔してないわ。ほんとにありがとう」
「ほらね」とノイマンは言った。「彼女みたいなタイプの人間にとって、死ぬってことはそれほど恐いことじゃないんだ」
「あんたがそう教え込んだんじゃないか」とぼくは言った。
「まあね」とノイマンは言った。「でも、きみだって共犯だよ。きみと八重山は彼女に自由ってものの見本を要求し続けてきた。彼女は無理をしすぎたんだよ」
「そんな馬鹿な」とぼくは言った。
 ミチコのからだは柔らかくねじれたまま床の上に転がっていた。彼女の目はぼくを見つめたままかすかに笑っていた。細い足が鹿みたいにゆっくり床をこすりながらもがいていた。
「見て」と彼女はぼくに言った。「わたしを見て」
「見てるよ」とぼくは言った。
「わたしって、わりときれいだったと思わない?」
「ああ、きみはいつでもきれいだったよ」
「よかった」彼女は涙ぐんでいた。「わたし、ずっとあなたたちに嫌われてたから、そのまま死ぬのは絶対にいやだったの」
「あなたたちって?」
「あなたと弟よ」
「八重山はきみのこと好きだっていってたよ。きみだけは特別の女だったって」
「ほんとに?」彼女は少し首を持ち上げながら言った。「ああ、よかった」
 それが彼女の最後の言葉だった。
「ああ、よかった」

 客席にはいつのまにか鹿がたくさん出てきて、通路を埋め尽くしていた。
「うわあ」とぼくは言った。「一体どうしたっていうんだ」
 鹿たちはひどく臭かった。腐りかけた肉の臭いがした。それは例の地下広場で嗅いだ黴の臭いにも似ていたし、カークパトリック神父が死んだときの臭いにも似ていた。
 客たちは鹿にナイフを刺して殺し始めた。鹿は逃げようともせずに次々と殺されていった。啼き声ひとつ上げなかった。
「鹿だ」とぼくは言った。「まだこのあたりには鹿がいるんだ」
「冷凍鹿だよ」とノイマンが言った。「夜になると動きだすんだ」
「どうして?」
「やつらはわたしに殺されたがってたからね。わたしに剥製にされた仲間みたいに完璧に殺されたかったんだ。それが半分死んだ状態で中途半端に冷凍されてしまって悔しい思いをしていたんだな」
「そうか」とぼくは言い、すぐそばのテーブルで皮を剥がれている鹿に、「きみたちは自由を手にいれようとは考えなかったんだ?」ときいた。
「そりゃね」と、すでに半分皮を剥がれてしまった鹿は言った。「夢を見たことはあるさ。でも所詮、夢は夢なんだ」
「それは卑怯じゃないかな」とぼくは言った。「夢からは覚めなきゃいけないよ。夢を見たまま死んでくなんてあんまりじゃないか」
「それはきみが冷凍されたことがないからだよ」と元冷凍鹿は言った。「冷凍された鹿の気持なんてきみにはわからないよ。洞窟で凍らされたまま待ってるのってすごくつらいんだ。きみだって死んだほうがましだと思うよ、きっと」
「そうかなあ」
「冷凍されてるってことは、すでに死んでるってことなんだ」とノイマンがミチコの腿のあたりを踏んづけながら言った。「ある意味では死以上に惨めな死に方で死んでるってことなんだ。だから彼女も鹿たちも早くほんとに死にたいって考えたのさ」
「彼女も死んでたんだ?」とぼくはきいた。
「そう。とっくにね」
 ノイマンはミチコの腿を踏んづけながら、サーベルでお尻のあたりを軽く切った。彼女の白く透き通った肉はきれいに切れたが、もう血は一滴も流れなかった。
「そんなことして気持いい?」とぼくはきいた。
「最高だね」と彼は答えた。

「あんたは一体何者なの?」
「わたしかい? わたしはゲルマンの精霊だよ」とノイマンは肉を食べながら言った。「そしてアーリア人の神々のひとりさ。そして今はただの商人てわけだ。ほんとだよ。ビジネスは楽しいからね」
「あんたは総愛学院のシュテルマッハー校長じゃないのか?」
「まあ、そうとも言えるね」彼はうれしそうに笑いながらウインクして見せた。「有能な人間はいろんな役割を果たしてしまうものだからな」
「あんたは一九四五年の四月三十日にノイマン屋敷に火をつけて逃げたんだ」とぼくは言った。「そして国外に脱出したと見せかけて、ちゃっかり総愛学院の神父になりすましたんだ」
「まあ、正確に言うとちょっと違うけど、大体そんなところさ」と彼は言った。「でも、わたしはもともと聖職者だったんだよ。わたしの家は元々枢機卿を何人も出していてね。わたしも兄が急死して男爵家を継ぐまではほんとに修道士だったんだ」
「それからナチになったんだ?」
「そういう時代だったんだよ。子供のきみには納得できないかもしれないけどね」
「彼女の両親もあんたが殺したんだ?」とぼくは言った。
「そういうことだね」ノイマンはうれしそうに笑った。「でも、彼らだって自分からそう望んだんだ。別にわたしのほうから何かしたわけじゃないよ。彼らはただ昔を懐かしんでいたんだ」
「昔彼らに何をしたの?」
「知ってるくせに」ノイマンはウインクして見せた。「わたしは彼らに自分を殺すことの楽しさを教えたんだ」
「どうしてそのとき殺さなかったの?」
「きみは死ぬってことがまだわかってないな。人生の中で一番有意義で楽しいことは、自分を殺しながら生きることなんだ」
「じゃあどうして今度はほんとに殺したのさ?」
「彼らはきっと生きてることに疲れてたんだな」感慨深げにノイマンは言った。

 八重山の両親は息子を総愛学院に入学させて初めてノイマンがそこの校長として生き延びていることを知った。懐かしさのあまり、彼らは一九四五年の春にノイマンが彼らにしたことをもう一度してくれることを望んだ。ノイマンは望みをかなえてやった。八重山夫妻はだんだん危険地帯に近づいていった。つまりほんとの死を望むようになったのだ。

「で、あんたは殺したんだ」とぼくは言った。
「ちがうよ」とノイマンは言った。「彼らはわたしに命令してもらいたかっただけさ。そしてわたしに見てもらいたかったんだ」

 ノイマンは彼らに言った。「死ぬんだ、子供たちよ」
「はい」と彼らは言った。そして二人で服を脱ぎ、テーブルに上がって、それぞれ自分のおなかと喉をナイフで裂いた。その場面は『菜の花の家』では次のようになっている。

《「死ぬんだ、子供たちよ」とノイマンは言った。
「はい」とぼくは言った。
「はい」とミチコが言った。
 それからぼくらは服を脱ぎ、テーブルに上がって、それぞれ自分のおなかと喉をナイフで裂いた。》

「さよなら」とぼくは言った。
「どこへ行くんだい?」とノイマンは言った。「きみは変わってるね。ここで死のうとは思わないんだ?」
「全然」とぼくは言った。「ぼくはあんたがたの商売敵だからね。ぼくは小説を書いてるんだ。ぼくにもお客が必要なんだよ」
「そうか」とノイマンは言った。「じゃあまた」
「じゃあまた」とぼくは言った。
「ご機嫌よう」とコッホ神父が言った。
「ご機嫌よう」とぼくは言った。
「どこへ行く?」と神崎神父がきいた。
「とりあえず街へ」とぼくは答えた。「街が燃えてるんだ」
「知ってるよ」神父は笑った。「きっと火傷するぜ。おれはまた火が熱いんでこっちに逃げてきたのかと思った」
「さよなら」とぼくは言った。

           ★

 そのときの神戸は何日間も燃えていて、通りはどこもアフリカの夏より暑かった。ぼくは相変わらず体操用のショートパンツ一枚の裸で、おまけに裸足だったが、歩いているうちにからだ中から汗が流れてきた。皮膚からはシューシューと音を立てて湯気が噴き出した。それで初めてぼくは自分が半分凍っていたことを知ったのだった。一九六八年の秋の山はひどく寒かったから、裸で歩いていれば凍ってしまっても別に不思議じゃないのだが、そのときまではただ自分の皮膚が寒さに鍛えられて、犀の鎧みたいに分厚く固くなったのだと思い込んでいたのだ。
「やれやれ助かった」とぼくは通りで声に出して言ってみた。「危うくぼくも冷凍されて
しまうとこだった」
 街には人がたくさん出ていたが、誰もぼくの話を聞いていなかった。通りすがりにちょっとぼくの恰好に目を止めるくらいで。一九六八年でも、寒い秋の夜に裸で街を歩いているというのはあんまりまともじゃなかったが、その頃の神戸の夜はなんとなくそれが許されるような雰囲気だったのだ。だから誰も「おい、そんな恰好でどうした?」と声をかけてくれたりしなかった。あるいは、「そんなに湯気を立てて熱くないかい?」とか。
 おかげでぼくはすごく孤独だった。
「もっともからだが溶けてきたからといって、あんまり安心してちゃいけないんだけどね」とぼくはさらに大声で言ってみた。「なにしろ総愛学院の冷凍鹿は、みんな解凍されたとたんに死にたくなって、わざわざ人間に殺されに行っちゃったんだから。鹿たちは自由になって初めて自分が半分死んでたってことに気づいたんだ。そういうとき、普通は喜ぶはずなのに、あいつらときたら生きてることが恐くてしかたなくなってしまったんだ。それはとても不健康なことじゃないかな?」

 相変わらず人は誰もぼくの話を聞こうとしなかった。ぼくは通行人の腕を掴んで引き止めてみた。
「なんだい、急に?」とその通行人が言った。
「冷凍鹿のことなんだけど」と言ってぼくは口ごもってしまった。なんだか自分がとても馬鹿なことをしてるような気がしたのだ。
「冷凍鹿がどうしたって?」
「いや、いいよ」そう言ってぼくは行こうとした。
「よくないよ」と通行人は言い、ぼくの腕を掴んだ。「冷凍鹿がどうしたんだ?」
「きみにはあんまり関係ない話かもしれないよ」とぼくは言った。
「人間にとって関係ない話なんてあるのか?」と通行人は言った。「人間にとっては世界のすべてのことがとても大切なんだ。そうだろ?」
「そうだね」とぼくは言いながら目をパチパチさせた。なんだか面食らってしまったのだ。そんな風に人の話に耳を傾けてくれる通行人がいるなんて思いもよらなかったからだ。考えてみれば、一九六八年の夏まで、神戸にはそういう人間が溢れていたはずなのだが、わずか二か月足らずのうちにぼくはそういうことさえ忘れかけていた。
「でも、冷凍鹿って知ってる?」ぼくは恐る恐るきいた。
「神戸の人間なら誰でも総愛学院の冷凍鹿は知ってるよ」と通行人は力強く言った。
「そうか」とぼくは言い、さっきひとりで喚いていたことを繰り返して言った。解凍されて自由になった冷凍鹿がいかに惨めに死を求めたかについて。
「それはあんまりだ」と通行人は言った。「一度手にした自由を自分から捨てちまうなんて」
「だからぼくは殺されないように逃げ出してきたんだ」とぼくは言った。「でも、これからどうしたらいいんだろう?」
「好きにするさ」と通行人は言った。「きみは完全に自由なんだから。ただし神戸の街にはもう自由はないぜ。潰されちまったんだ」
「誰に?」
「いろんなやつらにさ」通行人は肩をすくめて見せた。「鹿だけじゃない、人間にも自由を怖がるやつがたくさんいるのさ。それで街が燃えてるわけだ」

 街は勢いよく燃えていた。歩道は敷石が剥がされて土がむきだしになっていた。小さく割られた敷石のかけらが散乱している道のあちこちで車が燃えていた。交通は遮断されて四つ角には敷石が詰まれていた。通行人はたくさんいた。みんなひとつのゆるい群れをなして一定方向に流れていった。ときどき振り向いてはコートのポケットから石を出し、来た方向に少し助走して石を思い切り投げた。
「きみもむこうから来たの?」とぼくは話を聞いてくれた通行人に言った。
「そう。むこうからね」と通行人は言った。彼も薄手のコートを着ていた。ポケットは石で膨らんでいた。
「むこうには何があるの?」
「別に何も」と彼は言った。「真空があるだけさ」
「これからどこに行くの?」
「さあ、あてはないね」
「きみは何者なの?」
「わからない」
「ぼくは何者なの?」
「きみは英語で小説を書いた総愛学院の作家の卵さ」と言って、彼はちょっと笑った。
「どうしてそんなこと知ってるの?」
「おれは谷間でキャンプを張ってたからね」彼はまた笑った。「きみがどんな男の子に恋していて、どんな風に失恋したかも知ってるよ」
 そう。ぼくはすっかり有名だった。そしてヒッピーたちはもうコートを着て街を歩いていた。
「八重山を見なかった?」とぼくは彼にきいた。「ほら、ぼくと同じ学年で、ジャズ・ピアノがうまいやつだよ。頭に手術の後があって⋯⋯」
「知らないわけないだろ」と言って彼は笑った。「あの、美人のおねえさんがノイマン屋敷に住んでて、街で鉄工場を経営してる⋯⋯。おれはさっきまで彼と一緒にいたんだ」
 そう。ぼくらはすっかり有名だった。そしてヒッピーたちは街で石を投げたり車に火をつけたりしていた。ぼくは何かが決定的に変わった瞬間を見ていたのだ。そして何かが変わったことに気づいていた。ただし、何がどう変わったのかはわからなかった。それがわかったのは何年もたってからだ。そのときは大人たちだってわかっていなかった。

 ぼくはときどき立ち止まって通行人に八重山を見かけなかったかとききながら西へ向かった。街はどこも燃えていた。呼び止めた通行人の三人に一人は総愛学院の谷間でキャンプを張っていた元ヒッピーだった。彼らはみんなグレーか紺のコートを着て、ポケットを膨らましていた。中にはコートの下に背広を着てネクタイを締めてるやつもいた。
「会社に勤めたんだ」とその元ヒッピーは言った。「秋だからね」
 彼らの情報によると、八重山は市内を転々としていた。誰もがついさっきまで彼と一緒にいたと言い、その場所はそれぞれかなり離れていた。まるで宝探しゲームをやってるみたいで、どこに行っても八重山はなかなか見つからなかった。
 それでもぼくは通行人たちから、この二週間、特にこの数日間に神戸で何が起こっていたのかについて話を聞くことができた。ぼくは摩耶山の上からオレンジ色の火が広がっていくのを眺めていただけで、何が実際に行われているのか知らなかったのだ。
 事件は十月八日に起こった。きっかけを作ったのは八重山と彼のコンボだった。その夜彼はいつものジャズ喫茶の前で演奏を始めた。曲は『セルフレス』だった。その夜演奏されたこの曲は、それまで彼が書いたどの曲とも違っていた。メロディも和音構成もリズムも決まっていないことは同じだったが、『セルフレス』では演奏する人間までが不特定だった。つまり、彼が提示する音とリズムのパターンを、まわりの聴衆が受け取り、声や手や足のリズムなど何でもいいから何かで表現するのだ。
「すごかったぜ」と彼は言った。「演奏に参加することで自分が変わっていくんだ。おれは一九六八年の十月八日にそこにいて彼と『セルフレス』を一緒に演奏したってことを一生忘れないだろうね」
「そう」とぼくは言った。「よかったね」

 ぼくはなんとなく悔しかった。なぜ自分もそこにいなかったんだろう? ぼくは最高の瞬間を見逃してしまったのだ。
『セルフレス』の演奏は火のように神戸の街中に広がっていった。八重山が提示する音とリズムのパターンは刻一刻変わっていき、その変化が大きなうねりになって追いかけあい、街のところどころでぶつかって大きな地響きを立てた。演奏は朝になっても終わらなかった。街のいたるところで楽器を持ち出して『セルフレス』に参加する連中が現れだした。交通が遮断され、商店や銀行や会社のオフィスが襲撃された。演奏の高まりと一緒に本当の火が街に広がっていった。
「なるほど」とぼくは言った。「でも、どうして『セルフレス』の演奏は終わっちゃったの?」
「そりゃ誰だって二週間も演奏を続けられるもんじゃないよ」とその元ヒッピーは言った。
「二週間⋯⋯」とぼくは言った。「二週間?」
「二週間さ」と彼は言った。
「じゃあ、今日は何日なの?」
「知らないのかい?」彼は不思議そうにぼくの顔をのぞき込んだ。「十月二十一日じゃないか」
「そうか」とぼくは言った。「山の上にいたもんでね、時間のたつのがよくわからなかったんだ」
 そう。どうもぼくは時間のたつのが遅いような気がしていたのだ。ぼくは十月八日の夕方に霧の中で校庭を走らされていた。一人で列から抜け出し、谷から洞窟に入り、冷凍鹿の地下広場で『コートにすみれを』を弾き、カークパトリック神父に会い、ノイマン屋敷に行ってヒマワリの種を食べながらミチコと『菜の花の家』の加筆校正をやり、彼女から一九四五年にノイマンが彼女の両親にしていたことを聞き出しながら新しい部分の原稿を書いた。何百ページ分かの校正と何百ページ分かの加筆だった。どうもほんの数日でやったにしては、仕事の量が充実し過ぎているような気はしていたのだ。
 今日が十月二十一日だと聞いて、ぼくは初めてノイマン屋敷のサンルームから何度となく日が昇るのを見たことを思い出した。そう。ぼくは何度となくミチコのベッドで眠り、ミチコの作った料理を食べた。ヒマワリの種から取った油で揚げた肉や野菜、ヒマワリの油で炒めた肉や野菜、ヒマワリの油から取ったマーガリンを塗ったパン⋯⋯。彼女の料理はアフリカの夏の匂いがした。
「二週間か」とぼくは言い、自分がちゃんと二週間分の記憶を持っていることに気づいた。何しろぼくはその頃毎日日記をつけていた。日記帳は家にあったが、その二週間は頭の中で日記をつけていた。その頃のぼくは一度頭に刻んだ言葉は二度と忘れなかった。一九六八年の子供は誰でも少し神童がかったところを持っていたのだ。
「二週間さ」と元ヒッピーは言った。「断言してもいいけど、この二週間みたいにすごい二週間は二度とやってこないだろうな」
「そう?」
 ぼくは肩をすくめた。ぼくは裸で裸足だった。その上とても孤独だった。

 ぼくは八重山を捜して神戸中を歩き回った。火は街のいたるところで燃えていたが、もう誰も『セルフレス』を演奏していなかった。街角には壊れたピアノやトランペット、サキソフォン、ベースといった楽器が散乱していた。
「三日目には街中の音楽家が『セルフレス』を演奏していたんだ」と別の元ヒッピーが話してくれた。「プロだけじゃない、学生とか勤め人で楽器が弾けるやつ全部だ。楽器がないやつ、楽器が弾けないやつは口で演奏して、手や足でリズムをとった。いや、すごかったのなんの⋯⋯」
「そりゃよかったね」とぼくは言った。「でも、それはどうして終わっちゃったの? それもこんなふうに」ぼくは壊れて散らばっている楽器の破片を指さしながら言った。「この人たちはどこへ行ったの? どうして自分の楽器を捨てていったの?」
「説明するのはすごく難しいんだ」と元ヒッピーは言った。「いつのまにかこうなったんだよ。邪魔するやつらが出てきたんだ。こういうのを喜ばないやつはどこにでもいるからね」
「誰が邪魔したの? その人たちはどこにいるの?」
「わからない。彼らには彼らの陣地があるのさ、きっと。おれは見たことないけどね」
「楽器を弾いてた人たちはどこへ行ったの?」
「いろいろさ。ぼくはギターを弾いてたんだけどね。途中から石を投げる羽目になったんだ。気がついたら楽器はどこかへ行っちゃってた。惜しいことをしたなあ」
「八重山を見なかった?」
「もちろん見たさ。おれは彼のすぐ近くで戦ったんだ」彼はコートの胸を叩いて自慢げに言った。
「戦った? 演奏してたんじゃないの?」
「彼は最後まで演奏してたよ。彼が止まったらおしまいだもんな。おれたちは彼を守るために途中から戦いだしたんだ。でも、結局演奏することと戦うことは同じことなんだよ。特にあの場合はね」
「八重山はどこにいるの? 今でも演奏してるの?」
「わからない。戦ってるうちにはぐれちゃたからな。でも、おれが最後に見たときにはまだピアノを弾いてたよ」
「それはいつ?」
「ついさっきさ」
 相変わらず誰もがついさっきまで八重山のそばで演奏し、戦っていたと主張したが、やはりその場所は人によってひどくかけ離れていた。ぼくはだんだん八重山が何人も影武者を使ってるような気がしてきた。彼らに聞いた場所に片っ端から行ってみたが、どこにも八重山はいなかった。そしてそこにいる人たちは決まって「ついさっきまで」八重山がそこにいたと主張した。
 やれやれ⋯⋯。

 どこに行っても敷石の破片とごみと楽器の残骸だらけだった。誰もがコートを着て寒そうに震えながら東へ逃げていた。ときどき立ち止まって西のほうを振り返り、ポケットの石を投げてはまた東へ走っていった。アフリカの夏に歩道を埋め尽くしていた若いアーティストたちやきれいな女の子たちはどこにもいなかった。マリワナを吸い、街中で優雅にセックスしていた彼らは気配さえ残さずに消えてしまった。女の子でさえコートを着て東へせかせかと歩いていた。ときどき石を拾って投げる子もいた。石は何メートルか先に落ちたが、そこには敵らしいものの姿は全く見えなかった。同じように東へ向かう人たちの足元に、石はさみしく落ちて少し角が砕けた。ゴトン。
「今こそぼくらはやるべきだと思うんだ」とぼくは大きな声で言った。
 すぐそばを髪の長い可愛い女の子が通り掛かったからだ。彼女は立ち止まってぼくを見た。コートにポケットに両手を突っ込んでる姿がなかなか決まっていた。風でコートの裾がまくれ上がったとき、すごく短いスカートとかたちのいい足が見えた。
「何言ってんの」と彼女は言った。「わたしが夏に何度も言ったのに、あなたはやろうとしなかったじゃない」
「そうだったっけ?」
 ぼくは彼女の顔をじろじろ見た。何度見ても知らない顔だった。強いて言えば一宮ミチコ、八重山のお姉さんではなく、マリコが好きだったミチコに似ていたが、そのミチコの髪はそんなに長くなかった。彼女は夏前に聖書女学院から姿を消していたが、三か月ちょっとで男の子みたいだった髪が肩まで伸びるわけはなかった。
「人違いだよきっと」とぼくは言った。
「そうね」と彼女も言った。「わたし、あなたのこと知らないわ」
「でも、ぼくらはやるべきだと思うんだ」とぼくは言い、彼女の細い手首を掴んだ。
「だめよ」と彼女は言い、ぼくの手を振り払った。まるで犬に噛みつかれたみたいに。「もうチャンスは永遠に失われたのよ」
「そうか」とぼくは言った。
 チャンスがいつどんな風に失われたのかよくわからなかったが、そう言われてみると、チャンスは永遠に失われたような気がした。

 八重山を見つけたのは明け方近くなってからだった。彼は神戸の繁華街の西端、長いアーケード街が終わったあたりにいた。工員たちが彼を取り囲んでいた。彼は血みどろの頭を一人の膝にのせて地面に横たわっていた。ぼくの顔を見た彼は弱々しく手を上げて、
「やあ」と言った。
「やあ」とぼくも言った。
 彼の頭は三分の一くらいが抉り取られたようになくなっていた。固まりだした血に覆われているのは白くて小さな頭蓋骨らしい球体だった。
「殴られたの?」とぼくはきいた。
「いいや」と八重山は言った。「爆発したのさ、内側からね」
「危ないとは思ってたんだ」とぼくは言った。「風船みたいだったからな」
 彼の頭の傷は夏頃から剥きだしの脳みそみたいに肥大していた。半透明の薄い皮は極限まで膨張して、中の血が透けて見えた。ちょっと針で突いたら破裂しそうだった。あるいはちょっと興奮して血圧が上がったら⋯⋯。で、その通りになったのだ。
「まあいいや」と八重山は言った。「おれは完全な自由を表現できたからね」
「噂は聞いたよ」とぼくは言った。「立ち会えなくて残念だったな」
「でも、いいじゃないか。その間に姉貴とやれたんだから」と彼は言った。
「ノイマン屋敷で小説の校正をやってたんだよ」とぼくは言った。
「そう?」と彼は言った。「みんな、やったって言ってたけどな」
「誰が?」
「みんなさ。街で通り掛かったやつらや、演奏に加わってきたやつらが言ってたんだ。きみがノイマン屋敷で姉貴と何日もやりまくってるって」
「そんなことないよ」
「そうか」
 ぼくはミチコが死んでしまった話をすべきかどうか迷っていた。話したら八重山は悲しむだろうし、ショックで死んでしまうかもしれない。それに雰囲気がそんな話にふさわしくなかった。街は燃えていたし、山から冷たい風がぼくらに吹きつけていた。もうコートを着込んで東に逃げる人たちの流れはすっかり途絶えていた。戦いは終わっていた。
「一体どうしたっていうんだ」とぼくは呟いた。「戦いは一体どこでやってるんだ? ぼくはここに来るまで一度も敵の姿を見なかったよ」
「わりと見えにくい敵だったからな」と工員の一人が言った。
 それからぼくらはトラックで八重山を病院まで運んだ。坂を上がっていくにつれて、オレンジ色に燃え盛る港と工場地帯がパノラマみたいに広がっていった。夜が明け始めていて、六甲山の東の空はすでに紺色から水色へと変わり始めていた。

 そこはつい数日前までアルパインが入院していた病院だった。ぼくらはついに一度も見舞いに来なかったが、それは彼の母親がアメリカから飛んできて、病室のまわりにすら誰も近づけようとしなかったからだ。母親は半狂乱になっていた。日本人全員を敵視していた。彼女が駆け付けたときにはすでにそこで手術が行われていたのだが、その病院に息子を引き続き入院させることにしたのは、そこがキリスト教系の病院で、白人の医師や尼さん兼看護婦がたくさんいるからだった。                      
「野蛮なアジアの黄色い猿がわたしの息子を撃ったのよ」といった意味のことを彼女は叫び続けていた。
 彼女がアルパインを東京の病院に移すことにしたのは、神戸の街にオレンジ色の火が広がり出したからだった。彼女は見舞いに来た神戸市のお偉方にくってかかり、ヘリコプターをチャーターしろと要求した。要求は聞き届けられ、アルパインは神戸から永遠に消えてしまった。
「ひどいな」とアメリカ人の医者が言った。「気をつけろってあれほど言ったのに」
 彼は一九六七年に八重山の頭の手術をした脳外科医だった。
 ぼくらは病室にいた。爆発した頭を包帯でグルグル巻きにされた八重山はベッドに横たわって眠っていた。
「もう頭の中はグチャグチャだよ」と医者は続けて言った。「どうしてこんなになるまでほっといたんだ?」
 そこは病室だった。ベッドには八重山が意識不明のまま横たわっていた。
「まあ、どっちみち助からないとは思ってたけどな」と医者は言った。「去年からもう腫瘍がひどくてどうにもならなかったんだから」
「しっ」とぼくらは彼に言った。「そんなに大声で喋ってたら、当人に聴こえちゃいますよ」
「しようがないだろ」と医者は大威張りで言った。「自業自得なんだから」
 そう言われるとそんなような気もした。たしかに八重山は自分の脳が危ないことを知っていて、わざと無茶をしてるようなところがあった。でも、八重山鉄工の工員たちはそんなにあっさり納得しなかった。彼らはとても素直に感情を表現するタイプの連中だったからだ。彼らは脳外科医を袋叩きにしてしまった。医者はそのまま外科病棟に入院してしまい、代わりの医者は朝までやってこなかった。看護婦たちでさえ病室に近づこうとしなかった。
「まずいな」とぼくは言った。「このまま手術もしないで時間がたってしまったら⋯⋯」
「ごめんよ」と工員たちが言った。「でも、あんな医者は信用できないよ」
「そうだね」

「ああ」と八重山が言った。「ああ」
「どうした?」とぼくは言った。
 彼は急に生き生きとした顔になり、眼を大きく開いた。
「だから言ったろ?」と彼は言った。「ぼくはもうすぐ死ぬんだって」
「手術すれば治るって医者が言ってたよ」とぼくは言った。
「嘘つき」と彼は言い、かすかに笑った。「それより姉貴はどうしてるかな? 連絡を取ってほしいんだ」
「さっきノイマン屋敷に電話をしたよ」とぼくは言った。「すぐ来るって言ってた」
「そう」と彼は言った。「よかった。死ぬ前にもう一度会いたかったんだ。何しろぼくにとっては特別な女だからね」
「うん」とぼくは言った。
 それから彼は眼を閉じ、そのまま二度と目覚めなかった。それが二週間にわたって神戸に自由をもたらした少年の最期だった。

            ★

 ぼくはすっかり明るくなってから、八重山鉄工に寄って、工員の一人に作業服と電車賃を借り、電車で宝塚の家に帰った。一九六八年十月二十一日は月曜日だったから、その朝は火曜日で、当然学校では授業があったが、そんなことは考えもしなかった。ぼくの人生で大切なことはすべて終わってしまったという気がした。
 宝塚の我が家では母が庭掃除をしていた。
「あら、久しぶり」と彼女はぼくを見て言った。
「やあ」とぼくは言った。
 それから食堂で母の作った昼食を二人で食べた。もう我が家では庭にテントを張っていなかった。聖書女学院の果樹園でキャンプしていたヒッピーたちも姿を消していた。
「夏も終わりだね」とぼくは言った。
「何言ってるの」と母は言った。「もうすぐ冬じゃないの」
 その通りだった。果樹園の下草は土色に枯れ、霜に当たって濡れていた。桃の木の葉っぱはすっかり散っていた。
「ぼくが二週間、どこで何してたかきかないの?」
「学校から電話があったもの。神戸の街にいるらしいって」
「そう?」
 ぼくはこの誤った情報を訂正すべきかどうか迷ったが、結局そのままにしてしまった。この二週間燃える街の中にいるべきだったと、そのときのぼくは感じていた。今更、八重山のお姉さんと二人きりでノイマン屋敷に篭もっていたなんて言えない気がした。それもセックスもしないで小説の加筆校正をやってたなんて⋯⋯。
「学校は何か処分のこと言ってた?」
「二か月間毎日便所掃除だって」母はぼくの顔を見て笑った。
「そうか」
 ぼくは拍子抜けした。二度と学校には戻れないと思っていたのだ。
「それと、小説は二度と書くなって」
「そう?」

 ぼくは熱を出して一週間学校を休んだ。裸で歩き回ったせいで、ほんとに風邪をひいてしまったのだ。ぼくは眠り続けた。ノイマン屋敷にいた二週間、ろくに寝ていなかったからだ。目を覚ますたびにミルク入りのお粥やコーンスープやチーズ入りのオニオンスープを喉に流し込んで、すぐまた眠りに落ちた。眠っている間、いろんな夢を見た。小説を書く夢、日記をつける夢、夢を見ている夢⋯⋯。夢の中でぼくは『菜の花の家』を書き続けた。何をどう書いたらいいかは最初からすっかりわかっていた。ペンを動かす前から何百ページ分もの文章がほぼ完全なかたちで頭の中に揃っていた。ぼくは口述筆記する書記みたいにただペンを動かすだけでよかった。
 一週間後、熱がひいてベッドから起き上がると、夢の中で書いたはずの文章はすっかり頭の中から消え去っていた。描かれた場面はその気配しか残っていなかった。ぼくはすごく慌てた。一度頭の中で書かれた言葉が消えてしまうなんて、初めての経験だったからだ。その瞬間からぼくは凡庸な少年になった。ノイマン屋敷にいた二週間のできごとも、日記帳に書く前に失われてしまった。仕方なくぼくは次のように書いた。

《十月八日 『菜の花の家』の校正をやった。
 十月九日 『菜の花の家』の校正をやった。
 十月十日 『菜の花の家』の校正をやった。                   
 ⋯⋯⋯⋯⋯⋯(中略)⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
 十月十九日 『菜の花の家』の校正をやった。
 十月二十日 『菜の花の家』の校正をやった。
 十月二十一日 『菜の花の家』の校正をやった。それから学校へ行った。カークパトリック神父が死んだ。八重山ミチコが死んだ。夜中に神戸を歩いた。八重山が死んだ。》

 ぼくはまた学校に行きだした。総愛学院は相変わらずだった。絶えずどこかのクラスが運動場を裸で走らされていたし、どこの便所も罰当番の生徒が掃除していた。変わったことといえば、そういう連中の数がすごく増えたことだった。高等部の連中までが裸で便所掃除をやっていた。
「おれは八重山のすぐそばで『セルフレス』に参加したからな」と、高等部の二年生がぼくと便所掃除をやりながら言った。「きみもあそこにいたんだろ?」
「まあね」とぼくは答えた。

 カークパトリック神父は病気でアメリカに帰ったことになっていた。シュテルマッハー校長は死者の日の礼拝で彼のために祈った。死者の日というのはカトリックの祭日の一つだ。校長はこの日に祈ることでカークパトリック神父が実はもう死んでいるのだと言うことをほのめかしたかったのかもしれない。
 校長はどう見てもノイマンに似ていたが、ついに確かめる機会は来なかった。あるとき廊下で校長とすれちがったので、
「あんたはノイマンかい?」ときいてみた。
「何だそれ?」というのが彼の返事だった。
 あれは夢の中のできごとだったんじゃないか⋯⋯?
 そんな気もした。

 久しぶりに授業に出た日の放課後、ぼくは神崎神父に呼び出されて、二か月間の便所掃除を正式に言い渡されたのだが、「二度と小説を書くな」という命令は受けなかった。
「あの」とぼくは言った。「小説を書いちゃいけないというのはほんとですか?」
「さあね」と神崎神父は言った。「おれが受け持ってるのは校則違反の処分だけなんだ。思想的なことは校長の領分だからな」
「じゃあ、校長に言われるまでは書いてもいいんですね?」
「そんなこと、おれは知らんよ」
 ぼくはついに校長から呼び出されなかった。ただ、一度だけ新聞部の顧問の河原神父にこんなことを言われた。
「おまえ、まさかまだあの汚らわしい小説を書いてるんじゃないだろうな?」
「いいえ」とぼくは言った。「とんでもない」
「そうか」と河原神父は言った。「それならいいんだ」

 それは嘘だった。ぼくは毎日授業と便所掃除が終わると、こっそり谷を越えてノイマン屋敷に行き、『菜の花の家』の続きを書いていた。地下道が埋められてしまったので、学校から見えないように谷を渡るのはかなり難しかった。一九六七年の秋にミナミさんから教わった、ぼくと八重山しか知らない秘密の道を通らなければならなかった。
 地下道は見事に埋められていた。庭園の斜面に開いていたいくつもの穴は、ただ土を詰め込まれただけでなく、下草や潅木まで植えられていて、ちょっと見ただけではまわりの斜面と区別がつかなかった。校舎の地下に続く階段は古い机や椅子がびっしり詰まれていて、途中から通行不能になっていた。机も椅子も分厚く埃をかぶっていて、もう何十年もこのままなんじゃないかという感じだった。だから、何度となく地下道を自由に行き来したぼくでさえ、ここに地下道があったことなんて夢だったんじゃないかという気がすることもあった。

 ノイマン屋敷はアフリカの夏のままだった。ミチコと八重山とアルパインとそのアシスタントのアーティストたちがいなくなったことを除いては。
 ぼくはミチコから裏口の合鍵を渡されていたので、毎日ここにやってきてはヒマワリの種を敷き詰めたサンルームで『菜の花の家』の加筆校正を続けた。
 ぼくはとても鈍重な書き手になってしまっていた。印刷屋は最初のうち毎日原稿を取りにきた。十月二十一日までのぼくは毎日何十ページ分もの原稿を渡していたからだ。十一月に執筆と校正を再開してからはとたんにスピードが落ちた。毎日原稿用紙二三枚、ときには全然渡せない日もあった。
「長く書き過ぎたんですよ」と印刷屋は言った。「素人はみんなそうです。最初のうち飛ばし過ぎて、結局息切れしてしまうんです」
「そうか」とぼくは言った。
 一九七〇年になると、印刷屋はやってこなくなった。ミチコが前渡ししていた金では引き合わなくなったからだ。ノイマン屋敷も登記上は不動産会社の手に渡っていた。そんなわけで、『菜の花の家』は大部分が校正を終えた段階まできていたにもかかわらず、結局印刷されなかった。おまけに最後の五十ページはぼくの手書きの原稿のままだった。もっとも、この作品は結局書き上げることができなかったと言ったほうがいいかもしれない。ノイマン屋敷の兄嫁と弟が死んでも、その子供である八重山とミチコが死んでも、ぼくが生きているかぎり、物語は続いていく仕組みになっていたからだ。結局ぼくはこの作品を一九七〇年の時点でストップさせてしまった。なぜなら、そこに出てくるのはもう『菜の花の家』という作品を書き続けているだけの《ぼく》だけで、とても単調な展開になってしまっているのを感じたからだ。たとえば、終わり近くの文章はこんな風だ。

《秋になってジミ・ヘンドリックスが死んだ。十月にはジャニス・ジョプリンが死んだ。麻薬と酒のやりすぎらしい。二人とも寝てるうちに吐瀉物を喉に詰まらせて死んだのだ。それでもぼくはまだ『菜の花の家』を書き続けた。》

 吐瀉物を喉に詰まらせてと言えば、ミチコも一九六八年十月二十一日にノイマン屋敷で発見されたとき、寝室のベッドの中で窒息死していたということになっていた。新聞や雑誌にそう出ていたのだ。見出しはたとえばこんな感じだった。

 アルパインの愛人全裸で発見!
 麻薬常習の疑いも!

 おなかの刺し傷やノイマンのサーベルのことは一言も触れられていなかった。彼女の死の直前まで一緒に過ごしていた少年のことや、サンルームのテーブルに積まれていた校正刷りのことも。もちろんぼくは真相を打ち明けに、わざわざ警察まで行くようなまねはしなかった。
 ぼくはこのニュースを知ったとき、『菜の花の家』の校正刷りは当然、警察に持ち去られているだろうと思った。ところが一週間後にぼくが屋敷を訪れると、それは手付かずのまま、あの丸テーブルの上に乗っていた。
「まったく、何てこったろう」とぼくは思わず呟いた。

 ノイマン屋敷を買った不動産会社はなかなかこの土地に手をつけようとしなかった。屋敷が壊され、ここに住宅地が造成されたのは一九七三年のことだ。ぼくはもうその頃東京にいた。その後、ここには十何軒かの家が建ち、丘の上のこぢんまりした住宅街ができあがった。
 のろまな不動産会社のお陰でぼくは一九七二年に総愛学院を卒業するまで毎日ノイマン屋敷で過ごすことができた。そこで迎えた三回の春には決まって屋敷のまわりに菜の花が咲いた。春が終わって菜の花が枯れると、自然に種が地面にこぼれて、次の春がくるとそれが自然に芽を出した。夏にはもちろんヒマワリが咲いた。ぼくはミチコがヒマワリの種を全部煎ったり油を絞ったりしてしまったのだと思い込んでいたので、一九六九年の夏にいつのまにかヒマワリが咲き出したときにはひどくびっくりした。彼女はちゃんと次の年のために種をそこら中にまいておいたのだ。ぼくもそれにならって一九六九年の秋にはヒマワリの種を採って敷地中に蒔いた。余った分は煎って屋敷の部屋という部屋にまいた。どこの部屋に行っても好きなときに食べて、アフリカの夏の香りを思い出せるようにしたのだ。
 ぼくはいつもミチコと八重山のことを思い出していたので、ときにはいつのまにか彼らがぼくの後ろに立っていることもあった。八重山はサンルームのピアノでシューマンやスカルラッティを弾いてくれた。ぼくのリクエストに応えて『コートにすみれを』や『柳よ泣いておくれ』や『水辺に佇み』といったスタンダード・ナンバーも弾いてくれた。彼らが一緒に現れることはまずなかった。彼らは必ず一人で現れ、ぼくがもう一方の消息をきいても、「知らない」と答えた。もしかしたら照れ臭かったのかもしれない。ときどき彼らが遠くの部屋でいちゃついたりセックスしたりしてるのが聞こえることはあった。もちろん彼らは現実世界の重荷を取り払った気軽さから、毎日やりまくっていたのだ。

「おりこうね」と、あるときミチコがぼくの肩に手を置いて言った。
「何が?」とぼくはきいた。
「ちゃんと書き続けてるから」と彼女は言った。「なかなかできることじゃないわ」
「きみたちは結婚したんだ?」とぼくはきいた。
「誰のこと?」彼女はとぼけて笑った。
「ぼくは書けなくなったよ」とぼくは言った。
「書いてるじゃない」と彼女は言った。
「アフリカの夏はこの百倍のスピードで書けたのに」
「問題はスピードじゃないわ。言葉で組み上げた装置の質なのよ」
「そうだね」
「あなたは一つ山を越えたところなのよ。あせっちゃだめ。また山を登り始めるときがくるわ」
「そうだといいね」
 それは嘘だった。二度と山は現れなかった。高校を出てからぼくは小説を書かなくなった。

"A Tale of A Little Thief"は一九七〇年に上智大学語学実験室からサイドリーダーとして出版された。五千部刷られ、ぼくは五万円の印税をもらった。この金をぼくは印刷屋に渡し、残りの原稿を活字に組んでもらおうとしたが、印刷屋は金だけ受け取って、いつまでたっても校正を出さなかった。『菜の花の家』ではまだ何十万円かの損を出しているというのが彼の言い分だった。
 やれやれ。

"A Tale of A Little Thief"は一九七三年にもう一度刷られ、このときもぼくは五万円を受け取った。その後、この本は刷られていない。
 世の中は狭いもので、後にぼくはこの本を読んだという人に何人も出会った。みんなカトリック系の学校の卒業生で、授業で使ったり、夏休みの宿題として読まされたりしていた。
「いやあ、すごいな」とみんな同じような口調で言った。「素晴らしい才能をお持ちなんですね」
「子供の頃の話ですからね」とぼくは言った。「それに一九六八年にはみんな何かしら自分を表現しようとしていたんですよ」
「そうかなあ」と彼らは言った。彼らは一九六八年にも、それ以後も、自分を表現しようとしたことはなかったからだ。「で、今は?」
「今って?」
「今はどんなものを書いてるんです?」
「別に⋯⋯」
「ああ、そうですか」と彼らは言い、それからうれしそうに笑った。

 シュテルマッハー校長は一九八四年に死んだ。病死だ。彼は死ぬまで総愛学院の校長だった。コッホ神父は一九八五年に死んだ。彼が死ぬまで美少年に執着していたかどうかは知らない。アルパインは一九八七年にニューヨークで死んだ。まだ五十九歳だった。そして死ぬまで有名なアーティストだった。

「ぼくはもうぼくじゃないんだ」とぼくは言った。一九七〇年の春だった。
「人間は機械なのよ」とミチコは言った。「小説も機械なのよ」
「ぼくは錆びついた機械なんだ」とぼくは言った。
「油をさせばいいのよ」
 ミチコは後ろからぼくを抱き締めた。彼女はヒマワリの油の匂いがした。彼女の胸や腕はちゃんと柔らかい感触があった。綿の部屋着が椅子にこすれるかすかな音もしていた。ぼくは首を回し、手を彼女の頬っぺたに伸ばしながら彼女の首筋にキスした。そこは鹿の皮を剥いだ肉みたいに柔らかかった。
「どこにも行かないで」とぼくは言った。「きみがいないともう一字も書けないんだ」
「どこにも行かないわ」と彼女は言った。「いい子だから書き続けて。止まったらあなたもわたしも死ぬのよ」
「そうか」とぼくは言った。「書き続けるよ。きみと八重山が生きていられるように」

 それは嘘だった。ぼくは書くのをやめてしまった。ミチコと八重山は二度と現れなかった。彼らは死んでしまったのだ。
 ところでぼくは⋯⋯?

 と、ぼくは『菜の花の家』に書いた。それが最後の言葉だった。
                                        

                                        
                                        
                                        
                                        
                                        
                                        
                                        
                                        
                                        
                                        
                                        
                                        
        ま だ わ た し は 水 際 を ⋯ ⋯           
                                        


                                        
                                        
                                        
                                        
                                        
 マリコの前で広告会社の男にお尻をぶたれるのはとても苦痛だ。
 その日も仕事の打合せが終わったとき、男が「じゃあ、そろそろやりましょうか」と言ったのだ。まるで気の進まない仕事をさっさと片付けてしまおうといった感じだった。たとえば借金を取り立てるとか、担保にしていた家を差し押さえるとか⋯⋯。
「ええ」とぼくは言い、ソファから立ち上がってテーブルに両手をついた。
 ぼくの首輪は鎖でマリコの首輪とつながっていたので、彼女も首を引っ張られて立ち上がった。広告会社の男はぼくのズボンと下着を膝まで下ろし、平手でぼくのお尻をぶった。パシッという乾いた音がしたが、大して痛くはなかった。パシッ、パシッ、パシッと、広告会社の男はぼくのお尻をリズミカルに叩き続けた。その間ぼくは、
「ひとつ、ふたつ、みっつ⋯⋯」と数をかぞえていった。その日は百叩かれることになっていて、ぶった数を広告会社の男が気にしなくてすむように気を使ったわけだ。

 この広告会社では仕事が一段落すると、フリーランスのコピーライターのお尻を百回叩くことになっている。どこの広告会社もたいていそうだ。会社によって百十回とか百二十回とか、叩く回数は違うが、平手でコピーライターのお尻を叩くというのは変わらない。それが習慣になっているのだ。広告会社の社員たちはそのたびにいやそうな顔をする。そりゃそうだ。だれだって、三十過ぎの男のお尻なんて見たくない。もちろんぼくだってすごく恥ずかしい。特にマリコに見られるのは嫌だ。ぼくがお尻をぶたれている間、彼女は顔を窓のほうに向けている。
「奥さん、気を悪くしないでくださいよ」と男はマリコに言った。「ぼくだって好きでや
ってるわけじゃないんですから」
「ええ、わかってます」とマリコは言った。「仕事ですからね」
「どうです、よかったら奥さんも叩いてみませんか?」
「いえ、結構です。どっちかっていうと、叩くより叩かれるほうが気が楽ですから」
「ほんとにね」男はそう言って軽くため息をついた。「できたらご主人と代わってあげたいでしょうけど⋯⋯」
「わかってます」とマリコは言った。「それじゃ仕事になりませんものね」
 ぼくはお尻をぶたれながら海を見ていた。その広告会社は東京湾を見下ろす場所にあった。大型貨物船が出入りする埠頭では黄色いクレーンが次々と荷を下ろしていた。

 それからぼくらは運河沿いの公園を歩いて帰った。昼下がりのベンチには小さい子供を連れた母親たちがたくさん腰掛けてお喋りしていた。マリコはしきりに子供のほうを見ていたが、立ち止まって抱き上げたりはしなかった。ぼくが広告会社でお尻をぶたれた日は、ぼくに気を遣ってくれるのだ。彼女はぼくが子供、特に赤ん坊を恐れているのを知っている。赤ん坊は触れるにはあまりに柔らかすぎる。ちょっと触ると手足が取れてしまいそうな気がするのだ。
「いいよ」とぼくは言い、彼女の肩を抱いて立ち止まった。彼女も同時に立ち止まった。首輪の鎖が短かい日は、相手に知らせてから立ち止まらないと、首を締めてしまうことになるからだ。「赤ん坊を抱いてみたら?」
「いいわよ」とマリコは言った。
 ぼくらの足元で、歩き出したばかりという感じの赤ん坊がアヒルみたいによたよたと進んだり止まったりしていた。母親らしい女はベンチで笑いながら母親仲間と話し込んでいた。マリコはちょっとしゃがみかけたが、やめてしまった。
「いいから、抱かせてもらったら?」とぼくは言った。
「いいってば」とマリコは言った。
 赤ん坊はよたよた歩きまわりながら笑っていた。万歳をしてるみたいに両手を上げて、マリコがだっこしてくれるのを待っていた。ベンチで母親がぼくらを見ながら笑っていた。マリコは赤ん坊ではなくその母親を見ていた。ぼくもその母親を見つめた。彼女をどこかで見たことがあるような気がしたからだ。ぼくらは一緒にしゃがみこんで彼女を見つめた。目の前の赤ん坊が笑いながら、自分からマリコの腕の中に入ってきた。翼を取った天使みたいに可愛い赤ん坊だった。ぼくらを見つけた母親が、ベンチから立ち上がってこっちにやってきた。
「久しぶり」と彼女はマリコに言った。「元気だった?」
「ええ、まあ」とマリコは言った。
「あなたたちが一緒にいるのを見るなんて、奇跡みたい」と彼女は言った。それからぼくに向かって、「わたしが誰だかわからないんでしょ?」と言って笑った。

 彼女はぼくが知っているどの女にも似ていなかった。歳は四十をかなり越えているように見えた。長く伸ばしてゆるいパーマをかけた髪は茶色に染めていたが、根元のところがかなり白くなっていた。日本人には珍しく険しい、彫りの深い顔だちだった。フルマラソンを走った後のバネッサ・レッドグレーブといった感じ⋯⋯。
「わたしよ」と彼女は言い、ぼくのおちんちんを素早く掴んだ。「ミチコ」
「そうか」とぼくは言った。
 彼女の手を払いながら腰を引いたので、鎖がマリコの首輪を引っ張った。赤ん坊はびっくりした様子もなく、マリコの顔をいじっていた。
 その母親は一宮ミチコだった。一九六八年の初夏に聖書女学院の果樹園からリッキーと一緒に消えた女の子だった。
「一体どうしたっていうんだ?」とぼくは呟いた。目の前のこの歳とった母親がどうしてもあのミチコに見えなかったからだ。
「色々あったのよ」と彼女はぼくらに言った。「色々⋯⋯」

 ぼくらは歩いてわが家に戻った。ミチコと赤ん坊も連れて帰った。地上百三十メートルの居間から東京港を見下ろしながらぼくらはお茶を飲んだ。ミチコはいろんなことを話したが、窓際には決して近づかなかった。
「吸い込まれそうで恐いのよ」と彼女は言った。
 彼女は運河沿いにある公団住宅に住んでいた。わが家の居間からその建物がマッチ箱みたいに見えた。彼女の夫は運送会社に勤めていた。トラックの運転手だ。月に二十日は高速道路の上で過ごす仕事。東京に戻っても、家に帰るのは、酒を飲み、競艇かオートレースをやり、ソープランドで遊んでからだ。
「まあ、若いからね」と彼女は笑った。夫は二十一歳だった。
 それから話は一九六八年のキャンプのことになった。話すことは山ほどあった。ぼくらは聖書女学院の果樹園にあった木の一本一本を全部覚えていた。近くの小川の淵や瀬、そこで取れる魚、六甲山につながる広い丘陵地帯に広がっていた森やその中の池、そこで見た鳥や動物のことも⋯⋯。話しながら、ぼくらは二十年前の宝塚にいた。そこでぼくらがしたこと、話したこと、まわりにいた多くの人たちが蘇ってきた。
「ほんとに、あなたたちが一緒にいるのをもう一度見られるなんて」とミチコは言った。「やっぱり人間て、若いうちに出会った相手と一生暮らすべきなのよ。そうすればいつまでもそのときの思い出を共有できるもの」
「そうかな」とぼくは言った。

 ぼくとマリコはこの二十年間のことを話した。その中に共通の思い出はほとんどなかった。この二十年間の大部分、ほんの一年前まで、ぼくらはお互いが生きてるのかどうかさえ知らなかったのだ。
「それはちょっと悲しいことよね」とミチコは言った。「でも、いいじゃない。結局一緒になったんだから。わたしはあのときから、あなたたちはいずれこうなるんじゃないかって思ってたのよ」
「そう?」マリコがミチコの赤ん坊を抱きながら呟いた。彼女はじっとミチコを見つめていた。きっと冷静ではいられないのだろう。去年、結城に会ったときのぼくもそうだった。こういう相手とは永遠に昔のままの関係でしかありえないのだ。
 ミチコはひっきりなしに煙草を吸った。彼女が煙草を吸うのを見るのは初めてだった。一九六八年の彼女は煙草を吸わなかったからだ。彼女は煙草の火が唇につきそうになるまで吸うと、次の煙草を取り出してくわえ、前の煙草で火をつけるのだった。煙草を吸う彼女の手付きはとてもせかせかしていた。手の甲は皺だらけで、指先は茶色く変色していた。
 彼女はこの二十年間、何をしていたのか全く話そうとしなかった。ぼくはリッキーのことが聞きたかったので何度も水を向けたのだが、そのたびに彼女は話をそらしてしまった。
「色々あったのよ」と彼女はまた言った。「色々ね」
 色々⋯⋯。話せない色々。思い出したくない色々⋯⋯。

 日が暮れてしまった。秋の終わりの夜は素早くやってくる。赤ん坊はクークーと寝息を立てて寝てしまった。窓の外には東京の街と港の夜景が果てしなく広がっていた。ぼくらはテーブルを囲んで黙り込んでいた。別に話の種が尽きたからじゃない。なんとなく黙り込んでいたかったのだ。ぼくはマリコがミチコと二人きりになりたがっているのを感じていた。だから話の間、何度も首輪を外して席を立とうとしたのだが、そのたびに彼女たちに引き止められた。
「行かないで」とマリコは言った。「どこにも行かないでね。お願いだから」
 まるでぼくがそのままどこかへ消えてしまいそうな言い方だった。
「行っちゃだめよ」とミチコが言った。「今あなたたちに必要なのは、同じところに留まることなのよ」
「どこにも行かないよ」とぼくは言った。「一体どうしたっていうんだ」
「今のわたしたちに必要なのは、ずっと同じことを考え続けることなのよ」とミチコが言った。「しかも考えるのは、ごく当たり前のことについてでなきゃいけないし、その考え通りに暮らして楽しくなきゃいけないのよ」
「そうだね」とぼくは言った。彼女が何を言おうとしたのかはよくわからなかったが、そこには何かぼくにも思い当たることがあるような気がした。
「ああ、そうか」とぼくは言った。そこには懐かしい匂いがした。それはリッキーが今ここにいたら言ったかもしれないことだった。
「ねえ、リッキーのことを一つでもいいから教えてくれよ」とぼくは言った。「彼がしたこととか、言ったこととか、なんでもいいから」
「ねえ、それならいっそ、彼をここに呼んでみない?」とミチコは言った。それはあの世から聞こえてきたみたいに遠い声だった。

 ぼくらは大きな銀の杯に水を満たしてテーブルの真ん中に置いた。その横に置いた陶器の小鉢に米を入れ、ブランデーを注いで火をつけた。それからリッキーが座る席を用意し、その前にラム酒入りのオレンジジュースを満たしたグラスを置いた。リッキーが好きだった飲み物だ。灰皿も置いて、煙草を一本のせた。
「リッキーは煙草を吸わなかったと思うけどな」とぼくは言った。
「後から吸うようになったのよ」とミチコは言った。
 それからぼくらはまた一九六八年のリッキーについてしばらく話した。ジェーンとジャネットのことも。ミチコはジェーンについて話すことにまるでこだわりを見せなかった。むしろ彼女について懐かしそうに話した。
「わたし、一九七四年に彼女を訪ねたのよ」とミチコは言った。「リッキーと別れた後でね。彼女はオレゴンの両親の牧場にいたわ。十何ヘクタールもある敷地の中に、小さな小屋を立てて一人暮らしをしていたのよ。ジャネットはいなかったわ。交通事故で死んだのよ。車にはねられて。四つのときよ」
 ミチコは黙り込んでしまった。ぼくらは真っ暗な部屋でまた沈黙したまま時間を過ごした。東京の街の灯のかすかな光がぼくらの顔を照らしていた。その光はあまりに弱くて、ぼくはミチコが泣いているのかどうかさえ見分けられなかった。彼女はシュワッ、シュワッと音をさせながら、勢いよく煙草の煙を吸い込んでいた。
 リッキーの席は相変わらず空席だったが、オレンジジュースが少し減っていた。灰皿に置いた煙草にはいつのまにか火がついていて、煙が立ちのぼっていた。ぼくらはそこにリッキーがいるのを感じた。

 ぼくらは夜中までそうしていた。リッキーはゆっくり、何時間もかけてジュースを一杯飲み干した。煙草は途中で何度か新しいのと取り替えてやった。ぼくらは飽きもせずに彼の席を見つめた。彼はいつまでたっても気配だけで、姿を現さなかった。もちろん一言も喋らなかった。それでもぼくはなんとなくうれしかった。死ぬということが、それまで想像していたような完全な無ではなく、曖昧なかたちでその辺をぶらついてるようなものだとわかったからだ。それはリッキーにふさわしい生き方のように思えた。
 生き方?

 ミチコは眠ってしまった赤ん坊を抱いて帰っていった。また近いうちに、とぼくらは言い合った。家がすぐそこだから毎日でも会えるねと⋯⋯。それからぼくとマリコはベランダに出て、遥か下の道を眺めた。ミチコが住んでいるという公団住宅も闇の中で見分けることができた。ぼくらはミチコが赤ん坊を抱いて帰っていくとこを見ようと、ベランダで震えながら待っていた。彼女はいつまでたっても出てこなかった。
「変だな」とぼくは言った。「裏口から出たのかな?」
「そうかもしれないわね」とマリコが言った。
 ミチコはそれから二度と姿を見せなかった。電話番号をききそびれたので、ぼくらは公団住宅まで行って、彼女の住まいをたずねて回った。そのときになって、彼女が新しい姓を言わなかったことに気づいた。それでぼくらは一軒一軒しらみつぶしに訪ねていったが、ミチコはどこにもいなかった。誰も彼女らしい女に心当たりはなかった。もっとも、ぼくらのきき方が悪かったのかもしれないけれど。「フルマラソンを走ったばかりのバネッサ・レッドグレーブに似た女」なんて、どんな女だかわかる人はまずいない。
 その公団住宅にはトラックの運転手が二人住んでいた。どちらの奥さんもミチコではなかった。彼女は夫について、嘘をついていたのかもれしない。
 やれやれ。

「そりゃ幽霊だよ」と結城が言った。
「そうかなあ」とぼくは言った。
「だってミチコは死んだんだろ?」
「それは八重山ミチコだよ」

 ぼくらは夕暮れどきの窓際で闇が訪れるのを待った。リッキーを呼び出したテーブルだ。古いイギリス風の丸テーブルで、四五人が食事をするのにちょうどいい大きさだ。ぼくはミチコがやったように灰皿に煙草を乗せて置き、小鉢に米を入れ、ブランデーを注いで火をつけた。青みがかった紫の炎がチリチリと音を立てて米を焼きながらゆっくり燃えた。マリコはグラスにオレンジジュースを注ぎ、銀の杯に水を入れてテーブルの上に置いた。ときどきお互いが離れ過ぎて、首輪が鎖で引っ張られた。二人で別々のことをするときはいつもこんな具合だ。
「仲がいいのね」とノリコがぼくらに言った。
「まあね」とマリコが言った。
「首が痛くならない?」とノリコがきいた。
「それがまたいいのよ」とマリコが答えた。それから彼女は薄暗い灰色の闇の中でぼくの
顔を見つめながら笑った。
「気をつけろ」とぼくは言った。「きみはまた死神に取り憑かれてるよ」
「そう?」と彼女は言った。
「わたしたちも首輪をつけない?」とノリコが結城に言った。
「馬鹿言え」と結城は言った。

 ピアノが鳴った。『クライスレリアーナ』だった。テーブルを見ると、オレンジジュースが半分減っていた。煙草に火がついていた。煙草の火の赤は濃くなったり薄くなったりした。吸っているのだ。じゃあ、ピアノを弾いてるのは誰だ? もちろん八重山がピアノを弾き、ミチコが煙草を吸いながらオレンジジュースを飲んでいたのだ。
 ミチコ?

 ピアノは半透明の金属の液体みたいな音を部屋の中に振りまきながら暴れ続けた。八重山独特の清潔でしかも乱暴な音だ。演奏は二十分続いた。一九六七年の秋、文化祭の前夜とそっくり同じ音で。
 演奏が終わった。
「恐いよ」と結城が言った。彼はいつのまにかぼくの手を握っていた。ひどく怯えていた。ピアノの前に八重山がいたからだ。
「やあ」と八重山が言った。
 ぼくは彼が死んだ夜にも同じような声で「やあ」と言ったのを思い出した。ぼくらは一九六七年から一九六八年にかけて何度となく「やあ」と言った。あれは言葉数が少なくても事足りた時代だった。
「やあ」とぼくも言った。
「やあ」と結城が言った。「どう、調子は?」
 死人に「どう、調子は?」なんてきくもんじゃない。八重山はピアノの前に座ったまま、黙って床を見つめていた。丸坊主の頭は相変わらず傷だらけだったが、傷はそれほど肥大していなかった。
 ぼくらはしばらく黙っていた。ぼくらはお互いとても遠く離れているのだということが感じられたからだ。
「また小説を書いてるんだね」と八重山が言った。
「知ってるんだ?」とぼくは言った。
「ぼくはこの世の事象そのものだからね」と八重山は言った。「きみの小説もそうだ。これはとても大切なことだよ、世の中の複雑な事象をある一定のスタイルに定着させるのというのは」
「きみらしくない意見だな」とぼくは言った。「スタイルだなんて」

「ぼくはいつだってスタイルを創ろうとしていたんだよ」と八重山は言った。「『世界同時革命』だって、『セルフレス』だって、普段は隠れている事象の規則を具体化したものなんだ。もちろんあのときはそんな風に意識したわけじゃないけどね。あの頃は破壊が創造だなんて雑なことを考えてた。自分を知らなかったんだな」
「死んだ後であとで考えを変えたわけ?」と結城がきいた。
 ぼくは彼の手を強く握った。死者に彼が死んだことを思い知らせるような言葉は慎むべきだという気がしたのだ。
「ぼくは今でも考え続けてるよ」と八重山が言った。「死ぬってことは偏在することなんだ。生きてるうちはちょっとわからないだろうけど、人間は死ぬとこの世のあらゆる事象の中に含まれて存続するようになるのさ。もちろん生きてるうちだってそうなんだけど、肉体ってやつが邪魔するからね。生きてるうちにこの仕組みを理解するのは難しい。それができるのは表現する人間だけだよ」
「そうだね」とぼくは言った。「ところできみは目的を達したと思う? あの神戸の二週間で⋯⋯」
「まだまだだな」と八重山は言った。「あのときは満足したんだけど、死んでみて初めてわかったよ、表現は継続しないと意味をなさないってね。だからきみがまた書いてるのはとてもいいことなんだ」
「きみのお姉さんは、小説家は小説を書くのをやめたら死んでしまうんだって言ってたな」とぼくは言った。「つまりぼくは十何年間か死んでたわけだ」
「わたしはそうは言わなかったわ」とミチコが言った。彼女はぼくらのテーブルで煙草を吸っていた。
 ミチコ?

「わたしは『小説家が書くのをやめたら、作品も死んでしまう』って言ったのよ」とミチコは言った。
「そうだったね」とぼく。「つまり、『菜の花の家』は十何年間死んでたわけだ」
「そういうことね」とミチコ。「でも、新しい小説を書いたことで蘇ったわ。わたしがあのとき言いたかったのもそういうことなのよ」
 彼女はノイマン屋敷でよく着ていた夏物の部屋着を着ていた。薄い生地のむこうにかたちのいいおっぱいとへそとヒマワリ色のパンティがかすかに透けて見えた。その向こうに無数の星のような東京の街と港の灯が見えた。
「『マイ・フェイヴァリット・シングズ』は気に入った?」とぼくは彼女にきいた。「あれはきみのために書いたんだ」
「わたしを美人に書いてくれたからね」ミチコは煙草を吸いながら笑った。彼女は二十年前のままだった。男の子みたいに短く刈り込んだ髪、大きな眼、細いからだ⋯⋯。あの頃よりかえって子供っぽくなったように見えた。
「それはあなたが年取ったからよ」と彼女は言った。ぼくが何も言わないのにだ。もちろん彼女はぼくが考えたことを読み取ることができた。

 八重山がまたピアノに向かい、今度はぼくが好きだったバラードを弾いていた。ぼくはきみの毛皮コートのために、すみれの花を買ってきた云々⋯⋯。
 窓の外には銀河のような街の灯が輝いていた。無数の星が接近しあい、ぶつかってオレンジ色の炎を上げていた。それは一九六八年の十月八日から二十一日まで神戸の街を覆っていた火と同じ色をしていた。
「ほら」と八重山が言った。「『セルフレス』をやってる」
「そう?」とぼくは言った。「『コートにすみれを』に聞こえるけどな」
「『セルフレス』には決まったリズムもメロディもないからね」と八重山は言った。「この二十年間、世界のどこかでいつもこの曲は演奏されてきたんだ。もう誰もこの曲のことを知らないけど、それでもいつのまにか弾いてしまうわけさ」
 ぼくはミチコのからだ越しに東京の街の火を見ていた。オレンジ色の火は彼女の前に置かれたオレンジジュースと同じ色に輝いている。オレンジ色の火はあちこちから少しずつ広がり、次第に銀河全体を覆っていく。それは一九六八年の十月の火だった。
「そうか」とぼくは言った。「『セルフレス』はいつでも鳴ってたんだ」
「そうさ」と八重山が言った。
「そうよ」とミチコが言った。「その火は『菜の花の家』の中でも燃えていたのよ」
「そうだったね」とぼくは言った。ぼくは神戸の街を包むオレンジ色の炎をあの小説にたくさん描き込んだ。それは一九四五年の春の火だった。
「もう、その火は止められないのよ」とミチコが言った。「だからあなたは新しい小説を書いたんじゃない」
「そういうことだね」とぼくは言った。

 八重山とミチコは現れたときと同じようにいつのまにか消えていった。突然八重山のピアノが止まったとき、ぼくは窓の外を見ていた。東京の灯とぼくの間にはもうミチコのからだはなかった。煙草の火が消えていた。オレンジジュースは飲み干されていた。ピアノの前に八重山の姿はなかった。東京の街は炎に覆われていなかった。
「なんだ」と結城が言った。「いつまでたっても何も起こらないじゃないか」
「馬鹿みたい」とノリコが言った。「あなた、見えなかったの?」

 結城とノリコが帰った後、ぼくは自分とマリコの首から首輪をはずし、一緒に風呂に入った。それからベッドの中で久しぶりに時間をかけてセックスをした。それからベッドの上に二人並んで東京の街と港を眺めた。ぼくらのベッドは窓際にあって、ちょっとからだを起こすと街の灯がよく見えるのだ。とてもいい気分だった。ぼくらは首輪と鎖をはずしたままだった。いつもはすぐにそれをはめたがるマリコも、その夜は何も言わなかった。
 それ以後ぼくらは二度とそれをつけていない。
「なかなかだったね」とぼくは言った。
「うん」とマリコは言った。
「あれは夢だったと思う?」とぼくはきいた。「集団催眠とか幻とか、そんなものだったと?」
「いいえ、あれは現実だったわ」と彼女は言った。「わたしたちは夢から覚めたのよ」
「一度覚めちゃうと、二度と夢を見る気がしないね」とぼくは言った。
「そうね」と彼女は言った。
「ああ、今夜はなんていい気分なんだろう」とぼくは言った。
 それからぼくらは抱き合って眠った。


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