イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

イメージ 1 イメージ 2

イメージ 2

たぶん初めて長浜の屋台に行った。
もしかしたら前にも一度行ったことがあるかもしれないが、泥酔していたので記憶が定かでない。

ふりかえれば博多には何度も出張できているが、1人で来たとき以外はいつも泥酔するまで飲むので、途中からどこに行ったのかさえあやしくなる。

この日はめずらしく酒をひかえたので、はじめてはっきりした意識で長浜の屋台で博多ラーメンを食べることができた。

最近は東京にも博多から出てきた店がたくさんあるので、それほどカルチャーショックはないが、それでも本場の博多ラーメンはちょっと違う。
一番の違いは麺がかなりかたいことだ。

麺の硬さが選べる店ではいつも「ふつう」を頼んでいるが、これはそれよりはるかにかたい。
ある店でものすごくかたいことを「ばりかた」と呼んでいたが、もしかしたら本場の標準的なかたさは、東京ものにとっての「ばりかた」なんだろうか。

この日、細くてまっすぐな麺のこのかたさと濃厚なとんこつスープのバランスがものすごくいいことを発見した。濃厚なとんこつスープにはこの麺のかたさでなければならないのだ。そうでないとラーメン全体がぼんやりしたものになってしまう。

あんまりうまいので、つい替え玉を頼んでしまった。
残ったスープだけ飲み干すより、替え玉を入れてすすったほうがはるかにうまい。
ラーメン500円に替え玉100円。
スープをとる手間を考えると、なかなか良心的だ。

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3 イメージ 4 イメージ 5 イメージ 6 イメージ 7 イメージ 8 イメージ 9

イメージ 9

博多では食事と酒がおいしいので、いつもついつい飲み過ぎてしまうのだが、
今回は体調不良なので抑え気味。

太刀魚やたこの刺身がうまい。
水茄子がうまい。
地鶏の炭火焼きがうまい。
佐賀牛のあぶったのもまうい。
名前を忘れてしまったけど、子持ちの焼き魚もうまい。
沖縄の紅芋を使ったポテトサラダもうまい。
もちろん焼酎もうまい。

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3 イメージ 4

イメージ 4

天満宮の博物館で見たビデオでは、
白村江(はくすきのえ)の戦いのあと、唐・新羅連合軍が攻めてくるのを防ぐため、中大兄皇子が北九州に築かせたという水城と山城の跡が太宰府郊外に残っているという。

白村江の戦いというのは、663年唐・新羅連合軍が百済に攻め込んで百済・日本の連合軍を打ち破った戦いのことだ。このあと百済は滅び、百済の連合国だった日本も存亡の危機に直面する。

朝鮮半島の戦いにどうして参加しなければならなかったのか、それも圧倒的に巨大な唐を敵に回しての勝ち目のない戦いで、どうして負けるとわかっている百済側に荷担しなければならなかったのか、ちょっと不思議な気もする。

その答えのヒントが太宰府に築かれた山城にある。
山の上に石を組み上げて築かれた山城は百済独特のもので、北九州だけでなく、瀬戸内海沿岸部にも点々と残っているという。
当時の日本はこうした土木建築技術を、朝鮮半島の技術者に頼っていた。土木建築だけでなく、仏像などの技術者も渡来人だったという。
日本にとって百済は単なる同盟国ではなく、当時の近代化を推進するために不可欠な指導者だったのだ。

裏日本史の世界では、もっと目からウロコ的な説がある。
そもそも中大兄皇子は百済王家の人だったというのだ。そうだとすれば、負けるとわかっている戦いに出兵したのもうなずける。
そういえば、中大兄皇子は645年の大化の改新で権力を握ったあとも、天皇に即位していない。即位して天智天皇になるのは白村江の敗戦のあと、しかも奈良から逃げるように今の滋賀県大津に都を移してからだ。
「日本書紀」ではそれが天智7年となっていて、天智の年号はその7年前から始まっていることになっている。

その3年後に天智は崩御する。記録には馬に乗って出かけて、馬だけが帰ってきたとあり、なんだか謎めいた死に方をしている。

その後672年、天智の弟とされる大海人皇子が大津に攻め込み、天智の息子・大友皇子を殺して天武天皇となる。いわゆる壬申の乱だ。
一説によると、このとき筑紫の太宰府と吉備の太宰府が唐・新羅に占領されている。
つまり壬申の乱は近畿地方で起こった天皇家の内紛ではなく、当時の全国規模で起こった大規模な戦乱だったというのだ。

中大兄皇子/天智天皇はどちらかというと反仏教・反中国政策をとった人だったが、大海人皇子/天武天皇の代になると政策は百八十度転換され、仏教寺院が次々と建てられ、藤原京・平城京へと続く中国的都市構造を持つ首都建設も進む。

聖徳太子によって6世紀末から7世紀前半にかけて推進された中国化、当時のグローバリゼーションが再び始まったのだが、これは天武天皇/持統天皇の理念から来たというより、当時西日本に軍を駐留させていた唐に強制されたものだというのが、裏日本史の説だ。

古代史の謎はまだまだある。
聖徳太子は何者だったのか、どうして絶大な権力をふるいながら天皇に即位しなかったのか。
聖徳太子の一族はなぜ蘇我氏に滅ぼされたのか?
「日本書紀」以前の大和朝廷の正史は蘇我氏の滅亡と共に消失したというが、なぜ正史を蘇我氏が持っていたのか?
蘇我蝦夷・入鹿は天皇に即位していなかったのか?
どうして「日本書紀」と「古事記」という、内容も編纂された時期もかぶる2種類の歴史書があるのか?

こうしたことにも様々な裏日本史的な解釈があるのだが、それらをつなげていくと、聖徳太子も蘇我氏も朝鮮半島から渡来した騎馬民族のリーダーであり、中大兄皇子/天智天皇も百済を征服した騎馬民族系のプヨという部族の王であり、白村江の敗戦後、唐に反抗した天智系の百済王家は壬申の乱で滅ぼされ、唐に降伏した天武系の王家が白鳳時代・奈良時代のグローバリゼーションを推進したといことになる。

大海人/天武天皇は、天智の弟なのに年上だという証拠がいくつもあり、血縁関係すら疑う説もある。当時の日本を支配していた高句麗系・百済プヨ族系軍人貴族で、唐と和睦した勢力の代表者だったのかもしれない。

正史である「日本書紀」は、漢文で書かれているところを見ると、おそらく中国に提出することを意識して書かれた歴史書なのだろう。日本という国は、唐に滅ぼされた百済や高句麗とは違う、独立した起源を持つ国であるという、苦しい主張がそこには見える。
それに対して「古事記」は、より内向きの歴史書のように見える。モンゴル・朝鮮半島から来た制服王朝が成立する以前の歴史、被征服民の立場を考慮した歴史が語られている。その文体はまるで神社の祝詞のようだ。

そんなファンタジーみたいなことをあれこれ思い浮かべながら、太宰府政庁跡をフラフラと歩きまわった。

うさんくさい裏日本史の説がどうしてこんなに面白いのか不思議だが、たぶんそれは今の日本と日本人の中にわだかまっているもの、ぼくらが目をそらしているアメリカ帝国の日本支配、世界支配という現実とどこかで響き合うからなのだろう。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

ちなみに、写真の川は古代の水城とは何の関係もありません。
あしからず。

全1ページ

[1]


.
shu*i*ha*a
shu*i*ha*a
男性 / B型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

Yahoo!からのお知らせ

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事