この何週間か、ベランダにずっとアブラゼミの死骸がころがっている。
気味がわるいのでさわらずにいる。
台風が来たりするたびに、飛ばされてどこかへ行ってくれればいいと思うのだが、
微妙に位置が変わるだけで、一向に立ち去ってくれない。
むしろときどき向きや位置が少しずつ変わるのが、
生きているみたいに思えて、よけいに不気味だ。
しかし、こう長期的に居座られると、
なんとなく愛着もわいてきて、
昨日、洗濯物を干すついでに写真を撮ってみた。
人間と違ってセミは死んでもまるで外観が変わらない。
それだけに生きているのと同じ威厳を感じさせる。
セミは何年も地中で幼虫として暮らし、
地上に出て成虫になったかと思うと、
子孫を残してあっというまに死んでいく。
子供の頃、その話を聞かされたときは哀れだと思ったが、
50歳を過ぎ、たくさんの人の死を身近に経験してみると、
生命の生き死にについて違った見方をするようになった。
生命の営みはどんなに短かろうと、
どんな終わり方をしようと、
それが生のかたちであって、
それを哀れとか悲惨と感じるのは、
生きてそれを見ているものの傲慢にすぎないのだ。
たとえば首吊り自殺をした音楽家の加藤和彦。
めざましい活躍を振り返るのは人の勝手だが、
それと比較して、さみしい晩年や自殺という死に方を哀れんだり悲しんだりする必要はない。
うつ病という病気も、自殺もふくめて、
ああいう活躍をした加藤和彦という人の生の一部なのだ。
親族に看取られながらのやすらかな死も、
邪悪な人間に殺されての死も、
うつ病に悩まされての死も、
それぞれの生の一端なのだ。
どのように生きようと、
それが短かろうと、長かろうと、
多くの人に愛されようと、孤独だろうと、
それがそれぞれのかけがえのない生であるのと同じだ。
そんなことを考えながら、
今日もベランダのセミをそっと眺める。
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