

作山古墳から東へちょっと走ると、遠くに美しい五重塔が見えた。
奈良にやってきたような錯覚に陥る。
これが備中国分寺だ。
寺の前に自転車を停めて敷地内に入る。
国分寺は聖武天皇の命令で全国の国ごとに造られた寺だ。
ただ行政で地方をおさめるだけでなく、
仏教の力を借りようとしたところに、
信仰心の厚い聖武天皇の志があらわれていると、
歴史で教わったような気がする。
しかし、当時の仏教は単なる宗教ではなく、
中国の先端技術と不可分であり、
日本にとってはグローバリゼーション/近代化政策の一環でもあった。
これより前、聖徳太子/蘇我氏などによる仏教導入が、
高句麗/百済系豪族による朝鮮半島経由だったのに対して、
天武/聖武天皇の白鳳/天平時代のそれは、
唐大帝国から直接、人・モノ・技術を受け入れている。
たとえば天平時代の仏像が、
飛鳥時代のものにくらべて急にリアルになり、
素人が見ても技術的レベルが格段アップしているのがわかるのは、
やはり唐から優れた職人たちがやってきたからだろう。
唐には中東やインド、中央アジアなどから様々な人や文化が入っていたため、
日本にも国際色豊かな文物が入ってきた。
これが白村江の戦い〜壬申の乱を契機とした日本の大政変によるものだとすると、
さっき見てきた異様な山城と、見た目にあまりにも大きな落差があるこの国分寺は、
ひとつながりの歴史の産物なのだ。
ただ、残念なことに奈良時代の国分寺は、
建物がすべてなくなっていて、
現在残っているのはすべて江戸時代に再建されたものだという。
現在の境内の外には、奈良時代の建物の礎石が残っている。
ということは、創建当初の方が規模ははるかに大きかったのだろう。
歴史というのは時の流れにしたがって、
ものごとが進歩/進化していく過程だと考えがちだが、
こういう例を見ると、かならずしもそうではないことがわかる。
イタリアや南フランスやスペインを旅していると、
あちこちでローマ帝国時代の巨大で高度な建造物の遺跡に出くわし、
ヨーロッパの建築とか社会インフラみたいなものは、
古代に達したピークから一度衰退したのであって、
中世から近世を経てそれを再び超えるようになったのは、
産業革命以降のことなんじゃないかと感じたりもするのだが、
この国分寺/国分寺跡を見ていると、
それと似たようなことを感じてしまう。
奈良時代のあとも、日本は何度か活発に中国との交流をおこない、
そのたびに新しい文物と仏教の流派を取り入れて社会を変革しては、
その後、国内の政情不安や中国側の戦乱などでそれが途絶え、
鎖国状態の中で輸入文化の消化と独自な文化の創造を
くりかえしていくことになる。
幕末の開国から明治維新、第二次大戦の敗戦と戦後のアメリカ化など、
日本近代の歴史も、このパターンからそんなにはずれていないのかもしれない。
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