イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

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小説『出楽園』再登録

小説『出楽園』を再登録しました。
1989年に書いた古い作品です。
今回は読みやすいように書庫の中でアタマから順に並べました。

短編3本と長編1本からなる連作です。
わかりにくいかもしれないので、目次的に全体の構成を紹介すると、

総タイトル「出楽園」

第1部 短編「ファミリー・キャンプ」
第2部 短編「わたしは水際を見張っている」
第3部 長編「マイ・フェリヴァリット・シングズ」
      第1章 空中庭園
      第2章 菜の花
      第3章 熱機械工場
      第4章 セルフレス
第4部 エピローグ的短編「わたしはまだ水際を……」

僕の中学時代のことをファンタジー的に描いた小説で、学校の同期生にこのブログが読まれる可能性が出てきて、登場人物のモデル問題的なことがややこしくなりそうなので、一度削除したのですが、そんなに気にすることもないかと考え直しました。

今年64歳ですが、最近、同世代の友人・知人が次々死んでいるので、自分もいつ死ぬかわからないし、お墓代わりにブログを残すとしたら、少しでも充実させておかなきゃと。

ヤフーブログは7年前まで使用可能メモリ量が2GBで、一度満杯になってしまい、新しいブログ「イージーライターのささやき」というのを開設したんですが、その後容量が10GBに拡大されましたね。

お墓が2つあるというのも気持ち悪いですが、「ささやき」の方もそれなりのボリュームになってしまったので、今さら合体するわけにもいかず、新しい記事はそちらにアップしています。

ファミリー・キャンプ1

                                       
                                        
                                                                          
                                       
   フ ァ ミ リ ー ・ キ ャ ン プ                                                     
                                        
                       亡きR.B.に⋯⋯    
                                    
                                    
                                        






 一九六八年の春には何だって起こり得た。二十年後の今では、このことは案外忘れられている。忘れられてはいないのかもしれないが、少なくとも大声で語られることはなくなっている。このあいだも友達の一人にそう言ったら、
「ああ、またそのことかい?」といやな顔をされた。
 ぼくはそれまで一度も彼に、一九六八年の春には何だって起こり得たなんて言ったことはなかったのにだ。彼にとって一九六八年はいやなことがあった年だったのかもしれない。あるいは一九六八年について、ぼくの知らないところでこれまであまりにも多くのことが語られてしまったのかもしれない。一九六八年についていやな顔をした友達は他にも何人かいる。
 なぜだろう?

 一九六八年はぼくが家族と庭にキャンプを張った年だ。ぼくは春にはまだ十四才で、その年の七月に十五才になった。兄は五月に十七才になった。母は四十二才で、父はたぶん四十九才だった。大阪の小さな銀行に勤めていた父は三月のある日突然、運転手つきの日産プレジデントに乗って帰ってきた。
「重役になったんだ」と彼は母に言った。
 一応少しは笑っていたが、それほどうれしそうでもなかった。たぶん責任が重くなるのがいやだったのだろう。父はあまり仕事が好きじゃなかった。
「あらそう」と母が父に言った。彼女もあまりうれしそうじゃなかった。ちょっと不安そうな顔をしていた。母は料理や洗濯は得意だったが、銀行のことはあまりよくわからなかったのだ。
                                        
 ぼくらは宝塚の丘の上に住んでいた。ぼくの部屋からは大阪平野が見えた。神戸は見えなかったが、海の気配は感じることができた。台風がきた日には潮の香りがあたりに漂った。
 うちの庭は東南側が聖書女学院の小さな農園に接していた。フェンスをへだてたむこう側は小さな桃畑だった。そのむこうに野菜畑と家畜小屋があり、そのむこうは崖になっていた。崖の下は駅だった。駅の名前は《聖書女学院前》。
 単純明快でしょう? 
 駅ができたときこのあたりには聖書女学院しかなかったのだ。ぼくの部屋からは小さな森と谷を隔てて、聖書女学院の鉄の門と礼拝堂の塔が見えた。

 一九六八年の春はとても温かくて、早くから桃の花が咲いた。灰色の尼僧服に身を包んだシスターたちと、ブルーの制服を着た聖書女学院の生徒たちが脚立を持ってやってきた。人工授粉をするためだ。書道に使う筆で桃の花の中心を一つ一つくすぐりながらめしべに花粉をつけていく。彼女たちは一様に厳しい表情をしていた。なぜだろう?
 ぼくは彼女たちの仕事を見るのが好きだった。シスターにはドイツ人やスペイン人がいたから、ヨーロッパの農場に滞在してるみたいな気分が味わえた。しかしそれは彼女たちにとってあまり愉快なことではなかったらしい。部屋の窓にもたれて授粉作業を眺めていると、必ず誰かがぼくを見つけてすごい目で睨んだ。
「ソコデナニヲシテイル?」と白人のシスターが言った。
 ぼくの家のぼくの部屋から何を見ようとこっちの勝手なわけだが、シスターから堂々とそう言われると、すごく恥ずかしいことをしてるような気がした。

 一九六八年の春には何だって起こり得た。
 夕方に桃畑を緑の光が通過していったのもその年の春だった。すでに暗くなりかけた農場の草の上を、まぶしい緑の光がゆっくり通り過ぎていったのだ。幅一メートルくらいの細長い光が横向きに、東から西へゆっくり移動していった。コピー・マシンのふたをあけたままスイッチを押してしまったことがある人なら想像がつくにちがいない。ちょうどあんな光だった。
 いたずらで手のひらのコピーを取ろうとしたことはありませんか?         
 あるいは顔のコピーを?
 一九六八年の春休みにぼくは緑色の光が聖書女学院の農場を移動していくのを見た。しかし宇宙人が地球のコピーを取ろうとしているのだと考えたりはしなかった。そのころはまだコピー・マシンなんて見たこともなかったからだ。

 その光を見た晩からぼくは四十度近い熱を出して寝込んでしまった。医者はただの流感だと言った。たぶんそうだったのだろう。熱は一週間近く続いたが、医者のくれた薬をのんでいるうちに治ってしまった。
 熱にうなされながらぼくはいろんな夢を見た。一番鮮明に覚えているのは天使がやってきた夢だ。いや、夢じゃない。ほんとに来たのだ。一九六八年の春には何だって起こり得た。
 天使は茶色と黄色のチェックの綿シャツにチョコレート色のコール天のズボンといういでたちで、桃畑に面した一番大きな窓から入ってきた。といっても飛んでくるところを見たわけじゃない。窓が開く音がしたときぼくは半分眠っていたからだ。目を覚ましたとき、天使は鼻歌をうたいながら衣装たんすの引き出しを開けて、中をひっかき回しているところだった。
「誰?」とぼくがきくと、天使はびっくりしてこっちを振り向いた。
「おどかさないでくれよ」と彼は言った。
「それはこっちの言うセリフじゃないかな」ぼくの声は熱のせいで弱々しく、どこか遠くのほうから聞こえてくるようだったが、そのわりに気のきいたことが言えたのでぼくはうれしかった。
「いきなりやってきてすまないね」と彼はやさしい微笑を浮かべながら言った。「天使っていうのもやっかいな商売さ」
「きみは天使なの?」
「ほかの何に見える?」彼は両手を広げておどけてみせた。
「さあ。ただの高校生か大学生に見えるけど⋯⋯」
「ただの高校生か大学生が窓から飛び込んでんでくるかい?」
「そうか」とぼくは素直に認めた。「でも、どうしてたんすなんか開けてるの? それじゃ誰だって下着泥棒か何かだと思っちゃうよ」
「思いたいやつには思わせておくさ」彼は多少気を悪くしたみたいだった。「でも、きみは下着をどこに入れておくんだ?」
「うちじゃ下着はお風呂場の脱衣室にあるたんすに入れてるんだ」
「なるほど」と天使は言った。
 ぼくは枕から頭を少し上げて、彼の姿をしげしげと見た。夜中に翼を金色に輝かせた天使が窓から入ってきて、天国に入れる人間の名簿を見せてくれるといった内容の詩があったのを思い出した。英作文の授業で習ったのだ。目の前にいる天使は別に金色に輝いてもいなかったし、翼もつけていなかったが、たぶんこれが現実というものなのだろうという気がした。
「天使がぼくに何の用なの?」とぼくはもっともな質問をした。
「まあ、日常業務さ。子供たちの見回り」
「天使だったら願いごとをかなえてくれる?」
「あんまり難しいのはだめだぜ。担当が違うからね。空を飛びたいとか、金の卵を出してみろとかいうのはだめだ」
「そんなんじゃないよ。ぼくは詩人になりたいんだ。小説家でもいいけど。だから才能がほしいの」
「なんだ、そんなことか」天使は安心したようだった。「お安い御用だけど、ただしきみがそれなりの努力をしなけりゃ才能は死んでしまうぜ」
「もちろん努力するよ」とぼくはきっぱり断言した。「去年からもうノート十冊分くらい書いてるんだ。まだちっともうまく書けないけど」
「そのうちうまくいくよ。きみはなかなか読書家らしいし⋯⋯」
 彼は部屋の北側にある作り付けの大きな本棚を眺めながら言った。そこにはサムエルソンの『経済学』やリースマンの『孤独な群衆』、チェーホフ全集といった大人向けの本がぎっしりつまっていた。それはほとんど父の本だったが、ぼくはせっかくほめられたのを否定するのがいやで黙っていた。天使はぼくを少しのあいだ見つめていたが、やがてベッドのそばに跪いて右の手のひらをぼくの額に当てた。ぼくはちょっと怖くなって目をつぶっていた。
「何か見えるかい?」と天使がきいた。
「何も」とぼくは答えた。
「幸運な人間には時代の変わり目がはっきり見えることがある。今、世界は変化の真っただ中にあるんだ。幸運で勤勉な者だけが、変わっていく様を手にとるように見ることができる」
「ぼくこないだ見たよ」とぼくは言った。
「え?」と天使は言った。
 ぼくは例の緑色の光の話をした。
「なるほど」彼は笑った。「きみには資格があるよ」それから目を閉じてぼくの額に手を置いたまま何か祈りのような言葉を呟いた。
 それからぼくはまた眠ってしまい、再び目を覚ましたとき天使の姿はなかった。衣装だんすの引き出しが全部開いていて、中からぼくの衣類がでたらめに飛び出していた。あれは夢だったんだろうか? そんなことはない。一九六八年には何だって起こり得た。

 もう一つよく覚えているのはマリコが桃畑の草の上に寝ている夢だ。これは確かに夢だった。一九六八年の日記にちゃんと書きとめられている。
《朝、雨戸を開けると、まだ薄暗い聖書女学院の桃畑にマリコが寝ているのが見えた。寝袋もなしに、霜が下りた枯れ草の上で、きれいに気をつけの姿勢をして、上を向いて眠っていた。白いセーターに赤と緑のチェックのミニスカートをはいていた。
「そんなとこで寝たら風邪ひくよ」とぼくは声をかけた。
 彼女は静かに置き上がり、
「平気よ」と言った。「結核患者は雪山の療養所でわざとベランダに寝るのよ」
 ぼくが家族にマリコが桃畑に寝ていた話をすると、そんなにからだにいいなら我々もやってみようということになった。夜になるのを待ってフェンスを乗り越え、桃畑に入った。ぼくと兄が母を挟むようにして草の中に寝た。いがらっぽい枯れ草の匂いがなかなかよかった。
「これならもっと早くやればよかったね」と母が言った。
 遅くに帰ってきた父が背広のまま、ぼくらの頭のほうに九十度の角度で寝た。ふと見ると、いつのまにかマリコが少し離れたところに寝ているのが見えた》

 マリコは小学校時代の同級生で、一九六八年には聖書女学院の中等部の三年生だった。学校の帰りや桃畑でよく見掛けることがあったが、それほど親しかったわけじゃない。聖書女学院は生徒の男女交際にうるさかった。おまけにぼくは総愛学院の生徒だった。総愛学院は同じ修道会が経営している、聖書女学院の兄弟校だ。男子校には神父たちが、女子校にはシスターたちが修道院生活を送っているというわけだ。そしてそれぞれ預かっている子供たちを監視していた。
 小学校の頃、ぼくはマリコと長いこと隣り合わせの席に座っていた。よく口喧嘩をしたが、仲は悪くなかった。マリコは小学校の五年生のときからブラジャーをしていた。歩くと胸が大きく弾んだ。お尻も胸に負けないくらい大きかった。オッパイ・マリコというのが彼女のあだ名だった。男の子と口喧嘩をするときは、よく「デブ」と言われていた。ぼくもよく彼女のことを「デブ」と言った。
「フン、頭に来ちゃう」と彼女は言った。
 それでも本気で怒ってるようには見えなかった。なぜなら口喧嘩の後でも気前よく消しゴムや定規を貸してくれたからだ。よく宿題も教えてもらった。彼女のほうが成績は格段よかったのだ。
 一九六八年のマリコは相変わらず大きな胸とお尻をしていたが、もう「デブ」とは言えなかった。ウエストが引き締まり、脚が細くなったからだ。道で出会ってもぼくはなるべく目を合わせないようにしていた。帰り道にはよく他にも聖書女学院の生徒が歩いていた。告げ口されたらぼくもマリコも学校で面倒なことになる。それにぼくとしては今では何となくマリコが怖かった。もちろん大きなおっぱいのせいだ。
 ぼくに「デブ」とも「オッパイ女」とも言われなくなったので、彼女は余裕のあるところを見せていた。ぼくを追い掛けてきて、前にまわって顔を覗き込んだり、
「へっ、へっ、へっ」と笑ったりした。

 そのマリコが一九六八年の春休みに突然訪ねてきた。桃畑で寝ていた夢を見た直後のことだ。白いセーターに赤と緑のチェックのミニスカートをはいていた。それと白いソックス。夢とそっくりの格好をしていたからといってぼくは別に驚かなかった。一九六八年の少女たちはたいていみんなタータンチェックのミニスカートに白いソックスをはいていたのだ。
 彼女は胸に『サウンド・オヴ・ミュージック』のサウンド・トラック盤のLPを抱えていた。小学校のときに借りていたのを返しにきたのだと彼女は言った。
「そう」とぼくは言った。「それ、おふくろのだよ、きっと」
 小学校時代、彼女はぼくの母と仲よしだった。よくぼくに勉強を教えに来ては、そのあと母と話し込んでいた。ぼくは彼女が『サウンド・オヴ・ミュージック』のレコードを借りていたことすら知らなかった。どうして急に返しにきたのかぼくにはよくわからなかったが、とにかく彼女はうちに上がり、『サウンド・オヴ・ミュージック』を聴きながら、居間で母とお喋りを始めた。
「返すの遅くなってすみません」とマリコは大人びた挨拶をした。
「あら、いつでもよかったのに」と母が言った。
 ふたりは丸二年も会っていなかったはずだが、まるで先週借りたレコードを返しに来たみたいだった。その二年間、マリコはレコードのことを忘れていたんだろうか? それとも頂戴しちゃおうと考えていたんだろうか? それにしてもどうして急に返そうと思い立
ったんだろう? どうしてそのことをふたりとも口に出さないんだろう? ぼくは几帳面な性格だったから、それがとても気になった。
 母は近所に入った下着泥棒の話をした。マリコも自分の家に入った下着泥棒の話をした。そしてお互いに「まあ」と感心したような声を上げた。
 その二人の下着泥棒は同一人物のようだった。なぜならどちらのケースも下着が盗まれた直後に、茶色と黄色のチェックの綿シャツにチョコレート色のコール天のズボンをはいた学生風の男が、ボストンバッグを下げて近くを歩いているのを目撃されていたからだ。
「わたしの下着はみんな取られちゃったのに、妹のは全部無事だったんです」とマリコは真剣な顔で言った。
「まあ」と母も真顔で言った。
 ちなみにマリコの妹は一九六八年にはまだ小学校の三年生だった。三年のときにはマリコだってまだ平たい胸をしていた。
 ぼくの母はマリコに、近所で一時ぼくが下着泥棒の嫌疑をかけられていたという話をした。被害にあったのは聖書女学院に通ってる高校生だった。ぼくが熱を出して寝ていたときだ。後でその話を聞いたぼくは母に、
「よかった。ぼくは熱を出してのびてたんだからアリバイがあるわけだ」と冗談を言った。母はその話を面白いと思ったので、下着泥棒にあった女の子の母親に話した。すると相手は、
「そうかしらねえ」と言いながら、母の顔を覗き込んだというのだ。
 母とマリコはおかしそうに笑った。それから、レコードに合わせて「わたしのお気に入り(マイ・フェイヴァリット・シングズ)」をハミングした。ぼくはそれに加わらなかった。メロディをよく知らなかったし、その場の雰囲気にも馴染めなかったからだ。ぼくは『サウンド・オヴ・ミュージック』を映画でも舞台でも見たことがなかった。ジョン・コルトレーンがこの曲を何度も演奏していることも知らなかった。一九六六年に彼が来日してこの曲を吹いたことも、一九六七年に彼が死んだことも知らなかった。

「その下着泥棒、ぼくの部屋にも来たんだよ」歌が終わったところでぼくが言った。母とマリコにはずいぶん唐突に聞こえたらしい。二人声を揃えて、
「まあ」と言った。
 ぼくは例の天使の話をしてやった。
 女たちは、それはまさしく下着泥棒にちがいないと言った。そして男の子のくせに下着を盗まれるなんてと言って涙が出るまで笑った。ぼくは本当に下着をとられたわけじゃないと弁解した。リサーチ不足だった泥棒が、間違えて入ってきただけだと。
「それで」とマリコが言った。「何を取られたの?」
「何も取られやしないさ」
 女たちはまた腹を抱えて笑った。
「でも、そいつは天使だったのかもしれない」とぼくは言った。
「何それ?」とマリコが言った。
「自分でそう言ったからさ」
 母とマリコはまた顔を見合わせて笑った。
「そいつは天使を自称する下着泥棒だと言いたいんだろ?」ぼくはやや気を悪くしていた。「でも下着泥棒を装ってあちこち見回ってる天使かもしれないじゃないか」
「下着泥棒をやってる天使かもしれないじゃない」とマリコが言った。
「それもありうるわね」と母が言った。
 そう。あらゆる可能性がありうる。何にせよ物事を決めつけてかかるのはよくない。ぼくが言いたかったのもそのことなのだ。

 すでに外は暗くなっていた。母はぼくにマリコを送っていくように言った。
 ぼくらはゴルフ場のほうへ行き、高いフェンス越しに山を見ながら歩いた。六甲山は黒い影になっていて、空は炎のように赤かった。空の赤みは上に行くにしたがって鮭の肉みたいに淡くなり、真上から東にかけての空は濃い藍色に包まれていた。
「ぼくに何か話があったんじゃない?」とぼくはマリコにきいた。
「いろんなことがごちゃまぜになってるのよ」と彼女は悲しそうに言った。
「まとめようとしないで、思いついたことから話してごらんよ」
「学校に尊敬してる先輩っている?」
「いないね。ぼくは上の連中と付き合うことなんてまずないんだ。クラブに入ってないからね」
「わたしはバスケットボール部に入ってるの」
「わかったぞ」とぼくは言った。「そこに美人で頭がよくて人気があってポイントゲッターの先輩がいるんだ」
「まあ、そんなところね」
「好きになったんだ」
「そんなんじゃないわよ」マリコの声が急にか細くなった。
 ぼくらは街灯の下で立ち止まってゴルフ場の滑らかな芝の起伏を眺めた。
「あなた学校に好きな男の子いる?」とマリコがきいた。
「まあね」とぼくは答えた。
「その子とどんなことするの?」
「何もしやしないさ」
「そう」
「きみは?」とぼくはきいた。「その先輩のこと好きじゃないの?」
「わからない」
「きっと好きなんだよ」
 ぼくらはまた歩きだした。山の上の赤みはもう縁どりみたいに細くなっていた。ゴルフ場の木立ちや芝生の広がりも闇の中にかすんでいた。
「わたし小学校のときあなたのこと好きだったわ」
「知ってるよ」
 ぼくはマリコの手紙を盗み読みしたことがあった。六年生のときだ。クラスの女の子たちはよく手紙のやりとりをしていた。郵便で出すのではなく、交換日記みたいに毎朝お互いに手渡すのだ。あるときぼくが仲間とクラスの女の子の机を物色していたら、偶然マリコがその子にあてた手紙を見つけてしまった。手紙には「もしハラくんに好きな人がいたらどうしよう?」と書いてあった。ぼくには好きな女の子がいなかったが、その手紙を読んでマリコのことが好きになった。ぼくはそういうタイプだったのだ。
 その手紙を一緒に盗み読みした友達はぼくのことをからかった。ぼくは彼らにマリコのことなんて好きじゃないと断言した。
 彼らは「じゃあ、これからはあいつと口きいちゃだめだ」と言った。
 ぼくは「絶対無視してやる」と力を込めて約束した。
 今から考えると、どうして連中にそんなことを要求する権利があると思ったのかよくわからないが、そのときはそれが当然のような気がしたのだ。
「ひどい」とマリコが言った。「わたしあのときあなたに嫌われてるんだって思ったわ」
「ぼくはそういうタイプなんだ」

 ぼくらは川に出た。マリコの家は橋を渡って丘を上ったところにあった。彼女は橋の手前で立ち止まってしばらく何か考えていたが、やがて緊張した声で、
「ここでいいわ」と言った。
「きみの家まで行くよ」
「買い物があるのよ」
 彼女は川に沿って道を下り始めた。ぼくも並んで歩きだした。川下には《聖書女学院前》より大きな駅があり、商店街とスーパーマーケットがあった。
「ぼくもつきあうよ」
「ひとりでも平気よ」
「それじゃ送ってきた意味がないじゃないか」
「いいから帰ってよ」彼女は立ち止まって大きな声を出した。通りかかった人がぼくらのほうを見た。マリコはぼくの腕を掴んで歩きだしながら耳打ちした。「これから下着買いに行くのよ。全部盗まれちゃったから」
「そう?」
 ぼくは彼女と歩き続けた。彼女はもう帰れとは言わなかった。
「いいこと教えてあげようか?」マリコはぼくのほうを向いて後ろ向きに歩きながら言った。
「何?」
「わたし今日は妹のパンツはいてるの」と彼女はうれしそうに言った。
 ぼくはそれがどうして「いいこと」なのかよくわからなかった。

 スーパーマーケットは閉店まぎわで混雑していた。マリコは下着をしこたま買い込んだ。何十枚も。どうしてそんなにたくさんいるのか、ぼくにはどうしてもわからなかった。店を出ようとしたとき遠山恵に会った。ぼくのうちの近所で下着を盗まれた聖書女学院の高校生だ。母親と犬も一緒だった。犬はよく吠えるスピッツだ。ぼくはこの一家と犬が大嫌いだった。
「どういう神経してるんだろ?」と母親のほうがぼくらにも聞こえるような声で娘に言った。犬がその下で跳びはねながら吠えた。
「学校が休みなら何してもいいと思ってるのよ」と娘が母親に言った。
 聖書女学院とその関係者たちの価値観を知らない人にはわかりにくいかもしれないが、女たちはぼくとマリコがスーパーマーケットでデートしているのだと思い込み、そのことを非難しているのだった。
「今晩は」とぼくは遠山親子に挨拶した。
「今晩は」とマリコも遠山恵に言った。
「今晩は」と遠山恵の母親がぼくに言い、犬が腕の下で唸り声を上げた。
「今晩は」と遠山恵がマリコに言った。
「言っときますけど」遠山夫人が気難しい顔でぼくに言った。「わたくしこのことをあなたのお母さまに申し上げないわけにはいきませんからね」
「どうぞ」とぼくは言った。
「わたしシスター**に言うわ」と遠山恵がマリコに言った。「黙ってたことがわかったら、わたしが叱られるもの」
「なるほど」とマリコが言った。
 彼女はわりと平気な顔をしていた。
 ぼくは憂欝だった。きっと休みが明けたら教会かPTAを通じて噂が大げさに広がるだろう。すごく狭い社会なのだ。学校では神父たちがぼくをとっちめるだろう。本当にデートしてたんじゃなかったとしても、まわりに誤解されるようなことをしたのはいけないと言われるだろう。それから校庭三十周とか、便所掃除一週間とか、冴えない罰が待っているのだ。
 そのときスピッツが遠山恵の持っていた紙袋に咬みついた。紙袋は大きく破れて床に中身をまき散らしながら転がった。中身は何十枚ものパンティだった。遠山夫人は犬の頭を何度も叩いた。娘は床に散らばった下着を拾い集めたが、中には人がうっかり踏んでしまったのもあった。
「おっと失礼!」とその女の人は言った。
 パンティを拾ってくれた人もいた。「一体どうなすったの?」とその人はパンティを遠山夫人に差し出しながら言った。遠山夫人はそれを受け取ろうともしなで黙って娘を見つめていた。
 すぐに人垣ができ、その真ん中で遠山恵はせっせとパンティを拾っていた。マリコも二三枚拾うのを手伝ったが、遠山恵はありがとうも言わずにそれをひったくった。
「言っときますけど」と遠山夫人はぼくに言った。「こんなこと人に言いふらしたら、あなたもその娘さんもただじゃおきませんからね」

 川沿いの道を戻りながら、ぼくはこれで遠山親子が今日のことを総愛学院の神父たちに言い付けることはないだろうと考えていた。
「おあいこってわけだ」とぼくは言った。「あいつらだって恥はかきたくないだろうからね」
「そうかしら?」とマリコは言った。「あの人たちは絶対わたしたちのことを言いふらすわよ」
「じゃあこっちもパンツのことを言いふらしてやる」
「あの人たちはおあいこだなんて思ってないのよ。わたしたちのことは言いつけるのが義務だと思ってるし、下着のことは黙ってるのがわたしたちの義務だと思ってるのよ」
「そうか」とぼくは言った。なんだかマリコのほうが正しいような気がした。小学校時代もいつだって彼女のほうが正しかった。彼女のほうが頭が良かったし、大人だったのだ。
「じゃあぼくらは助からないわけだ」
「わたしはちっともこわくないわ。だって本当じゃないんだもの」
 ぼくは前に回って彼女の顔を覗いた。マリコはうれしそうな顔をしていた。そのときは何がなんだかわからなかった。でも今考えると、たぶん彼女にはもっと知られたくない秘密があって、それがカムフラージュできると期待していたのだろう。もちろん美人の先輩のことだ。聖書女学院の女たち(生徒もシスターも含めて)にとって、男女交際は危険な行為だったが、同性愛は犯罪だった。彼女はより危険な秘密を隠すためなら、多少の誤解はしかたないと考えるタイプだった。

ファミリー・キャンプ2

               ★

 一九六八年にはヒッピーがいたるところにいた。これは一八六八年にはニホンオオカミがいたるところにいたというのと同じくらい重要なことだ。ジーパンをはき、丸いサングラスか銀縁眼鏡をかけ、バンダナを頭に巻いて、彼らは聖書女学院の農場に入り込んできた。最初は校庭にテントを張ったのだが、警察を呼ばれて追い出されたので、こっちに落ち着いたというわけだ。世間はまだ彼らにそれほど冷淡ではなかった。彼らがあちこちで殺人事件を起こしたり、悪魔を拝んだり、人肉を鍋で煮て食べたりして社会から犯罪者扱いされるようになるのは一九六九年以後のことだ。あいている土地があり、人にあまり迷惑をかけさえしなければ、学校は彼らを叩き出そうとはしなかった。
 彼らは草の上にキャンプを張り、谷間で魚を釣り、それを焼いて食べた。ギターを弾き、歌をうたい、ときにはマリワナを吸い、香を焚き、瞑想し、ヨガをやり、ベトナム戦争の話をし、セックスをした。
 ぼくの母は顔をしかめはしたが、彼らがフェンスを乗り越えて調味料を借りに来たりすると、鍋やまな板まで貸してやった。一九六八年のヒッピーと一般の人々との間にはモラトリアムの季節が存在したのだ。
「ピース」と彼らは母に言った。
「たばこは置いてないわよ」と彼女は答えた。
 このやりとりがすべてを物語っている。彼らは有害でも無害でもなかった。ただ鳥のようにそこにいたのだ。よく見ればけっこう気持のいいやつもいた。彼らの決まりはただひとつ、笑うことだった。相手が微笑む前に自分から微笑むこと。彼らは草の上に寝るだけで世界を幸福にできると考えていた。
 そのうちフェンスが取り払われた。ぼくの家だけでなく、聖書女学院の桃畑に面している家のフェンス全部だ。ヒッピーたちが勝手にはずしたのだが、誰も文句は言わなかった。桃畑と自由に行き来できるようになったことをけっこうみんなが楽しんでいたのだ。農園から溢れたヒッピーたちがそうした家の庭にテントを張ることもあった。
 最初に来た連中はわが家の庭にごみの山を残していった。池にはパン屑や使用済みの生理用品が浮いていた。父は今度やつらが来たら警察を呼んでやるといきまいた。
 次に現れたヒッピーたちは前の連中が残していったごみをきれいに片付けてくれた。そればかりか魚を分けてくれたり、庭の芝を刈ってくれたりした。ぼくには一度だけこっそりマリワナを吸わせてくれた。喉がむせて胸が苦しくなっただけだったので、二度と吸いたいとは思わなかったが、それでもマリワナを吸った経験があるというだけで、なんとなくうれしい気がした。母は彼らが気に入った。結局父は警察を呼ばなかった。前の連中と同じく昼間からギターを弾いてうたったり、公民権運動について語ったり、セックスをしたり、クリシュナを讃える祈りを捧げたりしたが、それでも彼らにはどことなく気品があったのだ。
 ぼくらはすっかりヒッピーたちに慣れてしまった。何人か友達もできた。中には白人もいた(ぼくと兄は彼らを『本物のヒッピー』と呼んでいた)。ヒッピーたちは何かというとすぐ裸になって日光浴や水浴びをした。白人の裸はにわとりを連想させ(羽をむしったやつだ)、日本人の裸はヤリイカ(茶色の薄皮をむいてないやつだ)を思わせた。ぼくと兄が女のヒッピーたちを眺めていても、母は何も言わなかった。彼女にもヒッピーたちの裸は(男も女も)にわとりとヤリイカにしか見えなかったのだ。
 庭にいたヒッピーたちが行ってしまうと、母は急に物足りなさを感じた。それで今度はぼくらが庭でキャンプを張ることになった。キャンプ用品一式を買い込んできてテントを張り、焚火を起こして料理を作った。ヒッピーたちと谷間の渓流や池で川鱒やなまずを釣った。野菜は聖書女学院の農場からヒッピーたち経由で回ってきた。母もせっせとトマトやナスやピーマンの苗を植え、レタスやほうれんそうや二十日大根の種をまいた。暇なときは母と兄とぼくでトランプをやった。家の中に入るのは、雨の日だけだった。兄は芝生の上に椅子を置いて江戸時代の本を読んだ。彼は百年以上前に書かれた本しか読まなかった。遊廓や床屋や風呂屋を舞台にした恋愛小説やユーモア小説、それから侍たちが城を攻めたり殺し合ったり、妖怪が出てきたりする伝奇ロマン。兄は百年前の東京の物価や食べ物、町並みや市民の生活にとても詳しかった。
 ぼくはテーブルを出して小説を書いた。マリワナやセックスはやらなかったが、それでもけっこう解放的な気分だった。父は相変わらず遅く帰ってきたが、夜は池のわきにある水銀灯の光で本を読み、テントの中で眠った。
「けっこういい生活じゃないか」と彼は言った。
 銀行の取締役になった彼は、毎朝テントから起きだし、芝生の上で母が作ったトーストとベーコン・エッグとサラダとミルクティーの朝食を食べ、迎えに来た車で出勤した。

 四月の初め、春休みの終わり頃、マリコが妹を連れて泊りに来た。彼女の家の近所でもファミリー・キャンプがブームになっているということだった。彼女と妹はうちでもキャンプを張ろうと両親に持ちかけたが、マリコの両親はキャンプとか飯ごう炊さんが大嫌いだったので耳を貸してもらえなかった。そこで彼女たちはシュラフだけ買ってもらってうちにやってきたわけだ。
 マリコの話だと、聖書女学院の生徒の三人に一人が家でキャンプをやってるということだった。やはりヒッピーたちに刺激されたのだ。そういえば我が家の近所でも庭にテントを張ってる家がたくさんあった。あの遠山恵の家でさえときどきは庭で食事をしていた。そういう季節だったのだ。友達のヒッピーたちを訪ねて農園をうろついていると、水着姿の彼女が芝生の上で水浴びをしているのが見えたりした。
「覗きに来たんでしょ」遠山恵がぼくに声をかけた。
「やあ、こんにちは」ぼくは笑って挨拶した。
「あなたの学校に言いつけてやるから」と彼女はまた言った。
 ぼくは彼女の水浴びを覗いていたわけじゃなかった。彼女の家の庭は、ぼくの家と同様、聖書女学院の農園にいればどこからでも見ることができたのだ。まわりに全裸のヒッピーたちがいくらでもいたから、水着を着て水浴びをしてる女の子を見ても全然興奮しなかったし、なんだかとても間が抜けて見えた。それに遠山恵はとてもスタイルが悪かった。顔もぼく好みじゃなかった。

 マリコは小学校三年生の妹とシュラフを持ってやってきた。母はとても喜んだ。ぼくらは昼間のうち庭の池に潜って鯉を取ったり、ホースで水浴びをしたり、トランプをしたりした。彼女たちはおそろいの、とても小さなビキニの水着を着ていた。マリコのがオレンジに黄緑の縁どり、妹が黄色にブルーの縁どりだった。マリコは母の料理を手伝い、兄は江戸時代の本を読み、ぼくは斧で太い薪を割った。
「おねえちゃん、きれいだと思う?」マリコの妹のノリコがぼくの薪割りを眺めながら言った。
「うん、まあね」
「無理しちゃって」ノリコがくすっと笑った。「おねえちゃんのこと好きでしょ」
「うん、まあね」
「じっと見てるからわかるわ」
「そんなに見てないよ」
「見てたわ」
「そうかな」
「見てたもん」
 ぼくはノリコを見て、それから母のそばで野菜を刻んでいるマリコを見た。細くて平べったいノリコを見てから水着がはちきれそうなマリコを見ると、リオデジャネイロのカーニバルを見ているような気がした。確かにすごく可愛かった。少なくとも農園にいるヒッピーの女の子みたいにヤリイカに見えたりはしなかった。しかし、だからといってぼくはマリコを見て勃起したりしなかった。それはちょっと微妙な問題だ。小学校三年生のノリコにどう説明していいかわからなかったのでぼくは黙って薪割りを続けた。

「いけませんわね」という女の声が聞こえた。「年ごろの女の子を裸にして息子さんに近づけたりして」
 振り返ると遠山夫人が日傘をさして、よく陽の当たる桃畑に立っていた。
「なんかいやらしい言い方ね」とノリコがぼくに耳打ちした。
「あの人はいつもいやらしいことばっかり考えてるんだ」とぼく。
「すぐにその子を家に帰さなければ、シスターを呼んできますわよ」遠山夫人は母に警告を発しているのだった。
「どうぞ、お好きに」と母が言った。
「おたくのぼっちゃんがどんなに危険な状態にあるかおわかりにならないんですの?」遠山夫人が声を荒くした。
「うちの子が犬みたいに庭で勃起してるとでもおっしゃるの?」母も鋭い声を上げた。彼女は自分の息子を絶対に疑わないタイプの母親だった。
「《ぼっき》ってなに?」とノリコがぼくにきいた。
「さあね」とぼく。
 母の気迫に押されて遠山夫人はよろけながら行ってしまったが、しばらくしてシスターたちと一緒に戻ってきた。彼らはひそひそ何か話していた。
「まだ何か話がおありなんですか?」母はいい加減頭に来ていた。
「ほら、母親からしてあんなふうなんですよ」と遠山夫人が言った。
「でも、お母様がいらっしゃるならね」シスターの一人が言った。
「まあ、あまり感心したことじゃないですけど」と別のシスターが言った。
「そんなにうるさく言うなら、あそこでやってるヒッピーでも警察に突き出したらどうなのよ」と母は叫んだ。
 桃畑ではヒッピーたちが昼寝をしていたが、そのうちいくつかのカップルはセックスの最中だった。シスターたちは彼らを見て尼僧服の袖で目を覆った。
「あれ何してるの?」とノリコがヒッピーを指さしながらぼくにきいた。
「さあね」とぼく。
 マリコがこっちを見て笑った。彼女はリオデジャネイロのカーニバルで踊るブラジル娘みたいだった。

 わが家にはテントが二つあった。一つには両親が、もう一つにはぼくと兄が寝ていた。
その夜はぼくのテントにマリコとノリコが寝て、ぼくと兄は芝生の上に寝た。温かい夜だったから、シュラフにもぐりこめば寒くなかった。兄はシュラフの中で懐中電灯をつけ、江戸時代の本を読んでいた。外のほうが気持よさそうだと言って、マリコとノリコもテントから出てきた。父と母も芝生に出てきて寝た。父は大きなシュラフに母と入っていたが、やはり懐中電灯をつけてガルブレイスの『豊かな社会』を読んでいた。
 ぼくとマリコはシュラフから首を出して頬っぺたがくっつきそうなくらい顔を近づけ、風みたいなひそひそ声でいろんなことを話した。
「今度一の宮に会ってくれる?」とマリコが言った。
「いいよ」
 なんだかぼくが彼女の女友達で、一の宮ミチコがボーイフレンドみたいだと思った。一の宮ミチコというのは例のバスケットボール部の先輩のことだ。
 一の宮ミチコはクラブの練習がない日もマリコを学校に呼び出していた。二人だけでバスケットボールの練習をしたり、筋力トレーニングをしたり、プールで泳いだりした。
「それから?」
「庭園でお話したり」
「それだけ?」
「そうよ」マリコはぼくの鼻に鼻をくっつけながら闇の中でぼくの目を見つめた。彼女の髪はとてもいい匂いがした。

 ぼくは彼女にキジの話をした。
 ヒッピーたちがやってくる前、聖書女学院の果樹園にはキジがいた。雄と雌だ。彼らはいつも草叢から首を出して、途方に暮れた様子でまわりをキョロキョロ見回していた。去年、つまり一九六七年のことだ。ぼくは黒い猫がキジの巣に近づき、卵を食べてしまうのを見た。キジの雄は猫が近づくと、わざと巣から離れたところで羽をバタバタさせた。怪我をしたふりをして猫の注意を惹こうというのだ。黒猫はその手に乗らないで、ちゃんと卵を全部食べてしまった。殻を噛み砕くバリバリという音がぼくのところまで聞こえてきた。とろっとした黄身が猫のだらしない口元から垂れていた。雌のキジはそばでキョロキョロあたりを見ていた。雄はずっと怪我の真似をしてバタバタやっていた。猫が行ってしまうとキジの夫婦は巣に戻ってきて、ぼんやり巣を見つめていた。
 ぼくはキジがよそへ行ってしまうだろうと思っていたのだが、しばらくすると彼らは少し離れた場所に巣を作り直した。ぼくは卵があるかどうか見に行った。卵はあった。ぼくはすぐに引き返そうとした。雌のキジがびっくりしたような目でぼくを見ていたからだ。そのとき雄のキジが十メートルほど離れたところでピョンピョン跳んでいるのが見えた。ぼくの注意を惹こうとしているのだ。ぼくは急に腹が立ってきて、卵をポケットに入れて持って帰った。卵は四つあった。ぼくはそれを台所のごみ箱に捨てて、棒でグチャグチャになるまで潰した。二階の自分の部屋に戻って果樹園を見ると、キジは巣に戻り、途方に暮れた顔であたりをキョロキョロ見回していた。ぼくは窓の手摺に顔をつけて泣いた。
 一九六七年の秋のことだ。

「どうしてそんなことしたの?」とマリコがきいた。
「わからない」
「キジはどうしたの?」
「わからない。どこかに行っちゃった」
「ヒッピーが来たからよ」
「ぼくのせいだよ」
「こんなにヒッピーが来ちゃったら、あなたが何もしなくても、今ごろはどこかに行っちゃってたわよ」
「でも、卵を潰したのはぼくなんだ。キジはそれからすぐいなくなったんだよ」
 ぼくは顔を上げて両親のほうを見た。父はシュラフから顔だけ出して懐中電灯の光で本を読んでいた。母の顔は見えなかった。眠ってしまったのだろう。ぼくはキジの夫婦が草叢から顔を出してあたりをキョロキョロ見回している姿を思い出した。ぼくの両親にはキジを連想させるところがあった。彼らは庭でキャンプを張っている間、毎朝目を覚ますたびに、自分たちはどうしてここにいるんだろうといった様子であたりをキョロキョロ見回していたからだ。

             ★

 春休みが終わって学校が始まると、ぼくと兄は毎朝父と同じように庭から学校に出掛けた。総愛学院でも三人に一人が家でファミリー・キャンプをやっていた。山の中腹や丘の上に家があるやつは、例外なく近所にヒッピーがキャンプを張っていて、それに影響されてファミリー・キャンプを始めたのだ。まだファミリー・キャンプをやっていなかったやつらも、その話を聞いて家の庭にテントを張った。最初の一週間で、ファミリー・キャンプをやってる生徒の数は三人に二人になった。

 ぼくは春休みの間に書きだした英文小説をカークパトリック神父に渡し、神父は早速英作文の授業でそれを一章分ずつ朗読しだした。十九世紀のイギリスを舞台にしたチャールズ・ディケンズ風の小説だった。孤児で泥棒の少年が間違って人を殺してしまい、逃亡の生活を続けながら人間的に成長していくというストーリーで、大金持ちの令嬢に愛されたり、最後にはなぜか突然、彼は人を殺していないということが証明されたり、実は孤児じゃなくて貴族の落とし胤だったということが判明したりといった具合で、かなりご都合主義のところもあったが、カークパトリック神父の朗読のうまさも手伝って、けっこう人気を博した。ぼくはどうやったら読者の興味をつなぎとめられるかちゃんと知っていた。だから各章ごとに乱闘や意外な発見や愛の告白といった山場を一つずつ入れ、次の章に期待を持たせるような謎や新しい人物の登場で締めくくった。
「すごいぜ、坊や」とカークパトリック神父はぼくをほめてくれた。「学校中の先生がびっくりしてる。総愛学院だけじゃないぜ。聖書女学院にもコピーを持っていってやったんだ。そしたら尼さんたち、『おたくじゃどんな教え方してらっしゃるの?』だってよ。ざまあみろだ」
"A Tale Of A Little Thief"(というのがこの小説の題名だった)は結局三十二章で完結し、一九七〇年に上智大学の語学実験室から英語のサイドリーダーとして出版された。結局、三年間でこの本は一万部刷られ、ぼくは一冊につき十円の印税をもらった。でも、これはずっとあとの話だ。一九六八年には、ぼくはただ書くことが楽しくて書いていた。完結するかどうかさえ考えていなかった。
「ところで坊主」とカークパトリック神父が続けて言った。「おまえは春休みに聖書女学院のかわいこちゃんとデートしてるところをPTAに見つかって、騒ぎを起こしたそうじゃないか」
「すみません」とぼくは言い、ついでに遠山恵が紙袋を犬に破られて、パンティがあたりに散らばった話をしてやった。
「そいつはお手柄だったな」と神父は言った。「でも、それはそれとして神崎神父がおまえに話があるそうだ」
 ぼくは訓育主任の神崎神父のところへ行き、運動場を三十周走るように言われた。遠山母娘はちゃんと目的を果たしたわけだ。

 土曜日の午後、聖書女学院の農園に白いバスケットボールのユニフォームを着た少女たちが現れた。ヒッピーたちは寝転がっていた草地を明け渡し、眩しそうに彼女たちを眺めた。聖書女学院のバスケットボール部の少女たちは軍隊的な規律を持った天使の群れみたいに見えた。きれいな隊列を作り、かけ声をかけながら何周か走ると、草地の上に広がって腕立て伏せや腹筋、スクワットを百回ずつやった。
 ぼくは芝生の上で小説を書いていた。しばらくすると彼女たちは休憩に入り、マリコが桃畑を抜けてこっちに近づいてきた。すごく背の高い、髪を短く切った美人が一緒だった。つまり一の宮ミチコだ。マリコは彼女を紹介してくれた。ぼくは以前にも坂道で学校の帰りに何度も彼女を見たことがあった。彼女は一口で言うと、とても目立つタイプだった。痩せていて、胸はマリコみたいに大きくなかったが、ファッション・モデルみたいにきれいだった。大きな茶色の目を見ていると、吸い込まれそうな気がした。そばにいるマリコがとても子供っぽく見えた。
「どうして急に農園でトレーニングするようになったの?」とぼくは彼女たちにきいた。
「学校に許可を取ったのよ」と一の宮ミチコが言った。「ヒッピーたちだけに使わせておく手はないでしょうって言ったら、あっさりOKしてくれたわ」
 ぼくは彼女の顔をじっと見ていた。彼女はそれ以上何も言わなかった。はっきり言って彼女の説明は答えになっていなかった。ぼくは今まで校庭や体育館でやってた練習をどうして農園の草の上でやろうとしたのかときいたのだ。
「土曜日は体育館も校庭も人で一杯なのよ」とマリコが言った。「だからボールを使わないトレーニングはここでやることにしたの」
 顔を赤くして、ちょっと息を弾ませていた。彼女は小学校の頃からランニングや筋力トレーニングが苦手だった。白いユニフォームが汗で濡れて、赤くなった皮膚に張りついていた。
 ぼくのほうにも紹介する人たちがいた。
「こっちがリッキー、それからジェーン、それから娘のジャネット」とぼくは言った。
 リッキーとジェーンはぼくの横で白い椅子に腰掛けていた。赤ん坊のジャネットはリッキーが肩車していた。彼らはアメリカから来た夫婦で、桃畑のへりにテントを張っていた。リッキーはサンフランシスコで詩集を三冊出したことがある詩人だった。ジェーンも詩を書いていたが、まだ出版したことはなかった。
「こんにちは」とマリコが顔を赤くしたまま言った。
「こんにちは」とジェーンが日本語でいった。リッキーもジェーンも日本語はすごくうまかった。
「よろしく」とリッキーが言った。やさしくて感じのいい笑顔だった。娘のジャネットに負けないくらい。
「はじめまして」とミチコが言った。彼女はちょっと顔をこわばらしていた。

 リッキーとジェーンはヒッピーたちの中にキャンプを張っていたが、彼らとは一線を画しているようなところがあった。ヒッピーたちの中にはカップルもいたし、子供を育てている連中もいたが、みんなもっと大きなグループをつくってその中で暮らしていた。子供もそのカップルのものというよりグループの共有財産のようなところがあった。一九六八年の原始共産制。
 リッキーとジェーンは二人だけで行動していた。教会で結婚式は上げなかったが、ちゃんと結婚届けを出し、家族や仲間を呼んでパーティーもやった。リッキーはヒッピーのことを「ガキども」と呼んでいた。彼はモンタナ州の田舎の母子家庭で育ち、一九四〇年代から放浪生活をしていた。
「やつらがおしめをあててた頃からおれは鱒を釣って食ってたんだ」と彼は言った。「やつらがロサンゼルスやサンフランシスコのハイスクールに行ってたときも、おれはアイダホやモンタナやワイオミングの山の中で鱒を釣ってたんだ」
 マリコもミチコも挨拶をしたあとはじっと黙っていた。リッキーとジェーンの顔を交互に見ては目をそらし、救いを求めるようにジャネットを見た。
 赤ん坊のジャネットは何も着ていなかった。丸々と太って血色がよかった。オランダ・ルネッサンスの画家が描いたような天使から翼を取ったらジャネットになった。そんな感じの赤ん坊だった。
 リッキーは口髭を生やしていた。銀縁の眼鏡をかけていた。ジーンズのチョッキを着ていた。ウエスタン・ブーツをはいていた。ジェーンは黒い髪をクリーム色のスカーフで包んでいた。縁なしの細い眼鏡をかけていた。黒い牛革のブーツをはいていた。そして二人ともそれ以外は一切何も身につけていなかった! リッキーは栗色の陰毛とかたちのいいおちんちんを、ジェーンはミルクの一杯詰まったおっぱいと真っ黒い陰毛を陽に当てていた。これが彼らのふだんの格好だった。ぼくが最初に彼らと会ったときも同じ格好をしていた。ぼくらはよく一緒に魚を釣り、日向ぼっこをした。ぼくは彼らと一緒にいても、決して素っ裸にはならなかったが、彼らは別にそれについて何も言わなかった。リッキーはぼくに自作の詩を読んでくれたり、ぼくの英文小説の間違いを直してくれたりした。ぼくの家族は最初のうち彼らを敬遠していた。兄は江戸時代の本を読み耽って、彼らがきても一切相手にしなかった。母は彼らが庭に来るとさっさと家に入ってしまった。彼女は聖書女学院の農園の中でヒッピーが素っ裸になろうとセックスしようと、平然と眺めていることができた。彼らは裸のまま近づいてくることはなかったからだ。ところがリッキーは庭に入ってきて、おちんちんをぶらぶらさせながら、
「やあ、こんにちは。息子さんはなかなか才能がありますね」なんて言ったりした。
 最初のうち母はショックでしばらく口がきけなくなった。兄は本で顔を隠して彼らに気づかないふりをした。父は最初にジェーンを見たとき、池のそばにある大きな岩の陰に隠れてしばらく出てこなかった。
「なんだあの人たちは?」と彼はぼくにきいた。「変な宗教にかぶれてる連中じゃないだろうな?」
「平気だよ」とぼくは言った。「あの人たちは自然が好きなだけなんだ」
 リッキー一家と最初から話すことができたのはぼく一人だった。ぼくは彼らのリラックスした感じが好きだった。ジャネットは天使みたいだったし、ジェーンはお人好しだった。リッキーはよく見るとすごく整った顔をしていたが、笑うと子供みたいだった。ぼくの家族も慣れてくると、リッキー一家のいいところがわかるようになったらしく、彼らが庭にやってきても何も言わなくなった。
「あの人たちは、なんて言うか⋯⋯鹿に似てるわね」と母はぼくに言った。
 リッキーもジェーンもよく陽に焼けた褐色の肌をしていた。

「練習は終わりかい?」リッキーがマリコとミチコに言った。
「これから体育館に戻ってボールを使った練習をやるのよ」ミチコが眉間に皺を寄せながら言った。マリコが不安そうに彼女を見た。
「精が出るね」とリッキーが言った。内容はどうでもいいけど、何か言いたかったというような口ぶりだった。
「そうかしら」とミチコが言った。
 リッキーはじっとミチコを見つめていた。重苦しい沈黙が続いた。ジェーンはいつのまにか夫のおちんちんを握っていた。喧嘩っ早い夫をなだめようとして、肩を掴むかわりにそこを握ってみたという感じの握り方だった。
「きみらはもうちょっとリラックスする必要があるな」とリッキーが言った。
「そうかな」とミチコ。
「彼女たちを見てみろよ。みんなのびてるじゃないか」とリッキー。
 ぼくらは桃畑のほうを見た。バスケットボール部員たちが桃の木にもたれたり草地の上で四つん這いになったりしてゲエゲエ吐いていた。たぶん彼女たちは、というより彼女たちを指揮していたミチコたち高等部の二年生は、初めて農場でトレーニングをやるにあたって、ヒッピーたちにちょっといいところを見せておきたいと思ったのだろう。いつもより腹筋や腕立て伏せやスクワットの回数を多くしたのだ。
「わたしだって同じ回数やったんだから」とミチコが言った。
「きみと結婚する男は体力がいるだろうな」とリッキーが笑った。
 ジェーンはしかめ面をしながら彼の固くなったペニスをはじいた。それは怖いくらい大きく固く勃起していた。ミチコはそれを無視してぼくに、「またね」と言い、さっさと部員たちのほうへ戻っていった。
 マリコがつらそうな顔でぼくを振り返りながらついていった。
 それからリッキーとジェーンが英語で罵り合いを始めた。早口なので何を言ってるのかわからなかった。たぶんジェーンは彼が少女たちを見て勃起したことに腹を立てていたのだろう。ふだん彼女は彼がおちんちんを露出させてることについて、「どの女にあいつが勃起するかすぐわかるって寸法なのよ」と冗談ぽく言っていた。だからぼくは彼女の神経質な反応が意外だった。
 ジャネットが泣きだしたので、夫婦は喧嘩をやめた。彼らはぼくのほうを見て照れ笑いした。
「女ってやつはあれのことになると理性をなくしちまうんだ」とリッキー。
「男のここは女を見ると理性をなくしちゃうってわけよ」と、彼のおちんちんを指差しながらジェーン。

 初夏みたいに暑い日が続き、農園には聖書女学院の少女たちが毎日入れ替わりやってきて、運動部は筋力トレーニングをやり、美術部はスケッチをやり、音楽部は演奏し、合唱部は合唱し、演劇部は台本を持って稽古をやった。ヒッピーたちはそれを面白そうに見ていた。音楽部や合唱部の練習中に、シタールやサントゥールを鳴らして邪魔をする連中がいた。筋力トレーニングをやってる少女たちのわきで、素っ裸のヒッピーたちがまねをすることもあった。それを見た少女たちが怖がって逃げ出すこともあった。でもそういう悪戯はしょっちゅうあったわけじゃないし、すぐにシスターたちがやってきて、ものすごい顔でどなったので、ヒッピーたちはおとなしく謝った。怖がってテントをたたんで逃げ出したやつもいた。
 バスケットボール部員たちは一番頻繁にやってきた。一番腕立て伏せや腹筋やスクワットの回数が多かったのも彼女たちだった。そしていつも何人かの少女たちが途中でひっくり返ったり吐いたりした。農場に現れるときはいつも全員が真っ白いユニフォームを着ていたが、帰っていくときは汗でずぶ濡れで、背中やお腹は草の汁で緑色に汚れていた。
 ミチコはどんなときでも先頭に立っていた。腕立て伏せでも腹筋でもスクワットでも、彼女はみんなの倍の速さでやることができたし、何百回やってもほとんど汗をかかなかった。自分のノルマをこなしてしまうと、彼女はみんなのところを回って、ごまかしたり怠けたりしないように見張っていた。
「どうした?」と彼女は下級生に言った。「こんなことでへばってたらヒッピーたちに笑
われるぜ」
 そんなときの彼女は完璧に男の子みたいだった。男子校によくいるタイプの、しごきが好きな上級生に彼女はとてもよく似ていた。
「どうした?」と彼女は腹筋の途中でへばってしまったマリコのところへ行き、大きく盛り上がった胸を靴で踏んづけながら言った。「まさかおっぱいが重くて持ちあがらないっていうんじゃないだろうな」
 マリコは赤い顔をして伸びていた。白いシャツとショートパンツが汗で透き通って、真っ赤な肌にぴったり貼り付いていた。ミチコに叱られたので、彼女はまた頭の下に両手をあてがって腹筋を始めようとしたが、ミチコの足は相変わらず彼女の胸を踏んづけていたので、彼女は上体を起こすことができなかった。
「がんばれ」とミチコはおかしそうに笑いながら言った。
 彼女はとても楽しそうだった。

「わからない」とリッキーがミチコとバスケットボール部のトレーニングを見つめながら言った。「あの子はどうしてあんなひどいことをするんだ?」
「よくあることさ」とぼくは言った。「日本人はああいうのが好きなんだ」
「どうして彼女たちはあんなことをされて黙ってるんだ?」
「さあね」とぼくは言った。「彼女たちもああいうのが好きなんだよ、きっと」
「ひどいな」とリッキーは言った。「日本人は自由に振る舞うことを怖がってるみたいに見えることがよくあるじゃないか。なぜだ?」
「ぼくらはまだまわりと触れあうことを学んでいるんだよ」とぼく。
 中学生にしてはませたセリフだと思われるかもしれないが、そのとき確かにぼくはこの通りの言葉を使った。一九六八年の中学生はみんなけっこう議論が得意だった。
「まわりと触れあって感じた恐怖をバネにして自分のからだを攻撃する、これが彼らの刻苦精励の秘密だよ」とぼくは言った。
 ぼくはリッキーと話すときは日本人を《彼ら》と呼ぶことにしていた。とても自分がその一員だとは思えなかったからだ。

 コットンキャンディマンがやってきて、
「ベイビー」とぼくに言った。「ハッピーかい?」
「ああ、ハッピーだよ」とぼくは答えた。
 コットンキャンディマンはぼくがハッピーかハッピーでないかはっきり言うまでしつこく「ハッピーかい?」ときく男だった。ぼくはハッピーというのがどういう状態かまだよくわかっていなかったが、とにかくハッピーだと答えることにしていた。「ハッピーって一体なんだい?」なんて言おうもんなら、彼お得意の何時間も続く議論が始まってしまうからだ。
「でも、そのベイビーはやめてくれないかな」とぼくは付け足した。「ぼくは赤ん坊じゃ
ないんだから」
「気に触ったかい、ベイビー」とコットンキャンディマンは言った。「今度から気をつけるよ、ベイビー」
 コットンキャンディマンはアフロ・ヘアを自慢にしていた。アフロ・ヘアというのは当時黒人がよくやっていた髪型で、細かく縮れた髪を綿飴みたいに大きく膨らませたやつだ。コットンキャンディマンは黒人ではなかった。よく陽に焼けていて、メキシコのギャングみたいな顔をしていたが、ハワイにもタヒチにも沖縄にもいそうな顔だった。彼の髪は黒人みたいに縮れていなかったので、細かいパーマをかけてヘアスプレーでガチガチに固めていた。寝るときも枕がいらないくらい彼のアフロ・ヘアは完璧だった。いつも花柄の派手なシャツに赤いベルボトムのスラックスをはいていた。ジミ・ヘンドリックスが彼のアイドルで、ときどき『フォクシー・レイディ』や『ラヴァーマン』を口ずさんでいた。

「おれたちは日本人に必要なリラクゼーションについて話してたんだよ、坊や」とリッキーがコットンキャンディマンに言った。「おれはあの天使みたいに可愛い女の子たちがどうして自分を痛めつけようとするのかわからないって言ったんだ」
「ヘイ、マン」とコットンキャンディマンは一歩身を引いて構えながらリッキーに言った。《マン》を黒人みたいに《メェン》と伸ばして発音するのが彼の癖だった。「今度おれのことを坊やなんて呼んだらあんたのおちんちんを引っこ抜いちまうぜ、マン」
「気に触ったかい、坊や?」とリッキーが笑った。「今度から気をつけるよ、坊や」
 リッキーの正確な歳はわからない。でもコットンキャンディマンよりかなり年上だったことは確かだ。彼はコットンキャンディマンのことをいつも《坊や》と呼んでいた。
「日本人はリラックスしてるさ」リッキーとの喧嘩を避けることにしたコットンキャンディマンが言った。「特におれたち若いやつらはね。リラックスしてないのは年寄りだけだよ」
「あの白鳥みたいに可愛い女の子たちはリラックスしてるかい、坊や?」とリッキー。
「もともと子供たちはリラックスしてるものさ。そうだろ、ベイビー?」とコットンキャンディマンがぼくに言った。
「ぼくらはリラックスして世界と接することを覚えたいのに、学校が邪魔をするんだ」とぼくは言った。
「ヘイ、マン」とコットンキャンディマンはリッキーに言った。「このベイビーの言う通りだぜ。あの尼さんたちが時代遅れなんだ。それだけさ、マン」
「でも、やっぱり女の子たちは尼さんたちにプレッシャーをかけられてるんだろ?」とリッキーが笑った。

「そりゃプレッシャーは感じるわ」一番手前で腹筋をやっていたバスケットボール部員の女の子が息を弾ませながら言った。「でも、シスターたちは心配症なだけで、悪気があるわけじゃないのよ」
「腹筋に集中したほうがいいよ、お嬢ちゃん」とリッキー。
 むこうのほうで「八十八、八十九、九十、九十一、九十二、九十三⋯⋯」と声を出して数えながら、部員たちを励ましているミチコの姿が見えた。女の子たちの何人かはすでに途中でのびたり、ゲロを吐いたりしていた。
「それにこれはわたしたちがしたいと思ってしてることなのよ」と手前から二番目にいたマリコが言った。彼女はすでに七十三回でのびてたままだった。
「問題はきみたちがとてもセクシーだってことなんだ」とリッキーが言った。
 彼は椅子に座ってリラックスしていたが、いつのまにかおちんちんだけがかなり緊張していた。ジェーンはその場にいなかったので、夫のペニスを昔の飛行機の操縦竿みたいに握る人間はいなかった。
「ヘイ、マン」とコットンキャンディマンが笑った。「おまえのそのおちんちんをリラックスさせろよ、マン」
 ぼくとリッキーはマリコの汗で半透明になった白いユニフォームを眺めていた。その下には下着が透けて見えた。ぼくと一緒に買いに行った白いブラジャーとパンティ。一口に言って、彼女は『プレイボーイ』のピンナップ・ガールよりセクシーだった。
「ヘイ、マン」とコットンキャンディマンがリッキーに言った。「おまえやおまえのかあちゃんはセクシーじゃないって言うのかい、いつもパブリック・ヘアまで見せてさ」
 ぼくとリッキーは一瞬顔を見合わせた。たぶんコットンキャンディマンは陰毛を意味する pubic hair (ピュービック・ヘア)という言葉をどこかの本で見て、public hair と読んでしまったのだろう。しかし、パブリック・ヘアという言い方は、ざっくばらんなところが妙に現代英語に合ってるように思えたので、ぼくはそれについて何も言わなかった。リッキーもちょっと笑っただけだった。
「たしかに、隠したり禁止したりすることで生きのびるっていうのがエロティシズムの秘密なんだ」とぼくはコットンキャンディマンに言った。
「こいつがおちんちんを出してるのは全然いやらしくないってわけか、ベイビー?」コットンキャンディマンはかっとなっていた。
「たしかに、隠されたものに勃起するってのは、おれのほうにも問題があるんだろうな」リッキーがそう言いながら苦笑いした。
「ヘイ、マン」とコットンキャンディマンは強い口調で言った。「たしかにおまえには問題が大ありだよ、マン」

ファミリー・キャンプ3

                ★

 初夏のような四月が去って、真夏のような五月がやってきた。ヒッピーたちは暑さにうだり、谷間の川や池に飛び込んだり、農園に面している家の庭からホースで水をかけてもらったりしていた。白いユニフォームを着たバスケットボール部員たちは、早朝から坂道やぼくの家の近所の道でランニングをやり、桃畑で筋力トレーニングをやった。彼女たちのかん高いかけ声で、ぼくら住民は明け方の五時に目を覚ました。バスケットボール部は農園を独占するため、ゴールデンウイークの初めから桃畑にキャンプを張っていた。休日は筋力トレーニングの後、体育館で練習。授業のある日も早朝練習をやり、桃畑から登校した。
 彼女たちは四〜五人ずつのグループに分かれてテントの中で暮らしていた。一の宮ミチコは小さなテントを一人で使っていて、マリコが彼女の世話をしていた。
 ぼくは明け方まで眠れないことが多くなった。そんなときは芝生の上に置いた白い椅子に座り、ぼんやりと桃畑を眺めたり、テーブルで小説を書いたりした。
 まだ太陽が顔を出す前の、白っぽい空気の中で、ミチコのテントから這い出てくるマリコを見かけることがあった。最初に見たとき、彼女はすぐにぼくに気づいてうれしそうに大きく腕を振った。
「ずいぶん早いね」とぼくは言った。
「最近よく眠れるの」と彼女は言った。
「ぼくはあんまり眠れないんだ」
 彼女はテントの外で立ったまま白いユニフォームを着た。つまり起き出してきたときは下着姿だったのだ。服を着ているあいだ、彼女は絶えずぼくに笑顔を見せていた。そんなに幸せそうな顔は見たことがなかった。

 彼女たちは農場や近所の庭から野菜や卵や肉をもらい、池や川で魚をとって、桃畑で料理していた。ぼくはミチコやマリコと連れだって釣りに出掛けた。駅から聖書女学院に続く曲がりくねった坂道の横を流れる谷川や、途中にある小さな池でも釣れたが、素っ裸のヒッピーたちが水浴びをしていたから、彼女たちはあまりそこで釣りたがらなかった。それに、ゴルフ場を抜けて山のほうへ行くと、もっといい釣り場がたくさんあった。ミチコは深い草叢や薮の中に平気で入っていき、鋭い葉やとげで腕や脚の皮膚を切って血を流してもまるで平気だった。いつも白いユニフォームを着ていた。背はぼくよりも高かったが、ちょっと離れて見ると、田舎で育った少年みたいに見えた。マリコは泥や草の汁で汚れたミチコのユニフォームを洗濯しようとするのだが、ミチコはなかなか着替えようとしなかった。彼女はだんだん薄汚れてきた。顔が浅黒くなり、短く刈り込んだ髪がつやをなくし、埃と汗で固まり、束になってもつれ、逆立ってきた。手足も傷だらけで、おまけに泥で汚れていた。
「そばに寄らないでくれよ」とぼくは彼女に言った。「なんだか臭うよ」
「気取るんじゃないっての」と彼女は男の子みたいに笑いながら、わざとぼくにからだをすりつけてきた。ぼくの首を腕で締め上げたりした。
 ミチコのからだは草の匂いがした。筋力トレーニングのおかげで男みたいに引き締まって見えたが、触れてみるとババロアみたいに柔らかかった。ぼくは彼女が間違えて女のからだを持って生まれてきてしまった男なのだということに気づいた。
 彼女は小学生のガキ大将が子分をいじめるときよくやるように、ぼくのおちんちんを握ったしりた。あんまりすばやく掴むので、ぼくは逃げる暇がなかった。
「どうした?」と彼女は笑いながら言った。「全然元気ないじゃないか。ミス聖書女学院に抱きつかれてるってのにさ」
 それは本当だった。ミチコは一九六八年のミス聖書女学院だった。ぼくら総愛学院の生徒たちは毎年、学校に内緒でミス聖書女学院を選んでいた。高等部の二年生が秘密の委員会を組織し、投票箱を回すのだ。聖書女学院の内部でも秘密投票が行われ、両方の票の合計がミス聖書女学院を決める。一の宮ミチコは総愛学院では僅差で二位だったが、聖書女学院ではぶっちぎりで一位だったため、総合でミス聖書女学院に選ばれた。
「全然勃起しないよ」とぼくは言った。「きみは男だからね」
 ミチコは笑いながらぼくを押し倒し、お腹にニードロップをくわせた。彼女は恐ろしく力が強かった。
「嘘つき」と彼女は言った。
「嘘つき」と傍らでマリコが言った。
 もちろん嘘だった。彼女のからだは十分柔らかかった。ただぼくが女の子のからだに馴染めなかっただけなのだ。

 深い森の中にある翡翆色をした池でぼくらは釣りをした。岸の草叢には黄色い夏の日差しが照りつけていたが、暗い木立ちから流れてくる風は冷たかった。魚はたくさん釣れた。釣り竿を地面に刺しておくだけでいつのまにか針にかかっているのだ。ぼくらはすぐに退屈した。
「泳ごうぜ」とミチコが男みたいな口調で言った。
「魚が逃げちゃう」とマリコが言った。
「十分釣ったじゃないか」
 ミチコは子供みたいにせかせかと着ているものを脱いだ。まるで自分のそばからどんどん遠ざかっていく時間を逃がすまいとしているみたいだった。跳びはねながら最後の下着を脱ぐと、小さなお尻の肉が皿に落としたプリンみたいに細かくふるえた。彼女は跳びはねながら水の中に入っていった。
「足を切らないように気をつけて」とマリコが言った。
「下はきれいな砂だよ」ミチコが振り返って笑った。
「きれいだね」とぼくがマリコに囁いた。彼女は何も言わなかった。
 ミチコは跳び上がって頭から水に潜った。水面でイルカみたいに何度もからだをくねらせた。
「ついでにからだを洗うんだ」
 彼女は水面に顔を出してそう言うと、ものすごいスピードで岸から離れていった。

 ぼくらから少し離れた砂地に兄がガールフレンドとやってきた。彼は江戸時代の本を抱えていた。ぼくは彼のガールフレンドを初めて見た。電話でちょっと話したことはあったが、家に来たことがなかったからだ。彼女は藤色の地に細かい花柄のワンピースを着て、同じ生地の帽子をかぶっていた。流木の上に腰を下ろすとスカートの下から、白い下着のレースの縁どりと焦げ茶色のブーツが見えた。
 釣りをしたのは彼女だった。兄はそばに寝そべって本を読んでいた。
「お兄さまは勉強家ね」とマリコが言った。
「学者にでもなるんだろ」とぼく。
「何の?」
「江戸時代のさ」
「ふうん」マリコはすぐに納得した。「きっと偉い学者になるわ。あんなに勉強してるんだもん」
「そうかな」
 そうはならなかった。兄は五年後に銀行員になった。父がいた銀行だ。そしてこのとき花柄のワンピースを着て釣りをしていたガールフレンドと、一九八〇年に結婚した。つまりそれから十二年も付き合ってからだ! 今でも彼は江戸時代の本を読んでいる。江戸時代の本は無限にあるらしい。

「一の宮が見えない」マリコが急に立ち上がって言った。
 緑色の水はさざ波ひとつ立っていなかった。ついさっきまでミチコは池のちょうど真ん中あたりを泳いでいたのだ。
「平気だよ」とぼくは言った。「あんなに泳ぎがうまいんだ」
「心臓麻痺を起こしたのかもしれない」とマリコ。
「潜ってるんだよ」
 ぼくがそう言い終わらないうちにミチコが向こう岸の近くに頭を出した。脚の立つところで立ち上がり、白いしぶきを上げながら岸に駆け上がると、砂の上に大の字に倒れて足をばたばたさせた。
「気持いい」とその足が言っていた。
「きみも行けばよかったのに」とぼくはマリコに言った。
「だめよ」
「恥ずかしい?」
「違う」
 彼女は白いブラウスに紺と緑のチェックのミニスカートをはいていた。
「一の宮はわたしがついてったらきっといやがったわ」
「そうかな」
「ひとりでいたいときはちゃんとわかるのよ。男の子みたいになるから」
「ふうん」とぼく。「彼女のことを深く知ってるわけだ」
 マリコは上眼づかいにぼくを見た。
「そんなことないわ」と彼女は言った。「大事なことは何も話してくれないんだもの。あの人、ここんとこに傷跡があるの。自殺しかけたみたいな傷」
 そう言って彼女は左の手首の内側を見せた。そういう彼女の手首にも小さく盛り上がったような傷があった。
「一体どうしたっていうんだ?」とぼくは呟いた。

 彼女はバスケットの中から大きな折畳みナイフを取りだし、近くの薮から笹を数本取ってきた。それから小学生が縄跳びをやるときみたいに、スカートの裾を下着の中にたくし込んで水の中に入った。釣った魚を入れておいた篭を引き上げると、一匹ずつ魚のえらから口に笹を通した。魚はどれもよく太っていて、濃い灰色や銀色の背に白い腹をしていた。笹を通そうとすると、魚たちはえらからしこたま血を流しながら暴れた。マリコの白い腿に水で薄められた血が流れた。
「一体どうしたって言うんだ?」とぼくは彼女に言った。
 彼女から生温かい魚の血の臭いが漂ってきた。
「持って帰って食事当番に渡すのよ」と彼女がぼくを不安そうに見つめながら言った。
「行かないでくれよ」
「もうじき夕食の支度が始まるのよ」
「一の宮が呼んでるよ」
 むこう岸で寝転んでいたミチコが上体を起こしてぼくらを手招きしていた。白い歯を見せて笑っているのがわかった。
「あなたを呼んでるのよ」
「どうしてわかるんだ?」
「それゃわかるわ」マリコは悲しそうに笑った。
 むこう岸でミチコが立ち上がり、水の中に入っていくのが見えた。行きよりもすごいスピードで泳ぎながらこっちに戻ってきた。
「頼むからここにいてくれよ」とぼくは言った。
「だめよ」とマリコ。「わたしがいたらすごく怒られるわ」
 マリコは魚をいっぱいぶらさげた笹を肩に担いで森の中に消えていった。まるで北海道の木彫りの熊人形みたいだった。

 ミチコが水の中で立ち上がり、しぶきを上げて跳びはねながら岸に近づいてきた。マリコの気配はどこにも残っていなかった。ミチコはよろけながら走ってきて、ぼくのわきに腰を下ろした。
「ずいぶん大声で呼んだのよ」彼女はいやに女らしい高い声で言った。
「聞こえなかったな」
 彼女はすごく可愛い笑顔でぼくの顔を覗き込んだ。
「すっかりきれいになったわ」と、自分のからだについた水を手で払い落としながら言った。
「うん、きれいだよ」ぼくは水面でじっとしているピンク色の浮きをじっと見つめたまま言った。
「釣れる?」
「きみが飛び込んでから全然」
 彼女が水に入ったせいで、魚たちはどこかへ行ってしまっていた。それでもぼくは釣りをやめなかった。もうバスケットボール部と我が家の分は十分釣れていたが、釣りをやめてはいけないような気がしていた。ぼくはミチコを見ないようにしていた。水から出てきた彼女はすっかり女の子になっていた。それがとても不気味だった。それからマリコがどこへ行ったのかきこうとしないのがとても不気味だった。
「こっちを向きなさいよ」とミチコが言った。
 カチッという軽い機械音がしたのでそっちを向くと、ミチコが草の上にしゃがんで小さい銀色のカメラを構えていた。彼女は写真が趣味で、小型のコンタックスを持っていた。前のふたを開けると小さなレンズが出てくるやつだ。それでよく森の花や鳥や山の風景を撮っていた。
「わたしも撮ってくれる?」ミチコはぼくにカメラを押し付けてきた。
 ぼくはしかたなくそれを受け取り、地面に坐ったままシャッターを押した。ファインダーの中の彼女は草の上に膝をついて、片手で髪を触っていた。もう片方の手を腰骨のところに軽く当てて、モデルみたいに笑っていた。おっぱいは小さくて、からだつきはほっそりしていたが、全身が女の子だった。
「どうせなら二人並んで撮りたいわね」と彼女は言った。「あそこに人がいるから頼んでみようか」
 彼女はぼくの兄とガールフレンドのほうを見ていた。
「やめときなよ。邪魔になるかもしれないから」
「だって女の子は釣りをしてるし、男の子は本を読んでるだけよ」
「でもきっといやがると思うよ」
「あの人たちのこと知ってるの?」
「知らないけど、さっきから見ていてそんな気がするんだ」
 ぼくは彼がぼくの兄弟だということを言うべきなのかどうかわからなかった。言ったらミチコが彼らのところに行ってシャッターを押してくれと頼むんじゃないかという気がしたことは確かだ。ぼくは裸の女の子といるところを兄に見られるのはいやだった。こっちから声をかけないかぎり、彼はぼくに気づかないだろう。彼は本を読みだしたら、他のことは一切気にならなくなるタイプだった。

「わたしたち、今こそここでやるべきだと思うわ」ミチコがぼくを見つめながら強い口調で言った。
「そうかな」ぼくは小さな声で言った。彼女の自信ありげな口調に戸惑ってしまったのだ。やりたいというならともかく、どうして《やるべきだ》なんて断言できるのかよくわからなかった。
「最初会ったときからそう思ったのよ。あなたもそう思ってるって顔に書いてあったわ」
「そんなことないよ」
「怖いの?」
「そんなことないよ」
「誰でも最初は初めてなのよ」
「そうだろうね」
「わたしも初めてなのよ」彼女はまばたきもしないでしばらくぼくの眼をじっと覗き込んでいた。
 それから彼女はまたコンタックスでぼくの写真を撮った。そのカチリというかすかな音がぼくの心臓をふるわせた。全身の血が冷たくなっていくのがわかった。ぼくはたいていの少年と同じように、もう長いことこういう場面を夢に見ていた。つまり年上のすごい美人がにっこり笑ってやらせてくれるところをだ。そしてミチコは空想していたどんな美人よりもきれいだった。そのときはどうして彼女とやりたくないのか自分でもよくわからなかった。彼女はどう考えても完璧な女の子だったが、ぼくは全然勃起していなかった。
「あなたは女の子に押し倒されたいタイプなの?」
 ミチコがカメラから顔を離して笑った。ぼくは自分が何を怖がっているのかわかったような気がした。コンタックスのファインダーから離れた彼女の左眼が三十度くらい外側に向いていた。彼女の顔は一変していた。見えない暴力で歪められた何かが苦痛の叫びを上げているような顔だった。ぼくは腰を浮かして立ち上がろうとしたが、からだに力が入らなかった。彼女は片眼でぼくを見つめ、もう片方の眼で森のほうをぼんやり眺めながら近づいてきて、ぼくを草の上に押し倒した。ぼくはひっくり返った亀みたいにもがいた。喉が詰まって声も出なかった。ミチコはすごい力でぼくを抑えつけようとし、ぼくは彼女のマシュマロみたいなからだを手当たり次第に殴ったり叩いたりした。何度もお互いのからだが上になったりしたになったりした。ぼくはそのあいだずっと目をつぶっていた。彼女の眼を見たら力が抜けてしまいそうな気がしたからだ。
 何度目かに彼女のからだに馬乗りになったとき、機械が壊れるグシャッという音がして彼女が悲鳴を上げた。彼女が上体を起こすと、その下でコンタックスの蓋が開いて、レンズがとれていた。フィルムがボディからはみだしていた。
「ああ⋯⋯」とミチコは言った。
 彼女は草の上にしゃがみこみ、しばらく無言で壊れたカメラをいじっていた。彼女の白い背中には四角いカメラの跡が赤くついていた。
「ごめん」とぼくは言った。「壊れちゃった?」
「いいのよ」彼女はかすかな、息みたいな声で呟いた。「修理に出すから」
 それから彼女はぼくのほうへ顔を向けた。左眼は元に戻っていた。
「でもフィルムが、あなたの写真がだめになっちゃった。あなたが撮ってくれたわたしの写真も」
 彼女はさみしそうな顔で、いつまでもこわれたカメラをいじっていた。
 ぼくは「また撮ろうよ」とは言わなかった。言いたかったが、口が動かなかった。また彼女の左眼がカメレオンみたいに外を向くのを見なければならないような気がしたからだ。
 あたりは少し薄暗くなってきた。いつのまにか兄とガールフレンドはいなくなっていた。どうしてそんなに時間がたってしまったのかわからなかったが、とにかく草の上に坐り直してミチコと池を眺めたときには、彼らの姿はなかった。ミチコはなかなか服を着ようとしなかった。草と泥で汚れた彼女のユニフォームと下着がすぐ近くに落ちていた。
「わたしに恋人がいた話はマリコから聞いた?」と彼女は池を見つめながら言った。
「聞いてない」とぼく。
「去年のことよ。総愛学院のバスケットボール部の男の子でね。歳は二つ上だったわ。彼がわたしの家に遊びに来たとき、わたしは彼に今こそやるべきだって言ったの。彼はそんなことないって言ったわ。わたしたちはまだ子供なんだから、そういうことはやるべきじゃないっていうのが彼の考え方だった。高校を卒業して大人になったらやろうと言うのよ。そういうのって卑怯だと思わない?」
「さあ」とぼくは言った。「ぼくにはわからないよ。いつになったら大人になれるのか、いくつになったら楽しんでやれるのか⋯⋯」
「わたしもそう言ったの」ミチコはぼくの手の甲に手のひらを乗せながら言った。「そんなのは学校がわたしたちをだましてるだけだって。学校はただわたしたちにいろんなことを禁止したいだけなのよ。子供だから今はがまんしろって。大人になったら好きなことができるんだって。でもきっと卒業しても同じことよ。いろいろ真面目に考えて、まだ自分が子供だってことを発見するだけなのよ。そして一番大事なことを一日のばしにしていくのよ」
「そうかなあ」とぼくは言った。彼女の言ってることがだんだんよくわからなくなってきたのだ。最初は高校生のうちにセックスをするかどうかという話だったはずだ。それがいつのまにか、みんないくつになってもセックスができないという話にすり替わっているような気がした。それともミチコはもっと別の話をしているつもりだったのだろうか?
「それでわたしは彼の前で服を脱いで、脚を広げてやったの。『今できないことは一生できないわよ』って言ったら、彼は震えだしたわ。からだの中で犬か何かが暴れてるのをじっと我慢してるって感じだった」
 遠くで犬が吠える声が聞こえた。ミチコは腰を浮かしてぼくにからだをくっつけた。ゴルフ場から上の山には野犬が出るという噂だった。住宅街で捨てられた犬や逃げ出した犬が野生化し、群れを作ってうろつきまわっていた。子供が襲われたという話もあった。あたりはすっかり暗くなっていた。空はきれいな紺色だった。月が出ていないので、すぐ横にあるミチコの顔さえ見えないくらいだった。向こう岸にオレンジ色の光が三つ見えた。誰かが焚火をしているらしかった。
「それで?」とぼくが言った。ミチコがしばらく黙っていたからだ。
「その夜わたしは風呂場で手首を切ったの」と彼女は言った。「彼に拒絶されて、生きてるのが怖くなったのよ。彼も同じ頃自分の部屋で首を吊ったわ。でもクローゼットのドアに紐を引っ掛けただけだったから、すぐはずれて助かったの。わたしも睡眠薬をのんで手首を切ったんだけど、湯舟の中で眠ってしまって、眼が覚めたら病院に運ばれてた。寝ているうちに腕をお湯から出してしまったので、傷口が乾いて血が止まっちゃったのよ。馬鹿みたい」彼女はおかしそうに笑った。
「それで?」とぼくは言った。「彼とはどうなったの?」
「それきりよ。首に茶色の痣を残したまま卒業してったはずよ。大学に行ったんじゃないかな。よく知らないわ」

 遠吠えする犬の数が増えてきた。このあたりの野犬が全部、あちこちで呼び合ってこの池に向かっているような気がした。だから背後の森の中で、下草を掻き分けるカサカサという音がしたときは思わず立ち上がってしまった。
「立つなよ、馬鹿」とミチコが言った。それは今まで失恋のことを話していた彼女ではなかった。声が男に戻っていた。急にスイッチが切り替わって元に戻ったという感じだった。「動いたらこっちの位置がばれるだろ」と彼女はまた男の声で言った。「犬は鼻と耳がいいんだよ」
 振り返ると、森の中に懐中電灯の光が見えた。近づいてきたのはマリコだった。
「着替えを持ってきたの」と闇の中で彼女は言った。ぼくらはほとんどお互いの輪郭さえ見分けられなかった。
「悪い」ミチコは服をひったくるようにして受け取った。
「もうじき晩ご飯よ」マリコが母親みたいに言った。
「暗くて服が着れないよ」ミチコが子供みたいに文句を言い、マリコが少し後ずさって懐中電灯でミチコを照らした。スポットライトの中に突然裸の彼女が浮かび上がり、せかせかと服を着だした。着替えも昼間着ていたのと同じような白いユニフォームだった。
「今度犬を食おうよ」ミチコが何の脈絡もなく言った。
「どうして?」とマリコが言った。ぼくは何を言っていいのかわからなかったので黙っていた。
「一杯犬がいるだろ。今度捕まえて食おうよ。犬はうまいらしいよ。中国でも朝鮮でも犬の料理があるんだ。日本だって昔は食ってたんだし」
「そうなの?」マリコは子供のたわごとの相手をするみたいに適当な返事をしていた。ミチコの扱いに慣れてるという感じだった。ミチコは立ったまま器用に靴下をはいていた。小さく跳びはねながら靴下をはく仕草も小さな男の子みたいだった。
 ぼくは手探りで釣りの道具を片付けた。マリコはバスケットにミチコの汚れたユニフォームと下着を詰め込んだ。ミチコはその隙にさっさと行ってしまった。森の中で草を踏む音と、彼女の犬の鳴きまねをする声が聞こえた。ワウー、ワウワウワウワウー。

 ぼくはマリコと闇の中を戻った。からだを彼女にすり寄せるようにして歩いた。彼女はバスケットを持ち換えたり、歩く速度を変えたりしてぼくから離れようとした。ぼくは彼女からバスケットを奪い、釣りの道具と一緒に左手で持ちながら、右腕で彼女の首を捕まえた。彼女はミチコよりもっと柔らかかった。
「お願いだから少し離れてくれない?」と彼女は言った。
「怖いんだ」とぼくは言った。腕はほどかなかった。
「臆病者」と彼女。
「ぼくのこと怒ってるの?」とぼく。
「別に」
「一の宮とは何もなかったよ」
「言わなくてもわかってるわよ。あなたは拒絶したんだわ」
「どうしてわかるの?」
「顔に書いてあるもん」
 それは嘘だった。ぼくらは完全な暗闇の中にいて、お互いの顔を見ることさえできなかった。
 ぼくはミチコが手首を切り、ボーイフレンドが首を吊った話をした。彼女は黙って聞いていたが、どんどんからだが固くなっていくのがわかった。
「あなたは一の宮を傷つけたのよ」最後に彼女はぽつんと言った。
「ぼくだって傷ついたかもしれないんだ。でも、どうしようもなかったんだよ。ぼくは怖かったんだ」
 自分がどうしようもない屑みたいに感じられた。マリコにからだをくっつけていないと怖くてしかたなかった。でも彼女は全身でぼくを嫌っていた。
「きみは彼女と一緒のテントに寝て、怖いと思ったことはないのかい?」
「あなたが何を怖がってるのかよくわからないわ。わたしは一の宮のためになることをしたいのよ」
「きみはいつ手首を切ったんだ?」
「小学校を卒業したときよ。あなたに嫌われたまま会えなくなるんだって思ったから」
 ぼくらは足を止めた。彼女は行こうとしたが、首に巻きつけた腕で引き戻した。首の脈が激しく動いているのがわかった。
「嘘だ」とぼくは言った。
「嘘よ」
 マリコが喉の中で笑ったのが腕の感触でわかった。
「ほんとはあなたと下着を買いに行った晩に切ったの」
「どうして?」
「わからない。たぶん男の子が怖かったのよ」
「嘘だ」
「嘘よ」また彼女が喉の奥でゴクンと笑った。
「ほんとは一の宮の傷を見たときに切ったのよ」
「どうして?」
「あの人がかわいそうだったから」
「嘘だ」
 また彼女が喉でゴボゴボと笑った。「よくわかるわね」
「きみが好きだ」とぼくは言った。
「嘘よ」彼女は笑わなかった。
 確かにそれも嘘だった。ぼくは彼女が好きなわけじゃなかった。ただ彼女とならやれそうな気がしただけだ。
「いつ手首を切ったの?」とぼくはまたきいた。
「言わない」と彼女は言った。ぼくらはいつのまにかまた早足で歩き出していた。
「どうして?」
「自分でもわからないからよ、どうして切ったのか」
「きみは一の宮なんかとくっついてるべきじゃないんだ」とぼくはマリコに言った。
「くっついてるってどういうこと?」彼女は真面目な声できいた。
「きみには彼女が見えないんだ」
「あの人は誤解されやすいタイプなのよ」
「きみは彼女に首から血を吸われてるんだ」

           ★

 ゴールデンウイークにぼくはもう一度だけ天使に会った。よく晴れた日の夕方、ゴルフ
場のわきの道を散歩していたときだった。彼は赤と茶色のチェックの綿シャツに黒いコー
ル天のズボンをはいていた。
「やあ」と彼はぼくを見て言った。腕に藁半紙の束を抱えていた。
「やあ」とぼくも言った。「調子はどう?」
「まあまあだね」
「今日は何をしてるの?」
「宣伝活動さ」
「天国の?」
「人間にとって必要なことを宣伝するんだよ」
「たとえば?」
 彼は藁半紙を一枚見せてくれた。それはガリ版刷りのビラだった。ベトナムから脱走し
た四人のアメリカ兵を救おうといったようなことが書かれていた。
「これが天使の仕事なの?」
「まあ、そういうことさ」天使は曖昧に言った。
「なんだか普通の大学生がやってることと変わらないみたいだな」          
「きみはいくら出せる?」
「ぼくお金持ってないよ」
「一円もかい?」
「二千円持ってるけど、レコードを買いに行くんだ」
「へえ。何を買うんだ?」
「ビッグブラザーとホールディングカンパニーの『チープスリル』」
 それはジャニス・ジョプリンがいたバンドだ。その後彼女は独立し、二枚目のソロアル
バムを録音中に死んでしまった。一九七〇年の十月のことだ。その年の九月にはジミ・ヘ
ンドリックスが死んだ。その次の年にはドアーズのジム・モリソンが死んだ。みんな薬の
やりすぎだった。
「それはいいアルバムだ」と天使が言った。「今度おれが貸してあげるから、その二千円
をくれないかな?」
「いやだよ」とぼくはきっぱり断った。
「じゃあ、女の子の下着はいらないか?」天使はあたりに目を配りながら、急に声をひそ
めて言った。
「いらないよ」
「聖書女学院のかわい子ちゃんのだぜ」
「いらないってば」
 ぼくはいらいらしていた。この天使のことは嫌いじゃなかった。ぼくの部屋に彼がやっ
てきたとき以来、ぼくは自信をもって小説が書けるようになっていた。今度会ったらお礼
を言おうと思っていたのだ。しかしぼくは小説のことを口に出さなかった。それはおれの
おまじないがきいたんだから二千円をよこせと言うに決まっているからだ。
「その痣どうしたの?」とぼくは天使にきいた。
「これかい? これは生まれつきさ」弱々しい微笑を浮かべながら天使が答えた。どうや
らそれは一番きかれたくないことらしかった。彼の首には細い筋状の赤痣がついていた。
「きみはもしかしたら、総愛学院の卒業生で、一の宮ミチコのボーイフレンドだったんじ
ゃない?」                                   
「それはおれが天使になる前の話さ。おれは一度死んで生まれ変わったんだよ」
「ふうん」とぼくは言った。「じゃあ、きみは死んで天国に行ったんだ」
「そういうことだね」
「死ぬってどんな気分?」
「まあ、高校を卒業して自由の身になるっていうのと似てるかな」
 その頃、自殺はそんなに特別なことじゃなかった。一九六八年の学生は誰でも自殺に興
味を持っていたし、どんなに鈍いやつでも一度は自殺を考えたことがあった。中学生や高
校生には二十歳過ぎまで自分が生きてるなんて想像もできなかった。しかし、孤独を理由
に自殺するやつはまずいなかった。今と違って自殺はそれほどさみしいことじゃなかった
のだ。ぼくらは孤独になりようがなかった。近くにあまりにも友達や仲間が大勢いたし、
自分が関係ないと思ってるようなことでも、誰かがむこうのほうから近づいてきて、これ
は他人事じゃないんだと主張した。自分に無関係なことなんてこの世にはありえないんだ
ということを認めるまで離してもらえなかった。
「どうしてきみは一の宮とやらなかったの?」とぼくはきいた。こういう時代だったから
何でもきくことができたのだ。
「彼女は自分じゃぼくをセックスに誘ってるつもりだったのかもしれないけど、ほんとは
ぼくと一緒に死のうとしただけなんだ。彼女にとってそれは欲望なんだよ」
「ふうん」とぼくは曖昧に言った。
 別に納得したわけじゃなかった。死ぬことが欲望の対象になるということが子供のぼく
にはまだよく理解できなかったのだ。

ファミリー・キャンプ4

              ★


「坊や、おまえさんは死神に取り憑かれてるよ」とリッキーが言った。
「そうかな」とぼくは言った。
 ぼくは彼の言うことに賛成できなかった。《死神》という言葉はリッキーにふさわしく
ないような気がしたのだ。リッキーはアメリカ西部の森や草原の匂いがした。灰色熊やへ
ら鹿と一緒に大きな鮭を釣ったり焚火で食事をする彼の姿をぼくはよく思い描いていた。
そこには死神なんて入り込む余地はないように思えた。死神がふさわしいのは古い教会が
ある街であって、オレゴンやモンタナの何もない山の中ではない。
「でも、ここにはちゃんと教会があるぜ」とリッキーが言った。
 彼は桃畑のむこうに聳えている聖書女学院の礼拝堂を見ていた。鋭い尖塔がまわりのす
べてを威嚇するように、空へ向けて立っていた。塔の中にある鐘は毎日朝九時と正午と午
後三時と午後六時にけたたましい音を立てた。
「坊や、おまえさんは死神に取り憑かれてるよ」とリッキーが言った。
「そうかなあ」とぼくは言った。

「きみは死神に取り憑かれてるよ」とぼくはマリコに言ってみた。
「そうかなあ」と彼女は言った。
 ぼくらは我が家の芝生の上にいた。白いテーブルに向かってマリコはぼくが書いたばか
りの "A Tale of A Little Thief" の一章を清書していた。ぼくの字は恐ろしく汚かった
ので、いつもカークパトリック神父に文句を言われていたのだ。その点、マリコの字は小
学校時代からすごくきれいだった。彼女はぼくの原稿をレポート用紙に清書してくれただ
けでなく、綴りの間違いを直したり、女主人公の描き方について、女の子の観点からアド
バイスしてくれたりした。小学校時代と同様、中学に入っても彼女のほうが学力は上だっ
たから、英語についても色々と教わるところがあった。
 清書された原稿は、さらにリッキーの添削を受けた。原稿はかなりズタズタにされ、大
幅な書き直しをしなければならないことが多かった。マリコが見てくれるお陰で綴りや文
法上の間違いを直されることはなくなったが、小説の技法としてはまだまだ幼稚なところ
があったからだ。ぼくが書き直した原稿をマリコはまた清書してくれた。
「悪いね」とぼくは言った。
「いいのよ」と彼女は言った。「楽しいもの」
「清書するのはリッキーが見てくれたあとでいいよ」
「平気よ。原稿がよくなっていくのを見るのは楽しいもの」
 こんなふうだから、母はマリコがぼくのことを好きなのだと思い込んでいた。母はマリ
コのことを気に入っていた。ぼくのほうがマリコにそれほどでもないらしいのが、母にと
ってはまたうれしかったのだ。
「あの子はいい子よ」と母はぼくに言った。「結婚するならああいう子がいいのよ」
「そりゃそうだろうね」とぼくは言った。「総愛学院のやつはみんなそう思ってるよ」
 それは本当だった。一の宮ミチコが卒業したら、マリコがミス聖書女学院に選ばれるの
は確実だったし、その年だって彼女は総愛学院のアンケートで《妹にしたい女の子》部門
と《結婚したい女の子》部門の第一位だったのだ。
 兄のガールフレンドもなかなかきれいだったが、母はあまり気に入ってなかった。日本
の母親は誰でも長男に執着する。母にとって兄は他の女に渡したくない男だったのだ。兄
がガールフレンドを心から愛しているのも、母の気に入らないところだった。兄は母のこ
ともすごく愛していた。彼が結婚するまでかなりの時間を必要としたのは、たぶんそのせ
いだったのだろう。

「リッキーはぼくが死神に取り憑かれてるって言うんだ」とぼくはマリコに言った。
「そう?」ぼくの原稿を清書しながらマリコが言った。
「もしかしたら一の宮のことを言ってるんじゃないかな」
 マリコは何も言わなかった。虻が一匹飛んできて、彼女の腕にとまった。よく晴れた午
後だった。バスケットボール部員たちは桃畑の草の上で昼寝をしていた。一の宮ミチコは
どこかへ出掛けていった。ぼくは何もすることがなくて、彼女の腕にとまった虻を眺めて
いた。
「彼女が池でぼくに『やるべきだ』って言ったときから、なんか変なんだ」
「彼女が?」とマリコは清書を続けながら言った。
「ぼくがさ。何を見ても前と違って見えるんだ」
「それはいいことかもしれないわよ」
「きみはどう? 何か変わったことない?」
「わたしは相変わらずよ。ただ毎日が楽しいだけ」
「ふうん」とぼくは言った。彼女の言葉は何となく的はずれだという気がしたが、どこが
どうおかしいのかはよくわからなかった。
 彼女の毎日は充実していた。明け方に起き、ミチコと自分の二人分の洗濯をしているの
をよく見かけた。洗濯をするときの彼女はすごくうれしそうだった。ミチコのテントの中
を掃除したり、毛布を干したりするのも彼女だった。毎晩ミチコのテントに泊まっていく
のもすっかり習慣になっていた。ミチコが眠るまで本を読んで聞かせているのだと彼女は
言っていた。
「彼女は意外と子供っぽい人なのよ」
「そんなこと続けてたらからだがもたないぜ」とぼくは忠告した。
 たぶん彼女は毎日四〜五時間しか寝ていなかった。
「でも全然疲れないのよ」と彼女は言った。
 眠りが深いから睡眠時間が短くても平気なのだというのが彼女の言い分だった。たしか
に彼女は少しスマートになったが、相変わらず大きな胸とお尻をしていたし、赤ん坊みた
いに血色がよかった。

 リッキーが悪魔はらいをしてくれる夢を見た。
 リッキーとぼくは駅から聖書女学院へ坂を上りきったところにある木立ちの中にいた。
「坊や、おまえは死神に憑かれてるんだ」と彼は言った。「そいつを追い出さないと死ん
でしまうよ」
「あんたがそんなこと言うなんて信じられないよ」とぼくは言った。「あんたはそんな迷
信家じゃなかったはずだ」
「おれは若い頃、死神が退治されるのを見たことがあるんだ」と彼は言い、昔目撃した死
神退治の話をしてくれた。
 場所はモンタナの荒れた土地にある小さな村だった。彼はまだそのときのぼくくらいの
歳だったが、その村の大工のところに一人で住み込んで手伝いをやっていたのだ。ある日
突然、親方の大工が暴れ出した。斧を振り回して村中を駆け回り、農家の女の頭を割って
しまった。彼は女の首のつけ根まで斧の刃が食い込むのを見た。大工がどうして狂ったの
か、理由はわからない。とにかく突然暴れ出したのだ。ヒゲ面の大男だった。ふだんはお
となしくて陰気な男だった。四十を過ぎてるのに嫁さんもいなかった」
「その大工が死神だったの?」とぼくはきいた。
「いいや、そいつに死神が取り憑いていたのさ」
「じゃあ、ぼくも突然人を殺すかもしれないの?」
「おまえはたぶん自分を殺すだろうね。自殺するのと人を殺すのは、大きな意味では同じ
ことなんだ」
 リッキーは自分のお腹を手で切り裂くまねをした。ハラキリのつもりだったんだろう。
 そこへ歳をとった坊主がやってきた。アメリカに布教に来た日本の真言宗の坊主だった
。そいつがマントラを唱えると、大工の動きが止まり、お尻のあたりから緑色をした小さ
な光がうんこみたいに落ちた。光は鬼みたいなかたちをしていた。坊主は持っていた杖で
そいつをぶった。鬼は両手で頭を抱えながら走っていってしまった。大工は魂が抜けたみ
たいにその場に坐り込んでいた。保安官に取り調べを受けたとき、彼は斧を振り回したこ
とは覚えているが、からだが勝手に動いて自分を抑えられなかったんだと言った。   
「嘘だあ」とぼくは言った。
「ほんとさ」
 その真言宗の坊さんは鬼を退治した呪文をリッキーにも教えてくれた。やたらと長いサ
ンスクリット語の言葉だった。オンバザラサトサトサクソワカ⋯⋯ノウポウアキャシャキ
ャラバヤオンアリキャマリボリソワカナンタラカンタラ⋯⋯彼はぼくのほうに手を伸ばし
て、目をつぶったままその呪文を唱えた。するとほんとにぼくの腰のあたりから緑色の光
る鬼が出てきた。
「きみは死神かい?」とぼくは鬼にきいた。
「そうだよ」と鬼は答えた。「でも頼むからぶたないでくれよ。痛いのにはすごく弱いん
だ」
「ぶたないから教えてくれよ」とぼくは言った。「このアメリカ人が追い出さなかったら
、きみはぼくの中で何をするつもりだったんだい?」
「おれはきみの元気をちょっといただいてただけなんだよ。これからだってたいしてひど
いことをするつもりはなかったんだ」
 鬼は小さくて、ほんとに醜い顔をしていた。小学校のときクラスでよくいじめられてた
やつみたいだった。いつも泣いてるような、恨んでるような変な顔をしているやつ。顔を
見ただけでいじめたくなるような⋯⋯。
「きみは一の宮ミチコにも取り憑いてるの?」とぼくはきいた。
「彼女にはもっと恐ろしいやつが入ってるよ」緑の鬼はちょっと恥ずかしそうに笑った。
「おれたちは性格によって取り憑く相手が違うんだ。きみみたいな弱虫にはおれみたいな
弱虫しか入れないんだよ」
「とっとと失せろ、このクソ野郎」とリッキーが鬼に言った。
 鬼はびっこを引きながら彼に近づいていき、突然彼のおちんちんに飛びついたかと思う
と消えてしまった。
「あんたに入っちゃったよ」とぼくは言った。
「なんてことはないさ」と彼は笑った。「おれは死神をたくさん飼ってるんだ」
 そのときぼくらは森の中にミチコを見た。彼女はジェーンみたいに素っ裸で、とても陰
気な顔でぼくらのほうを見ていた。口をすぼめて変な音の口笛を吹いていた。
 白っぽい犬が一匹、坂をゆっくり上ってきた。眼の細い、柔和な顔をした犬だった。ミ
チコは口笛でそいつをおびき寄せて首を絞めた。犬はしばらく脚をばたつかせていたが、
ゆっくりとおとなしくなっていった。
「犬を食おうよ」と彼女はぼくらに言った。「犬はうまいらしいよ。中国や朝鮮には昔か
ら犬の料理があるんだ」
 ミチコは登山ナイフで手際よく犬の皮を剥いでいった。毛皮を剥ぐと、中から桃色の乳
首をした大きなおっぱいが出てきた。
「だめだ、だめだよ、やめるんだ」ぼくは大声で叫んだ。
 その声で目が覚めた。ぼくはテントの中で汗をかいていた。夢の最後の場面がまだ目の
前にちらついていた。ぼくはひどいショックを受けていた。皮を剥がれていた犬がマリコ
だったからだ。

 ぼくの横では兄が江戸時代の夢を見ながら眠っていた。その頃の彼は毎日、江戸時代の
夢を見ていた。その夢があんまり楽しいので、彼はいつもぼくに自慢そうに話してくれる
のだ。そのときの夢は、彼が大商人の招きで吉原の遊廓に遊びに行き、ガラス張りの天井
に金魚や鯉がたくさん泳いでいる部屋で、すごい美人の花魁とうまいことやっているとい
った内容だった。その日の晩に彼がそう言ったのだ。彼はほかにもいろんな江戸時代の夢
を見た。蓮の花で埋め尽くされた不忍池に舟を浮かべて松尾芭蕉やその弟子たちと俳諧の
連句を詠んでいる夢や、江戸城の中で浅野内匠頭が吉良上野介に刀を振るっているのをう
ちの家族と一緒に見物しているといった夢だ。ふだんの兄はわりと神経質そうな顔をして
いたが、江戸時代の夢を見ているときの彼は、江戸時代の本を読んでいるときの彼と同じ
ようにリラックスしていた。

 外はやっと明るくなり始めた時間で、桃畑の草の上には薄く霧が漂っていた。ぼくはミ
チコのテントに行った。中にはマリコが一人で寝ていた。横向きにからだを丸め、パンテ
ィ一枚の裸でよじれた毛布を抱きしめながら静かな寝息を立てていた。赤ん坊みたいに毛
布の隅のほうを口にくわえていた。
「一の宮はどこ?」ぼくはマリコの肩を揺すりながらきいた。
 彼女が目を覚ますまでずいぶん時間がかかった。その間ぼくは彼女の寝顔を眺めながら
、桃の木で啼きだした小鳥たちの声を聞いていた。
「どうしたの?」目をあけたマリコが不思議そうにきいた。
「一の宮がいないじゃないか」
「きっと散歩よ」起き上がりながら彼女は言った。「この頃は毎日早起きして散歩するの
」 彼女のおっぱいは夢の中で犬の毛皮の中から出てきたのと同じかたちをしていた。
「ぼくらも散歩に行かない?」
「ちょっと待ってね」
 マリコは敷き布の上に正座して、枕もとにきれいに畳んである服を一枚ずつ着けていっ
た。スカートさえ膝をついたまま頭から器用に着てしまった。ぼくは女の子が服を着ると
ころを初めて見たのですごく感動した。
「ぼくらは今こそやるべきだと思うんだ」とぼくは言ってみた。
「嘘つき」彼女はぼくを見て笑った。
 彼女の言う通りだった。ぼくは全然勃起してなかったし、緊張さえ感じてなかった。た
だこういうケースでやろうとしないのは異常なんじゃないかという気がしただけだ。ぼく
は総愛学院に好きな男の子がいた。彼とはちょっと話すだけでも胸が苦しくなった。いや
、彼がその場にいてもいなくても、その頃のぼくはいつも胸が苦しくなるような思いを味
わっていた。好きになるというのはそういうものだということをぼくは知っていた。
「きみはぼくと全然やりたくない?」
「うん、全然」と彼女は確信を込めて言った。

 ぼくらは散歩に出た。ゴルフ場に行く途中、聖書女学院の校門の外に続いている林の中
にぼくらはリッキーとミチコを見つけた。リッキーはいつものように西部劇風の帽子をか
ぶり、素肌にくたびれたチョッキを着て、ウエスタン・ブーツをはいていた。いつものよ
うに下半身には何も着けていなかった。彼のペニスが大きく勃起してるのが見えた。ミチ
コは後ろ姿しか見えなかったが、文字通り何も着けていなかった。靴さえはいていなかっ
た。二人は十メートルほど離れて向かいあい、手を腰の後ろで組み、休めの姿勢で立って
いた。お互いの顔をじっと見つめていたが、一言も口をきかなかった。
 マリコはぼくの手を掴んで帰ろうとした。ぼくは逆にその手を引っ張って林の中に入っ
ていった。そこは夢の中でリッキーがぼくから緑色の鬼を追い出し、ミチコがマリコでも
ある白い犬を殺して皮を剥いだ場所だった。ぼくらはミチコの斜め後ろから近づいていっ
た。リッキーからは丸見えのはずだったが、彼はぼくらに全く気づいていなかった。ぼく
はマリコを引っ張って二人の中間地点まで行った。ぼくはミチコの顔を見た。彼女はリッ
キーとぼくらを同時に見ていた。つまり右眼でリッキーを見て、左眼でぼくらを見ていた
のだ。眼球の黒眼の位置がほんの少しずれただけなのに、彼女の顔は化け物みたいに見え
た。それでも彼女はぼくとマリコに何の反応も示さなかった。

「ひどいわ」とマリコが言った。「あんなところをわざわざ覗きに行くなんて」
 ぼくらは農園に戻ってきていた。彼女がぼくを引っ張ってきたのだ。彼女は泣いていた
。「彼らがぼくらに気づかないだろうって気がしたんだ」とぼくは言った。「事実その通
りだったじゃないか」
「わたしはああいうとこを見たくなかったのよ」
「ぼくは一の宮の眼が見たかったんだ。彼女はあのときも同じ眼をしていたんだよ」
 ぼくは池で釣りをしたときのことを話そうとした。マリコはそんな話は聞きたくないと
いうそぶりをした。
「わたしだって彼女がああいう眼をするのは見たことあるわよ」マリコは憤慨していた。
「何度も何度も見たわよ。数えきれないくらい」
「彼女が好きなら、どうして逃げたんだい?」とぼくは言った。「リッキーに取られても
いいのかい?」
「一の宮はリッキーのことなんて好きじゃないのよ」とマリコは言った。
「じゃあ、なおさら彼女にあんなことさせておくのはよくないじゃないか」
「あなたにはわからないわ」
「ああ、ぼくにはわからないよ」
「彼女はわたしのことも好きじゃないのよ」

 ぼくはリッキーのテントに行った。彼がしていることをジェーンに告げ口するのは気が
進まなかったが、何かしないではいられない気分だったのだ。マリコはぼくを引き止めよ
うとしていろんなことを言ったが、説得しながら後からついてきた。
 テントの中には変なものが置いてあった。白っぽい、何とも言えないかたちをした大き
な石みたいなものから、ごつごつした太い丸太みたいなものが四本突き出していて、それ
が縄でひとつにまとめられていた。脚が四本しかない大きなイカのお化けが暴れないよう
に縛られているといった感じだった。
 イカのお化けはいびきをかいていた。ぼくはしばらく何もしないでそこに立っていた。
テントの中は暗くて、お化けが何者なのか、いくら見つめてもはっきりしなかった。
 赤ん坊のジャネットは入口の篭の中にいた。もう目を覚ましていて、右手の親指を口に
加えながら「ワウワウワウワウ」と言っていた。マリコはジャネットを抱き上げた。
「よせよ」とぼくは言った。「泣きだしたら困るじゃないか」
「だって可愛いんだもん」とマリコがいつもとまるで違う高い声で言った。赤ん坊に頬ず
りしながら自分でも「ワウワウワウワウ」という声を出した。ジャネットも笑いながらそ
れに応えて「ワウワウワウワウ」と言った。
 自分が子供のくせに、赤ん坊を抱くと母親みたいになってしまう女の子がいる。マリコ
も小学校の頃から赤ん坊を見ると、からだがとろけそうになるタイプの女の子だった。
「おっぱいがほしいのかな」とマリコが言った。
 ジャネットがマリコの大きな胸に顔をくっつけて、ブラウスの上からおっぱいのてっぺ
んあたりをしゃぶっていた。マリコは自分のブラウスのボタンをひとつ外した。
「まさか自分のをやろうって言うんじゃないだろうな」とぼく。
「だって欲しそうにするんだもん」とマリコ。
「よせよ、おっぱいが出るわけじゃないんだぜ」ぼくは妙に慌てていた。
「しゃぶるだけでもいいじゃない」
 ぼくは彼女の大きなおっぱいからミルクが溢れるように出てくるところを想像した。ミ
ルクが入っていないなら、どうして彼女のおっぱいはあんなに大きかったんだろう?
 そのとき地面に転がっていたイカのお化けが、
「モゴモゴモゴモゴモゴ」と言った。
 ぼくは一歩後ろにさがった。後ろにいたマリコが半分テントからはみ出した。入口の布
が少しまくれあがって中に光が入ってきた。お陰で足元に転がってるものが、イカのお化
けではなくジェーンだということがわかった。彼女はからだを大きく弓なりに反らせて両
手首と両足首を四本まとめてひとつにくくられていた。口には赤いバンダナの猿轡がして
あった。
「どうしたの?」とぼくは言った。
「モゴモゴモゴモゴモゴ」と彼女は言った。
 後ろで「モゴモゴモゴモゴモゴモゴモゴ」とジャネットが言った。振り返るとマリコが
ブラウスの胸を開け、ブラジャーを片方引き下ろして、大きなオッパイをジャネットに吸
わせていた。
「よせったら」とぼくは言ったが、マリコはこっちをちらっと見て笑っただけだった。
「モゴモゴモゴモゴモゴ」ともう一度ジェーンが声を出したので、ぼくは急いで彼女の猿
轡をほどいた。
「どうしたの?」もう一度ぼくはきいた。
「あのクソ野郎に縛られたのさ」とジェーンは言った。《クソ野郎》とは、状況から見て
リッキーのことに違いなかった。
「どうして?」とぼくはきいた。
「あのナメクジ野郎はもうあたしが相手じゃ立たないって言うんだ」ジェーンはもじゃも
じゃの黒くて長い髪を振り乱しながら言った。なんだか白人に捕まったインディアンの女
みたいだった。「だからあいつの言う通りにさせてやったのさ」
「そしたら、出て行っちゃったんだ?」
「何言ってるの。あいつは変態なんだってば。縛られた女じゃないと立たないんだよ」
「ふうん」とぼくは言った。
 ぼくは木立ちの中でミチコと向かいあって立っていたリッキーのことを思い出した。あ
そこに縛られた女はいなかったが、彼はちゃんと勃起していた。それまでにもぼくは彼が
勃起するのを何度も見ていたが、縛られた女がいたことはなかった。ぼくは縛られたジェ
ーンの変な格好をもう一度じろじろ見た。マリコのほど大きくはないが、ミルクの一杯詰
まったおっぱいが敷き布の上で潰れていた。敷き布には黒い染みが広がっていた。ミルク
がしみ出していたのだ。テントの中には甘いミルクの匂いが漂っていた。まるで後ろにい
るマリコが本当にミルクを飲ませてるみたいだった。
「何じろじろ見てるんだよ」とジェーンがとがめるように言った。「早く縄をほどいとく
れよ」
 ぼくはすごく狼狽していた。からだ全体が痺れたみたいになって、手が思うように動か
なかった。彼女の縄をほどいているあいだ、手が彼女の柔らかいからだに触れるたびに息
が止まりそうになった。ぼくは大きく勃起していて、彼女の大きなお尻やその下に開かれ
た黒い陰毛だらけの性器からどうしても目が離せなかった。
 それにしてもどうして彼女はあんな格好で縛られたまま眠ることができたんだろう?
「リッキーはね⋯⋯」とぼくが言った。
「散歩してたわ、坂道のあたりを」ぼくを遮ってマリコが言った。
「知ってるよ」ジェーンが立ち上がってマリコから素早く赤ん坊をひったくった。「あの
おまんこ野郎が何してるかくらいはね」
 彼女は素っ裸のまま地面にうずくまって娘に本物のおっぱいをやった。「モゴモゴモゴ
モゴモゴ」とジャネットは言った。ぼくは石器時代の住居を覗き見してるみたいな気がし
た。
「あんたもあの蛆虫野郎みたいになりたくなかったら」とジェーンが言った。「ちゃんと
女を好きにならなきゃだめだよ」
「うん」とぼくは言った。

           ★

 ぼくはリッキーを責めるべきだったんだろうか? 妻のジェーンを悲しませたことで?
 一の宮ミチコと何となく変なことをしていたことで?
 あれが本当は何だったのか、結局のところわからずじまいだった。リッキーは、あのと
きミチコと何をしていたのか、何をするつもりだったのか、そしてぼくらが行ってしまっ
た後で実際に何をしたのか、一切話そうとしなかった。ぼくもまた、何もきかなかった。
よくわからないまま確かめようがなくなってしまう謎というのがある。今ではこれも確か
めようがない。二十年も時がたってしまったし、当人たちはもういない。どうしてあのと
き確かめておかなかったのか、今では不思議でしかたないが、あのときはそんな風には考
えなかった。たぶん一九六八年には気になることがほかにたくさんあったのだ。

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