イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

シチリア紀行2006

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マドンナ・デッレ・ラクリメ聖所記念堂のすぐ横に、市街地の跡らしい遺跡があった。何の説明もないのでギリシャ時代のものなのか、ローマ時代のものなのかすらわからない。

カトリック教会によるローマ乗っ取りとローマ的なものの破壊はコンスタンティヌスの死後急速に進んでいったが、カトリックの奇跡の記念堂の横で、古代遺跡がほったらかされているのを見ると、その破壊が今も続いているような錯覚に陥る。

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シラクーサの出土品を見ようと博物館に行ってみたら、ちょうど閉館するところだった。午後はしめてしまうらしい。ギリシャ劇場やローマ闘技場に長時間居すぎた。まあ、そんなに考古学に興味があるわけでもないので、あっさりあきらめて帰ることにする。

近くにあるアルキメデスの墓もパス。ガイドブックによるとどうも何の根拠もない偽物らしい。

旧市街に戻る途中で場違いにモダンな塔に出くわした。昨日バスでシラクーサに入ったときに見かけた塔だ。島でジョギングをしているときにもはるか遠くに見えていた。

ガイドブックには「マドンナ・デッレ・ラクリメの聖所記念堂」で、高さ90m。1953年に起こった奇跡を記念して建立されたとある。中に入ってみると、新興宗教によくありそうながらんとした空間で、所々に小さな礼拝所みたいなものが設けられている。そのひとつの横に「1953年このマリア像から涙が流れ出した」といった説明が掲げられていた。

そんなことでこんな巨大な塔を建ててしまうのだから、イタリア人・ヨーロッパ人にとってローマカトリック教会はまだまだ一大勢力なのだろう。

三位一体説をとるカトリックが唯一正統な宗派と認定されたのは、324年コンスタンティヌスが招集したニケーアの公会議だ。キリストは神ではないとするアリウス派は異端とされた。

三位一体とは神と精霊とキリストを同一のものとする考え方だ。これに対してアリウス派はキリストも預言者・指導者のひとりであるとする。どっちでもいいじゃないかという気もするが、よくよく考えるとそこには面白いからくりが隠れている。

キリストも人であるということは、キリストの考え方を実践することでキリストのようになれるということだ。つまりアリウス派とはキリストの教えを実践する人たちだった。

それに対してカトリックはキリストの真似なんかしないで神として祈ることを強要する。信者は難しいことを考えずに教会に服従し、祈ればいいのだ。そこには思考停止がある。

コンスタンティヌスがカトリックを選んだのはそのためだ。思考停止して組織に服従するカトリックは、国民を帝国に服従させるのに便利だった。

面白いのはコンスタンティヌスの一家が、それまでアリウス派だったことだ。当時帝国内にはキリスト教の分派がたくさんあったが、アリウス派は最も大きな勢力だったという。

コンスタンティヌス自身が正式に洗礼を受けるのは死の直前だが、それは皇帝としての権力を行使するのに、信者という立場が邪魔だったからで、彼自身は母親など家族によって子どもの頃からアリウス派の教えに慣れ親しんでいた。

それをあえて捨てて、カトリックを帝国の公式システムに採用したのは、ひとえに帝国のためだった。

アリウス派とカトリックの違いというのは、キリスト教徒でないぼくにはあまりピンと来ないのだが、仏教に置き換えてみると多少わかりやすくなる。アリウス派とは仏教で言えば自分の努力で悟りを開き、仏になることをめざす小乗仏教であり、カトリックとは仏を拝んで救われようとする大乗仏教のようなものだ。

大乗仏教にもカトリックにも努力があり、修行もあるだろうが、教祖と同じ努力をして教祖と同じところへたどり着こうという意識は最初から放棄されている。教祖は神であり、神になろうとする努力は罪ですらある。

小乗仏教というと、タイの仏教のように信徒全員に出家を求める宗派のことを指すが、禅宗なども自分で悟りをめざすという意味では、アリウス派・小乗仏教の部類に入るだろう。

ぼくはイエス・キリストという人物が新約聖書の伝えるとおりに実在したかどうかにはあまり興味がないのだが、たぶんキリスト教の教祖のような人が弟子たちに説いたのは、どちらかといえばアリウス派に近い教えではなかったかと思う。

仏教でも儒教でも、組織が巨大化し、弟子から信徒への伝言ゲームが代を重ねるにつれて、教えは単純化され、思考停止して言われたことを守る、あるいは教祖を人間以上の存在にまつりあげて拝む傾向が強くなるのだが、同じことがキリスト教にも起きたのだろう。

もうひとつ、カトリックによって異端とされ、激しく弾劾されている宗派にグノーシス派というのがある。これにはいろいろな分派があって、一括りにするのは難しいのだが、共通しているのはアリウス派よりキリストを神秘的な存在ととらえ、それに近づくためには神秘的な秘技が必要だと考えることだ。仏教で言えば密教のようなものと言えるかもしれない。

グノーシス派はこの世界を動かしている隠れた真実・原理があると考える。ユダヤ教にもそういう神秘主義の一派があるから、その影響を受けて生まれたのかもしれない。

時代がぐっと下がって、ルネッサンス期から近代にかけて生まれた様々なキリスト教神秘主義の秘密結社はみんなこのグノーシス派を源流としている。少なくともそう主張している。

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考古学地区から出て博物館の方へ歩いていくと、陸上競技場があった。たくさんの人でにぎわっている。さっき島を出るとき見かけたマラソンのゴールがここらしい。

すでにほとんどの選手はゴールしていて、今競技場に入ってくるのは完走がやっとの人たちだ。ほとんど歩くようなスピードでやってくる。遅くゴールする選手を賑やかな喝采で迎えるのはどこの国も同じだ。

2時間台、3時間台でゴールする選手に比べて、5時間かかる選手はスピードは遅いが決して楽に走っているわけじゃない。むしろ時間がかかるほど長く苦しい思いをしているのだから、その努力は速い選手以上に称賛に値する。

ぼくが最後にマラソンを走ったのはいつだろう?
たぶん1998年のつくばマラソンが最後だ。
それ以後は、トライアスロンの中で42km走っているが、それも2003年のアイアンマン・ジャパンが最後だ。

仕事に追われてトレーニングが満足にできなくなり、そのうちトレーニングをちょっとがんばると体調を崩すようになり、気がつけばもう3年レースに出ていない。こうしてレースでがんばっている人を見ると、またやってみたいという気持がわいてくるのだが、これまで何度となくマラソンやトライアスロンを完走したことがなんだか他人ごとのようにも思える。

たしかにマラソンやトライアスロンをやっているときの自分は別の人格なのだ。そうでなければあんなこと、できるもんじゃない。

あの頃は客先にデイパックをかついでいき、打ち合わせが終わるとランニングウエアに着替えて家まで走って帰ったりしていた。今は恥ずかしくてとてもできない。

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とにかく、ネロによるキリスト教徒虐殺は宗教的迫害というより、皇帝の陰謀によるとばっちりだった。放火の真犯人がネロであることはローマ市民に知れ渡っていたし、濡れ衣を着せられたキリスト教徒に同情する人も多かったという。

本格的な宗教としての迫害が始まるのは250年、3世紀半ばになってからだ。領土拡大の時代は遠い過去になり、異民族の侵入を防ぐのが精一杯という時代になっていた。経済は停滞し、軍隊では給料の不払いや不満分子の反乱が起き、弱体化した軍隊はゲルマン人に敗北を喫するようになった。

社会不安がふくれあがっていくにつれて、キリスト教は勢力を拡大していく。「悪いことが起きるのは自分たちの行ないが悪いからだ。この世はもうすぐ終わり、神の裁きが下る。悔い改めよ。さもないと永久に地獄に堕ちる」というキリスト教の主張がどんどん真実味を帯びてきたからだ。

最初は帝国の恩恵を受けない貧民層に広まったキリスト教は、次第に中流・上流階級にまで浸透していく。帝国の衰退期に「この世の終わり」の不安をより強く感じていたのは、帝国の富と繁栄を享受していた階級だった。そして帝国の辺境で生命の危機にさらされながら異民族と戦い、ときにはローマ人同士の内戦にも駆り出された軍人たちも、絶望の救いをキリスト教に求めるようになった。

ローマ市民に影響力を拡大していくにつれて、キリスト教は帝国にとって危険な存在になっていった。キリスト教会がローマ帝国に反旗を翻したことは一度もなかったが、「キリストの教えに背くので、人を殺す兵役には就けない」といって、ローマ市民としての義務を拒絶する教徒が出てくるようになった。軍にもたくさんのキリスト教徒がいたというから、軍務を拒否しない教徒もたくさんいたのだろうが、こういうことがあまりはびこりだすとローマ帝国は成り立たなくなってしまう。

しかし、辺境の防衛戦が異民族によって破られたり、1人の皇帝による統治が不可能になって帝国が東西に分割され、東西ローマ帝国それぞれを正帝・副帝が統治したり、互いに争ったりするといった権力側の混乱もあり、キリスト教迫害はそのたびに尻すぼみになってしまう。

キリスト教徒は迫害され、殺されれば殉教者として天国行きを約束されると信じているのだからやりにくい。

そして313年コンスタンティヌス大帝の勅令によって信仰の自由が認められ、迫害の時代は終わる。それどころかコンスタンティヌスは実質的にキリスト教を国教とし、教会組織を帝国統治システムそのものに置き換えてしまう。そこからキリスト教は迫害される側から迫害する側へ、ローマ帝国そのものへと大変身する。

我々が知っているキリスト教はこの大転換を経たキリスト教だ。すでにローマ帝国は滅び、それ以後ヨーロッパと世界を支配した帝国も姿を消し、カトリック教会もほかの宗派も一応どこの国家権力とも距離を置いているが、それでも何か大切なものが変質してしまっている。

ぼくが数日前から堂々巡りを繰り返しているのは、イエス・キリストという人間が本当に実在したのかとか、実は結婚していたんじゃないかといった問題ではない。宗教や民族や国家とは別の、もっと普遍的なシステムがキリスト教のむこうに見え隠れしているのだ。

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ローマ史に記されている最初の大規模なキリスト教徒迫害・殺戮は、悪名高い皇帝ネロによるもので、紀元64年、キリスト教徒は闘技場に放り込まれ、猛獣に食い殺され、ローマ市民たちはそれを楽しんだという。あるいは磔にされ、火あぶりにされた信徒たちもいた。

ネロのキリスト教徒殺戮は後にキリスト教社会の歴史書で派手に喧伝されたために、一番有名なキリスト教徒迫害として知られている。しかし、その実態は迫害とは少し違うようだ。

ネロの時代、つまり1世紀後半のキリスト教はまだローマ帝国の中では少数派であり、「悔い改めよ、神の国は近づけり」という傲慢でおせっかいな主張がローマ社会で胡散臭く見られてはいたが、帝国にとってもローマ人にとっても脅威ではなかった。

ネロの残虐なキリスト教徒殺戮は、彼自身によるローマ市街中心部の放火の罪を転嫁するためだった。ネロは自分の理想通りに造りかえるため、ローマ市街を大火で焼き尽くし、その罪を当時ローマ市民に不気味な印象を与えていた異分子のキリスト教徒になすりつけたのだった。

ネロは火事でできた広大な空き地に「黄金宮殿」と呼ばれる壮大な宮殿を建造した。庭園の池は軍艦を浮かべて海戦ショーができるほど巨大だった。

しかしまもなくネロは暗殺され、帝国の公式記録からその存在がそっくり抹消されてしまう。別にキリスト教徒虐殺の罰が当たったわけではなく、皇帝として無能だったために、帝国の内外であれこれ問題を起こしてしまったからだ。

「黄金宮殿」はすぐに取り壊され、庭園の池の跡には巨大な闘技場が建設された。これが今も残るコロッセオだ。したがってキリスト教徒が猛獣に食われた闘技場はこのコロッセオではない。現在のバチカンがあるあたりにあったと言われている。キリストの直弟子であるペテロもそこで磔にされて殉教した。後にサンピエトロ教会が建てられるのは、そこがペテロの殉教地だからだ。


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