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わらぶき屋根の建物に入ってみる。
明治時代の政治家の別荘だから、いかにもそれらしい一見質素で実は贅沢なたてものだ。入ってすぐ左手に、取って付けたような祭壇みたいなものがあり、祗王、その妹の祗女、母親、そして平清盛の小さな木像が並んでいる。真ん中に一応大日如来像が祀られているが、これがなかったら寺とは言えないところだ。
ここは元々往生院という浄土宗の寺だったが、時代と共に廃れて小さな尼寺として残り、のちに祗王寺と呼ばれるようになったとのこと。名前の由来は、平清盛に寵愛され、捨てられた白拍子(歌・踊りなどの芸をする遊女)祗王が、母・妹と出家して尼として棲んだという言い伝えから来ている。
「平家物語」によると、平清盛全盛の頃、都で評判の祗王・祗女という姉妹の白拍子がいた。近江の国(今の滋賀県)野洲江辺庄の生まれで、父は庄司つまりその一帯を管理する役人だったというから元々は武士の家柄だったらしいが、この父親が何か罪を犯したと言うことで北陸に流されたので、母娘で京都に出て白拍子になった。
これが清盛に気に入られ、毎月百石百貫の手当てをもらって贅沢な暮らしをしていた。この百石百貫がどのくらいの価値なのかよくわからないが、数字はただの語呂合わせで、とにかく遊女あがりの愛人としてはものすごい額ということなのだろう。「平家物語」は伝説・風聞の集成なので、細かい事実関係はあまり追求しても意味がない。
清盛がどれくらい祗王に心を奪われていたかというと、たとえばあるとき清盛が祗王に何かほしいものはないかときくと、祗王は「自分の故郷は水の便が悪くて作物が育たず住民は飢餓に苦しんでいるので、治水工事をしてほしい」と頼んだ。すると清盛は野洲川から三里の運河を掘らせて水を通した。里人はこれに感謝して、運河を祗王川と名づけたという。
しかし、いいことは長く続かない。
あるとき加賀(今の石川県)から、仏御前という白拍子が都にやってきて、きよもりに舞をお目にかけたいと申し出た。清盛は祗王がいるんだからだめだと門前払いしようとしたが、祗王がとりなしたので、呼び入れて今様(当時の流行歌)を歌わせた。それがあまりにうまいので、清盛はたちまち心を奪われて、仏御前に心を移してしまった。祗王はたちまち寵愛を失い、屋敷を追い出されてしまった。
ところがしばらくして清盛から祗王のところに使者が来て、「仏御前が退屈してるから、舞でも見せて楽しませてくれ」という言葉を伝えた。祗王はいやだったが、権力者に逆らうとまずいと母親が言うので、しかたなく元々自分が住んでいた屋敷に行って、歌と舞を披露した。
そのときの歌はアドリブなのか、用意していったのか、とにかく祗王の創作で、
仏もむかしは凡夫なり われらも遂には仏なり いずれも仏性具せる身を 隔つのみこそ悲しけれ
という歌詞だった。表面上の意味は「仏陀も元々は人間だし、私たち人間も死ねば仏になるんだから、どっちも仏としての素質を持っているんだけど、今のはなんという隔たりでしょう」という、仏教的な内容なのだが、もちろん裏には「仏御前も私も元は同じ白拍子なのに、今はなんという立場の違いでしょう」という、恨みがましい意味がある。これにはその場にいた清盛の家臣たちも涙を流したという。
祗王はもう二度とこんなことはご免だと、母妹と都を出て嵯峨の山里で髪を剃り、尼となった。
あるとき母娘3人で念仏を唱えているところへ、竹の網戸をたたく者がいた。開けてみると、なんと仏御前だった。祗王を見て無常、つまり世のはかなさを感じ、自分も出家したいというのだ。被っていた衣をとると、すでに髪を剃っていた。仏御前17歳、祗王21歳、祗女19歳、母45歳だったというから、みんなとんでもなく若い。白拍子というのはいわば歌って踊るアイドルだから若いのもあたりまえかもしれない。まあ、高級娼婦でもあったらしいから、そう考えるとけっこう刺激的だ。
というわけで、この4人の女は、清盛の権勢に背を向けて一緒に暮らし、仏の道を貫いたという。
これが「平家物語」の有名な「祗王」の章のあらすじだが、不可解なのはこの祗王寺の木像に、清盛の像もとってつけたように入っていることだ。しかも、正面から見えない柱の陰に置かれている。これらの木像は明治時代に寺が再建されるまでは大覚寺に保管されていたというが、いつの時代のものかはわからない。
そもそもこういう物語が本当にあったことなのかすらさだかではないのだが、とにかく女4人がせっかく清盛に背を向けて往生を遂げたというストーリーなのに、清盛が加わってはなんだか男女のドロドロ関係が持ち込まれたようで違和感がある。まあ、それがこの寺の色気だといえばたしかにそうなのだが。
清盛像を加えた側から言えば、清盛も歳をとってから出家したし、今となっては死んであの世に行った人なんだから、祗王・仏御前と極楽浄土で和解してもいいじゃないかということなのかもしれない。
日本の仏教はこういうところが寛容だ。それが長続きしている理由かもしれない。
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