イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

京嵯峨野2008冬

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

わらぶき屋根の建物に入ってみる。

 明治時代の政治家の別荘だから、いかにもそれらしい一見質素で実は贅沢なたてものだ。入ってすぐ左手に、取って付けたような祭壇みたいなものがあり、祗王、その妹の祗女、母親、そして平清盛の小さな木像が並んでいる。真ん中に一応大日如来像が祀られているが、これがなかったら寺とは言えないところだ。

 ここは元々往生院という浄土宗の寺だったが、時代と共に廃れて小さな尼寺として残り、のちに祗王寺と呼ばれるようになったとのこと。名前の由来は、平清盛に寵愛され、捨てられた白拍子(歌・踊りなどの芸をする遊女)祗王が、母・妹と出家して尼として棲んだという言い伝えから来ている。

 「平家物語」によると、平清盛全盛の頃、都で評判の祗王・祗女という姉妹の白拍子がいた。近江の国(今の滋賀県)野洲江辺庄の生まれで、父は庄司つまりその一帯を管理する役人だったというから元々は武士の家柄だったらしいが、この父親が何か罪を犯したと言うことで北陸に流されたので、母娘で京都に出て白拍子になった。

 これが清盛に気に入られ、毎月百石百貫の手当てをもらって贅沢な暮らしをしていた。この百石百貫がどのくらいの価値なのかよくわからないが、数字はただの語呂合わせで、とにかく遊女あがりの愛人としてはものすごい額ということなのだろう。「平家物語」は伝説・風聞の集成なので、細かい事実関係はあまり追求しても意味がない。

 清盛がどれくらい祗王に心を奪われていたかというと、たとえばあるとき清盛が祗王に何かほしいものはないかときくと、祗王は「自分の故郷は水の便が悪くて作物が育たず住民は飢餓に苦しんでいるので、治水工事をしてほしい」と頼んだ。すると清盛は野洲川から三里の運河を掘らせて水を通した。里人はこれに感謝して、運河を祗王川と名づけたという。

 しかし、いいことは長く続かない。

 あるとき加賀(今の石川県)から、仏御前という白拍子が都にやってきて、きよもりに舞をお目にかけたいと申し出た。清盛は祗王がいるんだからだめだと門前払いしようとしたが、祗王がとりなしたので、呼び入れて今様(当時の流行歌)を歌わせた。それがあまりにうまいので、清盛はたちまち心を奪われて、仏御前に心を移してしまった。祗王はたちまち寵愛を失い、屋敷を追い出されてしまった。

 ところがしばらくして清盛から祗王のところに使者が来て、「仏御前が退屈してるから、舞でも見せて楽しませてくれ」という言葉を伝えた。祗王はいやだったが、権力者に逆らうとまずいと母親が言うので、しかたなく元々自分が住んでいた屋敷に行って、歌と舞を披露した。
 そのときの歌はアドリブなのか、用意していったのか、とにかく祗王の創作で、

仏もむかしは凡夫なり われらも遂には仏なり いずれも仏性具せる身を 隔つのみこそ悲しけれ

という歌詞だった。表面上の意味は「仏陀も元々は人間だし、私たち人間も死ねば仏になるんだから、どっちも仏としての素質を持っているんだけど、今のはなんという隔たりでしょう」という、仏教的な内容なのだが、もちろん裏には「仏御前も私も元は同じ白拍子なのに、今はなんという立場の違いでしょう」という、恨みがましい意味がある。これにはその場にいた清盛の家臣たちも涙を流したという。

 祗王はもう二度とこんなことはご免だと、母妹と都を出て嵯峨の山里で髪を剃り、尼となった。

 あるとき母娘3人で念仏を唱えているところへ、竹の網戸をたたく者がいた。開けてみると、なんと仏御前だった。祗王を見て無常、つまり世のはかなさを感じ、自分も出家したいというのだ。被っていた衣をとると、すでに髪を剃っていた。仏御前17歳、祗王21歳、祗女19歳、母45歳だったというから、みんなとんでもなく若い。白拍子というのはいわば歌って踊るアイドルだから若いのもあたりまえかもしれない。まあ、高級娼婦でもあったらしいから、そう考えるとけっこう刺激的だ。

 というわけで、この4人の女は、清盛の権勢に背を向けて一緒に暮らし、仏の道を貫いたという。

 これが「平家物語」の有名な「祗王」の章のあらすじだが、不可解なのはこの祗王寺の木像に、清盛の像もとってつけたように入っていることだ。しかも、正面から見えない柱の陰に置かれている。これらの木像は明治時代に寺が再建されるまでは大覚寺に保管されていたというが、いつの時代のものかはわからない。
 
 そもそもこういう物語が本当にあったことなのかすらさだかではないのだが、とにかく女4人がせっかく清盛に背を向けて往生を遂げたというストーリーなのに、清盛が加わってはなんだか男女のドロドロ関係が持ち込まれたようで違和感がある。まあ、それがこの寺の色気だといえばたしかにそうなのだが。

 清盛像を加えた側から言えば、清盛も歳をとってから出家したし、今となっては死んであの世に行った人なんだから、祗王・仏御前と極楽浄土で和解してもいいじゃないかということなのかもしれない。
 日本の仏教はこういうところが寛容だ。それが長続きしている理由かもしれない。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

祗王寺に着いた。

ここもかなりの侘びさび系だ。

「平家物語」に出てくる平清盛の愛人・祗王が、清盛に捨てられて出家した寺だというが、入り口でくれたパンフレットによると、オリジナルの寺はとっくに廃寺になり、今の祗王寺は明治28年、元京都府知事が嵯峨の別荘の一棟を寄進して再建されたものだという。つまりこの侘びさびは、明治のものなのだ。

庭は苔にびっしり覆われて美しい。枯れ木の多くは楓らしく、初夏には新緑、秋には紅葉が素晴らしいのだとか。まあ、そういうハイシーズンには人でごった返すだろうから、ぼくみたいなひねくれ者には冬枯れの時期がお似合いだ。

どこかで焚き火をしているらしく、あたりには白っぽい煙がたちこめていて、斜めにさしてくる陽射しに木々が影のように見える。こういう美しさも冬ならではかもしれない。

牡丹だか芍薬だか、淡い紅色の花が霜よけの藁に守られてけなげに咲いていた。たしか晩春か初夏の花だと思うのだが、冬枯れの景色の中で赤い花を見ると、とても官能的な感じがする。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

落柿舎の外は野菜畑だ。冬の畑というのはなかなか美しいと思う。特に小松菜とか白菜に霜が降りているような冬の朝は。

小学生の頃1年間だけ京都のはずれに住んだことがあるが、まわりにはこんな感じの畑がたくさんあった。冬の野菜畑を見ながら学校に行くのが楽しかったのを覚えている。

角を曲がってさらに北へ向かうと、道の両側には薄暗い杉並木が続く。とたんに自分が山の中に入り込んでしまったような気がしてくる。

二尊院というなかなかいい感じのお寺があったが、この先にもっと見たいものがいろいろあるのでパス。嵯峨野で立ち寄るなら、立派な門のあるお寺より、隠遁所みたいなお寺がいい。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

 角々にある小さな案内板を頼りに歩いていくと、冬枯れの木にたくさん実を残した美しい柿の木があった。垣根の中にわらぶき屋根が見える。芭蕉の弟子、向井去来の住居跡「落柿舎(らくししゃ)」だ。芭蕉も三度訪れているとのこと。

 名前の由来は庭にあった四十本の柿の木が一晩で実をすべて落としたことに由来する。入り口でくれた資料によると、都から来た商人が一貫文で柿の実をすべて買い取る約束をしたその夜のことだったという。

 これが売られることに対する柿の抗議行動だったのか、どうせもがれるなら収穫の手間を省いてやろうという、柿の親切心から出た行動だったのかよくわからないが、翌日商人が来て柿の木をつくづく眺め、「長年この商売をしてきたけど、こんなに柿が落ちるのは初めて見た。悪いけど昨日のお代を返してもらえませんか」と詫びを入れたという。

 どうやら商人は柿の抗議行動と受け取ったらしい。どうせ落ちてしまったのだから、柿の実をもらわずに帰るのももったいない話だし、落ちた柿は商品にならないから金を返せというなら詫びるのも変な話だが、去来は金を返してやったという。

 釈然としないまま敷地内に入ると、知り合いを案内してきたらしい事情通のおじさんが、「四十本の柿の木を売ろうとしたら、一晩で実が全部落ちてしまったという言い伝えが……」と説明していた。
 もしかしたらこちらの方が正しいのかもしれない。商人が買おうとしたのは柿の実ではなく、木そのものだったということになる。それなら商人があきらめたことも、去来が金を返したことも納得がいく。
 この「商人」は果物の卸屋ではなく、農家に柿の木を売るビジネスをしていたのだろう。

 資料によると、現在の建物は去来より百年くらい後の子孫が再建したものらしい。それでも明和7年(1770年)というから、明治維新の百年前、江戸時代の中期だ。
 わらぶき屋根の農家みたいな建物が敷地の中に二棟ある。どれだけ去来の住まいを正確に再現したものなのかはわからないが、当時の教養も金もある人が京都でどんな隠棲生活を送ったかを知る手がかりにはなる。

 去来の先祖は南北朝時代に九州に移り住んだ武士だった。祖父が長崎に移り、父は儒学者兼医師で、京都に上り名医として知られた。青年時代の去来は、資料に「武芸に専心し、その名声鎮西に知られた。父の死後上京し、軍学、有職故実、神道を学んだ」とあるから、父とは別に九州で育ったらしい。どうやって収入を得ていたのか、これだけではよくわからないが、多くの芭蕉の弟子のような豪商ではなかったらしい。それでも引退して嵯峨野に庵を結ぶことができたのだから、金には困らなかったのだろう。

 この農家風の建物も、去来時代のものをリアルに再現したものだとすれば、百姓でもないのに侘びさび系の簡素な家に住む教養人の嫌味な趣味という印象も受ける。権力者足利義政から豪商千利休、武士くずれの芭蕉・去来、大スター大河内伝次郎まで、歴代の趣味人に共通するねじくれた価値観がしっかり受け継がれてきたのにはつくづく驚く。

 ぼくが空想するレトロエコノミクスも、この伝統的な後ろ向きの価値観の流れに位置しているのかもしれない。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

常寂光寺を出て、農村のような山麓の住宅街のような、緑に覆われたのどかな風景を楽しみながら歩く。

ところどころに何かの工房なのか、工芸品を売る店なのか、それとも侘びさび系の飲食店なのか、明らかに普通の民家とは違う建物があるのだが、つぶれたのか冬だからなのか、どこも戸締まりをして人の気配がない。

植え込みにカラスウリやヤマブドウか何か、山の実りを飾ってあるのが美しい。

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
shu*i*ha*a
shu*i*ha*a
男性 / B型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

Yahoo!からのお知らせ


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事