イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

失われた時探訪

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塀越しに大きなあざみの花が顔をのぞかせていた。


このトゲトゲした感じ、

写真では出ない紫の官能的な色合い。


立ち止まってしばし眺め、

写真を何枚も撮った。

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戒壇堂を出て駅方面へ戻る。


途中、まだ東大寺の敷地内なのか、それとも周辺の住宅地なのか、

古めかしい屋敷が並ぶエリアを歩いていると、

まるでアート作品みたいな壁を発見した。


時の経過はこういうものを創り出すからすごい。

めざとい芸術家、工芸家なんかが、

こういうものにヒントを得て、

作品に取り込んできたんだろうな。

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雨が小降りになったところで、東大寺の広大な敷地内を散歩する。

一昨年に参拝した大仏殿にもう一度入ることはせず、

池越しにその堂々とした屋根を拝み、

僧侶に位階を授ける戒壇堂をのぞいたりした。

大仏殿にはこんな雨の日でも長蛇の列ができていたが、

それ以外の敷地は人影もまばら。

古都の雰囲気を楽しむならこういう散歩もわるくない。

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天気予報は曇りだったのに、多聞山/若草中学をあとにした頃からポツポツ雨が降ってきた。

さっき通った転害門(てがいもん)にもう一度寄ってみる。

天皇が平城宮から東大寺に行幸する際に通る門だったとのこと。



平安末期や戦国時代に大仏殿など東大寺の伽藍が焼き討ちされたときも戦火を免れ、

解体修理はされているようだが、

基本的に天平時代の建物が保存されているらしい。



ということで、街中にポツンと立っているにもかかわらず、

正倉院と並ぶ貴重な建築なわけで、国宝に指定されている。



仏教寺院なのに神社みたいなしめ縄が張られているのが、

ここより内側のエリアが、

天皇/神の居場所=神域であるという意思表示みたいに思えておもしろい。



太い柱の一部には節が荒々しく飛び出したままの木が使われていたりして、

これが天平時代の素朴さを物語っているのか、

それとも鎌倉時代かそこらに補修したとき、

あんまりコストをかけられなくて、こんな木材で間に合わせたのか……



なんてことを考えながら、門のまわりをグルグル回っているうちに、

雨はいよいよ激しくなり、

そのうちバケツの水をぶちまけるような豪雨が襲ってきた。

しかたなく、わかの小さな通用門みたいな部分の軒下で雨宿りする。



老人たち5〜6人のグループが東大寺の方からやってきて、

ひとりの歴史マニアっぽい人が資料を取り出しながら説明を始めたが、

傘をさしていられないくらいの豪雨なので、

すぐに見学をあきらめ、狭い軒下にかたまって雨がおさまるのを待ち始めた。



しかし、雨はますます激しくなり、

傘をさした小学生たちがずぶぬれの姿で通過していく。

それでもぼくら大人を見ると、「こんにちは」と礼儀正しく挨拶する。



東京ではこういう子供を見かけなくなったが、

地方に行くと、今でもときどき出会う。

精神的に豊かな生活を送っている地域なのだろうなとそのたびに感じる。



そのうち東大寺からなだらかに下っている斜面の通路全体が川のようになってきた。

側溝を流れてきた水は、クランク状に曲がっている場所にぶつかって、

竜みたいに暴れながら氾濫している。



西の方、市街地から鹿が数頭やってきた。

転害門で雨宿りしようと考えたのかもしれないが、

あいにく人間たちに占領されてしまっているので、

そのまま豪雨の中を走り去っていった。



さらに洪水は激しさを増し、

足元にも水が迫ってきたので、

肩の高さくらいある転害門の土台によじ登った。



土台には柵がめぐらしてあり、

「柵の中に入らないでください」という看板が立っているのだが、

柵の外に立っている分にはいいだろうと考えたのだ。



老人グループもほぼ同時に土台によじ登った。



時刻はまだ3時くらいだが、あたりはもう夕暮れどきのように暗い。

そのうち近くの鉄柱の照明がついて、門全体を明るく照らし出した。

どこかで何かスピーカーの声が聞こえる。



小学校かどこかで「早く下校しなさい」あるいは

「どこそこに避難しなさい」みたいなことを言っているのかなと思っていたら、

声がだんだん大きくなり、

「こらあ、早くおりんかあ」みたいなことを叫んでいるのが聞き取れた。



よく見ると、照明がついている鉄柱の上に監視カメラとスピーカーがあり、

我々をどやしつけているらしい。



「柵の中に入ってるわけやなし、べつにええやんけ」などとつぶやきながら、

そのまましばらく突っ立っていたが、

老人たちが「あ、おこってはるわ」と大人しく降りたので、

ぼくも先輩方に敬意を表して土台から降りた。



すぐに雨は小降りになり、

参道の洪水もおさまってきたので、

監視カメラに向かって

「そんなに国宝が心配やったら、監視カメラでのぞいてないで駆けつけてこんかい」

と毒づきながら転害門をあとにした。

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めざす多聞山城跡が中学校になっているというのは、

本やネットの情報で知っていたのだけど、

たどりついた若草中学は要塞みたいにものものしい雰囲気が漂っていた。



東大寺を見下ろす場所にある小高い丘なのだが、

いかにも天然の要害という感じで、

入り口は正門のある南側一カ所。


そこに小さな「多聞城跡」の石碑。

これがなければ城跡だと気づく人はいないだろう。



目の前に校舎へ続く急な階段。

もうひとつ、右に続く曲がりくねった坂をのぼるルートもある。



しかし、頭のおかしいやつが学校にとつぜん入ってきて、

生徒を次々殺したりする物騒な時代だから、

歴史マニアのおっさんがアポなしで入っていくのはためらわれ、

曲がりくねった坂をちょっとのぼって数枚写真を撮っただけで、

そそくさと敷地から出る。



多聞山城は、三好長慶の家臣だった山城の武将・松永久秀が建てた城だ。



三好長慶は1549年、室町幕府を実質支配していた細川管領家を武力で駆逐し、

畿内の支配を確立したが、

京で幕府に代わる政権を樹立することはせず、

山城・河内・大和の国境に近い飯森山城で畿内に睨みをきかせた。



武将としての人望はあったが、

中央政権を担う政治家としての力量はいまいちの人だったらしい。



その家臣でありながら、

近畿エリアの行政・警察長官として権力をふるったのが松永久秀だった。



彼は「戦国武将」というより、

建武の新政で活躍した楠木正成のような、

武士らしくない武将、

近畿の複雑な歴史と商工業経済の中で力を蓄えてきた地域リーダーのひとりだったようだ。



堺商人たちと親密だったり、

武力よりも陰謀・謀略で敵を倒すのが得意だったり、

けっこう胡散臭い人物なのだが、

そこがまた魅力でもある。



主君の三好長慶が敵に攻められて窮地に陥ったとき、

にせの情報を流して敵を攪乱し、形成を逆転させているし、

かと思えば、長慶に嘘の情報を吹き込んで、

自分を敵視する長慶の弟を殺させたりもしている。



長慶が病死したあとは、三好家の武将たちと共謀して、

将軍・足利義輝を殺し、

その三好家の武将たちとの勢力争いで、

東大寺の大仏殿や南大門を焼いたりする。



織田信長が京に攻め上ってくると、

茶人として集めていた高価な茶道具を差し出して、

あっさり信長の家臣になっている。



変わり身の早い、世渡りのうまい人物なのだ。



その後、将軍・足利義昭の謀略で毛利・武田など反信長連合が形成され、

信長が窮地に陥ると、松永はこれに呼応して信長に反旗をひるがえしている。



ところが信長は危ういところで形成を逆転し、

近畿・北陸の支配を死守することに成功する。



すると、さっそく松永は多聞山城を差し出して降参・命乞いをする。



信長の性格ならこんなやつはあっさり殺してしまいそうなものだが、

不思議なことに松永をゆるしてしまうのだ。



複雑で物騒な近畿の武装・経済ネットワークをおさえるには、

松永のような存在が必要だったのだという見方もある。



しかし、どうもそれだけではないような気がする。



信長の行動には松永への尊敬のようなものが感じられるのだ。



たとえばこの多聞山城。

歴史上はじめて本格的な天守閣をそなえた城と言われたりもするが、

いろんな資料を見るかぎり、

天守閣的な櫓はそれ以前にも伊丹城など、

近畿に例がないわけではないらしい。



ただ、この城の櫓門、天守閣的な塔、そのあいだを結ぶ建築群は、

軍事防衛施設の機能と京の御殿建築の美を融合させた画期的なものだったようだ。

信長はこの多聞山城に影響を受けてのちに安土城を構想したと言われている。



多聞山城は信長に没収され、

のちに廃城となったが、

信長はその御殿建築を京に移築している。



松永はというと、信長から大和守の職を奪われ、

もうひとつの持ち物である信貴山城という、

大和・河内の国境にある山城を居城として大人しく暮らすようになった。



畿内に権力をふるった全盛期からするとかなりの落魄ぶりだ。

年齢的にも70歳近くになっていたようだから、

当時としては完全に老人だ。



ところがここで松永はもう一度、

反信長勢力と結んで陰謀をめぐらし、

信長に反旗をひるがえそうとするのだ。



しかしこれが信長側に知れてしまう。

今度こそ信長は松永を殺すだろうと誰もが思った。



ところがところが、今度も信長はすぐに軍勢を派遣しようとはせず、

松井友閑という老臣を派遣して、

松永の真意を問いただそうとする。

しかし、松永は弁解もせず、この使者を追い返してしまう。



信長は長男・信忠を総大将とした軍勢を送って信貴山を包囲するが、

最後にもう一度使者を送って、

名茶器である平蜘蛛という茶釜を差し出せば許すと伝えている。



松永はこれも拒絶。

城攻めが始まると天守閣に爆薬をしかけ、

平蜘蛛もろとも爆死してしまう。



ぼくは去年から書いている歴史小説『ワイルドボーイズ』で、

松永久秀を大きくクローズアップしようとしているのだが、

それはこうしたエピソードがすごく魅力的に見えるからだ。



同時に松永は、信長という武将の知られざる一面を浮き彫りにしてくれる。

それはなぜ信長が他の戦国武将を出し抜いて、

天下統一をめざすことができたのか、

なぜそれが途中で挫折したのかという謎にもつながっている。


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