イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

失われた時探訪

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浜寺公園駅から左へ路地を歩く。

母の話によると、ここにはかつて商店がいくつか並んでいて、
日々の食料などはこのあたりで買っていたという。

今は店らしきものはなくなり、空き地も目立つ。

隣の諏訪ノ森には商店街がしっかり残っていたが、
浜寺公園周辺の人たちはどこで買い物をしているんだろう?

路地を抜けると歩道のある広い道に出た。

地図によればこれが大鳥街道。
50年前にぼくが住んでいた家はこの街道に面していた。

かつての大鳥街道は歩道もなく、幅は今の半分くらいだった。
両側には板塀の家が並んでいた。

我が家があった側は、今広い駐車場があって、
その周辺にも更地が目立つ。

駅のそばにあったような大型マンションを建てる計画があるのかもしれない。

こうなると我が家がどこにあったのか、
記憶をたどる手がかりすらない。

半世紀という時間はこうも街を変えるのだ。

向かい側の喫茶店に入ってアイスコーヒーを飲む。
オーナーはぼくと同世代の女性で、
当時のことをあれこれ話す。

「10年くらい前はまだ昔の家が残ってたんやけどね」とのこと。

もう少し早く来るべきだった。

街は経済の変動によって変わっていく。
街や家の寿命は人間より短いこともある。

保存には街にそれなりの文化的価値が必要だし、
それを認知して保存する努力もいる。
だからこそ、昔の街並みが残っている土地は貴重なのだ。

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阪堺線の終着駅から通りをまっすぐ進むと、
突き当たりが南海本線の浜寺公園駅。

明治40年に建設された歴史的建造物だ。
設計は東京駅を設計した辰野金吾。

当時日本最高の建築家を起用できたところに、
浜寺という土地の豊かさ、
そこに邸宅を構えた大阪商人の豊かさがうかがえる。

江戸時代には政治は江戸、商業は大阪という住み分けがきっちりできていた。

米などの農産物は全国から大阪に集められ、取り引きされた。

明治以後も穀物取引所は大阪にあった。

昭和になっても東京と大阪の経済力はほぼ互角だったという。

東京への一極集中が進んだのは戦後のことだ。

天皇を担いだ政治家と官僚が国を支配し、
そこに産業が吸い寄せられ、
まるで後進国のような一極集中が進み、
行政と経済のゆがんだ構図が肥大していった。

戦後の経済発展もこの構造から生まれたものなのだが、
今、この構造は日本にとって大きな病巣になっている。

国も社会も生き物であるかぎり、
生まれ変わっていかないかぎり、衰弱し、死んでいくのだ。

歴史的建造物はそうした時代の流れを我々に思い出させてくれる。

ぼくがここに住んでいたときは、
この建物になんの美しさも感じなかったのだが、
それでもこの駅舎と駅前広場にはどこか独特の雰囲気が漂っていた。

時間が止まったような静けさ。

5〜7歳のぼくは毎日この駅の前を通り、
すぐ横の地下道をくぐって、
線路の反対側にある幼稚園や小学校に通った。

夏になると広場にわらび餅の屋台が来た。

小さな半透明の丸いわらび餅を、
きなこやすりごま、青のりなどの上でころがし、
きれいな色と風味をつけてくれる。

真夏の海水浴客のにぎわいは全く記憶にないのだが、
なぜかこのわらび餅屋台だけは鮮明に覚えている。

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阪堺線の終着駅の先には南海本線の浜寺駅がある。

駅から公園の入り口へまっすぐにのびた参道のような道は、
かつて夏に海水浴客でにぎわったのだろう。

3年間すんでいたのにそのにぎわいの光景が記憶にないのは、
2年目から浜辺の海水浴場が閉鎖されてしまったからだろうか。

しかし、その代わりに巨大プールができてにぎわったはずだ。

だから、大阪育ちの知り合いが例外なく、
このプールに泳ぎに来た思い出を持っているのだ。

今も、さびれてはいるが、
昭和の香り漂う食堂や寿司屋、和菓子屋が残っている。

和菓子屋の名物は、松林に生えるキノコ・松露をかたどった松露だんご。

こうした店を見ても、5〜7歳の頃の記憶はよみがえってこない。

数軒の店をのぞいて、あまりにも街並みが変わってしまったからだろうか。

駅に向かって道の左側には大きなマンションが建ち、
その周辺が駐車場になってがらんとしている。

今風のマンションとまわりの空間が、
まるで死後の世界のように見える。

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浜寺公園を出ると、
大阪・天王寺と堺を結ぶちんちん電車・阪堺線の終着駅がある。

ちょうど電車が出ていくところだった。

東京でいえば世田谷線や都営荒川線のように、
基本は柵で区分けされた線路を走るのだが、
堺市内では部分的に車道の真ん中を路面電車のように走る。

大阪と堺を結ぶ電車としては、
JRと南海電車があるのだが、
この阪堺線もしぶとく生き延びているのは、
駅の間隔が短くて、バスや路面電車の感覚で利用できるからだろうか。

ここまでしぶとく生き残っていると、
歴史的価値も出てくるのか、
炎天下に鉄道マニアっぽい男が、電車を待っていた。

ぼくも終着駅にしては簡素な駅のレトロなデザインを眺めながら、
電車が来るのを待った。

しばらくすると、一両だけの小さな電車がやってきた。

基本はくすんだ緑色の車両のはずだが、
やってきたのは収入補強のために派手な広告がプリントされた電車だった。

ちょっと興ざめ。

電車が行ってしまうと、
また駅は半世紀前ののどかさに戻る。

時が止まってしまったようなのどかさだ。

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公園の南端まで自転車で走る。
公園を出ると、住所がいつのまにか堺市から高石市になっている。

ぼくが住んでいた頃は高石町だったのだが、
今は市に格上げされたらしい。

昔はこのあたりも松林と砂浜が続いていて、
いかにも天女の羽衣伝説の舞台にふさわしい美しい景観だった。
たしか松林の中に「羽衣荘」「新東洋」といった旅館が何軒かあったのだが、
今は影も形もない。

銀行員だった父は読書以外に趣味のない人だったが、
浜寺に住んでいた三年間だけ母と一緒に小唄を習っていた。

このあたりは大阪の裕福な商人が住む地域で、
そういう人たちの趣味として茶の湯や小唄・長唄・三味線などが盛んだった。

両親が習っていた小唄の師匠は芸者上がりの美人だった。
成人した娘さんがいたから、そこそこの歳だったはずだが、
浮世絵から出てきたような日本的な女性だった。

その師匠は毎年夏になると、
旅館の大広間を借り切って、小唄の発表会を開いた。

父と母も壇上でぎこちない小唄を披露した。

発表会のあとはお決まりの宴会で、
まだ5〜6歳だったぼくも酔っ払ったおじさんにビールを飲まされたりした。

大広間の窓はすべて開け放たれていて、
あちこちに冷房用の氷柱が立てられていた。

昭和30年代だから、エアコンなどない。
扇風機が冷房用家電だった。
氷柱を立てるのはうちのような一般家庭ではやらなかったが、
こういう旅館の宴会の演出だったんだろうか?

まだ冷蔵庫も電気式は普及が始まったところで、
一般には大きな氷を上で冷やすタイプの冷蔵庫も多かったから、
町には必ず氷屋があり、大きな四角い氷を大のこぎりで切り分けて、
家庭や店舗に配達していた。

サラリーマン家庭だった我が家がテレビを買ったのは、
浜寺に引っ越すちょっと前、
まだ東京・湯島に住んでいた頃だが、
扇風機、電気冷蔵庫、電気洗濯機を買ったのは、
昭和34年、浜寺に越してきてからだ。

この年は皇太子(今の天皇)のご成婚があり、
日本の景気が上向いてきた頃だ。

今とくらべると質素な生活だったが、
子供心に、世の中が明るくなっていくのを感じていた。

翌昭和35年には日米安保条約反対運動で世の中は騒然とするのだが、
反対運動を押しつぶした日本は、
アメリカ軍の実質的な占領状態の下で、
ひたすら経済振興に突き進むことになる。

それは高度成長につながり、二度の石油ショックを乗り越えて、
日本は世界第二の経済大国と呼ばれるようになるのだが、
そこには社会の様々な歪みが潜んでいた。

今、経済の停滞期に入った日本は、
その歪みから生まれた負の遺産に苦しんでいる。

たぶん日本の構造改革は、
昭和の成功を可能にした部分も含めて根本から見直さなければ不可能なのだろう。

我々が昭和という時代に興味を持つのは、
ただ懐かしいからではない。

今、これからどうすべきかを考える上で避けて通れない問題が隠れているからだ。

それはともかく、
美しい芸者上がりの小唄の師匠は、
その後、弟子だった学校の校長先生と駆け落ちして、
浜寺から消えてしまったという。

師匠は子持ちだったが、独身だったのだろうか?

夫と呼ばれる男はいたような記憶があるのだが、
なにしろ幼稚園児から小学校低学年の頃なので、
いまいち記憶がさだかでない。

もしかしたら金持ちの妾で、
娘さんも正式の結婚による子供ではなかったのかもしれない。

当時はそういう伝統社会が今よりも普通に存在していた。

駆け落ちした相手の校長先生というのは、
子供の目から見ると、ものすごく老けたじいさんだった。
しかも、こちらはちゃんとした家庭があった。

どうしてそんな歳になって、
家庭も地位も捨てて駆け落ちなんかしたんだろうと、
子供心に不思議でしかたなかったのだが、
自分が50代半ばを過ぎてみると、
なんとなくじいさんの気持がわかるような気がする。

人間、生殖能力が衰えてくると、
ますます性的な想像力、精神的な性欲みたいなものが強くなるのだ。

もうすぐ自分の人生もおわりだと考えると、
地位とか名誉とか家庭なんてものはかまっていられないという気持になるのかもしれない。

特に羽衣伝説の地で、
妖艶な美人と恋に落ちてしまったとなると、
歯止めがきかなくなったとしても不思議はない。

ぼくの母親の話によると、
師匠と校長先生は、のちに正式に結婚したのだという。

そこにいたるまでに、
捨てた家族や迷惑をかけた関係者にどれだけ頭をさげたかを想像すると、
あきれてしまうと同時に、あっぱれという気もする。

天女を天に逃がさず、
妻にすることができた校長先生は、
それから何年生きたのだろう?

今はあの世にいるとしても、
生きているうちから天国のような暮らしを手に入れたのだとしたら、
なかなかめでたいことではある。


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