イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

大和路紀行2008秋

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夢殿のわきを抜けて、法隆寺西院伽藍へ長い石畳の通路を歩く。
両脇に長い壁や門、小さな寺院が並んでいるので、
まるで昔の街路を歩いているような気持にさせられる。

東大門をくぐってさらに通路を進んでいくと、
五重塔が木立のむこうに見え始め、
誰もがイメージする法隆寺が近づいてくる。

なんだか長いタイムトンネルを抜けて、飛鳥時代にタイムスリップしたような気分。

中門前の階段に修学旅行らしい高校生の一団が記念写真を撮っていた。

今度は飛鳥時代から自分の高校時代、1970年あたりにタイムスリップしたような気分になる。

小学校から高校まで関西で過ごしたので、
修学旅行で奈良に来たことはないのだが、
それでも遠足で一度や二度は来ているはずだ。

しかし、東大寺や奈良公園に行った記憶はあるのに、
法隆寺に来た記憶はまったくない。

本当に来たことがないのか、それともただ忘れただけなのか、
今となってはよくわからないのだが、
高校生たちを見ると、自分が少年に戻って法隆寺参詣しようとしているような錯覚に陥る。

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夢殿のすぐ裏手に別料金で入る中宮寺があった。
元々はもっと東に離れたところにあった尼寺で、
聖徳太子の母・穴穂部間人皇后の宮殿を改装したものと言われている。

中宮寺といえば誰でも知っているあの国宝・菩薩半か思惟像(情けないことに、片足だけあぐらをかいている姿勢を意味する「半か」の漢字が変換できない)、別名如意輪観音像がある寺だ。

いくら腹が減っていようと、別料金で腹が立とうと、見逃すのはもったいない。

細長い豆のさやが無数に垂れ下がっている藤棚や、赤い実のなる美しい木などを眺めながら、奥へ入っていくと、池の上に真新しい本堂があり、めざす菩薩が坐っていた。

つややかな漆黒の木造。
優雅に目を閉じた、ちょっと女性的な顔立ちがなんとも優雅で上品な慈悲深さを感じさせる。

今まで写真でしか見ていなかったのだが、世界で一番美しい彫刻のひとつだろうと感じていた。
もちろん実物はもっと美しい。

救世観音像のスキャンダラスな生々しさがない分、衝撃もそんなに強くないのだが、いつまでも眺めていたくなるようなやさしさに満ちている。

なんとなく「アメイジング・グレース」という歌のタイトルを思い出した。
驚嘆すべき優雅さ、慈悲深さ。

仏教の真髄を一言であらわすと、「慈悲」ということになるらしい。
「悲」という言葉が現代人にはちょっと違って受け取られるかもしれないが、
それは悲惨とか悲劇の悲というより、いくつしみ、愛おしく思うこと、
love,peace,freedomのlove、
All You Need Is LoveのLove、
キリスト教的な言葉で言うと慈愛に近い。

自分より人を大切にする心と言ったらいいだろうか。

こういう慈愛に満ちた仏像を見ていると、そんな境地にいたるのはたやすいと思えるのだが、
自分の日常や過去を振り返ると、慈悲や慈愛にはほど遠い。

世界には慈愛を説きながら人を殺す組織や国家のリーダーたちもいる。

日暮れて道遠し。

革命いまだならず。

ワールドクラスの偉人たちが志半ばで、あるいは挫折を味わいながら死んでいったのだから、
ぼくなんかに悔しがる資格はないのかもしれないが。

菩薩像の写真撮影は不可だったが、
帰りがけに券売所でポスターが貼ってあるのを見つけたのでパチリ。
これでも十分ワールドクラスの美しさが伝わってくるからすごい。

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ガイドブックによると、夢殿は聖徳太子の宮殿だった斑鳩宮跡に、
天平11年(739年)行信という高僧が聖徳太子をしのんで建てたという。

年表によると、聖徳太子が斑鳩宮を建てたのが601年、聖徳太子が没したのが622年。
太子の息子・山背大兄王が蘇我入鹿に殺され、太子一族が滅んだのが643年。
おそらくこのとき斑鳩宮は炎上し、廃墟になったのだろう。

ぼくがずっと不思議に思ってきたのは、なぜこの宮が廃墟のままにされたのかということだ。

翌々年には蘇我入鹿が中大兄皇子・中臣鎌足によって殺され、蘇我氏が滅んでいる。
聖徳太子の一族が皆殺しにされていたとしても、
蘇我氏を滅ぼした時点で斑鳩宮を再建するなり、なんらかの象徴的な施設を建てて、
太子の政治路線を復活・継承していけばよさそうなものなのだが、
中大兄皇子はどちらかというとアンチ仏教・反中国路線を突っ走っていく。

大和にもう一度仏教・中国路線が復活するのは、
彼が亡くなり、その息子が殺されてからだ。

聖徳太子崇拝が始まるのもそこからだ。

つまり、聖徳太子=大和朝廷のグローバリゼーション路線、
蘇我氏=アンチ聖徳太子・アンチ大和朝廷の逆賊、
中大兄皇子(天智天皇)=聖徳太子路線の復活という図式は成り立たないのだ。

聖徳太子一族と蘇我氏は仏教路線で同盟関係にあり、
蘇我入鹿による山背大兄一族皆殺しはその同盟の内紛・権力闘争にすぎなかったと思える。

不思議なのは後に神のように崇拝されることになる聖徳太子がなぜ天皇に即位できなかったのかだ。
これは太子のあと最大の政治家である中大兄皇子が、大化の改新から23年間も天皇に即位していないのと並んで、古代日本史最大の謎のひとつだ。

聖徳太子の場合、裏日本史の世界では、
「実は朝鮮半島から渡ってきた渡来人だった」という説がある。

たしかに太子が日本書紀で言われているような皇室のメンバーなら、
蘇我氏にファミリーが皆殺しにあったとしても、血のつながった皇子たちはたくさんいるのだから、
「一族滅亡」というのはおかしいような気もする。

蘇我氏も朝鮮半島から渡来した比較的新しい豪族だったというから、
新しい渡来系の豪族はどれだけ権力を握っても、天皇に即位するのは難しかったのかもしれない。

同じく裏日本史では中大兄皇子も百済王家の王子で、
だから唐・新羅の連合軍に百済が滅ぼされたあとも、朝鮮半島の大軍を送って唐と戦ったのだという説がある。

その説によれば、白村江の戦いで唐に敗れ、
大和盆地から逃げ出すかたちで大津に都を遷してから天智天皇として即位しているのも、
当時の国際社会からは認知されない変則的な行動だった可能性があるとのことだ。

その天智天皇は、ある日白馬に乗って散歩に出かけ、馬だけが戻ってきたという、
はなはだあいまいなかたちで亡くなっている。

そこから壬申の乱が起こり、天智の息子・大友皇子が殺され、
天智の弟といわれる大海人皇子が天武天皇に即位してから、
大和にもう一度中国・仏教文化の花が咲くことになる。
つまり、聖徳太子路線に戻ったわけだ。

裏日本史ではこの天武天皇も、実は天智より年上だったとか、
渡来系の将軍で、皇室の人ではなかったとか、いろいろ説があるのだが、
とにかく仏教伝来・中国の政治システム導入、つまり当時のグローバル路線は、
蘇我氏・聖徳太子あたりの積極推進からいろいろな紆余曲折を経て、
このあたりから日本の政治・国家運営に定着していくことになる。

そこで生まれた聖徳太子崇拝は、その先駆者として遺徳をたたえるということだったのだろうか?
だとすれば仏教導入の先駆者だった蘇我稲目はどうしてたたえられないのか?
太子は皇室メンバーで、蘇我氏は逆賊だからか?
それは本当なのか?
蘇我氏でも、太子より1世代前の稲目は逆賊とは言えないのではないか?

そこでぼくの思考はまた堂々巡りを始める。

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八角形の夢殿の中をのぞきこみながらぐるぐる回る。
反対側に回ると下りなければならない感じになっているので、
正確に言うと、戻っては回り、戻っては回りを繰り返したのだが。

ちょうど団体客もとぎれ、数人ずつ中高年の観光客がやってくるだけなので、
好きなだけうろうろできた。

少年時代の聖徳太子像も、内部の八角形の柱も、
古びて熟成された感じの扉や柱もそれぞれに味わいがあるのだが、
なんといってもここの目玉は救世(ぐぜ)観音像だ。

写真やテレビの美術番組などで何度となく見ているからよく知っているし、
なんだか不細工な顔をした仏像だなという印象しかなかったのだが、
実物はまったく違っていた。

というより、実物と相対する自分が、
写真やテレビの画面を見ている自分、
えらそうにふんぞり返っている自分とまるで違うということなのだろう。

やはりものを見るにも主体的・能動的な姿勢がなければ何も見えないのだ。

実物の救世観音像は、写真や映像よりもさらに奇妙だった。
人間が無理に仏の扮装をしているような印象を与えるのだ。

聖徳太子をモデルにしているという説があるのだが、
それが本当だとすると、この変な感じは
仏教マニアの聖徳太子がコスプレしているところから来ているのかもしれない。
その生々しさが、ものすごいパワーを発している。

どうして昔の人のコスプレからそんなにパワーを感じるのかわからない。
もしかしたら、飛鳥時代の仏教信仰には、
個人的な悩みとか問題意識を超えた、大きなものがあるからかもしれない。

それは何だろう?
国家や社会を創るということだろうか?
中国的な、つまり当時のグローバルな基準にのっとった社会を?

救世観音像は夢殿の本尊なのだが、長く秘仏として隠されてきた。
明治時代にフェノロサが、法隆寺の僧たちが止めるのを押し切って、
この秘仏を暴いたとき、白い布でぐるぐる巻にされていたという。
僧たちはこの秘仏を暴くと祟りがあると本気で信じていたらしい。

なんの祟りなんだろう?

聖徳太子は暗殺された、その怨霊の祟りを沈めるために、
のちの白鳳時代・奈良時代の権力者たちは薬師寺や法隆寺の夢殿を建てた云々というのが、
たしか梅原猛の「隠された十字架」という本の趣旨だったと記憶している。
1970年代の前半、学生時代に読んだだけなので、記憶はさだかでないのだが。

この本はちょっと低俗な興味に迎合する感じで書かれているので、
日本史専攻の学生だったぼくには馴染めなかった記憶がある。

「日本書紀」では聖徳太子は病死したという感じで書かれているが、
この大和朝廷公式の歴史書自体が色々問題ありなので、
それは仮に嘘だったとしても、
聖徳太子亡き後数年後に息子とその一族を滅ぼして権力を握ったのは蘇我氏であって、
その蘇我氏はその後中大兄皇子(のちの天智天皇)・中臣鎌足一派によって粛清されている。

法隆寺を再建したり、問題の救世観音像を夢殿にまつったのは、
中臣鎌足の孫たちが権力を握った時代なのだが、
この世代の人たちがなぜ聖徳太子の祟りを恐れなければならなかったのか、
今ひとつはっきりしない。

仏教や儒教で日本を当時の近代国家にしようとした聖徳太子の先進性に、
まわりがついていけず、暗殺してしまったみたいなことがあったということだろうか?

しかし、日本に仏教が伝来したのは聖徳太子が権力をにぎる半世紀くらい前だとされているし、
最も仏教の普及に努めたのは蘇我稲目だったと言われている。
稲目の息子の馬子が反仏教派の物部守屋一派と戦ったとき、
まだ少年だった聖徳太子も馬子側の1人として参戦したと「日本書紀」に出ている。

これがどれだけ信頼できるのかという問題はあるのだが、
日本最古の仏教寺院を建立した蘇我氏はあきらかに仏教派だったわけで、
聖徳太子の息子一族だけでなく、太子自身も蘇我氏に殺されたとしても、
同じ一派の内紛みたいなことでしかないような気がする。

その蘇我氏を滅ぼし、その後の内乱を生き残って権力を握った藤原氏や、
白鳳時代・奈良時代の朝廷が太子の祟りを恐れる理由がよくわからない。

梅原猛の説では、鎌足の息子・不比等の息子たちのうち4人が、
当時流行した天然痘で次々と死んだので、
これは聖徳太子の祟りだということになったというのだが、
それだけではどうも、当時よくあった権力者の迷信の産物というだけのことになってしまい、
たとえそれが事実だったとしても、現代の我々には何の関係もなくなってしまう。

「隠された十字架」というタイトルからうかがわれるように、
西洋哲学者である梅原猛は先駆者・聖徳太子をキリストに重ね合わせているようなのだが、
旧勢力によって危険視され、殺され、弟子たちに見殺しにされたキリストと、
その後の弟子たちの罪悪感、そこから生まれる信仰のパワーみたいな構図を、
聖徳太子に求めるのは無理があるような気がする。

我々の目の前にあるのは、救世観音像の妙な生々しさと、
聖徳太子にまつわる漠然としたタブーの雰囲気であって、
そこから聖徳太子殺人事件、十字架はりつけ事件みたいなものを作り上げても、
たいして面白くないのだ。

それでは救世観音像の生々しさは単なる生々しさにすぎないのか?

夢殿のまわりをうろついていたときには、答えは出なかった。

もちろん謎解きなどできなくてもいいのだ。
大切なのは、この生々しい仏像が、
曰わく言いがたいものをこちらに投げかけてきているということだ。

その生きたパワーを感じ続けるには、
無理に言葉や事実関係などに落とし込まない方がいい。

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救世観音像は写真に撮れなかったので、
どんな像なのか雰囲気をつかみたい方は、こちらを参考にしてください。

救世観音の謎
http://homepage3.nifty.com/btocjun/rekisi%20kikou/houryuuji/3-kuzekannon%20nazo.htm

日本の宝物殿/法隆寺地域の仏教建造物
http://www.tabian.com/tiikibetu/kinki/nara/horyuji/horyuji4.html

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歩いているうちに午後1時を回ってしまったので、どこかで昼飯を食べようと思うのだが、
法隆寺の参道近辺に近づいても和食ファミレスの「さと」くらいしか見あたらないので、
ガイドブックにのっている地元の懐石料理屋で3000円くらいのランチでも食べようと、
県道を右折して夢殿方面へ向かう。

ちょっと路地にはいると実が熟した柿の木や美しい花、
古い屋敷や地蔵堂があったりして、心をなごませてくれる。

ところが、めざした和食屋は予約制とのことで、断られてしまった。
ガイドブックを見ると、たしかに完全予約制と書いてある。

こういう1人旅は自由を満喫できる反面、
あんまりのほほんと歩いていると飯にさえありつけない危険も伴う。

しかたなく、新横浜で非常食用に買ったデザートポッキー(チョコレートがものすごくぶあつい)をかじり、水を飲みながら夢殿を見学する。

入り口で200円の入場券を買う。
法隆寺全体の拝観料は、有名な金堂や五重塔がある西伽藍と、数々の国宝を展示した大宝蔵院と、夢殿を合わせて1000円なのだが、それは西伽藍の入り口で売っているだけで、夢殿では夢殿のみの200円の入場券しか売っていない。

「お客さんは先に夢殿へ来られたようですから、あとで西伽藍にお参りされるとき、この入場券をお見せになれば、800円に負けてもらえます。見せなければ1000円とられますから、お客さんの損になります」と入り口のおっさんがにやにや笑いながら言う。
なんだか、人を見下したような笑い方なので、
なんだか夢殿からお参りすることが恥ずかしい失策みたいに思えてくる。

ほかの観光客はすべて西伽藍から東へのびた長い通路を歩いてやってくるようだ。
小学生や高齢者の団体が列をなして回廊の中へ吸い込まれ、
八角形の夢殿をのぞきこみながらぐるりと回っては出ていく。
なんだかオートメーション式の工場みたいだ。
自分が工場で製造される量産品のひとつになったみたいな錯覚におちいる。

それでも回廊の中は、駅から歩いてきた殺伐とした街並みが嘘のような、夢の世界だ。
瓦屋根の微妙な反り返り方が、日本と言うより中国や韓国を連想させるからだろうか。

中国は行ったことがないし、韓国もあわただしいソウル取材のあいまにほんの1時間ほど古い街並みが残るエリアを歩いただけだが、
そのとき見た建築には、日本の建築と似て非なる美学があるような印象を受けた。

東アジアの建築については何の知識もないし、建築そのものについて興味があるわけでもないのだが、
この法隆寺をはじめとする奈良のお寺が、日本的ではない美学、
テレビで見た中国の寺院や旧市街、ソウルで歩いた旧市街の美しさを連想させるというのは、
かなり意味のあることだという気がする。

そもそも瓦葺きのこうした建築様式は、飛鳥時代あたりに中国・朝鮮半島から日本に伝えられたもので、つまり当時は外国の建築様式だった。
当時の人々にとっては、外来の先進文化、明治時代に建てられた公共建築や洋館のようにエキゾチックな文化だった。

今でも外国の人たちには、中国・朝鮮と日本の文化の違いがわかりにくいという人が少なくないが、それは彼らの不勉強のせいというより、
そもそも東アジア文化が根底でつながっているからなのだろう。

大和路を訪ねて胸がわくわくするのは、もしかしたら日本古来の文化に触れることができるからというよりも、
昔から今に至るまで、意欲的に、器用に外来文化を受容してきた日本人の正体を思い知らされるからかもしれない。

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