天理市トレイルセンターから山辺の道は、一度山麓から広い国道へ下り、
崇神天皇陵を迂回して再び山麓へのぼる。
第10代崇神天皇は大和朝廷の基礎を築いたとされる天皇だけあって、
萱生〜念仏寺あたりに密集している小型の古墳とは規模が違う。
全長242m。
壕も前方後円墳のかたちもきれいに残っている。
壕は江戸末期に灌漑用水として利用されたというから、
その頃改めて整備されたのかもしれない。
こういう大型の前方後円墳は平野部にあるものだと思っていたのだが、
この古墳のように、やや高台の山麓に築かれたものもあるのだ。
そのすぐ南には第12代景行天皇陵もある。
こちらは壕がかなり埋まってしまっているが、
全長310mで、大和本地では最大級の古墳だという。
景行天皇は息子の日本武尊を全国に派遣して、
地方の豪族を平定したとされ、
大和朝廷の全国制覇を成し遂げた天皇だ。
この古墳の大きさも手に入れた権力の大きさと比例しているのかもしれない。
しかしまあ、在位年数が百年以上だったりすることからもわかるように、
いわば神話中の人物だ。
この古墳が景行天皇のものだというのも、後世の研究による推測で、
奈良時代にはどの古墳がどの天皇の御陵であるかはわからなくなっていたらしい。
古事記/日本書紀では万世一系となっている天皇/大和朝廷も、
その記述を読むと、あきらかに王朝が、あるいは部族、あるいは民族が、
何度か交代していることがうかがわれる。
だから古い世代の事績があいまいなのだろう。
たとえば景行天皇の2代あと、
15代応神天皇は朝鮮半島からやってきたのではと思わせるストーリーが語られている。
たしか古事記では(若い頃読んだ後、本を処分してしまったので今確かめられないのだが)、
応神天皇の章はいきなり母親の神功皇后が新羅征伐に出かけるところから始まる。
皇后は出発したとたんに天からの光を受けて、応神天皇をみごもってしまうのだ。
それでも皇后は出産を遅らせながら新羅征伐を敢行し、
帰国してから九州で応神天皇を生み、死んでしまう。
しかも、大和では敵対する勢力が権力を握っていて、
赤ん坊の応神天皇はなかなか大和に入ることができず、
家臣の武内宿禰(たけのうちのすくね)に守られながら近畿地方を転々とする。
その後、武内宿禰の活躍で大和の勢力を平定し、
応神天皇は大和に帰還して即位したことになっているのだが、
その御陵が息子の仁徳天皇の御陵とならんで大阪の羽曳野にあることからもわかるように、
応神天皇は最後まで大和に対してはよそ者でありつづけた。
応神・仁徳天皇陵が日本最大の古墳であることから推測すると、
彼らの王朝は朝鮮半島からやってきて、大和/日本を征服した民族である可能性が高い。
まあ、そんなことは日本史の教科書には一切書いてないのだが。
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