イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

大和路紀行2008秋

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天理市トレイルセンターから山辺の道は、一度山麓から広い国道へ下り、
崇神天皇陵を迂回して再び山麓へのぼる。

第10代崇神天皇は大和朝廷の基礎を築いたとされる天皇だけあって、
萱生〜念仏寺あたりに密集している小型の古墳とは規模が違う。

全長242m。
壕も前方後円墳のかたちもきれいに残っている。

壕は江戸末期に灌漑用水として利用されたというから、
その頃改めて整備されたのかもしれない。

こういう大型の前方後円墳は平野部にあるものだと思っていたのだが、
この古墳のように、やや高台の山麓に築かれたものもあるのだ。

そのすぐ南には第12代景行天皇陵もある。
こちらは壕がかなり埋まってしまっているが、
全長310mで、大和本地では最大級の古墳だという。

景行天皇は息子の日本武尊を全国に派遣して、
地方の豪族を平定したとされ、
大和朝廷の全国制覇を成し遂げた天皇だ。

この古墳の大きさも手に入れた権力の大きさと比例しているのかもしれない。

しかしまあ、在位年数が百年以上だったりすることからもわかるように、
いわば神話中の人物だ。

この古墳が景行天皇のものだというのも、後世の研究による推測で、
奈良時代にはどの古墳がどの天皇の御陵であるかはわからなくなっていたらしい。

古事記/日本書紀では万世一系となっている天皇/大和朝廷も、
その記述を読むと、あきらかに王朝が、あるいは部族、あるいは民族が、
何度か交代していることがうかがわれる。

だから古い世代の事績があいまいなのだろう。

たとえば景行天皇の2代あと、
15代応神天皇は朝鮮半島からやってきたのではと思わせるストーリーが語られている。

たしか古事記では(若い頃読んだ後、本を処分してしまったので今確かめられないのだが)、
応神天皇の章はいきなり母親の神功皇后が新羅征伐に出かけるところから始まる。
皇后は出発したとたんに天からの光を受けて、応神天皇をみごもってしまうのだ。
それでも皇后は出産を遅らせながら新羅征伐を敢行し、
帰国してから九州で応神天皇を生み、死んでしまう。

しかも、大和では敵対する勢力が権力を握っていて、
赤ん坊の応神天皇はなかなか大和に入ることができず、
家臣の武内宿禰(たけのうちのすくね)に守られながら近畿地方を転々とする。

その後、武内宿禰の活躍で大和の勢力を平定し、
応神天皇は大和に帰還して即位したことになっているのだが、
その御陵が息子の仁徳天皇の御陵とならんで大阪の羽曳野にあることからもわかるように、
応神天皇は最後まで大和に対してはよそ者でありつづけた。

応神・仁徳天皇陵が日本最大の古墳であることから推測すると、
彼らの王朝は朝鮮半島からやってきて、大和/日本を征服した民族である可能性が高い。

まあ、そんなことは日本史の教科書には一切書いてないのだが。

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長岳寺から山辺の道に戻って数百メートル進むと、天理市トレイルセンターという施設があった。

名前は山の宿泊施設みたいだが、建物はファミレスみたいだし、
車も通る道に面しているので、いまひとつ気分が出ない。

中には地域文化に関するちょっとした展示と、無料のお茶が飲める休憩所があるだけ。
それでもきれいなトイレが使えるのはありがたい。

天気がよく、あたたかいので、表の芝生の斜面に坐って、奈良駅で買った柿の葉寿司を食べる。
サーモンやサバ、タイの小さな押し寿司を柿の葉にくるんだシンプルなものだ。

最近は東京のスーパーでも売っているが、柿畑が続くこのあたりを歩いてみると、これが奈良の名物というのも納得がいく。

山辺の道というから、途中に食事ができるところがないかもしれないと、わざわざ弁当を持ってきたのだが、実際に歩いてみると、カフェみたいな店もあったし、このトレイルセンターのすぐそばにも、真新しい和食店がある。

それでも屋外で秋の日を浴びながら名物を食べるのはなかなか気持ちがいい。

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人麻呂の歌碑を過ぎてさらに南下すると、平安時代初期に創建された長岳寺がある。
ルートからは700mほどはずれて、ゆるい坂を上らなければならないのだが、
運動がてら行ってみることにした。

かつては広大な敷地に何十もの建物が建ち並ぶ巨大なお寺だったらしいが、
今は十ほどの建物を残すのみ。

それでも内山の永久寺のように明治の廃仏毀釈で廃墟にならなかったのは、
どういう違いがあるのだろう?

建物や仏像に国の重要文化財がいくつもあるところを見ると、
美術的に壊すのは惜しいものがたくさんあったからだろうか?

たしかに鎌倉時代に建てられた鐘楼門は素朴で美しい。
江戸寛永年間に建てられた地蔵院はいかにも江戸時代らしい優雅さを伝えて、
ここが奈良の山里だということを忘れさせてくれる。

江戸明年間に再建された本堂では、大きな地獄絵が展示されていた。
江戸時代初期の狩野山楽の作。

罪を犯した人間たちが、中国の役人みたいな服装をした閻魔大王や地獄の官吏たちに裁かれ、
「西遊記」の猪八戒みたいな地獄のスタッフに、色々な刑罰を受けている。

大きな編みの上でバーベキューみたいに焼かれる火あぶりの刑などを見ると、
なぜかドキドキして、自分が焼かれているところを想像してしまう。

昔の人はこういう地獄絵で、悪いことをしてはいかんと素直に感じたのだろうか?
悪いことをして、こういう刑罰を受ける自分に陶酔してみたくなったりするのは、
現代人のゆがんだ精神だけだろうか?

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柿本人麻呂の歌碑の近くに、「里山林機能回復整備事業」という無粋な看板が立てられていた。

 荒廃した里山を中山町有志で整備しています。
 伐採後の、竹の利用方法を教えてください。
   
             事業体:中山同友会
             協力機関:天理市農林課

どうやら、昔ながらの山林整備ノウハウが忘れられてしまったので、
誰かそういうことを知っているお年寄はいないかと呼びかけているらしい。

それならこんな看板を立てるより、近隣の農家を回って情報収集した方が効果的だと思うのだが、
それでもだめだからこういう看板を立てたのか、
あるいはお役所の形式主義で、アリバイ的に努力を見せているのかよくわからない。

山林というのは、薪や山菜をとるために、農家が力を合わせて時間をかけて整備したものだ。
薪や山菜以外にも、籠などの道具や建築資材など、木製の材料の多くはこうした山林から得ていた。

近代化が進んで、こうした生活必需品やその材料をすべてお金で買うようになったのだが、
おかげで里山の山林は荒廃が進んだ。

美しい里山が残っているように見えるこの大和の山辺の道でも、
こうして古いノウハウを学び直さなければならないくらい、
さまざまな知識・技能の継承が断絶してしまっているのだろう。

それだけ日本の山林は危機的状況にあるということだが、
こうした努力が始まっているのは、かすかな希望でもある。

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念仏寺から少し南下すると、真新しい石碑が建っていた。
柿本人麻呂の歌を刻んだ歌碑らしい。

石碑の文字は万葉仮名つまり漢字による宛字だけで書いてあるので読みづらいのだが、
そばにもっと読みやすく書いた木の札が立ててある。

  衾道(ふすまぢ)を 引手の山に 妹(いも)を置きて 
              山路を行けば  生けりともなし



「衾道」というのは、このあたりの地名だか、道の名前だろう。
「引手の山」もこのあたりの山の名前らしい。

化野っぽい無縁仏がたくさん置かれるようになったのはもっとあとの時代だろうが、
人麻呂の時代から、このあたりは人を埋葬する場所だったのかもしれない。

歌の意味は、衾道にある引手山に妻を埋葬して、山道を降りていくと、さみしくて生きている気がしないといったところだろう。

あたりまえすぎて何の面白味もない歌だが、この素朴さが万葉集のいいところだということなのかもしれない。

気になるのは人麻呂が何人も妹=妻を持っていたように思えることだ。

たとえば、次の歌に詠まれた妹=妻の死では、自分で埋葬するどころか、生きているうちから会うのも人目を憚られ、死んだと聞かされても弔問にすら行けず、近所をうろついたりしている。

 天飛(あまと)ぶや 軽(かる)の道は 我妹子(わぎもこ)が 里にしあれば ねもころに
 見まく欲しけど やまずも行かば 人目を多み 数多(まね)く行かば 人知ぬべみ
 さね葛(かづら) 後も逢わむと 大船の 思ひたのみて 玉かぎる 岩垣淵の隠(こも)りのみ
 恋に渡る日に 暮れ行くがごと 照る月の 雲隠るごと 沖の藻の 靡(なび)きし妹は
 黄葉(もみじば)の 過ぎて去(い)にきと 玉梓(たまづさ)の 使ひの言へば 梓弓
 音に聞きて 言はむすべ 為(せ)むすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば 我が恋ふる
 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰心もありやと 我妹子が やまず出で見し 軽の市に
 我が立ち聞けば 玉だすき 畝傍の山に 鳥の声も聞こえず 玉鉾の 道行く人も ひとりだに
 似てし行かねば すべをなみ 妹が袖ぞふりつる

専門家の解説によると、こちらの妹は正式の妻ではなく、たぶん朝廷の高い身分の皇族の妻か皇族に仕える女官、あるいは皇族の皇女で、密通がばれたら罪に問われる危険があるような恋の相手だったとのこと。

この密通の相手の死が、衾道の正妻の死とどれくらいタイムラグがあるのかわからないが、人麻呂はかなり女に持てた人なのだろう。

宮廷の公式行事で歌を披露するような宮廷歌人だったから、かなりの地位も名誉もあるアーティストであり、セレブリティーでもあったわけで、もてたのも当然かもしれない。

妹=妻/恋人と死に別れる歌のほかにも、彼女と別れて旅に出るつらさを歌った歌も有名だ。

公式行事を詠んだ歌は雄壮だが、それと対をなすように、人麻呂には女々しく女への未練を歌った歌が多い。
女々しいというより、ストレートに感情を吐き出しているといった方がいいのかもしれない。

この素朴さが万葉集らしさであり、人麻呂らしさと言えるのだろうが、
こちらは時系列と関係なく、複数の女にそれぞれ真剣な想いを吐露している彼の歌と接するわけで、
なんとなくそのストレートで激しい想いがプレイボーイの軽薄さや、
作品のための絵空事みたいに思えたりもする。

衾道の妻と死に別れ、軽の恋人とも死に別れた人麻呂も、その後再婚したらしい。
あるいは衾道の妻と死に別れたあと、軽の恋人と密通する前だったかもしれないし、
もともと複数の妻を持っていたのかもしれないが。

人麻呂が死んだとき、妻の依羅娘子(よさみのおとめ)が次のような歌を詠んでいる。

 今日今日と わが待つ君は 石川の 貝に交じりて ありといはずや

「今日帰るかと待っていた私の夫は、なんと石川というところの貝に混じって死んでしまったというではないか」
つまり、人麻呂は貝のたくさんとれる海辺で死に、海に埋葬されたらしい。

梅原猛は、人麻呂が身分の高い皇女と密通したため出雲の国へ流され、そこで処刑されたと解釈している。

複数の女性の死や別れを歌った人麻呂が、最後には遠方で不自然な死に方をして、妻がその不自然な死をおおっぴらに歌に詠んだというのはなかなかドラマチックだが、万葉集が朝廷の公式な歌集だということを考えると、なんだか異常な感じがする。

だからこそ、その裏に朝廷の権力闘争のようなものを想像する余地が生まれるわけだ。


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