意識が朦朧としたまま西院伽藍を離れ、順路表示にしたがって大宝蔵院をめざす。
玉虫厨子など有名な国宝が展示されている建物だ。
途中、奈良時代に建てられたという倉庫「綱封蔵」(こうふうぞう)と、
僧侶たちが暮らした「室」(むろ)とよばれる部屋が並んだ、長屋みたいな建物の前を通った。
昔は「綱封蔵」みたいな倉庫が33も並んでいたというから、
法隆寺がどれほどの規模だったかわかる。
聖徳太子一族が滅ぼされたあとに、朝廷からよほど破格の待遇を受けていたのだろう。
その理由は何か?
梅原猛の言うように聖徳太子の怨霊を恐れたからなのか?
それとも白鳳・天平時代のグローバリゼーションの先駆をなす寺として、
ブランド的にも人材・技術的にも優れたものを持っていたからなのか?
当時のお寺とは宗教法人である以上に、
最先端の産業・技術拠点だった。
室(むろ)はさすがに今は誰も住んでいないのだろう。
倉庫よりも質素な、物置みたいに見える。
お寺は修行の場なのだから、僧侶の住まいが質素なのはあたりまえのことなのだが、
法隆寺の僧侶たちがこういう独房みたいな施設で暮らしていたというのは、ちょっとした驚きだ。
聖徳太子一族のような権力者は宮殿のような建物に住んでいたのだろうが、
彼らに使える僧侶はみんなこういう質素なところで暮らしていたのだろうか?
それとも僧侶の中にも身分があって、
幹部たちは宮殿のようなところで暮らし、
一般の僧侶たちがこういう独房長屋で寝起きしたのだろうか?
まあ、周辺の農村ではまだ竪穴式住居が普通だったらしいので、
これでも当時としては近代的・豪華な建物だったのだろうが。
そもそも当時の僧侶とはどういう人たちだったんだろうか?
お経を読み、唱え、仏の道で精進に専念する修行僧だったのか?
それとも、中国・朝鮮半島の先端思想・技術を導入する、
学者・技術者を兼ねていたのか?
今の視点から1300〜1400年前の古いものを眺めるのではなく、
当時の価値観へタイムスリップしてみると、
こういう大寺院が当時の近代化においてどんな役割を果たしていたのかが、
おぼろげながら感じ取れるような気がする。
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