
中百舌鳥(なかもず)駅を出て自転車を組み立てたら、時刻はもう11:00過ぎ。
とりあえず最初の目的地、堺市の歴史博物館へ向かって走り出す。
このあたりは仕事で二度来ているので、地図をコピーしてこなかったのだが、
いざ走り出すと、どうも様子がおかしい。
そのうち方角を90度間違えていたことがわかってきた。
仕事では取材先の工場からタクシーでなかもず駅に乗り付けたので、
途中で曲がった交差点をひとつ忘れていたらしい。
それでも、そのうち博物館の近くにあるはずの仁徳天皇陵が見えたので、
その外周道路を走っているうちに、博物館前に着いた。
まず感謝の気持ちを込めて仁徳天皇陵に参拝。
言うまでもなく日本最大の古墳だ。
古墳というのはお墓だから、神社のように神々がいるとされているわけではないが、
天皇陵は宮内庁管轄で、こんなふうに鳥居が建てられ、
いかにも参拝したくなるような演出をしているところが多い。
天皇陵でない古墳でも、山の麓に神社が建てられているところもある。
古墳のほとんどは、奈良時代あたりからすでに誰の墓なのかわからなくなっているらしいのだが、
昔の人は畏敬の念を込めて拝んだようだ。
この仁徳天皇陵の近くには、仁徳天皇の父応神天皇の陵墓とされる古墳もある。
彼らより前の天皇の陵墓が大和盆地にあるのに、
どうして彼らの陵墓が大阪側にあるのか不思議だが、
騎馬民族征服説を唱える学者は、
応神・仁徳がその前の王朝とは無関係で、
朝鮮半島からわたってきて、馬と鉄を武器に大和を征服した騎馬民族だと考えている。
しかし、大和を征服したなら大和に陵墓を築いてもよさそうなものだ、
というのがぼくの素朴な疑問だ。
たしか古事記によると、応神天皇の母・神功皇后は朝鮮半島征伐に出かける途中で妊娠したのだが、
そのまま半島征伐を強行したあと、九州に帰ってきて応神天皇を産んだということになっている。
しかも、赤ん坊の応神天皇はすんなり大和に入れず、
大臣の武内宿禰(たけのうちのすくね)に守られながら、あちこち転々とし、
かなり苦労を重ねてやっと大和に入っている。
この一連のストーリーを素直に解釈すると、
応神天皇の一族は朝鮮半島からやってきて、
かなり苦労した末に、権力を掌握したのだろう。
この百舌鳥丘陵から堺にかけての地域は、
古代からきめの細かい良質の砂がとれ、
これが鉄を溶かして成形するときの型にちょうどよかったので、
製鉄業が栄えたのだという。
もしかしたら、応神・仁徳王朝が大和ではなくこの大阪側を基盤としたのも、
製鉄のしやすさや、朝鮮半島〜九州に築いた拠点との交通の便を考えてのことだったのかもしれない。
この地域の製鉄業は、やがて戦国時代に鉄砲の製造へとつながっていく。
ぼくがこれから書こうとしている戦国時代の小説も、
この鉄砲の製造・流通をひとつの軸としている。
だから取材のために堺まで来たのだ。
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