イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

戦国歴史紀行2009

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本丸跡を抜けると、高い石垣の上に天主閣跡がある。

石垣だけが残った空間を見渡すと、案外狭い印象を受けるが、
ここに近年の研究であきらかになった派手な天主閣を、
イメージしながら重ねてみると、
日本の歴史上類を見ないほど美しい建築が浮かび上がる。

ぼくはテレビで何度かCGの天主閣を見ているので、簡単にイメージできるのだが、
まだ見てない人は、近くにある安土城考古博物館と安土城天主/信長の館を、
先に見ておいた方がいいかもしれない。

石垣のまわりは木々がかなり伸びていて、
びわ湖/西の湖を見下ろすこともできないのだが、
天主閣がそびえていたときはさぞかしいい眺めを楽しむことができただろう。

ふつう、「天守閣」と書くのだが、信長の城の場合は、「天主閣」と書くのだそうだ。
そこに自ら神になろうとした信長の野望、傲慢さが表れているということらしい。

もうひとつ、信長はキリスト教にかぶれていたので、
キリスト教の礼拝堂を天主堂と呼んだのと同じノリで天主閣と名づけたという人もいる。

しかし、ぼくはどちらも疑わしいと思う。

たしか、信長が自ら「天主閣」と名づけたとか、
自分を「天主」と呼べと命じた証拠は残っていないはずだ。

天主閣に神々の絵を描かせ、
自分は最上階に立って、すべての神々の上にいることを示そうとしたという説も聞いたが、
これも当て推量の域を出ないような気がする。

このあいだも書いたが、
信長が比叡山や本願寺をつぶそうとしたのは、
神仏を利用して不合理なほどの富と権力を独占しようとする宗教勢力と、
それを支える古い社会システム、古い価値観と戦っただけであって、
神仏そのものを敬わなかったわけではない。

天皇家に対してもそうだ。

安土城の本丸には天皇が行幸したときのエリアを設けたりしているし、
京都の御所も荒れ果てていたのを修復したりして、
信長には若い頃から(というより父の代から)一貫して天皇家を敬う姿勢が強い。

その一方で、本来天皇の権限/役割だった暦の管理権を無視して、
もっと合理的な暦を採用したりしているので、
そのあたりが伝統を重んじる勢力には気に入らなかったらしいが、

戦国時代の混乱を収拾して新しい秩序を確立するために、
当時としては常識はずれの近代化をはかった信長と、
父祖の代から天皇家を崇拝する勢力に属していた信長がいたということなのだろう。

変化の時代に新旧両方の価値観のあいだで分裂せざるをえないのは、
今も昔も同じだ。

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まっすぐな急階段を登り切ると、道はジグザグの山道になった。
ふりかえると崖のような石段。
ジグザグの道が切れるなら、どうして下から切らなかったのか不思議だ。

海外ではアルプスでもピレネーでも、カナディアンロッキーでも、
なだらかな長〜い道を下の方からつけてあるのをよく見かけるが、
日本ではわりと急勾配の道を平気で造る。
山自体が小ぶりで急勾配だからだろうか。

石垣の石の大きさはあいかわらず不揃いだ。
たしか「下天は夢か」に巨大な石を無理矢理引っぱりあげるくだりが出てくるが、
ここの石もあんな感じで、車も使わず引っぱりあげたんだろうか。

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急な石段の両わきには、羽柴秀吉や前田利家の邸宅跡がある。

こんな急斜面だから、邸宅も石垣を積んで、二段がまえになっている。

それでも荷車や馬は上がれなかったんじゃないだろうか。

山荘としてなら別だが、さぞかし使いづらい屋敷だっただろう。

たしか羽柴秀吉は安土城ができた頃は、長浜に城をもらっていたはずだし、
ほとんど各地に転戦していたから、あまりここにいなかったのかもしれない。

上の方の、お寺の本堂になっているところは、
「伝徳川家康邸」と表示されているが、ほんとかな?

家康は信長にとって家来ではなく同盟している大名だから、
場所はちょっと上とはいえ、家来たちと並んで屋敷をかまえるというのはありそうもない気がする。

本能寺の変の直前にも、家康が安土に来るというので、
明智光秀がを接待役として、盛大なもてなしをしたと言われているから、
家康は家臣ではなく、外からの客人だったわけだ。

ただ、この安土時代にはたしか、信長の命令で家康の長男と正室が処刑されている。
同盟関係とはいえ、対等ではなく、ほとんど主従に近い関係だったことがわかる。

もしかしたら、家康が安土に来たときに滞在する別宅みたいなものが、
ここにあったのかもしれない。

形式上は対等の大名同士だが、実際には家臣であるという、
微妙な関係だったのだろう。

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料金所で500円払って安土城跡に入る。

いきなり急な石段が斜面をまっすぐのぼっている。
これは馬や輿(こし)に乗ったまま上り下りするのは無理だろう。
「どんな偉いやつでもおれに会いたければ自分の脚で息を切らしながら歩け」ということだろうか。
なんだかそこに信長の性格が反映されているように感じられる。

そして大小不揃いの石を積み上げた、隙間だらけの石垣。
そこにはすべての工事を猛スピードで進行させた、
信長のせっかちさが表れているようにも感じられる。

石段に使われている石には、
さっき近江八幡から南津田町へ向かうあいだにいくつも見たような、
小型の石仏がたくさん混じっている。

わざと石段を通る人たちに石仏を踏ませるように置かれているものもある。

そこには仏像を拝まなかった信長の気性が反映されていると、
解説のボードに書かれている。

信長は神仏を信じなかったわけではないらしいが、
民衆の無知につけ込んで偶像を拝ませ、世の中を支配している宗教勢力が許せなかったらしい。

このたくさんの石仏を運んだ人足たちの中には、
仏像を本気で拝む人はいなかったのだろうか?

もしかしたら、石段のわきの方に置かれている石仏は、
この石仏の扱いに心を痛めた人が、踏まれないように置いたのかもしれない。

しかし、多くの人たちは信長の威光に圧倒されて、
あるいは本気で仏教寺院の支配に反撥を感じていて、
近在から石を集めるときに、石仏もねこそぎ運んだのだろう。

ぼくがさっき近江八幡から南津田町のあいだで見かけた石仏は、
石集めのエリア外だったから助かったのだろうか?

それとも信心深い地域住民たちが隠して守ったか、
集めに来た人たちを買収して持って行かせないようにしたのだろうか?

あるいは安土城建設のあとに、石仏を作り直したのだろうか?

(参考までに、近江八幡から南津田町で見かけた石仏の写真も、もう一度アップしておきます。)

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安土城跡は、道路に巨大な看板があり、
未舗装ながら広い駐車場もあり、
トイレ・休憩所もありで、
わりと観光地化されているようだが、
平日とあって人影はまばらだ。

どこかにレンタサイクル屋があるのか、
貸し自転車でやってきて、駐輪場に自転車を置いて安土山に向かうカップルがいた。

ぼくも駐輪場の柵に自転車を固定し、
バイクシューズをランシューズに履き替える。

天守閣跡がある山頂まではちょっとした山登りになりそうなので、
水飲み場でボトルに水を補給。

トイレに寄ったら、
「もう少しの辛抱をお願いします。文芸の郷に綺麗なトイレがあります  安土町観光協会」
という表示があった。

公衆トイレとしてはわりときれいな方だと思うのだが、
ここを管理・運営している団体はよほどきれい好きなのだろう。


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