

本丸跡を抜けると、高い石垣の上に天主閣跡がある。
石垣だけが残った空間を見渡すと、案外狭い印象を受けるが、
ここに近年の研究であきらかになった派手な天主閣を、
イメージしながら重ねてみると、
日本の歴史上類を見ないほど美しい建築が浮かび上がる。
ぼくはテレビで何度かCGの天主閣を見ているので、簡単にイメージできるのだが、
まだ見てない人は、近くにある安土城考古博物館と安土城天主/信長の館を、
先に見ておいた方がいいかもしれない。
石垣のまわりは木々がかなり伸びていて、
びわ湖/西の湖を見下ろすこともできないのだが、
天主閣がそびえていたときはさぞかしいい眺めを楽しむことができただろう。
ふつう、「天守閣」と書くのだが、信長の城の場合は、「天主閣」と書くのだそうだ。
そこに自ら神になろうとした信長の野望、傲慢さが表れているということらしい。
もうひとつ、信長はキリスト教にかぶれていたので、
キリスト教の礼拝堂を天主堂と呼んだのと同じノリで天主閣と名づけたという人もいる。
しかし、ぼくはどちらも疑わしいと思う。
たしか、信長が自ら「天主閣」と名づけたとか、
自分を「天主」と呼べと命じた証拠は残っていないはずだ。
天主閣に神々の絵を描かせ、
自分は最上階に立って、すべての神々の上にいることを示そうとしたという説も聞いたが、
これも当て推量の域を出ないような気がする。
このあいだも書いたが、
信長が比叡山や本願寺をつぶそうとしたのは、
神仏を利用して不合理なほどの富と権力を独占しようとする宗教勢力と、
それを支える古い社会システム、古い価値観と戦っただけであって、
神仏そのものを敬わなかったわけではない。
天皇家に対してもそうだ。
安土城の本丸には天皇が行幸したときのエリアを設けたりしているし、
京都の御所も荒れ果てていたのを修復したりして、
信長には若い頃から(というより父の代から)一貫して天皇家を敬う姿勢が強い。
その一方で、本来天皇の権限/役割だった暦の管理権を無視して、
もっと合理的な暦を採用したりしているので、
そのあたりが伝統を重んじる勢力には気に入らなかったらしいが、
戦国時代の混乱を収拾して新しい秩序を確立するために、
当時としては常識はずれの近代化をはかった信長と、
父祖の代から天皇家を崇拝する勢力に属していた信長がいたということなのだろう。
変化の時代に新旧両方の価値観のあいだで分裂せざるをえないのは、
今も昔も同じだ。
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