
スコールのような豪雨はまもなく止んだが、
また次のスコールが来るかもしれないので、
とりあえず岐阜城に登るのはやめて街を歩くことにする。
岐阜公演のすぐ近くを長良川が流れていて、
その南側に古い街並みがあるというので行ってみた。
戦国時代に起源を持つという川原町。
斎藤道三が整備した商人の町である云々との説明が案内板に書かれている。
京都の河原町も鴨川沿いにあるが、
もともとは文字通り川原に立った市から生まれたのかもしれない。
山城の商人の出だった斎藤道三は商業を重視したので、
彼の時代に商業の拠点が整備されたということなのだろうか。
ただ、戦国大名はみんな多かれ少なかれ商業に力を入れているから、
商業都市の構築は道三の独創だったわけではない。
平安〜鎌倉期には商業は寺院神社が独占的に管理していたのだが、
室町期あたりになると、その支配から脱して独自に運営される商業都市が生まれた。
堺や桑名などがその例だと言われる。
伊勢や尾張津島のように、もともと神社の管理下で運営されていた商業都市も、
この頃になると、商人たちの力が強くなり、
独自の経済活動を行ったり、戦国大名と結んで勢力拡大をはかるようになった。
相模の戦国大名・北条早雲はもともと伊勢の商人だったといわれているし、
甲斐の武田や駿河の今川も、東国進出に熱心な伊勢商人と組んで、
商業の振興をはかり、国力の強化に役立てたという。
道三の商業振興もこの時代の流れに沿ったものだったのだろう。
そもそも道三自身が商人として京からやってきて、
一代で美濃の国を乗っ取ったわけではなく、
最近の研究によると、彼の父親が京の商人の援助を受けて美濃の国で武将に成り上がり、
その息子の道三が国盗りを完結させたということらしい。
しかし、その道三も晩年は多くの家臣に背かれ、
その家臣たちに支持された息子に殺されてしまう。
これはぼくの推測だが、たぶん商人階級出身の道三が、
強引にのし上がり、美濃を支配者になったことに反感をいだく家臣が少なくなかったのだろう。
息子の義龍は実は道三の実子ではないといわれる。
美濃の守護だった土岐頼芸が道三に与えた側室から生まれた息子なのだが、
彼女は道三に与えられたときすでに身ごもっていた。
つまり義龍は正統な守護の息子なのだ。
だから反道三派の家臣たちにとって、
義龍は恰好のよりどころとなった。
司馬遼太郎の「国盗り物語」では、
道三が義龍を跡取りとして育てながら、後から生まれた実子をかわいがり、
義龍を跡取りの座から降ろそうと考えるようになり、
それを怒った義龍が、自分は道三の実子でないことを知って、
ついに道三と戦うといった物語になっているのだが、
そういう家族間の愛憎みたいなものの裏には、
美濃の豪族たちによる反道三運動があったのだろう。
ぼくは昔から道三が宿敵だった織田信秀(信長の父)と急に和睦し、
戦闘では常に勝っていたはずなのに、
道三の方から人質として娘を嫁がせたのが不思議だったのだが、
おそらく道三はこのときすでに美濃でかなり危ない状態にあったのかもしれない。
とまあ、こんなことを考えながら川原町をぶらついた。
街並みはたぶん戦国時代のものではなく、
江戸時代以降のものなのだろう。
観光地としてあまりメジャーではないせいか、観光客もまばらだ。
古い料亭みたいなものもあるが、
ほとんどの古い建物は観光地の土産物屋にもならず、
静かに閉ざされている。
そのせいか、飛騨高山みたいな観光地よりも、
かえって昔の雰囲気を味わうことができる。
歩いているうちに雨はすっかり上がり、
陽射しも戻ってきた。
川の方から花火のテストらしいドドーンという音がしきりに聞こえてくる。
金華山の上にはきれいに岐阜城が見える。
これなら城に登って平野を見渡すこともできそうだ。
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