
(7月25日の旅日記です。あしからず)
今日7月25日は津島祭の宵祭りがあるというのだが、
夜6:00かららしいので、待っていたら岐阜に行けなくなってしまう。
岐阜を見物して戻ってきてもいいのだが、
たぶん宵祭りを見ていたら新幹線の最終に間に合わない。
名古屋でもう1泊するのもきついので、
祭はパスしようかなどと考えながら、
さくっと津島神社をお参りし、
となりの堀田家住宅を見る。
堀田家は四家七名字と呼ばれた、
津島の豪族・商人ファミリーのひとつだ。
津島神社を運営する社家でもあり、
織田信長に使える武将も出している。
かと思えば、堀田道空という美濃の斎藤道三に仕えた武将もいて、
この人は信長の正妻が尾張に輿入れするときのディレクターを務めたり、
道三と信長の会見に立ち会ったりしているので、
美濃と尾張の橋渡し役を務めていたらしい。
かと思えば、信長の死後ちゃっかり徳川家康に仕えて、
江戸時代に老中出したりしている堀田家もある。
戦国時代を見事に生き延びた、したたかなファミリーなのだ。
今津島神社のとなりに残っているのは、
津島に商人として残った堀田家の住居らしい。
建物自体は江戸時代に建てられて改築・移築を繰り返したものだから、
戦国時代の面影はないのだが、
さりげなく下がっているのれんに、
信長の織田家や津島神社と同じ木瓜の紋が描かれているのを見ると、
ううむ、なるほどと思う。
津島神社の社家なんだから、
神社と同じ紋なのはあたりまえといえばあたりまえだが、
このきゅうりの輪切りをデザインした紋というのは、
朝鮮半島から対馬を経て大和に鉄をもたらしたとされる、
スサノオノミコトのシンボルマークだ。
津島神社は元々インドの病の神様・牛頭天王が主神で、
平安時代あたりからの神仏習合で、
大和の病の神様であるスサノオノミコトも祀るようになったという。
というと、木瓜の紋とスサノオノミコトと堀田家・織田家の関係は、
後付けということになるのだが、
堀田家・織田家のルーツを考えると、
あながちそうとも言えないような気がする。
堀田家の伝承によれば、先祖は武内宿禰(たけのうちのすくね)だという。
この人は、オキナガタラシヒメつまり神功皇后が朝鮮征伐から戻ってきて産んだ応神天皇を守って、
大和に入るのに何度も戦を重ね、近畿周辺をうろうろし、
苦労の末に大和に入って応神天皇を即位させた伝説の忠臣として知られている。
ぼくは応神天皇が天皇なのになんで大和に入るのに苦労したのか、
前々から不思議に思っているのだが、
江上波夫の騎馬民族征服説によると、応神天皇はモンゴルから朝鮮を征服し、
大和に鉄器と馬をもたらした騎馬民族の征服王なのだという。
スサノオノミコトと鉄との関係も、
もしかしたら応神天皇の伝説が神話化したものなのかもしれない。
スサノオノミコトがアマテラスオオミカミの弟とされながら、
どこかしらアウトローのイメージがあるのは、
元々よそ者の神様だからなのだろう。
堀田家がこの応神天皇の忠臣である武内宿禰を先祖としているということは、
朝鮮半島から鉄と共にやってきた民族との関連をイメージさせる。
同じ家紋を持つ織田家も、越前(今の福井)の織田剣神社の社家から、
守護の斯波家に仕え、尾張の守護になった斯波家と共に尾張に来たとされるが、
この剣神社もまた鉄や朝鮮半島と関わりが深い神社であり、
家紋も同じ木瓜だ。
というより、この神社の家紋を織田家も共有したということなのだろうが。
しかも越前は古代に越の国と呼ばれ、
朝鮮からの渡来人が多かった土地だ。
応神天皇の母・神功皇后=オキナガタラシヒメも、
この越の国の一族出身という説がある。
大和で応神天皇の家系が絶えたとき、
この越の国から応神の五代の子孫という継体天皇が迎えられているから、
越の国ファミリーは単なる地方豪族を超えた存在だったのだろう。
すべては単なる伝承ではあるのだが、
神功皇后・応神天皇・武内宿禰・剣神社・津島神社・織田家・堀田家の、
福井・朝鮮半島・鉄コネクションは、
なかなか興味深いストーリーでつながっているのだ。
|