イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

戦国歴史紀行2009

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(7月25日の旅日記です。あしからず)

今日7月25日は津島祭の宵祭りがあるというのだが、
夜6:00かららしいので、待っていたら岐阜に行けなくなってしまう。

岐阜を見物して戻ってきてもいいのだが、
たぶん宵祭りを見ていたら新幹線の最終に間に合わない。

名古屋でもう1泊するのもきついので、
祭はパスしようかなどと考えながら、
さくっと津島神社をお参りし、
となりの堀田家住宅を見る。

堀田家は四家七名字と呼ばれた、
津島の豪族・商人ファミリーのひとつだ。

津島神社を運営する社家でもあり、
織田信長に使える武将も出している。

かと思えば、堀田道空という美濃の斎藤道三に仕えた武将もいて、
この人は信長の正妻が尾張に輿入れするときのディレクターを務めたり、
道三と信長の会見に立ち会ったりしているので、
美濃と尾張の橋渡し役を務めていたらしい。

かと思えば、信長の死後ちゃっかり徳川家康に仕えて、
江戸時代に老中出したりしている堀田家もある。

戦国時代を見事に生き延びた、したたかなファミリーなのだ。

今津島神社のとなりに残っているのは、
津島に商人として残った堀田家の住居らしい。

建物自体は江戸時代に建てられて改築・移築を繰り返したものだから、
戦国時代の面影はないのだが、
さりげなく下がっているのれんに、
信長の織田家や津島神社と同じ木瓜の紋が描かれているのを見ると、
ううむ、なるほどと思う。

津島神社の社家なんだから、
神社と同じ紋なのはあたりまえといえばあたりまえだが、
このきゅうりの輪切りをデザインした紋というのは、
朝鮮半島から対馬を経て大和に鉄をもたらしたとされる、
スサノオノミコトのシンボルマークだ。

津島神社は元々インドの病の神様・牛頭天王が主神で、
平安時代あたりからの神仏習合で、
大和の病の神様であるスサノオノミコトも祀るようになったという。

というと、木瓜の紋とスサノオノミコトと堀田家・織田家の関係は、
後付けということになるのだが、
堀田家・織田家のルーツを考えると、
あながちそうとも言えないような気がする。

堀田家の伝承によれば、先祖は武内宿禰(たけのうちのすくね)だという。

この人は、オキナガタラシヒメつまり神功皇后が朝鮮征伐から戻ってきて産んだ応神天皇を守って、
大和に入るのに何度も戦を重ね、近畿周辺をうろうろし、
苦労の末に大和に入って応神天皇を即位させた伝説の忠臣として知られている。

ぼくは応神天皇が天皇なのになんで大和に入るのに苦労したのか、
前々から不思議に思っているのだが、
江上波夫の騎馬民族征服説によると、応神天皇はモンゴルから朝鮮を征服し、
大和に鉄器と馬をもたらした騎馬民族の征服王なのだという。

スサノオノミコトと鉄との関係も、
もしかしたら応神天皇の伝説が神話化したものなのかもしれない。

スサノオノミコトがアマテラスオオミカミの弟とされながら、
どこかしらアウトローのイメージがあるのは、
元々よそ者の神様だからなのだろう。

堀田家がこの応神天皇の忠臣である武内宿禰を先祖としているということは、
朝鮮半島から鉄と共にやってきた民族との関連をイメージさせる。

同じ家紋を持つ織田家も、越前(今の福井)の織田剣神社の社家から、
守護の斯波家に仕え、尾張の守護になった斯波家と共に尾張に来たとされるが、
この剣神社もまた鉄や朝鮮半島と関わりが深い神社であり、
家紋も同じ木瓜だ。
というより、この神社の家紋を織田家も共有したということなのだろうが。

しかも越前は古代に越の国と呼ばれ、
朝鮮からの渡来人が多かった土地だ。
応神天皇の母・神功皇后=オキナガタラシヒメも、
この越の国の一族出身という説がある。

大和で応神天皇の家系が絶えたとき、
この越の国から応神の五代の子孫という継体天皇が迎えられているから、
越の国ファミリーは単なる地方豪族を超えた存在だったのだろう。

すべては単なる伝承ではあるのだが、
神功皇后・応神天皇・武内宿禰・剣神社・津島神社・織田家・堀田家の、
福井・朝鮮半島・鉄コネクションは、
なかなか興味深いストーリーでつながっているのだ。

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津島資料館の収穫はいまいちだったので、
ダイドーブレンドコーヒーのCM撮影現場をさっさと立ち去り、
旧街道を散歩。

春にも通ったのだが、あのときは自転車だったので、
あまりにもあっさり通過してしまった。

やはり街をじっくり見るなら歩きに限る。

たぶん家屋はすべて江戸時代以降のもので、
戦国時代のものはないのだろう。

それでもさっき見た屏風の絵とあわせて、
想像力をふくらませると、
なんとなく戦国期の津島のにぎわいが見えてくるような気がする。

小説の中では少年の信長が悪童たちと街を、
派手な衣装で練り歩き、
売春宿で遊んだりすることになっている。

信長はかぶき者、現代で言うならヒッピーやパンク少年で、
同性愛者で、女装して歌い踊るのが好きだったという。

大先生たちの小説ではあまり詳しく描かれてないが、
信長のこの一面はかなり重要なのではないかとぼくは考えている。

常識からの逸脱こそ戦国時代に権力を握った階層の、
エネルギーの源泉だったはずだからだ。

時代小説家たちは「信長公記」をもとにして、
髪を茶筅に結い、縄の帯を締め、
ひょうたんや革袋をぶらさげて野山を駆け回る、
自然児のような信長を描いているが、

都会のパンク小僧だった信長は描いていない。
美少年との同性愛のことも。

サラリーマン読者には不向きな側面だからだろうか?

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7月25日(土)……ずいぶん前の話ですみません。

織田信長と縁が深い津島を訪ねた。

3月に折りたたみ自転車を新幹線で運んできて、
名古屋から走って津島までいったのだが、
今回は名鉄に乗り、途中乗り換えはあったものの、あっというまに着いた。

春に来たとき、4月に郷土資料館みたいなものができるというポスターを見かけたので、
今回はそこに寄るのが目的だ。

津島が織田信長の祖父・信定に平定されて、
織田家は商業都市津島の財力をバックに勢力を伸ばしていったと言われているのだが、
ほんとのところ津島商人と織田家の関係はどうだったのか、
いまいちよくわからないことが多いので、
少しでも現地で手がかりを見つけたい。

駅から津島神社方面へ猛暑の通りを歩く。
ビジネスホテルの朝食がパンと野菜サラダとジュース・コーヒーだけだったせいか、
11:00なのにものすごく腹がへる。

パン屋で分厚くてうまそうなカツサンドを売っていた。
名古屋文化圏なのでみそカツサンドもあったが、
迷うことなくソース味をチョイス。

みそカツとごはんならまだわかるが、
パンにはソースの酸味がなければカツのうまさが引き立たない気がする。

夏の陽射しを浴びながら、牛乳と一緒にガツガツ食べる。

パン屋のおばさんに資料館のことをきいたら、
もっと駅寄りの旧街道沿いにあるとのこと。

引き返して旧街道を左折。
昔ながらの街並みが残っている通りだ。

明治・大正の銀行っぽいレトロなビルが資料館になっていた。

しかし、建物の前にテントが張られていて、お祭りの雰囲気。
ダイドーブレンドコーヒーのCM撮影をやっているらしい。

キャンペーンガールらしいおねえさんがニコニコ顔で「どうぞどうぞ」と言うので入ってみたが、
常設展示は片付けられていて、ほとんど見るものがない。

スペースのほとんどを使って、
子供たちがカメラに向かって「ダイドーブレンドコーヒー!」と叫んでいる。

そのうしろにある津島祭の屏風や、
すみっこに展示されている昔のこのあたりの地図を見る。

どうやら今日は津島祭の日らしい。

津島神社は祗園の八坂神社と同じ牛頭天王社で、
津島でも昔から病気よけの祭が大々的に行われていた。

津島祭の呼び物は天王川を巡行する華やかな船の屋台だ。
たくさんの提灯で華麗に飾られた船が夜の川を巡航する宵祭りは、
戦国時代にはすでに行われていて、
信長も見物したという記録があるという。

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2:40、紀伊駅に戻る。

ささっと自転車を折りたたみ、
3:03の阪和線紀州路快速に乗る。

4:20大阪着。
東海道・山陽本線に乗り換え、新大阪へ。

電車の中で乗客の会話から、日本のWBC優勝を知った。
大阪駅でスポーツ新聞を買って車内で読む。

(長々と折りたたみ自転車旅行記を書いてきましたが、この日は3月24日でした)

4:43ののぞみに乗る。
WBC優勝を祝って、ちょっと豪華な駅弁と缶ビールの夕食。

(このへんのことは、すでに3月25日のブログで紹介しましたね)

7:00過ぎ新横浜着。
7:45頃自由が丘着。

またまたささっと自転車を組み立てて、8:00過ぎに帰宅。

2:00過ぎまで和歌山・根来寺にいたのが、まるで夢の中のできごとのようだ。

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来たときとは別の道を通り、根来寺から下の幹線道路へ下る。
重厚な門構えの屋敷が並んでいる。

江戸時代の建築だろうか。
こうした立派な屋敷が多いのは、根来寺の経済力と無関係ではないのだろう。

戦国時代の軍産共同体的な巨大組織は解体され、
武装解除されて、本来の密教寺院に戻ったらしいが、
それでもかなりの経済力を持つ大寺院だったことは、
今残っている施設を見るだけでわかる。

中央政権が脆弱で、その分地方の勢力が自由に経済活動を展開できた戦国時代。
自由であるということは、他の勢力との衝突も多く、
自ら武装して権益を守らなければならないということだった。

自由な経済活動による爆発的な社会の拡大発展と戦乱は、
同じ時代のふたつの側面だった。

だから戦乱の時代を終わらせるということは、
自由な経済活動のを制限することでもあった。

平和な江戸時代は、自由と拡大を禁じられた窮屈な時代になった。

それでも江戸時代に造られた建造物を見るたびに、
それは意味のある窮屈さ、受け入れるに足りる不自由だったのではないかと思ってしまう。

しかし約250年の平和は、やがて大きな代償を要求してくる。

日本が閉ざされた島国で、限りなく封建時代に近い地味で平穏な時を過ごしているあいだに、
ヨーロッパでは戦争と革命が繰り返され、
そこから強力な政治・軍事・経済・技術的パワーが育ち、世界を席巻していた。

窮屈で幸福な250年を過ごした日本は、
知的レベルは高いものの、
それ以外に何も持たない後進国として、
いきなり19世紀の国際社会に放り出されることになる。

そこから始まった文明開化や富国強兵は、
我々が知っているような経路をたどり、
アメリカの占領下で、軍事的に無力なまま、
経済発展のみを追求するというゆがんだ国をつくりだした。

戦国時代から江戸時代へと、
江戸時代から明治時代へという、二度の大転換を経て、
日本は今また大きな転換期を迎えようとしている。

一言で言えば、欧米追従からアジアの一国家へ、ということかもしれないが、
米中露という大国にはさまれた小国の変革はむずかしい。

アジアの中では突出した豊かさを享受してきた過去の成功体験にとらわれ、
大国のはざまで様々な対立に翻弄されながら、迷走し、没落していくのか、
それとも50年かけて人口の収縮と経済システムの効率化を達成し、
オランダのように豊かな小国として生き残るのか……。

過去二度の転換期にできなかったことが、
今度こそできるという可能性はかぎりなくゼロに近い。


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