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戦国時代の鉄砲と傭兵ビジネスに関する情報は何も得られないまま根来寺を去る。 その前に、駐車場のテント式売店で抹茶ソフトを。 シチリアでも飛騨・白川郷でもそうだったが、 観光地を訪れるたびに、アイスを食べるクセがついている。 疲れているから冷たく甘いものがうまいということだろうか。
結局、根来寺の鉄砲に関する手がかりは何ひとつ得られないまま見学はおしまい…… と思ったら、少し歩いたところに本院の庫裡らしい建物があって、 拝観料を払えば中に入れるらしい。 入ってみたところで、江戸時代かそれ以降の建物だし、 本院の付属施設なので、鉄砲軍団に関する展示があるわけではないのだが、 とりあえず見事な庭を眺めながら建物の中をうろつく。 奥の薄暗い廊下に、大きなパネルがあって、 戦国時代の根来寺の全体を空から俯瞰した図が描かれていた。 堂塔数千と言われ、数百の子院が谷を埋め尽くしていた様子が細かく描かれている。 どうやら和歌山の企業が何かの目的で制作したものらしい。 絵とはいえ、巨大な宗教・軍事・産業の共同体だった根来寺の、 スケールの大きさが伝わってくる。 これを見ることができただけでも、根来に来た甲斐はあった。
大塔、本堂を参拝して外に出る。 さてどこに行こう? 戦国時代の鉄砲・傭兵軍団の面影を見てみたいのだが、 軍事産業を担っていた子院は、 戦国時代末期の討伐で消えてしまっている。 そもそも、大塔があるここは本院だから、 戦国時代から密教の修行の場であって、 傭兵軍団の拠点だったわけではない。 どんな人たち、どんな組織が鉄砲・傭兵軍団を運営していたのか、 乏しい史料や時代小説で得た知識で想像していたのだが、 現地に来てもそれ以上のことはできなさそうだ。 唯一新しい手がかりが発見できそうな博物館は閉まっているし。 とりあえずこの山あいの地形や山林の雰囲気、 大塔や大門など古い建物の感じを記憶に留めておいて、 小説を書くときの助けにしよう。 そんなことを考えていると、 無縁仏みたいな小さな石仏・墓石の集積が目に止まった。 これはいつの時代のものだろうか? 誰を弔ったのだろう? 密教寺院にも一般人用の墓地があるんだろうか? もしかして、これは根来で密教の修行に生涯を捧げて死んだ僧たちの墓なのか? そういえば数千人と言われた根来の鉄砲軍団の僧兵たちは、 死後どこに葬られたんだろう? 戦場で死んだ人たちは墓さえないのだろうか? ここは本院の中核部分だから、 子院の僧兵たちが葬られているはずもないのだが、 この無縁仏を眺めていると、 巨大寺院の軍事ビジネスを支え、死んでいった名もない僧兵たちの気配がした。
根来寺の子院や山林、空き地を抜けていくと、大きな通りに出た。 これが根来寺の中を走るメインストリートらしい。 その奥の山の斜面に、本院があった。 知らない人が見たら、この大きな道路は山の中を走るドライブウエイで、 根来寺はここから上がったところにあるのことだと思うだろう。 たしかにこの本院だけでもかなり大きな寺だからだ。 本院をお参りする前に、ドライブウエイを走ってみた。 やはり点在する子院と荒廃した感じの山林が続いている。 本院下に戻ってきて、博物館の前に自転車を停める。 博物館は休館日だった。 昨日は堺の博物館が休館日だったし、 今回、博物館見学についてはつくづくツキがない。 あきらめて美しい桜や巨大な木造の庫裡を眺めながら、本院へ続く坂を登る。 百万単位の寄進をした人たちの真新しい石碑が並んでいる。 今でも密教寺院根来寺の信仰は生きているのだ。 拝観料を払って国宝の大塔ほか、この寺の中枢部を見学。 大塔は室町時代の建物だが、 奈良の仏教建築みたいなものの上に円筒形の塔をのせ、 その上にまた奈良の仏教建築の屋根をのせたようなデザインになっている。 密教寺院の塔は各地にあるが、どれも戦国時代の戦火に焼かれたり、 その後の火災で焼失して、再建されたものばかりで、 戦国時代から残っているのはこの大塔だけとのこと。 デザイン的にはかなり中国風・和風になっているのだが、 それでもどこかネパールやチベット高原のストゥーパを思わせるところがあるのは、 たぶん円筒の丸みだろう。 ストゥーパとは釈迦の骨をおさめた塔のことだ。 インドやチベットの塔は生殖力のシンボルでもあるらしく、 もっと球体に近い丸みをおびているのだが、 中国・日本へと伝わるにつれてだんだん角張ってきて、 屋根が重なり、三重の塔・五重塔へと高層化した。 しかし、平安時代に空海が伝えた真言密教では、先祖返りがおこなわれ、 塔もちょっとチベット風になった。 この円筒の丸みがなんともセクシーで神秘的な印象を与える。 戦国時代にこの地に集まって傭兵集団を形成した人たちは、 この塔をどんな思いで見上げたのだろうか? 本院で密教の修行に励んでいた僧と、 彼ら僧兵たちとはまるでちがった人たちだったはずだ。 もしかしたら字も読めず、ひたすら殺人兵器と化して戦場に出かけた人たちだったかもしれない。 宣教師ルイス・フロイスによれば、彼らは死ぬことなどなんとも思わなかったという。 雇われて参加した戦闘で死ぬ人も少なくなかったが、 それでも僧兵の志願者はいくらでもいたと彼は書いている。 貧しい農村で食い詰めた若者だったのだろうか? それとも戦乱の時代に希望を失って自暴自棄になった若者だったのだろうか? 現代のように自暴自棄になった若者が、いきずりの人たちを無差別に差したりするのを見ると、 そうした負のエネルギーを吸収する仕組みは宗教くらいしか作れないんだろうなという気がしてくる。 吸収された負のエネルギーは、結集され、増幅されて、 オウム真理教のようなものになったりするだけなのかもしれないが。 順序から言えば、90年代にカルト集団の犯罪→弾圧があり、 負のエネルギーを吸収する装置が失われて、 無差別衝動殺人が多発するようになったということか。 そんなことを考えていると、この塔がただの建築ではなく、 人のエネルギーを吸収して悪魔もなれば神にもなる、 スピリチュアルな化け物に見えてくる。
根来寺のでかい立て看板がある角で一休みして、 山桜が咲いている参道らしき道を奥へ。 数百メートル行くとバカでかい門があった。 あたりは山あいの畑や野原、山林。 所々にお寺がある。 戦国時代には数百のこうした子院がびっしりと並び、 堂塔数万を数えるといわれた巨大寺院根来寺だが、 今はそのほとんどが衰退し、 畑や野原になってしまっているのだ。 今でも、国宝の塔を持つ本院を中心として、 根来寺はなかなか大きなお寺だが、 当時の巨大さをイメージしてみると、 このぽつんと建っている大門と、周辺のスカスカにあいた空間全体が、 広大な廃墟に見えてくる。 かつては子院のひとつひとつが、メーカーであり、商社であり、 傭兵レンタル会社だった。 種子島からポルトガルの鉄砲をいち早く導入し、 数千人の鉄砲隊を組織することができたのも、 根来寺が単なる宗教団体ではなく、 巨大な企業体だったからだ。 延暦寺の比叡山や金剛峯寺の高野山、本願寺なども、 全国に支店を持ち、巨大なビジネスを動かす企業だった。 信長は比叡山を焼き討ちしたり、伊勢の本願寺勢力を皆殺しにしたりしているが、 これは彼が仏教を憎んだからではなく、 寺院が軍事・政治・経済勢力として、国の中の独立国を形成していたからだ。 信長だけでなく、家康など戦国時代の大名は自分の領国内の一向一揆を徹底的に叩きつぶしているが、 国の統治者として、国内に独立国を勝手に作られたら、国家への反逆者として弾圧するのは、 いい悪いはべつとして、ある意味当然のことだった。 信長に傭兵を提供した根来寺も、秀吉の大軍に攻められて敗北し、衰退していく。 天下が統一され、戦国時代が終わり、雑賀衆や堺の会合衆など、 各地で自治を守ってきた勢力も自治権を奪われ、 国家の支配に組み込まれていった。 今の和歌山市周辺で自治を守り、数千の鉄砲隊を中核とした軍事力で信長を苦しめた雑賀衆も、 信長・秀吉の数度にわたる攻撃に屈した。 楽市楽座を導入した信長などの戦国大名は、 自由主義者でもヒューマニズムの信奉者でもなかった。 鎌倉・室町の中世が、寺社主導による経済・産業の時代だったのに対して、 それを国の管理下に置いたというだけのことだ。 寺社の独占ではおさまりきらないほど、 経済・産業が発展したのが室町後期の戦国時代だった。 その最先端が堺のような商人主導による自治都市だったのだが、 こうした自治が可能だったのは応仁の乱などで室町幕府が弱体化したからで、 戦乱の時代と自治は表裏一体だったともいえる。 鉄砲軍団と忍者と総合商社が混在していた根来寺は、 そうした戦国時代の最も象徴的な組織のひとつだった。
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