JR紀伊駅のすぐ南側には細い旧街道のような走っていた。
車にあおられながらこの道を少し走ると、道幅が突然広くなった。
幅が広くなったとたんに、なぜか車の通行量も減って走りやすくなった。
山桜が点々と咲く北側のなだらかな山稜や、
南側の紀ノ川沿いに広がる平野を眺めながらのんびりペダルをこぐ。
種子島から紀伊に鉄砲を持ち込んだとされる津田監物はたしかこのあたりにあった小倉荘の人だ。
津田家はもともと河内(今の大阪府東部)の北、交野の土豪で、
楠木正成を支援した一族でもあったという。
その子孫の一家系が南北朝時代に紀伊のこのあたりに移住した。
河内の土豪は武士というより武装した商工業集団のようなものだったらしい。
武士のように土地を奪い、支配するのではなく、
移住した先で商工業を営み、経済の活性化に貢献したので、
雑賀衆や根来寺など地元の勢力にも受け入れられたのかもしれない。
地図で見ると根来寺は小倉荘のすぐ北側の山にある。
近いからというわけでもないのだろうが、
津田家は根来寺に杉の坊という子院を設立した。
根来寺は平安時代に高野山から分かれた真義真言宗という密教系のお寺だ。
鎌倉時代までは厳しい修行をする小さな寺院だったが、
室町時代になると子院を急速に増やし、
様々なビジネスを展開して発展した。
寺には学侶(がくりょ)方という、仏教の修行をする部門と、
施設の整備や警備などを担当する行人(ぎょうにん)方という部門があるのだが、
室町時代には後者の行人方に属する子院が数百もできた。
紀伊を中心とした近畿エリアの有力者がビジネスのために、
次々とこうした子院を設立したという。
この時代の大寺院は様々な地域勢力の財力・技術力・ネットワークを活かした、
連合型の企業体だったのだ。
もともとビジネスの多くは商工業だったが、
僧兵を傭兵として各地にレンタルする軍事ビジネスもさかんになり、
やがてこれが根来寺の主要産業になっていく。
根来流忍者や根来衆の鉄砲隊が有名になったのは、
こうした軍事ビジネスを展開していたからだ。
津田監物は杉の坊を中核とした根来寺の鉄砲軍団を率いて、
あるときは潰れかけの足利将軍家、あるときは三好家、あるときは織田信長の傭兵として活躍した。
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