イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

戦国歴史紀行2009

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3:42和歌山市着。

10年前のビジネスホテルガイドからちぎってきた和歌山編のページで、
今夜の宿をさがす。

駅からちょっと遠い「グリーンホテル」というのが、
シングル6000〜6500円で部屋が21㎡と広い。

電話してみたら空いているという。
しかも値段は5400円とのこと。
10年で値上がりしたホテルはめずらしくないが、
値下がりしたホテルは初めてだ。

自転車を組み立てて市内へ走る。

駅から徒歩2〜3分でも、自転車をかついで歩けばしんどいから、
歩10分以上のホテルに自転車で走ってしまう方が楽だ。

「ぶらくり丁」というアーケード街の途中を右折した、
ソープランド街のはずれにそのホテルはあった。

アーケード街もソープランド街も通行人はほとんどない。
ソープの客引きも手持ちぶさたの様子だ。
スポーツタイプのミニサイクルで走る旅行者に声をかけても無駄なので、
ちょっと薄ら笑いを浮かべて見ているだけ。

「グリーンホテル」はたしかにビジネスホテルなのだが、
どうしてこういう立地につくったのかちょっと不思議だ。
激安なのは、駅から遠いだけでなく、この環境のせいもあるのかもしれない。

フロントのおねえさんは若くてなかなか感じがいい。
「自転車はこのまま部屋に持って上がってもいいですよ」と言ってくれた。

驚いたのは、料金が4500円になったことだ。
彼女は電話に出たおねえさんと同一人物だと思うのだが、
電話で告げた料金を忘れてしまったのだろうか?

後ろの壁に貼ってある料金表には、「シングル5400円」とあるのだが。

建物はたしかに古い。
部屋は2階だが、エレベーターがないので担いで上がらなければならない。

おねえさんは「裏に停めておいてもいいですよ」と、
裏に案内してくれた。

そこは小さな駐車場で、ボロボロの洗濯機も置いてある。
工場とか工事現場の季節労働者が長期滞在するときに使うのだろう。

セキュリティーが心配なので、とりあえず自転車は2階に運んだ。

部屋はツインだった。
自転車を置いても余裕の広さ。

低予算の自転車旅行にはうってつけだ。

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2:20、南海本線堺駅に戻り、自転車をたたむ。
アーレンキーでペダルをはずすのもだいぶ慣れてきた。

和歌山までは特急で47分。
2:55の南海特急サザンは自由席だと特急料金もいらないとのこと。

旅気分が味わえるボックス席ではなく、普通のベンチシートだが、
わりとすいているので自転車を膝の前に置いてすわることができた。

岸和田を過ぎると海がエメラルド色に輝いていた。
大阪府と和歌山県は隣なのだが、
いつ来ても和歌山の海はこんな感じだ。

たまたま天気に恵まれたというのもあるかもしれないが、
真冬に来ても和歌山の海は陽がさんさんと降り注いであたたかい。

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南海本線の堺駅まで戻るついでに、ちょっと遠回りして、
古い建物が残るエリアを通ってみた。

江戸時代の町屋もけっこうある。

蔵が通りに面した位置にどすんと置かれている家があったが、
これは一体どういう意図で造られたんだろう?

玄関を入るとすぐ蔵ということは、
泥棒を誘っているようにも思えるし、
頑丈な蔵造りで泥棒や火事を遮断しようとしているようにも見える。

こうして堺をさらっと回ってみたわかったのは、
戦国時代の自由都市堺が滅んでからも、
商人・職人たちがこの町で生き続けたらしいということだ。

あちこちで見かけた独特の町屋や、
刀剣工房をはじめとする、いろんな種類の工房がそれを物語っている。

そういえば、昭和30年代に3年間暮らした堺には、
江戸時代や明治時代の空気が漂っていたような気がする。

当時のぼくは5歳から7歳だったから、
江戸時代や明治時代がどういうものなのか明確なイメージを持っていたわけではないのだが。

関東出身の銀行員だった父は、地元の空気に馴染もうと、
母と小唄を習い、母はそのほかにお茶も習っていたが、
稽古仲間には地元の裕福な商人たちがいた。

浜寺の海辺にある老舗旅館で開かれる小唄の発表会は、
子供にとってまるで時代劇の一幕のようだった。

あの人たちの大半はもう亡くなっているかもしれないが、
伝統文化に彩られた暮らしは今も子や孫に受け継がれているだろうか?

それとも高度成長期からオイルショック、バブル期にかけての、
激しい経済構造・社会構造の変化に呑み込まれてしまっただろうか?

戦争も社会を破壊するが、
ゆがんだ成長はさらに大きく社会を破壊する。

あれから半世紀近く生きてきてぼくが一番学んだのは、
社会の成長と破壊のメカニズムについてだったかもしれない。

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芝辻・榎並の鉄砲鍛冶屋敷跡がある紀州街道から1本西側の路地に入って、
少し北へ行くと、江戸時代の鉄砲工場「鉄砲屋敷」があった。

見たところ、板塀で囲まれた普通の屋敷だ。
解説が書いてある案内板によると、個人所有なので非公開とのこと。

一体誰の所有物なんだろう?
江戸時代の鉄砲鍛冶の子孫が継承しているんだろうか?

それにしてもこんな普通のお屋敷で鉄の加工がよくできるもんだと感心する。

鉄砲の銃身は鉄の筒だから、溶かした鉄を鋳型に流し込んで造るのかと思いきや、
刀剣同様、熱した鉄を叩いて鍛えながら造ったのだそうだ。

中で火薬を爆発させるわけだから、鋼鉄でないともたないのだ。

テレビなどで見る刀剣の製造現場は、わりとこぢんまりした土間で、
数名の職人が火で鉄を熱し、石の上で叩き、水につけるといった工程を繰り返すようだが、
鉄砲も近代の工場とはまったくちがう、小さな作業場で造られていたらしい。

17世紀なかばの最盛期には堺の鉄砲生産量が二千数百挺、職人が80人くらい。
平和な時代が続いてそれが次第に減少し、元禄時代には500挺/20人くらいに減ったという。

この鉄砲屋敷は泰平の時代にも静かに鉄砲を造り続けた工房だったのだろう。

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いくら回っても、紀州街道沿いにあるはずの榎並・芝辻屋敷跡が見あたらないので、
地元の人らしいおじさんに聞いてみた。

おじさんはちょっと警戒するような目でぼくをじろっと見てから、
場所を教えてくれた。

この界隈は江戸時代から鉄加工業の町だったらしく、
今でも包丁・刀剣の工房が点在している。

静かなのになんとなく殺気を感じるのは、刃物の物騒さのせいだろうか。

教えられた場所はさっきから何度も通った刀剣店だった。

よくよく見ると、店の横に「榎並・芝辻屋敷跡」の小さな石碑と、
観光客向けの解説ボードが立っていた。

わかってみれば、見落としていたのが不思議なくらい目立つ。
やはり自転車だといくらゆっくり走っていても、注意が散漫になるようだ。

歴史散歩しながらいろいろ発見したいなら、
自転車を降りて歩かなければならないのだろう。

芝辻家はもともと堺の鍛冶師で、種子島から伝わった鉄砲を最初に復元し、
日本製の鉄砲製造をスタートさせたとされている。

榎並家も同じく堺の鍛冶師で、鉄砲鍛冶として有名だ。

ただし、この解説に出てくる芝辻理右衛門というのは、
鉄砲伝来の頃の人ではなく、一世代後の人のようだ。

1544年、種子島から鉄砲を持ち帰った津田監物が、
芝辻清右衛門という刀鍛冶に鉄砲の複製・製造法の開発を依頼した。

津田監物は紀州小倉というところの土豪で、すぐ近くにある根来寺の在家僧でもあった。
根来寺は数千の僧兵をかかえ、戦国大名に傭兵を派遣するビジネスで儲けていたのだが、
鉄砲を製造するようになってから、僧兵で鉄砲隊による派遣ビジネスを始めた。

客は弱体化した足利将軍・管領家から、畠山高政のような落ちぶれかけた守護大名、
三好長慶のように四国から進出してきた新興の戦国大名まで幅広かった。

織田信長も美濃から上洛した頃から、
紀州の雑賀衆と並んでこの根来衆の鉄砲隊を傭兵として雇っている。

津田監物の依頼で鉄砲鍛冶となった芝辻清右衛門は、
もともと堺の鉄加工業者だったが、
当時は根来寺の門前町に工房を持っていた。

だから種子島から伝わった鉄砲の製造は、
根来でスタートしたと思われるのだが、
それとほとんど同時期に堺や紀州・雑賀、近江の国友でも製造が始まっている。

根来に伝わった技術が、芝辻家によって堺に持ち込まれたのかもしれないし、
もっと別のルートがあったのかもしれない。

鉄砲が戦国時代の戦闘に一大革命をもたらすような画期的な武器だったとしたら、
最初に製造をスタートさせた根来が製法を秘密にしたと思うのだが、
どうしてそんなに急速に広まったのかちょっと不思議な気がする。

製法をめぐってスパイ活動や取り引きが行われたのかもしれない。

根来が鉄砲を独占しようとしても、
原料となる鉄や火薬の原料などを大量に仕入れようとすると、
堺の商人を経由しなければならなかった。
そこで、堺の商人と根来寺とのあいだで取り引きがあったというのが、ぼくの仮説だ。

もっとも最近の研究だと、鉄砲の伝来は種子島にポルトガル人が伝えたのが最初ではなく、
それ以前から中国・東南アジア各地で造られたものが、
九州など各地に持ち込まれていたようだ。

いろんなルートで日本に入ってきた鉄砲が、各地で製造され、
様々な改良が加えられていくうちに、
使う側の技術も進歩し、戦闘で使ってみようという大名も増えてきて、
1540年代後半から50年代にかけて、急速に普及したということなのかもしれない。

種子島とポルトガル鉄砲が有名なのは、
種子島の領主・種子島家が「鉄砲記」という記録を残しているからだが、
この本はかなり時が経ってから、江戸時代に書かれたものだし、
種子島家の功績を誇張して書かれているので、
100%信頼できるものではないという。

また一方で、堺の橘屋又三郎という鍛冶師が、
種子島に渡って鉄砲の製法を持ち帰ったという伝説も残っているので、
津田監物→芝辻清右衛門→堺だけが鉄砲伝来ルートであると断言するわけにもいかない。

まあ、はっきりした記録や証拠がないということは、
それだけ想像を働かせる余地があるということで、
堺商人と鉄砲を軸に小説を書こうとしているぼくにとってはありがたいことではある。


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