イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

戦国歴史紀行2009

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数百メートル北へ走ると、路面電車の線路は東へ90度曲がり、
大通りだった紀州街道は急に狭くなった。

というより、これが本来の紀州街道の道幅なのだろう。

堺は第二次大戦で空襲に遭っているのだが、
北のこのあたりは空襲を免れたため、古い街並みが残ったと、
さっき駅前で見た観光案内地図に出ていた。

そういえば江戸時代の町屋だけでなく、
明治・大正・昭和初期の雰囲気を残す建物がいたるところにある。

そんな街並みに見とれていると、なかなか鉄砲梶屋敷にたどりつかない。

荷物軽量化と経費節減のため、堺のガイドブックを買わずに来たので、
頼りはさっきデジカメで撮った駅前の地図だけ。

ときどきそれをモニターに表示して、
道を頭に思い描いては走り出すのだが、
どうも自転車に乗るときの脳と、
地図を見るときの脳は、使う場所がかなりちがうらしく、
すぐに道がわからなくなってしまう。

うろうろしているうちに、さっきまで路面電車だった線路が住宅のあいだを走っていて、
狭くてボロボロになった商店街のまんなかを突っ切っている変な路地に迷い込んでしまった。

この商店街、昼間なのに真っ暗で、通行人はゼロ。
亡霊みたいなしわだらけのお年寄りが店番をしている。

まるで昭和30年代にタイムスリップしたみたい。
夢を見ているような気分でもある。

あまりにも不思議な空間なので、しばし自転車を降りて茫然と眺めた。

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午後1:30、南海本線堺駅に戻り、自転車をたたんで和歌山へ移動しようと思ったら、
駅前の地図に「鉄砲鍛冶屋敷」というのが出ていた。

すぐ近くに「榎並・芝辻屋敷跡」というのもあるらしい。

芝辻というのは、記録に残っているかぎりでは、
日本で最も早く鉄砲を製造した職人の家だ。

ちょっと興味が湧いてきたので、和歌山へ行く前に寄ってみることにした。

地図によると場所は堺旧市街の北のはずれだ。

さっき渡った運河を渡り、路面電車が走る大通りに出て北へ向かう。

通りの向こうに江戸時代風の町屋が見える。

さっき戦国時代の堺を思い浮かべながら史跡を回っていたときは、
お寺くらいしか見あたらなかったのだが、
堺の北の方には江戸時代の建築が残っているらしい。

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ザビエル公園から海の方へ少し走ると運河があった。
そのむこうに南海本線の堺駅が見える。

戦国時代の堺はこのあたりから海だったとすると、
この運河は江戸時代以降に造られたものなのだろう。

南海本線の高架をくぐって海側に出る。
殺伐とした化学メーカーの工場を右手からぐるっと回り、旧堺港へ。

5年前に仕事で堺に一泊したとき散歩したことがあるので道はなんとなく覚えているが、
あのときあったレンガ造りの倉庫や荷揚場がなくなって廃墟になっている。

ちょっと風情のある松の木の横に歴史解説ボードがあった。
ここは江戸時代に造られた港で、
明治以降、昭和までは使われていたらしいが、今は使われていないようだ。

奥の方にヨットやクルーザーが並んでいるが、
この殺風景な旧港をヨットのマリーナとして貸し出しているんだろうか?

戦国時代は海だった場所で、江戸時代の港をイメージしても、
今回の小説の役には立たないのだが、
それでもここに立ち寄らずにいられなかったのは、
海を感じさせる場所に立ってみたかったからだ。

室町時代に幕府や大寺院の出資による日明貿易で繁栄の基礎を築き、
その後は堺商人たちが主役となって、アジア各地との貿易で発展した堺。

しかし、昨日も書いたように、実際の貿易港は九州の平戸や鹿児島で、
海外からの船が瀬戸内海を自由に行き来して堺にやってくるといったことはなかったという。

瀬戸内海は広島の村上水軍や、阿波の水軍などが海上の交通・交易を支配していて、
彼らとの契約抜きに航行することはできなかったからだ。

瀬戸内海航路は高くつくので、
紀伊(和歌山)から土佐(高知)を経由して九州へ回る航路が開拓されたが、
こちらは外海なので海が荒れると難破する危険があったし、
瀬戸内海よりもっと野蛮な海賊がいた。

倭寇(わこう)と呼ばれる海賊は室町時代よりはるか以前から、
中国沿岸〜東南アジアを荒らし回っていて、
もともとは九州北部から朝鮮半島の海洋部族が主体だったようだが、
やがて中国人の海賊とも連携するようになって行動半径がさらに広がり、
室町時代の倭寇には、土佐や紀伊の海賊も混じっていたという。

堺とは危険なビッグビジネスで沸き返っていた海洋交易の終着点であり、
当時の日本経済の中心だった畿内から東海・関東の玄関口でもあった。

応仁の乱以降、京が荒廃したため、公家や将軍、幕府の重臣、商人たちも、
堺に避難し、ここを拠点に活動した時期もある。

やがて、阿波(徳島)を拠点に瀬戸内海の東側を支配していた三好党が、
京から迎え入れた細川管領家の傍流を担いで堺に上陸。
京に攻め上って畿内を支配したかと思うと、敵対勢力に駆逐されるといった争乱状態が始まる。

都を追われた三好元長が逃げ込み、自害したのも堺だったし、
その息子たちが再び勢力を蓄えて阿波から海を渡り、上陸したのも堺だった。

堺の商人たちは茶の湯を洗練させていったのも、こうした争乱状態の中だった。
戦乱の中でどうして彼らが茶の湯を楽しむことができたのか不思議な気もするが、
戦争と裏切りの時代だったからこそ、静かなもてなしや語らいを大切にしたのかもしれない。

そういえば、戦国武将も、戦闘で殺した敵の武将の首を並べてチェックしたあと、
静かに茶の湯や連歌を楽しんだという。
今の時代からは想像しにくいが、
戦国武将とは人殺しをなんとも思わない荒くれ者ではなく、
無数の敵対関係と殺戮を経験したからこそ、
人や社会のありかたと真剣に向き合おうとした人たちだったのかもしれない。

危険なビジネスと富、殺戮と美、
そんな戦国時代のすべてが、この堺に集約されていた。

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百メートルほど走ると、ザビエル公園があった。
キリシタン商人・日比屋了珪の屋敷跡と言われている。

今はただの公園だが、16世紀にはここに壮麗な堺商人の屋敷があり、
広大な敷地にはいくつもの邸宅や礼拝堂が並んでいたという。

今はこのさらに数百メートル西側に南海本線が走り、
さらに西の埋め立て地に工業地帯が続いているのだが、
当時はこの日比屋了珪の屋敷のすぐ西が海岸線だったようだ。

ここがザビエル公園と呼ばれているのは、
フランシスコ・ザビエルが1550年に九州から堺へやってきたとき、
宿泊したのがこの屋敷だったからだ。

現在残っている記録は、
それから20年近くたって来日したルイス・フロイスが書き残したものなので、
ザビエルの行動はごく大雑把にしかわからないのだが、
彼は日本の最高権力者に会って布教の許可・援助を受けようと、
すぐに京へ行ったらしい。

しかし、当時の京は徳島から上洛した三好長慶一派に制圧されていて、
足利将軍は都を追われていた。
これではらちがあかないと判断したザビエルはさっさと九州に戻り、
インドのゴアへ引き返してしまった。

フロイスの「日本史」からは、
日比屋了珪がいつキリシタンになったのかはよくわからないのだが、
その後フロイスが堺に来たときには、
すでに一家そろってキリシタンになっていて、
壮大な屋敷に礼拝堂や宣教師・信徒の宿泊施設を建てていたという。

了珪の先祖は近江の佐々木源氏だと言われているが、
父親の工藤なんとかはすでに堺を代表する商人だったと、フロイスは述べている。

了珪以外の堺商人もキリスト教に興味を持っていたが、
傲慢で外聞をとても気にする連中なので、
結局洗礼は受けなかったともフロイスは書いている。

フロイスの文章には、
ヨーロッパのキリスト教徒独特の高慢さと独善がいたるところに垣間見えるので、
頭から鵜呑みにすることはできないのだが、
堺商人たちの中でどうして日比屋了珪一族だけが熱心なキリシタンになったのかは不思議だ。

フロイスもそのあたりはごくあいまいにしか書いてないが、
ぼくの小説の中の日比屋了珪は、堺商人の中でも突出した進取の精神の持ち主で、
直接東南アジアに出かけて南蛮貿易をおこない、
現地でいちはやくキリスト教宣教師たちと出会っていたことになっている。

堺は海外貿易港だったと言われているが、
実は海外の船や商人たちが直接やってきたのは九州の平戸や鹿児島あたりまでで、
海外との物資の交易は、九州の貿易港を介して行われていたようだ。

堺が貿易港として有名になったのは、
たぶん近畿と中部・関東地方の玄関口だったからだろう。

現実の堺は港としても水深が浅く、大型船が横付けできるような岸壁もなく、
大型船は沖に停泊し、はしけで荷物を上げ下ろししていたという。

堺を支配していた大商人たちは、仕入れ先である九州の商人たちや、
せいぜい奄美諸島や琉球(沖縄)と接触を持っていただけだったろうし、
商売のネットワークは商品を仕入れたり売りさばいたりする日本各地に張り巡らされていたのだろう。

商人たちは「キリシタンになりたい気持はあるが、人からどう思われるかを考えると踏み切れない」とフロイスに語ったというのだが、
そのとき気にしていたのは、おそらくこうした日本各地の取引先だったのだろう。

その一方で、自ら東南アジアに出かけていった商人たちもいた。
堺の商人では、のちに鎖国がおこなわれたときフィリピンへ移住したという、
ルソン助左衛門が有名だが、
彼は堺の支配階級のメンバーではなく、新興勢力の商人だったようだ。
だから、大きな賭に出て海外に活路を求め、
アジア各地と直接取引して大きな利益を得たのだろう。

秀吉の天下統一から江戸時代の本格的な鎖国までの数十年、
日本の南蛮貿易はいよいよ活性化したが、
戦国時代の終焉と同時に堺の自治も終わりを迎えた。

日比屋了珪や今井宗久、津田宗及など、
信長・秀吉と関わった有名な堺商人たちが、
江戸時代に入ってどういう運命をたどったのかはわかっていない。

秀吉は一度、堺のまちを破壊し、
商人たちを新しい首都・大坂に移住させたと言われている。
商人たちの財力を弱めるため、彼らの資財で大坂の運河を造らせたとも言われる。
道頓堀の道頓も、この堀を造った商人の名前だ。

しかし、江戸時代に堺のまちは再興され、
鉄工業の町として栄えたというが、
自由貿易港・商都としての輝きは二度と戻らなかった。

今堺を訪ねて出会うのは、
どこにでもある現代の街並みであり、
かすかに残っている歴史のなごりも、
江戸時代の堺の残滓なのだ。

戦国時代の輝かしい堺は、
想像力で頭の中に再現するしかない。

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大通りを北上してザビエル公園へ向かう途中、自転車屋の前を通り、
堺が自転車と縁が深いまちだということを思い出した。

世界的に有名な自転車と釣り道具のパーツメーカーSHIMANOは堺の会社だが、
たしかそのルーツには刀鍛冶・鉄砲鍛冶で知られる堺の鉄加工技術があると聞いている。

今でも堺の鉄製品というと、包丁が有名だが、
自転車のギアや変速機、ブレーキ、ペダル、クランクなども、
実は隠れた名産品なのだ。

シマノのシステムは、グレードがいくつもあって、
何十万もする高級ロードレーサーやマウンテンバイクから、
数万円のお手軽なクロスバイクまでありとあらゆる自転車に搭載されている。

さっき見た街角の地図によると、
この大通りの先に自転車会館というのがあるらしいが、
今回は自転車のルーツを訪ねる旅ではないのであきらめる。

それにしてもこの大通り、やたらと道幅が広い。
路面電車も余裕で走っているが、
幅広の歩道には自転車が余裕ですれ違える自転車レーンもある。

シマノと自転車産業の影響なのかどうかはわからないが、
自転車にやさしいまちだということが伝わってくる。


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