イージーライターのつぶやき

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小説「ワイルドボーイズ」

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 私は中間や護衛たちを連れて根来に馬を飛ばした。
 海沿いの街道から和泉山脈に入り、風吹峠にさしかかったあたりから森がざわつきはじめた。猿や鳥の群れが樹上を行き交い、威嚇するような声をたてる。それが人間の仕業だということはわかっていた。私を歓迎していないという意思表示。前もって使いに手紙を持たせて先発させていたが、そいつはまだ戻っていなかった。
 数万の堂塔を連ねた広大な根来寺の入り口、大門にさしかかると、僧兵たちが群がって道をふさいでいた。色とりどりの鎧に身を固め、髪を長く伸ばしているので、大名の城の衛兵のようにも見える。
「堺の天王寺屋助五郎や。津田監物に会いに来た」と言ってみたが、僧兵たちは猿みたいな赤ら顔でこちらをにらみつけるだけで、一言も言葉を発しない。
 僧兵といっても自分の名前すら書けない連中だ。堺や天王寺屋の名前もまるで効果がない。私は腹が立ってきた。こんなことをしてもお互いなんの得もないのだ。根来にとって堺は重要な物資の供給源だったし、我々にとって根来は大事な取引先だ。根来が雑賀経由で海外と交易をしていると言っても、堺がおさえている物資の量に比べればそんなものはたかが知れている。おまけに堺は幕府後任の貨幣鋳造所を運営していた。明から輸入した銭で足りない貨幣を造って物価と商品の流動性を調整する、いってみれば中央銀行や国の財務官庁の役割も果たしていたのだ。どんな勢力にせよ、堺と敵対関係になることなど考えられなかった。
「津田助五郎が会いに来たのに、この扱いはなんじゃ! 堺の銭も鉄も革も硝石も硫黄も一切根来に入らんようにしたるさかい、おぼえとれよ」
 そう怒鳴って帰ろうとすると、僧兵の群れがふたつに割れて監物の側近が現れた。
「これはこれは、天王寺屋の若、ようお越しで」とそいつはニヤニヤ笑いながら言った。
 私が根来寺に来るのは初めてではないし、監物も何度となく堺に来ているから、側近たちとも顔見知りだった。我々は彼らを粗略に扱ったことはないし、彼らもこのときまでこんな無礼な出迎えをしたことはなかった。すべては鉄砲のせいだ。この神経を逆撫でするような態度に、彼らが私をどれだけ警戒しているかが表れていた。我々商人なら自分の本心を露呈するようなまねは絶対にしないだろう。そのへんが彼らの無骨なところだった。
「お供に柳生の方が混じってるように見えたもんですから、つい下のもんの気が立ってしまいまして」と監物の側近はつまらない言い訳をした。
 堺の商人は柳生や伊賀、甲賀などいろんな土地の武芸集団を護衛に雇っている。もちろん雑賀や根来から来た連中もいる。今回はできるだけ根来者を選んだのだが、人数が心許なかったので、一人柳生の者を連れてきたのだ。根来寺のやつらはそんなところをしっかり見ている。それを知らせることで、私に警告を発しているのだ。私ならそんなふうに相手に警戒させるようなことは絶対にしないのだが。

 手代が持ち帰った鉄砲は種子島で造られた複製品だったが、それまで我々が見てきたものとは明らかな違いがあった。筒の尻とそこにはめる尾栓に螺旋状の溝が切られていて、尾栓を回転させてはめ込むと、火薬の衝撃でも抜けない仕組みになっていた。あなたがたがねじと呼んでいるものを、我々はそのとき初めて見たのだった。
 橘屋又三郎はこのねじの複製に苦労した。
 堺の鋳物技術にものを言わせて特産の土で型をとり、そこに鉄を流し込んで固めてみたが、鉄の収縮率が微妙に変化するため、なかなかぴったり合う雄雌のねじができないのだ。ねじに隙間があると、発射の振動ですこしずつゆるんでくる。そのゆるみが筒のぶれを増幅し、弾の命中率が落ちる。ねじを締めるには特殊な器具と相当の力を必要とするので、一度ゆるんだら戦闘中に締め直すのはむずかしい。
「根来ではきっとええ方法を種子島で教わったんでしょうなあ」と又三郎は私に嘆いた。
「芝辻とか榎並に相談してみたらどうや」と私は言ってみた。
 堺には優れた鍛冶師・鋳物師が腐るほどいて、規模も技術力も全国で抜きんでていたから、協力すればいい知恵が出てくるかもしれなかった。
「そんな恥さらしな」と又三郎は言った。
 たぶん芝辻に製法を教わるのがいやだったのだろう。根来の津田監物が種子島に連れて行った芝辻清右衛門はもともと堺の鍛冶師だ。今でも本家や分家が堺にいた。根来で種子島鉄砲の量産が始まっているとすれば、人手が足りなくなり、堺から助っ人が行っているはずだ。堺の工房でも量産が始まるかもしれない。つまり種子島の技術が堺にも入ってくるのだ。職人たちは昔から技術を教え合い、助け合いながら生きてきた。又三郎が芝辻から新しい技を教わることも不自然ではないはずだ。しかし、又三郎はあれこれ理由をつけて、それを拒んだ。職人には職人の誇りや競争心、嫉妬があるのだろう。あるいは何か屈辱的な儀式のようなものをやらないと、技を教えてもらえないといった、古いしきたりのようなものが。
「なんで鍛冶師なんかに頼るねん? おまえが監物とわたりをつけたらええだけの話とちゃうんか」と今井彦右衛門は私に言った。
 たしかにそうだ。津田監物とはまんざら知らない仲ではない。だからこそ下手に出たくないという気持もあったのだが、それは又三郎が芝辻家に対して抱いているこだわりと同じだった。
 

 種子島から戻った手代を私は責めなかった。彼に落ち度は何もなかったからだ。しかし彼は私の目を盗んで死のうとした。主人への忠誠心が強く、誇りが高い人間だったからだ。この時代の商人はこうした点では武士とあまり変わらない精神構造をしていた。
「こんな恥じさらして、この先どうやって生きていけるか」と彼は妻に向かって怒鳴り、彼女の目の前で喉と腹に小刀を突き立ててたのだという。
 屋敷の一角にある彼の住居に私が駆けつけたとき、彼は布でぐるぐる巻にされて寝ていた。妻と子供が泣いていた。
「あほか。おまえがなんで死ななあかんねん」と私は叫んだ。
「若、もうしわけありません」と彼は何度も言いながら泣いた。
 彼は数カ月後に回復したが、それからすぐ岸和田の崖から身投げして死んでしまった。そばには最初に腹を切ったときの小刀とおびただしい血が落ちていた。今から考えると不思議だが、この頃の人間はすぐ死のうとした。戦乱や飢餓や疫病からは必死に逃れて生きようとしたし、一族繁栄のために勇敢に戦ったりもしたが、そういう気持が強ければ強いほど、挫折したときに襲ってくる死への衝動も強かったのだ。それはある意味、性的な衝動に似ている。自分ではどうしようもない強度で内側から沸き上がってくる欲望なのだ。この時代に生きた人間は多かれ少なかれこの衝動を隠し持って生きていた。
 子供の頃、10万の一向宗門徒に包囲されて堺で自刃した三好元長のことを思い出すたび、どうして彼は海から阿波へ逃げなかったんだろうと不思議でしかたなかったが、おそらくこのときも死への衝動がはたらいたのだろう。三好党は瀬戸内海の東部から紀伊水道にいたる海を強力な水軍で支配していたから、阿波へ戻ることは簡単にできたはずだ。畿内で敗北して逃げ帰ってきたからといって、彼の支持母体である阿波の豪族たちから相手にされなくなるといったことも考えにくい。
 ただ、三好一族に対する忠誠心や尊敬の念は多少弱まったかもしれない。元長にはそれが耐えられなかった。というより、彼を支えていた家臣たちや、阿波で待つ豪族たちにも、その恥辱を共有する意識があったのだろう。彼が逃げ帰ってきたとしても、彼らは京の将軍家や管領家への復讐心に燃えながら彼を支えただろう。しかし、あそこで彼が無念の死を遂げたからこそ、その息子たちに対する彼らの忠誠心や京に対する復讐心はその何倍にも高まったのだ。

 種子島にポルトガル人を乗せた船が漂着し、これまでにない良質の鉄砲を領主の種子島家に献上したという話が堺に伝わってきたのは、天文12年(1543)のことだ。私も今井彦右衛門もすぐに行動を起こそうとはしなかった。すごいものがどこそこに入ったらしいといった情報は、鉄砲でもそれ以外の商品でも日々数え切れないほど我々の耳に届いていたからだ。我々には日々こなさなければならない仕事が山ほどあったから、そんな情報にいちいち反応していられなかった。
 それが結果的に我々の大きな遅れにつながった。紀州の津田監物と根来寺に先を越されたのだ。
 監物が自ら鍛冶師や僧兵を引き連れて種子島に渡り、鉄砲の精巧な複製と製造法を手に入れたらしいという知らせを聞いたとき、我々は初めてただごとではないと感じた。高野山から分かれて紀州北部の山中に設立された根来寺は、そのころ数百の子院を持ち、交易から武器製造、傭兵派遣などで巨万の富を稼ぐ巨大な企業体だった。監物の津田家が設立した杉ノ坊、雑賀の土橋家が設立した泉識坊など、根来寺の有力な子院には紀州・雑賀の土豪たちによって設立されたものが多い。雑賀衆は外洋船を持つ海の民だったから、種子島・奄美・琉球を中継地として、明・朝鮮や南蛮と独自に交易を行う力を持っていた。中国から常に進んだ製鉄技術を取り入れることもできた。
 根来寺も雑賀も我々とほぼ同時期に倭寇を通じて鉄砲を手に入れ、改良や製造・販売を試みていたが、それまでは我々と似たような失敗を繰り返していた。だからこそ、津田監物がそんなに本腰を入れているとしたら、画期的な鉄砲がわが国にもたらされ、その製造・販売を根来・雑賀に握られてしまう可能性があったのだ。
 我々はすぐに天王寺屋の手代と、橘屋又三郎という鋳物師兼鍛冶師の頭領を種子島に派遣した。天文13年(1544)の春のことだ。しかし彼らが種子島に着いたとき、津田監物と根来・雑賀の一行はすでに島を離れたあとだった。
 手代は鉄砲を2挺手に入れることができた。堺商人は種子島にとって交易の重要な顧客だったから、種子島の領主・種子島時尭のもてなしもていねいだったという。しかし、買った鉄砲は種子島での複製品で、ポルトガル人がもたらした西洋製はついに見せてもらうことすらできなかった。
「壊れて修理中でして」とか「さる筋に販売してしまいまして」とか、領主から役人まで言い訳は色々だったが、そのことが我々に対するよそよそしさを感じさせた。監物一行は直接ポルトガル人の鉄砲を預かり、分解して構造を研究したり、ポルトガル人から製法を教わったという種子島鍛冶師の指導で、複製にも成功したという話を聞いていたからだ。直接津田監物が出向いた根来寺と、手代しか派遣しなかった我々の態度の違いに、相応の態度で応えたということだろうか。それとも長年にわたる交流の深さの差だろうか。
 堺商人にとって種子島や琉球は交易経路の中継地でしかなく、人の交流はほとんどなかったのに対して、根来寺は薩摩に子院を設立して種子島にも人を派遣していたし、雑賀の人や船は絶えず種子島に寄港していた。砂鉄の採取法や製鉄技術など新しい技術が中国から伝わるたびに、有力者が職人たちを引き連れて習得に出かけるのもすっかり慣習化していた。だからこそいち早くポルトガル人がもたらした鉄砲の話も入手できたし、現地に一番乗りして製法を学ぶこともできたのだ。

 
 それから2年ほど、私や今井彦右衛門が鉄砲の開発製造、売り込みに奔走しているあいだにいろんなことがめまぐるしい速度で起こっていた。細川晴元がなぜ長慶を阿波から呼んだのか、我々は最初のうちいまひとつ理解できなかったのだが、成り行きを見ているうちにそれが見えてきた。
 晴元はまず長慶を京に呼ぶと、奥丹後の波多野の娘を正室として与えた。晴元の軍事的な後ろ盾はその頃波多野くらいしかなかったし、その波多野は丹後の内藤と対立していて、晴元の思うような自在な動きはできなかったから、三好党を懐柔して畿内の軍事に使おうと考えたのだ。長慶と彼の家臣団は表向き従順にそれを受けた。何と言っても晴元の細川家は三好家の主君だからだ。
 晴元にとって長慶の使い道はほかにもあった。法華宗との関係修復だ。かつては木沢長政と一向衆を使って長慶の父・元長を葬り去った晴元だったが、その後一向一揆は本願寺すら制御不能なくらいに暴走し、摂津・河内から大和にまで乱入して戦乱を巻き起こした。河内の権力を握って、さらに大和に勢力を伸ばそうとしていた木沢長政は、これを鎮圧するために法華門徒の力を借りた。ところが今度は法華一揆が畿内で力を持ち、幕府に反抗したため武力で鎮圧しなければならなくなった。鎮圧は一応成功したが、法華宗・一向宗とも、畿内各地に独立した地内町を維持して、幕府に不服従・非協力の態度をとったため、晴元・長政は一向宗・法華宗との関係修復に苦労することになった。一向宗は本願寺が門徒の一揆を弾圧し、幕府と争わない方針をとったので、朝廷を介して関係修復は順調に運んだ。しかし、法華宗はなかなか和睦に応じない。そこで法華宗の軍事的な後ろ盾である三好党の頭領・長慶に仲介役をさせようと考えたのだった。
 京に上り、晴元に拝謁した長慶は松永久秀が心配するくらい従順だった。晴元に言われるままに波多野から正室を迎え、法華宗と幕府の関係修復を進めた。翌天文10年(1541)、晴元と木沢長政が対立しだしてからも、細川家の家臣として晴元を支え、天文11年(1542)には木沢党を河内太平寺の戦いで破り、長政を敗死させた。木沢の残党が大和で挙兵すると、長慶は松永久秀を派遣し、反乱を鎮圧させた。
 若い長慶がこれほど見事な活躍を見せるとは誰も予想していなかった。それは長慶の祖父・之長や父・元長の無念を晴らそうとする三好党の執念の賜物だった。彼らにとって長慶の主君である細川晴元を究極の仇と公に名指しするのは憚られたが、木沢長政を叩きつぶすには何の遠慮もいらなかった。
 長政は元々河内の守護代に過ぎなかったが、主君の畠山義堯を差し置いて晴元に近づき、義堯や元長を滅ぼし、主家の畠山氏を崩壊させて、管領となった晴元の下で畿内の支配者に登り詰めた。三好長慶を阿波から呼んで法華宗との仲立ちをさせようと画策したそもそもの張本人も長政だったという噂もある。
 しかし、長慶が晴元政権に加わると、長政の立場は揺らぎ始めた。彼を支持する武将たちが政権から排除されるようになり、長慶と数度の戦を重ねるうちに逆賊の烙印を押され、最後は完全に孤立してあっけなく討ち取られた。
「ざまを見さらせ」と松永久秀は愉快そうに言った。「汚い手を平気で使うやつは結局敵の策謀で滅びるんじゃ」
 噂によると、摂津の越水城を与えられた三好長慶が、有力国人である池田信正と組んで木沢を包囲したのも、畠山家の重臣で木沢と同盟していた遊佐長教を木沢側から離反させたのも、松永久秀の進言や謀略によるという。当人にそれとなく聞いてみると、
「あほぬかせ。わしにそんな力があるか」と表面上は言っていたが、久秀特有の得意げな笑みがその顔に浮かんでいたところを見ると、少なくともそうした動きに関わっていたことは事実なのだろう。
 その後、彼が長慶の下で山城や河内、大和を支配し、長政が築いた信貴山城を受け継いで軍事拠点としたことを考えると、松永久秀がめざしたのはまさしく木沢長政がめざしていたことにほかならないとも言える。長政に取って代わるために久秀が謀略をめぐらしたと言えるだけの証拠はないが、少なくとも長慶を支えているうちに、その先に長政に取って代わってこの三国の支配者になる可能性が見えてきたとは言えるかもしれない

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