|
私と三好長慶と松永久秀は茶室で静かに茶を飲んだ。そこには南宋の画家の掛け軸や生花、官能的な形状の茶釜や、窯の火加減の不具合から生まれた悪魔的とも言えるほど怪しい美しさを放つ茶碗などがそろっていた。もてなす長慶の所作も完璧だった。人を驚かす独創や新しい提案はなかったが、死と隣り合わせの者同士にしかわからない、静けさや思いやりの心が危ういくらいの繊細さと供に、その場を満たしていた。
長慶は細川晴元の命令で、奥丹波の守護代・波多野稙通の娘を正室にむかえることになっていた。今回の上洛はそのためのものだとされていた。少なくとも表向きは。京にどんな罠が待っているのか、私も久秀も知らなかったが、晴元がよからぬ企みのためにまたぞろ三好一族を利用しようとしていることだけは確かだった。
堺のすぐ北、大坂には元長を殺した一向宗門徒が石山本願寺という巨大な城塞都市を構築していた。元長が京・山城で暴れていた頃は山科を本拠としていた本願寺が、本拠を大坂に移したのはちょうど元長を破滅させた頃からだった。
大きな濠を複雑に巡らせた広大な敷地には、本願寺を中心として数万の門徒が様々な物資の製造・流通をおこない、堺に負けないほどの商工業都市を形成していた。石山本願寺は我々堺商人にとって手強い競争相手でもあったが、何人かの豪商にとっては大切な取引先でもあった。人により、場合によっては利益のために手を組み、同時に相手に打撃を与える策を考える。堺と大坂のあいだにはそんな不思議な緊張があった。もっともそれはこの時代に生きたどんな大名や宗教勢力、自治都市の会合衆にも言えることだったのだが。
長慶は父・元長を死に追い込んだ張本人が晴元だということを知らなかったが、何か不吉なことが待っていると感じてはいるようだった。怯えていたから誰かにすがりたかったのだろう。そうでなければ、三好党の有力者たちから嫌われ、蔑まれていた久秀をこんなふうにもてなすわけがなかった。ついでに連れてきた堺商人のせがれである私まで。
私はまだ父の補佐をしながら商売の修行をしているところだったし、茶人としても無名だった。武野紹?の兄弟弟子だった同世代の千宗易(のちの利休)が堺や京で華々しく活躍していたのに比べると、自分の凡庸さは明らかだった。それでも長慶は私を幼馴染みの友のように遇した。
自分を取り巻く連中が、自分のことを大切に思いながら、武家社会の固定観念に縛られ、若い領主を幕府の妖怪たちに翻弄されるままにしてしまいそうなことを漠然と感じていたからこそ、その埒外にいる悪党の久秀や、同世代の若い商人である私に何かを求めていたのだ。
「時間がほしい」と長慶はぽつりと言った。「もうすぐ阿波で無敵の軍団ができあがる。あと数年で」
私はその言葉を怯える少年の夢想のように聞いた。彼の弟たちはまだ幼く、阿波で土豪たちに育てられていた。それがまもなく無敵の軍団を率いるようになるとはとても思えなかった。しかし、少々時間はかかったが、それは現実になる。
「その間はこの久秀めにお任せください。私らが必ず若をお守りしますさかい」と久秀は床に額をこすりつけながら言った。
彼には武将と言えるほど本格的な軍勢はいなかったから、とても長慶を守れるとは思えなかったが、松永久秀とはつい心情に任せてそんなことを言ってしまう男だった。
噂によると三好元長が細川晴元をかついで、細川高国・足利義晴の幕府側と戦っていたとき、勝利に大きく貢献したのは山城の一揆だったという。元長の号令に応じて悪党たちが組織的な暴動を起こし、それが幕府の足元をすくったのだと。阿波から出てきた元長が山城の悪党たちを動かせたのは、松永久秀の一族が三好側についたからだった。
久秀はまだその頃少年だったから、彼らを動かしていたのはその上の世代だったのだろうが。
久秀がどういう経緯で畿内の悪党の頭領に登り詰めたのかは私自身よく知らない。悪党の中にはいくつもの派閥や流れがあり、そのうち最も正体が知れず、強力な武力を持つとされるものに彼は属していた。伝説によるとそれは全国的な秘密結社のようなもので、ごく限られた幹部しか会えない頭領に率いられ、この国の歴史を動かしていたというのだが、それはあくまで伝説にすぎない。楠木正成や松永久秀はこの秘密結社の頭領だったと言う人もいるが、それもあまり信憑性のない噂にすぎない。
確かなのは久秀が武将のような身なりをして、山城から北河内、生駒山中などにいくつも城のような屋敷を持ち、武将のように武装した家臣たちを引き連れていたこと、それでも彼が動員できると言われた数万の兵力はほとんどが武術の心得もなく、組織的な戦いの技能も持たない連中だったということだ。彼らは白昼の戦闘よりも夜陰に紛れての暴動や、武士、百姓、商人、職人、芸人などいろんな者に化けて適中に潜り込み、様々な謀略をはたらくのを得意としていた。
たぶん彼が最初のうち鉄砲にあまり興味を示さなかったのも、そのせいだろう。鉄砲は専門の軍団が組織的に動いて初めて効果を発揮するからだ。
「あかんで、これは」と最初に鉄砲の試射を見せたとき、久秀は吐き捨てるように言った。「こんな大仰な道具でもたついとったら、わしらの強みが消えてまうやないか」
まだ質のいい鉄砲が安定的に量産される前、根来衆や雑賀衆の数百・数千規模の鉄砲隊が現れるはるか以前のことだったが、久秀は鉄砲が全く新しい軍と戦闘の様式を必要としていると直感で理解していたのだ。
それでも私が晴元に鉄砲を撃たせて怪我をさせてやったことを話すと、久秀は膝を叩いて喜んだ。
「ようやった。おまえはほんまに悪いやっちゃな」
それは久秀にとっては最高のほめ言葉だった。
|