イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

小説「ワイルドボーイズ」

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 十代の私はよく女装したまま男たちと交わったものだ。当時は衆道つまり男同士の性愛がおおっぴらに認められていたから、男と交わることにはなんの不思議もなかったのだが、その中でも私は女のように振る舞い、女として抱かれることを求めた。そのたびに目の前の紫のもやが一瞬だけでも晴れたからだ。

 私は自分が何者なのか、なぜ尾張の奉行の家に生まれ、この国の支配者をめざす祖父や親たちの跡を継がなければならないのか、その先に何が待っているのかを懸命に学んでいる最中だった。悪童たちとの野遊びや狩りも、父がひっきりなしに出かけていく美濃や三河との戦も、明快な答えを与えてくれなかった。その先には濃い紫のもやが立ちこめていた。そのもやの向こう側へ突き抜け、そこに何があるのか見たいというのが私の最も強い願望だった。女になることも、奇矯ないでたちや振る舞いをするのも、そのための手段のひとつにすぎなかった。

 私は狩りや戦遊びのあいまに、悪童どもと野山や川原で交わるのが好きだった。百姓や川筋者、炭焼きといった連中に見られながら、男に犯されると興奮した。だからときにはわざと野盗や川筋者を挑発して犯されようとした。彼らは私が何者か知っていたから、たいていは尻込みしたが、がまんできず挑発に乗ってくる者もいた。私は男に犯されると恥ずかしげもなく甲高いあえぎ声を上げた。自分を死の淵に連れていってくれるような、強い快感が好きだった。

「弾正のせがれはおれに犯されてひいひい泣いてた」などとこの私の性癖をあとになって笑うやつは、私の手下たちによって、耳や鼻を削がれ、むごい殺され方をしたから、このことで私を馬鹿にするやつはいなくなった。しかし、私を犯す勇気のあるやつもいなくなったので、私は隣国へ出かけていくようになった。私が誰だか知らないやつらに犯される危険に身をさらしたかったのだ。

 それは悪童仲間にとって恰好の軍事訓練にもなった。

津島牛頭天王社巫女による織田信長の口寄せ

 私は武家から白眼視される連中と幼い頃から群れをなして行動していたが、ただ遊び回っていたわけではない。彼らが属する階級・部族と親しく交わり、信頼関係を築くことが第一の目的だった。

 彼らの親たちは祖父の代からすでに織田弾正忠家のために様々な働きをしていたから、その子供たちもいずれは組織に編成され、私のために働くことになっていた。馬や武具を持ち、兵としての技量を持つ者は軍団に編成され、そうでない者はそれぞれの組織を基盤として諜報活動や物資の調達、土木建築などを担当することになるのだ。

 これはかなり後の話になるが、父・信秀が死に、跡目をめぐって柴田権六ら主立った武将たちが私の弟を擁立したとき、まだ10代だった私が彼ら武家の軍団を戦で破ることができたのは、武家以外の軍団を私が抱えていたからだ。尾張の武家など甲州や越後の強力な軍団にくらべれば臆病者の集まりにすぎない。彼らから悪党と呼ばれていた私の軍団の方がよほど組織としても個々の武芸者としても優れていたのだ。

 とはいえ私が当時の流行に乗ってかぶき者風の恰好をし、津島を中心に尾張南四郡をうろついて顰蹙を買っていたことも事実だ。あの頃羽振りのいい家の子弟は誰でもみんな極彩色の衣装で着飾り、髪を逆立てたり、おかしなかたちに結い上げたり、身の丈より長い刀を差したり、顔に派手な化粧をして、町を練り歩いた。年寄りが顔をしかめるような、卑猥な歌を歌ったり、酒に酔っているような足取りで身体をくねらせながら歩いたりした。

 とにかく人を驚かすことがしたかったのだ。
 
 誰もが明日がわからない不安定な世の中に不満を感じていた。京で幕府が機能を停止し、各国で、各郡や村で、色々な勢力が力に任せて戦うという無秩序・無軌道な時代だった。誰もが怒りを感じていたし、同時に何をしてもいいのだという、絶望の中の解放感を感じてもいた。それを若い連中は行動で表現したかったのだ。

 私は特に女の恰好をするのが好きだった。

 10代半ばの私は色白で、なめらかな肌と京人形のような顔立ちをしていた。那古野城で行われる武家式の訓練でも、悪童たちと行なう野遊びまがいの訓練でも、私は武芸・体力で誰にも負けなかったから皆に一目置かれていたが、そんな私が女装して悪童仲間たちと津島や清洲の街を浮かれ歩いたり、卑猥な歌をうたいながら女舞いを踊ったりするのを見て、大人たちは笑い転げた。もちろん武家の中には顔をしかめる連中もいた。いつの時代にも洒落のわからないやつらはいるものだ。私は彼らが私を見て楽しんだり衝撃を受けたりしているのを見るのが好きだった。この性癖は大人になってからも変わらなかった。

 のちにポルトガル人宣教師が私を気まぐれで神経質な専制君主のように語り、家臣や城下の者たちが私をひたすら恐れていたような印象を植え付けたせいで、あなたがたが私に対して抱いている人物像はかなりゆがんでいるはずだが、私は岐阜や安土に移ってからも商人や職人たちと親しく交わったし、奇矯ないでたちや振る舞いで彼らを笑わせ楽しませるのが好きだった。

人質

 熱田の豪族・加藤家の、海を望む広大な屋敷にその人質はいた。

松平竹千代、六歳。

 父・松平広忠が人質として駿河の今川へ送ろうとしたところを、広忠の後妻の舅である田原の戸田康光に裏切られ、織田信秀に売られたのだ。

 竹千代を護衛していた供の半分以上は裏切り者の仲間だった。残りの半分は計略にかかったとわかったとたんに寝返った。最後まで裏切り者にならなかった家来たちはその場で斬られた。

「竹千代を返してほしければ降参しろ」という信秀の呼びかけに、
広忠は「まっぴらご免」と返答した。「竹千代は好きに処分していただいてけっこう」

 信秀は一度熱田にやってきて、竹千代の顔を見た。信秀も家来たちも狼みたいに獰猛な顔つきをしていた。

「殺されるかな?」と竹千代は感じた。

 信秀はしばらくじっと竹千代を見つめていたが、やがて「まあ、そのうち使い道も出てくるじゃろ」と言って帰っていった。

 それから一見平穏な数日が過ぎた。

 食事の毒味をした者が嘔吐して死んだり、夜中に浜辺で斬り合いをしているらしい音が聞こえてきたが、竹千代は無事だった。自分を殺そうとしているのが父なのか、それとも松平のためを思った家臣たちなのかはわからなかったが、それはどっちでもよかった。竹千代の心はすっかり乾き、ひび割れていたので、別に生きていたいとも思わなかった。

 そんなとき、奇妙な子供の一団がやってきた。

 白拍子や遊女のような着物を着たのや、傀儡や陰陽師のような芸人の恰好をしたのもいる。竹千代と変わらない小さな子供から元服をすませているらしい少年まで年齢は様々だ。

 彼らは庭からいきなり姿を現した。

 おたがいの胸やら脇やら股間に手を突っ込んだり抱きついたりしてよろけながら、冗談を言い合い、けたたましい声で笑ったりする。あとについてきた加藤家の家人たちが浮かぬ顔をしているので、歓迎されていないことは明らかだったが、それでも誰も止めようとしない。

「あんたが竹千代?」

 遊女の恰好をした少年が裸足のまま部屋に上がり込んできて、身を崩すように板の間に座りこんで、竹千代をじつと見つめた。竹千代はその場に突っ立ったまま動かない。

「あんた、狙われとるよ」と女装した少年が言った。少年は遊女のような化粧をしていて、少女のように美しかった。「でも、安心して。あっしらが守ってやるからね」

「おのれは誰や?」と竹千代が聞いた。

「織田弾正忠のせがれだがね」と女装した少年は言い、竹千代にしなだれかかって笑った。

 竹千代の顔には何の表情も浮かんでいなかった。

「犬千代、小平太、この子を着替えさせてやれ」と信長が庭先の少年たちに言うと、彼らはどやどやと上がり込んできて、竹千代の衣服を脱がせた。

 彼らの中から竹千代と同じ背格好の子供を選んで、彼が着ていた女物の衣装を脱がせて竹千代に着せ、竹千代の衣服をその子供に着せた。

「ここは危ないからさっさと退の」

 信長は竹千代の肩を抱えるようにして庭先から立ち去ろうとした。少年たちがあとに続く。屋敷の外には、少年に似つかわしくないつややかな馬が十数頭待っていた。信長は竹千代を抱えたまま馬に飛び乗ると、さっさと走り出す。少年たちがあとを追った。

 私の少年時代は祖父が残してくれた環境で、こうしたいかがわしい連中と遊び暮らす日々だった。

 父・信秀は私が2歳になったとき、那古野城を与え、平手政秀を教育係につけて武家としての技量を磨かせたのだが、それは武家社会に向けられた表の顔にすぎない。

 父は私を優れた武将にしたいと考えてはいたが、祖父から受け継いだ裏の資産をないがしろにするつもりは毛頭なかった。津島御師や鉄職人、商人、傀儡、陰陽師、そして川並衆といった裏社会の支持がなければ、我々の武力など何の力にもならないからだ。

 あなたがたが読む小説などには、私が薄汚い身なりで野山を駆け回り、養育係の平手政秀を困らせていたと書いてあるかもしれないが、それは事実と違う。私は那古野城で武家としての教育をいたって真面目に受けていたし、平手に無断で城を飛び出したこともない。

 もちろん私は武家としての訓練以外に、川並衆や津島御師、陰陽師、傀儡、商人、職人のせがれたちと野山を駆け回ったり、津島や清洲などの街を派手な恰好をして練り歩いたりしていたが、それは祖父や父の指示ではないにせよ、彼らの方針に沿ったものだったし、津島の豪族である平手も津島天王社の社家である商人たちと親しかったから、我々子供たちの動きを逐一把握していた。

 津島の平手家はもともと源氏の流れを汲む東国の武家だが、上杉・武田・今川などが足利幕府の下で大名になったのに対して、彼らは尾張に流れてきた外様の豪族にすぎなかったから、津島衆の動きに合わせて祖父・父の下で家臣として働いていた。

 土豪・商人である津島衆とはちがって、武家の格式や教養、幕府とのつながりがあるので、京の管領家や公家との連絡が主な仕事だった。

 その中ですでに当時としては高齢だった政秀が私の養育係を任されたのは、武家としての素養を買われたからだが、だからといって祖父が築き上げた軍団の主力が、武家から穢らわしい身分と蔑まれていた階級の者たちで成り立っているということはよく知っていたし、平手自身も津島衆とは親密な地縁関係を持っていたから、そのいかがわしい連中との付き合いもかなりあったのだ。

 私のまわりには川並衆と呼ばれた川筋者もたくさんいた。

 美濃・尾張は飛騨や木曽から多くの川が流れ込んでくる。川並衆はそれらの河川に縄張りを張り巡らし、水運や土木から諜報、謀略、ときには暗殺や襲撃まで請け負っていた。

 後世に名を残すことになった者には、徳川の時代まで生き延びて阿波の大名になった蜂須賀小六や、彼と組んで木下藤吉郎/羽柴秀吉のために獅子奮迅の活躍をした前野将右衛門、私の小姓から加賀百万石の大名になった前田又左衛門利家などがいるが、そのほかにも実に数多くの川並衆が織田弾正忠家を支えていた。彼らがいなかったら私は尾張の統一すらできず、今川・松平に滅ぼされていただろう。

 彼らの中にはときに美濃や三河に雇われて働く連中もいるから油断はならないのだが、多くの川並衆が祖父、父、そして私のために大きな働きをした。
 
 たとえば私が美濃を制圧したとき、墨俣に一夜で砦を築いたのも、藤吉郎や小六、将右衛門の手柄ではあるのだが、彼らの配下にあった連中、土木・建築・水運に圧倒的な技量を持つ川並衆の協力がなかったら、絶対に成し遂げられなかったことだ。裏を返せば、当時の小六・将右衛門らの力量とは、彼ら川並衆を動かすことで発揮されたとも言える。

 「川並衆」「川筋者」というと、川原の掘っ立て小屋に住むみすぼらしい連中を想像するかもしれないが、実際の川並衆は川の近くに独立した村落を形成していたし、船着き場とたくさんの船を持ち、運送業を営んでいた。船大工や金属加工職人を兼ねている者もいたし、土木作業や鉱山開発を営む連中もいた。前野や蜂須賀、前田など川並衆を統括する頭領たちは、濠をめぐらした広大な屋敷に住んでいたし、戦のときは諜報・謀略や土木作業、物資の運搬などを請け負うのはもちろん、まともな軍勢も提供することができた。

 しかし、彼らの最大の武器は網の目のように広がる目に見えない情報網と、それを駆使した機動力だった。尾張から美濃の平野や山間部には無数の川があり、そのすべて、いたるところに彼らはいた。ただし味方につけようと思えば多額の報償を必要としたし、それでも彼らのすべてを動員できるわけではなかった。自分たちの利用価値を心得ている彼らは、敵にも高い値段でその能力を売り、どちらが勝っても得をするような布石を打つのだった。


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