イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

小説「ワイルドボーイズ」

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 私にはいくつもの顔があった。戦国武将としての顔、鉄や土木技術を武器に生きる部族としての顔、南朝に味方して世を憚りながら暗躍する悪党の顔。ここまでざっと述べてきたことからもわかるようにあなたがたがよく知っている戦国武将の顔は、一番新しい顔なのだ。

 それは一番見栄えのする顔であると同時に、一番表面的な顔でもある。私を戦国武将としてしか見ない人には、私がとった行動や私の仲間たちの姿が見えないにちがいない。当時でさえ、そういう連中はたくさんいた。

 私は祖父が残してくれた環境の中で育った。祖父・信定は私が4つのときに死んでいるからほとんど記憶はないのだが、その周辺には津島の豪族の子弟たち以外にも、胡散臭い連中が溢れていた。

 たとえば針や包丁などの鉄製品を製造して尾張から他国まで売り歩く職人・商人たち。彼らは祖父や父のために諜報活動を行っていた。たぶん奈良に都があった頃からのつながりなのだろう。

 鍛冶師、鋳物師から鉄製品を売る商人、砂鉄を集めて売り歩く商人、あるいは外国から鉄の原料を輸入して売る商人など、鉄に関わる結びつきは網の目のように東海から近畿、北陸、東国、西国にまで及んでいた。
 越前の織田剣神社も尾張の津島牛頭天王社も織田家も木瓜の紋を使っていたが、これはもともと蒙古平原で製鉄技術を行っていた部族の象徴なのだ。朝鮮半島から我が国へと移住を続けても、鉄のつながりは密かに、しかし広く根強く保たれていた。

 津島の御師や陰陽師、巫女、傾城、白拍子、傀儡(くぐつ)たちも親しい存在だった。

 御師(おし)というのは津島の牛頭天王社が布教のために全国に派遣した伝道師のことだ。たいていは天王社を運営する社家の子弟たちで、加持祈祷や薬で病を治しながら牛頭信仰の普及に努めていた。牛頭天王というのは病をもたらすとされる天竺の神だ。牛の頭をしていていかにも恐ろしい。畿内から東海にかけて、平安京の昔からこの牛頭天王が色々な病をもたらすという信仰があった。だから津島御師たちの加持祈祷や薬による治療は霊験あらたかとされたのだ。

 しかしこれは表の顔にすぎない。彼らはほかにも様々な役目を持っていた。たとえば各地に牛頭天王社を建立して、交易の拠点とすること。津島牛頭天王社を経営する四家七名字と呼ばれる土豪たちは、天王社の拠点を結んで交易を行う商人でもあった。鎌倉幕府があった時代から着々と天王社の拠点を増やし続けた結果、私の祖父の時代には、津島は近畿と東海を結ぶ一大商都となっていた。

 御師は各地の情報を仕入れる間者(かんじゃ)でもあった。集めた情報は大名や武将たちに売るのだ。売ると言っても金銭を求めるとは限らない。多くの場合、報酬は武力・政治力による庇護というかたちをとっていた。

 勝利を収めた祖父の対応はまるで敗者のようだった。
 大橋家に津島衆筆頭の地位を保証しただけでなく、当主・大橋清兵衛の息子に自分の娘を嫁がせるといったことまでしている。こうして大橋家は織田弾正忠家と親戚になったのだった。
 津島の復興はめざましかった。

 街が再建され、桑名や熱田に流れていた物流が戻ってきただけではない。晴れて織田家公認の商業都市となったことで、津島は以前にも増して拡大した。祖父と全面的な協力態勢をとることができるようになった堀田家ほかの会合衆は、おおっぴらに兵と資金を祖父に提供した。

 祖父はその資金で日光川沿いに築いた屋敷を拡張することができた。私が生まれ、元服の儀式を行った勝幡城はこうして生まれた。何重にも濠をめぐらし、本丸や二の丸、何基もの櫓など、美しい建物が並び、その規模は主君の清洲城を凌ぐほどだった。津島衆は守護代・織田大和守家にもそれなりの矢銭を納めたが、祖父には非公式にその何倍もの資金を注ぎ込んだ。津島四家七名字の子弟たちや、その郎党たちはこぞって祖父の軍団に加わった。

 こうして祖父は尾張下四郡の実質的な支配者にのしあがったのだ。

 祖父は初めからこうなることをめざして、津島との騒擾を誘発したのではないかという連中もいる。織田大和守家が最初から商業都市の権益の魅力に気づいていたわけはない、商業のなんたるかを知り尽くしていた信定が焚きつけたのだというのだ。あるいはそうだったのかもしれない。少なくともそういう考えがかすかにでも祖父の脳裏をかすめなかったとは言い切れない。

 しかし、それはどちらでもいいことだ。

 ものごとは様々な利害関係者たちの思惑がぶつかりあいながら、ある者の望んだ方へ、またある者にとっては望ましくない方へと流れていく。ひとりの思惑だけが勝ちを占めることはまずありえない。祖父が何を望み、何を目論んだにせよ、結果的に起こったことは、津島衆や川並衆、織田大和守家など様々な利害関係者とのせめぎ合いから生まれた落としどころにすぎない。

 祖父が何を企んでいようと、津島の争乱はあのような道筋をたどらざるを得なかった。それが事の成り行きというものだ。歴史上最も自分の意志を通したと言われる私、その結果道半ばで挫折した私が言うのだから間違いない。

 津島の四家七名字と言われた豪族の中で、その筆頭の地位にあったのは、南北朝の動乱の時代から津島近郊の奴野(ぬのや)に城をかまえ、津島衆の指導者的な役割を担ってきた大橋家だった。しかし、大橋家はこの頃になると、まるで武家のような価値観や尊厳にこだわるようになっていて、商人・職人・武装集団の機能を自在に使い分ける我々悪党と距離を置くようになっていた。

 織田家とのあいだに争論があるたびに、「わしらはええが、大橋がなんと言うかの」というのが、大橋以外の津島会合衆の口癖になった。

 詳細は知らないが、結局織田家と津島衆のあいだで戦が始まったところを見ると、堀田之高ら会合衆は大橋家を説得できなかったようだ。それから8年間にわたって断続的に戦闘が続いた。短期で決着が付かなかったのは、祖父の軍勢に津島衆や川並衆の兵が加わらなかったからだ。

 先に述べたように、最初のうち祖父はかたちばかりの戦でお茶を濁していた。実際に弱体化した軍で戦ったとしてもいたずらに犠牲を増やすだけだっただろう。津島側も事情は似たようなものだった。祖父の下で武芸を磨いてきた兵がいたものの、織田家全体と全力でぶつかって勝てるほどの軍事力はなかったし、兵たちの多くが祖父の軍勢と戦うことにためらいを感じていた。堀田之高だけでなく、津島衆のほとんどが祖父を支えることで尾張の主権を握ろうという目論見で一致していたからだ。

 その中で、大橋家だけが戦うことに意欲的だった。

 彼らは津島で最も古くから続く豪族であり、後醍醐天皇を支えて鎌倉幕府と戦い、朝廷の正統から直属の家臣と認められたという誇りを持っていた。守護の斯波家や守護代の織田家も彼らから見れば逆賊の家臣であり、つい最近尾張にやってきたよそ者、新参者にすぎない。大橋勢は津島の存亡をかけて全力で織田勢にぶつかった。争乱はいたずらに長引き、死傷者が増えていった。交易の流れは津島を避けて熱田、桑名、伊勢へと移った。

 危機感を募らせた祖父と堀田之高はまた密かに会談を持った。

「もういかん。このままでは津島が衰退してしまう。戦を終わらせよう」と之高は言った。
 祖父も同意見だった。
「頼む。助けてくれ」と祖父は懇願した。
「わしに水臭いことは言わんでもええ。その代わり大橋の顔をたててやってくれ」と之高は言った。
「わかっとるがな」

 之高は密かに堀田や服部など津島衆の手勢を祖父の下に派遣した。蜂須賀や前野などの川並衆も祖父の軍勢に加わった。祖父は夜陰に乗じて津島を攻め、街に火を放った。津島を要塞化して戦っていた津島勢のうちほとんどは、前もって祖父と打ち合わせていたとおり、さっさと街を捨てて逃げた。
 
 大橋勢は郊外に築いていた自家の拠点のひとつ早尾砦に逃げ込んでなおも抵抗を試みたが、あっというまに祖父の軍勢に攻め落とされた。大橋の軍だけなら、祖父の敵ではなかった。おそらく大橋家の手前、堀田之高が祖父に派遣した津島の兵はこの早尾攻めには加わらなかっただろうが、祖父子飼いの手勢だけでも大橋勢をたたきのめすには十分だった。

「どうする? 清洲のあほどもは津島と合戦すると言うておるで」と祖父は気まずそうな顔で堀田之高に言った。「合戦となると、わしもそれなりに兵を出さずにはすまんし、これまでのように戦場で適当に逃げてばかりいると、清洲から裏切り者呼ばわりされかねん」

「合戦となれば、おぬしのとこにいる津島の兵も引き上げざるをえまい」と之高。「わしらとしては織田家の兵に津島の若いもんをできるだけたくさん送り込んで、武家として育ててほしいと思うてきたのじゃが」

 津島衆は時代を見る目があった。乱世を生き延びるには商業だけではだめだと気づいていたのだ。だから彼らは武家の社会に食い込みたがっていた。守護代の織田大和守家や奉行の織田因幡守家、織田藤左衛門家などは、悪党・商人など穢らわしいと相手にしなかったが、悪党からのしあがりつつあった私の祖父は津島の若者たちを積極的に受け入れ、兵として育てていた。そこには共通の利害関係が成立していたのだ。

「もう少しわしに力があったらなあ」と祖父は嘆いた。「おのれら津島衆の支えで清洲のあほどもを叩きつぶすこともできるのじゃが」

 前にも触れたように、その頃すでに祖父は織田大和守家の家臣としては最強の武力を持っていた。しかし、それは津島衆や川並衆といった連中があってのことだ。津島を攻めるとなると、彼らを動員することはできない。祖父が清洲を叩きつぶす云々と言ったのは、いっそ津島衆や川並衆を動員して主家に反旗を翻そうかという意味だ。

 しかし、そうなると武力で少なくとも尾張の下四郡を平定するところまでいかなければ事は終わらない。そのときの祖父にそれができたかというと難しかっただろう。成り上がりの祖父が尾張の君主になろうとすれば、尾張中の武家が黙っていないからだ。祖父はまだ尾張の武家全体を相手に戦って勝てるところまで強くはなかった。

「ここはやはり織田の要求をかたちだけでも呑むしかないで」と祖父は苦渋の表情で言った。「例によって、おまえらとの交渉役はわしが務めることになるじゃろ。悪党・商人と直接話し合うなど、あのあほどもの自尊心が許さんからな。そうなればいくらでもごまかす手だてはある」

「まあ、そうしてもらうしかないがな」と之高も不安そうな顔で言った。「しかし、大橋がなんと言うか」

 当時の堀田家は津島牛頭天王社の社家・堀田右馬太夫家のほかに、津島の豪族・富商である堀田之高家、美濃の斎藤家に仕える堀田道空家などに分かれ、尾張・美濃の国境を越えて活動していた。祖父はそれぞれの堀田家の当主と密接な関係を結んでいたが、とりわけ7代目之高とは義兄弟のようであったという。内密の話があるとき、特に津島衆にとって受け入れがたいような難題を持ちかけなければならないようなときは、会合衆には内緒で之高と話した。

 大永年間に津島と織田大和守家のあいだで争論が持ち上がったときもそうだった。祖父は堀田之高と頻繁に密使を行き来させ、ときには津島近郊の寺や一族の屋敷で直接会って対策を練った。
「もうこれ以上は無理じゃ。清洲のあほどもはおのれらが幕府の代わりに津島を治めると言うてきかん」と祖父は言った。
「要するにこれまで納めてきたもんでは足りんということじゃろ。強欲なやつらの言いそうなことじゃ」と堀田之高は言った。

 津島衆も幕府が事実上崩壊してからは、ときどき京からカネをせびりにくる細川管領家の側近たちを通じて、幕府にいくばくかの資金を提供してはいたが、同時に織田家との関係を保つため、祖父を通じて清洲にもそれなりの金品を出していた。しかし大和守家の家臣たちはそれだけでは満足しなかった。

「津島を直接支配すれば、莫大な金が入ってくるはずだ。その金があれば尾張上四郡を平定することも不可能ではない」
 そんな言葉が清洲の城内で囁かれるようになっていた。

 その頃、東国では相模の北条が伊勢商人を小田原に集めて商業都市を育て、莫大な利益を挙げていた。駿河の今川や甲斐の武田もこれを見て、伊勢商人の誘致を始めていた。

 それまでの商業都市は有力寺社の下で権益を守られながら発展してきた。熱田や津島、伊勢などがその代表だ。しかし時代は変わりつつあった。農業が国の産業のほとんどすべてであり、工業・商業がその補助にすぎなかった時代から、工業・商業の発展が国を豊かにする時代になろうとしていた。各国の戦国大名もそれに気づき始めたのだ。というより、それを知っていた者が戦国大名として台頭してきたと言った方がいいかもしれない。

 甲斐の武田や駿河の今川は鎌倉幕府の領国支配体制からいち早く脱皮し、農業以外の産業に力を入れて財力を蓄え、武力を充実させた大名だったし、相模の北条などは元々が伊勢の悪党・商人の出だった。美濃では長井利政、のちの斎藤道三がやはり同様の国造りをめざしていたが、彼も父の代までは山城の悪党だった。

 しかし、畿内や尾張、伊勢のように武家が国を治めるようになるより古い時代から商人たちが活躍し、商業都市を発展させてきた地域では、そうした国造りは進んでいなかった。古くからの先進地域だったがゆえに、時代の変化に遅れたのだ。畿内・尾張・伊勢にろくな武将が出ず、戦に弱かった最大の理由はそこにある。


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