イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

小説「ワイルドボーイズ」

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 正中の変から南北朝の動乱期を通じて、津島党は畿内に大量の兵と物資を送り、南朝が吉野に逃げ込んでからも後醍醐天皇の子孫を支え続けた。伝説によると、彼らは南朝の皇子のひとりを守って東国へ落ち延び、そこで再起を図って敗れ、最後に尾張津島へその皇子をお連れして、亡くなるまでかくまい続けたと言われている。

 そんな津島党は祖父にとって、武家になりきろうとしている織田大和守家などよりはるかに親しい存在だったのだ。

 もっとも大永年間に津島党と織田家のあいだに何度も争論や戦闘があったことは事実だ。祖父の手勢が津島に攻め入り、戦闘の中で町が焼かれたこともあった。しかしそれは祖父の意志でしたことではない。争いの発端は織田大和守家の家臣どもが、尾張の守護代として、津島から莫大な租税を徴収しようとしたことに始まる。津島党は幕府直轄領であるから尾張の守護・守護代に租税を納める義務はないと突っぱねた。そこから争いが始まったのだ。

 祖父は微妙な立場に置かれた。織田大和守家で主力となる軍団は祖父のそれだったからだ。大和守家の家臣として、戦となれば兵を出さないわけにはいかない。だから最初のうちは配下の武将たちにかたちだけの戦をさせてお茶を濁していた。同時に水面下で津島党と密議を重ね、いくばくかの上納金を大和守家に差し出すなどの落としどころを探った。

 祖父は戦場では勇猛な武将だったようだが、ふだんは商人のように陽気で腰の低い人だったという。絶えず津島と密使を行き来させ、必要とあれば自分でも密かに津島へ飛んでいき、会合衆と話し合った。

 津島の会合衆の中で祖父と一番気脈を通じていたのは堀田家だ。

 堀田家は武内宿禰を始祖とするというから、それが伝説に過ぎないとしても、元々は尾張生え抜きの家ではない。武内宿禰は神功皇后に仕え、皇后が朝鮮征伐から戻って北九州で生んだ応神天皇を赤ん坊のときから守り、河内に巨大古墳を築いた王朝の確立に貢献したと言われる。おそらく織田の祖先同様、太古の時代に朝鮮半島から海を渡り、九州もしくは神功皇后の出身地である越の国に勢力を張り、のちに畿内に広がった部族の末裔なのだろう。

 つまり大まかに言えば織田と同じ起源を持つ家なのだ。織田も堀田も家紋は木瓜だが、これは牛頭天王社の紋でもある。天王社は天竺の病の神・牛頭天王を祀るが、神仏習合の時代にやはり病の神である素戔嗚尊を合わせて祀るようになった。素戔嗚尊は鉄の神でもあり、壱岐対馬を経由して大陸・朝鮮半島から大和に渡来したという。織田や堀田も朝鮮半島から製鉄技術を我が国に持ち込んだ部族の末裔なのだ。

 私の家が初めて城らしい城を築き、武将の仲間入りをしたのは祖父・信定の代だ。家柄としては織田大和守家の三奉行の末席にすぎなかったが、津島の北・勝幡に豪壮な城を築いたときにはすでに、武力・財力とも家中で群を抜く実力を備えていたという。大和守の家臣たちは成り上がり者として内心蔑んでいたようだが、それでも尾張下四郡のまつりごとは祖父の意向によって動くようになった。

 祖父がそれほどの力を持つようになったのは、尾張津島を支配下に置くようになってからだと言われている。戦国時代の津島は伊勢湾沿岸で東国と美濃・飛騨・畿内を結ぶ交易の要衝として栄えていた。しかも津島のある海東郡は足利幕府の直轄領で、幕府が事実上崩壊してからは、四家七名字と呼ばれた11の土豪兼商人が自ら治める自治都市になった。彼らは社家として津島牛頭天王社を経営し、勧進と称して天王信仰を東海から中部・畿内まで広め、各地に数千もの支社を建設し、そこを拠点として商売を拡大した。津島商人の富は大名を凌ぐとまで言われたものだ。

 あなたがた後世の人たちの中には、この津島を私の祖父・信定が武力で攻撃し、町を焼き払い、商人たちを屈服させたと考えている人たちがいるようだ。祖父は征服した津島から莫大な富を吸い上げ、その財力で武力の増強に注ぎ込み、尾張で勢力を拡大したのだと。

 しかし、それは事実とかなりちがう。

 祖父は津島の豪商・土豪たちと極めて良好な関係を築いていた。だからこそ彼らは財力だけでなく、子弟を兵力として祖父に提供し、その勢力拡大を支えたのだ。祖父は織田弾正忠を名乗るようになってからも、広い意味で彼らの仲間だったからだ。

「仲間」とは、お互いに武家ではなく、土地に縛られず、様々な技能と連携網を駆使して生きていく階級に属していたという意味だ。鎌倉の武家政権に刃向かい、朝廷を支えるために戦ったという点でも、祖父と津島党には共通するものがあった。

 尾張に乱立する織田家の仲間にもぐりこんだ私の先祖が、尾張の南半分、いわゆる下四郡を支配する守護代・織田大和守家で頭角を現したのは曾祖父の代だったと言われる。曾祖父の良信は主君の大和守家が応仁の乱以来、上四郡を支配する織田伊勢守家と小競り合いを続けていたのに乗じて、上四郡の領地をいくつも奪い取りながら勢力を伸ばした。そのとき曾祖父に力を貸したのが、上四郡の葉栗郡を地盤としていた川筋者の前野家であり、小折村の豪商・生駒家だったと聞いている。曾祖父は武家に仲間がいなかった分を、裏社会のつながりで補ったのだ。

 私の家が前野家といつからつながっていたのかはさだかでないが、正中の変や建武の中興から後醍醐天皇の下に馳せ参じ、楠木正成や名和長年と共に戦ったと言われているから、かなりの昔、まだ私の家が近江で津田を名乗っていた頃の話になる。我々のように奈良に都があった時代から、公家や寺社の荘園で特殊な技芸者・職人集団としてこき使われ、荘園の周辺でやせた土地をたがやしながら生き延びてきた一族は、土地に縛られず、歴史の変動期には自在に動き回りながら、互いに助け合ってきたのだ。

 生駒家はのちに私の側室として長男・信忠や次男・信雄の母となる吉乃や、私の軍団で活躍し、私の死後に大名となった生駒八右衛門宗長などを出すことになるのだが、もともと尾張の生え抜きの家ではない。河内と大和の国境にある生駒山とその周辺で、古くから農機具や生活用品の製造販売を手がけていた一族だと言われている。伊賀の流れを汲む忍者の家だとも言われているが、たしかに私が知っている生駒家は商売のつながりを利用して、諜報や敵地での秘密工作などを得意とする、特殊な武装集団だった。前野家とのつながりは正中の変で敗れた前野党が、六波羅探題に追われていたときに、生駒にかくまったのが最初と言われている。しかし、おそらくそれ以前から同じ悪党に属する家どうしとして、なんらかの関係はあったのだろう。そうでなければ命を張って逃亡者をかくまうはずがない。

 足利の時代になって、今度は生駒が応仁の乱で敗れ、土地を追われることになった。そこで正中の変で義理がある前野が生駒家を尾張に迎え入れたのだという。私が実際に見た生駒家は小折に濠をめぐらした城のような邸宅を構え、なたね油や肥料用の藁灰・木灰を商っていたが、屋敷には武芸者が集まり、若い頃の前野将右衛門や蜂須賀小六などの川筋者、針売りだった木下藤吉郎などが出入りしていた。蜂須賀党の本拠地は下四郡にあったし、藤吉郎も那古野に近い中村の出だから、下四郡の一族なのだが、我々はそんな地割りにおかまいなく、自在につながり活動していたのだ。

 のちに父・信秀が尾張下四郡を支配下に置き、私が尾張上四郡を平定して、尾張統一を成し遂げることになるのだが、そのはるか以前、曾祖父の代に上四郡の平定は始まっていたし、祖父から父・私にいたるまでの長い年月をかけて、徐々に進行していった。私はその最後の仕上げをしたにすぎない。

 私は武家の生まれではないと言ったら、あなたがたは驚くだろうか?

 多くの戦国武将がそうだったように、私は武家の出ではなかった。武家の定義が鎌倉に幕府が置かれた時代の支配階級あるいはそれにつながる家という意味でだが。
 武家と我々のもうひとつの違いは土地に縛られているかどうかだ。武家は土地を支配し、農民を守り、作物から税を徴収して生きる。我々は様々な土地を結び、互いにつながり、動きまわり、様々なものを作り、売り買いする。

 織田家はもともと越前織田の荘の織田剣神社の社家であると言われている。越前の守護だった斯波氏に仕え、尾張の守護となった斯波氏に従って尾張に移り住んだのだと。
 まあ、そう言っても間違いではない。
 ただし、織田弾正忠(だんじょうのじょう)を名乗った私の祖父はその織田家ではない。広い意味ではそこにつながる一族ではあるのだが。

 その広い意味での私の祖先は百済から渡ってきて剣神社を建立し、越の国(のちの越前/福井)に製鉄技術と金属鉱山開発技術を伝えた。応神天皇の母である神功皇后/息長帯比売(おきながたらしひめ)の時代だ。我々の祖先は越の国から近江へ、大和へ、河内・摂津・和泉へと広がった。支配者としてではない。大和の支配者となったのは騎馬と鉄器を操り、謀略を駆使する連中だ。我々は常に彼らの支配下で奴隷のように使われていた。越前織田剣神社の社家を乗っ取り、織田を名乗るようになったのは鎌倉幕府が弱体化した頃だ。しかも私の祖父・織田弾正忠信定はその織田家でもない。

 我々の先祖が北陸から近江に広がったとき、そこに根付いた部族のひとつが祖父の家だ。彼らは土木技術を買われて琵琶湖の干拓と新田の開拓を請け負っていた。そうして開拓した新田のひとつが津田の荘だ。それ以来、一族は津田を名乗った。

 一族は後醍醐天皇に義理立てして南朝に味方し、足利幕府に追われる身となった。それからは様々な姓を名乗りながら、吉野や伊賀、甲賀、近江、越前などに密かな根を張り巡らせて生き延びてきた。やがて一族の一部が尾張の織田家のために様々な資財の調達や土木事業、謀略などを請け負うようになった。それが曾祖父あたりになると、織田家の一角に食い込むようになる。応仁の乱以降、武家たちは守護の斯波氏も守護代の織田家も、土地から上がる租税に頼り、領地に張り付いて生きる無気力な輩になっていたから、面倒をいとわず、謀略や武力を駆使して働く我々が自然と力を持つようになったのだ。

津島牛頭天王社巫女による織田信長の口寄せ

 すべてが終わって400年以上が経つ今でもあの頃の記憶は鮮明に残っている。私は15歳で、目の前にいつも紫色のもやがかかっていた。そのむこうにすばらしいものがあるのはわかるのだが、そこへどうやったら辿り着けるのか見当もつかないもどかしさ。一方で紫のもやはいつも私を心地よい夢に誘ってくれる友でもあった。

 私はあの頃も、その後もずっと誤解されていたし、今もあなたがたに誤解されていると感じている。私は決してあなたがたが思っているような短気な癇癪持ちではなかったし、狂気に取り憑かれた残虐な暴君でもなかった。むしろ自分を常に気弱で傷つきやすい女のように感じていた。

 あなたがたが目にする資料には、私がいつもひとりでものを考え、当時としては常識はずれのことを突然実行に移したと書かれているようだが、それも誤解だ。私は若い頃からあまりにも多くの連中に囲まれていたし、彼らがもたらす知らせや意見の渦の中にいた。その中にはあなたがたがまったく知らない連中もいる。あなたがたが知っている連中でも、あなたがたには思いもよらないような素性や人脈や考え方を持っていた。たぶんわれわれが駆使した情報網や謀略の手法はあなたがたには理解できないだろう。当時の人々にとってもそれは想像もつかないようなことだった。だから我々の行動は世間を驚かせたし、多くの場合かなりの確率で成功したのだ。

 私が武田信玄や上杉謙信のような優れた戦国大名をさしおいて天下統一の道筋をつけることができたのは、多分に地の利や運によるものだが、彼らよりも京の近くにいた武将たちができなかったことを私が成し遂げることができたのは、運のおかげだけではない。我々は彼らとはまったく違う考え方を持っていた。あえて「私」と言わずに「我々」と言うのは、それらの考え方が私ひとりから生まれた独創ではなく、多くの仲間の総意から生まれたものだからだ。我々はそういう考え方をする階級だった。

 「階級」と言うのはやや的外れかもしれない。属していた階級すべての人々が同じような考え方をしたわけではないからだ。私が属していた部族と、そこにつながる家系の人々がそういう考え方をしたと言った方がいい。


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