イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

小説「ワイルドボーイズ」

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 事が一段落した頃、日比屋から迎えが来た。ルイス・エンリケを屋敷に連れてきてくれというのだ。そこは男娼窟だったから、日比屋としては出向きたくなかったのだろう。あるいは鉄砲に関わる危険なことらしいと察したのかもしれない。とにかく日比屋の店に戻ると、その奥の屋敷の一番奥まった部屋に連れて行かれた。手代だけでなく、了珪自身もやってきた。
「なんかややこしい男を見つけたそうやないか」了珪は私を部屋の隅に呼んで囁いた。
「おまえこの男を知らんのか?」
「まったく」
 了珪の目に浮かんでいる好奇心を見ると、嘘ではないことがわかった。万事に抜け目のない男だったが、子供の頃から新しいものに出会うと目に独特の輝きが生まれるのだ。

 ルイス・エンリケは恐ろしく饒舌な男だった。自分の生まれや育ちから、スペイン人がどんなふうにインディアス、つまりのちにアメリカと呼ばれることになる大陸を征服したかについて、延々と語り続けた。あまりにも知らない地名や人名が次々と出てくるので、話のほとんどは茫漠とした霧に包まれているような印象を与えた。さらに、これは後になってわかったことだが、ルイス・エンリケはスペイン語なら不自由なく話せるが、ポルトガル語はまだ覚えたてだった。通訳を務めた日比屋の手代がスペイン語ではなくポルトガル語しかできなかったこともあって、話はなおさら漠然としたものになった。
 我々に理解できたのは、彼がスペインから来たこと、しかし元々はメヒコ、つまりのちにメキシコと呼ばれることになるアメリカ中部の国の生まれであること、彼が5歳だった20年ほど前にスペイン人がメキシコを征服したとき、奴隷としてスペインに連れて行かれたこと、セビリアという町で10歳まで育ち、主人の屋敷から逃亡して職人の世界に逃げ込み、鉄砲鍛冶として腕を磨いたこと、メキシコ人であることからいたるところで虐待や差別を受けたが、男たちの性的欲求を満足させる技術を磨いてなんとか苦境を乗りきってきたこと、それでも一カ所に安住できず、船に乗って町から町へ渡り歩くうちにアフリカへ渡り、喜望峰を越えてインドのゴアへ、そしてつい最近マラッカへやってきたこと等々だった。
 私は混乱していた。私だけでなく当時の日本人(多くの日本人にとって「日本人」という概念すら新奇なものだったのだが)には、東南アジアやインドを含む南蛮という概念はあっても、その先にあるアフリカやアラビア、さらにその先にあるヨーロッパというのはまだ馴染みのない概念の中にある地域であり、そのさらにむこう、大洋を隔てたアメリカなどという地域は想像しようもなかったからだ。
 しかし、日比屋了珪はちがった。彼は目を輝かせながらルイス・エンリケの話を聞いていた。彼にとってアメリカは想像できる国だった。そしてルイス・エンリケは彼が初めて見る新大陸の先住民だったのだ。

 それから10日ほどは何の収穫もなく過ぎた。ときどき似たようなポルトガル人たちと話をする以外は特にすることもなかったので、私は芝辻清右衛門や橘屋又三郎とあてもなくマラッカの町をうろついた。まだ建設されて30年ほどしか経っていない新しい町だったが、いたるところに薄汚い路地が迷路のように続いていた。色とりどりの野菜や肉、卵、生きた鶏や家鴨を売る店がびっしり並んでいた。
 特に立ち入り禁止の地域はなかったが、ポルトガル人たちの商館や軍の宿営施設の裏手にはなんとなく人を寄せ付けない雰囲気が漂っていた。凶暴そうな顔をした、焦げ茶色の肌をした男たちがたむろしていて、私たちをにらみつけて追い返そうとした。
 それ以外の場所では大体において歓迎された。たぶん私が気前よく金を使ったからだろう。日本の銀は飲食店や売春宿の店主に絶大な効果を発揮した。もちろんポルトガル商人の中にはこっそり鉄砲を売りに来るやつもいたが、おそろしい値段を吹っかけてきて、一切負けようとしないので、芝辻、橘屋と品物を分解し、さんざん検証した挙げ句に突っ返した。それらは根来寺で津田監物に見せられたポルトガル製鉄砲とまったく同じもので、それ自体にはなんの発見もなかった。
 我々は昼のあいだ退屈していたが、マラッカの売春婦はみんな子供のように若くて陽気だったし、路地には娼婦よりもはるかに安い金で長時間相手をしてくれる少年たちもいたから、夜はかなり楽しい時を過ごした。彼ら南蛮の原住民は茶色い皮膚は薄く、肉質は柔らかく、興奮すると蓮や梔子の花の香りがした。

 そうした男娼の少年たちからスペインで鍛冶職人をしていたという若者を紹介されたのは、そろそろ日比屋了珪が堺に戻るというので、同じ船に乗る準備をしだした頃だった。
「エスパーニャ。ルイス・エンリケ。鉄砲つくる人」と少年たちは口々に言った。
 私はエスパーニャとルイス・エンリケという言葉を前にどこかで聞いたことがある気がした。後日堺に戻ってから今井彦右衛門に言われてはっきり思い出したのだが、それは牛頭天王社の巫女が降霊術の最中に何度も口走った言葉だった。
 そのときはそれと気づかなかったものの、私は妙な胸騒ぎを感じてそのスペイン人を連れてこさせた。
 私はポルトガル人に似た男が来るものと考えていたのだが、ルイス・エンリケは、ヨーロッパ人ともマラッカの原住民とも違う風貌をしていた。背は低く、鼻が異様にせり出し、唇が分厚い。
「まずシゴト、おカネ、いっぱつ8レアルね」と彼はいきなり服を脱ぎながら言った。スペイン語で言ったので、最初はなんのことかわからなかったが、どうやらマラッカでは金に困って男娼の仲間入りをしていたらしい。年齢は20代後半だろうか。筋骨はたくましかったが、マラッカの少年たちに比べると、性的魅力ではかなり見劣りがした。
「いや、それはけっこう。話だけでいい。カネは払う」と言ってみたが、なかなか通じない。通訳を頼もうと、同じ船で来た日比屋の手代を呼びにやったが、待っている間もルイス・エンリケはしきりに尻を私にこすりつけてきて、
「さあ、はめて。だんさん、いい男ね。おれいい男好き」としきりに誘ってきた。しかたがないので彼に男根をしゃぶらせて立たせ、入れてやった。同じやるなら少年たちとやりたかったが、すぐそばで彼らが見ているので、ちょっと一風変わった刺激があった。

 了珪は数日後にマラッカ総督の副官を兼ねている軍人と、数人の商人たちに会わせてくれた。自宅でちょっとした宴会を開いて彼らを招いたのだ。そこにはキリスト教の宣教師も数人やってきた。
 豪華な肉料理や葡萄酒が出され、我々は日本のこと、ヨーロッパのこと、大洋を渡る彼らの船のこと、インディアスと呼ばれていたアメリカ大陸発見のこと、アフリカ大陸のこと、我々が天竺と呼んでいたインドのこと等々。
 松永久秀をはじめ悪党連中が好んでいたので、肉は堺を離れて畿内の彼らの領地を訪ねたときなどにこっそり食べていたが、マラッカで食べた料理はそれとは比べものにならないくらいうまかった。葡萄酒も堺では高級品だったからめったに口にできなかったが、ここではまるで水代わりだった。
 その夜の了珪は一段と違って見えた。まるで自分もヨーロッパ人であるかのような仕草や表情を見せるのだ。彼は日常的なことなら通訳を介さずにヨーロッパ人たちと話すことができた。私にはそれがうらやましくもあったが、同時に少々あざとく感じられた。
 彼らとの会話は興味深いものだった。日本の町が黄金でできていないことを語ったときの、彼らのがっかりした顔はなかなかおかしかった。しかし、話は私が知りたいことの核心には進んでいかなかった。鉄砲の話題になると、彼らは決まって顔を見合わせ、かすかに笑い、「マラッカでは鉄砲は造っていない」「商人や軍人は鉄砲の造り方までは知らない」「ポルトガル人にとっても鉄砲は高価なものなので、商人の誰も大量に売れるほどは持っていない」等々おざなりの返事をするだけなのだ。了珪までがそのとき彼らと顔を見合わせて同じ表情で笑うのが不愉快だった。
 宣教師たちは別の意味でいやなやつらだった。軍人や商人たちと違って偉そうな態度はとらなかったが、慇懃なやさしさや微笑みの裏には異教徒に対する哀れみのようなものが隠れていた。彼らはごくわかりやすくキリストの生涯と処刑、復活について語り、全能の神について語り、この世の終わりがいずれ来ること、神の裁きに備えて悔い改め、正しく生きなければならないことを説いた。了珪は奇妙な慈愛の眼差しを私に向けながら、彼らの話を半ば恍惚として聞いていた。このとき彼がすでに洗礼を受けていたのかどうかはわからない。5年後にイエズス会の幹部であるフランシスコ・ザビエルが堺にやってきたとき、彼は自分の屋敷を宿舎として提供したし、のちに邸宅の敷地に礼拝堂やカリスト教徒用の宿泊施設を建て、妻や子供たちまでそろってキリスト教徒になってしまったことを考えると、この時点で少なくとも相当キリスト教に感化されていたのかもしれない。私にはそうは言わなかったが、すでに改宗していながら、我々には隠していたということも考えられる。
 私はキリスト教の基本的な教義や、友愛・相互扶助を大切にする活動をなかなか面白いと思ったが、いくら質問しても、いくつか理解できないことが残った。たとえば彼らがどうしてキリストの磔刑死にそこまで感動するのか。神が天にいるとしても、なぜキリストが人間の預言者ではいけないのか。なぜ彼らの教えだけが唯一絶対で、他の宗教は悪魔の教えとして敵視するのか。私は仏教の仏や菩薩たちも、インドの神々も、日本古来の神々もあわせて拝み、彼らの視線を感じながら正しく生きようとしてきた。私の知っているほとんどの人間が当然のこととしてそんな生き方をしていた。だから、初めてキリスト教の教えを聞いても、素直に耳を傾けることができたのだ。しかし、彼らは私のそうした宗教観をまったく相手にしようとしなかった。それは悪魔の教えだからすぐさま改宗すべきだというのだ。その傲慢さ、偏狭さに私は少々腹が立った。もちろんうわべは堺の商人らしく、ごく友好的に振る舞い続けたのだが。

 マラッカは魔法にかかったような町だった。
 石造りの大小様々な建物がひしめき、そのあいだを馬鹿でかい男たちが行き交っていた。彼らは極彩色の衣服を着て、自分の強さを誇示するように胸を反り返らせていた。それが最初にポルトガル人を見たときの印象だ。商人もいれば軍人もいたし、宣教師もいたが、みんな表面上は紳士的で、物静かに、ときどき微笑しながら話したが、眼の奥には尊大さと警戒心がちらついていた。
 日比屋了珪は港の近くに大きな屋敷を構えていた。最近手に入れたのだという。私がマラッカに向かっていることは、ここに出入りする様々な船からすでに聞いていたらしく、驚きよりも安堵と喜びの表情で迎えてくれた。
「どうしてこんな無茶をする?」と、了珪は私を抱きしめながら言った。
 私がわざわざ南蛮まで出かけてきたことを言っているのだ。本気で心配していたのだろう。了珪とは幼馴染みであり、堺の商売仲間でもあり、ある分野では競争相手でもある。しかし、異人のように相手を抱きしめる仕草に、私は少し違和感を覚えた。
「おまえを見習ってみようと思ってな」と私は王直に言ったのと同じことを繰り返した。「南蛮を自分の眼で見ないことには、これからの堺の商売は立ちゆかんやろ」
「鉄砲を買いに来ただけやのうて、造り方を教わりに来たというやないか。なんでそんなことまでおまえがせなあかんのや」と了珪はさらに言った。
 私の旅の目的は私よりも先にマラッカへ伝わっていたわけだ。王直が了珪とは友人だと言っていたのもあながち嘘ではないらしい。
「鉄砲はもうかるで。たぶんこれからの戦を変える。そこに力を入れて何が悪い?」と私は言ってみた。
「それならわしと組んだらええやないか。南蛮で危ない橋を渡るのはわしのとこみたいな堺の新参者の役目やろ」
「ほなポルトガルの鉄砲を安く造って売ってくれ。造り方を堺に伝えてくれ。」
 了珪は困った顔をした。珍しく言葉を選びながらずいぶん長いこと黙っていた。さんざん待たせた挙げ句、
「おまえに南蛮交易のややこしさはわからんやろな」とだけ言った。
 異国で異人たちといろんな駆け引きをしながら商売を広げる難しさが、私にもなんとなく伝わってきた。しかし私はそれに気づかないふりをしてみた。
「種子島に来たポルトガル人はえらい気安く鉄砲を譲ったばかりか、造り方まで教えてくれたそうやないか。南蛮通のお前なら鉄砲も造り方ももっと簡単に手に入れられるはずやろうが」
「あれは種子島の連中の法螺やで。実際にポルトガル人は行ってない。行ったんは王直の一派や。たぶん島に売りつけたのも、倭寇がこさえた鉄砲の改良版やろ。ポルトガル人がそんなにたやすく鉄砲を譲ってくれるわけがない。造り方は種子島の連中が実物を見て考えたんちゃうか」
 了珪にそう言われて、私はそれまで腑に落ちなかったことが明らかになったような気がした。種子島がポルトガル製の鉄砲を我々に見せてくれなかったも、いくら大金を積んでも彼らが造った複製しか譲ってくれなかったのも、最初に種子島に飛んできた津田監物に義理立てしたと見せかけて、実は元々ポルトガル製など持っていなかったからだ。彼らが監物に売った鉄砲が我々に売ったのと変わらないものだったのは、ポルトガル製だと称して騙し通せると思ったからだろう。鉄砲に可能性があればあるほど、いろんな国のいろんなやつらが策略をめぐらし、いろんな嘘をつく。堺の友人である日比屋了珪でさえ、利害が一致しない局面では敵になる。私は自分がやろうとしていることの難しさをまたしても思い知った。
 しかし、私はあきらめなかった。これしきのことで引き下がったら、危険を冒して南蛮までやってきた意味がない。
「なんやったらポルトガル人に会わせてくれるだけでもええわ」と私は食い下がった。「武器商人とか軍隊の偉いやつとかマラッカの責任者とか鉄砲鍛冶の責任者とか」
 了珪の表情がまた少し変わった。少々の苛立ちと優越感が入りまじったあきれ顔。
「友達として会わせるだけやったらなんぼでも会わせるで。むこうも堺の若殿が来たと知ったら喜んで会うやろ」

 それから私は数日を王直の邸宅で過ごした。
 芝辻や橘屋、日比屋の中間、雑賀の水夫たちは山の麓、港の近くにある王直の本宅にいた。彼らは酒食や女たちをあてがわれ、すっかり夢見心地だった。私は自分が感じている危機感、緊張感を彼らにどう伝えていいかわからなかった。たぶんそれは伝えるべきものでもなかったのだろう。国家や民族間のことは、それに責任を持つ者だけが特別の感性と知性をごく自然に働かせるようになるのだ。
 私はもっと王直と話したかったが、彼は二度と姿を見せなかった。仕事でどこかへ出かけたのかもしれないが、屋敷のどこかにいて、わざと私を避けているのではないかという気もした。私たちの世話をしてくれる彼の部下や下僕たちには、主人が近くにいるときの緊張が感じられたからだ。
 私はほんのわずかな時間、彼と話しただけで自分が大きく変わったのを感じていた。たとえばそれまで海外との交易品を扱い、海外諸国の情報に接していながら、自分の国というものをまともに意識したことがなかった。堺にいた私は、平戸や博多、薩摩の商人と違って、異国の商人たちと直接会う機会が少なかったからだ。「日本」という名称も、「日本書紀」や「続日本紀」など朝廷の書庫奥深くに鎮座している言葉であり、朝廷のみが使用する言葉であり、足利義満が明国皇帝から「日本国王」に任ぜられるといった、いかがわしい政治的な概念でしかなかったからだ。それが彼に対して自然と「日本」という国について語っていた。それは奇妙な感覚だった。そのとき私は初めて自分を日本人として意識したのだ。
 人は異民族、異文化に出会うことで瞬間的に多くのことを知り、瞬く間に国際人になる。王直との会話の中で初めて出会った「ジパング」という名称は、その後ずっと私の頭の中に反響していて、異国人と話すときに自然と私の口から出てきて私自身を驚かせることになる。

 船出は静かだった。
 王直の部下たちが航海に必要なあらゆるものを整えてくれた。しかし、彼らは私の質問にはあいまいな返答しかしなかった。
「王直はどこにいるのか」「ポルトガル人とはよく会うのか?」「ポルトガルの銃はその後も日本へ売り込んでいるのか?」
 倭寇の経験もある雑賀の水夫が通訳してくれたのだが、彼らの返事はいつも微笑だけだった。
 日比屋の積み荷は王直が言った通りほとんどが無事だった。そして彼が言った通り、海賊の取り分としてほんの少し消えていた。私は日比屋の中間とそれを確認しているあいだ、妙な胸騒ぎを感じだした。それが何なのかは甲板に戻ってから判明した。港で働く人足たちに見覚えのある男たちが何人もいたのだ。彼らは船を襲った海賊だった。顔をよく覚えているわけではないので、あるいは私の思い違いかもしれないが、私を犯して帆柱に吊したやつらの顔は間違えようがない気がした。それが本当だとすれば、王直がある企みをもって私たちを襲い、救ったのだということになる。そんなことをして何になるのかわからないが、倭寇の権益を侵そうとする堺商人になんらかの警告を発したかったのかもしれない。
 だったらどうして面と向かって言わないのか? 
 たぶんその方が効果的だからだろう。私になんらかの決断や選択を迫るより、疑念と不安の中に置き去りにした方が、後々の関わりの中で優位に立てるとか。
 絶え間ない対立や交渉、取り引きの中で生きている人間は常にそんなことばかり考えるものだ。もちろん私を含めての話だが。


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