イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

小説「ワイルドボーイズ」

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 その十日後、私は芝辻清右衛門、橘屋又三郎とマラッカ行きの船に乗っていた。
 日比屋了珪が仕立てた土佐・薩摩・奄美・琉球経由の交易船だ。各地の産物を広州やマラッカ、ホイアン、ゴアなどへ売って大儲けし、南蛮各地の産物を堺へ持ち帰ってまた大儲けしようというわけだ。
 日比屋を訪ねたとき、彼は堺の屋敷にいなかった。手代の話では南蛮のどこかにいて、新しい拠点作りをしているということだった。
「南蛮人の鉄砲造りを見たいんや」と私は手代に言った。
「それは難しいと思いますけど」と手代は言った。
 南蛮人と我々は呼んでいたが、もちろんこれはあなた方が考える東南アジア人ではなく、ポルトガル人やオランダ人、スペイン人などのヨーロッパ人のことだ。我々はそのときまだ地球が球体だということも、スペイン人の船団が世界一周をなしとげたことも、南蛮とか天竺とか呼んでいた東南アジアやインドの先にアラビアやアフリカ、ヨーロッパがあることも知らなかった。
 日比屋の手代によると、ヨーロッパ人は東南アジアの各地に拠点を築き、交易やキリスト教の布教を始めていたが、その背後にはそれぞれの国と貿易会社、軍隊がいて、武器を厳しく管理していた。特に鉄砲は最重要機密で、日比屋のような現地に顔が売れている商人でも、ヨーロッパ製の鉄砲を買うことも、工房に立ち入ることもできないということだった。
 それでも私は南蛮に行ってみたかった。
 堺であぐらをかいているだけの商売は、いずれ限界が来ると考えていたからだ。博多や平戸や薩摩のように南蛮人や明・朝鮮と直接交易しなければ利益を生まない時代が来ようとしていた。日比屋のように直接南蛮へ出向いて拠点を築くべきなのか、堺へ外国船を呼び込むべきなのかはわからないが、どちらにしても南蛮人つまりヨーロッパ人と直接会ってみるべきだと常々考えていたのだ。

「兄者、ここはひとつ天王寺屋の若に相談してみたらどうや?」と覚明が監物に言った。
 監物は覚明ではなく、私の目をじっと見つめたまま、「そうか」とだけ言った。
 そこからの話は覚明がした。
 監物と芝辻清右衛門はたしかに種子島で鉄砲の製造技術を学んだのだが、ポルトガル人の職人から直接教わったのではなく、直接教わったと称する種子島の職人たちから教わったのだった。
 核心となるねじの製造法は、橘屋又三郎が考えたのとあまりちがわなかった。鋳物の型を造り、とこに溶かした鉄を流し込んで造るのだ。したがって精度もたいしたことはなかった。たまたまねじの雄雌がぴったり合って高性能の鉄砲ができることもあったが、多くは微妙な隙間が生じ、それが鉄砲の完成度を落としていた。
「種子島の職人によるともっと精度の高いねじは鋳造ではなく、特別な機械で削ってこさえるらしいのやけど、ポルトガル人はいろいろ言い訳するばっかりで、その機械を持ってけえへんという話ですわ。若はこういう鉄を削る機械というのを知ってはりまっか?」
「いや、聞いたこともありまへんな」と私は正直に言った。
「種子島の話では、ポルトガル人が基地にしてるマラッカやゴアには鉄砲工房があって、ポルトガルの職人たちもいればそういう機械も揃ってるらしいのやが、倭人や明人はそこに入ることさえ許されへんという話や」
「で、私に何をしろと?」
「南蛮から設備と技術を手に入れるのに協力してもらえまへんかな?」
「わしらかて、琉球から先は人をやったことすらおまへんで」
「天王寺屋さんのような大店はそうかもしらんけど、堺には自分でルソンや安南まで出かけていく商人がいるそうやないですか。日比屋了珪とか」
 たしかにそうだ。堺を支配している大商人は国内の顧客と販売・流通網をおさえているので、自分から海外に出かけていくことはしないが、最近のしあがってきた連中にはそういう賭けをして大きな儲けを狙うやつが少なくない。
 日比屋了珪は父親の代に近江から堺に出てきて、そうした南蛮貿易で財をなした商人の一人だ。佐々木源氏の末裔を名乗っているが、本当のところはどうだかわからない。しかし、佐々木源氏の末裔である六角氏と親しいことは事実だし、ほかにも甲賀の土豪たちをはじめ、美濃・尾張・伊勢・大和などにかなりの地盤を持っていて、あっというまに堺で成功をおさめた。その行動力や発想の豊かさは堺商人でも並外れていた。普通なら堺を窓口として、自分が地盤とする国々との取り引き拡大をめざすところだが、日比屋親子は倭寇や明人の伝手を頼りにどんどん外へ出かけていった。琉球からアモイ、マカオ、マニラ、安南などに拠点を築き、南蛮人と直接取り引きした。我々がポルトガル商人と琉球・薩摩・平戸・博多を仲介させて、安全第一の商売をしているのとは正反対だ。もちろん台風や海賊などの被害に遭うこともあったが、それでも儲けは莫大だった。
「わかった。日比屋に話してみる」と私は言った。

 津田監物と私の父・津田宗達とのつきあいは長い。父の交友関係で彼は特殊な存在だった。京の公家や大名、畿内の武将、大商人、寺院の高僧など、天王寺屋の取引先や盟友たちは、たいてい茶の湯を心得、美術工芸を愛する人たちだった。もちろん成り行きによっては人を裏切ったり、殺したりもするが、そうした残酷な宿命の縁を一緒に綱渡りのような足取りで歩んでいたからこそ、一層美しいものを共有する一時を慈しんだのだ。茶の湯は京で生まれ、堺で洗練の極みに達しようとしていたが、同時に畿内を中心とした多くの大名、武将、商人たちの共通言語にもなっていた。あくどい謀略で有名になった松永久秀でさえ、こうした社交界の重要な一員だった。
 しかし監物はちがった。茶の湯にも美術工芸にも興味を示さなかった。彼は根っからの戦闘家であり、土豪の頭領だった。密教に帰依していたが、それは戦乱を活用して金を稼ぎ、一族を存続させるためだった。それでも父・宗達が彼とその一族を大切にしていたのは、もちろん商売や武力の連携といった利害関係のためでもあるが、そもそもは先祖を共有していたからだ。
 我々の先祖は山城・大和との国境に近い河内北部の交野(かたの)から出ている。後醍醐天皇の下で楠木正成らと共に鎌倉幕府の六波羅探題や足利幕府と戦った時代の話だから、鉄砲伝来よりさらに200年も前のことだ。南朝が衰退した後、監物の津田家は紀州へ下り、小倉に住んだ。元々交野にいたときから、多くの職人を抱えて武器から生活雑貨、農耕機具までいろんなものを造り、問丸に売る商売もしていたから、紀州でも重宝されたらしい。海運や農業で豊かな雑賀の庄と取り引きを始めてたちまち裕福になり、根来寺に杉ノ坊を設立してからはさらに畿内全域へ取り引きを拡大した。一番もうかった商売は、すでに紹介したように傭兵稼業だった。近在で食い詰めている若者たちを雇い、武術の訓練をし、僧兵として各地で戦っている大名や寺院に百人単位で貸し出すのだ。
 一方、私の先祖である天王寺屋の津田は交野を本拠として商売を拡大した。元々北国・東国と畿内・西国を結ぶ交通の要衝だったから、交野の土豪たちは商売が得意だった。畿内各地に拠点を作ったが、その中でも大坂・天王寺の拠点が大きく発展したので、堺に進出したときには天王寺屋を名乗るようになったと聞いている。私が生まれた頃には、すでに堺で最大の商家のひとつと言われるようになっていた。
 紀州・小倉の津田とはすでに縁戚関係はなくなっていたが、それでも様々な取り引きや騒動、戦などで互いに協力し合う関係は続いていた。商人といっても当時は土豪が職人たちを抱えてものを作らせて売るとか、馬や船を抱えて運輸業を営むといった商売だったから、常に武器や馬を整え、必要とあればそれなりの兵を出せる力はあった。そして堺と紀州にかぎらず、畿内を中心に東国から北陸、西国、四国まであらゆる地域にそうしたつながりを網の目のように張り巡らしていた。そうでなければあの時代を生き抜くことなどできなかっただろう。
 そのとき監物が失おうとしていたのはこうした蜘蛛の巣のようなつながりだった。だからこそ彼は意気消沈していたのだ。
「助五郎、頼むで」と監物は私を抱き寄せて言った。
 私は彼が私の名前を覚えてくれていたことに感激していた。挨拶の席で名乗ったことは名乗ったが、父と彼が険悪な話し合いをしているときだったから、まさかこんな子供のことなど眼中にないと思っていたのだ。
 監物の抱き方は松永久秀のそれとは対照的だった。無骨に荒々しく犯しながら、同時にやさしく繊細な愛を感じさせる抱き方。久秀に最初に抱かれてから、様々な男たちの相手をして、すっかり場慣れしていたのだが、それでも監物のやさしさは私の心と体の奥底まで突き刺さった。
 その後、彼が父と和解し、畿内の悪党連の中で地位を回復したとき、私は特に何をしたわけでもなかったが、監物は父に知られないような経路でこっそり連絡をよこし、私を呼び出した。馬鹿正直な感謝の念がその表情からあふれ出ていた。
 それ以来、私はなぜか彼に大きな貸しを作ったようなかたちになった。私が女のようにちょっと甘えた表情を見せれば、何でも言うことを聞かなければならなくなるとほかならぬ監物自身が思っていた。だからといって私の方から何かねだるようなことはなかったのだが。そこに男同士の難しさがある。女の武器と呼ばれるものを使えるということ自体が、ばつの悪さを感じさせるのだ。
 今回私が監物に会いたくなかったのも、そういう居心地の悪さにお互い戸惑うことがわかっていたからだ。

 12年ほど前、最初に監物と会ったとき、彼は私の父と何か難しい問題で対立し、窮地に追い込まれていた。たぶん細川晴元と三好元長の複雑で陰険な争いに関連したことだった。我々の取り決めで禁じていたにもかかわらず、金に釣られて管領・幕府側に荷担したとかなんとか、そういったことだったのだろう。松永久秀が堺衆から表面上は蔑まれながら、父・津田宗達ほかの有力商人たちと固い信頼関係を維持していたのに対して、津田監物は堺衆からも畿内の悪党連からも絶縁状態になりつつあった。
 12歳だった私は父の手代にくっついて、監物の宿所に行った。手代は何か最後通告のようなことを口頭で言い、父の手紙を差し出した。監物は何も言わずに手代と私を見ていた。これほど情けない男の顔というのを私は見たことがなかった。泣きそうなのを通り越して、途方に暮れている勇者の顔。子供の私ですらこの男の髯面を自分の胸に抱き寄せたくなった。
 手代と天王寺屋に戻ったあと、私はこっそり屋敷を抜け出した。堺と外の世界をつなぐ橋のたもとで監物を待った。彼はごくわずかな供を連れて、悄然とした面持ちでやってきた。根来寺という巨大寺院の有力者なのだから、堺衆や畿内の悪党と敵対したところでたいした影響はないと普通の人間なら思うだろう。しかし、私は天王寺屋の跡取りとして、世間からは見えにくい様々な糸で結ばれている特殊な世界の力を漠然とながら認識していた。ややこしいしがらみのせいで、監物がその世界から縁を切られた事情も、彼としての言い分も両方が正しいと感じていた。だから彼にそのことを伝えたかったのだ。12歳の子供に同情されたところでどうなるものでもないということもわかっていたのだが。
「心配すな。わしの代になったら天王寺屋がお前を助けたる」と私は子供っぽい傲慢さで監物に言い放った。
 監物が私を見たときの反応は意外なものだった。怯えと歓喜がないまぜになったような顔。こんなに無防備に自分の弱さを見せる武将がいていいのかと、子供心に思った。

 僧兵たちに囲まれて大門をくぐり、広い坂道を登っていくと、山と谷の連なりにびっしりと子院が並んでいるのが見えた。子院の数は数百あると言われている。そのひとつひとつが僧兵の傭兵軍団であり、産業・交易で稼ぐ企業なのだ。津田家が設立した杉ノ坊は、雑賀の土橋家が設立した泉識坊と並んで根来寺の子院でも最大規模を誇る軍団のひとつだった。
 奥の書院に通されると、津田監物が杉ノ坊の頭領である弟の覚明や側近たちと現れた。合うのは久しぶりだったが、背中まで伸びた髪を細かな房に分けて編んで垂らす髪型と、固そうな皮膚、眼窩から飛び出しそうな眼は変わらなかった。少年の私を魅了した性的呪縛力も。
 監物は算長(かずなが)というのが本来の名で、小倉の津田家を次いだので代々の当主が名乗る監物の号を使っている。弟はもともと明算といったが、出家して覚明を名乗るようになった。本来監物は小倉にいるべきなのだが、若い頃から武芸・戦術に長けていたので、自然と杉ノ坊の僧兵を率いて各地を転戦するようになった。戦に出ていないときも、こうして根来にいて僧兵の訓練や武器の整備に当たっている。顧客である大名との交渉、物資の調達など坊の経営は覚明、軍事は監物と役割分担ができている。
「しばらくやの」と監物はぶっきらぼうに言った。「何の用や」
「ずいぶんな挨拶やな」と私はおだやかに笑って見せた。「使いをやったはずやが、来てないか?」
「さあ、来てないで、たぶん」監物は覚明にちらっと目をやった。目がかすかに泳いだので、嘘をついているとすぐにわかった。
 覚明は慌てて笑いながら弁解した。
「いやいや、兄やん、天王寺屋はんの使いやったら今朝早うに着いてるで。疲れてるようやったので、風呂と食事をすませて休んでもろてるとこや」
 たぶん取り押さえてどこかに放り込んだか、あるいは湯浴みか食事のときに眠り薬で眠らせ縛り上げておいたのを、私が来たので慌てて解放し、もてなしているのだろう。
「で、何しに来た?」と、それまでのやりとりがなかったかのように、監物が私を睨みながら言った。
「種子島はどないや?」と私は単刀直入にきいた。
「どないて?」また監物の表情がゆらいだ。
「うまいこといってるか?」
「うまいことて、どういう意味や?」
「もう何挺造った?」
「知らん」
 これまた不器用というか、まずい答え方だった。私をだますならもう少しそれらしい情報を交えて話せばいいのに、こう頑なに突っぱねては、かえって真相をもらしているようなものだ。不安げな表情は鉄砲の製造があまりうまくいっていないことを表していた。
 それは私にとってちょっと意外だった。種子島に派遣した手代が報告したように、芝辻清右衛門がポルトガル人の鉄砲を直に見ながら製法を学んだなら、もう量産が軌道に乗っていてもいい頃だからだ。堺には根来の鉄砲が売りに出されているという噂はまだ伝わっていなかったが、それは根来の傭兵軍団用として確保されているからだろうと私は踏んでいたのだ。
「わしのとこも種子島に人をやって鉄砲を買うてきたが、いまいち造り方がわからんのや」と私はさらに話の核心に入っていった。
「そうか」監物の声はさらにかすかになった。「そんなことは知ってる」と胸の内で言っているのだろう。
「同じ一族のよしみで、造り方を教えてくれへんか?」と私はたたみかけた。
監物が「いや」とかなんとか言いかけたところへ、「いくら出したらええ?」とさらにたたみかけた。
 歳は監物のほうが20近く上だが、こういう駆け引きになると彼はまるで子供だった。子供の頃から監物の武勇伝や、戦場での敵との駆け引きの話をさんざん聞かされていたから、彼が知恵の働く男だということはわかっている。ただ、戦場と商売の世界では駆け引きのツボがまるでちがうというだけの話だ。
 私は心臓の鼓動が激しくなるのを感じた。子供の頃から敵と、あるいは交渉相手と果敢に渡り合い、優位に立てば立つほど、自分の無力さをさらけだし、屈服したいという衝動がおさえられなくなる。眩い太陽を見上げたときに黒ずんだ緑の影が現れるような光と陰画の現象。


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