イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

京都2010冬

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新京極/寺町をぶらついたあと、錦小路に寄ってみた。

別に欲しいものがあるわけではないのだが、
京都に来たらついついのぞいてみずにはいられない。

シャッターを下ろした店が多いのは、
正月に営業した分、休みをとっているのだろう。

地方にはシャッター通り商店街が多いが、
ここは京都の料理屋から一般家庭まで色々な人が食材を買いに来る京都の台所だ。

テレビで観光地のように取り上げられて、
最近は観光客向けにとんでもない値段で漬け物を売ったり、
食事をさせたりする店もできている。

もともと西陣の織物や京焼きなどの陶磁器等々、
工芸品の産業があり、

その技術と近代科学を融合させて、京セラやオムロン、島津製作所、ワコールなど、
さまざまな企業が育った京都だが、

もともと観光で食っている部分もあるのだから、
錦小路の変貌も京都らしいと言えば京都らしいのかもしれない。

市場通りのすぐ横に、落語をやっている銭湯があった。
これも銭湯の生き残り作戦なのだろう。

時代の変化に合わせてたくましく生きていくのが京都人だ。

昔から何度となく戦火に焼かれ、逃げ出しては、
戻ってきて町を再建するということの繰り返しが京都の歴史だった。

千年の都の争乱が育てた生き残り術。

そのしたたかさには学ぶところが多い。

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寺町通りのアーケード街を南へ歩く。
気がつけば、一本東側を並行して新京極のアーケード街が走っている。

二本のアーケード街の所々を横丁がつないでいる。
あみだくじみたいに行ったり来たりできるようになっているのが楽しい。

一カ所、二本の通りをつなぐ広場があった。
子供の頃はこんなにきれいじゃなかったような気がするが、
それでも行き交う人の波がぶつかって、
胸がおどるようなワクワク感を味わうことができた。

新京極側に蛸薬師さんがあった。

小さな薬師如来を祀ったお寺だ。
奥にはこぢんまりした神社の祠もある。

明治の神仏分離令でもつぶされなかった神仏習合。
関西のあちこちにはまだいい加減で能天気な信仰のスタイルが生きている。

その少し先には天神様もあった。

いいなあ、このショッピングの物欲や娯楽と信仰心が、
雑多に混じり合ってる感じ。

これぞアジア。

科学、計算、効率ばかりくそまじめに追求しているばかりが幸せじゃないと、
この街が教えてくれる。

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上賀茂神社からバスで市内に戻った。

寺町通りのアーケード街に入ると、すぐ左手に本能寺の門。
昼前に入った河原町通りからの路地みたいな入り口は裏口で、こっちが表側なのかもしれない。

向かいの古本屋には、京都関係の写真集をじっと見つめる白人。
いかにも京都だなあ。

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朱色の荘厳な門をくぐると、奥には茶色の世界が待っていた。

熊野神社を思い出させる焦げ茶色の神々の住まい。

この神々は太古からここにいるのだろうか?
それともよそからやってきたのだろうか?

朱色の門や橋の唐風のデザインは、
白鳳・天平から平安初期のグローバリゼーションの産物だとすると、
この茶色のデザインはいつの時代の産物なのだろう?

唐風より古いからといって、原初から大和/日本に鎮座しているとはかぎらない。

伊勢神宮は神武天皇に連なる、天から降臨した神々の社のはずだから、
もともとは九州・宮崎の高千穂あたりから移ってきたのだろうが、

なぜか「元伊勢」と称される神社は丹波山地にあったりする。

天孫降臨に象徴される、大陸・朝鮮半島からの民族渡来は、
たぶん長い年月のあいだに、様々な部族によって継続的または断続的に行われたのだろう。

ある時期のある部族は北九州に拠点を造り、そこから南下して宮崎に拠点を移し、
さらに東征して、河内や大和を征服したのだろうが、

それ以外にも、出雲や因幡、丹後、越など日本海沿岸に、
様々な部族の拠点が築かれ、そこから植民活動が広がっていったのだろう。

神武天皇が征服したと言われる大和盆地の先住民も、
別に原始時代からの土着民とはかぎらない。

青森県の縄文遺跡から大陸の漆や工芸品が発見されて、
大陸と日本の交易や往来は稲作以前までさかのぼることが明らかになった。

交易や平和的な植民から武力制圧まで、
色々なかたちの文物・人の移動が繰り返されて、
この国は形成されてきたのだ。

白山をご神体として祀る白山神社/白山信仰は、
北陸から甲信越あたりを中心に、広い地域に広がっているが、

この信仰をもたらしたのは、馬と養蚕/絹織物を主力産業とする民族だと言われている。
もともとは朝鮮半島の白頭山を神として祀っていた人々が、
日本に渡ってきて、白頭山同様雪で真っ白になる白山を発見して、
これを祀るようになったのだと。

八幡神社の八幡神も、もともとは新羅系部族の神だと、
裏日本史の世界で言う人もいる。

菅原道真を祀る天満宮/天神さまは、
唐・新羅に滅ぼされた高句麗系の騎馬民族が、
沿海州に逃れて建国した渤海からの渡来神だと言う人もいる。

天神信仰が全国に広まったのは、ただ個人としての菅原道真に対する信仰だからではなく、
梅や牛をモチーフとする渤海系移民たちの信仰だったからである云々。

白山信仰も、八幡信仰も、天神信仰も、
渡来したのは伊勢信仰や熊野信仰、この賀茂神社の信仰よりかなり新しい。
平安時代くらいだろうか。

より新しい時代に新しい勢力が新しい信仰をたずさえて渡来すると、
それ以前からいる勢力は、まるで日本古来の民族であるかのように振る舞う。

天/大陸・朝鮮半島からやってきて、
出雲系の大物主を滅ぼした天孫系の天照大神/素戔嗚尊も、
白山・八幡・天神などのニューカマーに対しては、
日本古来の正統性を主張する。

この重層構造にこそ、「日本人」の正体が隠れている。

それはわれわれが自分たちの正体を直視しなくてすむような構造になっている。

日本史を疑うときに胸がおどるのは、それがこの隠蔽構造をときほぐす行為だからだろう。

お参りをすませて朱色の門から出ると、ほの暗い山道の入り口に立てられた看板を見つけた。
大和・三輪山で見たのと同じような、山をご神体とする信仰の解説が書かれている。

石器時代からの信仰の地だったここに、
神武天皇の侵略/征服を先導した賀茂一族の祖先が住み着き、
大和朝廷の秩序にかなう信仰の様式を作り上げた。
それがこの賀茂神社なのだろう。

重層的で奥深い美しさと、
そこここに見え隠れする胡散臭さの融合こそ、
この賀茂神社の真髄なのだ。

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境内の奥に進むと、清らかな水が流れる川があった。
神楽の舞台になりそうな御殿ぽい橋がかかっている。

清流で心身を清めてお参りするという演出は、
伊勢神宮などにも共通しているが、

伊勢神宮が白木のモノトーンで統一されているのに対して、
下鴨神社も上賀茂神社も唐風の朱色の建築物が混じっていて、
そのあたりは奈良の春日大社を思い出させる。

この唐風は、白鳳・奈良時代のグローバリゼーションの産物なのだろうか?
それとも平安時代以降にリニューアルされたのだろうか?

八坂神社や平安神宮にもあるこの手のデザインを見るたびに、
京都らしさを感じると同時に、
信仰の起源がぼかされているような印象を受ける。

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