イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

京都2010冬

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寒風に吹かれながら40〜50分歩いて、やっと上賀茂神社に到着。

「立砂」と呼ばれるゆうめいな円錐形の盛り砂が美しい。

神々が降りてくる神籬(ひもろぎ)であるとのこと。

奈良の山辺の道で見た神籬は石だったが、
石器時代から元々は石を神の寄りしろとして、
祭事を行ってきたのだろう。

それが、時代を下るにつれて神殿を建てるようになった。

こうして神殿の前の目立つところにまた神籬を設けるというのは変な気もするが、
ふだんは天空とか山の中にいて、神事のときに降りてくる神々を、
神殿だけでなく、境内に招いて祈りや踊りや音楽を捧げるということだろうか。

もうひとつ、おみくじを結ぶひもが、
かすかなカーブを描いているツリーもなかなか美しい。

おみくじを結ぶ木やひもはどこの神社にもあるが、
こういう美しいしつらえになっているところはあまりない。

なぜかこのツリーから鶴を連想してしまうのはなぜだろう?

朝鮮半島からやってきた部族のしるしを、
無意識のうちにさがしているからだろうか?

下鴨神社も、この上賀茂神社も、
せっかく古代から土着の神々を祀っていると主張しているんだから、
それを信じてあげればいいだけのことなのだが。

京都散歩41〜都鳥?

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賀茂川の河川敷で赤ん坊を連れたおばあさんが鳥にパンをあげていた。

鳥はたちまち群がってきて、おばあさんの手を襲う。

ヒチコックの「鳥」という映画を思い出した。

うしろの乳母車で寝ているお孫さんまで襲われないかとハラハラしてしまう。

この白い鳥は何者だろう?

川によくいる白鷺ではない。
カモメよりちょっと小ぶりで、ウミネコよりちょっと大柄に見えるが、
どちらかといえば海にいそうな感じの鳥だ。

これが噂の都鳥だろうか?

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【註】
今、ネットで検索してみましたが、この鳥は現在「ミヤコドリ」と呼ばれている鳥ではなく、
「ゆりかも」めのようです。

「ミヤコドリ」は体の上半分以上が黒っぽいのに対して、
「ゆりかも」めは体が白く、くちばしと脚が赤っぽいとのこと。

ただし「伊勢物語」で関東に流れてきた主人公が隅田川で目撃する「都鳥」は、
体が白くて、くちばしと脚が赤いとされているので、
現在の「ゆりかもめ」だったのではないかと言われているようです。

つまり、この賀茂川でおばあさんを襲撃している鳥は、
現在「名ゆりかもめで、平安時代には「都鳥」と呼ばれていた鳥ということになります。

京都の賀茂川で見かけた鳥が「ゆりかもめ」だとちょっと興ざめで、
「都鳥」だとなんとなくうれしいのは不思議ですね。

京都散歩40〜清流と血

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賀茂川を北へ向かうにつれて、水の清らかさが目立つ。

別に三条・四条あたりでも生活排水や産業排水を流してるわけじゃないだろうから、
水の清潔さはそんなに変わらないのかもしれないが、

たぶん川にもデザインみたいなものがあって、
水の透明さを強調するような流れになっているのだろう。

それにしても水の変身はびっくりするくらい自在で迅速だ。

昔はたくさんの死体があふれ、河原で多くの首がはねられた川も、
時代が変われば清らかに生まれ変わる。

賀茂川/鴨川の、まさに今の京都の繁華街を流れるあたりで、
そんなにおびただしい血が流れたことなど、
知識として知っていても、想像するのは難しい。

昔の絵にはこうした河原で、放免と呼ばれた死体処理係たちが、
のちの歌舞伎役者みたいにド派手な衣装に身を包み、
堂々と仕事をしている様子が描かれている。

彼らが何者で、どうしてそんなに生き生きしているのかを知らなければ、
鎌倉時代や室町時代がどんな時代だったのかは理解できない。

京都は日本人が何者なのかをいろんな角度から教えてくれる歴史の万華鏡だ。

だから何度来ても胸が高鳴るのだろう。

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賀茂川の土手や河川敷を、北風に吹かれながら歩いていると、
まるで冬山トレッキングみたいに体力を消耗する。

食欲はないが、気がつくと低血糖寸前。

さっき出町柳商店街の和菓子屋で買った桜餅とうぐいす餅を、
下鴨神社近くのコンビニで買ったお茶でいただく。

買ったとき温かかったお茶は氷水みたいに冷えていて、胃にこたえる。

それでもうぐいす餅と、関西風のつぶつぶ餅米の桜餅に、
京都の春を感じる。

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賀茂川の河川敷には舗装されたサイクリングロードや公園が整備されている。

平安末期に後白河上皇が自分の意のままにならないもののひとつにあげた賀茂川/鴨川の流れは、
治水技術の発達ですっかりおとなしくなってしまっているらしい。

河川敷を歩いたり、橋を渡って東側のサイクリングロードを歩いてみたりしながら、
北に見える山々を眺める。

京都の北には何があるんだろう?

丹後半島や若狭湾。

そういえば、丹後半島に間人(たいざ)という町がある。
蟹で有名なところだ。

かなり前テレビで、この間人に関する面白いドキュメントを見たことがある。
この町に動乱を避けて聖徳太子の妃が避難したという言い伝えがあるらしいのだ。

間人と書いて「たいざ」と読むのは、この妃が都から退座したことによるとのこと。
今でもこのとき随行した東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)という家臣の子孫がこの地に住んでいて、番組の中紹介されていた。

東漢というのは、応神天皇の時代に朝鮮半島から渡来したといわれる氏族の総称だ。
軍事にすぐれ、建築土木や工芸など当時の先端技術者集団を率いていた。

平安初期に最初の征夷大将軍に任ぜられ、陸奥の征服に活躍した坂上田村麻呂なども、
この東漢氏のひとつ坂上氏の出だ。

このドキュメントで興味をそそられたのは、
まず聖徳太子の時代に妃が大和を逃げ出さなければならないような
動乱があったのかどうかということだった。

聖徳太子の死後、20年ほどたって蘇我氏が太子の息子である山背大兄王とその一族を滅ぼすという事件が起こっているのだが、妃はこの時代まで生きていて、丹後半島へ逃れたのだろうか?

それとも、梅原猛の説にあるように、聖徳太子が反対勢力によって虐殺されるという事件があって、
妃はこのときに大和を逃げ出したのだろうか?

もうひとつ興味をそそられたのは、妃に随行した家臣が百済系の渡来人だったということだ。

坂上氏のように武人の東漢氏は蘇我氏の警護を務めたりしているから、ただ専門技能を持つ家臣として随行しただけなのかもしれない。

しかし、これはただの旅行ではなく政治的な逃走だ。
現にこの東漢直駒の子孫は、動乱の後も大和に帰れず、この土地に居着いている。
それほど聖徳太子一族に近い氏族だったのではないか?

「渡来人」というと、外国人の傭兵を雇っていたように考えてしまうが、
そもそも縁もゆかりもない外国人を武装させて、警護させて大丈夫だったのか?

坂上氏を警護隊として使っていた蘇我氏はもともと百済系の豪族だといわれる。
とすると、東漢氏を警護に使っていた聖徳太子一族も百済系なのでは?
という考えが生まれてくる。

もうひとつ興味深いのは、聖徳太子の妃が逃げたのが、日本海側だったことだ。

中国や朝鮮半島から人が渡ってくる場合、北九州〜瀬戸内海経由のルートをイメージしがちだが、
少なくとも朝鮮半島からやってくる場合は、
海流と季節風の関係で、日本海ルートの方が圧倒的に便利だった。

応神天皇の母・息長帯比売命(おきながたらしひめ)は越の国、
今の福井あたりの出身だったというし、
応神の五世の孫とされる継体天皇は、
大和で天皇の世継ぎが絶えたとき、越の国から呼ばれたという。

出雲から丹後半島・若狭湾・能登半島にかけて、
当時は朝鮮から渡来した勢力の植民都市がたくさん築かれていたのかもしれない。

京都から北を向いたときになんとなくワクワクしてくるのも、
こうした裏日本史から生まれてくるイメージのせいなのだろう。


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