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「ねねの道」という名前は昔からあったんだろうか?
1963年/昭和38年、
1年間だけ京都に住んでいた小学生時代に、
たしか東京から来た祖母と大叔母2人のお供をして、
高台寺を訪れたのが、この道を歩いた最初だ。
それから何度となくこの道を歩いてきたが、
「ねねの道」という名前を聞いたのはごく最近だ。
ぼくがうかつだっただけだろうか?
「ねね」とは言うまでもなく豊臣秀吉の正室で、
秀吉の没後、夫を弔うため、
この道の東側の斜面に高台寺を建てて、
老後は尼僧として暮らした。
手紙の末尾に「ね」とだけ署名していることなどから、
実は「ねね」というのは間違いで、
本当の名前は「おね(於祢)」だったという説もある。
ただ、これに対する反論もあって、
「ねね(寧々)」という女性の名前は鎌倉時代からたくさん例があるが、
「おね」という名前の例は見あたらないというのをどこかで読んだことがある。
ぼくの戦国時代小説で、「ねね」はまだ登場していないが、
「ねね」という名前を採用する予定だ。
「ねね」は秀吉の留守に安土城を訪ねて、
信長に秀吉の浮気をなんとかしてくれと談判したりするような、
強くて活動的な女性だったらしい。
信長が彼女をなぐさめる手紙が残っているが、
暴君のイメージが強い信長には、
主立った家臣の妻と気さくに接する一面もあったらしい。
本能寺の変のあと、
「ねね」は危険が迫る安土から、羽柴家の留守役の家臣団やその家族を率いて、
秀吉の城だった長浜まで退去させている。
武将のように馬に乗って号令したのかどうかはわからないが、
彼女が組織を動かす能力を持っていたことがうかがわれる。
のちに彼女は秀吉の暗殺にも関わったという説がある。
晩年の秀吉が朝鮮出兵や、
甥の関白・秀次とその家臣団抹殺など、
国政を危うくするのを見て、
反対勢力の暗殺計画を支持したというのだ。
さらに、秀吉の死後は豊臣家を見限り、
家康の支持に動いたという説もある。
そこに秀吉への愛憎と淀君への嫉妬など、
女の情念を読み取る人もいるようだ。
ぼくが思い描いている「ねね」はもっと頭のいい人で、
当時の日本のあるべき姿を考えて、
豊臣の危うい絶対王政ではなく、
徳川家康の封建制回帰を支持したのではないかと思っているのだが、
まあそのあたりは面倒な議論になるので、
またあらためてどこかで……。
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