イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

神戸散歩2010春

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5年くらい前、はじめて等伯の「松林図」をみたとき、連想したのはモネの最晩年の「睡蓮」だった。

巨匠になり、ジヴェルニーに理想の庭園・邸宅を造ってから、モネはその庭の池と睡蓮をしつこく描き続けた。歳をとるにつれて、彼の視力はおとろえ、最晩年にはぼんやりした視界の中で絵を描いたと言われている。

東京の西洋美術館にある「睡蓮」もいいが、「松林図」から連想したのはパリのオランジュリー美術館地下にある巨大な8点の連作だ。

この連作の「睡蓮」は、ものの形状がぼんやりしていて、近くで見るとほとんど抽象画・現代美術と言っていいほどだ。絵筆のタッチは荒々しく、たっぷり絵の具をつけた一筆で、睡蓮の花が描かれていたりする。

抽象的な色とかたちの交響曲が、作品ごとに転調しながら、大河のように流れ、広大な世界を作り出す。

この「睡蓮」をマルセル・プルーストの小説「失われた時を求めて」になぞらえる人もいる。ぼくもその連想を楽しみながらこの絵を何度も眺めたものだ。

その後、「松林図」を見たとき、まったくスタイルは違うのに、モネやプルーストに通じる雄大さ、世界の存在のしかたとその見方に関する創造的な提案を感じた。

東洋の端っこにあるこの島国には、ちっぽけな国なのに世界の最高レベルに達した表現がいくつもあるのだが、この「松林図」もまちがいなくそのひとつだと思う。

19世紀末から20世紀初頭に生きたモネも、第一次大戦で息子を失うという経験をし、その悲しみの中で制作を続けた。テレビがモネの「睡蓮」紹介するときも、そうした個人的な悲劇をクローズアップすることが多いようだ。

しかし、「睡蓮」のすごさは個人的な生活を超えて、人間の知覚・感覚の根源や、時代の大きなうねりを疑似体験させてくれるところにある。

等伯が息子の死や戦国時代の血なまぐさい歴史を乗り越えながら、深淵で根源的な境地へと見る人を誘導する普遍的な装置として「松林図」ほかの作品を描き続けたのと同じことがモネにも言えるような気がする。

ただ、そうした普遍的な力を感じながら、モネや等伯の生きた時代の戦争や殺戮、家族の死といったどう時代的な事件について思いをめぐらせるのも、べつに悪いことではない。

美術・芸術と呼ばれるものは、決して普遍的・不変の要素ばかりでできているわけではなく、それを生み出した生身の人間の体験や、見る側それぞれの経験が投影されて、時代ごと、見る人ごとにそれぞれの経験を演出する。

今等伯、特に「松林図」が我々の心を打つのは、その普遍的な力のせいばかりではなく、この茫漠とした表現に、経済的繁栄の絶頂を過ぎた今の日本に生きる人々の喪失感、閉塞感と響き合うものがあるからなのではないだろうか。

そういえばやはり何年か前に、大規模な雪舟展が開かれ、一作家として最多の国宝を生み出したこの画家の評価が、国宝認定が行われた時期ほど高くないといった批評が現れたりした。

雪舟の力強さ、明快な筆使いは、今の時代の感覚には強すぎるのかもしれない。

ぼく自身も期待していた「山水長巻」や「天橋立図」に、等伯の「松林図」ほどの感銘を受けなかった。

もちろんそれは見る側の身勝手な主観であり、時代の移り気な空気みたいなもののせいでもあるのだが、そのときぼくはあらためて、「芸術」とはそれほど確固たるものでも不変なものでもなく、見る人たち、時代の気分によって揺れ動くものであり、そのときそのときの時代や人と共鳴することによって演奏される装置でしかないのだと感じたのだった。

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等伯はこの「松林図」で何をめざしたのだろう?

この絵がもっと本格的な作品の下絵だとすると、これだけで等伯がめざしたものをうんぬんするのはむずかしいのだが、作品というのは作者の手を離れてしまえば、作品それ自体が見る者の中でなにがしかの作用を及ぼすようになる。

逆に言うと、見る者にとって実在の作者はどうでもいいのであって、目の前のこの作品が自分にもたらすものとひたすら向き合うしかない。

この絵の力は、水墨画独特の濃淡による奥行きやタッチから、存在するものの本質がとばしってくるように見えるところにある。

そこにあるのはは山水画の境地に通じるものでもあるのだが、題材を松という単一に限定することによって、よりそぎ落とされた表現が実現されている。

見る者は、存在するとはどういうことか、存在しないとはどういうことかというぎりぎりの境界に立たされる。

それはたとえば千利休が茶の湯で追求したものにも通じる何かなのだ。

そういえば等伯は利休がプロデュースした大徳寺三門の天井画を手がけることで、京の画壇に本格的なデビューを飾っている。

それまで十数年、等伯は堺商人と親交を結び、彼らが所蔵する牧𧮾などの水墨画に学んでいた。利休とのコネクションもそこで培われたという。

「松林図」が制作された頃、等伯の絵画観をまとめた「等伯画説」という文章が書かれているが、そこで等伯は自分のめざす画境を「静かなる絵」と表現している。

心が落ち着くような、静謐さをたたえた絵ということだろうか。

「静かなる絵」の反対は「いそがわしき絵」「いそがしき絵」と表現されている。

「雪は静かなる物」「夜雨、鐘などは静かなるべし」「市の絵はいそがしかるべし」などとも語られているから、画風というより題材について言っただけともとれるのだが、等伯の価値観、美意識をうかがい知る手がかりにはなりそうだ。

もちろん、現代の我々が見るときには、現代なりの見方で見るしかないのだが、ただ主観に頼って見るよりも、当時の価値観や美意識に触れながら見た方が、より奥行きのある世界に触れることができる。

興味深いのは、室町時代のわび・さびといった美意識が、戦乱の中で生まれ、成熟してきたことだ。
特に応仁の乱以降、等伯や利休が生きた時代は、室町幕府が有名無実化し、血なまぐさい戦闘が果てしなく繰り広げられた時代だった。

わび・さびの極致をめざした利休の価値観もそこで磨かれた。
殺し合う時代だからこそ、人とは何か、生きるとはどういうことか、人と人はどのように相対し、かかわるのかを極限まで突き詰めたのだとぼくは感じている。

面白いのは、戦闘の当事者である戦国武将たちも茶の湯を愛したことだ。
信長も秀吉も華麗な狩野派の絵画を愛したが、同時に利休の美学も愛した。

武将や商人たちは「いそがわしき」世界の住人であり、商人だった利休や、当時の大茶人でもあった今井宗久・津田宗及といった堺商人たちも例外ではないのだが、それでも「静かさ」「わび・さび」の美学は彼らのうちに常にあった。

大徳寺三門が完成してまもなく、利休は秀吉との対立を深めていき、ついには自死に追い込まれるのだが、それでも「静かさ」「わび・さび」の美学は長く残ることになった。

利休と親しかった等伯だが、その後秀吉にその力量を認められ、智積院に狩野派まがいの華麗な襖絵を描くことになる。
しかし、それでも等伯は「静かさ」「わび・さび」の追求を続け、この「松林図」をはじめとする水墨画の傑作を生み出していく。

同時期に華麗にして毒々しい「大涅槃図」を制作し、宮廷でお披露目をしたりして、画壇における戦いにも余念がなかったようだから、等伯の中にも武将や商人たちと同じ「いそがわしき」世界との両立・葛藤が続いたのだろうが、だからこそいよいよ「静かなる絵」の魅力が際立って見える。

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三十歳を過ぎて能登から京に出た等伯は、能登時代からのパトロンである日蓮宗の寺を拠点に、画家としての仕事を始めたと言われる。

当時の京では狩野派が御用絵師として権力者の注文をほぼ独占していたため、等伯にはなかなかチャンスがめぐってこなかった。

その間、何をしていたかというと、日蓮宗関連の仏画を描きながら、当時すでに画聖とされていた雪舟の絵や、京の主流である狩野派の絵、中国の水墨画などを学んでいたらしい。

特に南宋画の画家・牧𧮾には大きな影響を受けたという。

それを裏づけるように(というより作品からそういう推測をしたということなのだろうが)、50歳頃になって仏画以外の仕事を次々手がけるようになると、等伯は狩野派まがいの華麗な屏風絵から、有限な水墨画まで、実に様々なタッチの絵を描いている。

水墨画にしても、雪舟や牧𧮾の影響はあるにしても、金屏風に山水画を描いたり、金地に装飾的な岩と波を描いたり、それまでの水墨画とは大きく異なる美を追求しているように見える。

金地に柳と橋を描いた装飾的な水墨画などは、のちの尾形光琳につながっているようにも思えるし、金地にグラフィカルな岩と波を描いた波濤図は、現代日本画のような突き抜けたデザインになっている。

そうした多様で実験的な画風の中でも、「松林図」は特異な位置を占める。

ひとつの特徴は、松林だけを墨の濃淡で描いていることだ。

等伯が一種類の草木だけを描いた絵は、「萩図・芒(すすき)図」や「檜図」など、ほかにもあるのだが、これらがパターン化された装飾的な絵柄になっているのに対して、「松林図」は規則性を排し、茫洋とした奥行きを墨の濃淡で表現している。

最近の研究によると、「松林図」にはトリミングや編集(並べ替えや位置の変更)の跡があるらしい。そこから、これが完成された絵画作品ではなく、つぎはぎされたデッサンであり、もっと本格的に制作された/される予定だった障壁画の下絵だったことがうかがわれるとのことだ。

つぎはぎの下絵を国宝に指定するのもどうかという気はするが、今見ることができるこの「松林図」が、日本美術の中で突出した傑作であることは否定できない。

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没後400年の大規模な等伯展が開催されていることもあって、
長谷川等伯の生涯は、テレビでもあちこちで取り上げられている。

能登の七尾で生まれ、北陸の仏画家として出発した等伯が、
三十歳を過ぎて京に進出し、
御用絵師集団の狩野派に挑み、
秀吉に認められて狩野派の牙城を崩しかけたものの、

狩野派の反撃にあい、
天才だった息子を失い、
失意のどん底で「松林図」のような独自の境地を切り拓いた……
というようなドラマを、
どのドキュメント番組でも描いていた。

しかし、ぼくはそこになんとなく釈然としないものを感じる。

作品の背景に作者の人間ドラマがあるのはいいのだが、
それが作品の正体、真髄みたいに扱われると、
「それじゃ、表現というのは生身の人間の浅薄な衣装にすぎないのか?」と言いたくなる。

ドラマが好きな人は映画やテレビを見ればいいし、
物語のあるタイプの小説を読めばいいのだが、
それがすべて、それが物事の真髄なら、
美術や音楽といったものはなんのためにあるのかということになる。

ほくは「芸術」をなにか特権的なもののように扱うのは好きではないのだが、
少なくとも「松林図」には、わかりやすい人間ドラマ、時代のドラマを突き抜けた、
普遍的な力がひそんでいるように感じられるのだ。

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松並木を眺めながら夙川の土手の上を歩く。

カメラを白黒モードにして松を撮る。

松の数が多すぎたり、下の家が入ってしまったりして、
なかなかいい構図の絵にならない。

長谷川等伯の「松林図」みたいなボケ味など到底ムリだ。

それでもあきらめきれずに、松並木を眺めながら歩く。

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