イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

吉備路紀行2010春

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国分尼寺跡から吉備路サイクリングロードを東へ少し走ると、

小さな丘がいくつも見えるようになってきた。

これらはすべて古墳らしい。



日本で4番目に大きな造山古墳もこのあたりにあるのだが、

「造山古墳」の標識が立っていた角を曲がってみたものの、

小さな古墳たちに出くわすばかりで、一向に巨大古墳にたどりつかない。



何度もサイクリングロードに戻りながら、やっと見つけた造山古墳は、

でかすぎて一部しか見えず、

全体が見える小型古墳にくらべてあまりに普通の山に似ているので、

案内板がなかったら見落として行き過ぎてしまうところだった。

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国分寺から南側に吉備路サイクリングロードというのが走っているのが見えた。

総社駅の方から岡山市方面まで、

吉備路の史跡を結びながら続いているらしい。



あざやかな菜の花畑を眺めながら、サイクリング再開……と思ったら、

もう次の史跡である国分尼寺に着いてしまった。



国分寺とペアで建てられた尼寺だが、

国分寺の方が火災で崩れた建物を再建したりしながら、

今日まで残っているのに対して、

国分尼寺の方は森の中に礎石が残っているだけの完全な廃墟。



尼さんのなり手が少なかったからだろうか?



国分尼寺跡はあちこちで目にするから、

奈良時代、全国に国分寺が創られたときは、

尼寺も必ずペアで創ることという方針が貫かれたのかもしれない。



そう考えると、奈良時代は女性がけっこう重んじられていたのかなという気がする。

庶民はともかく、古代にはやたらと女帝が多い。

聖徳太子の時代の推古天皇とか、

天武天皇のあとに皇后から天皇に即位した持統天皇とか、

奈良時代にも孝謙天皇がいる。

聖武天皇の妃・光明皇后は、

天皇に即位してはいないものの、

夫の聖武天皇と並んで、奈良時代の仏教普及運動の中心人物だったという。



国分寺+尼寺というペア構想は、

光明皇后の影響が反映されているのかもしれない。

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作山古墳から東へちょっと走ると、遠くに美しい五重塔が見えた。

奈良にやってきたような錯覚に陥る。

これが備中国分寺だ。



寺の前に自転車を停めて敷地内に入る。

国分寺は聖武天皇の命令で全国の国ごとに造られた寺だ。

ただ行政で地方をおさめるだけでなく、

仏教の力を借りようとしたところに、

信仰心の厚い聖武天皇の志があらわれていると、

歴史で教わったような気がする。



しかし、当時の仏教は単なる宗教ではなく、

中国の先端技術と不可分であり、

日本にとってはグローバリゼーション/近代化政策の一環でもあった。



これより前、聖徳太子/蘇我氏などによる仏教導入が、

高句麗/百済系豪族による朝鮮半島経由だったのに対して、

天武/聖武天皇の白鳳/天平時代のそれは、

唐大帝国から直接、人・モノ・技術を受け入れている。



たとえば天平時代の仏像が、

飛鳥時代のものにくらべて急にリアルになり、

素人が見ても技術的レベルが格段アップしているのがわかるのは、

やはり唐から優れた職人たちがやってきたからだろう。



唐には中東やインド、中央アジアなどから様々な人や文化が入っていたため、

日本にも国際色豊かな文物が入ってきた。



これが白村江の戦い〜壬申の乱を契機とした日本の大政変によるものだとすると、

さっき見てきた異様な山城と、見た目にあまりにも大きな落差があるこの国分寺は、

ひとつながりの歴史の産物なのだ。



ただ、残念なことに奈良時代の国分寺は、

建物がすべてなくなっていて、

現在残っているのはすべて江戸時代に再建されたものだという。



現在の境内の外には、奈良時代の建物の礎石が残っている。

ということは、創建当初の方が規模ははるかに大きかったのだろう。



歴史というのは時の流れにしたがって、

ものごとが進歩/進化していく過程だと考えがちだが、

こういう例を見ると、かならずしもそうではないことがわかる。



イタリアや南フランスやスペインを旅していると、

あちこちでローマ帝国時代の巨大で高度な建造物の遺跡に出くわし、

ヨーロッパの建築とか社会インフラみたいなものは、

古代に達したピークから一度衰退したのであって、

中世から近世を経てそれを再び超えるようになったのは、

産業革命以降のことなんじゃないかと感じたりもするのだが、

この国分寺/国分寺跡を見ていると、

それと似たようなことを感じてしまう。


奈良時代のあとも、日本は何度か活発に中国との交流をおこない、

そのたびに新しい文物と仏教の流派を取り入れて社会を変革しては、

その後、国内の政情不安や中国側の戦乱などでそれが途絶え、

鎖国状態の中で輸入文化の消化と独自な文化の創造を

くりかえしていくことになる。



幕末の開国から明治維新、第二次大戦の敗戦と戦後のアメリカ化など、

日本近代の歴史も、このパターンからそんなにはずれていないのかもしれない。

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鬼退治についてなおもあれこれ考えながら鬼ノ城をあとにした。

さっき自転車をガードレールにチェーンで固定したところまで、急坂を歩いて下り、

今度は自転車に乗って一気に山を下る。

1時間近くかかった登りが下りは数分。

つくづく重力というのはすごいなと感じる。



平地に戻ってまっすぐ道路を南下すると、

右手に大きな古墳が見えた。

地図によると、これは日本で9番目、岡山で2番目に大きい作山古墳。

このあたりは日本でも有数の古墳密集地域だ。


近くには日本で4番目に大きい造山古墳というのもある。



4〜5世紀の古墳時代に、

大和王権に対抗するような王権がこの吉備の国にあったという説と、

大和によって吉備が平定されてから、

大和王権によって築かれたという説があるとのこと。



どっちにしても、吉備は大和王権によって征服されたと見られるのだが、

その征服は、時系列的にいうと、

白村江の戦い〜壬申の乱があった7世紀より数百年前のことだ。



とすると、このときの征服は、

「鬼退治」伝説を生まなかっただろうか?



ここにもうひとつの大きな謎がある。

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この山城が、白村江の敗戦後に中大兄皇子が築かせたものだとすると、

そして彼が百済と深い関係にあり、

白村江の戦いの2年前に新羅・唐によって滅ぼされた百済から、

大量の難民を受け入れ、

こうした山城にも百済の建設・土木技術が使われているということになると、

一体「鬼の城」というのは何なのだろう?



この吉備路紀行の最初に書いたように、

この岡山県南部には、

百済からやってきて製鉄技術を伝えた「温羅(うら)」という鬼がいて、

大和の英雄に退治されたという伝説が伝わっている。



とすると、この鬼は661年に滅んだ百済からやってきた技術者たち、

あるいはそういう技術集団を抱えた部族だったのだろうか?



とすると、この百済系部族はいつ、誰に退治されたのだろう?



一番ありそうなのは、前回も書いた672年の壬申の乱のときだ。



前回でも触れたが、この動乱は天智天皇(中大兄皇子)の弟・大海人皇子(天武天皇)が、

天智の死後まもなくその後継者である大友皇子を破った、

いわば大和朝廷内の相続争いであると歴史では教えている。



しかし、天智が当時の大帝国である唐に反逆して敗れたのに対して、

天武は権力奪取の直後から積極的に唐の政治制度や文化を取り入れている。

天智がアンチグローバル派だったのに対して、

天武はグローバル派。



これは単に個人的な政治思想の違いということではない。

そもそも天智(当時はまだ中大兄皇子)はなぜ、

大帝国・唐に滅ぼされてしまった百済に義理立てして朝鮮半島に大軍を送り、

勝ち目のない戦いを挑んだのか?



裏日本史の世界では、

天智(中大兄皇子)とその一族が百済系の王族であり、

当時の大和/日本は百済の植民地国家だったからだという見方がある。



百済がただの同盟国だったら、

すでに滅んでしまった国のために、

大帝国・唐と朝鮮半島の覇権を確立した新羅に

わざわざ戦いを挑んだりしないだろう。


しかし、百済が彼らの母国だったとしたら?



壬申の乱は、大海人皇子が大友皇子のいる近江の大津に攻め込んで制圧したという部分だけが、

一般によく知られているが、

全国(今で言う西日本だけど)各地で戦いがあったと言われている。



とすると、それは天智と大海人皇子という兄弟の私兵による戦いというより、

百済人による反唐・新羅、アンチグローバル派と、

親唐・新羅、グローバル派の戦いだったはずだ。


唐・新羅が軍を派遣していたという説もある。



北九州から瀬戸内海沿岸にかけて築かれた防衛拠点が、

唐・新羅軍の侵攻に備えたものであり、

壬申の乱で百済人および親百済派が敗れたとすると、

当然、こうした防衛拠点をめぐる攻防戦はあったと考えるのが自然だ。



昨日はとりあえず、

こうした防衛施設をめぐる戦いはなかったと書いたが、

それは「日本書紀」など、

歴史的資料にそうした記録がないから、

オフィシャルな歴史としてはそういうことになるという意味にすぎない。



しかし、裏日本史的観点から見えてくる現実は、

そうした戦いがあったはずだと教えている。



それがうやむやにされているのは、

大和朝廷が朝鮮半島からの移民による政権であり、

敗れた親百済派・アンチグローバル派も、

勝った親唐・新羅派・グローバル派も、

百済系の王族・豪族連合体だったからだろう。



白村江の敗戦から壬申の乱という内乱を経て、

敵だった唐大帝国の支配を受け入れながら、

なんとか独立国としてのかたちを維持した大和/日本は、

太平洋戦争に敗れたあとの日本とどこか似ている。



唐の制度・文化を受け入れて再スタートした藤原京・平城京時代の大和/日本は、

鬼畜米英のスローガンのもと挙国一致で遂行された戦争を

一部の「軍国主義者」のせいにして、

手のひらを返したような親米路線で戦後の経済復興に邁進した日本を思わせる。



とすると、退治された「鬼」とは、

敗戦の責任を背負わされた当時の「軍国主義者」、

百済系・反唐勢力のことなのだろうか?

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