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ぼくらは庭園から谷へ降りる斜面に秘密の洞窟を持っていた。ほかのやつらも知ってい
たのかもしれないが、とにかくそこにはぼくらしかやってこなかった。洞窟はとても深か
った。曲がりくねって上ったり下ったり、広くなったり狭くなったりしながらどこまでも
続いていた。途中、広場みたいになってるところがあった。そこはひどく寒くて天井から
氷柱が何十本も下がっていた。息を吐くと白い煙がそのまま細かい雪の結晶になってパラ
パラと地面に落ちた。奥のほうに鹿が一頭蹲っていた。最初見たときぼくらは生きてるの
かと思った。鹿が首を真っすぐに上げ、目を光らせてこっちを見ていたからだ。角の立派
な牡鹿だった。冷凍庫みたいに寒い洞窟の奥の地下広場で、その鹿はカチカチに凍ってい
た。どうしてこんなところで凍ってしまったのかよくわからない。迷い込んで出られなく
なったにしては泰然としてるように見えた。病気で動けなくなったのかもしれないが、そ
れにしては丸々と太っていた。もしかしたら生きていくのがいやになって自殺したのかも
しれないとぼくらは話し合った。鹿は首を吊ることもピストルでこめかみを撃つこともで
きない。飢え死にするのは鹿だってつらいだろう。この天然の冷凍庫の中で凍死するとい
うのは、自殺の方法としてはなかなか優れているような気がした。
その頃の六甲山にはまだ鹿がたくさんいた。ぼくと八重山にも庭園のあたりに馴染みの
鹿がいた。ぼくらは弁当の残りを山の斜面に置いて、鹿に食べさせたりしていた。鹿はい
つもすぐに現れた。まるでぼくらが弁当を置くのを見張ってたみたいに。たいていは一頭
だけでやってきたが、ときには牝鹿と仔鹿を連れてくることもあった。牡鹿はぼくらのほ
うを見上げて少しのあいだぼんやりたたずみ、それからゆっくりと食べ始めた。
「悪いね。腹ぺこなんだ」と言ってるように見えた。
「どうぞ、遠慮なく」とぼくらは鹿に言った。
「きみらもあんまりいいものを食ってないね」と鹿が言った。
「ごめんね」とぼくらは言った。
鹿はいつもまずそうにぼくらの弁当を食べていた。舌のおごった鹿だったのかもしれな
い。あるいは単に人間の食い物が口に合わなかっただけなのかもしれない。あるいは人間
に食い物を恵んでもらってプライドを傷つけられたので、わざとそんな素振りを見せたの
かもしれない。鹿はいつも気位が高そうな様子をしていたからだ。
凍った鹿のいる広場からは何本か細い通路が続いていた。ぼくはそこから奥に進む気に
なれなかった。鹿がそこを塞いで守ってるような気がしたからだ。しかし八重山は全然気
にしていなかった。彼は冷凍鹿の背中に乗って遊んだりしてから、さっさと奥に入ってい
った。どの地下道もひどく寒かったが、大した危険はなかった。地下道は蟻の巣みたいに
複雑に分岐しながらいたるところに通じていた。神父館の地下貯蔵庫にも行けたし、ノイ
マン屋敷にも行けた。庭園の下に広がる住宅街にも出ることができた。その出口のあたり
は壁がコンクリートになっていて、錆びた鉄の柵で塞がれていた。
「防空壕だ」とぼくらは言った。
第二次世界大戦のとき、六甲山系の麓のいたるところにこうした防空壕が掘られたのだ。
アメリカの爆撃機がやってきて神戸を火の海にしたとき、多くの人がそこに逃げ込んだ。
一九六七年にはまだ第二次世界大戦はそんなに遠い昔のことじゃなかった。
一番びっくりしたのは地下道の一つがずっと長く伸びて神戸の繁華街まで通じていたこ
とだ。通路の終点は鉄のドアになっていて、その外はもう三ノ宮の古ぼけたビルの地下倉
庫だった。
「やった」と八重山は言った。
「うわあ」とぼくは言った。
「こりゃすごい」と八重山が言った。「ぼくらはまた一つ自由を手に入れたんだ」
ぼくらは地下道を通っていろんなところへ行った。まず神父館の貯蔵庫でビールを飲み、
チーズや肉の薫製で腹ごしらえしてからノイマン屋敷に行って昼寝をするのが一番お気
に入りのコースだった。
ノイマン屋敷は真ん中の部分があらかた焼け落ちていて、焼け残った西翼と東翼も一階
の大部分は雨が吹き込んで絨毯が土みたいに腐っていた。壁や家具にも苔が生えていた。
部屋中に黴の臭いが立ちこめていた。しかし二階は意外と原形が保たれていて、特にドー
ム型をした玄武岩のうろこ屋根が残っている東翼は、瓦がところどころ剥がれてはいたけ
れど、すぐにでも人が住めそうな感じだった。
床から天井までガラス張りの大きなサンルームからぼくらは神戸の街と海を眺めた。東
側の谷とそのむこうの総愛学院も、ノイマン屋敷から眺めるとすごくきれいに見えた。校
庭ではコッホ神父がゆっくり歩きながら、クラブ活動をしている少年たちを見回っていた。
神父が一人の少年に近付き、何か話しかけ、やがて肩を抱いて保健室に消えてしまうま
でぼくらはじっとこのカーネル・サンダースに似た老人を見つめていた。ノイマン屋敷か
ら眺めるとこうしたことも美しい別世界のことみたいに思えた。
ぼくは神父館で飲んだビールで酔っ払ったときは、ノイマン屋敷のサンルームの大きな
長椅子でよく昼寝をした。薔薇の模様の布を張った寝心地のいい椅子だった。八重山は部
屋の隅に置いてあるアップライト・ピアノで静かな曲を弾いた。ショパンやシューベルト
の子守歌、あるいはバッハのパルティータなんかを⋯⋯。八重山のピアノを聴きながら眠
るといい夢を見ることができた。一番よく覚えているのは一人で地下道を通り、別世界に
出てしまうという夢だ。
長い夢だった。
ぼくは一人で地下道を歩いていた。壁にはビルの地下通路みたいにドアが並んでいた。
ぼくは一つ一つドアを開けた。中ではディズニーのアニメーション映画をやっていた。『
ピーターパン』、『白雪姫』、『ダンボ』、『眠れる森の美女』⋯⋯。しかしぼくはどの
ドアの中にも入らなかった。早く外に出たかったのだ。廊下の天井に梯子のついた抜け穴
があったので、ぼくはそこから地上に出た。そこはぼくの家の裏庭だった。家の中には母
がいた。しかし何となく様子が変だった。母がいやに優しいのだ。そのうち、そこがほん
とのぼくの家じゃないということがわかってきた。母に似たその女はぼくにそっくりの息
子がいて、ずいぶん前に裏庭の穴に潜ったきり出てこないのだとぼくに打ち明けた。ぼく
は慌てて出ていくことにした。もう何か月もそのニセの我が家でニセの母と暮らしていた
からだ。ほんとの家ではほんとの母が心配しているに違いない。ニセの母はぼくを見送り
ながらめそめそ泣いた。
「泣かないでくださいよ」とぼくは他人行儀な口をきいた。相手はニセの母親なのだから
それでいいのだが、ちょっと妙な気がした。彼女があんまり本物の母にそっくりだったか
らだ。「あなたの息子に会ったら早く帰るように言いますよ」
ぼくはまた同じ地下道を通って自分の家に戻った。やっぱり同じような地下道の天井に
あいた梯子付きの縦穴を通って。母がいた。今度はそれほど優しくなかったので本物だと
いう気がした。
「ねえ、ぼくのこと可愛い?」とぼくは母にきいた。
「何言ってるの」と母はそっけなく言った。それは母らしい台詞だった。
それからまた何か月もたった。ぼくはときどき考え込むようになった。ぼくがいなかっ
た何か月かの間、母は寂しくなかったんだろうか? 何か月も行方不明だったぼくが戻っ
てきたのに、彼女はなんで平気な顔をしていられたんだろう?
可能性その一⋯⋯実はその母は例のニセの母親で、ぼくはまた同じところに戻ってきて
しまったのだ。ニセの母はまたぼくに逃げられちゃいけないと思って、本物の母親らしく
わざと素っ気ない態度をとった云々⋯⋯。
可能性その二⋯⋯ニセの母のぼくにそっくりの息子が、ぼくの留守中にやってきてぼく
の家でぼくになりすましていた。うっかり者の母はニセのぼくに気がつかなかった。ぼく
が戻ってきたのでニセのぼくは慌てて姿を隠した。うっかりものの母は本物のぼくを何か
月ぶりかで見たのに、ぼくがニセ者と入れ替わったことに気づかなかった云々⋯⋯。
可能性その三⋯⋯うっかり者の母は何か月もぼくがいないのに気づかなかった。
ピアノの音が途切れて、
「きれいだね」という声がしたのでぼくは目を覚ました。
サンルームはすっかり暗くなっていた。ぼくは長椅子に横たわったまま、
「そうだね」と囁き返したが、八重山はぼくのそばにいなかった。
長椅子の端には男の子と女の子が並んで腰掛けていた。二人ともぼくよりちょっと年上
に見えた。ぼくは起き上がってピアノのほうを見たが、八重山はそこにもいなかった。
「八重山」とぼくは叫んだが、自分の声が水の底から聞こえてくるような気がした。
「誰かがぼくを呼んでる」とぼくの横で男の子が言った。「ぼくはもうすぐ死ぬんだ」
「この国の人全部がもうすぐ死ぬのよ」と彼のむこうで女の子が言った。
男の子は白いワイシャツに黒いズボンというシンプルな服装で、頭は丸坊主だった。な
んだか八重山に似ているような気がしたが、頭にイモ虫みたいな傷跡はなかった。女の子
は紫と白の着物を着ていた。髪をきつく結って、耳の上に木蓮だか梔子だか、白い大きな
花を插していた。どこかからビリー・ホリデイの歌が聞こえてきた。『時の過ぎ行くまま
に(アズ・タイム・ゴーズ・バイ)』だったか、『水べにたたずみ(アイ・カヴァー・ザ
・ウォーターフロント)』だったか、『アイル・ビー・シーイング・ユー』だったか、そ
の頃はまだ知らなかったが、たしかそんなスローテンポの曲だった。
ぼくは怖くなってもう一度「八重山」と叫んだ。
「ほら、また呼んでる」と男の子が言った。
「あなたは夢を見てるのよ」と女の子が言った。
「姉さんは怖くない?」と男の子が言った。
「怖くないわ」と女の子が言った。「あなたが一緒だもの」
窓ガラスがビリビリと震えた。すぐ目の前をプロペラ式の大きな爆撃機がたくさん飛ん
でいた。外は完全な闇だった。外灯も家の光も全く見えなかった。B29が目の前で次々
と爆弾を落とし始めた。まるで鹿がウンコをしているみたいだった。ウンコは一秒ちょっ
とで次々と地上に落ち、オレンジ色の炎が花みたいに咲いていった。
「うわあ」とぼくは言った。
「うわあ」と八重山が言った。
目を開けるとぼくは八重山の膝に頭を乗せて長椅子の上に寝ていた。彼の右手がぼくの
胸を撫でさすっていた。
「平気?」と八重山がきいた。
「夢を見ていたんだ」とぼく。「きみはずっとここにいた?」
「ずっといたよ。ピアノを弾いてた」
ぼくは夢に出てきた男の子と女の子の話をしてやった。
「それはきっとおふくろとおやじだよ、一九四五年の三月の」と八重山が言った。
「またまた」とぼくは笑いながら言った。八重山はよくそんな嘘をつくことがあったから
だ。
「ほんとだよ」と八重山が真顔で言った。「ここはぼくのじいさんが建てた家なんだ」
「ノイマンが住んでたというのは?」
「母屋のほとんどをノイマンに貸してたんだ。生活に困ってたからね」
八重山のおじいさんは大正時代に貿易で儲け、鉄工業と造船業にも手を出したが、昭和
の初めに破産した。一九三〇年代、世界恐慌の頃だ。息子が二人いた。おじいさんが死ん
だとき、一人は高校生だったが、結核で寝込んでいた。もう一人はまだ子供だった。それ
が八重山の父親だ。結核の伯父さんは聖書女学院出のお嫁さんをもらったが、子供ができ
ないまま死んでしまった。戦争が終わりかけの頃だ。残された兄嫁と弟は戦争が終わって
から結婚した。
「それで男の子は女の子のことを姉さんて呼んでたんだ」とぼくは言った。八重山はそれ
について何も言わなかった。
八重山の家は神戸でネジと車のホイールを作る工場を経営していた。両親は去年、つま
り一九六六年に交通事故で死んでいた。一九六七年には、横浜の聖書女子大に行っていた
八重山のお姉さんのミチコが神戸に戻ってきて、工場と家の両方を見ていた。
「行こう」と八重山が言った。「夢を見てちゃいけないよ」
「そうだね」とぼくは言った。「でも、あれは夢だったのかな?」
★
「ミチコ?」とマリコが言った。
ぼくは目を覚ました。ぼくらはベッドの上にいた。
「ミチコって言ったわ」とマリコが言った。
「言わないよ」とぼくは言った。「きっと気のせいだよ」
「そう?」
★
ぼくらは地下道を通ってよく三の宮にも出かけた。
当時の三の宮は今みたいにきれいな街じゃなかった。賑やかなアーケードのある商店街
から少し裏に入ると、汚い店がごちゃごちゃとひしめきあっていて、娼婦がそこら中に立
っていた。
「まず女を買おう」と八重山が言った。
ぼくはすっかり怖じ気づいてしまった。まだ子供だったから、売春はすごく悪いことだ
と思っていたのだ。
「それよりおなかがすいたよ」とぼくは言った。
「じゃあ、飯を食ってから女を買おう」と八重山は言った。
「お金がもうないじゃないか」とぼくが言うと、
八重山は通り掛かった小さな鞄屋に入っていって、たちまち金をポケットに詰め込んで出
てきた。彼のやり方はごく簡単だった。店に入っていき、店番の老人(年寄りが一人で店
番をしている店を狙うのがコツだと八重山は教えてくれた)に、一番高いところに下がっ
ている鞄を見せてくれと言う。じいさんが脚立を出して鞄を下ろしている隙に、さっさと
金を取ってしまう(レジスターを置いていないようなボロい店を狙うのがコツだと八重山
は教えてくれた)。そして下ろしてもらった鞄にあれこれ難癖をつけ、じいさんが鞄を戻
している隙に逃げ出す。
簡単でしょう?
ぼくらは古ぼけた小さなレストランで食事をした。年寄りが一人でやってる店だった。
生ビールをジョッキに何杯も飲み、ビーフステーキを食べた。すっかり酔っ払って、腹も
ふくれたところで、八重山がぼくに耳打ちした。
「ちょっと先に出てくれないか?」
「どうして?」
「いいから」
ぼくはいやな予感がした。
言われた通り一ブロック先の角で待っていると、札を鷲掴みにした八重山が笑いながら
走ってきた。彼は鞄屋で盗んだ金も併せて二等分し、ぼくに半分渡そうとした。ぼくは受
け取らなかった。何だかとてもいけないことをしているような気がしたからだ。
「なくすといけないから、きみがまとめて持っていてよ」とぼくは言った。
ほんとは「こんなことをしちゃいけない」と言いたかったのだが、できなかった。そん
なことをしたら八重山がすごく悲しむだろうと思ったのだ。
「かなりの儲けだろ?」彼は金をポケットにしまいながらうれしそうに言った。
それからぼくらは裏通りに立っている女たちを物色してまわった。ひどく寒い晩だった
が、どの女もかなり薄着だった。八重山が選んだ女は黒いスリップにハイヒールという格
好だった。ぼくには白くて大きなセーターをワンピースみたいに着ている女を選んでくれ
た。そこは長屋みたいな建物で、一階には酒場が並んでいて、その間にある入り口には通
りから直接二階に上がる、狭くて急な階段が続いていた。ぼくらは別々の部屋に通された。
部屋といってもベニヤ板で仕切っただけの、細長い隙間のような空間だった。
女と二人きりになると、ぼくはすっかり怯えてしまった。相手がぼくの母よりも年上と
しか思えないようなおばさんだったからだ。おまけに彼女はすごく無愛想だった。黙って
セーターをまくり上げるとたるんだおなかが現れた。セーターの下には下着一枚着けてな
かった。彼女はそばにあった丸い椅子に片足を乗せ、足を大きく開いて、
「早くしてよ」と言った。
「いや、結構です」とぼくは愛想笑いを浮かべながら言った。
「そう」女は不機嫌そうな顔でセーターを下ろし、椅子に腰掛けた。
ぼくは彼女に向き合って、ぼんやり立っていた。なんだか変な夢を見ているみたいな気
がした。ひどく場違いなところにいるような⋯⋯。娼婦の部屋といえばベッドがあるもの
と思っていたからかもしれない。
「あんたまだ子供でしょ」と女が言った。
「ええ、まあ」とぼくは答えた。
「ねえ、わたしと自由について話をしない?」と彼女は言った。
「いいですね」とぼく。
ぼくはできればすぐにそこから出ていきたかったが、なんとなく言い出せなかった。も
しかしたら、そんなに早く女の部屋から出ていくのは恥ずかしいことなんじゃないかと考
えたのかもしれない。
ぼくは落ち着かなかった。たぶん座る椅子がなかったからだろう。ぼくは狭く薄汚い部
屋に突っ立っていて、目の前では母親より年上の娼婦が丸椅子に座って煙草を吸っていた。
どこかから八重山と女の笑い声が聞こえてきた。楽しそうな笑いだった。
女は売春をする自由について話した。政府に売春を取り締まる権利はないと彼女は言っ
た。
「政府⋯⋯」とぼくは呟いた。
一九六七年の政府について、誰かが正面切って非難するのを聞いたのはそれが初めてだ
った。総愛学院では誰も一九六七年の政府や国家と自由の関係について語らなかったから
だ。彼女は政府の犯しているいろんな過ちについて長々と一人で喋った。ぼくはその間、
「ふうん」とか「へえ」とか合いの手を入れることくらいしかできなかった。ぼくはまだ
大人の議論に加わるにはあまりにも子供すぎたのだ。
「あんたいくつ?」と女がきいた。
「十四」とぼくは正直に答えた。
「あきれた」と言って彼女は笑った。「でも、そろそろ女が必要になる年頃かもしれない
わね」
「そうかなあ」とぼくはとぼけた。もちろんぼくはそのころ毎晩女の必要を感じていた。
ただ、母親みたいな年齢の女は対象から外れていたというだけのことだ。
「もっと大人になれば、わたしみたいな年の女でも平気になるわよ」
「そうかもしれないですね」
「ねえ、試しにズボンを降ろしてみない?」女がちょっと笑いながら言った。
「結構です」
「そう」彼女は笑いながら軽いため息をついた。「お金は返さないわよ」
「結構です」とぼくはまた馬鹿みたいに繰り返した。「ぼくのお金じゃないから」
八重山は元気一杯で、ぼくの手を取って通りをスキップした。ぼくは重い足取りでつい
ていった。
「どうしたの?」と彼はぼくの顔をのぞき込んで言った。
「もうあんなとこには行きたくないよ」とぼくは言った。
彼は立ち止まった。ぼくが泣いているのに気づいたのだ。
「どうしたの?」と彼はまたきいた。
「ああいうのはいやなんだ」とぼくは言った。「二度とあんなとこには行かないよ」
ぼくは顔をくしゃくしゃにして泣いていた。通りがかりの人がみんなぼくらをじろじろ
見ていた。恥ずかしかったが、どうしても泣くのを止められなかった。
「わかった」と八重山が言った。「悪かったよ。二度とあんなとこには行かない」
「ぼくのこと意気地なしだと思ってるだろ?」
「そんなことないよ。きみは潔癖なだけなんだ」
彼はハンカチを出してぼくの頬っぺたを拭いてくれた。母親が怯えた息子を宥めるみた
いにぼくの髪を掻き上げながら、母親みたいに優しい顔で笑った。八重山はそういうやつ
だった。
★
ぼくが神崎神父に怯えるようになったのは便所掃除のせいだった。一九六六年の秋のこ
とだ。ぼくはまだ十三歳で中学一年生だった。その日の放課後、ぼくは裸で便所掃除をし
ていた。多分宿題を忘れたとか、何かつまらないことで罰を食らったのだと思う。そうい
うことはしょっちゅうあった。宿題を忘れたり、授業中に無駄話をしていて叱られたりす
ると、総愛学院では裸で便所掃除をすることになっていたのだ。
一九六六年の秋の便所は冷凍庫みたいに寒かった。白いタイルの壁や便器は水をかけて
洗っているあいだに分厚い氷で覆われてしまい、何度もモップの柄で氷を割らなければな
らなかった。御影石の床に水をまくと、あっというまにスケートリンクができた。
ぼくが掃除を始めると、窓やドアから覗き込んでいたクラスの仲間がはやしたてた。
「やあい、ざまあみろ」やつらは笑いながら手を振った。
「覚えてろ」ぼくも笑いながら手を振った。
クラスの仲間たちの冷やかしは、罰当番をやるときの励ましになった。便所掃除は一人
でやるにはあまりにつらかったし、ぼくらはみんな明日は我が身という気持ちでいたから、
クラスから罰当番が出ると、そうやって応援に行ったのだ。
「おまえは恥ずかしいやつだな」神崎神父が入ってきてそう言った。後ろには大勢坊主頭
の訓育生を従えていた。「裸で便所掃除なんかして恥ずかしくないのか?」
「恥ずかしいです」とぼくは言った。声が震えた。神崎神父が恐かったというより寒くて
死にそうだったからだ。「服を着ていいですか?」
「だめだ」神崎神父はきっぱりと言った。後ろで訓育生たちが笑った。
「せめて靴を履かせてもらえませんか?」とぼくはピョンピョン跳び跳ねながら言った。
裸足で立ってると足が凍って床に貼りついてしまうからだ。飛び上がるたびにぼくのお尻
がプルプル震えたが、おちんちんはピクリともしなかった。寒さのせいであまりにも小さ
く縮こまってしまったのだ。そのせいか、鏡に映ったぼくは胸の平べったい女の子みたい
だった。
「だめだ」ぼくをじろじろ眺めながら神崎神父が言った。
それから彼はいろいろ質問を始めた。ぼくがもっとほかに何かもっと重い罰に値するこ
とをやらかしてるだろうといったことだった。もちろんぼくはいろんなことを隠していた。
一九六六年の総愛学院の生徒は誰でも隠し事をしていた。神崎神父が生徒からそれを聞
き出そうとするのも別に珍しいことじゃなかった。彼は現行犯を罰するだけでは満足しな
い訓育主任だった。彼の威光を恐れてあらゆる生徒が自分から進んで罪を告白しに来るこ
と、あるいはほかの生徒の罪を密告しに来ることを望んでいた。現実には誰も告白や密告
に来なかったので、彼は訓育生を使って罪を見つけだし、無差別の尋問によって自白を引
き出さなければならなかった。ぼくはそれまでわりと罰を食らうことが少ない生徒だった
ので、神崎神父から尋問されるのはそれが初めてだった。
「どうした? 白状するか?」
彼はそう言いながらぼくの股間に手を潜り込ませた。ぼくのおちんちんは凍えてどんど
ん縮んでいき、彼の手はそれを追ってどんどん奥に入り込んできた。
「ああ⋯⋯」とぼくは言った。「ああ⋯⋯」
ぼくは隠していたことをすっかり白状した。
「まだなんにもしてないじゃないか」と神崎神父は言った。「そんなにあっさり白状され
たんじや張り合いがないなあ」
「そんな⋯⋯」とぼくは言った。
「でも肝心のことは言わなかったな」と彼は言った。「結城とやっただろう?」
「何を?」
「とぼけちゃって」
彼は笑いながらぼくを石の床に正座させた。訓育生が頭から水をかけた。
「ゴボゴボゴボゴボ」とぼくは言った。
もちろんぼくは彼が何をききたいのか知っていた。結城というのはその頃ぼくが好きだ
った男の子のことだ。ぼくはいつでも結城とやることばかり考えていた。しかし現実には
まだほとんど口もきいたことはなかった。
「ああ⋯⋯」とぼくは言った。「ゴボゴボゴボゴボ⋯⋯ああ⋯⋯」
「なかなかいいぞ」神崎神父はうれしそうだった。
「本当にやってないんです」
「その調子だ」
「赦してください」
「だめだ」
「ゴボゴボゴボゴボ⋯⋯」
彼は訓育生にもっと水をかけさせた。ぼくはだんだん凍りついていった。洞窟の鹿みた
いに。全身の感覚がなくなってしまっても、彼はまだぼくのからだのあちこちをぶったり
撫で回したりした。そのあいだ、ぼくは何度となく気を失った。
「もういいよ」と神崎神父が言った。「そろそろ『やりました』って言えよ」
「赦して」とぼくは言った。「ああ⋯⋯赦して⋯⋯」
「おまえはわかってないなあ」彼は笑った。「おまえが本当にやったかどうかなんてどう
でもいいんだよ」
「ああ⋯⋯」
「結城とやっただろう?」彼はぼくの顎をつまんでぼくの目をのぞき込んだ。「『はい』
って言え」
「はい」
「それでいいんだ」彼は満足そうに言った。「本当のことを言うと、質問だってなんでも
いいんだよ。おれはおまえをちょっといじめて楽しみたかっただけなんだ」
「そうだったのか」とぼくは言った。
それから一週間、神崎神父はぼくに便所掃除をやらせた。ぼくは自分が悪いことをして、
当然の罰を受けているのだと思っていた。
なぜだろう?
神崎神父は毎日やってきて、「なんならあと一年間、便所掃除をやらせてやろうか?」
といったいやがらせを言いながら、ぼくをぶったり、訓育生たちに水をかけさせたりした。
ぼくは便所掃除を一週間で終わらせるために、彼の機嫌をとろうとした。ぼくが苦しむ
ほど彼は喜んだ。それでぼくは彼を喜ばせるために、わざと大げさな声を上げたりした。
「ああ⋯⋯ゴボゴボゴボ⋯⋯」
あれは一体なんだったんだろう?
ぼくはこのことを親にも言わなかったし、学校の仲間にも打ち明けなかった。
なぜだろう?
ぼくはすっかりどうかしていたのだ。
何日目かに、カークパトリック神父ほかの教師たちが便所に駆けつけたとき、ぼくは凍
死寸前だった。誰か生徒が見かねて職員室に通報したのだ。このときの神崎神父がぼくに
したことは、スパルタ教育が売り物の総愛学院でも常軌を逸していたからだ。
「放せ」と神崎神父は叫んだ。「ぶっ殺すぞ」
彼は大男のカークパトリック神父に後ろから羽交い締めにされていた。彼は激しく暴れ
たが、さらに何人かの教師に押さえ付けられてしまった。彼のズボンは股間のあたりが大
きく膨らんでいた。
あれは一体なんだったんだろう?
訓育生たちはそのそばでうな垂れていたが、彼らのズボンもやっぱり膨らんでいた。
神崎神父はしばらく学校から姿を消していた。精神病院に閉じ込められてるという噂だ
った。いや、神父館の地下にある秘密の牢屋に押し込められてるんだと言うやつもいた。
戻ってきたとき、彼は右手をなくしていた。理由はよくわからない。謹慎中に近くの修道
院にある木工場で作業をしていて、回転鋸でうっかり切り落としてしまったのだという噂
もあったし、自分で切り落としたのだと言うやつもいた。
彼はすっかり陰気になっていたが、驚いたことに自分のしたことを全然恥じていなかっ
た。
「見ろ、おれは自由を獲得したぞ」鉄製の大きな義手を生徒たちに見せびらかしながら彼
は勝ち誇ったように言った。その義手はよくできていた。ロボットみたいに強かったし、
生徒の首を片手で掴んで絞め上げられるほど大きかった。「これがおれの自由だ」と彼は
生徒たちに向かって叫んだ。「おれは自分の意志通りのことができるんだ」
もっと驚いたことに、彼はそのまま訓育主任の座に留まってしまった。校長が強くそれ
を望んだのだ。ほかにも賛成する教師は多かった。総愛学院は彼みたいに鉄の意志と鉄の
腕を持つ男を必要としていたのだ。
「坊主、あんまり神崎を怒らせるなよ」とカークパトリック神父がぼくに言った。
「あの人は別に怒ってなかったよ」とぼくは言った。「楽しそうだったもん」
カークパトリック神父は赤毛の大男だった。顔は恐そうだったが、総愛学院では唯一ぼ
くが友達みたいな口をきける先生だった。彼はぼくらの学年の主任で、英作文の教師だっ
た。一度もぼくらを怒鳴ったことはなかったが、みんな彼の言うことをよくきいていた。
「あいつは異常なところがあるからなあ」と彼は言った。神崎神父のことを言ったのだ。
「根が真面目すぎるんだ」
「そうかなあ」とぼくは言った。
「ちょっと神経質だけど、本当はいいやつなんだよ」
カークパトリック神父にそう言われると、ほんとにそんな気がした。彼はどんな人間に
も必ずいいところを見つけることができた。たぶん彼が誰からも好かれていたのはそのせ
いだったのだろう。そして、ぼくはまだ子供だったから、彼が指差して美しいと言ったも
のは何でも美しく見えた。
「夢から覚めなきゃいけないよ」と八重山が言った。一九六七年の秋のことだ。便所掃除
の事件からほとんどまる一年たっていた。ぼくはその間に何度か便所掃除をやらされたが、
神崎神父はもうそれほどひどいことはしなかった。
「どんな夢から?」とぼくはきいた。
「いろんな夢からさ」と彼は言った。「夢がきみをがんじがらめにしてるんだ」
「そうかなあ」
夕方だった。薄い紅色に染まった空でカラスが「ああ⋯⋯」と鳴いた。一九六七年のカ
ラスはいつも「ああ⋯⋯」と嘆くように鳴いた。
「まず結城をやっちゃうんだ」と八重山が言った。
「馬鹿」とぼくは言った。
一九六七年の秋、ぼくは結城という同期生のことが好きだった。男の子どうしで愛し合
うことは総愛学院の中等部ではそんなに珍しいことじゃなかったが、ぼくはまだ結城とキ
スをしたことがなかった。一九六七年の秋には多くの中等部の生徒が庭園でキスしていた
が、ぼくは結城とほとんど口をきいたこともなかった。
「きみは根が真面目すぎるんだよ」と八重山が言った。
「カークパトリックは神崎のことを根が真面目すぎるって言ってたぜ」とぼく。
「つまり病的だってことだよ」
一九六七年の総愛学院では男の子どうし愛し合うことが禁じられていたが、実際にはか
なりの生徒が決まりを破っていた。それは中等部の生徒が一度はかかる麻疹だった。ある
いは女の子とキスする前の練習期間だった。そして、高校生になるとみんなそんなことは
すっかり忘れて女の子に夢中になるのだ。
もちろん総愛学院と聖書女学院では、男の子と女の子がセックスすることも禁じていた。
そして、そのタブーはわりと守られていた。聖書女学院の女の子はセックスすることに
怯えていたし、総愛学院の男の子は男の子どうしの気軽なキスやペッティングにあまりに
も慣れてしまっていたので、女の子をうまくリードすることができなかったのだ。
「男どうしってやつは不毛だよ」とカークパトリック神父がぼくに言った。
「そうだろうね」とぼく。
一九六七年の秋のことだ。彼は何か感づいていたんだろうか? ぼくが結城のことで悩
んでるといったことを? ぼくがまだ結城とまともに口をきいたことさえなかったという
のに? カークパトリック神父は勘のいい男だった。いや、神父たちは全般的に勘が鋭か
った。たとえば神崎神父はすでに一九六六年の段階から、ぼくが結城に気があることを見
抜いていたのだ。
「やるなら女に限るぜ」とカークパトリック神父は言った。「まだ坊主にゃちょっと早い
けどな」
「いいのかなあ、そんなこと言って」とぼく。
カークパトリック神父は総愛学院には珍しく、セックスのことを開けっ広げに話す先生
だった。
「おれもハイスクールのころはやりまくったもんさ」
彼は大らかに笑った。〈やりまくる〉といった表現も、彼が言うとけっこう陽気に聞こ
えた。彼は学生時代に「やりまくった」話をしょっちゅうぼくに聞かせた。彼は何百人も
の女の子に関して、実に細かいところまで覚えていた。どの街のどんな店でデートしたと
か、そのとき彼女がきていた服はどんなだったか、どこで車を停めて、どこでやったかと
いったことを⋯⋯。少なくとも三人の女の子がはっきり彼の子供とわかる赤ん坊を中絶し
ていた。
「どうして神父になったの?」とぼくは彼にきいた。つまり、そんなに女好きだったのに
という意味だ。
「そりゃもちろん全てを愛するためさ」と彼は自信ありげに言った。「おれは全ての女を
愛したくなったんだ。そのときにセックスは卒業したのさ。おれは全ての人間を愛したか
ったからね。それで俗世間の生活ってやつもついでに卒業したんだ」
「全ての人間を愛する⋯⋯」とぼくは言った。
「人間だけじゃない。この世の全てを愛したかったんだ」
「全てを愛する⋯⋯」とまたぼくは言った。
「それが神を見つけるってことなんだ」
「そんなもんかな」
総愛学院には一九六七年の生き方についていろんな意見を持つ大人たちがいたが、カー
クパトリック神父はその中でもユニークな存在だった。
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