イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

小説『出楽園』

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   3  熱 機 械 工 場


 ぼくは七月十日に " A Tale of A Little Thief " を書き上げた。その日はぼくの十五歳の誕生日だった。ぼくはそのことを誰かに言いたくてたまらなかった。その日を境に何かが決定的に変わったような気がしたからだ。何が変わったのかはわからない。小説を書き上げたぼくは大きく息をして、自分の腕や脚を眺めた。何も変わったところはなかった。

 自分の中の何が変わったのか知りたくて、ぼくはいろんな人に話を聞こうとした。
「小説を書き上げたんだ」とぼくは父に言った。
「そうかい」と父は言った。「おめでとう」
「英語で小説を書いたんだ」とぼくは母に言った。
「偉いわね」と母は言った。「でも、そんなことはとっくに知ってたわ」
「そうか」とぼくは言った。

 我が家では春から庭にテントを張って、家族でキャンプ生活をしていた。聖書女学院の桃畑にはヒッピーたちがたくさんテントを張っていた。聖書女学院の運動部の生徒たちもキャンプを張っていた。リッキーもバスケットボール部の女の子たちももういなかったが、マリコはしょっちゅうぼくの家に遊びに来て、庭の白いテーブルで " A Tale of A Little Thief " の清書を手伝っていた。
「終わっちゃったわね」と彼女は言った。
「そうだね」とぼくは言った。

 ぼくらは強い日差しの下で庭の芝生に腹ばいに寝て、日光浴をしていた。彼女はブルーにピンクの縁取りをしたビキニの水着を着ていた。白い大きなおっぱいが芝生の上で押し潰されているのが見えた。髪の上にルリハンミョウがとまっていた。メキシコオパールみたいにオレンジや黄色や緑色に輝くこの昆虫は、地面の上をヘリコプターみたいに低空飛行しては人のからだに止まり、肌についた汗の塩をなめていく。
 一九六八年の七月十日にマリコの髪にとまったそのルリハンミョウは、彼女の汗をなめながらゆっくりと背中を下り、お尻から脚へと移っていったと思うとまた背中へのぼってきた。
「お願いだからどこにも行かないでくれよ」とぼくは彼女に言った。
「どこにも行かないわ」と彼女は言った。

 そのときぼくは結城を愛していて、彼女は聖書女学院の先輩である一の宮ミチコを愛していたが、一の宮はもう姿を消していた。マリコは失恋の悲しみの中にいたのだ。それなのに総愛学院の男の子を愛していたぼくは、彼女を慰めもしなかった。彼女に英文小説の清書を手伝ってもらい、綴りの間違いを教えてもらい、家に一人でいるのは寂しいからというだけの理由で彼女にそばにいさせようとしていた。そのくせ結城とノイマン屋敷に遊びに行ったりするときは、彼女のことなんて思い出しもしないのだ。ぼくはとてもいやな子供だった。

「ああ、なんていい気持ちなんだろう」とぼくは言った。
 ルリハンミョウがマリコの背中の汗を吸っていた。彼女はちょっと頭を上げてまぶしそうに目を細めながら、くすぐったそうに笑った。それが彼女の最後の微笑だった。すぐに夏休みがやってきて、彼女は遊びに来なくなった。
 ぼくは彼女のことを忘れてしまった。

              ★

 その年の夏はアフリカの夏に似ていた。朝から黄色い太陽が地面をレンガみたいに焼き、水分を吸い尽くした。蒸気は空に上ってソフトクリームみたいな雲をたくさん作った。
 午後には空気の中の蒸気は飽和状態になり、手を軽く振るだけで水滴が飛び散るほどだった。そして夕方には雷と一緒に激しいスコールがきた。
 時間はほとんど止まってしまった。強すぎる太陽の光の中で、街や人や街路樹は遠い昔の夢の中に浮かんでいるように見えた。まぶしい太陽のせいで影はあまりにも黒く、真昼なのにそこだけ夜がひそんでいた。日焼けした人間が日陰にうずくまっていると、暗闇にひそむ黒豹みたいに眼だけが光って見えた。
 その年の春は夢のような春だったが、その年の夏は遠い過去の夢のような夏だった。
 夏休み⋯⋯。

 ぼくは毎日ノイマン屋敷に遊びに行った。摩耶山の長い坂を上ると、暑さで頭の中が沸騰して、目の前が黄色くなった。汗で濡れた服がからだにぴったり貼りついて、皮膚の毛穴を窒息させた。汗はジーパンの裾からおしっこみたいに垂れて、坂の石畳に点々と黒い染みを作った。

 ミチコは庭のプールで遊ぶのが好きだった。いつも若いアーティストたちと裸で泳いだり、プールサイドでマリワナを吸ったりしていた。お尻に訳のわからない薬を注射し合ってるときもあった。彼らはとにかく薬が好きだった。ハイになると大きな芝刈り機に乗って屋敷のまわりをドライブしたり、絵の具をお互いのからだに塗りっこしたり、でたらめに楽器を弾いたり、潜水ごっこをしたり、とにかくありとあらゆることをした。もちろんセックスも⋯⋯。

 ミチコはあらゆる遊びの先頭に立っていた。集団で薬をやるときは、だれか強い人間がみんなを引っ張らないと、面白い体験はできない。彼女はいつも牽引車の役を演じていた。どれだけ薬をやっても平気だったし、みんなを楽しませる天性の才能があったからだ。
 でも、彼女自身は完全に飛んでしまうことはなかったような気がする。どんな狂乱の最中でも、ぼくが現れると彼女は急に普通に戻って、いつものようにきれいな笑顔で「ハイ」とか「チャオ」とかいうのだ。そしてぼくには絶対に薬をやらせなかった。保護者としての責任を感じていたのだろうか?

 ノイマン屋敷に現れたときのぼくはいつも汗でずぶ濡れだったから、若いアーティストたちは寄ってたかってぼくの服を脱がし、プールに引きずり込んだ。女の子たちはぼくの服を植え込みの上に広げて干してくれた。彼らは親愛の情を込めてぼくの首筋にキスすることはあったが、それ以上のことはしなかった。ミチコが言い聞かせていたからだ。それにぼくはいつも結城と一緒だった。彼らはぼくらを一応カップルと見做していた。
「いい気持ちだね」と結城が言った。
「ああ」とぼくは言った。

 ぼくらは水の中にいた。眼の下には神戸の街が広がっていた。赤茶けた製鉄所や工場や倉庫、繁華街の錆びた屋根がチョコレート色に沈んでいた。結城はニコニコ笑いながらときどきぼくの顔をのぞき込んだ。酔っ払った女の子みたいな眼をしていた。
「ぼくとやりたい?」と結城がきいた。
「ああ」とぼくは言った。
「どうしてやろうとしないの?」
「わからない」
 ぼくは結城とキスしかしていなかった。彼と口もきけなかった頃は、彼とやることばかり考えていたのに、キスするようになってからはそれ以上のことはする気がしなかった。
 なぜだろう?

「夢だからさ」と八重山は言った。「あいつはきみにとって夢なんだよ」
「夢じゃないよ」とぼくは言った。「実物の彼が好きなんだ」
「きみは夢から覚めたという夢を見てるんだ」と八重山は言った。「夢から覚めるときは全ての夢から覚めなきゃいけないんだよ」
「そうかな」

「ぼくはまだ完全にきみのものじゃないんだ」と結城が言った。
「そうだね」とぼくは言った。
「きみはぼくを完全に自分のものにしたいと思わない?」
「思うよ」
「ぼくを支配したいと思わない?」
「思わないね」とぼくは言った。「ぼくは自由を探してるんだ」
「自由になるってことは、人を支配するってことだよ」
「違うと思うな」とぼくは言った。「自由になるってことは人を解放するってことだよ」

「わたしと一緒に自分を解放してみない?」とミチコが言った。
「薬ならごめんだよ」とぼくは言った。
「薬じゃないわよ」と彼女は言った。「薬で自由は手に入らないわ」
 ぼくらはプールの中にいた。ミチコをはさんで右側にぼく、左側に結城がいた。彼女の長い腕は結城の首に巻き付いていた。
「まず手始めにこの子を解放してみようかしら」と彼女は言った。「いい?」
「何が?」とぼくはきいた。
「とぼけちゃって」と彼女は言った。

「ぼくは誰にも何も禁止しないんだ」とぼくは言った。「ぼくは誰も束縛しないし、支配
もしないんだ」
 結城はすでに彼女の腕の中で眼をとろんとさせていた。顔が真っ赤になっていた。もちろんミチコが彼に薬をやったのだ。
「眠い」と結城が言った。
「昼寝をしなさい」とミチコが言った。「ベッドを貸してあげるわ」
 アーティストたちが彼を担いで家の中に入っていき、彼女がゆっくりとその後に続いた。彼女は部屋の中に消える瞬間、振り向いてぼくに手を振った。笑顔がすごくきれいだった。そしてレンガ敷きのテラスからフランス窓を大きく開いた居間の中に消えた。太陽の光があんまり強いので、部屋の中は真っ暗な闇だった。

 アルパインは忠実な二三人のアシスタントと仕事を続けていた。大きな薄い布を部屋一
杯に張って、巨大なシュテルマッハー校長の顔を印刷してるところだった。
「総愛学院からの注文でね」とアルパインは言った。「けっこういいギャラをくれるらしいんだ」
「勤勉だね」とぼくは言った。「この暑いのに」
 ぼくはそれまでなんとなくアルパインのことを怠け者だと思っていたのだ。あるいは神経過敏症のせいでいつもためらったり茫然自失しているタイプの芸術家だと⋯⋯。しかしこの頃の彼はほとんど休みなく何かを作っていた。

「ぼくは手を動かしてないと考えられないんだ」とアルパインは言った。「それにものを
作るのはなかなか楽しいしね」
「そうか」とぼくは言った。

 一九六八年のアフリカの夏はとても作業には向いていなかった。ただじっとしていても頭がボーッとするようなひどい暑さだった。特に " A Tale of A Little Thief " を書き上げたばかりのぼくはすごく疲れていて、何もする気がしなかった。少なくともこの夏が終わらなければ次の作品のことは考えられないと思っていた。だからアルパインの予想外の勤勉さはぼくにとってけっこうショックだった。

 アフリカの夏の昼下がりに、彼は黒いニットのセーターに黒い革のズボンをはいていた。アシスタントたちは全身から汗を滴らせていたが、彼は全く汗をかいていなかった。暑そうな表情さえ浮かべてなかった。彼のプラチナ色の髪が氷でできてるみたいに見えた。
「ぼくは体温が低いんだ」と彼は言った。「触ってごらん」
 ぼくは彼の皺だらけの腕に指先を触れてみた。それは肉屋の冷蔵庫に保存されている羊の腿肉みたいに冷たかった。

「アーティストの条件は勤勉さよ」とミチコが柄にもないことを言ったのは、そのアフリカの夏の初めだった。
 ぼくらはノイマン屋敷のまわりを埋め尽くしている背の高いヒマワリの中を散歩していた。ぼくと彼女はよくヒマワリの中を散歩した。歩きながらいろんな話をした。結城が一緒のときもあったが、彼はたいてい家の中で昼寝をしていた。ヒマワリの中にいると、ぼくとミチコは二人きりになることができた。

 夏みたいな春の終わり、山を覆っていた菜の花が完全に枯れてしまった頃、彼女はヒマワリの種を大量に仕入れて屋敷のまわりに蒔いたのだ。お陰でぼくらは一九六八年の夏も、春と同じ鮮やかな黄色の中を散歩することができた。ヒマワリの黄色は菜の花の黄色より濃く深く激しかったが、アフリカの夏の太陽はそれ以上に黄色く、光はとても強かった。
 ぼくらは果てしない黄色の海の中を散歩することになった。

「ヒマワリはいいのよ」とミチコはやや唐突に言った。
「そうだね」とぼくは意味もわからずに答えた。暑さで頭がぼんやりしていたのだ。
「日蔭を作ってくれるし、夏の終わりには種が取れるわ」と彼女は言った。「種はおいしいのよ。油もとれるし⋯⋯」

 ヒマワリはぼくらの背より高かったので、ぼくらはちょっとした木立の中を散歩してるような感じだった。ヒマワリの葉の緑と花の黄色以外は空の青さしか見えなかった。ヒマワリの林の中には小道が通っていた。ときどき若いアーティストたちが散歩してるのに出くわすこともあった。彼らはたいてい裸だった。
 カップルは手をつないでいた。あるいはからだをぴったりくっけて、手をお互いの腰に回していた。女の子はたいていクローバーか何かで作った冠かネックレスをつけていた。彼らは山の涼しい木陰にセックスしに行くところか、セックスを終わって帰ってくるところだった。
「やあい、両刀使い」と彼らはぼくに言った。つまり結城とミチコの両方を相手にしてる
という意味だ。
「やれやれ」とぼくは言った。


 ぼくらはヒマワリの中でいろんなことを話し合った。今世界で何が起こっているのかについて、われわれは今何をすべきかについて⋯⋯。
 その頃は誰もが絶えずそんな話をしていたのだ。
 ミチコは世界中で人間が解放されつつあるという意見だった。社会の矛盾やそれを作り出している固定観念が次第に明らかになり、それにつれて人間は完全な自由を獲得しようとしていると彼女は言った。その頃は若い連中の多くがそんなことを考えていたのだ。

「だからわたしは弟とやるべきなのよ」と彼女は熱を込めていった。
 彼女はまだ八重山とセックスできないでいたのだ。
「そうかなあ」とぼくは言った。

 彼女はぼくにすぐ新しい小説を書くべきだとも言った。芸術家は絶えず創造していなければならないというのが彼女の意見だった。
「人間は創造してるときだけ芸術家になるのよ」と彼女は言った。「創造するのをやめて一度普通の人間に戻ったら、できた作品も死んでしまうのよ」
「そうかなあ」
「少なくとも自分のものじゃなくなってしまうのよ」

 そのときは彼女の言ってることがよくわからなかったが、創造し続けることが大切だということは感じていた。アルパインというお手本に刺激されていたからだ。ぼくはそれまでわりと古いタイプの詩人を理想としていた。霊感が訪れるまでいつまでも待っているような⋯⋯。しかし時代は変わっていた。十九世紀流のロマン主義はもう流行らなかった。
 ぼくもそのことは痛感していた。
「人間は機械なのよ」とミチコは言った。
「そうだね」とぼくは言った。

              ★

「完全な自由を発見したよ」と八重山が言った。
 アフリカの夏の初めだった。ぼくらは三の宮のはずれにある小さなジャズ喫茶にいた。彼はその夏ずっと、毎晩そこに出演していたのだ。
「ついにメロディの支配から抜け出したんだ」と彼は言った。「コードもスケールもヴォイシングも、何も気にせずに、完全に自由な音が出せるんだ」
「よかったね」とぼくは言った。
 その店には有名なジャズの演奏家たちの写真が飾られていた。ビル・エヴァンスを除いて全員が黒人だった。写真も板壁もコーヒーの湯気と煙草の煙で焦げ茶色になっていた。
「毎日ここで六時間演奏してるんだ」と八重山が言った。「最初は三十分演奏して三十分休んでたんだけど、そのうち四十分演奏して二十分休むようになって、最近ではほとんど休まなくなったよ。休むと手が錆びついてくるような気がするんだ」
 話している間も彼の指は腰のあたりで目まぐるしく動いていた。空想上の鍵盤を叩いていたのだ。頭の傷跡はすっかりピンク色に充血していた。それは血を一杯吸った蛭みたいに丸々と太っていた。毛が生えていた部分は段々領土を冒されて、今ではほとんど見えなくなっていた。だから彼の頭の傷は傷跡というより、恐ろしく膨張した脳みそみたいに見えた。

 ぼくはベーシストとドラマーに紹介された。どっちもぼくらの倍くらいの背丈がある黒人だった。ベーシストはゲイリー・ピーコックと名乗った。
「聞いたことあるだろ?」とゲイリー・ピーコックは言った。
「ジャズのレコードは持ってないんだ」とぼくは言った。
「そうか」とゲイリー・ピーコックは残念そうに言った。
 ゲイリー・ピーコックは英語しか喋れなかったし、ぼくもたどたどしい英語で話した。今から考えると、そのとき彼はゲイリー・ピーコックという名前を聞いたことがあるかと言ったのだが、ぼくはレコードを聴いたことがあるかと言ってるんじゃないかと思ったのだ。ぼくはそのときゲイリー・ピーコックの名前さえ知らなかった。知ったのはかなりたってから、彼がキース・ジャレットとスタンダード・ナンバーを演奏するようになった頃だ。ドラムのジャック・ディジョネットを加えて彼らは今、《世界最強のピアノ・トリオ》と呼ばれている。
 八〇年代になって、ゲイリー・ピーコックが何者かわかったとき、ぼくはびっくりしてレコードを買いに行き、彼らが来日したときはコンサートに出掛けて花束を楽屋に届けた。しかしステージで見たゲイリー・ピーコックは何だかちょっと変だった。二十年前とすっかり顔が変わっていた。というより一九六八年のゲイリー・ピーコックは一九八八年のゲイリー・ピーコックとは別人じゃないかという気がした。

 ゲイリー・ピーコックの経歴を見ると、確かに六〇年代の終わりから七〇年代の始めにかけて京都に住んでいる。禅を研究するためだ。当時はそういう外国人がたくさんいたのだ。しかし、彼が神戸の小さなジャズ喫茶に出演していたという記録はどこにもない。八重山のバックをつとめていたゲイリー・ピーコックはもしかしたら偽者で、冗談が好きな無名のジャズマンだったのかもしれない。なぜなら彼はときどきポール・チェンバースと名乗ることもあったからだ。エディ・ゴメスと名乗ったり、スコット・ラファロと名乗ることさえあった。彼にとっては名前を名乗ること自体が一種のジョークだった。
 たぶん彼は一九六八年の夏、三の宮のジャズ喫茶で初めてぼくと会ったとき、ぼくを笑わせるためにゲイリー・ピーコックと名乗ったのだろう。ところがぼくが本物のゲイリー・ピーコックの顔どころか名前さえ知らなかったので、その冗談は宙に浮いてしまったのだ。ドラマーもやはり大柄の黒人だったが、彼はエルビン・ジョーンズと名乗っていた。
 これもぼくは後から知ったのだが、エルビン・ジョーンズというのはジョン・コルトレーンとコンボを組んでいたドラム奏者の名前だ。

「ついにぼくはメロディからもコードからも自由になったんだ」と八重山はうれしそうに言った。「トニックやドミナントやサブドミナントからも、ロー・インターヴァル・リミットからもフレージングからも⋯⋯」
 そして彼はゲイリー・ピーコックとエルビン・ジョーンズに合図して演奏を始めた。
 その演奏はぼくを戸惑わせた。それは演奏というより雑音の寄せ集めみたいに聴こえたからだ。
 ブーブー、ヒーヒー、ガンガン、ゴーゴー⋯⋯。
 その雑音は三十分以上も続いた。
「それ何て曲?」とぼくは演奏が終わるのを待って彼にきいた。
「『ヒマラヤ』っていうんだ。すごいだろ?」と八重山は言った。
「すごいね」とぼくは言った。
「『祈り』って曲もあるんだけど、聴いてみるかい?」
「いいね」
 実のところぼくはすぐにその店から逃げ出したい気分だったのだが、そんなことをしたら八重山がすごくがっかりすることは目に見えていたので、我慢してもう一曲聴くことにした。

 ビービー、ゴツゴツ、ガーガー、ドードー⋯⋯。
 八重山はピアノの鍵盤に肘打ちを食わしたり、平手で太鼓のように叩いたり、ときには膝で上に乗ったりした。彼の首筋から夕立みたいに汗が流れていた。露出した脳みそみたいな頭の傷は血が上って真っ赤になっていた。それは凸凹のある赤い風船に似ていた。演奏を聴いているうちに気分がおかしくなったぼくは、幻覚の中でその風船が破裂して血が飛び散るところを何度も見た。
「その曲はメロディがないんだろ?」とぼくは言った。
「そうだよ」と八重山が言った。
「じゃあ『ヒマラヤ』と『祈り』はどうやって区別するの?」
 八重山はちょっと困った顔をした。
「正確に説明するのはすごく難しいんだけど」と彼は言った。「ぼくらは曲ごとにメロディじゃなくて最低限のイメージとか雰囲気みたいなものを決めてるんだ」
 彼は変な巻物みたいなものを出してきた。広げるとザラザラの和紙に墨で絵が描かれていた。全体に波の模様があり、その上に波しぶきが上がったり、猿や兎や蛙が踊ったり、千鳥が飛んだりしていた。一口に言えばそれは『鳥獣戯画』を幼稚園児が模写したみたいな下手糞な絵だった。
「ぼくらの曲には楽譜はないけど、最初は演奏するときのために、便宜上こういう進行表を作ってるんだ。慣れてくると捨てちゃうんだけど」
「なるほど」とぼくは言った。
「これは『世界同時革命』っていう新曲なんだけど」と彼はその『鳥獣戯画』をひらひらさせながら言った。「聴いてみるかい?」
「もちろんさ」とぼくは言った。
 ボコボコボコボコ、ビンビンビンビン、ガーガーガーガー、ズンズンズンズン⋯⋯。

             ★

「芸術家は立ち止まったら死ぬのよ」とミチコはヒマワリの林の中で言った。
「そうだね」とぼくは立ち止まって呟いた。
 ヒマワリの密林の隙間から、茶色い神戸の街と沸騰して蒸気が漂っている海が見えた。港の黒い貨物船は赤錆びた腹を見せてのびていた。時間が止まっていた。

 アフリカの夏。
 ぼくはそのとき " A Tale of A Little Thief " の次に書く小説について話していたのだった。その小説のプランは春からできていた。ただぼくはそれを書くべきかどうか自信が持てなかったのだ。ミチコはもちろん書くべきだという意見だった。
「小説家は書き続けることで小説家になるのよ」と彼女は言った。
「そうだね」とぼくは言った。

 新しい小説は日本語で書かれることになっていた。 " A Tale of A Little Thief " を英語で書いたのは、十九世紀のイギリスを舞台にしているからだった。今度の小説はタイトルを『菜の花の家』と言い、一九四〇年代の神戸を舞台にしていた。

 あらすじ⋯⋯
 神戸の山の上に立つ洋館に、若い兄弟が住んでいる。兄は二十歳で弟は十四歳だ。兄は病気でずっと寝ている。弟は中学生だ。親は死んでしまった。親が経営していた会社も潰れてしまって、兄弟はすごく貧乏だ。広い家なのにお手伝いさんもいない。給料が出ないので辞めてしまったのだ。
 その年の春、山を菜の花が埋め尽くした頃、兄にお嫁さんがやってくる。病気で寝たきりでおまけに貧乏な青二才にどうしてお嫁さんがやってくるのかわからないが、とにかく彼女は聖書女学院を卒業したばかりのお嬢さんだ。

「いいのよ」とミチコが言った。落ちぶれた家の貧乏な青二才のところに聖書女学院出のお嬢さんがお嫁に来るという筋書のことだ。ぼくはその設定がリアリティを欠いているんじゃないかという気がして不安だったのだが、彼女は自信ありげな様子でぼくを勇気づけてくれた。「だってその通りだったんだもん」
 彼女の母つまり八重山の母は事実、聖書女学院の卒業生だったし、彼女の伯父つまり八重山の伯父は落ちぶれた家の貧乏で寝たきりの青二才のだった。そして彼女の父つまり八重山の父はその弟で、当時創立されたばかりの総愛学院に通っていた。

 あらすじの続き⋯⋯
 もちろん兄嫁はすごい美人だ。おまけに兄は病気でセックスができない。しかし彼女はそれについて一切不満を言わない。お淑やかなタイプなのだ。もちろん弟は兄嫁のことが好きになる。兄嫁のほうもまんざらでもないのだが、もちろん彼女は自分ではそれに気づかない。うぶな女なのだ。
 しかし病気で寝たきりの兄は敏感だ。何でもすぐに勘づいてしまう。
「おまえたち、やったら承知しないからな」と彼は二人に宣言する。
 それを聞いて弟と兄嫁は逆にびっくりしてしまう。そんなこと考えもしなかったからだ。セックスなんて絶対やらないと二人は兄に誓う。もちろん本気だ。うぶな女とうぶな少年⋯⋯。
 しかし、同時に弟はこう考え始める。「セックス⋯⋯」
 戦争がひどくなってくる。神戸に爆撃機がやってきて爆弾を落とし出す。もうじきアメリカ軍がやってきて、本土決戦が始まるだろう。大人たちは最後の一人まで戦うんだと言っている。つまり近いうちにみんな死ぬのだ。
 弟は兄の部屋から遠く離れた場所で兄嫁にセックスしようともちかける。
「だめよ」と兄嫁は言う。「絶対だめよ」
 真面目なタイプなのだ。
 弟は力ずくで兄嫁とやろうとする。彼女は死に物狂いで抵抗する。
「だめよ、だめよ、だめよ」と彼女は言う。「絶対に」
「わかったよ」と弟は言う。
 子供だから素直なのだ。
 病気の兄はだんだん弱ってくる。それに連れてどんどん神経過敏になる。
「おまえたち、やっただろう」と彼は言う。
「やってないよ」と弟が言う。
「やってないわ」と兄嫁が言う。                         
「頼むからやらないでくれよ」と兄は泣きながら言う。
 兄嫁と弟は絶対やらないともう一度誓う。

「おかしいかな?」とぼくはきいた。
「いいんじゃない」とミチコは言った。「それもほんとにあったことだもん」
 彼女はどうやってそんなことまで知ったんだろう? 母親が話してくれたんだろうか?

 一年たって一九四五年の春がやってくる。敗戦の年だ。屋敷のまわりは菜の花で覆われている。山もその下の平地も黄色一色。市街地には毎晩爆弾が落とされる。
 兄はすっかり衰弱し、やがて猿の干物みたいに干からびて死んでしまう。
「さあ、いいわ」と兄嫁が弟に言う。「約束は守ったんだから。今こそたっぷりやりましょう」
「うん」と弟が言う。
 しかしなんだか変だ。あれほどやりたかったはずなのに、弟はどうやっても勃起しない。兄嫁もさっぱり感じない。
「どうしたのかしら?」と彼女。
「変だな」と弟。
 窓の外では神戸の街がオレンジ色に染まっていく。爆撃機の轟音で窓ガラスがビリビリ言う。二人は床に転がったまま呆然と焼けていく街を眺める。
「いやだな」と弟が言う。「もうじき死ぬっていうのに」
「ああ、わたしはなんて馬鹿だったんだろう」と兄嫁が言う。「こんなことになるなら、あのときやっておけばよかった」

「それで?」とミチコが言った。
「それでって?」とぼくはきき返した。
「結末は?」
「まだ決めてないんだ。プランは二人がそのまま死んじゃうっていうのと、戦後まで生き延びて結婚するっていうのと二通りあるんだけど」
 両方書くべきだと言うのが彼女の意見だった。「ものごとはあらゆる角度から見るべきなのよ」
「でも二通りの結末がある小説なんて変じゃないかな?」
「それこそ立体的な小説になるわ」と彼女は言った。六〇年代は今よりずっと前衛的な手法に寛大な時代だった。「結末は百通りあったっていいのよ」


 ヒマワリの中の散歩から戻ると、たいてい結城はベッドの上でぼんやりしていた。細かい花柄の白いシーツの上で、同じ柄の上掛けを体に巻き付けて、眠そうに目をこすっている彼はほんとに可愛かった。裸の肩と細い腕が生まれたての仔鹿みたいに、今にも壊れそうだった。
「ああ、よく寝た」と彼は言った。
「そう」とぼくは言った。

 ぼくは彼をじろじろ見つめた。それから部屋の中を何度も見回した。ミチコはそこにいなかった。彼女は隣の居間でバレエの稽古をしていた。いや、その横についている小さなキッチンでお茶をいれていたのかもしれない。ぼくは落ち着かなかった。結城がベッドの上にいるのはとても不思議な感じがした。なぜならそこはミチコの寝室だったからだ。
 それがアフリカの夏の昼寝だった。

「坊やとやったわ」とミチコが言ったのはヒマワリの林の中だった。
 坊やというのは結城のことだ。
「やっぱりね」とぼくは言った。
「よかった」と彼女は言った。
「何が?」
「あなたが怒るんじゃないかと心配してたのよ」
「もちろんあいつを絞め殺してやるよ」

「わたしは?」彼女は喉の奥でコロコロと笑った。喉のどこが音を立てたのかわからない。とにかくそんな音がしたのだ。彼女の笑いはちょっと変だった。顔を上気させて、泣いてるようにも見えた。涙は出ていなかったけれど、眼はよく澄んだ湖の水面下から覗いてるみたいに光っていた。
「わたしのことは絞め殺さない?」彼女はぼくの顔を覗き込むようにして言った。
「わからないよ」とぼくは言った。「でも、絞め殺したいくらい怒ってるよ」
「よかった」

 彼女は眼を閉じて、首を差し出すように伸ばしながらぼくに近づいた。彼女の首は鹿みたいにほっそりしていた。ぼくでも片手で絞め殺せそうだった。ぼくは右手で彼女の首を掴んだ。それは鳩の雛みたいに柔らかかった。彼女は眼を閉じたまま唇をちょっと舐めた。肩がかすかに震えた。彼女はベアトップの白い部屋着を着ていた。白いからだも白い部屋着もヒマワリが反射する光で黄緑色に光っていた。ぼくは彼女の首から手を離して二歩後ろにさがり、黄緑色の鳥みたいな彼女をしげしげと眺めた。部屋着の布地が薄いので、乳首と臍がかすかに透けて見えた。

「どうしたの?」彼女が眼を開けて不安そうにきいた。
「きみはきれいだね」
「ありがとう」
 彼女はうれしそうに髪を撫でた。生まれて初めてきれいだねと言われたみたいだった。
 そう、彼女みたいな美人には誰も改まってきれいだねとは言わない。
「殺すのがいやになった?」と彼女は一歩ぼくに近づいて言った。
「八重山とやってからでないと、かわいそうだからね」とぼくは言った。
「ありがとう」彼女は笑った。「殺すのをやめたわけじゃないのね?」
「もちろんさ」とぼくは言った。

               ★

「学校で毎日何してるの?」とぼくは言った。
「何もしてないわよ」とミチコは言った。「それに毎日なんて行ってないし」
「そう?」

 それは嘘だった。ぼくは毎日彼女が庭園の斜面を上っていくのをノイマン屋敷の彼女の部屋から見ていた。校長が上から彼女を銃でドスンと撃つところや、弾が彼女の耳元をかすめ、彼女が怯えてその場にしゃがみこんでしまうところも。校長は夏になるといよいよ頻繁に鹿を撃つようになった。

「夏はやたらと鹿が増えるからね」と彼は言い訳していた。
 確かに鹿は増えていた。どこから湧いてくるのかと思うほどたくさんいた。校長が一日何頭撃っても全然減らなかった。

 それからぼくは彼女が校長とカークパトリック神父と三人で校庭を歩いているところも見た。ときにはそれにコッホ神父やアルパインが加わることもあった。

「セックスに決まってるだろ」と八重山が言った。総愛学院で毎日彼女が校長やカークパトリック神父としてることについてだ。
「そうかな」とぼくは言った。
 ぼくの印象は違っていた。もっと不吉なことが行われてるような気がした。ただのセックスなら彼女が隠すわけがない。

 ぼくらは探りを入れるためにノイマン屋敷から洞窟を通って学校まで行こうとした。別に谷を渡って行ってもよかったのだが、なんとなく連中の不意を突いたほうがいいんじゃないかという気がしたのだ。
 しかし、その頃ぼくらの地下道はひどく混雑していた。アフリカの夏の暑さに参ったヒッピーたちが大勢入り込んできたからだ。

 地下道は相変わらずひどく寒かった。ヒッピーたちはみんな鹿の毛皮を羽織っていた。校長が撃った鹿だ。毎日たくさん鹿を殺すので、毛皮があまってしまい、彼らに無料で配っていたのだ。彼らの毛皮のせいで、ぼくらは石器時代の洞窟に紛れ込んだような気分になった。

 冷凍鹿の地下広場も混雑していた。そこにはアーティストたちがたくさんいた。そして冷凍鹿もたくさんいた。アルパインが次から次へと鹿を冷凍していたからだ。
「新しい表現を発見したよ」と彼はぼくらに冷凍鹿を見せながら言った。「どうだい、生きた鹿にそっくりだろう?」
「あたりまえじゃないか」と八重山がぼくの後ろで言った。「本物の鹿なんだから」

 アルパインが冷凍鹿を作る手順は次の通り。
 まず、校長から撃ったばかりの鹿をもらいうける。次に、弾丸の穴にシリコン樹脂を詰めて、血を止めてしまう。次に、毛皮に着いた血を谷川のきれいな水で洗う。最後に鹿を地下広場に運び込む。あとは凍るのを待つだけ。
「ポーズが意外と難しいんだ」とアルパインは言った。「生きてるように見せなきゃいけないからね」

 地下広場では何十人という彼のアシスタントがまだ柔らかい鹿たちを手で押さえていた。凍るまで半日はそうしていなければならないのだ。
「まず百体完成させて、個展を開こうと思うんだ」と彼は続けた。「会場全体を冷凍庫にしてね。いいアイデアだろ?」
「そうだね」とぼくは言ったが、実を言うとあんまり感心していなかった。本物のカーネル・サンダース人形そっくりのアルパイン作のカーネル・サンダース人形もくだらなかったが、この本物の冷凍鹿はもっとくだらないような気がした。というより、自然に対する冒涜のように思われた。

「邪魔だな」と八重山が言った。「ぼくらは奥へ行きたいんだ」
「一体どこへ?」とアルパインがきいた。
「よけいなお世話だよ」と八重山が言った。
「でも、この先はもっと混雑してるよ」とアルパイン。「冷凍カラスを作ってるからね」
 確かに広場から先の何本かの地下道はみんなアーティストたちで塞がっていた。
「やつらをどけてくれよ」と八重山が言った。「あんた、わざと塞いだんだろ?」
「今、外に出したら半分凍ったカラスが解けて水膨れになっちゃうよ」とアルパイン。「あと二三時間で凍るから、ちょっと待ってくれよ。カラスは鹿と違って小さいから、わりと早く凍るんだ。その間、ピアノでも弾いてさ。ぼくはきみのファンなんだ」

 八重山は渋々ピアノの前に座った。アルパインにファンだと言われて悪い気はしなかったのかもしれない。あるいは、ただいつもピアノを弾いていないと不安だったからかもしれない。彼はその頃ますます神戸のジャズ喫茶や練習スタジオで時間を過ごすことが多くなっていた。ぼくらとノイマン屋敷で遊ぶのは相変わらず嫌いじゃなかったが、以前ほど楽しそうには見えなかった。
 彼は寒さに震えながら即興で弾き始めた。それは『世界同時革命』や『ヒマラヤ』よりは親しみやすい曲だった。それは地下広場にいる人々全員の気持ちを明るくする力を持っていた。心なしか凍りつつある鹿までが表情を少し和らげていた。無表情だったのは元祖冷凍鹿だけだった。彼はピアノの前に堂々と座って、新米の冷凍鹿たちや作業をしている人間たちを、傲然と睨んでいた。

 八重山のピアノには、彼の怒りといらだちが込められていた。
「何もかも不完全だ」と彼のピアノは言った。「完全なものなんてないのはわかってるけど、不完全なものが生き延びる唯一の道は動き続け、変わり続けることなんだ」
「若いのによくわかったね」と初代冷凍鹿が眼で言った。「生き物は冷凍されたらおしまいなんだ」
「ぼくは姉貴とやるべきなんじゃないかな?」と彼のピアノが言った。「それがどんなにつまらないことでも、ためらったり、足踏みしてると、死が後ろから迫ってくるような気がするんだ」
「それは錯覚だよ」とぼくは心の中で言った。「それは一種のノイローゼなんだ。そのうちきみは、意識の上ではいやだと思ってるけど、おれはほんとは姉貴とやりたいんじゃないか? なんて言い出すことになるぞ」

「きみは早く結城をやっちゃうべきなんだ」と彼は言った。「姉貴とやったなんて許せないよ。そうじゃないか?」
「それとこれとは別だよ」とぼくは言った。「ぼくは憎しみからやりたくはないんだ」
「きみは気持を抑圧してるよ」と彼は言った。「早く自分を解放しないと、自分の首を絞めることになるぞ」

 結城はぼくのすぐ横にいた。
「ぼくのこと怒ってる?」と彼はぼくにもたれかかりながらきいた。もちろんミチコとやったことについてだ。「あれはミチコさんがいけないんだよ。ぼくが半分眠ってるあいだにベッドに入ってきたんだ」
「いいや」とぼくは言った。「怒ってないよ」
「ほんとに?」結城はぼくの腕を抱き締めながら言った。「でも、女の子とセックスするのって、すごく変な気分だな。自分が全然別の生き物になっちゃったみたいな気がするんだ。こんなこと言ってもきみは怒らないよね?」
「ああ、怒らないよ」とぼくは言った。

 それは嘘だった。ぼくはすごく傷ついていた。すぐにでも彼を殺してやりたいくらいだった。それができなかったのはたぶんあまりにも寒かったからだ。ぼくは半分凍えかけていた。ぼくの怒りと憎しみは内臓の中で凍結されてしまった。それ以来、ぼくは二度と男の子を好きにならなかった。そして自分が好きになった女の子には決して本心を語らなくなった。思えばこの地下広場から、ぼくの精神はねじれ始めたのだ。

 冷凍鹿の後ろで女の歌声が聞こえた。オペラ歌手のソプラノみたいな高い澄んだ声だった。
「歌ってる」とぼくは言った。
「ランランラン」と八重山が歌った。彼のピアノも同時に女の歌に合わせて歌っていた。
「歌じゃないよ」とアルパインが言った。「あれはミチコが泣いてるんだ」
「どうしてわかるの?」とぼくはきいた。
「映画に撮ったからね」と彼は言った。
 彼はその頃何でもフィルムに残すようにしていた。彼のそばではいつでも十六ミリのカメラが回っていた。もちろんぼくらもそのとき映画に撮られていた。冷凍鹿や冷凍カラスの制作風景を撮っていたのだ。

「それで」とぼくは言った。「彼らは何をしていたの?」
「それは言えないよ」と彼は言った。「約束したからね」
「そんなに変なことをしてるの?」とぼくは言った。
「ああ」とアルパインは言った。「でも、言えないんだ」
「だって映画を発表するときにはわかっちゃうじゃないか」
「わからないように使うって約束なんだ」
「でも、ぼくはどのシーンがそれなのかきっとわかると思うよ」
「そうだね」と彼は言った。「困ったな」
 ほんとに困ったという顔をしていた。ぼくはなんとなく腹が立った。彼がほんとのことを言ってくれないからというより、大のおとながぼくみたいな子供に対して真面目に隠し事をしているというのが、何とも言えず馬鹿げていると思ったからだ。
 結局アルパインは出来上がった映画『ビースト』にそのシーンを使わなかった。
 なんて警戒心だろう。

               ★

 八重山が出演していたジャズ喫茶は連日満員だった。ジャズの評論家やミュージシャンたちも来ていた。それからテレビ局や雑誌の記者たちも。アルパインがインタビューで八重山のことを褒めたからだ。
「彼の音楽は決して破壊じゃないんだ」と彼はインタビューの中で言っていた。「むしろこの世界のあらゆる存在様式の丹念な模写なんだよ」
 そのインタビュー記事を読んだ若いアーティストたちが店に集まってきた。アルパインはアーティストたちのアイドルだったからだ。アーティストたちは八重山の騒音じみた音楽を真面目な顔で聴きながら、足でリズムを取ってみたり、メロディを口ずさんでみたりしたが、みんなてんでばらばらだった。八重山の音楽には規則的なリズムやメロディがなかったからだ。
 ガスンガスンガスン、ピンピンピンピン、ガーガーガーガー⋯⋯。
「最高だね」とアーティストの一人が言った。「これはアーティストに対する最高の励ましだよ」
「そうかな」とぼくは言った。
「つまりぼくらは何をしてもいいってことなんだ」
「そうかな」

 ジャズ喫茶は地下にあったが、あまりにも狭かったので、表の入り口付近にはいつも大勢の客が溢れていた。そこには大きなスピーカーが置かれ、中に入らなくても八重山の演奏が聴けるようになっていた。そしてもちろん店の経営者はちゃっかり彼らにも飲み物を売って金を儲けていた。
 客はアーティストやマスメディアの関係者だけじゃなかった。セールスマンや税理士もいたし、工員や道路工夫、沖仲仕、トラックの運転手、自転車の修理屋、靴職人、売春婦、虚無僧、修験者、能楽師といった人たちもいた。
「すごいな」と沖仲仕が言った。「これはおれたちのための音楽だぜ」
「そう?」とぼくは言った。沖仲仕にそう言われると、なぜか八重山の音楽がほんとにすごいんじゃないかという気がした。
「つまりおれたちは何をしてもいいってことなんだよ」力を込めて沖仲仕は言った。「そう思わないか?」
「何をしてもいいっていうのは人を殺してもいいってこと?」
「ちょっと違うな」と沖仲仕は主張した。薄汚れた灰色の作業服を着ていて、丸々と太った大男だった。茶色い顔の皮は牛みたいに分厚くて、大きな目は赤く血走っていたが、しゃべり方はまるで大学教授みたいに堂々としていた。「もちろん人を殺さなきゃならないときだってあるかもしれないけど、それはしかたなしにやることなんだ。おれが今言った何をしてもいいっていうのは、おれたちが心底やりたいことで禁じられてることは何もないっていう意味だよ」
「人を心底殺したいと思ってる人はどうなるの?」とぼくはきいた。
「殺意は理由なしに湧いてきたりしないものだよ」と沖仲仕は言った。「殺意にしろ、ただの憎しみにしろ、攻撃されて意識が歪められたときに生まれるんだ。歪みはそれ自体束縛なんだよ。人を殺したいってやつは、まず束縛から自分を解放することが先決なんだ。それから自分が何をしたいかってことが始まるわけさ。たとえばこの音楽には束縛を打ち破る力がある。人間すべてに対する励ましだね。解放する力だよ」
「ふうん」とぼくは彼をじろじろ見ながら言った。「おじさんは人を殺したいと思ったこ
とある?」
「人を殺したこともあるよ」と沖仲仕は言った。「二三人ね。もちろんすごく後悔してるよ」
 一九六八年の神戸には、人を殺したことのある沖仲仕と世間知らずの中学生が真面目に議論できるこうした場所があったのだ。

 屋外の客があんまり増えてきたので、店ではテーブルと椅子を歩道にたくさん並べて客席を作った。ちょっとしたビアガーデンみたいな雰囲気だった。そのうち客はもっと増えて、車道も向こう側の歩道も埋め尽くしてしまった。八重山と偽ゲイリー・ピーコックと偽エルビン・ジョーンズは地上に出てきて演奏するようになった。店の中は息苦しかったし、古いアップライト・ピアノしかなかったからだ。八重山は自宅からグランドピアノを運んできて演奏した。彼の自宅は八重山鉄工株式会社の工場と隣接していたから、トラックが自由に使えたのだ。運ぶのは若い工員たちがやってくれた。毎日仕事が終わるとピアノをトラックに積んで三の宮まで運び、夜中に演奏が終わるとまた持って帰るのだ。なかなかできることじゃない。

「おれたちは彼のファンだからね」と工員の一人が言った。「彼の演奏を聴いてると元気が湧いてくるんだ」
「あれはおれたちのための音楽だよ」と別の工員が言った。
「それにおれたちはミチコさんのファンでもあるしね」とまた別の工員が言った。彼はちょっと顔を赤らめていた。ぼくと歳がいくつも違わない若い工員だった。
「きみはミチコさんとやったことあるかい?」とまた別の工員が言った。
「ないよ、もちろん」とぼくは言った。
「そりゃよかった」とその工員は言った。「おれたち、ミチコさんとやったことがあるやつはぶん殴ることにしてるんだ」
 それはほんとらしかった。現に彼らがぼくにそう言った夜、ぼくはアルパインが歩道の客席で彼らにぶん殴られてるところを見た。

 ぼくらは演奏が終わった後、ピアノを積んだトラックの荷台に乗って神戸の街を走り回った。ぼくらというのはぼくと八重山とミチコと工員たちのことだ。ぼくらはみんな酔っ払っていた。ミチコは薬をやってたのかもしれない。眼が宝石みたいに光っていた。
「楽しいわね」と彼女はぼくらに言った。
 彼女はぼくと八重山の間に座っていたが、腕は弟の首にしっかり巻き付いていた。というよりずっと彼の首におでこや唇を押しつけっぱなしだった。
「好きよ」と彼女は言った。
「ああ、そうかい」と八重山が言った。でも、いつもと違って彼女の腕をふりほどいたりはしなかった。
「わたしたち、うまくやれると思うの」と彼女は言った。「セックスでも何でも」
「そうだろうね」と八重山は言った。ピアノを弾いた直後の彼はいつでも少し放心状態だった。

 工員たちはミチコが八重山とやりたがってることを知っていたが、別にそれについて腹を立ててる様子はなかった。
「しかたないよ」と彼らの一人は言った。「姉弟なんだから」
「まあ、ミチコさんとやっても許せるのは彼くらいだな」と別の工員が言った。「ぼくは彼のファンだからね」
 彼らはほんとに八重山とミチコのことが好きだった。しかし、ほんとにこの姉弟がセックスすることについて、何にも感じていなかったのだろうか? もしかしたら彼らは姉弟でセックスなんてできやしないと考えていたのかもしれない。
「それは普通のセックスじゃないんだよ」と彼らの一人が言った。
「そうだろうね」とぼくは言った。
「それは一種の苦悩の表れなんだよ」
 苦悩⋯⋯?
 その工員は一体何を言おうとしたんだろう? 
 ぼくは彼の顔をまじまじと見た。彼はぼくより一つ年上の新米工員だった。頬っぺたがやけに赤い少年で、まだ中学生の子供っぽさが表情に残っていた。そして彼は「苦悩」という言葉をすごく真面目な顔で発音した。

 ぼくらはよく真夜中の路上でトラックを停め、神戸の街をうろついたり、トラックの上で八重山にピアノを弾かせたりした。彼は酔っ払っているせいか、『世界同時革命』や『ヒマラヤ』といった新しい曲ではなく、『四月の思い出』や『コートにすみれを』といった親しみやすいスタンダード・ナンバーを弾いた。
 ミチコはピアノを聴いているうちに眠ってしまうことがあった。たまたまそばにいた工員の一人に抱きついたまま寝入ってしまうのだ。眠りに落ちていきながら、彼女はその工員に、「素敵」とか「好き」とか囁きかけた。工員は辛そうな顔をしていた。
「好きだってさ」とぼくは彼に言った。
「ぼくのことじゃないよ」と彼は言った。
 その夜ミチコが抱きついていたのはぼくより一つ年上の、一番若い工員だった。

 ミチコが眠ってしまうと、ぼくらはトラックを降りて街を散歩した。彼女に抱きつかれた工員はしかたなく荷台に残ったが、あとはほとんど全員が参加した。八重山はすごく楽しそうだった。口笛を吹いたりスキップしたりした。酒屋を見つけると、みんなでシャッターを持ち上げて中に押し入った。次の晩に飲む酒を確保するためだ。八重山はレジの金をポケットに入れた。たいていはつり銭の残りくらいしか入っていなかったが、ぼくは彼が金を盗むのを見るのが苦痛だった。
「まだ病気が治ってないみたいだね」とぼくは言った。
「最近、また頭が痛むんだ」と八重山は真面目な顔で言った。
 そういえば、彼の露出した脳みそみたいな頭の傷跡はますます赤く腫れ上がっていた。それは血が一杯詰まった透明なビニールの袋みたいに見えた。

 ぼくらはいろんなところに忍び込んだ。センター街の商店やデパート、倉庫やオフィス、そして個人の家⋯⋯。八重山はどこに押し入っても金を盗んだ。工員たちは盗みはやらなかったが、床におしっこやうんこをしたり商品や書類を滅茶苦茶にしたりするのは大好きだった。みんなひどく酔っ払っていたから、大して悪気はないのだが、ぼくはあまりいい気持はしなかった。
「あいつを止めなきゃ」とぼくは工員たちに言った。「こんなことしてちゃいけないよ」
「そうだね」と彼らは言った。「そのうち言ってみるよ」

 八重山は通り掛かりの女の子に襲いかかったりもした。公園の暗がりに引きずり込んだりするのじゃなく、大通りの歩道でいきなり押し倒してしまうのだ。一九六八年の夏にはよく真夜中にミニスカートをはいた女の子が一人で街を歩いていた。
 一体何をしていたんだろう?
 女の子を襲うときの八重山の動作はなんとなく柔道に似ていた。真正面に立ちふさがって両手を大きく上げて威嚇したり、相手の肩のあたりを掴んで足を払ったり投げを打ったりするのだ。女の子もそれに釣られて八重山の両手を掴んだり、腰を引いて投げられまいと踏ん張ったりした。あたりはしんとしていたから、彼らの服が擦れる音と荒くなった息遣いが大きく響いて聞こえた。
 シュッシュッ、ゼーゼー、ハーハー⋯⋯。
 それはとてもスポーツらしい光景だった。女の子は悲鳴を上げたり泣いたりしなかった。ときには八重山に足払いをかけたりもした。結局は八重山の方が強くて、女の子は歩道に押し付けられてやられてしまうのだが、ぼくはなんとなく最後まで柔道の試合を観てるみたいな気がした。少なくとも婦女暴行の陰惨さは感じられなかった。別にほかの暴行を見たことがあるわけじゃないから、よくわからないけれど⋯⋯。

 ぼくら、つまりぼくと工員たちは、そのあいだまわりで成り行きを見守っていた。もちろんときどきは声をかけたり肩を揺すったりして八重山を止めようとした。一応良心の呵責を感じていたのだ。でもそれ以上のことはしなかった。なぜだろう? やっぱり女の子がやられるところを見たかったのかもしれない。

「負けたわ」勝負が終わると女の子は決まってそう言った。それから地べたに座ったままあたりに散らばっていた服をゆっくり掻き集めて着た。
 ぼくら、つまり八重山とぼくと工員たちはまわりにしゃがんで彼女を眺めていた。ぼくはやられた後の女の子がどういう気持でいるのかとても興味があった。たぶん工員たちも同じだったろう。しかし八重山はなんとなく無表情な、つまらなそうな顔をしていた。口元にちょっと笑いを浮かべてることもあったけれど。ぼくは彼がそういうときに何を考えていたのかついに理解することができなかった。

「どう?」とぼくら、つまりぼくと工員たちの一人が必ず女の子にきいた。どんな気分かということだ。
「そうね」と女の子はわりと真面目に答えた。「最初はもちろんびっくりしたわ。戦ってるときは何が何だかよくわからなかった。とにかく負けたくないって思うのよ。勝負ってそういうもんでしょ?」
「で?」とぼくらはきいた。「その後は?」
「そうね」女の子は髪の毛を掻き上げながら真面目に考え込んだ。一九六八年の女の子はみんなすごく真面目だった。「よくわからないわ」
「怒ってない?」とぼくらはきいた。
「そうね」と女の子は言った。「怒ってはいないわ」
「やっぱりね」とぼくらは言った。
 個人差はあったが、八重山に押さえ付けられた後の女の子はみんなわりと気持ちよさそうにしていたからだ。その点に関しては、八重山の技術は大したものだった。女の子が腹を立てて警察を呼んだりしなかったおかげで、ぼくらは毎晩無事に帰ることができた。

「こんな事してちゃいけないよ」とぼくは八重山に言った。
 ぼくらは珍しく二人きりだった。夜中の街を歩いていた。あるいは前後に工員たちがいたのかもしれないが、とにかくぼくらは二人きりで話していた。
「きみは自由を履き違えてるよ」とぼくは言った。「自由っていうのは何をしてもいいって事じゃないんだ」
「そう?」と八重山は言った。
「きみは音楽でたくさんの人の魂を解放したんだ」とぼくは続けた。「中にはぼくらよりずっと大人で人生経験も豊富な人だっている。そういう人がきみの音楽で救われたって言ってるんだ。きみは責任を持たなきゃいけないよ」
「そうか」と八重山は言った。彼は真っすぐ前を見ていたが、何かを見つめていたわけじゃなかった。完全に放心状態だった。女の子をやった後だったからかもしれない。
「自由ってことは、何をやってもいいってことじゃないんだ」とぼくはしつこく言った。
「人殺しとか暴行とか盗みとかは抑圧された精神がやりたがるもので、解放された人間はそんなことをしたいとは思わないんだよ」
 ぼくは懸命に八重山を説得しようとした。ぼくが言ったことは例の沖仲仕が言ったことの受け売りだった。ぼくは彼のことが忘れられなかった。彼の言ったことが完全にぼくを捉えていた。ぼくは八重山にも彼を裏切らせたくなかったのだ。
「なんて言うのかな」さんざん考えた挙げ句、八重山はぼんやり呟いた。「ぼくにはよくわからないんだよ」
 それだけだった。

              ★

 工員たちと仲よくなって、ぼくは八重山鉄工の工場に遊びにいくようになった。工場は六甲山系の尾根が神戸の市街に大きく張り出しているあたりにあった。学校の体育館の廃墟みたいな建物で、固く踏み固められた土の上に機械が直に並んでいた。その裏手に古ぼけた木造の家があり、その一階にある昔の学校の職員室みたいなところが事務所になっていて、二階と三階が八重山とミチコの住まいだった
 八重山は三階を一人で占領していた。そこは一つの大きな部屋になっていて、神戸の街や山や海をぐるりと見渡すことができた。それは部屋というより山の温泉旅館のロビーみたいだった。真ん中にグランドピアノが置いてあり、そのまわりに痛んだソファや壊れたピンボールの台、何十年も昔に造られたようなバー・カウンターなどがごちゃごちゃとひしめきあっていた。テレビやステレオ、冷蔵庫、クーラーといった電機製品だけはどれも新しかった。それも違うメーカーの似たような製品が何台も揃っていた。
「集めるのが趣味なんだ」八重山はちょっと戸惑い気味に笑った。
 ぼくは彼がこうした電機製品をどうやって手に入れたか知っていた。もちろん盗んだのだ。ぼくもちょっと戸惑っていた。八重山はぼくが気づいていることを知っているのでよけいに戸惑っていた。彼は盗むことに大きな喜びを感じていたが、ぼくがそれを嫌っていることで心を痛めてもいたのだ。
 彼はぼくの注意を電機製品からそらすためにピアノを弾いた。それも実験的なオリジナルではなく、ぼくの好きなシューマンやショパンとか、ジャズのスタンダード・ナンバーばかり弾いた。彼なりに気を使っていたのだ。

 ぼくらはよく工場の中を歩き回った。工員たちはぼくらを見ると、どんなに忙しくても笑いながら手を振った。ぼくらも笑いながら手を振った。工場の中はいつも四〇度を超える暑さだった。工員たちは灰色の半袖シャツに灰色のズボン、爪先に鉄の入った黒い作業用の長靴をはいていた。シャツもズボンも汗で黒々と濡れて、からだにぴったり貼り付いていた。彼らはひっきりなしに水を飲んでいた。そうしないと脱水症状を起こすのだ。水飲み場には食塩の壜が置いてあった。水を飲んだときに塩を舐めて、汗と一緒に流れ出した塩分を補給するのだ。
 ときどき奥にある一番大きな機械のてっぺんから、ポンという音と一緒に大きな火の玉が飛び出した。それは握りこぶしくらいの赤く焼けた鉄の塊だった。車のホイールを作るときに出る金属のカスなのだ。火の玉は大きく弧を描いて工場の端のほうに落下して細かく割れた。それは花火みたいにきれいだった。

 工場にはほかにもきれいなものがいっぱいあった。解けた鉄のオレンジ色をした液体や、機械から出る生クリームみたいな水蒸気の塊もきれいだったし、できたてのホイールやネジもきれいだった。できたてのホイールは機械の排出口から、長い溝を次から次へと転がって出てくる。もちろんあつあつで触れば火傷してしまうから、取り出すときは毛布で作った分厚い手袋をはめる。一度油に浸けられてから出てくるので、できたてのホイールはいつも淡い虹色に光っている。それは焼きたてのケーキみたいにきれいだった。
 ネジは機械の排出口からジャラジャラとパチンコの玉みたいに溢れ出てきた。たっぷの油の中をくぐってくるので、海から上がったばかりのカタクチイワシみたいに青く光っている。大きな鉄の篭ですくい取ると、本物の魚みたいにピンピン跳ねる。それはそのまま口に入れてしまいたくなるほどきれいだった。

 ネジの仕分け係には一人だけ若い女の子がいた。とてもきれいな子だった。工員たちと同じ服を着て、頭には白い帽子を被っていた。彼女はぼくらを見ると笑いながら近づいてきて、いきなり八重山のおちんちんを掴んだ。とても素早かったので、八重山は逃げることができなかった。
「わたしたち、今こそやるべきだと思うのよ」と彼女は八重山のおちんちんから手を放しながら言った。
「馬鹿」と八重山はおちんちんをズボンの上から押さえながら言った。とても痛そうな顔をしていた。
 ぼくは彼らをかわるがわる眺めながら呆然と突っ立っていた。口もきけないほどびっくりして……。女の子がミチコだったからだ。
「ノイマン屋敷にいないときはここにいるのよ」と彼女はぼくに言った。
「そう?」とぼくは言った。
「いつもノイマン屋敷でバレエの稽古ばかりしてると思ってたでしょ?」と彼女は言った。「あなたが家で小説を書いてるとき、わたしはここで仕事をしてるのよ」      
 彼女は昼間は工場で働き、夜は事務所で伝票の整理や帳簿付けをやっていた。
「少しは社長らしくしなきゃね」と彼女は笑った。
 工員たちと働いたり、帳簿付けをするのがどうして社長らしいことなのか、ぼくにはよくわからなかった。
「芸術は労働なのよ」と彼女は言い、恥ずかしそうに笑った。「労働は愛なのよ」

「ぼくも働くよ」数日たってからぼくは彼女に言った。「労働は芸術だからね」
「あなたの仕事は『菜の花の家』を書くことなのよ」と彼女は言った。
「もちろん書くよ」とぼくは言った。「でも、ぼくはノイマン屋敷と同じくらいここが気に入ったんだ」
「わたしもここが好きなの」と彼女は言った。「気が合うわね」
「労働は愛だからね」とぼくは言った。


「働かないか?」とぼくは八重山に言った。「ぼくらには労働が欠けてるよ」
「いいね」と八重山は言った。「芸術は労働だからな」
 ぼくらはホイール積みを始めた。溝を転がってきたホイールをパレットと呼ばれる木の台に決まった個数だけ積み上げるのだ。積み終わると工員がフォークリフトで倉庫に持っていく。積み方が悪いと途中でホイールが崩れてしまう。けっこう難しいのだ。ぼくらは毎日四五時間、汗みずくになってホイールを積んだ。それから八重山は自分の部屋でピアノの練習をやり、ぼくはその横で小説を書いた。ホイール積みが終わるとへとへとに疲れていたが、小説を書き出すとすぐに元気になった。八重山も全然疲れていなかった。ぼくらは労働を発見したのだ。

「ぼくはいやだよ、ホイール積みなんて」と結城が言った。「ぼくは女の子を発見したんだ」
 彼はその頃だんだんぼくらと別行動を取るようになっていた。女の子とデートしてるという噂だった。
「労働のない愛なんて何の値打ちもないよ」とぼくは言った。
「そうかな?」と結城は言った。「きみはまだ女の子を知らないんだ」
 その言葉はぼくをすごく傷つけた。結城がミチコとやったことを思い出させたからだ。彼はますますぼくから遠いところに行こうとしていた。
「結城をやっちゃうべきなんだよ」とホイールを積みながら八重山が言った。「労働と芸術と愛が何なのか、わかってないってことをあいつに思い知らせてやるんだ」
「そうだね」とぼくは言った。

             ★

 たくさんのネジがミチコのからだに打ち込まれている夢を見た。彼女は裸で工場の鉄扉の前に立っていた。鉄扉は土色のペンキが剥げ落ちて、いたるところ錆が浮いていた。彼女のからだも白茶けた土色で、ところどころ錆びついていた。三角の陰毛も赤い錆のようだった。鉄扉にもミチコにも同じようにネジが打ち込まれていたので、重ねてみると彼女のからだは鉄扉の中に溶け込んで、見えなくなってしまいそうだった。
 ぼくは次の日、ミチコに夢の話をした。
「あなたはよく見てるわね」と彼女は言った。
「何を?」とぼくはきいた。
「わたしのからだは錆だらけなのよ」と彼女は言った。
 ぼくはじろじろ彼女のからだを見つめた。それは工場の裏手にある八重山家の二階だった。彼女は白っぽいジョーゼットのワンピースを着ていた。薄い布地を通して見える彼女のからだは生クリームみたいに白かったが、どこにも錆は浮いていなかったし、ネジも打ち込まれていなかった。淡い薔薇色の乳首がちょとネジに似てはいたけれど⋯⋯。
「働きすぎなんじゃない?」とぼくは言った。
「それほどでもないわよ」と彼女は言った。「毎日ノイマン屋敷に遊びに行くし、ときどきは総愛学院にも行ってるのよ」
 ぼくは彼女のからだをじろじろ見ていた。彼女は夏になって次第に痩せ始めていた。もともと細いからだがますます細くなっていた。なんだか痛々しい気がした。でもぼくが彼女のからだをじろじろ見つめていたのは、彼女が気の毒だったからじゃなかった。彼女がすごくきれいで、見つめないではいられなかったからだ。
「きれいだね」とぼくは彼女の服の下にかすかに透けて見える、三角の陰毛を見つめながら言った。それは赤錆の色にちょっと似ていなくもなかったが、夕映えの雲の影みたいにきれいだった。
「ありがとう」と彼女は言った。

 アルパインはもちろん工場や事務所で働くミチコを映画に撮った。ついでにぼくと八重山がホイール積みをやってるところも。彼女はネジを手際よく箱に詰めながら、カメラに向かって労働と芸術と愛について延々と語った。そのまわりで撮影隊にくっついてきたアーティストたちがマリワナを吸ったりペッティングをやったりしていたが、彼女は彼らのことをまるで気にしていなかった。彼女にとって労働は愛だったからだ。
「きみの弟にピアノを弾いてもらいたいんだけど」とアルパインが彼女に言った。
「いいわよ」と彼女は言った。
 そんなわけで工員たちがグランドピアノを引っ張り出してきて工場の機械の前に置いた。一九六八年の八重山鉄工の工場や倉庫にはグランドピアノが何台も無造作に置かれていたのだ。八重山はどこにいてもピアノが弾けるようになっていないと気がすまなかったし、毎晩神戸のジャズ喫茶に運んで演奏するためにも、すぐ運び出せる場所に置いておく必要があったのだ。それに、一度ジャズ喫茶に運んで使ったピアノはトラックに揺られて弦が緩むので、何台も交替で使わなければならなかった。音が狂ったピアノは休ませている間に、調律士に弦を調整してもらうのだ。
 八重山はホイール積みをしながら工場の真ん中にピアノが運ばれるのをちらちら見ていた。そしてピアノがセットされると、汗だくのままピアノに向かい、いきなり『ヒマラヤ』を弾き始めた。あるいはそれは『祈り』だったかもしれない。ぼくにはその頃の八重山の曲が区別できなかったのだ。アルパインはピアノが運び込まれるところや、八重山がホイール積みを中断してピアノに向かうところも丹念に撮影した。
 八重山は怒りを込めて演奏した。アルパインの映画に利用されるのが面白くなかったのかもしれない。彼はアルパインを嫌っていた。それからたぶん、彼がピアノを弾くことをミチコが勝手に承諾してしまったのも気に食わなかったのだろう。それでもピアノを見ると弾かずにいられない自分にも、あるいは腹を立てていたのかもしれない。
 彼の攻撃的なピアノに刺激された工員たちはアルパインを殴り、アーティストたちを袋叩きにした。アーティストたちがノイマン屋敷でミチコとやりまくってると思い込んでいたからだ。おかげでカメラを回したり照明やマイクを持ったりする人間がいなくなってしまった。ぼくはしかたなくカメラを回し、工員たちがほかの機材を扱った。それでもちゃんと映画は撮影できた。後に『ビースト』が発表されたとき、ぼくは何度もこの作品を見たが、ぼくらが撮影した工場の場面もかなり長く使われていた。

「あんたの芸術には労働が欠けてるよ」とピアノを弾き終わった八重山がアルパインに言った。
「そうかな」とアルパインは言った。「けっこう手間はかけてるんだけどね」
 彼は工場の土の地面に伸びていて、ミチコが真っ白い彼の頭を抱き起こし、膝の上に乗せていた。鼻から口にかけて血まみれになっていた。なんとなく十字架から降ろされたキリストみたいだった。

              ★

『菜の花の家』は順調に進んでいた。日本語で書いていたせいもあって、毎日 " A Tale of A Little Thief " のときの何倍も書くことができた。ぼくはどこへ行くにも原稿用紙を持ち歩いていた。どんなときでもペンを握れば言葉は溢れ出てきた。
「すごいわね」とミチコは言った。
「ぼくは自由を発見したんだ」と言いながら、ぼくは『菜の花の家』の弟と兄嫁が結婚する場面を書いていた。本当は戦争が終わったところで物語も終わるはずだったのだが、ペンのほうが勝手に動き出して止まろうとしなかった。原稿はもう七百枚を超えていた。ぼくは次第に主人公たちの一挙手一投足まで克明に描写するようになっていった。ミチコが次から次へと新しい資料を発掘してくるので、それも付け加えていった。彼女の論文はプロローグさえ仕上がらないまま放り出されていた。彼女は自分の文章のまずさを知っていたので、ぼくの作品のほうに期待をかけるようになっていたのだ。そのせいで、ぼくの小説は彼女の論文のプロローグの内容にどんどん近づいていった。彼女の文章を読みやすく直しただけでそっくり使ったところもあった。彼女はそれをすごく喜んでいた。
「わたしが書きたかったのはこういう作品なのよ」と彼女は言った。
 彼女にとっては小説と伝記の区別なんてまるで意味がなかった。どちらも言葉で組み上げられた装置だったのだ。ぼくは言葉による装置という考え方に夢中になった。人間の意識も、社会制度も、工場の機械もすべて同一次元の機械であり、すべての運動はつながっているのだ。小説を装置と考えることでぼくは限りなく豊かな言葉の鉱脈を手にいれたのだった。そして『菜の花の家』はますます事実に近づいていった。時代はどんどん現在に近づいていった。やがて主人公の夫婦に娘が生まれ、息子が生まれ、姉はバレエを習い、弟はピアノを習うことになった。総愛学院も聖書女学院も登場した。そしてぼくも⋯⋯。
 秋までに原稿は二千枚を超え、時代は一九六八年にさしかかっていた。小説の執筆はほと
んどぼくの日記の丸写し、あるいはもっと克明な描写を加えた書き直しになっていった。作品の世界を豊かにするために、ぼくはさらにミチコや八重山やアルパインの声をそこに挟み込んでいった。最終的に『菜の花の家』は一万枚を超えることになるのだが、それはまだ先の話だ。とにかくアフリカの夏のぼくは、トーマス・ウルフとマルセル・プルーストが合作したような作品を書いているつもりだった。
「ぼくは現実世界を発見したんだ」とぼくは八重山に言い、そう日記と小説に書いた。
「よかったね」と八重山が言い、ぼくはそう日記と小説に書いた。

             ★

「わたしはもう出てこない?」とマリコが言った。
 それは一九八八年の秋だった。
「そう、『菜の花の家』にはね」とぼくは言い、そう日記と小説に書いた。小説というのは『マイ・フェイヴァリット・シングズ』のほうだ。
「嘘」と彼女は言った。「あなたがほんとにすべてを書いてるなら、わたしはもう一度出てくるはずよ」
「ぼくらは一九六八年の夏から会って話をすることはなくなったんだよ」とぼくは言い、そう日記と小説に書いた。
「あなたは忘れてるのよ」とマリコは言った。「わたしは覚えてるわ」
「そうだったかな?」とぼくは言った。「じゃあ、『菜の花の家』を読み返してみるよ」

 ぼくはそう書いた。

             ★

 源義経になって、鵯越の山の上で馬に乗っている夢を見た。アフリカの夏のことだ。ぼくはそう『菜の花の家』にも書いた。
 夜中だった。闇の中に雄の鹿二頭と牝の鹿一頭が現れ、目の前の急斜面を下っていった。下るというより崖を転がり落ちていく感じだった。下の平家の陣地では、突然鹿が降ってきたので大騒ぎをしていた。ぼくらはこんな崖みたいな斜面を馬で下れるのかどうかでもめていた。
「鹿が降りられるなら馬だって平気さ」と源義経のぼくは言った。
「あんなの、ただ落ちてっただけじゃないか」と武蔵坊弁慶が言った。
「ぼくはやだね」と金売り吉次が言った。
「怪我するだけだよ」と伊勢の三郎が言った。
「でも、下には福原のトルコがあるぜ」と常陸坊海尊が言った。彼はなんとなく八重山に似ていた。坊主頭が傷だらけだったからだ。
「そうか」と武蔵坊弁慶が言った。「悪くないな」
 彼は偽ゲイリー・ピーコックに似ていた。
「とにかく行こうよ」とぼくは言い、斜面を駆け降りた。百騎くらいの家来が後に続いた。
 斜面は上から見たより急で、ほとんど垂直の崖と言ってもいいくらいだった。ぼくらは馬に乗ったままゆっくり落ちていった。ぼくは馬に乗っていながら源義経の自分を外から眺めることができた。源義経はテレビで見たようなきれいな鎧と兜を着けていたが、なんとなくちんちくりんで不恰好だった。
 何百メートルか下のほうで平家の陣地が明るい照明に輝いているのが見えた。それは福原のトルコ街で、輝いているのは極彩色のネオンだった。崖にはたくさん穴があいていて、穴居人たちが顔を出してぼくらを見ていた。みんな髪をボサボサに伸ばして、鹿の毛皮を着ていた。卓袱台でご飯を食べてる家族もいた。薬局になってる穴もあって、風邪薬や強壮剤、避妊具といったものを売っていた。ぼくらはすごくゆっくり落下していたので、そういったものを好きなだけ取ることができた。金は払わなかった。薬局の穴居人は、髪を振り乱して何か叫んでいたが、ちっとも恐くなかった。彼らは総愛学院の庭園でキャンプを張っているヒッピーたちに似ていた。
「やあい」と源義経のぼくが言った。「ざまあみろ」
「覚えてろ」と穴居人たちが言った。
 ぼくのすぐ上では、八重山に似た常陸坊海尊が別の穴からご飯のおかずを盗んでいた。
「やあい」と常陸坊海尊の八重山が言った。「ざまあみろ」
「覚えてろ」と穴居人たちが言った。

 地面にぶつかる少し前に、馬が崖を蹴ったので、ぼくらは宙を飛んでゆっくりと平家のトルコ風呂陣地に降り立った。そこはほんとに眩しいくらい色とりどりのネオンが輝いていた。歩道には細い柳が植えられていた。四つ辻のアーチには「福原柳筋」というネオン文字が掲げられていた。通りは平家の侍たちで溢れていたが、みんな話にならないくらい弱くて、刀を振り回すだけでいくらでも首を吹っ飛ばすことができた。
 トルコ風呂はどこも派手なネオンで飾られていて、ネオン管がバチバチ音を立てていた。出てくる男たちはみんな背広にネクタイ姿だった。ぼくはそいつらの首もはねてやった。だから結城が女の子に抱かれるようにして出てきたときは危なく彼の首を切り落としそうになった。
「おっと危ない」とぼくは言った。「でも、どうしてこんなとこにいるの?」
「え?」と結城は言った。ちょっと戸惑った顔をしていた。
「みんなが戦ってるのにどうしてこんなとこにいるの?」とぼくは言った。「愛は労働なんだよ」
「あなたには思いやりが欠けてるのよ」と結城の肩を抱いていた女の子が言った。それはマリコだった。

《「ほんとだ」と一九八八年の秋にぼくは言った。「ほんとにきみが出てきた」ぼくは久しぶりに『菜の花の家』を読み返していたのだ。「違うわよ」とその部分を読んだマリコが言った。「これはあなたが見た夢じゃないの。わたしはもう一度現実に出てくるのよ」「そうか」とぼくは言った。「夢を見てちゃいけないよ」という八重山の言葉を思い出した。》

「きみはここで何をしてるの?」と源義経のぼくは言った。
「御覧のとおりよ」と夢の中のマリコは不機嫌そうに言った。彼女はブルーにピンクの縁取りのビキニの水着を着ていて、右側のおっぱいが結城の肩に強く押し付けられて水着から半分はみだしていた。
「お母さんに言いつけてやるからな」と源義経のぼくは言った。
「いいわよ」マリコは小学生のときよくやったように、腰に手を当てて、ちょっと首を傾げながら言った。それは彼女が憤慨したときのポーズだった。結城はその横で背広にネクタイという恰好をしていて、なんだかサラリーマンみたいだった。ふたりとも抱き締めたいくらい可愛かった。
「じゃあね」とぼくは言い、また通りを馬で走り出した。


 ぼくはずっとミチコを捜していた。馬に乗ったままトルコ風呂の中に押し入って、一軒一軒調べていった。なんとなく彼女がトルコ風呂で働いてるような気がしたのだ。しかし彼女はどこにもいなかった。
 通りは鎧を着た侍たちの死骸で埋まっていた。四つ辻に人だかりがしているので、馬で人をかき分けて近づいていくと、鹿が三頭倒れていた。鵯越の崖を先に落ちていった鹿たちだった。雄の二頭はもうすっかり皮を剥がれ、肉が切り分けられているところだった。
雌は長い首を矢で貫かれたまま、眼を丸くして倒れていて、それをぼくの家来たちが代わる代わる犯していた。家来たちはなんとなく八重山鉄工の工員に似ていた。源義経のぼくは彼らを怒鳴りつけ、やるんだったらトルコ風呂に行ってこいと命令した。
 彼らは「こっちのほうがいいのにな」といったようなことをブツブツ言いながら行ってしまった。
「大丈夫?」とぼくは鹿に声をかけた。
 鹿は眼をパチパチさせながら、首を起こしてぼくを見つめた。
「助けてくれたからって大きな顔しないでね」と鹿は言った。「あなただってみんなとおんなじなんだから」
「わかってるよ」とぼくは言った。
 鹿はもちろんミチコだった。

              ★

 工場で働いているあいだにぼくはいつのまにか結城をやってしまおうと決心していた。どうしてだかわからない。とにかく虹色に焼けたホイールを積んだり、アジかイワシみたいに青く光るネジの山を眺めたりしているうちに、なんとなくそんな気になったのだ。激しい労働でぼくのからだは少しずつ鍛えられていた。何も恐いものはないような気がした。何も恐れていないことを確かめてみたいような気もした。
「結城をやっちゃおう」とぼくはホイールを積みながら八重山に言った。
「やっとその気になったね」と彼は言った。
「でも、どうしてだろう?」とぼくは言った。「とても強いロボットになったような気分なんだ」
「人間もピアノも機械だからね」と彼は言った。

 ぼくらは小説の執筆とピアノの稽古の時間を削って神戸中をうろつき回るようになった。結城を探すためだ。彼がどこに立ち寄ったか、何をしていたかといった情報は、どこでも簡単に手にいれることができた。誰でも結城のことをよく知っていた。彼みたいな美少年は神戸にそう何人もいなかったからだ。
「やるのかい?」といたるところできかれた。
 もちろん結城をという意味だ。ぼくと八重山もすっかり有名になっていた。八重山はジャズ喫茶で売出し中のピアニストとしてだけでなく、お姉さんがノイマン屋敷に住んでる《アルパインの恋人!》で、元モデルで、鉄工会社の社長で、しかもアルパインの映画に出演しているすごい美人だということでも有名だった。ぼくはと言えば、《あの少年愛の巣窟!》の総愛学院で英語の小説を書いたやつとして有名だった。そして結城に《振られた》間抜けなやつとしても⋯⋯。
「あいつなら女の子とデートしてたよ」といたるところで言われた。
 みんな薄笑いを浮かべてぼくの顔をじろじろ見た。
「かわいそうに」と眼が言っていた。

 結城はなかなか捕まらなかった。逃げていたのかもしれない。神戸の街を歩いていれば、ぼくらが捜し回ってることはすぐにわかっただろうから。それでも彼は女の子とデートするのをやめたりはしなかった。
 どこに行っても、「あのかわい子ちゃん(結城のことだ)ならついさっきまでここにいたよ」と言われた。
 しかたなくぼくらは彼の家の近くで待ち伏せすることにした。海を見下ろす高台にある南フランス風のきれいな家で、庭には大きな蘇鉄がたくさん植えられていた。すぐ下に市民プールがあった。ぼくと八重山は水に浸かりながら鰐みたいに結城の家を見上げていた。水の中に隠れていないと結城に見つかってしまうからだ。それにアフリカの夏は日差しがきつくて、とてもプールサイドに長くはいられなかった。甲羅干しをしてる連中はみんな黒人みたいに日焼けしていた。
 最初の数日は成果がなかった。昼過ぎから夕方まで待ったのだが、結城は帰ってこなかった。八重山はピアノを弾かなければならなかったし、ぼくは小説を書かなければならなかったので、ぼくらは夕暮れどきになると引き上げなければならなかった。

「結城はわざと帰りを遅らせてるんじゃないかな」とぼくは水の中で八重山に言った。
「そんなに頭の回るやつじゃないと思うけどな」と彼は言った。「きっとそのうちプールに女連れで現れるよ」
「そうだね」とぼくは言った。確かに結城はとても頭の悪いやつだった。

 五日目に結城が女の子を連れてプールに現れた。八重山の言った通りだったので、ぼくはなんとなく悲しかった。実際、結城はとても間抜けなやつだった。
 女の子はブルーのビキニを着ていた。とても可愛い子だった。でも、結城の方がもっと可愛かった。というより、ぼくは結城しか見ていなかったのだ。
 アフリカの夏の黄色い太陽がコンクリートのプールサイドを日乾しレンガみたいに焼いていた。結城の真っ黒な影が彼の足元にまとわりついて揺れていた。それは小さな闇だった。アフリカの夏はいたるところに影を落として小さな闇の世界を作っていた。結城のからだもミルクチョコレート色に焼けていた。きっとよく泳いでいたのだろう。それに比べて女の子は雪だるまみたいに真っ白だった。多分彼女はその夏初めてプールに来たのだ。結城は毎日違う女の子とデートしてるという噂だった。


 チョコレート色の結城と影の闇と雪だるま色の女の子は、山を背にしたフェンスのそばに寝そべった。どちらもつまらなそうにしていた。彼はときどきぎこちない手つきで女の子のからだを撫でたり、首筋にキスしたりした。 
「下手糞」と八重山が水の中で言った。
 ぼくらは水面から眼だけ出して結城を見ていた。だから八重山の言葉は正確には「ボコボコボコボコ」と聞こえた。

 ぼくらは鰐みたいにゆっくり水から上がり、プールサイドに闇のような影と細かい闇のしぶきのような水の雫を落としながら結城に近づいた。すぐそばまできても彼はまるで気づかなかった。女の子とキスするのに夢中だったからだ。ぼくらは真上から彼の顔を見下ろしながら、
「やあ」と言った。
 ぼくらの顔の影が結城の顔の上で闇を作っていた。彼は胡椒とバターの匂いがした。それは汗がプールサイドの埃と混じり、アフリカの夏に焼かれて放つ匂いだった。彼の眼はぼくらの落とす影の闇の中でふくろうみたいに怯えていた。

「やあ」とぼくらはもう一度言った。
「やあ」と彼も言った。
 結城が見上げたぼくらの顔はきっと影の闇の中に隠れていただろうが、声でぼくらだとわかったはずだ。女の子はぼくらを見上げながら、
「ああ」と言った。
 ぼくらはプールから出て、すぐ後ろにある結城の家に行った。ぼくらというのはぼくと八重山と結城のことだ。女の子はプールサイドに残った。
 ぼくらは「すぐ戻ってくるよ」と彼女に言ったのだ。
「ちょっと話があるだけだから」と結城も彼女に言った。

 結城の家はしんと静まり返っていた。とても大きな家だったが、ほとんどの部屋は鎧戸で閉ざされていた。スペインや北アフリカの昼寝の時間といった雰囲気だった。
「ママは留守なんだ」と結城が言った。
「そう」とぼくは言った。
「そりゃよかった」と八重山が言った。
 玄関には牛が入りそうなくらい大きな冷蔵庫が置いてあった。扉が全部開いていて、中は空っぽで、クローブとシナモンを混ぜ合わせたような匂いがした。台所には冷蔵庫から取り出されたらしい食品がごちゃごちゃと置かれていた。食堂の大きなテーブルには、レタス、きゅうり、そらまめといった野菜類が山積みになっていた。
「夕方に電機屋が来るんだ」と結城は言った。「新しい冷蔵庫を買ったんだ」
「そう」とぼくらは言った。「そりゃよかった」
「で、話って何?」と結城が言った。
「きみの話をしよう」とぼくは言った。
「おまえは愛が何なのかを知らないんだ」と八重山が言った。
「そうかな」と結城が言った。「ぼくはただ女の子とセックスしたいだけなんだ」
「おまえの愛には労働が欠けてるよ」と八重山が言った。
「もう、ぼくのこと好きじゃない?」とぼくは言った。
「わからないよ」と結城が言った。「ぼくはきみのものになりたかったんだ。でも、きみはぼくをきみのものにしてくれなかったんだよ。だからぼくは女の子を自分のものにしたんだ」

「ぼくは誰も支配しないし、きみだって誰も支配しちゃいけないんだよ」とぼくは言った。「そんなことできるわけがないんだ。ぼくらは一度自由を発見したんだから」
「それが愛ってやつさ」と八重山が言った。
「ぼくは愛なんて知らないよ」と結城が言った。
「おまえに愛を教えてやるよ」と八重山が言った。
 それからぼくらは結城を家中追いかけまわした。彼は追いかけられる前から逃げ出していた。つまり何をされるか知っていたのだ。
 家はとても広かった。結城が本気で逃げたらとても捕まりっこなかった。いたるところに納戸やクロークがあって、隠れ場所には困らなかっただろうからだ。でもぼくらはすぐに結城を捕まえてしまった。彼は食堂の大テーブルに積まれたレタスの山の中に隠れていた。ぼくらは二階で彼を見失って食堂に戻ったのだが、そこでかすかにレタスの山が震えているのを発見したのだ。結城というのはそのくらい頭の悪いやつだった。
「愛を受け止めてやれよ」と八重山が言った。
 ぼくは結城の首を締め上げていた。八重山は彼の服を手際よく脱がせた。結城はほとんど抵抗しなかった。シュテルマッハー校長に銃で撃たれた鹿みたいにぐんにゃりしていた。溶け出したチョコレートみたいに温かかった。
「お願いだから殺さないで」と結城は言った。
「殺しやしないさ」と八重山が言った。「おとなしくしてればね」
「ありがとう」と結城は言った。


 それからぼくらは結城にいろんなことをした。一九六八年の男の子が考えつくことは全部やった。『菜の花の家』の一九六八年の章には、何と何と何と何と何と何をしたか克明に書いてあるが、三十五歳のぼくはそれをいちいち繰り返す気になれない。一九六八年は特殊な時代だったのだ。一九六八年の子供たちは、一九八八年の大人でさえ考えつかないようなことを平気でしていた。
 とにかくぼくが男の子とやったのはそれが最初で最後だった。そしてまだそのときは女の子とやったことはなかった。我ながらひどい人生のスタートだった。
 終わった後、結城はしばらく泣き続けていた。彼が痛がるような、拷問じみたことをいろいろやったからだ。
「痛かった?」とぼくは彼の頭を膝に抱えて撫でてやりながら言った。
「うん」と結城は言った。「愛はぼくには苦しすぎるんだ」
 そのとき彼は電気のコードでからだをぐるぐる巻きにされていた。コードの間から柔らかい肉が盛り上がって、おいしそうなスモーク・ハムみたいだった。

 玄関のチャイムが鳴ったので、八重山が応対に出た。来たのは電機屋だった。新しい冷蔵庫を届けに来たのだ。
「どうぞ」と八重山は二人の若い電機屋に言った。
 電機屋は彼をじろじろ見た。Tシャツを着ているだけで、下半身は裸だったからだ。ぼくはジーパンをはいていて、上半身は裸だった。そして結城は素っ裸のまま電気コードでぐるぐる巻きにされて床に転がっていた。電機屋たちはそれを見ながら黙って新しい冷蔵庫を運び込んだ。新しい冷蔵庫は象が入りそうなくらい大きかった。八重山は生ぬるい缶ビールを電機屋たちに渡した。ぼくらはさっきからぬるいビールを飲んでいた。冷蔵庫が使えなかったからだ。
「ぬるくて悪いね」と八重山が大人びた口調で言った。
「いえ」と電機屋の一人が言った。
「冷蔵庫が壊れたもんでね」
「そうでしょうね」
「モゴモゴモゴモゴ」と結城が床の上で言った。
 彼は余計なことを喋らないように猿ぐつわを噛まされていたのだ。電機屋の一人が彼をじろじろ見ていた。
「やりたいかい?」と八重山がきいた。
「そりゃあね」と電機屋が言った。「こんな可愛い子はめったにいませんからね」

 電機屋が帰ったと思ったら、今度はさっき結城がプールに連れてきた女の子がやってきた。開けっ放しにした玄関のドアから外の眩しい光が見えた。彼女は白っぽい麻のワンピースを着ていたが、その下にブルーの水着がかすかに透けて見えた。彼女はぼくの顔をじろじろ見た。からだのほうは見ようとしなかった。
「すぐ戻るって言ったのに」と彼女は神経質そうな顔で言った。
「悪かったね」とぼくは言った。「話が長引いちゃったんだ」
「あなたが彼に何をしたか知ってるわ」と彼女は言った。
 それからぼくと八重山が結城にしたことを次から次へと並べ出した。ちょっと違ってるのもあったが、ほとんど当たっていた。どうしてわかったんだろう?
「上がらない?」とぼくは言った。「ぼくらの用はすんだんだ」
「わたしの用もすんだわ」と彼女は言った。そしてさっさと帰ってしまった。

             ★

「ほら、出てきた」とマリコが言った。
「これがきみ?」とぼくは言った。
「知ってるくせに」と彼女は言った。
「そうだったかな?」とぼくは言った。
 ほんとに忘れていたのだ。もしかしたら『菜の花の家』を書いたときでさえ、覚えていなかったのかもしれない。覚えていたとしたら実名で出てくるはずだからだ。
「どうしてきみのことを忘れることができたんだろう?」とぼくは言った。
「無理しちゃって」とマリコは言い、クックッと笑った。「あなたはあの頃、彼のことしか見てなかったのよ」
「そうか」とぼくは言った。「そうだったね」

 今ならもう少し別のことも思い出すことができる。『菜の花の家』に書かなかったことを補足しておこう。

⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
「わたしの用もすんだわ」とマリコは言った。
「どこにも行かないでくれよ」とぼくは彼女に言った。
「だめよ。あなたは死神に取り憑かれてるわ」と彼女は言った。
 そしてさっさと帰ってしまった。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯

 こんなとこだ。

「きみはどうしてあのとき結城に会わずに帰ってしまったの?」とぼくは一九八八年の秋のマリコにきいた。
「別にどうでもよかったからよ」と彼女は言った。
「彼のことを愛していなかった?」
「あのときはね。ほかにガールフレンドがたくさんいたし⋯⋯」と彼女は言った。「でも、彼はいい人だったわ。そんなに利口なほうじゃなかったけど」
「彼とはどうして結婚したの?」
「さあ、よく覚えてないわ」
「最初の男だったから?」
「彼と結婚したのは一九七六年の夏よ。大学を出た年」と彼女はおかしそうに言った。「彼と最初にセックスしたのは一九六八年のあの夏よ。その間にいろんなことがあったわ。いろんなことが」
「一九六八年⋯⋯」とぼくは言った。「ミチコの事をそんなに早く忘れちゃったの?」
「彼女のことを忘れるために男の子と付き合おうとしたのよ」と彼女は答えた。
「もしぼくが誘ったら、ぼくとセックスした?」
「たぶんね」と言って彼女はおかしそうに笑った。
「どうして離婚したの?」
「仕事がしたかったからよ」とマリコは六〇年代の女の子みたいな口調で言った。「わたしにとって愛は労働だったし、同時にわたしは労働を愛してもいたのよ」
「そうか」とぼくは言った。

              ★

 アフリカの夏の終わり頃、工場の若い工員たちが突然働くのをやめた。彼らは機械の前でお互いの顔を見合ったまま、動かしていた手を止めてしまったのだ。ぼくらの横のラインでホイール積みをやっていた若者は、毛布の手袋を地面に落とし、湯気を吹いている機械の山の上を見上げていた。そこではまだ溶けた金属がホイールの鋳型に流し込まれていた。彼の前には溝を転がってきたホイールがどんどんたまっていった。
「どうしたの?」とぼくは彼に声をかけたが、彼はぼくのほうを見もしなかった。機械の音がうるさくて、ぼくの声は彼のところまで届かなかったのだ。

 ネジのラインでもできたてのネジが受け台の上に溢れて地面にこぼれ落ちていた。機械の山のてっぺんからは立て続けにポンポンと火の玉が飛んできてぼくに命中し、作業服を焦げ跡だらけにしてしまった。
 やがて工場のすべての機械が止まった。あるいはミチコが止めさせたのかもしれない。このままネジやホイールを作っていても、ラインの末端で溢れてしまうだけだったからだ。工場が急に静かになって、みんなのろのろと中央の通路に集まってきた。ミチコは一人でせっせとネジ詰めを続けていたが、みんながそろったのを見ると、作業をやめた。八重山は最初からぼんやりと自分の持ち場に突っ立っていた。彼の足元にも溢れたホイールの山ができていた。
「どうしたの?」とミチコがみんなにきいた。
「わからない」と工員の一人が言った。「働く気力がなくなっちゃったんだ」
「どうして?」とミチコは言った。「働くのは楽しくない?」
「要するにぼくらはアーティストじゃないってことなんだ」と別の工員が言った。
「つまりぼくらは人間の屑ってわけさ」とまた別の工員が言った。
「そんなことないわ」とミチコは言った。「芸術だって労働なのよ」
「でも、労働は芸術じゃないよ」
「でも、労働は愛なのよ」
「ごまかしてもだめだよ」
「もうぼくらはだまされないからね」
「ミチコさんはノイマン屋敷のアーティストとなら誰とでもセックスするけど、ぼくらとはしないじゃないか」
「わたしは誰とでもやってるわけじゃないわ」ミチコは大きなレンチでそばにあった機械を思い切り叩いた。カキンという気持ちのいい音がした。「わたしがやりたいのは弟だけよ」
「でも、彼とはやってないね」
「ええ、まだね」彼女は八重山のほうを見た。彼はホイールの山に腰を下ろして考え込んでいた。「愛はデリケートなのよ」
「やってるのはノイマン屋敷のアーティストたちとなんだ」
「ええ、まあね」と彼女は認めた。「でも、誰とでもってわけじゃないわよ」
「そして、ぼくらとは絶対やらないんだ」


 それからみんな黙ってしまった。工員たちは汗を垂らしながらうなだれていた。誰もミチコの顔を見ていなかった。逆にミチコは腰に手を当てて、彼らを睨みつけていた。彼女は怒ってる様子だった。でもそれは彼女が自分に負い目を感じてる証拠だった。嘘をついてるときや自分が間違ってるのにそれを認めたくないとき、彼女はとても堂々とした態度をとることができた。そんなときの彼女はすごくきれいだった。
「わかったわ」と彼女は言った。「わたしがみんなとやればいいのね?」
「そんなこと言ってないよ」と工員の一人が言った。
「ミチコさんがいやがってるのにやるなんてできないよ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「わからない」と工員たちは言った。「とにかく街に出て愛を探してみるよ」
「あなたたちはきっとわたしの弟みたいに、街で女の子を襲うようになるんだわ」
「とりあえずはそうなるかもしれないね」
「それならわたしとやっても同じじゃない」
「全然違うよ」と工員たちは口を揃えて言った。「ぼくらはミチコさんが好きなんだ」
「わたしだってあなたたちのことが好きなのよ」とミチコは言った。「少なくともノイマン屋敷にいる連中よりはね」
「ほんとに?」
 工員たちの眼が輝き出した。彼らはすごく純朴な人たちだった。ミチコの言ったことは明らかに嘘だったし、それは彼らにもわかったはずだ。彼女は他人を愛せるようなタイプの女じゃなかった。それでも彼女に好きだと言われたことは彼らを夢中にさせた。
「どうしてあんなこと言ったの?」とぼくは後で彼女にきいた。
「わたしはあの子たちが好きなのよ」
「嘘だ」
「もちろんあなたのことも好きよ」彼女はとても可愛く笑いながらぼくのおちんちんを掴んだ。

 そんなわけでミチコは工員たちとセックスするようになった。彼らは熱く焼けた機械の上でやるのが好きだった。機械の熱が彼らをより興奮させるからだ。それに彼らはミチコをみんなのものだと考えていたので、みんなが見てる前でやるのが一番公平だということになったのだ。

「あんなことしてちゃいけないよ」とぼくは彼女に言った。
「あなたもやりたいくせに」と彼女は笑った。
 工場で彼女とやらないのはぼくと八重山だけだった。ぼくは彼女が痛々しくて見ていられなかったのだ。暑さとセックスのせいで彼女のからだはますます痩せていった。それでも彼女はどんなモデルよりもきれいだった。
「きみは自分をすり減らしてるよ」とぼくは言った。
「わたしには手に入れたいものがあるのよ」と彼女は言った。
「きみは死神に取り憑かれてるよ」とぼくは言った。
「でも、ノイマンを見つけたわ」
「なんだって?」
「ノイマンがいたのよ」
「どこに?」
「言えないわ」彼女はおかしそうに笑った。「わたしは彼のものなのよ」

「わあい」と工員たちは言った。「自由を見つけたぞ」
 彼らは毎日熱狂的に働いた。ぼくが文章を書くことの中に、八重山がピアノの演奏の中に自由を見つけたように、彼らも仕事の中に自由があることを知ったからだ。彼らは熱く焼けた機械の上にミチコを乗せてセックスした。彼女の肉は鉄板で焼かれる牛肉みたいに機械の上でジュウジュウと音をたてて焼けた。
「熱くない?」とぼくはきいた。
「いい気持ちよ」と彼女は答えた。
 彼女のからだはクローブの匂いがした。香料が焼けた肉の匂いを一層香ばしくした。彼女と工員たちのからだから流れ落ちる汗が、鉄板の上で湯玉になって転げ回った。
 ジュウジュウジュウジュウ⋯⋯。

 工員たちは熱狂的に働き、終業ベルが鳴ると熱狂的に神戸の街へ飛び出していった。彼らは熱狂的にトラックでピアノを運び、熱狂的に八重山のピアノを聴き、熱狂的に真夜中の路上で女の子たちを襲い、熱狂的に商店を打ち壊してものを盗んだ。
「わあい」と彼らは言った。「ぼくらは完全に自由なんだ」
「そうらしいね」とぼくは言った。
 ぼくは彼らの熱狂に加わらなかった。ぼくが小説の中に発見した自由と、彼らが街の中に発見した自由はついに噛み合わなかったのだ。八重山だけが彼らと一緒に店と女の子を襲っていた。
「こんなこと、いつまでも続くわけないよ」とぼくは彼に言った。
「そうだね」と彼は言った。「でも、気がつくとついやっちゃってるんだ」
「きみはずっとそうやってきたからな」とぼくは言った。「でも、彼らを引っ張りこんじゃいけないよ」
「そうだね」と彼は言った。「でも、今じゃ彼らがぼくを引きずってるんだ」
 店や女の子を襲ってるのは彼らだけじゃなかった。アフリカの夏の終わりには、街にそんな連中が溢れていた。アフリカの太陽に焼かれた彼らは、薬をやったり、道路に絵を描いたり、街中でセックスしたりするだけでは満足しなくなっていた。彼らは完全な自由と喜びを求めて街をうろつき回った。そこら中で車がひっくり返されて焼かれ、銀行やデパートや商店が掠奪され、若い男の子や女の子が強姦された。
 一九六八年の夏休みの終わりだった。
                                        

 4 . セ ル フ レ ス



 アフリカの夏が終わった。それがどんな風に終わったのか、ぼくはもう正確に覚えていないが、とにかくいつのまにか少しずつ夏の色が褪せていき、ある日突然、秋が六甲山を覆っていることに気づいたのだ。地面を焼き続けた黄色い日差しも、闇のような影も消えてなくなっていた。絵の具を溶かしたような濃い空の青やヒマワリの黄色も⋯⋯。そうした色が褪めていく間、ぼくはずっと他のことを考えていて、まわりの変化にまるで注意を払わなかったのだ。

 アフリカの夏が終わったことを最初に強く感じさせたのは、アルパインが拳銃で撃たれたときだった。夏休みが終わり、学校が始まった最初の週だった。ぼくと八重山は放課後ノイマン屋敷に遊びに行っていた。オレンジ色の大きな太陽が摩耶山の西に傾き、屋敷と庭のプールを橙色に染めていた。日差しはまだきつくて、ぼくはミチコやアーティストたちと一緒に水浴びをしていた。八重山は大きな居間でアップライトピアノを弾き、アルパインは助手たちとシルク・スクリーンで何か刷っていた。
 ボンという大きな音がしたので居間のほうを見ると、大きく開いたフランス窓の前に、ベージュのコートを着た髪の長い女の子が立っていた。ぼくの位置からは彼女が握っている拳銃は見えなかったが、肩のあたりに青みがかった煙が見え、火薬の臭いがした。部屋の中から「ノー、ノー」と言う声が聞こえたが、そのときはアルパインが撃たれたということはわからなかった。たいして意味のない冗談が何かのはずみで実行されてしまったといった感じだった。女の子は一歩部屋の中に入ってさらに二発拳銃を撃った。それからプールのほうを振り向いて、
「みんなブタよ」と叫んだ。「夏は終わったのよ。アルパインはわたしに影響を与え過ぎたわ。こんなおふざけはもうやめにすべきなのよ」
 彼女はそれだけ言うと、さっさと坂を降りていってしまった。誰も止めようとしなかった。拳銃が恐かったというより、何がなんだかわからなかったのだ。
 居間の中は血の海だった。弾はアルパインの腹と胸と首に大きな穴を開けていた。彼は壊れた人形みたいに手足をバラバラに広げて床の上に倒れていた。まるでシュテルマッハー校長に仕留められた鹿みたいだった。

 彼がぴくりとも動かないので、ぼくらは彼が即死したものと思っていた。ところが病院に運ばれた彼は、十八時間の手術の末に一命をとりとめた。しかし、ぼくらにとってはそれが彼を見た最後になった。彼はそのまま一か月間神戸の病院に入院し、それから東京の病院に移り、一九六八年の暮れにはニューヨークに帰ってしまったのだ。ノイマン屋敷には二度とやってこなかった。作りかけの作品や道具類は側近の助手たちがさっさとアメリカに持っていってしまった。そしてアルパインがいなくなると、若いアーティストたちもだんだんノイマン屋敷に寄りつかなくなり、九月の半ばには、ミチコと八重山とぼくだけが残った。

 アルパインを撃ったのは、ノイマン屋敷によく出入りしていたヒッピーの女の子だった。彼女はセックスしようとしない唯一のヒッピーだった。男をすべて抹殺し、女だけの社会を造るべきだというのが彼女の思想だった。彼女は《カス》という政治結社に属していると言っていたが、この《カス》というのは完全に彼女の空想の産物だった。彼女はアルパインの映画の中でこんなことを言っている。
「ブタを皆殺しにしなきゃいけないわ。ブタはママのおっぱいにかじりついたまま、ズボンの中に糞を垂れながら死ぬべきなのよ」
 ブタというのはつまり男のことだ。

 こんな危険な女の子をどうして野放しにしておいたのか、不思議に思われるかもしれないが、一九六八年にはこの手の意味不明の思想を掲げる連中はそんなに珍しくなかったし、思想として主張されたことはどんな思想にせよ、一応敬意を払うべきだという雰囲気があったのだ。
 彼女がどうしてこんな考えを持つようになったのか誰も知らない。彼女は摩耶山を降りたその足で警察に自首したが、取り調べのときも意味のあることは一切言わなかった。
「ブタを撃ったのよ」と彼女は堂々と言った。「あなたたちだって知ってるでしょ? アルパインはママのあそこに首を埋めながらオナニーしてる子ブタだって」
 警察を戸惑わせたのは、彼女がアルパインに恨みや憎しみを感じなければならない必然性がどこにも見当たらないことだった。確かに彼女は男全般を憎んでいて、誰とも口をきこうとしなかったが、アルパインだけは例外で、ときどき話をしたり、映画の撮影を見にきたりしていた。彼が男性でも女性でもない特殊な存在だったからだ。アルパインも彼女の考えを面白いと思っていたらしい。だから『ビースト』にも出演させたのだ。警察から事情聴取を受けたヒッピーやアーティストたちはみんな一様にそんなようなことを証言した。結局、彼女がどうして突然ほかの男たちではなくアルパインを撃つ気になったのかはわからないままになった。彼女自身もわかっていなかっただろう。それは今でもわからない。それは謎のまま時がたち、どうでもよくなってしまった無数の事柄の一つになってしまった。
 それだけのことだ。
 彼女は警察でも政治結社《カス》の活動方針について長々と弁じ立て、おかげで不起訴になり、刑務所ではなく精神病院に送られることになった。

 急にがらんとしてしまったノイマン屋敷でぼくらは呆然とまわりを見渡した。ヒマワリの花に埋め尽くされて、目に痛いほど黄色に輝いていた山がいつのまにか茶色に変色していた。アフリカの夏の終わりだった。
「やれやれ、せいせいした」と八重山が言った。「彼女が撃たなくても、いずれは誰かがやるべきだったんだよ」
「そうかしら?」とミチコが言った。
 彼女はふさぎこんでいた。彼女にとってアルパインはある意味で大切な男だったからだ。自分の作品を作らない彼女は、いつも生産し続けている人間を必要としていた。それに、彼を撃った女の子と同じように、ミチコもアルパインの男とも女ともつかない特殊な性格に親近感を覚えてもいた。たぶんアルパインは彼女とセックスしなかった数少ない男の一人だろう。彼女はそういうタイプの男を何人も必要とする女だった。
「ヒマワリが枯れたわ」と彼女は山を見渡しながらさみしそうに言った。

               ★

 アフリカの夏が終わったとたん、八重山の様子がずいぶん変わってしまったことにぼくは気づいた。いつのまにか彼はひどくやつれていた。頬の肉がナイフで削ぎ落としたみたいにこけて、白桃みたいだった肌の色が黒ずんでいた。ときどき上目使いにぼくを見ながら、
「もうだめだ」と言ったりした。
「何が?」とぼくはきいた。
「何もかもがさ」と言って八重山は笑った。「もうぼくにはこれ以上曲は書けないよ」
「まさか」とぼくは言った。
 ぼくらはまだ十五歳だった。自分の作品を作り始めて一年しかたっていなかった。彼の演奏は神戸中を熱狂させていたし、レコードを出す話だってきていた。
「まだ始まったばかりじゃないか」とぼくは言った。「ぼくらの収穫はこれからなんだ。こんなところで引き返しちゃいけないよ」
「クライマックスっていうのは始まったと思ったときには終わってるものなんだよ」と彼は言った。「滅茶苦茶な生活をしていた芸術家が急に真面目に仕事をしだす。まわりの人は、『ああ、よかった。これで彼もまともな作品を作るだろう』といって喜ぶ。ところがそいつは次の作品を完成させる前に死んでしまうのさ」
「何それ?」とぼくは言った。
「人間は機械なんだ」と彼は言った。
「そうだね」とぼくは言った。
「機械には寿命があるんだよ」と彼は言った。

 学校が始まってから、八重山はもう何週間もジャズ喫茶で演奏していなかった。当然、夜中にトラックで神戸の街を流して回ったり、店を襲撃して酒や金を盗んだり、女の子を襲ったりすることもなくなっていた。酒も薬もやめ、夜は早く寝て、朝は早く起き、ほとんど一日中ピアノに向かっていた。学校には毎日やってきたが、授業にはほとんど出てこなかった。教師たちの目を盗んで講堂のグランドピアノを弾くか、地下広場で自分のアップライトピアノを弾いていた。ぼくは彼が盗みや食い逃げや婦女暴行をやめてピアノに専念しだしたことを喜んでいた。これからいよいよたくさんの曲が書かれ、レコードが発売されて、日本中をびっくりさせることになるだろう。成功はすぐ目の前まできていた。
「きみらしくないよ」とぼくは言った。「そんな弱気になるなんて」
「そうだね」と彼は言い、弱々しく笑った。
 ぼくはそれを同意のしるしだと思って安心した。一九六八年のぼくは、八重山が何者なのか本当には知らなかったのだ。彼は自分が干からびかけていることを知っていた。そしてすぐそばにいるぼくがそのことを理解してくれないので思わず苦笑したのだ。
「疲れたら少し休めばいいんだ」とぼくはさらに言った。「機械にも休みは必要だよ」
「そうだね」と八重山は言い、弱々しく笑った。

 ぼくらはそのとき講堂にいた。常設灯だけをつけた薄暗いステージで、八重山はピアノを少し弾いては急に中断してぼくに話しかけようとした。
「機械の休憩だ」と言って彼は笑った。
「どうして途中で演奏をやめるの?」とぼくはそのたびに言った。「続けなきゃだめだよ。芸術は持続と反復なんだ」
「そうだね」と彼は言った。「でも、きみこそ小説を書かなきゃいけないよ。こんなところでぼくみたいなミイラにつきあって、時間を潰してるべきじゃないんだ」
「小説のほうは順調だよ」とぼくは言った。「今はきみが心配なんだ」
「ありがとう」と彼は言った。
「どうしてきみは曲を書こうとしないの?」
「書いたよ」
「なんて曲? ぼくは聴いてないよ」とぼくは言った。「絵はあるの?」
 絵というのは、『世界同時革命』のとき八重山が楽譜代わりだと言って見せてくれた、『鳥獣戯画』みたいなやつのことだ。波の上に千鳥が飛んだり、兎や猿や蛙が跳ねているやつ⋯⋯。八重山はぼくを見上げながらしばらくぼんやりしていた。まるでぼくが何を言ったのかわからなかったみたいだった。それからまた弱々しく笑った。
「『セルフレス』っていうんだ」と彼は言った。

「どんな曲?」とぼくはきいた。
 彼はまた病人みたいな顔で笑った。両手を広げて、肩をすくめながら⋯⋯。まるで何も持ってないのが恥ずかしいみたいに⋯⋯。
「この曲はすごく難しいんだ」と彼は言った。
「そう?」とぼくは言った。
「『ヒマラヤ』や『世界同時革命』のときみたいに絵で曲のイメージを表現する事さえできないんだ」
「そう?」とぼくは言った。「それじゃ合奏できないの?」
「わからない」と彼は言った。「でも、この曲は一人じゃできないんだ」
「困ったね」とぼくは言った。
 そう言いながらなんとなく後ろめたい気がした。弱ってる八重山をわざと追い詰めようとしていたからだ。ぼくは『セルフレス』という曲が本当に存在するかどうか疑わしいと思っていた。八重山は疲れ切っていた。とても曲なんて書けそうに見えなかった。今のぼくなら彼を休ませようとしただろう。ところがそのときのぼくは彼をさらに駆り立てることばかり考えていた。一九六八年はそういう時代だったのだ。
「手伝ってくれるかい?」と八重山が言ったとき、ぼくはしばらく何のことかわからなかった。八重山は今や人間の脳みそが露出したみたいに膨らんでいる頭の傷をぼくに見せながら、上目使いにぼくを見つめていた。
「いいよ」とぼくはとりあえず言った。何にせよ頼まれたらいやと言わないのが一九六八年のぼくらの流儀だったからだ。
「『セルフレス』は正確に言うと、曲じゃないんだ」と彼は言った。
「曲じゃない?」とぼくは馬鹿みたいに繰り返した。
「『セルフレス』はすべての曲なんだ」
「すべての曲?」
「今まで世界中で書かれたすべての曲を含んでいるんだ」と彼は言った。「これから書かれるすべての曲もね」
「これから書かれる?」
「『セルフレス』は一人じゃできないんだ」と彼はまた言った。「『セルフレス』はコミュニケーションの実践なんだよ」
「コミュニケーション」とぼくは言った。
「手伝ってくれるかい?」
「いいとも」

 彼は椅子に座ったままつま先でリズムを取り始めた。それから左手の指先でピアノの上を軽く叩き出した。初めて耳にするリズムだった。ずっと一定のリズムを刻んでいるように聴こえるのに、いつのまにか違うリズムに移っていたり、また元に戻ったりした。彼はぼくにも手と足でリズムを取れと眼で合図した。ぼくは言われた通りにした。とても難しそうなリズムなのに、不思議と最初から八重山の手と足の動きにぴったり合わせることができた。それから八重山は鍵盤から三つの音を拾い出した。今ではよく覚えていないが、たぶんCとEとGといった単純な組み合わせだったと思う。彼はこれを延々と繰り返した。ぼくは頭の中でこの音を反復した。音はぼくの中で弾け出し、勝手に上がったり下がったりし出した。ぼくは不安になって変化していくその音を声に出してみた。すると八重山のピアノがそれと同じ音を出し始めた。というより、ピアノがぼくの中の音の変化を先取りして、一瞬早く音を変えていくような感じだった。ぼくは不安から解放され、音の変化にからだを任せた。まるで自分の中に別の生き物が入ってるみたいだった。無数の音楽がぼくの中から弾け出してきた。中には有名な曲の断片もあったし、全く聴いたことのない新しいフレーズもたくさんあった。ぼくは自分がすごい作曲家になったような気分になり、自分の中から飛び出してくるフレーズを書き留めておきたいと思ったが、実際にはそんな余裕はなかった。音がぼくを引きずっていき、どこでもない、何もない空間に解き放ってしまったような感じだった。強い歓喜がどこからともなく沸き上がってきた。
「ああ⋯⋯」とぼくは心のどこかで言った。「なんていい気持ちなんだろう」

『セルフレス』が終わったとき、ぼくらは校舎の屋上にいた。明け方の最初の光が鏡みたいに滑らかな大阪湾の海の上で金色に輝いていた。
「なんてこった」とぼくは言った。
『セルフレス』を始めたとき、ぼくらは放課後の講堂にいたのだ。いつのまにそこを出たのか、そのあいだ何をしていたのか、まるで記憶がなかった。
「一体、何をしてたんだろう?」とぼくは呟いた。
「決まってるさ」と八重山が言った。「『セルフレス』を演奏してたんだよ」
「そうか」とぼくは言った。「一晩中続けられるなんてすごい曲だね」
 八重山は海に背を向け、ぼくの横で石の手摺にもたれてしゃがみ込んでいた。背中を丸めて銀縁眼鏡を膝に押し当てながらぐったりしていた。
「この曲は一度始まったら二度と終わらないんだ」と彼は言った。
「終わらない?」とぼくは言った。
「きみの中でずっと鳴り続けるよ」と彼は言った。
「そうかなあ」とぼくは言った。
 ぼくは自分の中の音に耳を澄ましてみた。何も聞こえなかった。
「そのうちわかるよ」と八重山は言った。「いろんな音が地下水脈みたいにきみの中を流れて、ある日突然溢れ出してくるから。これからはどんな曲がきみの中で鳴っても、それは『セルフレス』なんだ」
「そうか」とぼくは言った。

 ぼくは自分が完全に解放されているのを感じた。『セルフレス』を演奏していたときの快感は消えることがなかった。小説はますます快調に書くことができたし、勉強は授業をぼんやり聴いてるだけで何もかも理解できた。一度読んだり見たり聴いたりしたことは二度と忘れなかった。それは一九六八年の始めから少しずつ表れていた兆候だったが、ここにきてはっきりひとつの力のかたちをとり始めていた。すべては八重山との出会いから始まったことだ。ぼくはそれを改めて強く感じた。ぼくを解放したのは彼だったのだ。

 ぼくはときどき急に三つの音が頭の中で鳴っているのに気づくようになった。それは『セルフレス』を演奏したとき、八重山が最初にくれた音の組み合わせに似ていた。授業中、ぼくは小さく声に出してみた。
「フンフンフン」
「何か言った?」と隣のやつがぼくにきいた。
「フンフンフン」とぼくは歌った。
「フンフンフン」と彼も歌った。
 その日一日、彼はぼくの顔を見るたびに、「フンフンフン」と歌った。そのたびに三つの音の組み合わせは変わっていた。彼の頭の中で音が鳴り続け、勝手に変化しているのだった。
 放課後、別のやつが擦れ違いざまに「フンフンフン」と歌うのを聴いた。どこに行っても誰かが「フンフンフン」と歌っていた。
「なんてこった」とぼくは言った。それから心の中で「フンフンフン」と歌った。
 ぼくは校庭で、別のクラスのやつが下級生を前にして「フンフンフン」と歌っているのを見掛けた。気がつくとそこら中で、いろんなやつが「フンフンフン」と合唱していた。
ぼくはちょっと不安になって八重山を探した。彼は校舎の裏で何人かの上級生を集めて「フンフンフン」と歌っていた。
「これでいいのかな?」とぼくは言った。
「わからない」と彼は言った。「でも、もう止められないよ」

 その週の終わりには、どの教室でも「フンフンフン」の合唱が聴こえた。授業中に全員
が立ち上がって「フンフンフン」と歌い出すクラスもあった。教師たちは朝礼で、「変な鼻歌はやめるように」と注意した。
 みんなはすぐに授業中「フンフンフン」と歌うことをやめた。総愛学院の生徒は全般的に従順だったからだ。それでも休み時間や放課後にはどの教室でも「フンフンフン」がかすかな地鳴りみたいに響いていた。神経を尖らせた神父たちは校舎を絶えず見回るようになった。彼らは授業中だけ「フンフンフン」が止めばいいと考えていたわけじゃなかった。自分たちの知らないところで生徒が「フンフンフン」とやっていることさえ許せなかったのだ。彼らは漠然と不安を感じていた。ローマ・カトリック教会の伝統を受け継ぐ彼らは、人間を解放するものに対してとても敏感だった。

「やめさせてくれないかな?」と神崎神父が言った。
「何を?」とぼくはきき返した。
 彼はニヤッと笑って黒い皮の手袋を外した。懐かしい彼の鉄の手が現れた。訓育室の壁には何十もの義手が並んでいた。黒っぽいのや青みがかったのやら、素材の金属によって微妙に色が違っているのが変にきれいだった。
「とぼけるなよ」と彼は言い、ぼくの首を鉄の手で掴んだ。「おまえと八重山がからんでることはわかってるんだ」
「ウップ」
とぼくは言い、素直にそれが『セルフレス』という八重山の新曲で、特に決まったメロディもリズムもなく、絶えず変化しながら人から人へ伝わっていく性質を持っていることを話した。神崎神父の鉄の手が恐かったからだ。
「詳しいことは八重山にきかないとわからないけど」とぼくは言った。
言いながら、自分が八重山を裏切ってるような気がした。
「あの化け物は逃げちゃったよ」と神父は言った。「すばしこいやつだからな」
「あいつは病気なんです」とぼくは言った。
「そりゃそうだろう」と神父は言った。「今度やつを退学処分にするつもりだよ」

 そんなわけで、八重山は退学になった。表向きの理由は『セルフレス』を学校中に広めたからではなく、未成年のくせにジャズ喫茶で金を稼いだり、酒を飲んだりしたことだった。万引きや無銭飲食やつり銭泥棒や婦女暴行やトルコ風呂通いはまったくとがめられなかった。
 なぜだろう?
 知らなかったからだろうか? そんなことはない。八重山がそういうことをしているのは、神戸中の誰もが知っていた。
 たぶん神父たちは彼のそういう大胆さを恐れていたのだ。彼らにはあんまり大胆な罪からは反射的に目をそらす癖があった。

 シュテルマッハー校長は、処分が発表される前に彼を校長室に呼び出して引き止めようとした。八重山みたいなピアニストを簡単に手放すのは惜しいような気がしたからだ。
「変てこな音楽をやめて、クラシックのピアノに専念すると誓ってくれたら、退学は取り消してもいいんだけどね」と校長は言った。
「あんたこそうちの姉貴に変なことするのはやめてくれないかな」と八重山は言った。
「変なことなんてしてないよ」と校長は笑いながら言った。
「おれだって変なことはしてないよ」と言って八重山も笑った。
「惜しいね」と校長は言った。「こんなに早く人生を踏み外すなんて」
「余計なお世話だよ」と八重山は言った。「おれはあんたの抑圧を発見したんだ。安っぽいいかさまの手口もね」
 八重山はだだっ広い校長室を見回した。壁という壁からたくさんの鹿の首が突き出していた。校長の大きな仕事机の後ろには、十メートル四方もある巨大な彼の肖像が掛かっていた。それはシルクスクリーンで刷られた絵で、もちろんアルパイン作だった。
「きみは自由について勘違いしてるんだ」と校長は言った。「自由はとても恐いものなんだ。ほとんど病気と言っていいほどね。ときには死ぬことだってある」
「ああそうかい」と八重山は言った。
 それだけ言うと、彼はさっさと部屋から出ていった。
「つらくなったら戻っておいでよ」と校長が彼の背中に声をかけた。「いつでも温かく迎えてあげるからね」
 八重山が学校に来たのはそれが最後になった。

「これからどうするの?」とぼくはきいた。
「別に」と八重山は言った。「今まで通りさ。また神戸でピアノを弾くよ」
「ぼくはきみを裏切らなかったよね?」
「もちろん」彼はちょっと笑い、眼鏡の奥でウインクして見せた。「おれたちはいつでもいいコンビだったよ」
「これからもだろ?」とぼくは言った。
「これからもさ」と彼は言い、またちょっと笑った。心をなごませてくれるような、いい笑顔だった。
「『セルフレス』を神戸で弾くの?」とぼくはきいた。
「正確に言うと、『セルフレス』を神戸にばらまくってことになるね」
「いつやるの?」
「まだ日程は決まってないんだ」
「決まったら教えてくれよ」とぼくは言った。「きっと行くから」
 彼はちょっと悲しそうな顔をしてぼくを見た。それから、
「きみはもうどこにいても『セルフレス』に参加してるんだ」と言った。「でも、決まったらきっと教えるよ」
 それは嘘だった。
 彼はぼくに日程を隠していた。そのときすでに彼は十月八日に例のジャズ喫茶で『セルフレス』を発表することになっていたのだ。ぼくはそのことを後から知った。どうして彼は嘘をついたんだろう? やっぱりぼくが『セルフレス』のことを神崎神父に喋ってしまったからだろうか?
 いや違う。もっと別の理由があったはずだ。彼はすでにそのとき様子が変だった。

「ぼくはもうすぐ死ぬんだ」と彼は言った。
「おやおや」とぼくは言った。冗談だと思ったのだ。
 ぼくらはそのとき地下広場にいた。彼は小さな自分のアップライト・ピアノで静かなバラードを弾きながらぼくに病人じみた笑顔を見せていた。冷凍鹿たちがぼくらを見ていた。アフリカの夏の間にアルパインが作った冷凍鹿は、彼が入院してしまってからもそのまま地下広場に置かれていた。彼らは八重山のピアノを取り巻くように、何重にも並んでいた。一番奥には元祖冷凍鹿がいた。彼は無表情な目でぼくらを見つめていた。
「きみに一度話しておこうと思ったんだけど」と彼は言った。「もう姉貴とやっていいよ」
「なんだって?」とぼくは言った。
「もうぼくに遠慮しないで姉貴とやっていいよ」彼は一言一言はっきり区切りながら言った。まるで日本語がよくわからない外国人に話しかけるみたいに。
「姉貴とやりたくない?」と彼は言った。
「やりたいよ」とぼくは答えた。ほんとはやりたいかやりたくないかよくわからなかったのだが、そのときはやりたいと答えなきゃいけないような雰囲気だったのだ。
「ぼくに遠慮してたんだろ?」と八重山は言った。
「まあね」とぼくは言った。そう口に出してみると、ほんとにそんな気がした。
「ぼくもほんとは姉貴とやりたくてしょうがなかったんだ」と彼は言った。
「おやおや」とぼくは言った。
「つまりぼくは死神に取り憑かれたわけさ」
「きみは欲望とタブーを取り違えてるよ」とぼくは言った。「人間は気が弱くなると禁止されてることを欲望の対象と勘違いするんだ。ぼくはそれがやりたいんだ、でも、それは禁止されてるんだ、なんて具合に悩み出して、結局人間を縛ろうとする卑怯者の手に落ちていくんだよ。そんなことはきみだってわかってたはずじゃないか」
「ああ、わかってたよ」と彼は言った。「でも彼女は特別なんだ。ミチコはぼくにとって特別な女なんだよ」
 彼の眼から涙がこぼれたかと思うと、頬のあたりで凍って小さな真珠になった。真珠は凍った床に落ちて跳ねながら軽い音を立てた。それはぼくの頭の中で鳴っていた三つの音によく似ていた。

               ★

 校誌に掲載される予定だった『菜の花の家』が、突然掲載拒否にあったのも同じ週だった。
「これはおまえが書いたのか?」と、国語の教師でもあり新聞部の顧問でもある河原神父が新聞部のルームでぼくにきいた。新聞部というのは学校新聞と校誌を編集しているクラブのことだ。
「ええ」とぼくは言った。
「もう誰かに読ませたのか?」
「いえ、まだ」とぼくは言った。
 ほんとはミチコや八重山や結城に読ませていたのだが、そういうことはなんとなく言いづらい雰囲気だった。河原神父がなんだか汚らわしいものでも見るような目でぼくと原稿を代わる代わる見ていたからだ。
「この小説のことは忘れろ」神父はそう言って、原稿を一枚一枚細かく破っては屑箱に捨て始めた。
「あああ」とぼくは言った。
 頭の中では河原神父を殴り倒して原稿を奪い返すところを想像していたが、実際にはただ呆然と突っ立って、次々と紙吹雪になっていく原稿用紙を見つめているだけだった。
 なぜだろう?
 たぶんその頃の総愛学院では、神父を殴るなんて考えられないことだったからだろう。それにぼくは "A Tale of A Little Thief" があまりにもやすやすと成功をおさめたので、第二作がこんなひどい目に遭うとは予想もしていなかった。だから、目の前で行われてることがどんなことなのか、すぐにはピンとこなかったのだ。ぼくは空想癖が強くて、目の前の現実には敏捷に対応できないたちの子供だった。
 そんなわけで『菜の花の家』の原稿はあっさり紙吹雪になってしまった。もっともそれはこの作品のほんの書き出しの部分で、病気の兄が死んで、兄嫁と弟がセックスしようとして失敗するところで終わっていた。しかも、河原神父に見せるために清書した原稿だったから、元原稿のほうはまだノイマン屋敷に保管されていた。つまり、紙吹雪になってしまっても、原稿の内容が失われたわけではなかったのだ。しかし、ぼくは作品が否定され、拒絶されたことにショックを受けていた。それは初めての経験だった。
「どうしてこんなものを書いたんだ?」と河原神父はひどい悪戯をした生徒を叱るような口調で言った。「こんなもので一体何が言いたかったんだ」
「書きたかったのは自由と抑圧の問題です」とぼくは言った。
 河原神父の眉毛が片方だけ大きく吊り上がった。
「なんだって?」
「自由と抑圧の⋯⋯」
「馬鹿を言うな」神父は突然立ち上がって怒鳴った。「子供に自由と抑圧がわかってたまるか」
 ぼくは黙って神父の顔を見上げていた。たやすく反論できそうな気もしたが、何から話していいかわからなかった。話が通じるという自信もなかった。ぼくは架空の読者を想定しながら書く作家だった。話の通じない相手に語りかけるのは苦手だった。
「元気を出せ」最後に河原神父は急ににっこり笑ってぼくの肩を叩いた。「おまえは才能があるんだ。またいいものが書けるさ。ちょっと何を書いていいかわからなくなっただけだよ。子供だから仕方ないさ。なんて言ったかな、あの英語の小説みたいなのを書けよ。
ああいう美しい物語を」
「ええ、まあ、そのうち」とぼくは言った。ぼくの頭の中には、どうして "A Tale of A Little Thief" が美しくて、『菜の花の家』が美しくないのかという疑問が渦を巻いていた。しかし疑問は一言も口から出てこなかった。

「ひどいな」とヒューストンが言った。
 ヒューストンというのは新聞部の部長だ。別に外国人じゃない。ヒューストンというのはあだ名だ。本来、歳から言えば高等部の三年になっているはずだったが、二度留年しているのでまだ一年だった。それでも年齢のせいで生徒たちからも教師からも一目置かれていた。勉強はできなかったが、文学に関しては学校の誰よりも詳しいという噂だった。《ヒューストン》というあだ名がどうしてつけられたのかはよくわからない。みんながそう呼んでいたのだ。もしかしたら落第するときの音を表現した言葉なのかもしれない。当時はアメリカの人工衛星の打ち上げ基地もヒューストンにあった。
「ひどいじゃないですか」とヒューストンは河原神父に言った。神父が原稿を紙吹雪にし終わったときだ。
「そうかい」と河原神父が言った。
「これは画期的な作品ですよ」とヒューストンはごみ箱の中を指差しながら言った。「この作品に比べたら、今まで校誌に載せてきた小説は子供の作文です」
「画期的ねえ」と河原神父は言った。
「こういう時代ですからね」とヒューストンは得意げに言った。「うちの校誌も画期的な小説を載せるべきなんですよ」
「画期的⋯⋯」と河原神父は繰り返した。
 ぼくは横で聞いていて首のあたりが痒くなるのを感じた。なぜだろう? たぶんヒューストンの喋り方が変だったからだ。彼はしきりに画期的という言葉を使ったが、それを「ガキテキ」と発音した。神父はそのたびに「カッキテキ」と訂正したが、ヒューストンは構わず「ガキテキ」と繰り返した。きっと彼は子供のうちにこの言葉を間違って覚えてしまい、そのまま「ガキテキ」と発音するものだと思い込んだまま高校まできてしまったのだろう。ぼくにはそれがなんとなく悲劇的なことのように思われた。
 なぜだろう?

「まかせとけ」とヒューストンは河原神父が行ってしまってからぼくに言った。「きみの小説はちゃんと校誌に載せてやるからな」
「大丈夫ですか?」とぼくは言った。
「まかせとけ」とヒューストンは言った。彼は浅黒い顔に焦げ茶色の縁のすごく高そうな眼鏡をかけていたし、表情はとても知的で大人びていた。彼に「まかせとけ」と言われると、なんとなくもう安心という気がした。なにしろ彼はもう三年も新聞部の部長を務めていたのだ。
「見てろよ。河原を大衆団交で吊るし上げてやるからな」ヒューストンは楽しそうに笑った。
「タイシュウダンコウ」とぼくは呟いた。
 そのときぼくは大衆団交がどういうものなのか知らなかったのだ。
「今夜、大衆団交をやるんだ」とヒューストンは言いい、愉快そうに笑った。「教師を全員集めてな。もう校庭三十周とか便所掃除とか海軍兵学校みたいな制服とはおさらばさ。明日からビートルズみたいな恰好で登校できるんだ」
「ふうん」とぼくは言った。
《ビートルズみたいな恰好》という表現からぼくが連想したのは、アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のジャケットに写っている彼らの恰好、黄色とか赤とか青のけばけばしい軍服みたいな服装だった。

 ぼくはその夜、大衆団交を見にいった。校舎の最上階にある大教室に高等部のほとんどの生徒が集まっていた。
 一九六八年の高校生の間では、大衆団交が流行っていた。ロングヘアの禁止とか、制服制帽の着用とか、学校帰りの飲食の禁止とか、当時の総愛学院は生徒を規則でがんじがらめに縛っていたのだが、高校生たちはこうした規則を廃止して、生徒の自治を学校に認めさせようとしていた。もっとも、そういうことがわかったのはもっと後のことだ。そのときのぼくはただぼんやり大教室の中を覗いていただけだった。高等部の連中は中等部を子供扱いしていたので、ぼくらは中に入れてもらえなかったのだ。
 中等部の生徒が他にも数人、窓の隙間から覗いていた。彼らは中等部の中でもわりとませた連中で、大衆団交で何かが変わることを期待していた。
 大教室の中は眩しい光が溢れていた。中の高校生はみんな立ち上がって腕を振り回しながら何か叫んでいた。 
 ぼくには彼らが「ガーガーガーガー」と言ってるように聞こえた。
「ガーガーガーガーガーガー」
 高さ一メートルほどの大きな教壇の上には神崎神父と訓育生たちが立っていた。ほかに神父たちはいなかった。神崎神父は片目をくすぐったそうにつぶりながらにやにや笑っていた。訓育生たちは神父の後ろで腕を後ろに組み、脚を少し開き、真っすぐ前を向いたまま動かなかった。彼らはいつもの服装、つまり白いトレーニング・パンツに白い襟なしのワイシャツ、白い運動靴といった白ずくめの恰好をしていた。頭は特に念入りに刈り上げて、ほとんど禿げ頭みたいになっていた。
 高校生たちは一時間ほど「ガーガーガーガー」と叫んでいた。
「ガーガーガーガーガーガーガーガーガーガー」
 それから気の短い連中が一人二人と教壇の上に飛び上がり出した。彼らは神崎神父に掴みかかりながら、「ガーガーガーガーガー」と叫んだ。すぐに後ろに並んでいた訓育生たちが彼らを神父から引き離し、おなかを蹴ったり後頭部を殴ったりしておとなしくさせた。席にいる生徒たちは相変わらず手を振り上げて「ガーガーガーガー」と言っていた。教壇に上がろうとする生徒はあとを断たなかったが、みんな一人か二人ずつ上がっていくので、簡単に訓育生に押さえられてしまった。春からの訓練が訓育生を鍛えていた。彼らは一発のパンチや膝蹴りで、簡単に相手を気絶させることができた。
「ばかだなあ」とぼくの横で中を覗いていた中等部の生徒が言った。「もっと大勢で一度にかかっていけばいいのに」
 彼は廊下の窓を大きく開けて、教壇に向かって「ガーガーガーガー」と叫んだ。
「よせよ」と彼の横にいた別の中学生が言った。「見つかっちゃうじゃないか」
「かまうもんか」と最初の生徒が言った。「あんなやつら、恐くないよ」
 ぼくは大教室の真ん中あたりにヒューストンがいるのを見つけた。彼は他の生徒と同じように立ち上がって腕を振り上げながら「ガーガーガーガー」と叫んでいた。ぼくは騒音の中で、彼がぼくの作品を擁護し、校誌か学校新聞に連載するよう求める言葉を聞き取ろうとした。しかし、ぼくの耳には「ガーガーガーガー」という声しか聞こえなかった。
 そのうち神崎神父と訓育生たちは、教壇から降りて廊下に出てきた。高校生たちの何人かが彼らを行かせまいとして出口に立ちふさがったが、あっさり腹を蹴られて廊下にはじき出された。
「やあ、来てたのかい」と神崎神父がぼくを見つけて声をかけてきた。同時に鉄の義手が伸びてきて、ぼくの首を掴んだ。とたんに金属の冷たい感触がぼくの全身にしみわたった。
「今晩は」とぼくは言った。
「きっと来てると思ったよ」
 神父はそう言いながらちょっとうれしそうに笑うと、あっさりぼくの首から手を離して行ってしまった。ぼくは呆然と彼と訓育生たちを見送った。ふと気がつくと、ぼくの足元にはさっき教室の中に向かって「ガーガーガー」と叫んでいた中等部の生徒が蹲っていた。訓育生に殴られたのだろう。教室の中では高校生たちがまだ「ガーガーガーガー」と叫んでいた。
 その晩の大衆団交はそれでおしまいだった。
 一九六八年の総愛学院で開かれた大衆団交もそれが最後になった。

 大衆団交が行われたのは土曜日の夜だった。そして月曜日の朝、ぼくが登校すると、高等部の生徒たちが運動場を走らされていた。頭は訓育生と同じようにツルツルに剃られていた。全員が素っ裸で、四列従隊を組み、おちんちんをブラブラさせながら走っていた。大衆団交に参加した連中だった。ヒューストンも列の後ろのほうで、頭から湯気を立て、息を切らしながら走っていた。校舎の前で、大衆団交に加わらなかった高校生たちが、やや蒼ざめた顔で笑いながら見物していた。彼らはその日夕方まで運動場を走らされていた。多分百周以上しただろう。
 それが大衆団交の結末だった。

「大丈夫ですか?」とぼくはヒューストンに声をかけた。
 夕方の新聞部の部室で、彼は椅子を三つ並べてその上に死んだように横たわっていた。頭を剃った彼はなんとなく壇家の奥さんとセックスした後の坊さんみたいに見えた。
「心配するな」彼はぼくの声を聞くと、バネ仕掛けのおもちゃみたいに元気よく起き上がった。
「一体あれから何があったんです?」
「まあ、色々さ」彼は悪びれずに言った。
「色々⋯⋯」とぼくは呟いた。
 彼が案外ケロッとしてるので、ぼくは安心すると同時にちょっとがっかりした。なんとなく真剣みが足りないような気がしたからだ。
 土曜日の大衆団交の後、学校は高等部の生徒の親に電話をかけ、日曜日に全員を学校に呼びだした。神崎神父は彼らに、息子たちの頭を丸坊主にしろ、さもないと退学にするぞと脅した。親たちはびっくりして飛んで帰り、息子たちを丸坊主にしてしまった。そして息子たちは月曜日の朝、一時間早く登校させられ、素っ裸で走らされるはめになったというわけだ。
「心配するな」とヒューストンはまた力強く言った。「それよりきみは小説を書けよ。こんなことくらいで挫けちゃだめだ」
「ええ」とぼくは言った。「でも、校誌に乗せるのはもう無理でしょうね?」
「そんなことはないよ。この次はやつらをねじ伏せてやる」
「大丈夫ですか?」
「まかせとけ」ヒューストンは軽く胸を叩いて笑い、また椅子の上に横になった。
「もっと大勢で一度に飛び掛かれば訓育生なんて簡単にやっつけられたのに」とぼくは言った。
「そうか」と言いながら、ヒューストンはまた勢いよく起き上がった。「それは気づかなかったな」
「そうでしょう」とぼくは言った。「一度に飛び掛かるにかぎりますよ」
「そうだな」とヒューストンは言った。
 しかし、すべてはそれでおしまいだった。
 結局、高校生は二度と大衆団交を開こうとしなかったし、『菜の花の家』は校誌に掲載されなかった。

              ★

 十月に入ると、六甲山に冷たい霧雨とホイップクリームみたいな霧が戻ってきた。天気の悪い日には運動場も校舎も一日に何度となく霧に覆われ、一メートル先も見えなくなった。窓の外一杯に広がっていた神戸の街のパノラマは白い闇の中に飲み込まれてしまった。ホイップクリームの霧の中では、よく生徒たちが走らされていた。授業中の雰囲気がだらけているとか、朝礼のときの態度が悪かったといった理由で⋯⋯。それは春から途絶えていた習慣だった。どうしてそれが突然復活したのかよくわからない。高等部の生徒たちが大衆団交の直後に坊主頭で走らされてから、神父たちはかつての自信を取り戻したのかもしれない。特に神崎神父は見違えるように元気になっていた。
「ほら見ろ」と彼は廊下ですれちがったとき、ぼくに言った。「いつかはこうなると思ってたんだ」
「こうなる」とは、また生徒を好きなときにいじめることができるようになるという意味だ。
「やれやれ」とぼくは言った。
 それでも、こんなふうになったことを、みんなそれほど不思議なことだとは感じていなかったような気がする。ぼくらは毎日のように校庭を何十週も走らされるようになったが、すぐに慣れてしまった。子供は新しい習慣にすぐ馴染む。ましてほんの半年ほど中断していた習慣なら、なおさらのことだ。ぼくらは再び校庭を走るようになって、懐かしい感覚が蘇ってくるのを感じた。体を冷たい水でごしごし洗われるような感じだ。総愛学院に半年でも通ったことがある人間なら誰でも知っている。この感覚に馴染むのに時間はかからない。そして、いくら長い期間忘れていても、すぐに思い出すことができる。
 なぜだろう?
 ぼくらはすぐに春以来この習慣が途絶えてしまっていたことすら忘れてしまった。
 なぜだろう?
 ぼくらはショート・パンツ一枚の裸、それも裸足で冷凍庫みたいに冷たいきりの中を走らされていたが、それが馬鹿ばかしくて惨めなことだとは誰も感じていなかった。
 なぜだろう?

 一九六八年の秋の霧はとりわけ濃厚だった。洞窟の中の空気のように冷たくて、かすかに果物の匂いがした。ぼくらの学年はとりわけしょっちゅう裸で校庭を走らされたので、ぼくらのからだは生クリームと果物の匂いがした。
 ぼくらはホイップクリームの霧の中をカサカサ音を立てながら走った。カサカサという音は半分凍った裸足のステップの音や、霧に紛れて交わされるヒソヒソ話の声だった。ときどきからだとからだがこすれあうシュッシュッという音も聞こえた。霧で一メートル先も見えないので、どうしても互いにぶつかってしまうのだ。それからもっと大きなプシュップシュッという音が聞こえることもあったが、これはからだとからだが激しくぶつかったり、躓いて倒れたり、倒れたやつにまた躓いて倒れたりするやつらの立てる音だった。
 プシュップシュッという音が聞こえたら、ぼくらはやたらとピョンピョン跳びはねなければならなかった。倒れたやつに躓かないようにするためだ。跳びはねると、着地したときに倒れてるやつを踏んづけてしまうこともあったが、何十人も将棋倒しになるのを避けるためには、とにかく跳ぶしかなかったのだ。
 プシュップシュッという音とともに、ホイップクリームの霧の中からイチゴのトッピングソースみたいなものが流れてきて、アイスクリームみたいに凍えているぼくらのからだにふりかかった。それは倒れたやつの鼻血だった。これもちょっと懐かしい匂いだった。
 一九六七年の秋からぼくは何度となくこの赤いソースを浴びていたからだ。

 霧の中で神崎神父がマイクを通して喋る懐かしい声が聞こえた。
「逃げるなよ」と彼は言った。その声は校庭のあちこちに取り付けてあるラッパ型のスピーカーから流れて、ゆっくりと水の波紋みたいに濃い霧の中を広がり、あちこちの山の尾根にぶつかってはこだまになって戻ってきた。「逃げるなよ。逃げても、逃げても、無駄だからな、無駄だからな。おれは、おれは、いつでも、いつでも、おまえたち、おまえたちを、見張ってるからな、見張ってるからな。どんなにどんなに霧が霧が深くたって深くたって、おれには、おれには、おまえたちが、おまえたちが、はっきり見えるんだ、はっきり見えるんだ」

 ぼくは一九六七年の秋みたいに霧に紛れて隊列からこっそり離れた。校庭のまわりには一九六七年の秋みたいにカーネル・サンダース人形にそっくりのコッホ神父の人形が並んでいた。それは一九六七年のはりぼてより数段精巧にできていた。もちろんそれはアルパインが神父に進呈した偽のカーネル・サンダース人形だったが、進呈したあとアルパインはそれをコッホ神父人形だと主張していた。まあ、コッホ神父はカーネル・サンダースにそっくりだったから、どっちでも同じことなのだけれど⋯⋯。ぼくはそのコッホ神父人形を蹴り倒して庭園まで走った。もうこの手の子供だましに怯えるような年ではなくなっていたのだ。この一年でぼくはいろんな経験を積んでいた。秋の山の静けさも、冷たい雨や霧も去年そのままだったが、ぼく自身はすっかり変わっていた。自分が何者なのかはわからなかったが、自分が変わったことだけははっきり感じていた。
 ぼくの後ろではまだ神崎神父の「逃げるなよ。おれはおまえたちをちゃんと見ているぞ」と言う声が反響していたが、誰も追い掛けては来なかった。ホイップクリームの霧の中で逃げる生徒を見つけるなんて、本当はできるはずがないのだ。「おまえたちをちゃんと見てるぞ」というのも、カーネル・サンダース人形と同じ子供だましの脅しだった。ぼくはもう神父たちの手口を知り抜いていた。

 ぼくは庭園の斜面を駆け下り、洞窟の入り口の一つに潜り込んだ。中には冷凍鹿や冷凍カラスがたくさん置いてあったが、夏みたいにヒッピーたちが暑さを避けてたむろしてるということがなかったので、楽に歩くことができた。しかもカラスもカチコチに凍っていたが、洞窟の中の空気はホイップクリームの霧の中より少し温かかった。
「ああ」とぼくは言った。
 洞窟の中で「ああ」という声が幾重にもこだまして響きながら消えていった。それはまるで冷凍カラスが鳴いてるみたいだった。ぼくはひとりぼっちだった。すごく孤独だった。
 ぼくは八重山のピアノと元祖冷凍鹿がいる地下広場に行った。そこには相変わらず何十頭もの冷凍鹿がピアノと元祖冷凍鹿を何重にも囲んで坐っていた。まるで彼らがコンサートの客で、これから元祖冷凍鹿がピアノの独奏をやるみたいな感じだった。ぼくは入り口にもたれて、ぼんやりと待っていたが、もちろんいつまでたっても演奏は始まらなかった。
「何か弾いてよ」とぼくは元祖冷凍鹿に言った。「できればバラードか何かを」
「おれはピアノが苦手なんだ」と鹿が言った。「なんなら自分で弾いたらどうだい?」
 ぼくはピアノのところへ行き、冷えきった手で『コートにすみれを』を弾いた。一九六八年の秋から一年かかってマスターした曲だ。八重山が弾くバラードの中でぼくが一番好きだった曲だ。彼は自分で弾くときみたいにブロックコードでメロディの一音一音を支える弾き方ではなく、ぼくにも弾けるようなやさしいアレンジを考えてくれたのだ。
『コートにすみれを』はマット・デニスが一九四一年にトミー・ドーシー楽団のために書いた曲だ。このとき歌ったのは、当時この楽団の専属歌手をしていたフランク・シナトラだった。作詞はトム・アディアで、ニューヨークの冬の恋を歌っている。
 真冬のマンハッタンで、男は買ってきたすみれの花を彼女の毛皮のコートにさしてやる。十二月だというのに、彼らのまわりだけはまるで春が来たように温かくなる。雪がちらちら舞い落ちてきて、すみれの花びらの上にかかってはすぐに溶けていく。彼女が男にやさしく微笑みかけ、男は自分たちが完璧な恋の中にいることを知る⋯⋯。そんな内容のラブバラードだ。
 二十年後に、晩年のビリー・ホリデイがこの曲を吹き込んでいるが、そこでは歌詞の男と女が逆になっている。
 そしてその少し前、一九五七年にジョン・コルトレーンは初のリーダー・アルバムでこの曲を吹いている。ピアノは当時マイルス・デイビス五重奏団で同僚だったレッド・ガーランド。一九六八年の春に八重山の家で初めて聴いてから、この曲はこの年のぼくのテーマ曲になった。夏のように暑かった春にも、アフリカみたいに暑かった夏のあいだもずっと、ぼくの耳の底にはこの曲が流れていた。そして冷たい雨と霧の秋になって、ますますぼくは耳の底でこの曲を聴くようになっていた。完璧な恋を歌ったバラードなのに、ぼくにはこの曲がなぜか遠い過去に失われた恋を歌っているように感じられた。それは歌詞がすべて過去形になっているからだろうか? 多分それだけじゃないだろう。メロディにもかけがえのないものが失われてしまったときの孤独が漂っている。ぼくは『コートにすみれを』を何度も弾きながら、自分の孤独をかみしめていた。もう八重山も結城もそばにいなかった。

 その頃、結城とはもうほとんど口もきかなかった。別に喧嘩したわけじゃない。ただ、ぼくのほうで彼と話すのが苦痛になったのだ。彼のほうは、毎日教室で顔を合わせるたびに、ぼくに笑いかけたり、小さく手を振ったりした。彼はアフリカの夏に起こったことをなんとも思っていなかったのだ。
 彼は運動部の連中と夏休みにものにした女の子たちのことを話し合っていた。その大半はでたらめか、かなり誇張された手柄話だったが、結城の顔にはほんとに女の子とやったという誇りと余裕が表れていた。もう誰も彼を女の子みたいに扱わなかった。
 ぼくのほうはそのことでひどく傷ついていた。だから彼の目を見つめたり、笑顔を見せたりできなかった。ぼくには彼がすぐそばにいること自体がとてもつらいことになっていたのだ。

              ★

「結城とはどうして別れたの?」とぼくはマリコにきいた。
 一九八八年のことだ。
「市民プールであなたがわたしからあの人を取ろうとしたからよ」と彼女は答えた。
「悪かったね」とぼくは言った。「でもそれは一九六八年の夏の話だろ。ぼくが言ってるのは結婚したときのことさ」
「なんだ」とマリコは言って、ちょっと笑った。「あの人は男らしくしようと努力してたけど、わたしにはそれがとても気詰まりだったのよ。たぶんあの人にとってもすごく息苦しかったと思うわ」
「そうか」とぼくは言った。
「でも、あの人はいい人だったわ」と彼女はつけ加えた。「今でもたぶんいい人よ」
「そうだね」とぼくは言った。

            ★

「へたくそ」と元祖冷凍鹿が言った。
 一九六八年の地下広場でのことだ。ぼくは飽きもせずに繰り返し『コートにすみれを』を弾いていた。元祖冷凍鹿がそう言わなかったら、朝までだって弾いていただろう。
「しょうがないよ」とぼくは手を止めて元祖冷凍鹿に言った。「ぼくは八重山じゃないんだから」
「人には役割ってものがあるんだよ」と元祖冷凍鹿は言った。「おまえの仕事は小説を書
くことじゃなかったのか?」
「書いてるよ」とぼくは言った。
「どんな小説だ?」
「『菜の花の家』っていうんだ」
「題名がよくないな」と元祖冷凍鹿は言った。「『天使よ、故郷を見よ』みたいな気のきいたタイトルを考えたほうがいいぞ」
「考えてみるよ」
 ぼくはピアノ越しに元祖冷凍鹿をじろじろ眺めた。オルガンみたいに小さいアップライト・ピアノだったから、椅子にかけたままでも向こうがよく見えたのだ。元祖冷凍鹿は去年からずっと同じ位置に蹲っていた。ピアノから数メートル離れて、いくつか抜け穴のあいた岩の壁を背にして坐り、四本の足を優雅に折り曲げて、長い首をピンと立てて、黒いガラスみたいな眼でぼくを見つめていた。ときどきかすかな風が穴のどこかから吹き込んできて、ぼくの鼻をくすぐった。元祖冷凍鹿は黴の臭いがした。
「さみしくない?」とぼくはきいた。
「さみしいよ」と元祖冷凍鹿は答えたが、その声はカークパトリック神父の声に似ていた。「永遠にそこに坐ってるつもり?」とぼくはきいた。
「できればそうしていたいけど、無理だろうね」と元祖冷凍鹿がカークパトリック神父の声で言った。「おれは校長に飼われてる家畜なんだ」
「きみは夢を見てるんだよ」とぼくは言った。「夢から覚めなきゃいけないよ」
「わかってるさ」と元祖冷凍鹿がカークパトリック神父の声で叫んだ。「自分の力で覚めることができるものなら覚めてみたいよ」
 ぼくは立ち上がって身を乗り出し、ピアノの向こう側をのぞき込んだ。カークパトリック神父の声がピアノのすぐそばで聞こえたからだ。
 神父はそこにいた。ピアノにもたれかかり、膝を抱えてしゃがみ込んでいた。隠れんぼで隠れたままみんなに忘れられてしまった子供みたいだった。
「先生」とぼくは言った。

 カークパトリック神父に会うのは久しぶりだった。新学期が始まってから、一度も英作文の授業に出てこなかったからだ。カークパトリック神父は病気だという発表があり、別の神父が代わりに授業をやっていた。
「おれはすっかりどうかしちまったよ」と言いながらカークパトリック神父は立ち上がった。「魂を吸い取られちまったんだ」
 彼のからだはミイラみたいに痩せこけていて、立ち上がるときカサカサと音がした。二百年前の葡萄酒の壜みたいに強烈な黴の臭いがした。彼はもう神父の服装をしていなかった。神父の服というのは黒い上着に黒いズボンに黒いシャツに白い付け襟のことだ。真夏にはグレーのズボンに白いシャツを着ることもあったが、正装はあくまで黒ずくめに白カラーだった。ところがそのときのカークパトリック神父は汚れたブルージーンズのパンツに茶色と赤のチェックの綿シャツを着て、カウボーイ・ブーツをはいていた。アメリカの落ちぶれた農場主といった感じだった。ずいぶん老けて見えた。
「先生」とまたぼくは言った。「しっかりしてよ。一体どうしたっていうのさ?」
「何度も言わせるなよ」と神父は言った。「おれは死神に取り憑かれてるんだ」
「死んじゃやだよ」とぼくは言った。「あの小説を出版してくれるって約束したじゃないか」
「安心しな」と神父は言った。「あの原稿はもう上智大学の語学実験室に渡ってるんだ。おれが死んじまっても本は出るよ」
「そう」とぼくは言った。「そりゃよかった」
 実のところ、ぼくはちっともうれしくなかった。ぼくが言いたかったのは、本が出るかどうかじゃなかったからだ。ぼくは半分あの世に足を踏み込んでしまったカークパトリック神父を引き戻したかったのだ。
「先生はもう一度生きるべきなんだよ」とぼくは言った。
「もうだめさ」と神父は言った。それからぼくの顔をじろじろ見ながら薄笑いを浮かべた。変な笑い方だった。「おれは恐いんだよ。自由ってやつがね。校長にしっかり首を掴まれてるんだ。おまえには見えないだろうけど、おれのここには校長のつけた首輪がしっかりはまってるんだよ」そう言いながら彼は自分の首を精一杯伸ばし、喉仏のあたりを指差して見せた。彼の喉は皺だらけだった。だぶついた皮が赤茶けて、剥いだ後の鹿の腹の皮みたいだった。
「一体何があったの?」とぼくはきいた。「夏のあいだずっと見てたんだ。先生は校長や八重山のお姉さんと一緒に毎日何かしてただろ? 一体何をしてたのさ?」
「言えないよ」神父はさみしそうに笑った。「校長に怒られるからね。最近の校長はすごく厳しいんだ」

「ひどいな」とぼくは言った。「先生はそんな人じゃなかった。夏までの先生はもっと勇気があって、ちゃんとしてたじゃないか」
「大人を信用しちゃいけないよ」と神父は言った。「大人ってやつは平気で子供に嘘をつくんだ。自分が人間の屑のくせに、子供の過ちは大威張りで怒鳴りつける。それもこれも臆病だからさ」
「そうだったのか」とぼくは言った。「じゃ、さよなら」
 ぼくはピアノから離れた。神父と元祖冷凍鹿からゆっくりと離れた。彼らと反対側にあいている穴からノイマン屋敷に続く地下通路に入ろうとした。
「行っちゃうのかい?」と神父が言った。
「うん」ぼくは彼のほうをちょっと見た。神父は不安そうな顔をしていた。
「いやに冷たいじゃないか」神父は酔っ払ってるみたいな顔でぼくを睨みつけながら笑っていた。
「用事があるんだよ」とぼくは言った。
 それは嘘だった。ぼくは校庭三十周の罰から裸で逃げ出してきただけで、これからどこへ行こうという予定はなかった。ただそれ以上カークパトリック神父を見ていたくなかっただけだ。彼は変わってしまっていた。すっかりボロボロになってしまっていた。当時の彼の歳に近くなって、自分もボロボロになりかけている今なら話は別だが、一九六八年のぼくはまだ十五歳で、人間の堕落とか衰弱、疲労といったものにひどく冷淡だったのだ。
 ぼくはそのときもうそれ以上彼と話していることに耐えられなかった。
「彼女に会いにいくんだろ?」と神父は言った。
「そうだよ」とぼくは言った。《彼女》というのはミチコのことだ。ぼくはそのときまでミチコに会いにいこうなんて考えていなかったが、そう言われてみると、ノイマン屋敷に行ってみるのも悪くないんじゃないかという気がした。
「よろしくいってくれよ」と神父は言った。
「わかったよ」とぼくは言った。
「どうせ、今夜会うだろうけどね」
「さよなら」とぼくは言い、地下通路から摩耶山へ続く谷間の斜面に出た。

            ★

 霧はきれいに晴れていた。谷間の木立の中はヒッピーたちでごった返していた。相変わらず焚き火をたいて夕食を作っている連中もいたが、中にはテントをたたんでる連中や、大きな荷物を背負って山を降りていく連中もいた。
「どうしたの?」とぼくは言った。
「見りゃわかるだろ」とヒッピーの一人が言った。「山を降りるのさ」
「どうして?」
「もうこの山はキャンプを張るには寒すぎるんだよ」
「これからどこにいくの?」

「街に出てみるよ。街は燃えてるって噂だからね」
 ぼくらのいる場所からはわずかに神戸の海べりのあたりが見えるだけだったが、それでも街のところどころでオレンジ色の火が焚かれているのが見えた。
「どうしたんだろう?」とぼくは言った。
「火を焚いてるのさ」とヒッピーが言った。
 若い連中が街のいたるところで焚き火をしているという噂だった。焚き火の火は確かに街のネオンの明かりとはまるで違う色をしていた。金色や、それよりやや濃いオレンジ色の細かな光の点が星のように輝いていた。彼らは街の角という角で焚き火をして車の流れを止めていた。火のまわりには何十人、何百人という人間が集まって火を眺めていた。
 最初はほんの数人が歩道の角のところで小さな紙屑を燃やすのだ。そのうち板切れやたくさんの紙屑を持った人たちが一人二人とやってくる。火はだんだん大きくなって、四つ角あるいは信号のある大きな交差点の真ん中へと広がっていく。交通が遮断されるが、別に問題は起こらない。文句を言いに車から降りてきたドライバー、ライトバンで品物を納品に行く営業マン、九州や四国や東北まで荷物を運ぶ途中のトラックの運転手なども、喋っているうちに次々と焚き火に加わっていく。
 そんな噂だった。
「一体何が始まったの?」とぼくはきいた。
「さあね」とヒッピーが言った。
「歌をうたってるらしいよ」と別のヒッピーが言った。
 そういう噂だった。
 神戸の街では角という角で何十何百という人が集まって火を焚きながら歌をうたっていた。そして六甲山の谷間では、ヒッピーたちの約半数が山を降りて焚き火と歌に加わろうとしていた。
「どんな歌?」とぼくはきいた。
「さあね」とヒッピーが言った。「いろんな歌さ」

 ノイマン屋敷はひっそり静まり返っていた。あたりはもう薄暗かったが、どこにも明かりひとつついていなかった。若いアーティストたちは一人もいなかった。アルパインが行ってしまってから、みんな山を降りていったのだ。ヒッピーたちの噂ではアーティストたちの多くはやはり神戸で焚き火に加わってるということだった。
 ミチコは二階のサンルームにいた。部屋は外と同じくらい薄暗かったが、真ん中に彼女が座り込んでるのはよく見えた。真夏にいつも着ていた白いベアトップの部屋着を着ていたからだ。サンルームには一面に平たい小石が敷き詰められていた。ゴキブリの子供みたいに小さな石だった。ツルツルした感触がぼくの凍えた足の裏には心地よかった。
 ミチコは少し伸びた髪を揺するようにときどき首を振りながら、小石を一つずつ口に放り込んでいた。
「待ってたのよ」と彼女は言った。それから石をコリコリと噛んだ。
「なんだか恐いんだ」とぼくは言い、彼女にからだをくっつけるように座り込んだ。
「女の子みたいなこと言わないの」と彼女は言い、ぼくの凍えたからだを裸の腕で抱き寄せた。彼女の腕はすごく柔らかく、羊の内臓みたいに温かかった。
「食べる?」と彼女は言い、床に積もった小石を一すくいしてぼくに差し出した。
 小石は南国の甲虫みたいに白い縦縞模様がついていた。ぼくは首を横に振った。ミチコはいくつか小石の皮を剥き、細かい中身をぼくの鼻の下に差し出した。小石の中身はゴキブリの赤ちゃんみたいに小さかったが、クルミを噛んだときのような香ばしい匂いがした。ミチコの手のぬくもりと彼女独特の淡い草の香りが一緒にぼくの鼻の下で揺れていた。
「ヒマワリの種よ」と彼女は言った。
「ヒマワリ?」とぼくはきいた。
「ヒマワリよ」と彼女は言った。
「ヒマワリだ」とぼくは言った。

 サンルームの床一面に厚く敷き詰められていたのはヒマワリの種だった。そうとわかった瞬間に、部屋一杯にアフリカの夏の匂いが蘇ってきた。ミチコは夏の終わりに一人で枯れたヒマワリの花を刈り、巨大な花の残骸から無数の種を集めたのだった。種は彼女がすっぽり入ってしまうほど大きな篭に何杯も取れた。彼女が大きなフライパンでていねいに煎ると、それは香ばしい真夏の匂いを屋敷中に振りまいた。過ぎ去ったアフリカの夏を偲ぶために、彼女はそれをサンルーム一杯に敷き詰めた。
「全部一人でやったのよ」と彼女は言い、ぼくの口にヒマワリの種の中身をまとめて放り込んだ。ぼくはそれをコリコリと噛んだ。脂っこい甘い味が口一杯に広がった。
「口一杯の真夏だ」とぼくは言った。
 ヒマワリの種を噛み締めながら、ぼくは過ぎ去ったアフリカの夏を味わい、窓の外に広がる茶色い草の海を眺めた。それはミチコに首を刈られたヒマワリの茎の海だった。巨大な葉っぱも、人間より高かった茎も、今では惨たらしく黒ずんでばらばらに倒れていた。
「アフリカの夏が消えちゃった」とぼくは言った。
 口の中で噛みしめていたヒマワリの種があっというまに噛み砕かれ、喉の奥に流れて消えてしまったからだ。
「平気よ」とミチコは床からまたヒマワリの種をすくいながら言った。「ここにはいくらでも真夏があるんだから」
 ぼくも床から種をすくって一つ一つ皮を剥き、口の中に放り込んだ。またつかの間の夏が戻ってきた。ミチコはアフリカの夏を口の中で噛みしめながら、たっぷりした部屋着の裾を持ち上げて、ぼくの冷えきったからだにすっぽりとかぶせ、自分も肩と腕と首をその中に潜り込ませてきた。白く柔らかい木綿の部屋着は小さなテントみたいにぼくとミチコを包み込んだ。部屋着の中は彼女のからだのぬくもりで温かかった。彼女は半分凍っているぼくのからだを抱き寄せ、自分のむいたヒマワリの種を次々とぼくの口にねじ込んだ。
母鳥からエサをもらう雛みたいにぼくは大きな口をあけてアフリカの夏のかけらをぱくついた。

「種をとるのは大変だったのよ」と彼女は言った。
「誰も手伝ってくれなかったの?」
「アーティストたちが山を降りちゃったからね」と彼女は言った。「最近はあなたも弟も来てくれなかったし⋯⋯」そう言いながら彼女はちょっと笑った。まるで何か楽しい冗談を言ったみたいだった。
「学校で毎日走らされてるんだ」とぼくは言った。「秋だからね。八重山は学校をやめちゃったし、結城は女の子のことばかり話してるし⋯⋯。さみしかったけど、ここに来る時間がなかったんだよ」
「ここは真夏よ」とミチコは言い、かたちのいい胸をぼくの方に押しつけながら笑った。
 彼女の部屋着の中はとても明るかった。ぼくはショートパンツ一枚だったが、彼女も部屋着の中は淡い玉子色の小さなパンティをはいてるだけだった。ぼくらは部屋着のテントの中で頬っぺたをくっつけ合いながら子供みたいに笑った。彼女のからだはかすかに夏の花の匂いがした。朝露をたっぷりのせたグラジオラスやホウセンカの匂いだった。
「頼むから教えてよ」とぼくは言った。「毎日学校で何をしてるの?」
「毎日なんか行ってないわ」と彼女は言った。「ときどき行くだけよ」
「嘘だ」とぼくは言った。「そういうごまかしにはもう耐えられないよ。ぼくはこのままじゃ死んじゃいそうなんだ」
 ぼくはミチコの痩せた腕を掴んだ。
「痛い」と彼女は言って、かすかに笑った。「わたしはとてもこわれやすくできてるのよ。わたしを殺したいなら首を絞めてくれない?」
「ぼくはきみが学校に何をしに行くのか知りたいんだ」とぼくは言った。
「知ってるくせに」と彼女は笑いをこらえているような、高く澄んだ声で言った。鈴がコロコロと鳴るような声だった。
「知らないよ」とぼくは言った。「きみは学校に来るときはぼくと顔を合わせないようにしてるじゃないか」
「わかってた?」彼女はまたそう言ってコロコロと笑った。コロコロコロコロ⋯⋯。
 彼女は秋になって学校が始まってからも毎日総愛学院にやってきていたが、ぼくは彼女がいつやってくるのか、学校のどこで何をしているのかまるでわからなかった。いつも、「八重山のお姉さんが来てたぜ」という生徒たちの囁き声で、彼女が来ていることを知るのだった。秋になって総愛学院からどんどん自由な空気が失われていったので、ぼくは思うように学校の中を歩き回って彼女を捜すことができなかった。どこを歩いていても必ず訓育生が後ろをついてきて、まだ行ったことのない場所に踏み込もうとするたびに呼び止められた。それを無視しようとすると便所掃除の罰を食らうのだ。

「痛いわ」とミチコは言いながらコロコロと笑い続けた。
「訓育生たちはいつもこんなふうにぼくを扱うんだ」とぼくは言った。
「そう?」と彼女は言った。「ひどいわね。コロコロコロコロ⋯⋯」
 ぼくは彼女の腕を背中にまわしてねじりあげていた。
「コロコロコロコロ」と彼女は言った。「ああ⋯⋯コロコロコロコロ」
「教えてくれよ」とぼくは言った。
「いいわ」と彼女は言った。
 ぼくは彼女の手を放した。
「よおく聞いてね」と彼女はぼくの目をのぞき込みながら言った。彼女の瞳の中には裸のぼくがいた。「わたしが学校でしてるんじゃなくて、シュテルマッハーがわたしにしてるのよ」
「校長はきみに何をしてるの?」
「ノイマンが母にしていたことよ」と彼女は言った。
「そうか」とぼくは言った。「やっぱりね」
 そんなことはとっくの昔に知ってたような気がした。秘密というのはそういうものだ。

            ★


「ノイマンは彼女のお母さんに何をしていたの?」とマリコがぼくにきいた。
「『菜の花の家』の中で、屋敷を借りていたドイツ人が兄嫁にしていたことさ」とぼくは言った。
「『菜の花の家』の中でそのドイツ人は彼女に何をしていたの?」
「言えないよ」とぼくは言った。
「どうして?」とマリコは言った。
「あまりにもひどいことだからさ」とぼくは言った。
「それじゃあなたもほかの人と一緒じゃない」と彼女は言った。「たとえそれがどんなにひどいことでも、それが必要なら小説家は読者に知らせるべきなのよ」
「そうだね」とぼくは言った。「だからぼくは『菜の花の家』にはそのことを書いたよ」
「でも、あなたはその小説を見せてくれないじゃない」
「見せたじゃないか」
「一部分だけよ。全部は見せてくれてないわ」
「まだ完成していないからね」
「嘘」とマリコは言った。「あなたは十五歳のときに直視できたものから、三十五歳になって目をそらそうとしてるのよ」
「ごめん」とぼくは言った。「『菜の花の家』を好きなだけ読んでいいよ。でも、これはほんとに特殊な季節の特殊な精神状態で書かれた作品なんだ」

 そうぼくは書いた。

            ★

 ぼくらはミチコの部屋で『菜の花の家』の校正をやった。彼女がいつも午後のお茶を飲む丸テーブルには校正刷りが山のように積まれていた。ぼくが書いた原稿を彼女は片っ端から印刷工場に渡していたのだ。ぼくはそのときまで彼女がただ原稿に目を通して保管しているだけだと思っていたので、校正刷りの山にはびっくりしてしまった。
「ああ」とぼくは言った。「まだ色々直したいところがあったのに」
「いくらでも直していいのよ」と彼女は言った。「そのための校正刷りなんだから」
 ぼくは赤インクのボールペンで校正の余白に修正を入れていった。それは修正というより際限のない加筆だった。一ページの文字数はあっというまに倍以上に膨れあがった。
「これじゃ印刷屋が怒っちゃうよ」とぼくは言った。
「平気よ」とミチコが言った。「印刷屋はお金さえ払えば何度でも校正を出してくれるわ」
「ぼくにはそんなお金はないよ」とぼくは言った。
「わたしは持ってるわ」とミチコが言った。「社長だもの」

 ぼくは自分の小説が活字になっているのを見て興奮していた。それは初めての経験だった。まだ "A Tale of A Little Thief" は本になっていなかったから、出版されていたら『菜の花の家』が実際にはぼくの最初の本ということになっただろう。
 出版されていたら⋯⋯。

 ぼくは校誌に載ることになっていた『菜の花の家』の最初の部分が、河原神父にどんなふうに扱われたかをミチコに話してやった。
「それはひどいわね」と彼女は言い、コロコロと笑った。
 笑いをこらえるような笑い⋯⋯。
「もしかして」とぼくは言った。「もう、とっくに知ってた?」
「いいえ」と彼女は言った。「コロコロコロコロ」
「嘘つき」とぼくは言い、また彼女の腕を掴んだ。
「ごめんなさい」と彼女は言った。「学校で起こったことは大体知ってるわ。特にあなたに起こったことは全部。コロコロコロコロ⋯⋯」
 それでぼくは納得がいった。彼女はぼくの『菜の花の家』が校誌に載る前に紙吹雪になってしまったのを知って、自分の手で自費出版してやろうと考えたのだ。

 そのときぼくが校正刷りに書き加えたのはノイマンのことだった。それまでこのドイツ人は物語の中でほとんど何の役割も果たしていなかった。ただこれといった収入のない兄嫁と弟が、生活費稼ぎのために屋敷の中央部分を貸していたドイツ人商人として、ちょっと触れていただけだった。ノイマンがナチスの将校だったとわかるのはドイツの敗戦の直前だ。四月二十九日。この日の夜、というより三十日の未明、ノイマンは屋敷に火をつけて姿を消した。この日の午後、ベルリンでヒトラーとエヴァ・ブラウン、というより二十九日にヒトラーと結婚したヒトラー夫人が地下司令部で自殺した。ゲッベルスは同僚たちと一緒にヒトラー夫妻の死体をガソリンで焼いた。マルチン・ボルマンは行方をくらました。
 四月三十日にはいろんなことが起きる。一九四五年のベルリンも、一九七五年のサイゴンもこの日に陥落した。
 そんなわけでノイマンがノイマン屋敷と呼ばれるようになる前のこの屋敷に住んでいたのはごくわずかの期間だった。『菜の花の家』の第一稿で、ぼくはノイマンが兄嫁と弟にしたこと、つまり彼女の母と父にしたことについてほとんど触れていなかった。ミチコが話してくれなかったからだ。彼女が書いた論文のプロローグにも、ノイマンはあまり登場してこなかった。本格的なノイマン研究を展開すべき本編はついに書かれなかった。
「わたしは才能がないから」と彼女は言った。「ノイマンについて書く前に息切れしちゃったのね」
「そうか」とぼくは言った。
 それは嘘だった。
 彼女はノイマンについて、特にノイマンが彼女の両親にしたことについて書くことを恐れていたのだ。それがほかでもない、彼女にその論文を書かせることになった動機でもあるのだが、それは同時に彼女にとって触れるのが恐い題材でもあった。つまり彼女は自己矛盾の中で立ちすくんでいたのだ。
 もっとも、一九六八年のぼくはそこまで彼女を理解してはいなかった。彼女の気持ちを理解するようになったのはつい最近のことだ。それがぼくに『マイ・フェイヴァリット・シングズ』を書かせることになったのだ。

 そんなわけでぼくは校正に赤を入れながら、一九四四年の秋から四五年の春にかけて、この屋敷で何が行われていたかをミチコから聞き出した。聞き出しながら、それを『菜の花の家』に書き加えていった。話を聞き出すのにはずいぶん苦労した。ミチコが話したがらなかったからだ。
「話してくれなきゃ書けないよ」とぼくは言った。
「そうね」と彼女は言った。「わかってるわ」
「ほんとは話したくないんだ」とぼくは言った。
「そんなことないわ」と彼女は言った。「話したいけど恐いのよ」
 ときどきぼくは腹を立てて彼女の手首を掴み、軽くねじり上げたりした。
「痛い」と彼女はか細い声で言い、コロコロコロと笑いながらくるりと後ろを向いた。そして「言うわ」と彼女は言った。「言うからこの手を放して」
 それは嘘だった。
 ぼくは彼女の手を放して赤いボールペンを握り、辛抱強く待ったが、彼女は何も話さなかった。落ち着きなく指先を唇に当てたり髪を撫でたりするだけだった。細い指が震えていた。
「話してよ」と言いながらぼくはまた彼女に手を伸ばした。
「痛い」と彼女は言った。
 そして目を固くつぶったままポツリポツリと話し始めた。話はぼくの手が彼女に触れている間だけ続いた。手を放すと彼女の話も止まった。接触の悪いスイッチみたいだった。
 そんなことが幾晩も続いた。

           ★

「それはリッキーがジェーンにしたことじゃないの?」とマリコが言った。
「そんなことはないよ」とぼくは言った。
 つい今朝がたのことだ。ぼくはマリコにせがまれて、ぼくがノイマン屋敷でミチコにしたことについて話していた。
「嘘」とマリコは言った。いつになくきつい声だった。
「ごめん」とぼくは言った。「確かにきみの言う通りだよ。でも、そんなにひどいことはしてないんだ。ちょっとだけ、彼女がかすかに痛みを感じる程度に軽く触れただけで」
「あなたもやっぱり死神に取り憑かれていたのね」
「そうだろうね」
「それはリッキーを殺した死神と同じなんじゃない?」
「そうだろうね」
 ぼくらはベッドの中にいた。寒い朝だったが、羽毛布団にもぐっていたからからだは暖まっていた。ぼくは冬用の分厚いネルのパジャマを着て天井を向いていた。マリコはぼくに腹ばいの姿勢でからだをくっつけていた。彼女は何も着ていなかった。裸でないと熟睡できないタイプなのだ。彼女の体温はいつもぼくより高い。彼女がからだをくっつけてくると、ぼくはからだ中が温まってよく眠れる。
「あなたはわたしにも同じ事をしたいのにがまんしてるのかしら?」とマリコは言った。
「ぼくはもうそんなことしたくないよ」とぼくは言った。「ぼくは死神とおさらばしたんだ。ずいぶん長くかかったけどね」
「わたしはまだ死神を飼ってると思う?」
「たぶんね」
「追い出せるかしら?」
「たぶんね」
 ぼくらは朝早くにこうやってベッドの中で会話する。夜寝る前よりは頭が冴えているし、ベッドの外では話しにくいことも気軽に話せるからだ。なぜだろう?
 お互いの顔を見つめずにすむからかもしれない。それから軽くからだを触れ合わせていられるからかもしれない。
「それがノイマンのした事なのね?」とマリコは言った。
「そうだよ」とぼくは言った。
「それが毎日総愛学院で、八重山ミチコにシュテルマッハー校長とカークパトリック神父がしていたことなのね?」
「そういうことだよ」とぼくは言った。「意味的にはね」

          ★

「大丈夫」とノイマンはドイツ訛りの日本語で言った。「夏にはすべてが終わります。そうしたら弟さんと結婚なさい。あなたならきっと幸せになれるでしょう」
「ああ」とミチコは言った。「ああ、痛い」
「あなたの国は呪縛されているんですよ」とノイマンは言った。「わたしの国と同様にね。もっともドイツ帝国は間もなく消え去ることになるんですが⋯⋯。自由が訪れるでしょう。自由と昼が。わたしは死の世界に逃げることになる。元々夜の世界の住人ですからね。自由は恐ろしい快楽です。ほとんどの人間が自由のために自分を失い、腐っていく。まもなくこの国にも自由が蔓延するでしょう。そのときのためにわたしはあなたがたにその恐ろしい時代の生き延び方を教えてあげようというわけです」
「ああ」とぼくが言った。「行かないで。ぼくらを見捨てないで」
「心の中に神をお持ちなさい」とノイマンは言った。「神の手がいつでもあなたたちをこうして掴んでいる。そのことを忘れなければ、この世に恐ろしいことは何もありません」
「ああ」とぼくらは言った。「ああ、痛い」
 ぼくらはノイマンを通して神の手がぼくらに触れていることを感じていた。神の前で跪くのはすごく気持ちがよかった。不安が消えた。窓の外はオレンジ色の海だった。真夜中の、明かりひとつついていない神戸の闇を、春の山焼きのように明るいオレンジ色の火が覆っていた。街の上空に陽炎が渦を巻いていた。街全体が海流を通して見る透明な海の底のように揺れていた。
 ぼくらはサンルームにいた。ぼくとミチコのからだは五十センチほどしか離れていなかったが、ふたりともからだ全体をきつく固定されていたので、お互いに触れ合うことはできなかった。
「ああ」とぼくは言った。「ああ、姉さん」
 ノイマンの手はぼくの首に深く食い込んでいて、ぼくはほとんど息ができなかった。意識がだんだん朦朧としてきたが、からだ中に幸福感が溢れていて、自分がまるで果汁たっぷりの果実になったみたいな気がした。
「このまま死にたくないかね?」とノイマンがぼくに言った。
「はい」とぼくは言った。「殺してください」
 ほんとにそのときはこのまま死にたいと思ったのだ。死はそれまで思い描いていたようなものではなかった。死は充実であり、快感だった。
「あなたも死にたい?」とノイマンがミチコに言った。彼のもう一本の手は彼女の首に食い込んでいた。
「はい」と彼女は言った。「ああ、でも、もう少しだけ生かしておいてください。一度も彼と愛し合わずに死ぬのはあまりにも悲しいから」
「なるほど」とノイマンは言った。彼はぼくらの首から手を離した。
 それがぼくらの結婚式だった。一九四五年四月のことだ。


              ★

「ミチコ?」とマリコが言った。
「うん」とぼくは言った。「それがミチコと八重山のお母さんの名前だよ」
 ぼくらは『菜の花の家』のページをめくっていた。それが一九六八年の秋にノイマン屋敷で校正をやりながら書いた部分だった。舞台はノイマン屋敷と呼ばれる前のノイマン屋敷で、中央部分にはノイマンが住んでいた。空襲で焼けていく神戸の街を見下ろしながら、毎晩ノイマンがミチコと八重山の両親に何をしていたのか、ぼくはそのとき初めてミチコから聞き出すことができた。聞き出すためにはノイマンが彼女の両親にしていたことを、ぼくが彼女にしてやらなければならなかった。つまりぼくは彼女から聞き出す前に、答えを自分で見つけていたのだ。
 どうやって答えを見つけたんだろう?
 わからない。でも、ごく自然に見つかったのだ。
「どうして《ぼく》なの?」とマリコがぼくの顔をじろじろ見ながら言った。「どうしてこの主人公だけほんとの名前を使わなかったの?」
「それはほんとにぼくだからさ」とぼくは言った。「意味的にはね」

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