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ぼくらはノイマン屋敷のサンルームにいた。窓の外はオレンジ色の火が春の菜の花畑のように広がっていた。神戸の街のネオンはついさっきまでよく晴れた夜空の星のように闇を埋め尽くしていたのだが、今では春の山焼きのような火が街全体を覆っていた。
「きれいだね」とぼくはミチコに言った。
「ああ」とミチコは言った。「きれい」
藍色の夜が摩耶山と屋敷の庭を浸していた。サンルームの中もすみれ色の闇が夜の水槽みたいに部屋中を満たしていた。ミチコのからだは淡いオレンジ色に染まっていた。彼女の膝の下で、床に敷き詰められたヒマワリの種がギシギシと鳴った。彼女は窓際に膝をついて街の火を眺めていた。彼女はとてもきれいだった。ぼくが「きれいだね」と言ったのは彼女のことだったのだ。
ぼくはいつもここで原稿を書くときに使う丸テーブルに肘をついて、『菜の花の家』の校正刷りに赤インクのボールペンで挿入部分を書き加えていた。ノイマンがミチコの両親にしたことについて⋯⋯。彼女はぼくの手に促されて少しずつ喋った。ぼくはほとんど速記者のように彼女の言葉をそのまま書き取っていた。喋っているあいだずっと彼女は窓の下に広がるオレンジ色の神戸を見下ろしていた。ぼくの手が、あるいは足先が伸びてきて、かすかな痛みを感じさせるときだけぼくのほうを向いた。向きを変えるたびに彼女の膝がヒマワリの種を踏み締め、ギシギシギシギシと音を立てた。ぼくはテーブルの上の小さな蝋燭の光で赤い文字を書き続けていた。蝋燭のオレンジ色の光に照らされた赤ボールペンの赤い文字はとても見づらかったが、ぼくはほとんど文字を見ていなかった。ぼくはミチコをずっと見つめていた。ミチコは小さな蝋燭の弱々しい光の輪の外にいて、窓の外の神戸の街を覆っているオレンジ色の光でぼんやりと輝いていた。ぼくはずっと彼女だけを見つめていたくて、彼女にずっと手を触れていた。彼女があまりの痛さにか細い声で悲鳴を上げても、ぼくの手は彼女から離れなかった。
「あああ」と彼女は言った。「ああああああああ⋯⋯」
ぼくがあんまり長い時間触れていると、彼女はもう一九四五年の春にノイマンが彼女の母にしたことについて語れなくなった。ぼくは赤インクのボールペンを右手で握ったまま彼女の言葉を待っていたが、彼女の口はもう言葉を語らなかった。彼女はぼくの左手を神の手のように愛していた。
「ノイマンの手ね」と彼女は後になって言った。
「ぼくの手だよ」とぼくは言った。
「わたしはノイマンを見つけたわ」
ぼくらは何日もそうやって過ごした。ぼくは昼も夜もぶっ続けに『菜の花の家』の加筆校正をやり、ときどき死んだように眠った。ミチコはぼくの手の要求に応じて、知っていることを話したり、必要な資料を引っ張りだしたり、ぼくが新しく書いた部分を読んで意見を述べたりした。食事を作ったり風呂を沸かしてくれたりもした。ぼくは彼女がそばにいないと不安だったので、たえず校正刷りと赤ボールペンを持って彼女の後をついて回った。彼女が一階の厨房で料理を作っているあいだはそこのテーブルで書き、彼女が洗濯をしたり風呂を沸かしたりするときは洗面所の壁にもたれて書いた。
「サンルームに戻ったら?」とミチコは言った。「そんなことしてたら落ち着いて書けないわよ」
「きみがいなくなるんじゃないかと心配なんだよ」とぼくは言った。
「馬鹿ねえ」と彼女は笑いながら言った。「こんな恰好じゃどこにもいけないわよ」
彼女はおどけて両腕を広げて見せた。そう。彼女は冷凍庫みたいな寒さの中でパンティ一枚しか着けていなかった。ぼくがそうさせたのだ。彼女がこっそり総愛学院に行かないように⋯⋯。ぼくはその頃とても疑り深くなっていた。
「どこにも行かないでくれよ」とぼくは彼女に言った。
「どこにも行かないわ」と彼女は言った。
それは嘘だった。
次の日の午後、ミチコのベッドの上でうたた寝から目を覚ますと、窓の外に谷間の斜面を上ってくる彼女の姿が見えた。
「どこに行ってたの?」とぼくはきいた。
「散歩してたのよ」と彼女は言った。
「嘘だ」とぼくは言い、彼女の腕と首を掴んだ。「学校に行ってたんだろ?」
「ごめんなさい」と彼女は言い、喉の奥でコロコロコロと笑った。
ぼくは彼女の首に縄を結び、もう一方の端を自分の手首に結び付けた。彼女が屋敷のどこにいても、縄を引っ張れば彼女がやってくるという仕組みだった。お陰でぼくはサンルームで原稿を書き、彼女は屋敷の中を自由に歩き回って家事をすることができるようになった。ノイマン屋敷はとても広かったので、縄はとても長くなった。ぼくはちょっと不安を感じるたびに思い切り縄を引っ張った。彼女はフライパンや掃除用のモップを持ったまま、引きずられるようにやってきた。
「ああ苦しかった」と彼女はうれしそうに言った。「死ぬかと思ったわ」
「どこにも行かないでくれよ」
「どこにも行かないわ」
それは嘘だった。
ある日の夕方、ぼくは大きな肉切り包丁を持って谷間を駆け降りていく彼女を見た。縄は首から五十センチのところで切られていた。
「誰か彼女を捕まえてくれ」とぼくは谷間に向かって叫んだ。
「よしきた」と何人かのヒッピーが答えた。
その頃、谷間からはかなりの数のヒッピーたちがいなくなっていたが、まだところどころに彼らのテントが残っていた。男のヒッピーたちが木立の中でミチコにタックルした。彼らはみんなずっと彼女にタックルしたいと思っていたのだ。彼女は生け捕りにされた鹿みたいに無言で手足をバタバタさせていた。
「ごめんなさい」と彼女は迎えに行ったぼくを見上げながら言った。
「やれやれ」とぼくは言い、彼女を引きずるようにして屋敷に戻った。
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束の間の眠りの中でぼくはよく夢を見た。一番よく覚えているのはカークパトリック神父が死ぬ夢だ。
ぼくは地下の階段を何時間も降りて、体育館みたいに広い部屋に着いた。地底のはずなのに、部屋の南側には巨大な窓が並んでいて、神戸の夜景がそのむこうに広がっていた。街も港もオレンジ色の火に覆われて、空に低く垂れこめた雲までが金色に光っていた。部屋には一面にソファや低いテーブルが置かれ、大勢の人がトランプをやったり雑談したり酒を飲んだり食事をしたりしていた。空気はひどく濁っていた。土埃みたいな黄色い霧がうっすらとかかっていて、何もかもが古代遺跡みたいだった。
「どうして地下から神戸が見下ろせるんだろう?」とぼくは呟いた。
「だってここは山なのよ」とぼくの横でミチコが言った。
「そうか」とぼくは言った。
彼女はヒマワリ色のパンティをはいていた。それだけしか着ていなかった。首には途中で着れている縄が巻き付いていて、手には大きな肉切り包丁を持っていた。ぼくは薄汚れたショートパンツ一枚の裸だった。校庭を走らされてる途中で抜け出してきたらしい。
「やあ」と部屋の真ん中あたりでシュテルマッハー校長が立ち上がってぼくらに手を振りながら言った。そのコーナーにはコッホ神父やカークパトリック神父もいた。
「校長だ」とぼくは言った。
「ノイマンよ」とミチコが言った。
校長に似たノイマンはグレーのズボンに白い開襟シャツを着ていた。口には黒っぽいパイプをくわえていたが、これだけが校長らしくない点だった。神父は煙草を吸わないからだ。ノイマンは北アフリカで休暇中のドイツ軍将校といったリラックスした態度でぼくらをソファに座らせた。向かい側でコッホ神父がきれいな顔だちの男の子の手を軽く握りながら話をしていた。少年はぼくより年下で、やはり白いショートパンツ姿だった。たぶん中等部の一年生で、夕方、運動場を走らされていたのだろう。カークパトリック神父だけがソファの後ろに立っていた。彼も開襟シャツを着ていたが、二人のドイツ人ほどリラックスしてるようには見えなかった。彼はぼくと目を合わせないようにしていた。あるいはミチコと⋯⋯。腕を後ろに組んで、絶えず遠くのほうに目をやっていた。
「ノイマン男爵です」と校長に似たノイマンがぼくに言った。校長と同じくらいうまい日本語だった。
「男爵⋯⋯」とぼくは言った。貴族というのを初めて見たので珍しかったのだ。
「本来ならライン川沿いの古城を相続して、農場と飛行機のエンジンメーカーを経営しているはずだったんですが、若気のいたりで間抜けな気違い集団に味方したために、こうして極東の地で朽ち果てようとしているわけです」とノイマンは言った。
「なるほど」とぼくは言った。ほんとはもっと他のことが言いたかったのだが、うまく言葉にならなかったのだ。ぼくにとって意外だったのは、ノイマンがナチスのことを《気違い集団》と呼んだことだ。
ぼくのすぐ後ろで生暖かい空気が動いていた。振り向くとカークパトリック神父の腰のあたりがぼくの目の前にあった。彼はうつむいたまま黙って服を脱いでいた。彼のからだはナツメグをきかせた肉料理の匂いがした。
「彼は今夜自殺するんですよ」とブランデーのグラスを胸のあたりで止めてノイマンが言った。「ねえ、そうだろう?」
「ええ」とカークパトリック神父が言った。
彼はすっかり裸になってしまった。濃い赤毛の陰毛と黒々とした大きなおちんちんがぼくの目の前にあった。ぼくは彼の顔を下から見上げたが、神父の視線は斜めにそらされていてぼくの目を見ようとしなかった。
「どうして?」とぼくは言った。
「わたしが命令したからさ」とノイマンが言った。彼は歯のない口を少し開けて、ぼくを見つめながら笑った。「わたしの命令は絶対だからね」
「どうして?」とぼくは言った。
「わたしたちがそう望んだからよ」とミチコが言った。
「うわあ」とぼくは言った。
彼女の顔が一変していたからだ。彼女の左眼が大きく外を向いていて、美しい顔だちがそれだけで不気味な爬虫類みたいになってしまっていた。
「わたしたち?」とぼくは言った。自分の全身に鳥肌が立っているのがわかった。
「わたしと彼よ」ミチコはカークパトリック神父のほうを指差した。
「なんてこった」とぼくは言った。
神父は両手を重ねて自分のおちんちんを隠しながらもじもじしていた。ぼくは彼のからだをじろじろ見た。ひどく痩せてはいたが、相変わらず胸板は厚かったし、胸も腕も足も赤い毛でびっしり覆われていた。
「さあ、そろそろやって見せてくれよ」とノイマンが神父に言った。
「はい」と神父はかすかな声で言い、ホールの壁ぎわにある一段高くなった場所に行った。そこには椅子が一脚置いてあり、天井から太いロープが下がっていた。ロープの先は輪になっていた。
彼は椅子に上ってロープの輪を首にかけた。ホールの客たちが拍手した。
「先生」とぼくは言ったが、彼はぼくのほうを見もしなかった。
ミチコはからだをねじって彼のほうを見ながら、他の客と同じように軽く拍手していた。「先生」とぼくはもう一度言った。「どうして?」
神父は椅子の上でぼんやりあたりを見回していた。拍手がやんで、奇妙な静けさがホールに漂っていた。神父は両手でロープの輪を握ったままじっと椅子の上に立っていた。
「どうした?」とノイマンが言った。「早くやれよ」
神父はノイマンのほうを見て、
「約束が違いますよ」と言った。「彼女も一緒に死ぬはずだったのに」
「心配するなよ」とノイマンが言った。「すぐ後でやるさ」
「先に行ってて」ミチコが彼に手を振りながら言った。「すぐ行くから」
まるでお姉さんが小さい弟に言ってるみたいだった。
「彼女と一緒にぶらさがるんでなきゃいやだ」神父は首からロープを外しながら言った。「こんなところじゃひとりで死ねない」
「また痛い目に遭いたいのかね?」ノイマンが立ち上がって言った。
カークパトリック神父は調教師に鞭を振るわれた動物みたいに首をすぼめて後ろを向いた。彼の背中からお尻にかけては、紫色の裂傷が無数に走っていた。中にはまだ大きく裂けて赤い傷が濡れて光っているところもあった。
「ひとりで死ぬなら誰も見ていないところで死にたい」と神父は泣きながら言った。
「しょうがないな」とノイマンが言った。「隣でさっさと死にたまえ」
神父はおちんちんを両手で隠しながらホールの隅にあるドアから出ていってしまった。客たちは口々に不平を漏らしていた。人が死ぬところを見たかったからだ。
それからしばらく沈黙が続いた。みんなグラスを固く握って唇に当てたまま、隣の部屋の物音を聞いていた。壁越しに家具を動かすような、ガタガタガタという音が聞こえてきた。物音が止まったとき、客たちはふうと息をついた。ノイマンだけが変わらないペースでブランデーを飲んでいた。禿げ上がった額に、薄くなった金色の毛が少し垂れていた。こめかみのあたりに汗の粒が浮いていた。縁なし眼鏡の向こうにある大きなブルーの目は遠くを見つめていた。その顔はずっと後になって写真で見たナチの幹部の顔に似ていた。
隣の部屋で音が消えてかなりたった。客たちは誰からともなく腰を浮かして席を立とうとしていた。天井からぶらさがったカークパトリック神父を見に行くためだ。
「先生」とぼくは叫んだ。
みんなの動きが止まった。ぼくはいつのまにか立ち上がっていた。
「行くんじゃない」とノイマンが命令口調で言った。「まだ死んじゃいないよ」
「お願いだから」とミチコが言いながらぼくの手を掴んだ。「彼の言うことをきいて」
ぼくは彼女の手を振り払い、
「先生」ともう一度叫んだ。
それから小走りに隣の部屋に続くドアのところまで行った。誰もぼくを止めなかった。
「先生?」と小声で囁きながらぼくはゆっくりドアを開いた。ドアの向こうは一メートルほど低くなった物置のような部屋で、ウイスキーやワインの樽、埃だらけの古びた家具、壊れた時計やスロットマシン、ビリヤードの台などが置いてあった。ビリヤード台の上に、天井からロープが下がっていた。カークパトリック神父の姿は見えなかった。
「先生?」とぼくはまた言った。
部屋のどこかでシューシューというガスが漏れるような音がしていた。それは天井のあたりを回っているように聞こえた。ぼくは部屋の中を隅々まで見渡した。いろんなものが雑然と積まれていたから、ぼくなら隠れようと思えばどこにでも隠れることができそうだった。でも、二メートル近いカークパトリック神父が隠れるような場所はなかった。
ぼくはビリヤード台のそばに大きな靴が揃えて置かれているのを見た。それは神父の靴だった。総愛学院にはそんなに大きな靴をはいてる神父は他にいなかった。ぼくは腰をかがめてビリヤード台の下を覗いた。もしかしたらカークパトリック神父が寝そべっているんじゃないかと思ったのだが、誰もいなかった。
シューシューという音がだんだん大きくなってきた。
「先生?」とぼくは泣きそうな声で言った。「まだ死んでないよね?」
そのときぼくのすぐ後ろでガサガサという音がした。熊が笹をかき分けて現れるときのような音だった。
「ウワア」という叫び声と一緒に、カークパトリック神父が開けっ放しになっていたドアの陰から飛び出してきた。ドスンという音がしてドアが大きく動き、ぼくは床に投げ出された。
「ウワアアアアア」と神父は叫びながらぼくに襲いかかってきた。彼の顔は一変していた。まるで西洋史の教科書の最初に出てきたネアンデルタール人のイラストみたいだった。
「うわあ」とぼくも言った。
神父はぼくの首を締めようとした。ぼくは彼の下腹を蹴った。二三度蹴りを入れると、ぼくの首を絞めていた彼の手から力が抜けた。彼の表情は憎しみに満ちていたが、明らかにぼくが誰なのかわかっていないようだった。
「先生」とぼくは叫んだ。「一体何をしてるつもりなんだよ。これがぼくの英文小説を朗読してくれたあの先生なの? ぼくには信じられないよ」
「え?」とカークパトリック神父は言った。急に自分を取り戻したみたいだった。それから照れ臭そうな顔で陰気に笑った。「そうか」と彼は言った。「坊主、おまえだったのか。おれはまた校長かと思ったよ」
「校長はどこにいるの?」とぼくは言った。
「さっき隣にいたじゃないか」と神父が言った。
「あれはノイマンじゃないの?」
「校長がノイマンなんだよ」
「なんだ」とぼくは言った。「道理で似てると思った」
「じゃあな」と神父は言い、ゆっくりビリヤード台に上がった。
「やっぱり死んじゃうの?」
「ああ。命令だからな」
「どうしてあんなやつの命令をきくのさ?」
「おまえも大人になったらわかるよ」
「そう?」ぼくは大げさに首を傾げて見せた。納得がいかないということを神父に強くアピールしたかったからだ。ぼくは授業中にもよくそんな手を使ったのだ。
「じゃあな」と彼は言い、自分の首にロープをかけた。
「死ぬのって恐くない?」とぼくはしつこく食い下がった。喋ってるかぎり神父を引き止めることができそうな気がしたからだ。
「そりゃ恐いさ」神父は笑った。「だからためらってたんだ。どうしてやつらが生きてておれだけ死ななきゃならないんだって、わかりきった疑問がまたぞろ頭をもたげてきてね」
「ほんとだよ」とぼくは言った。「どうして先生だけ死ななきゃならないのさ?」
「もういいよ」と彼は言った。「わかってるんだ。それは正しいことなんだよ。おれは死ぬべきなんだ」
「どうして?」
「命令されたからさ」
「先生は彼女を愛してた?」
「誰をだって?」
「八重山のお姉さんさ」
「ああ、たぶんね」
「じゃあ、彼女を残して死ぬのはつらくない?」
「まあつらいことはつらいよ。さっきも言ったろ? 彼女とおれは同時に殺されるという約束だったんだ」
「校長は約束を破ったんだろ? なのにどうして死ぬのさ」
「でもまあ、彼女もすぐあとから死ぬっていうことらしいからな」
「そんなのあてにならないよ。校長は約束なんて何とも思ってないかもしれないよ」
「そうかな?」神父は首のロープに手をかけて言った。
「先生だけ死なせて、彼女とうまいことやろうと思ってるのかもしれないじゃないか」
「うん、まあそれはあるな」と彼は言った。「でもしかたないよ。彼女は彼のものなんだから」
「彼女は先生じゃなくて校長を愛してるんだ?」
「そうじゃないよ。人間は誰でも支配されることが必要なんだ」
「どうして?」
「不安だからさ」
「今年、ぼくらは完全な自由を発見したんだ」
「よかったね」神父は弱々しく笑った。「おまえたちが大人になる頃には、もしかしたら世の中がガラッと変わっているのかもしれないな。そうなることを祈ってるよ」
神父は手振りでぼくにあっちへ行けと命令した。ぼくはそのまま後退りしてドアを閉めた。どうして素直に言うことをきいてしまったのかわからない。命令されたからだろうか? とにかくぼくはもう説得しても無駄だということをその仕種から悟ったのだ。
ドアごしにガタンという音が聞こえた。ロープのギシギシギシギシという音も。それから静寂がきた。ぼくは振り返ってホールの中を見渡した。みんなが黙ってぼくを見つめていた。ぼくはドアをもう一度開いた。
天井の梁からカークパトリック神父がぶらさがってゆっくりと回っていた。ビリヤードの台は一メートル以上横にずれていた。飛び降りるときに思い切り蹴ったのだろう。神父は固く目を閉じて完全に死んでいるようだった。からだがゆっくり回るに連れて、ロープがギシギシギシギシと鳴っていた。おちんちんが大きく勃起して、先から粘液が垂れていた。お尻からは赤黒い液体が流れ出て、足を伝って床に滴り落ちていた。恐ろしい臭いがした。それが死の臭いだった
ぼくは闇の中で目を覚ました。そこはミチコの寝室だった。遠くで彼女の泣き声が聞こえていた。ぼくはベッドから飛びだし、手首に結んだ縄を引っ張った。手ごたえはあった。とたんにぼくの心は喜びに満たされた。ぼくはなんとなく彼女がまた屋敷を抜け出して総愛学院に行ってるんじゃないかと思っていたのだ。
ぼくは縄を引っ張るのをやめて階段を駆け降りた。ミチコは台所にいた。全裸で、石の床の上に膝を突き、左手でおなかを押さえながら、右手で例の肉切り包丁の刃を握り締めていた。血が指の間から流れていた。
「だめだわ」と彼女は叫んだ。「自分じゃとても死ねない」
「あたりまえじゃないか」とぼくは言い、彼女から包丁を取り上げた。
傷はたいしたことなかった。おなかにはかすり傷しかついてなかったし、包丁を握っていた指のほうもそれほど深く切れてなかったので、消毒して包帯を巻いてやると、血はすぐに止まった。
「カークパトリック神父が死んだんだ」とぼくは彼女に言った。
「そう?」と彼女は言った。
ぼくも彼女も疲れきっていた。ぼくはベッドの中で彼女を抱き締めながら眠った。
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ぼくは闇の中で目を覚ました。
ミチコはいなかった。遠くから大勢の人のざわめきや楽器の演奏、グラスや食器の擦れ合う音が聞こえてきた。サンルームから長い廊下を通って中央棟に行き、階段を降りるとそこは何十ものシャンデリアが輝くノイマン屋敷の大広間だった。大勢の人が集まっていた。巨大な窓からはすみれ色の闇と神戸の街を焼くオレンジ色の火が見えた。
「やあ」とシュテルマッハー校長が言った。
「校長⋯⋯」とぼくは言った。
「わたしはノイマンだよ」と彼は言った。
部屋も客たちの様子もすべてが夢のままだった。ただカークパトリック神父とミチコがいなかった。
「あのアメリカ人なら死んだよ」とノイマンが言った。
「あんたが殺したんだ」とぼくは言った。
「自殺したんだよ」とノイマンは言った。「死にたがっていたからね」
「彼女は?」
「さあ」ノイマンはくすっと笑った。「今までいたんだけど、どこへ行ったかな? きっときみが来たんで隠れちゃったんだよ」
「出せよ」とぼくは言った。
「彼女の意志だからね」とノイマンは楽しそうに言った。「彼女はきみに自殺の邪魔をされるんじゃないかと恐れてるんだ」
「もう止めないよ」とぼくは言った。「だから出せよ」
「ほんとに?」という声がぼくの後ろで聞こえた。
振り向くとミチコがいた。さっき台所で見たときと同じように、裸で床の上に両膝をつき、眩しそうに手を額のあたりにかざしながらぼくを見上げていた。
「ああ」とぼくは言った。「もう止めないよ」
「お願いがあるんだけど」と彼女は言った。
「殺してくれっていうんだろ?」とぼくは言った。
「よくわかるわね」彼女は照れ笑いしながらいった。
「いやだよ」とぼくは言った。「ぼくはきみを殺さないからね。死にたかったら自分で死ぬんだ」
「わたしがどんなに弱い人間か、あなたさっき見たでしょ?」
ノイマンがぼくの肩を掴んだ。彼の手にはサーベルのようなものが握られていた。
「そう真剣に考えることはないよ」と彼は言った。「被害者はどこにもいないんだ」
「いやだ」とぼくは言った。「こんなのってフェアじゃない」
「なんだって?」とノイマンが言った。
「こんなのってフェアじゃないよ」とぼくは叫んだ。「彼女もあんたたちもみんな勘違いしてるんだ。こんなのって絶対にフェアじゃないよ」
「やれやれ」ノイマンは肩をすくめながらそう言うと、ミチコのそばに近づいた。
「もう一度きくけど」と彼は彼女に言った。「きみは死にたいんだろ?」
「はい」と彼女は言った。「殺してください」
ノイマンはサーベルを抜いて彼女のおなかを刺した。刃は音もなく体内に吸い込まれていった。
「あああ」と彼女は言い、サーベルの刃を両手で握り締めた。
ノイマンがさっと剣を引き抜くと、彼女のおなかからどっと血が流れ出した。彼女のからだはシュテルマッハー校長に撃たれた鹿みたいに音もなく床に崩れた。
「どう?」とノイマンが彼女に声をかけた。「後悔してるかい?」
「いいえ」と彼女はぼくらを見上げながら言った。「ありがとう。全然後悔してないわ。ほんとにありがとう」
「ほらね」とノイマンは言った。「彼女みたいなタイプの人間にとって、死ぬってことはそれほど恐いことじゃないんだ」
「あんたがそう教え込んだんじゃないか」とぼくは言った。
「まあね」とノイマンは言った。「でも、きみだって共犯だよ。きみと八重山は彼女に自由ってものの見本を要求し続けてきた。彼女は無理をしすぎたんだよ」
「そんな馬鹿な」とぼくは言った。
ミチコのからだは柔らかくねじれたまま床の上に転がっていた。彼女の目はぼくを見つめたままかすかに笑っていた。細い足が鹿みたいにゆっくり床をこすりながらもがいていた。
「見て」と彼女はぼくに言った。「わたしを見て」
「見てるよ」とぼくは言った。
「わたしって、わりときれいだったと思わない?」
「ああ、きみはいつでもきれいだったよ」
「よかった」彼女は涙ぐんでいた。「わたし、ずっとあなたたちに嫌われてたから、そのまま死ぬのは絶対にいやだったの」
「あなたたちって?」
「あなたと弟よ」
「八重山はきみのこと好きだっていってたよ。きみだけは特別の女だったって」
「ほんとに?」彼女は少し首を持ち上げながら言った。「ああ、よかった」
それが彼女の最後の言葉だった。
「ああ、よかった」
客席にはいつのまにか鹿がたくさん出てきて、通路を埋め尽くしていた。
「うわあ」とぼくは言った。「一体どうしたっていうんだ」
鹿たちはひどく臭かった。腐りかけた肉の臭いがした。それは例の地下広場で嗅いだ黴の臭いにも似ていたし、カークパトリック神父が死んだときの臭いにも似ていた。
客たちは鹿にナイフを刺して殺し始めた。鹿は逃げようともせずに次々と殺されていった。啼き声ひとつ上げなかった。
「鹿だ」とぼくは言った。「まだこのあたりには鹿がいるんだ」
「冷凍鹿だよ」とノイマンが言った。「夜になると動きだすんだ」
「どうして?」
「やつらはわたしに殺されたがってたからね。わたしに剥製にされた仲間みたいに完璧に殺されたかったんだ。それが半分死んだ状態で中途半端に冷凍されてしまって悔しい思いをしていたんだな」
「そうか」とぼくは言い、すぐそばのテーブルで皮を剥がれている鹿に、「きみたちは自由を手にいれようとは考えなかったんだ?」ときいた。
「そりゃね」と、すでに半分皮を剥がれてしまった鹿は言った。「夢を見たことはあるさ。でも所詮、夢は夢なんだ」
「それは卑怯じゃないかな」とぼくは言った。「夢からは覚めなきゃいけないよ。夢を見たまま死んでくなんてあんまりじゃないか」
「それはきみが冷凍されたことがないからだよ」と元冷凍鹿は言った。「冷凍された鹿の気持なんてきみにはわからないよ。洞窟で凍らされたまま待ってるのってすごくつらいんだ。きみだって死んだほうがましだと思うよ、きっと」
「そうかなあ」
「冷凍されてるってことは、すでに死んでるってことなんだ」とノイマンがミチコの腿のあたりを踏んづけながら言った。「ある意味では死以上に惨めな死に方で死んでるってことなんだ。だから彼女も鹿たちも早くほんとに死にたいって考えたのさ」
「彼女も死んでたんだ?」とぼくはきいた。
「そう。とっくにね」
ノイマンはミチコの腿を踏んづけながら、サーベルでお尻のあたりを軽く切った。彼女の白く透き通った肉はきれいに切れたが、もう血は一滴も流れなかった。
「そんなことして気持いい?」とぼくはきいた。
「最高だね」と彼は答えた。
「あんたは一体何者なの?」
「わたしかい? わたしはゲルマンの精霊だよ」とノイマンは肉を食べながら言った。「そしてアーリア人の神々のひとりさ。そして今はただの商人てわけだ。ほんとだよ。ビジネスは楽しいからね」
「あんたは総愛学院のシュテルマッハー校長じゃないのか?」
「まあ、そうとも言えるね」彼はうれしそうに笑いながらウインクして見せた。「有能な人間はいろんな役割を果たしてしまうものだからな」
「あんたは一九四五年の四月三十日にノイマン屋敷に火をつけて逃げたんだ」とぼくは言った。「そして国外に脱出したと見せかけて、ちゃっかり総愛学院の神父になりすましたんだ」
「まあ、正確に言うとちょっと違うけど、大体そんなところさ」と彼は言った。「でも、わたしはもともと聖職者だったんだよ。わたしの家は元々枢機卿を何人も出していてね。わたしも兄が急死して男爵家を継ぐまではほんとに修道士だったんだ」
「それからナチになったんだ?」
「そういう時代だったんだよ。子供のきみには納得できないかもしれないけどね」
「彼女の両親もあんたが殺したんだ?」とぼくは言った。
「そういうことだね」ノイマンはうれしそうに笑った。「でも、彼らだって自分からそう望んだんだ。別にわたしのほうから何かしたわけじゃないよ。彼らはただ昔を懐かしんでいたんだ」
「昔彼らに何をしたの?」
「知ってるくせに」ノイマンはウインクして見せた。「わたしは彼らに自分を殺すことの楽しさを教えたんだ」
「どうしてそのとき殺さなかったの?」
「きみは死ぬってことがまだわかってないな。人生の中で一番有意義で楽しいことは、自分を殺しながら生きることなんだ」
「じゃあどうして今度はほんとに殺したのさ?」
「彼らはきっと生きてることに疲れてたんだな」感慨深げにノイマンは言った。
八重山の両親は息子を総愛学院に入学させて初めてノイマンがそこの校長として生き延びていることを知った。懐かしさのあまり、彼らは一九四五年の春にノイマンが彼らにしたことをもう一度してくれることを望んだ。ノイマンは望みをかなえてやった。八重山夫妻はだんだん危険地帯に近づいていった。つまりほんとの死を望むようになったのだ。
「で、あんたは殺したんだ」とぼくは言った。
「ちがうよ」とノイマンは言った。「彼らはわたしに命令してもらいたかっただけさ。そしてわたしに見てもらいたかったんだ」
ノイマンは彼らに言った。「死ぬんだ、子供たちよ」
「はい」と彼らは言った。そして二人で服を脱ぎ、テーブルに上がって、それぞれ自分のおなかと喉をナイフで裂いた。その場面は『菜の花の家』では次のようになっている。
《「死ぬんだ、子供たちよ」とノイマンは言った。
「はい」とぼくは言った。
「はい」とミチコが言った。
それからぼくらは服を脱ぎ、テーブルに上がって、それぞれ自分のおなかと喉をナイフで裂いた。》
「さよなら」とぼくは言った。
「どこへ行くんだい?」とノイマンは言った。「きみは変わってるね。ここで死のうとは思わないんだ?」
「全然」とぼくは言った。「ぼくはあんたがたの商売敵だからね。ぼくは小説を書いてるんだ。ぼくにもお客が必要なんだよ」
「そうか」とノイマンは言った。「じゃあまた」
「じゃあまた」とぼくは言った。
「ご機嫌よう」とコッホ神父が言った。
「ご機嫌よう」とぼくは言った。
「どこへ行く?」と神崎神父がきいた。
「とりあえず街へ」とぼくは答えた。「街が燃えてるんだ」
「知ってるよ」神父は笑った。「きっと火傷するぜ。おれはまた火が熱いんでこっちに逃げてきたのかと思った」
「さよなら」とぼくは言った。
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