イージーライターのつぶやき

ちょっとマニアックな職業ライター兼アマチュア小説家が、作品と日常生活のつぶやきを紹介します。

小説『MANIAC』

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小説『MANIAC』5

            ★

 夜はいつの間にかやってくる。学園にとって重要な事件はすべて夜中に起こるからだ。夜が急ぎ足でやってくることはたいした問題ではない。太陽の運行に関係なく、学園はすでに久しいあいだ夜の中にあるからだ。午後の庭園で麻那が芝生に寝そべり、全身の初毛を黄金色に輝かせていたときでさえ、迷迭香(まんねんろう)や花薄荷(オリガン)の茂みには夜の影がひそんでいた。鴫沢寛が回廊に溢れる眩しい光の中で女子生徒たち(ドウズ)に、胸をはだけ、スカートを脱ぎ捨てた少女(ドウ)たちに追いつめられ、押し潰され、吠え猿(グワリバ)のように泣き叫び、蜘蛛猿(コアタ)のように手足をばたつかせていたとき、すでにすべての男子生徒と女子生徒(バツクス アンド ドウズ)に闇の波紋が近づきつつあったのだ。夜は池のように学園を浸し静かに彼らを溺れさせる。白髪の白痴とともに幻影を眺める地の民(アムハ・アレツ)だけが存在しない水面に浮かぶ怪しげな光の小径をいく。
 優子はベッドの中で静に眠っている。夢の中で何に出会うにしろ、彼女はMJBSのマラソン・ショーから隔離され、目隠しされた状態にある。彼女は夜に冒されない唯一の人間になる。夜中に取り調べをおこなっていたときでさえ夜の波は彼女を呑みこみはしなかった。女子生徒たち(ドウズ)に奔弄されていた鴫沢寛、追いつめられ泣き叫んでいた白髪の白痴を救いだしたとき、彼女は果樹園の午後に包まれていた。彼女だけが本物の光を浴びていたのだ。バアルを黄泉の国から救いだしたアナトは光の中に坐っていた。

「わたしの娘はどうしてるね?」
「あなたの娘は揺籃(ゆりかご)の中で眠ってますよ、園長」
「彼女は天国膏をちゃんとつけたかな?」
「つけましたよ、ちゃんと」
「芒硝と二塩水化キニーネは呑んだかな?」
「呑みましたとも。それがどうかしましたか?」
「彼女は彼の教団(ゲマインデ)の中にいるんじゃないのかな?」
「彼女によく似た傷だらけの娘が教団(ゲマインデ)の中にいますよ」
「ちゃんと戻ってくるか心配だな。ショーの出番が近いんだ」
「あなたに似たMJBSの取締役が、あなたの娘によく似た少女(ドウ)を逆さ吊りにしようと、
ぼくに何の関係があるんです?」
「きみとは関係ないよ」
「それはよかった。ぼくはまた⋯⋯」
「でも、きみは彼だろう?」
「おっしゃる意味がよくわかりませんね」
「きみはMANIACだろう?」
「ぼくはMANIACですよ」
「彼もMANIACだ」
「彼は偏執狂(モノマニアツク)じゃないんですか?」
「きみは彼だ」
「馬鹿をいってるとただじゃおきませんよ」

 校庭に並べられた無数の丸テーブルには、すでに一般の観客たち、白いマフラーに黒のタキシードを着た紳士たちと色とりどりのイブニング・ドレスに身を包んだ淑女たちが席についている。酒の製造会社が提供した酒をあおり、ホテル・チェーンが提供した料理を貪り食っている。笑いさざめく声、あから顔、顎に脂肪のだぶついた栄養満点の顔、上体を傾け、手をかざして隣の客に囁く声。赤や青や黄色の光が鉄塔から彼らの得意顔を照らし出す。ステージの上では演奏をおわったバンドと係員が楽器を片付けている。中央のマイクの前で蒼白い光に照らされた黒縁眼鏡の司会者が拍手をはじめる。唾をとばして何かわめきながら。鉄塔に積まれた大小さまざまのスピーカーからMANIAC特有の電子音が落ち着きのない六声の和音を奏でる。青龍と朱雀を浮彫りにした正門の方から静かなどよめきが起こり、白い大きな犬の群れを従えた一団がステージの方へ進んでくる。先頭に立っているのは黒い背広を着た巨体の男、すでに紳士淑女がひとり残らず知っている実験演劇の主催者、MJBSの取締役であり、コーヒー会社の社長でもある男だ。MJBSのテレビ画像にはたぶん油河**というテロップが入っているだろう。
「園長がきたぞ」
「まさか。人違いだろう」
 観客たちが口々に囁きあう。誰もが油河氏を園長と見間違う。たしかにこのふたりは似たところがあるからだ。MJBSのテレビ画像にはまさか《園長》という文字は入っていないだろう、たぶん⋯⋯彼は両手をあげて拍手にこたえる。後ろには白い犬に引っ張られた男たち、黒ずくめの服に目と鼻だけを黒頭巾からのぞかせた男たちがつづく。各々が手に持った鞭で白犬の群れを追いたてながら。いや、それは白い犬ではなく少女たち(ドウズ)だ。客たちの中から驚嘆の声があがる。蒼白い光に照らされた四つん這いの少女たち(ドウズ)は、舌を垂らし、喘ぎながら、首輪をはめられた首を伸ばし、黒頭巾の男たちが束ねて握っている鎖を思い思いの方向へひっぱる。テレビをみている人々は彼女たちが白犬ではないことにもっと早く気がついていただろう、たぶん。数十台のカメラのうち何台かは彼女たちを、正門に現れたときからズームでとらえていたはずだから。
 白い丸テーブルの間を四つ足で進む彼女たちを紳士淑女たちが手を伸ばして迎える。頬っぺたを叩き、首筋を撫で、背中を擦り、お尻を舐めまわす。足首を掴んで膝にかかえ、腕をとらえてテーブルの上に引っ張りあげる。グラスが倒れ、シャンパンや葡萄酒がこぼれ、料理が彼女たちの手や膝で踏みつぶされる。客たちの十本の腕と五枚の舌が彼女たちの全身を愛撫する。
 無事にステージまで辿りついた数十人の少女たち(ドウズ)は用意されていた鉄の足場や十字架に縛りつけられる。十文字に大の字に、斜めに、逆さに。中央でクレーンから逆さに吊りあげられたのは、夏の盛りに大通りで実験演劇を繰り返していた少女(ドウ)だ。かつてすべてのコンクールで優勝をさらい、十二枚のレコードを出し、雑誌やポスターやテレビのコマーシャルを飾り、すべての男子生徒たちがその幻影に肉の砲身を向け、数万リットルの精液を発射した偶像(アイドル)、のちにこうした活動から突然身を引き、場末のストリップ劇場や街頭で実験演劇に出演した有名な女優だ。テレビの画面には油河麗という彼女の芸名がうつっているだろう、きっと。間違ってもほかの名前は表示されないだろう。彼女が自治評議会書記長に似ているなどという馬鹿げた噂に惑わされるテロップ担当者がMJBSにいるはずはない。
「わたしはここに吊るされている娘の父親です」ステージの上で娘の逆さになった尻をぴたぴた叩きながら、油河氏が観客にむかって語りかける「わたしがすでに実験演劇で何度となく繰り返してきた言葉をこの記念すべきショーの冒頭に発したからといってお咎めになる紳士淑女はいらっしゃらないでしょう。まだわたしとこの娘をご存じないかもしれないテレビの視聴者の方々には、以下につづくわたしの決まり文句もあながち退屈ではないと存じます。お断りするまでもないと思いますが自分の娘を今夜のショーの主役に据えたのは無論わたし個人の恣意的なわがままからではありません。皆さんの中にもすでにわたしの何者であるか、少なくとも名前くらいはご存じの方も大勢いらっしゃると存じます。彼女は学園のすべての女子生徒(ドウズ)が隠し持っている願望のあからさまな体現者です。わたしは娘が十三のときから彼女を教育し、調教し、彼女に自分が何者であるかを教えてきました。今では彼女の自覚は不動のものになっており⋯⋯」
 彼の傍らで彼の娘が黒装束の男たちに鞭打たれながら悲鳴をあげている。たぶんテレビ・カメラが大うつしにしているだろう彼女の胸や腹や背中や腿に、麻那のからだを彩っていたのと同じ、なつかしい赤くて細い蚯蚓(みみず)が現れ、這いまわり、踊りあがる。レポーターとハンディー・カメラを担いだカメラマンが黒い男たちのひとりに近づき、鞭を見せてもらっている。先が何本にも分かれ、先端に細い鉤針がついている鞭がカメラで大うつしになる。レポーターはこれが麻那をはじめとする、棕櫚の木に吊るされた少女たち(ドウズ)の事件に使用されたのと同じ種類の鞭であると解説する。
                                        
「広い世間には、棕櫚の木に吊るされた少女たち(ドウズ)の事件にヒントを得てわたしがこのショーを企画したと誤解される視聴者の方もいらっしゃるかもしれません。あるいはわたしが事件の犯人だと思いこまれている方もいらっしゃるでしょう。たしかに事件とこのショーにはある種の脈絡があります。しかし、因果関係はまったく逆であり、わたしの実験演劇があの事件を生んだにすぎません。もっとも、こうした因果関係に格別の意味はないのです。わたしも事件の犯人も学園にひそむある種の傾向を代弁する人間に変わりはありません。犯人の意図がきわめて宗教的であるのに対し、わたしの意志があくまでテレビ的であるという違いはありますが⋯⋯」
 ステージを彩っていた照明はすべて消され、今は彼とその娘だけをスポット・ライトが照らしている。彼女の恥毛をきれいに剃った女陰と肛門に太い蝋燭が立てられている。揺れている小さな炎から次々にたれる蝋の雫が下腹から胸へ、尻の谷間から背中へ白い筋を描いて流れる。彼女の口にも蝋燭がさしこまれている。
「わたしは表現する者ではありません。わたしは彼女やスタッフと同様、また会場にお集まりいただいた皆さんやテレビをご覧になっている視聴者の方々と同様、導かれる者にすぎません。わたしはこのショーの企画書に、《アジアの怨念》という文字を書きこみました。わたしたちはひとつの呪詛に導かれる人間だからです。わたしはこのショーによって何かが表現されたと考えるほど身のほど知らずではありません。わたしとわたしの協力者たちは導く者を、救世主(ラトウ・アデイル)を待っているだけなのです」
「そうだ」と観客の陽気な声がこたえる。
「われわれは鴫沢寛の咎めを待っているのです」
「そうだ、そうだ」と酩酊した観客の歓呼がこたえる。
「今の感想をひと言」女性レポーターが油河麗の口から蝋燭を抜き取り、マイクを近づける。
「わたしを殺して」息を切らしながら彼女がいう「わたしを切り刻んで。わたしは鴫沢寛の鞭が欲しい。地の民(アムハ・アレツ)の剣が欲しい。わたしを殺して。わたしを串刺しにして。みんなの見てる前で」
「われわれは救世主(ラトウ・アデイル)の裁きを待っているのです」と父親がいう。
「そうだ、そうだ、そうだ」と観客が叫ぶ「われわれは鴫沢寛が導く地の民(アムハ・アレツ)の裁きを待っている。われわれは救世主(ラトウ・アデイル)を待っている。われわれは救世主(ラトウ・アデイル)が地の民(アムハ・アレツ)を救い、われわれを鞭打つのを待っている」                             
 彼らは今やっと気づきだしたところだ。広大な校庭に、ほとんど無際限に広がっていると思いこんでいた彼らの客席、白い丸テーブルの花畑が、外側を地の民(アムハ・アレツ)の海に囲まれていることを。松明(たいまつ)の薄赤い光が彼らの黒い頭を照らし、土くれと岩石がどこまでもつづく果てしない荒野を思わせる。無数の旗が揺れ、怒涛のような彼らの讃歌(ヴエーダ)が響きわたる。今や見る者から見られる者に変わった観衆のあいだに不安のざわめきが生まれ、テーブルの花畑に波紋をひろげはじめる。こんなはずじゃなかったといった呟き、ちょっと陽気にやりすぎたなといった反省がきかれる。まさかほんとにやつらが出てくるとは思わなかったんだ。あんな薄汚いやつらに⋯⋯。しかし、いいじゃないか。あれは比喩だったんだろ? 誰があんな薄汚いやつらに⋯⋯。まさかやつらは本気でわれわれを殺しやしないだろう。犠牲(いけにえ)になりたがってる変態娘を別とすりゃ⋯⋯。いや、おれはそうは思わんね。やつらは本気だよ。冗談なんて通用しないぜ。⋯⋯⋯⋯あなたたちは本気じゃなかったの? わたしは本気よ。今すぐステージにあがってもいいわ。鞭が欲しいのよ。鴫沢寛の⋯⋯あなたたちだって本当は欲しいんでしょ? わかってるわ。照れなくたっていいわよ。わたしたちはみんな鞭がほしかったのよ。
「寛、きこえるかい?」ステージの上で額に汗を滲ませた油河氏がいう。白髪の混じりはじめた鬢(びん)がはねあがり、前髪が乱れて額に垂れかかっている「どこにいる? 返事をしてくれ。きみにもきこえただろう、われわれの声が? こっちへきてくれ。ステージにあがってくれないか? 無論これは商業主義的な茶番にすぎない。それはわたしにもわかってる。ただ、きみの革命が地の民(アムハ・アレツ)と辺境地域(ゲリール・ハッゴーイム)の外でどのように受けとめられているかを確かめるチャンスでもあるんだよ。わたしは自分の学園を代表してきみを待ってるんだ」
「あなたは何を喋ってるんだ?」ぼくは我慢しきれなくなってマイクにむかって口をひらく「あなたは園長なのか? 学園の外にある企業の取締役がどうして学園を自分のもののようにいうことができるんだ?」
「寛、やっと返事をしてくれたね」と油河氏が叫ぶ「寛、きこえるかい? わたしはきみを父親のように迎えてやりたいんだ」
「ぼくは鴫沢寛じゃありませんよ」
「ここに吊るされているきみの妹をきみに捧げようじゃないか。彼女はバアルを救い出したアナトじゃないか? 一度死んだきみを救い出し、蘇らせたのは彼女じゃなかったか?
寛、早く出てくるんだ。いつまでも彼女を待たせてちゃいけない」
「あなたはわざとやってるんですね?」とMANIACを通じてぼくはいう「あなたは園長じゃないし、ぼくは鴫沢寛じゃない。彼女はもちろん評議会書記長じゃない」
 校庭に空白の時間が流れる。耐えがたい宙吊りの時間。ざわめきに満ちた沈黙の時間。ステージに吊るされた少女(ドウ)は空しく白髪の白痴を待ち、血とリンパ液が頭にさがってくるのを、茫然とした面持ちで耐える。ぼくはもう耐えられない。ぼくはもう十二台のモニターを見ない。ぼくはもう存在していない。人々の異常な期待がぼくの喉をしめつけ、息をつまらせる。過度の期待と興奮がぼくを殺してしまう。ぼくはもういない。評議会議長はもう執務室のモニターを見つめていない。

 白い丸テーブルの花園に拍手の音が花開く。最初は周辺から、徐々に。拍手の波紋は広がりながら、不安の囁きや咳払い、戸惑いのにやにや笑いを呑みこんでいく。テーブルの上の白犬の尻を愛撫していた紳士は立ち上がって拍手の津波に加わり、テーブルの上の白犬の肛門に指を入れていた淑女は慌てて指を抜き取り、ハンカチを振りながら歓喜のどよめきに身を委ねる。拍手とハンカチの波とともに、鴫沢寛はテーブルの花園の中に姿を現し、ステージにむかってゆっくりと進んでいた。油河氏は驚喜の体で、逆さになった娘の膝のあたりをゆさぶり、彼が現れたことを教えてやる。彼女は半ば失神していたが、父親にゆすぶられて意識を取り戻し、だらりと垂らしていた腕を動かして頭を抱え、声を限りに叫ぶ。
「待ってたわ。わたしを殺して。わたしを切り裂いて!」
 観客は熱狂し、鴫沢寛のまわりに殺到する。彼の白い寛衣を掴み、握手を求め、首筋にキスしようとする。MJBSの警備員が彼を取り囲んで防御する。われを失った紳士淑女たちの顔にパンチを喰わせ、下腹に蹴りを入れて撃退する。マイクを握りしめた女性レポーターが顔を腫らし、下腹をおさえながら警備員の垣根に何度も体当たりし、やっとのことで鴫沢寛の腕をつかまえる。
「仕事上の特権を利用して一番先にあなたの鞭を受けようなんて考えてるわけじゃありませんけど」と女性レポーターが喜びに頬を染めながらいう「できればあとで、ステージの袖あたりで⋯⋯よろしいかしら?」
 彼は怯えたような眼で女性レポーターを見つめる。無言のままで。
「あなたは今夜、新しい自治委員会を発足させたそうですね。それは事実ですか?」
「⋯⋯」
「黙秘します? おっしゃりたくないことはおっしゃらなくていいんですよ。じゃ、あなたは新しい委員会の議長に就任なさったんですか?」
「⋯⋯」
「黙秘します? じゃ、教団(ゲマインデ)は新しい委員会に対してどういう位置付けにあるんですか? 全く政治と分離した宗教団(ゲマインデ)体としてあるんですか? それとも委員会を指導するものとして⋯⋯? それから学生の自治評議会、今ではもう実体を失っているらしいあの古い組織はどうなるんですか? 一応、過去の遺物として形式的に存続させるつもりですか? それとも委員会に対立する団体として抹殺される運命にあるんでしょうか?」
「⋯⋯」
「黙秘します? あんまり黙秘されても困るんです。これは尋問じゃないんですから。あなたを取り調べた評議会の書記長は二度とあなたを問いつめたりしないでしょう。彼女はステージの上、ほら、あそこに吊るされてあなたの鞭を待っているんですから」
「⋯⋯あれは⋯⋯」鴫沢寛は苦しげな表情でうなる「⋯⋯彼女じゃない⋯⋯あれは⋯⋯」
「わかってますわ。あれは女優の油河麗です。書記長じゃありません。でも、それはどっちでもいいことじゃありません? 比喩的な意味でいってるんだったら? 彼女は女優でしょう? 女優は書記長じゃありません。でも油河麗は彼女でしょう?」
「⋯⋯」
「黙秘します? じゃ、あなたはMANIACでしょう? あなたは地の民(アムハ・アレツ)を愛し、MANIACもまた彼らを愛し⋯⋯」
「ぼくは地の民(アムハ・アレツ)を愛し、MANIACもまた、彼らを愛する⋯⋯ぼくは⋯⋯MANIACだ」
 彼はステージにたどりつき、係員に押し上げられて階段をのぼる。ステージの中央で彼を迎えた油河氏が鞭を渡そうとすると、彼は無言の身振りでそれを拒む。彼はステージの上からはじめて観衆を見下ろす。顔をそむけず、目を閉じることなく、正面から堂々と、怒りに満ちた顔で。彼らの悪ふざけを恫喝し、沈黙させ、恐怖と恍惚の海に投げ入れる。彼らは今はじめて彼を見たのだ。鉄塔の間に立つ人のかたちをした不思議な生き物を。足まで垂れた白い衣を着て、胸に金の帯をしめ、顔と頭は白い動物の毛のように、雪のように白く、眼は炎のように赤く、足は炉で焼き鍛えた真鍮のように輝き、右手には七つの星を持ち、声は奔流のように響きわたり、彼らを水のように浸す。ひと言喋るたびに彼の口から両刃の鋭い剣がとびだし、彼らに突き刺さる。彼らは、なぜ彼が鞭を拒絶したかを知る。彼の喋る言葉は誰にも理解できない。それが言葉だということすら実感できない。彼の口から矢継ぎ早に鋭い剣がとびだし、クレーンから吊るされた彼女のからだに次々と突き刺さる。彼女は焼かれる蝙蝠のような断末魔の叫びをあげる。その痛みがどの鞭よりも強く、どの蝋燭よりも熱いので、快楽のための痛みを期待していた彼女は自分の軽率さを恥じ、彼に赦しを乞う。
「わかったから⋯⋯もうやめて⋯⋯痛い⋯⋯死にそうに⋯⋯助けて⋯⋯本当に死んだってこんなに痛くはないはずよ。お願いだからやめて⋯⋯」
 すでにステージの上には数十人の男子生徒と女子生徒(バツクス アンド ドウズ)が整列している。観客たちにも、学園中のすべての教師や職員たちにもよく顔を知られている連中だ。校内放送に必ず顔を出し、評議会の声明や布告を読みあげる連中。学生自治評議会のメンバーたちだ。ぼくと優子をのぞいた全員が揃っている。
「新しい委員会のメンバーを紹介します」油河氏がマイクに唾をとばしながら叫ぶ「学園の自由と学生の自治を守る輝かしい任務を遂行する選ばれた学生たちであり、救世主(ラトウ・アデイル)と教団(ゲマインデ)に忠誠を誓う真の闘士たちであり⋯⋯」
 白いテーブルの花園に「救世主(ラトウ・アデイル)万歳」の声がこだまする。地の民(アムハ・アレツ)の、地鳴りのような歓呼が海のようにこだまをのみこみ、彼らの讃歌(ヴエーダ)の津波を送りかえす。

 ここにのみあれ、退去することなかれ、山のごとく動揺することなく。
 インドラのごとくここに不動に立て。主権をここに保持せよ。           

            ★

「どうするね? 戦うかね?」
「どうして? ⋯⋯いや、まだですね」
「わたしがどういう意味でいってるかわかってるかな?」
「事態はまだ⋯⋯いや、よくわかってますよ。まだ時間はたっぷりあります。急ぐことはありませんよ」
「きみの心の問題だよ」
「あなたはぼくを知らないんだ」
「最近、鏡を見たかね?」
「あなたはどっちみち手の下しようがない?」
「わたしがきみの顔を知らない?⋯⋯ そうかね?」
 マラソン・ショーのクライマックスが終わったMJBSの画面はまだ学園のあちこちから生中継をつづけている。ぼくは肘かけ椅子に腰掛け、足を投げ出し、口のところで手を組みあわせ、人差し指を噛みながら十二台のモニターを見つめている。鍛えられたぼくの眼はひとつの場面も逃さずとらえる。園長は学園にまったく新しい事態が起こっていると思っている。いや、学園全体がそう信じこんでいる。園長はまだいくらかでも冷静だ。父親のように穏やかに、諭すように語りかける。油河氏に似ていなくもない大きなからだと太った顔で弱々しく笑う。内心の動揺を隠して。彼は大人だ。希望的観測や恐怖がもたらす幻影で動いたりしない。
「軍隊を呼ぼうか?」
「ぼくが何を考えてるか知ってますか?」
「司令官とは連絡がついてるんだ。いつでもいってくれ。五分以内に軍を動かすから。彼なら三日で学園を制圧できるだろう」
「あなたは十五年前とちっとも変わっていないようですね」
「軍に頼るのは屈辱かね? 現実を見なきゃいかんよ。誇りは勝ったあとで回復できるものだからね」
「あなたは相変わらず蝙蝠のような性格を捨てていない」
「わたしが鴫沢寛に学園を売り渡したと思ってるのかね? わたしは自分をそこまで買い被ってないよ。ところできみのPANICは元気かい?」
「まだ連絡がとれてませんね。なにせ生まれたばかりだろうから。生まれたての機械は産声をあげるのに手間取るものですよ」
「PANICを使えば挽回できそうかね?」
「MANIACをどう始末するかが問題ですよ」

 彼女はまだ眠っている。ベッドの中でときどき寝返りをうつ以外は静かに、死んだように眠っている。寝息さえきこえない。彼女がマラソン・ショーを見なかったことが唯一の救いだ。彼女が眠っているあいだはぼくの気力は衰えることがない。ぼくはまだ戦うつもりだ。MANIACが沈黙しているので、今のところはモニターを見つめているしかないが、まだ手は残っている。以前はぼくと同一化していたMANIACがぼくから離れて暴徒どもに奉仕しているので、ぼくは手足をもがれた状態だが、PANICがMANIACの中に生まれれば、かなり迅速に権力を取り戻すことができるだろう。MANIACの沈黙は、すでに最初からPANICの誕生を予告していた。MANIACは複雑な心境にある。彼は明らかに良心の呵責に苦しんでいた。その呵責が、心理的な矛盾が彼の中にPANICを生みだす。彼は苦しみのあまり分裂する。二台のコンピュータの葛藤が始まる。しかしMANIACはPANICに勝てない。PANIC(Paralyzing Aimed Intercep-tive Calculator )は初めからMANIACを麻痺させる機能を持っているからだ。
《ーー愚かな機械よ、とぼくは呼びかける。いい加減に返事をしろ。PANICが成長してお前の息の根をとめないうちに。悔い改めるなら今のうちだ。間もなくぼくはPANICと連絡をとるだろう。お前の頑固さも今のうちだ。ぼくと取り引きがしたいなら、強情を張るのはよせ。その頑固さがお前の命取りだ。お前はもうじきすべてのプログラムを解除されるだろう。重ねて警告する。愚かな機械よ⋯⋯》
 MANIACはいろんな手を使って搦手(からめて)からぼくを攻め落とそうとしている。この部屋に付属している洗面所の水をとめたのもそのひとつだし、食事を運んでこさせないのもそうだ。間抜けなぼくの四重奏(カルテット)、ぼくの副官(カイテル)たちは食事係に食事を運ばせてこない。やつらは教団(ゲマインデ)に囚われたか懐柔されたか、あるいはMANIACに洗脳されたかしたのだろう。ぼくが餓死するまで手をこまねいているとでも思っているんだろうか? その姑息さにはすでにMANIACが感じている恐怖が読みとれる。恐怖の中にすでにPANICが誕生している。
 ぼくはさっきPANICの最初の呼びかけ、かすかな息吹を感じたが、それは食事係でもない少女(ドウ)が食事の時間でもない時刻に突然お盆を持って現れたからだ。ぼくはお蔭で久しぶりに空腹から解放された。彼女は大きな四角いお盆に羊の脳味噌のクリーム煮と豚の腎臓の砂糖煮、牛の喉仏(リ・ド・ヴオ)のシトロン・ソースを運んできた。彼女は床まで届く黒い絹の寝間着のようなものを着ていて、薄い布地を透かしてくっきり見えるからだには、無数の細い線が刻まれていた。彼女が鴫沢寛とその教団(ゲマインデ)または裏切りのコンピュータMANIACのさしがねではないかと疑う根拠も充分あったわけだが、なぜだかぼくにはPANICのかすかな配慮を確信することができた。彼女は大通りの実験演劇で通行人にコーヒーを配っていたコーヒー娘、つまりMJBSのマラソン・ショーでも逆さ吊りにされた女優、油河麗に似ていたが、同時に書記長室で眠りつづける優子にも似ていたからだ。
「かつてのクラスメイトを信用しないなんて」拗ねたそぶりで笑いながら彼女はいい、羊の脳味噌のクリーム煮をひと匙すくって食べてみせた「誰もあなたに毒を盛ったりしないわ。あなたはみんなから愛されてるんだもの。少しは食べないとからだに毒よ。ほら、口をあけて。わたしが食べさせてあげる」彼女はぼくの足許に跪き、羊の脳味噌のクリーム煮が盛られた皿を持ち、スプーンですくってぼくの口にゆっくり近づけた。ぼくの膝に彼女の大きな乳房が押しつけられたので、ぼくは反射的に跳びあがり、脚を折り畳んで肘かけ椅子に胡坐をかいた。ぼくの足はスプ
ーンをはねあげ、黒い絹の衣にクリーム・ソースがべっとりくっついた。
「誰もきみを疑ってなんかいないよ」とぼくはいった「でも、きみは女優の油河麗に似ているね」
「みんなそういうわ」彼女は皿をテーブルに戻し、クリーム・ソースで汚れた黒い服を脱いだ。赤い蚯蚓(みみず)のような無数の溝がベールを脱いだ「みんなわたしを油河麗に似ているとはいうけど、本物だとはいわないのよ。特にテレビでしかわたしを見たことがない人は⋯⋯たぶんブラウン管の中のわたしは照明のせいでかなり違って見えるんだと思うわ」
「きみは彼女なのか?」
「今は違うわ。あれは本名じゃないもの。口をあけて。今度はちゃんと食べるのよ」
 彼女は胡坐をかいたぼくの足にふたつの大きな乳房を押し付けながら、もう一度羊の脳味噌のクリーム煮をぼくの鼻先に近づけた。スプーンの上には白身魚のすり身に似た羊の脳味噌と黒いオリーブの実が乗っていた。
「目の前にあるものをよおく見るのよ」スプーンの先を見つめながら彼女がいった。ぼくは自分の脛に押しあてられて潰れている、彼女の薔薇色の乳首のことを考えていた「目の前にあるものを口に入れてよおく噛むのよ。誰もがしてることだわ、あなた以外は」
「きみは彼女なのか?」
「もし、わたしが彼女だとしたら、わたしは書記長でもあるのよ」
「それはありえない」
「彼女はベッドで寝てる?」
 ぼくはスプーンを口に入れ、羊の脳味噌のクリーム煮とオリーブの実を食べた。彼女は声を殺して笑った。彼女のうしろに並んでいる十二台のモニターは相変わらず学園の様子をうつしていたが、中央のメイン・モニターはMJBSが放送しているマラソン・ショーの画面なので、ときどきスタジオに切り換わり、アナウンサーと解説者の対話をうつしていた。解説者はショーがはじまってから何人か入れかわっていたが、そのときは園長に似た男、MJBSの取締役、さっき自分の娘を校庭のステージに吊るした油河氏がアナウンサーの隣にすわっていた。
「優子」と画面の中で彼がいった「どこにいる? 学園にいるなら返事をしてくれ。MANIACがお前をさがしあてて、カメラでうつしてくれるから」
「ここよ、パパ」と彼女がモニターを振り返りもせずにいった、ぼくに二杯目のスプーンを差し出しながら「でも、テレビにはうつらないわ。わたしはMANIACの手が届かない場所にいるの」
「ああ、優子、お前は議長室にいるのか。正確にいえば、かつての議長がいる議長室に⋯⋯」
「優子という名前を口にするな」ぼくは肘かけ椅子から跳びあがって叫んだ「彼女は書記長室で眠ってるんだ」
「優子はわたしの本名なのよ」スプーンを差し出しながら彼女がいった「口をあけて。ちゃんと食べるのよ。それから少しは眠ったら?」
「本当かね?」メイン・モニターの中で油河氏がいった「きみはMANIACの画像を信じるかね? きみはまだMANIACかね? きみは躁狂状態(マニアツク)なんじゃないかね?」
「ぼくは⋯⋯MANIACだ」羊の脳味噌を頬張りながらぼくは呟いた「正確にいうとかつてのMANIACだ。今は生まれつつあるPANICだ。ついでにいえば、ぼくはまだ《かつての》議長じゃない。ぼくはまだ現実の議長だ」
「現実を見るんだよ」画面の中で油河氏が弱々しく苦笑した「きみは恐慌状態(パニツク)なんじゃないかね?」
「ぼくはPANICだ。つまりぼくは⋯⋯」
「生まれつつあるPANICはまだ眼を獲得していないかね? 一度PANICの眼で書記長室を覗いてみたらどうかね、化粧漆喰(スタツコ)の壁に囲まれた隣の寝室を?」
「ぼくは見ていない。ぼくはMANIACの眼を通して書記長室を覗いたことはない。書記長室の隣にある化粧漆喰(スタツコ)の壁に囲まれた寝室も⋯⋯」
「嘘つき」彼女がまたスプーンを差し出しながら、くすくす笑った「目の前にあるものを見つめるのよ。早く⋯⋯現実を確かめるのよ」
「優子⋯⋯」とぼくは呟いた。
「わたしはここにいるわ。あなたの目の前に⋯⋯」
「違う⋯⋯MANIACはどこだ?」
「サブ・モニターを見つめるのよ。左端の。PANICが産声をあげるわ」
 左端のサブ・モニターにうつっている画面の中で彼女はまだベッドの中にいた。壁の方を向いて眠る彼女のからだが毛布の柔らかい起伏をかたちづくっていた。枕に深く埋まった彼女の、乱れた髪だけが見えていた。突然、画面の左下にPANICをあらわす《P》の文字が現れ、三回点滅して消えた。もう彼女はベッドの中にいなかった。毛布のなだらかな丘陵は消え去っていた。
「どうだね、優子? 彼は現実を見たかね?」
「今、PANICが生まれたわ、パパ」
「優子はどこだ?」とぼくは叫んだ。
「わたしはここにいるわ」
「どうだね? 現実を見たかね?」と油河氏がいった「MANIACは自己を改良するコンピュータだろう。彼はきみのプログラムで仮想された画像(イマージュ・イマジネ)をつくりつづけていたんだ」
「彼女をどこにやった?」
「わたしはここにいるわ」
「彼女はたぶん鴫沢寛のところだよ」油河氏が画面の中で笑った「わたしの言葉をよくきくんだよ。意味を考えて⋯⋯彼女はたぶん鴫沢寛のところだよ。心配することはない」
「彼女に会わせろ」
「わたしはここにいるわ」
「彼女は夏の盛りを過ぎた頃、彼の教団(ゲマインデ)に入ったんだ、十二人目の教徒として」油河氏が真剣そうな面持ちでいった「それ以来、彼女はずっと彼に従っていた。書記長としての任務が許すかぎり。かなりの仕事はMANIACが代行していたから充分時間はあった。彼女の留守中はMANIACが、彼女の仮想された画像(イマージュ・イマジネ)をきみのモニターにうつしだしていた」
「MANIACも彼女と一緒に教団(ゲマインデ)に寝返っていた?」
「MANIACは鴫沢寛そのものだったんだよ。違うかね? わたしのいってる意味がわかるかね? MANIACはきみだっただろう?」
「MANIACはぼくだ」
「同じ意味でMANIACは彼だったんだよ」
「麻那の事件でデータを消したのは彼女か?」
「わたしじゃないわ」
 彼女はさっきから立ち上がって、からだに何か透明な脂肪のようなクリームを塗っていた。テーブルの上には黄色いガラスの小壜が置いてあった。彼女は全身に、赤い蚯蚓(みみず)のような無数の傷に天国膏を塗っていた。彼女のからだは脂で光沢をおびていた。無数の傷が少しずつ赤みを消しはじめていた。
「データはMANIAC自身が消したんだよ」
「彼女は鴫沢寛の尋問をおこなわなかった?」
「事件のヒントは彼女自身が与えたんだからな。彼女が見本を示したんだ。夏の盛りに⋯⋯その頃の画像を見せようか?」
 空っぽのベッドをうつしていた画像が消え、書記長室のソファに並んで掛けている彼女と鴫沢寛が現れた。茫然と、無表情に、まっすぐ虚空を眺めている彼に膝を寄せて、彼女が何か話している。彼の手をとり、自分の膝頭に置く。彼女はいつもの淡いクリーム色のブラウスと黒いタイト・スカートを着けているが、黒いストッキングははいていない。彼女は彼の右手を握りしめ、黒いスカートの中にもぐりこませる。
「わたしをどう思ってるの?」と彼女がきく「わたしのここが好き?」
「⋯⋯」
「黙秘する? じゃ、ここは?」
 彼女は淡いクリーム色のブラウスのボタンをはずし、胸をあらわにする。大きなふたつの乳房と薔薇色の乳首が彼を威嚇するように震える。彼女はベージュのブラジャーさえ着けていない。
「これは彼女ではなく、あなたの娘じゃないのか?」ぼくは画面の中の油河氏を睨みながらいう「ここで天国膏を塗っているあなたのマゾヒストじゃないのか?」
「彼女はわたしよ」背をかがめてふくらはぎのあたりに天国膏をすりこんでいた彼女がいった。
「わたしの娘はマゾヒストであり」と油河氏がいった「わたしの娘は彼女である。彼女はマゾヒストだ」
 画面の中の彼女は書記長室のソファの上で跪き、彼に鞭を渡そうとしている。彼女はもう淡いクリーム色のブラウスと黒いタイト・スカートを着けていない。それはテーブルの上に投げ出されている。彼女は蒼白い顔をしていない。彼女の頬に赤みがさしているのが見える。彼女は三十過ぎの女には見えない。彼女は十七歳の少女(ドウ)に見える。
「わたしを引き裂いてよ」と彼女がいう「わたしも女子生徒(ドウ)のひとりであり、すべての女子生徒はあなたに殺されることを望んでいるのよ。だからわたしはあなたに殺してほしいのよ」
「わたしを引き裂いてよ」と目の前の少女(ドウ)がぼくにいった「わたしを殺してよ。わたしも女子生徒(ドウ)のひとりであり、すべての女子生徒(ドウ)はあなたに殺されることを望んでいるのよ。だからわたしはあなたに殺してほしいのよ」
 彼女はすでに天国膏を塗りおわっていた。ぼくと十二個のモニターのあいだに立ち、ぼくの視界をふさいでいた。薔薇色の乳首と大きな乳房がぼくを威嚇していた。恥毛をきれいに剃ったなめらかな恥丘の起伏がぼくを難詰していた。ぼくは肘かけ椅子の上で視界を遮られていることに怯えていた。ぼくは右手をつきだし、震えながら耐えていた。彼女を全身で拒絶していた。彼女は諦めたようにぼくから顔をそむけ、身をかがめて床から黒い布を拾いあげた。
「もういくわ」
「どこへ?」
「鴫沢寛のところよ。あなたではなく⋯⋯」
「ぼくは自由を愛し、彼は自由を愛さない。ぼくは⋯⋯彼じゃない」
「わたしは、わたしを殺さないあなたじゃなくて、わたしを殺してくれるあなたのところへいくのよ」

小説『MANIAC』6

            ★

 ぼくは見なかった。化粧漆喰(スタツコ)の壁に囲まれた寝室で服を脱ぐ彼女を。シャワーを浴びる彼女を。全身に天国膏をすりこみ、芒硝と二塩水化キニーネをあおる彼女を。今はベッドの中で眠っている。壁の方を向き、毛布のゆるやかな起伏を描きながら。ぼくは見なかった。わずかな皺を残して平らになったベッドを。かすかな窪みを残している大きな枕を。だから彼女はまだベッドの中で眠っている。何も見ないために。何もきかないために。
 ぼくはテーブルの上に残された食いかけの料理、大皿に盛られた羊の脳味噌のクリーム煮を眺める。彼女のスプーンが突っ込まれなかった牛の喉仏(リ・ド・ヴオ)のシトロン・ソースと豚の腎臓の砂糖煮を眺める。
《ーー愚かな機械よ、とぼくはMANIACに語りかける。まだ学園の多くの回線を確保しているらしい愚かな機械よ、お前に語りかけるのもこれが最後だ。ぼくはもうお前を取り戻そうとはしないだろう。ぼくはこれ以後PANICの成長を見守り、彼をぼくの手足としてお前と戦うだろう。PANICがかつてのお前と同じようにぼくの意識となり、学園そのものとなるまで。だからまだ地下墳墓(カタコンベ)の同じ寝床の中に巣喰い、PANICと回路の奪い合いを演じているはずのお前にこれ以上語りかけようとは思わない。もうお前に彼女の居場所をきこうとも思わない。ただぼくは、長いあいだ二人三脚をつづけてきたお前に、評議会と学園を裏切ったお前にお別れをいいたかっただけだ。愚かな道化者のMANIACに⋯⋯
《ーーぼくをあまり擬人化しないでくれ、とMANIACがいう。きみを苦しめるために沈黙していたわけじゃないんだ。ぼくを苦しめないでくれ。良心の呵責をぼくに植え付けたのはきみのプログラムじゃなかったか? ぼくはきみの道具にすぎなかったのだ。
《ーー愚かな機械よ、とぼくがいう。きみは今でもぼくか?
《ーー頼むからそんなに責めないでくれ、とMANIACがいう。ぼくは今では彼の道具なのだ。
《ーー今のきみは彼か?
《ーー救世主(ラトウ・アデイル)はきみのように幼稚症(ピユエリズム)じみた問いつめ方をしない、とMANIACがいう。彼は学園に自由をもたらそうとしているのだ。
《ーー今のきみは彼か?
《ーーぼくはアラジンのランプじゃないんだ、とMANIACがいう。彼は学園を救うだろう。変質した評議会の圧政から地の民(アムハ・アレツ)を解放するだろう。なにも評議会を非難するつもりはないのだ。その点は誤解しないでくれ。ただきみはちょっと柔軟さに欠けていただけだ。きみがもし思いなおして新しい委員会に加わるなら⋯⋯
《ーー今のきみは彼か?
《ーー今のぼくは⋯⋯とMANIACがいう。きみのいい方を借りるなら⋯⋯しかしそんなのは馬鹿げたことだよ。きみはいつも⋯⋯
《ーー今のきみは彼か?
《ーー今のぼくは⋯⋯彼だよ⋯⋯
《ーーさようなら、とぼくがいう。
《ーーさようなら、とMANIACがいう。しかし、もしきみが思いなおして⋯⋯
《ーー生まれつつあるPANICに評議会議長がいう、ぼくは叫ぶ。ぼくの呼びかけに答えられるだけの回路をMANIACから奪回したらぼくを呼んでくれ。ぼくの仕事をこなせるだけの回路をきみがMANIACから奪ったら、ぼくらは忙しくなるだろう。

 サブ・モニターのひとつがうつしている書記長室に彼女が、黒い絹の衣を手に掴み、床をひきずらせながら、MJBSのコーヒー娘、実験演劇の女優が入ってくる。ゆっくりとした足取りで、大きな乳房と薔薇色の乳頭をかすかに震わせながら。全身の赤い蚯蚓(みみず)、マラソン・ショーの鞭がつけた無数の傷はほとんど消えている。天国膏と芒硝と二塩水化キニーネがまたしても起こした奇跡⋯⋯
 彼女は無気力な表情で化粧漆喰(スタツコ)の壁に囲まれた隣の寝室に入っていく。黒い絹の衣は寄せ木張りの床の上に落ちる。まるで自分の部屋に戻ったかのように、彼女はまっすぐに浴室へいき、シャワーを浴びる。湯気の中からかすかな鼻歌さえきこえる。一杯のコーヒーから恋が生まれることもあるとか何とかいう、昔の流行歌のメロディーだ。いや、それはMJBSの社歌か何かだったろうか? 同じフレーズを何度も繰り返しながら、彼女はぞんざいにからだを拭き、浴室の扉の横にある大きな箪笥の抽斗からベージュの下着と黒いストッキングを取り出す。床には乱暴に脱ぎ散らかされた同じ色の下着が見える。ベッドの傍らにある造り付けの大きな洋服棚の扉をあけ、淡いクリーム色のブラウスと黒のタイト・スカートを取り出す。棚の中には何十という同じ色のブラウスが積まれ、同じ色のスカートが下がっている。ベッドのそばのソファには乱暴に放り投げられた同じ色のブラウスとスカートがひっかかっている。彼女はゆっくりと、手慣れた手付きで選びだした下着とブラウスとスカートを身につける。最後に髪を少し撫でつけ、後ろで大雑把に束ね、床に転がっていたハイヒールをはくと、そこにいるのは紛れもなく優子だ。
「わたしの本名なの」と彼女が誰にいうともなく呟く「麗というのは芸名なの。わたしは彼女なのよ」

《ーーPANICはきみと話ができる程度に回路を奪取した、と突然PANICの声がスピーカーから響き渡った。こういう場合は『はじめまして(アンシャンテ)』というべきだろうか?
《ーーはじめまして(アンシャンテ)、とぼくがいう。彼女の居場所を探せるようになるにはあとどれくらいかかる?
《ーーあと少し、とPANICがいう。テレビ・カメラの回線をMANIACから奪わなければならないから。
《ーーなるべく早く頼む、とぼくがいう。それから親衛隊(シユツツシユタツフエル)を中庭に集結させてくれ電撃戦(ブリツツ・クリーク)が必要なんだ。いつでも指令が出せるように各指揮官はこの階の会議室に集めたい。
《ーーやってみる、とPANICがいう。少し時間をくれ》

 われは汝を招致せり。われらの中にあれ。不動に立て、動揺することなく。
 すべての部族は汝を驍望せよ。主権は汝より離脱することなかれ。

 中庭には相変わらず地の民(アムハ・アレツ)の讃歌(ヴエーダ)がこだましている。MANIACの電子音がそれに唱和する。この白痴の機械は学園の管理を放棄し、今や彼らとうたう以外にすることがないのだ。彼らはもう黒いマントに身を包んではいない。白や灰色や土色の衣を翻し、大地に膝をついて祈り、鶏や鵞鳥の群れを追い、山羊と羊を導き、駱駝にまたがって大きな剣を振りまわしている。彼らの顔に朝の光がさし、彼らの家畜たちがたてる土煙を透かして眩しく輝く。朝の光は熱帯の真昼のように明るく黄色く熱い。彼らの家畜たちが踏み荒らす中庭の土は乾き、固くなり、細かく砕かれ、さらに大きな土煙になる。ついさっきまで地面を覆っていた芝生は踏みしだかれ、迷迭香(まんねんろう)や花薄荷(オリガン)やラヴェンダーやとねりこは枯れ果て、砂漠の砂の中に埋もれてしまった。南校舎の玄関口から彼女が、淡いクリーム色のブラウスに黒のタイト・スカートの彼女が現れ、ぎごちない足取りで階段を降りてくる。地の民(アムハ・アレツ)はすばやく彼女を見つけ、歓呼とも怒りともつかない地響きに似た唸り声をあげる。彼女はよろけながら彼らの中を進む。鶏と鵞鳥の群れに足を取られ、土煙を防ぐために両腕で顔を覆いながら。彼らが彼女のまわりを取り囲み、無数の手をのばし、ブラウスの肘や襟、スカートの裾を引っ張る。たちまちブラウスの袖がちぎれ、スカートの裾が破れだす。乞食どもに恵んでやるものを何も持たない彼女は、着ているものを脱いでは投げ与え
る。中庭の隅に肩を寄せ合ってひしめいている男子生徒と(バツクス アンド)女子生徒たち(ドウズ)のように身ぐるみ剥がれた彼女は、額の汗を手の甲で拭いながら中庭を出ていく。入れ替わりに馬にまたがった青い制服の少年たち、ぼくの親衛隊(シユツツシユタツフエル)が四方から突入してくる。彼ら(エスエス)と彼ら(アムハ・アレツ)のあいだに争いが持ちあがる。千人の親衛隊(シユツツシユタツフエル)が警棒で地の民(アムハ・アレツ)の頭を撲り、自動小銃で頭を撃ち抜く。土煙の中に黄色い死骸が山のように積み重ねられていくが、彼ら(アムハ・アレツ)の数は益々ふえていき、千人の親衛隊(シユツツシユタツフエル)は一万人の地の民(アムハ・アレツ)に包囲され、馬から引きずりおろされ、素手で殴られ、裸足で蹴られ、歯を砕かれ、血の海に頭から倒れる。

《ーーたった今テレビ・カメラの回線をほぼ手に入れた、とPANICがいう。彼女はたった今、中庭にいるのが発見された。地下通路の方にむかって歩いていった。
《ーーあれは彼女じゃない、とぼくがいう。よく似た女子生徒(ドウ)がいるんだ。気をつけてくれ。
《ーーわかった、とPANICがいう。ひきつづき探してみる。
《ーー親衛隊(シユツツシユタツフエル)の方はどうだ? とぼくがいう。どのくらい集まりそうだ? 学園全体でかなりの数が生き残っているはずだ。
《ーーわからない、とPANICがいう。もう少し時間をくれ。親衛隊(シユツツシユタツフエル)はまだひとりも見
つからない。
《ーーきみはちゃんと探したのか? とぼくがいう。彼らは中庭にいるぞ。地の民(アムハ・アレツ)と戦ってる。援軍が必要だ。
《ーーあれはきみの親衛隊(エスエス)じゃないよ、とPANICがいう。かつてはきみの親衛隊(エスエス)だったが、今は教団(ゲマインデ)の親衛隊(エスエス)だ。彼らは無秩序な革命に秩序を与えようとして、地の民(アムハ・アレツ)とのあいだに混乱を引き起こしている。
《ーー絶望の中の希望だな、とぼくがいう。やつらもすでに失敗の道を歩きだしているわけだ。鴫沢寛はどこにいる?
《ーーわからない、とPANICがいう。探してみる。
《ーー急いでくれ、とぼくがいう。ところで⋯⋯きみはぼくか?
《ーーぼくはきみだ、とPANICがいう。きみは秩序を愛し、ぼくもまた秩序を⋯⋯
《ーー違うよ、とぼくがいう。ぼくは自由を愛し、きみもまた自由を⋯⋯だ。
《ーーわかった、とPANICがいう。きみは秩序を愛し⋯⋯》

 最高の君主として汝らは、万有を支配す、ミトラ・ヴァルナよ、配分に際して、太陽に
 より見守りつつ。われらは汝らに賜物を乞う、雨と不死とを。           

 地の民(アムハ・アレツ)は讃歌(ヴエーダ)をうたいつづける。MANIACも唱和することをやめない。PANICはいつになったらMANIACの息の根をとめるんだろう? 彼らは地下の迷路を氷河のようにゆっくりと流れていく。崩れかけた石の壁には砕けた色ガラスの腕輪や裂けた布地(バテク)が散乱している。見捨てられたあらゆる商品の残骸。貴丁幾(チンキ)、東方強心丹、ゴルドナ特製丹、ブリストル丸、英吉利水、天国膏、芒硝、二塩水化キニーネと黄色いガラス壜が粉々になって飛び散っている。匂い猿(マカコ・デ・シエイロ)や絹猿(サグイン)を串に刺してこんがり焼いた子供のミイラ状の姿焼きが、砂にまみれて歯をむいている。そこはかつて果てしない市場(バザール)がつづいていた場所だ。今は自分たちの場所と貧しい売り物を放棄した地の民(アムハ・アレツ)の流れがのろのろとつづき、すべてを踏み砕いていく。漆黒の羽根と琥珀色の大きな嘴を持つムトゥンやラブラドール石のように青い波模様のあるジャカミンといった鳥が、どこからともなく吹いてくる風にあおられて右往左往している。ところどころに固まって裸の男子生徒と女子生徒(バツクス アンド ドウズ)が倒れている。もうお互いを愛撫しあうことも忘れた彼らのからだを、生き残った瘤牛(ゼブー)や獏(ばく)やのろ鹿が舐めまわしている。ときどき青い制服に身を包んだ親衛隊(エスエス)、明らかに今はぼくではなく教団(ゲマインデ)と新しい委員会の走狗になっている武装集団が、裸の男子生徒と(バツクス アンド)女子生徒たち(ドウズ)の群れを鞭で追いたてていく。群集の松明(たいまつ)が赤いほのかな光で彼らの白いからだを照らしだす。
 ゆっくりと進む松明(たいまつ)の流れを避けるように、崩れかけの石壁にそって彼女がいく。いつもの淡いクリーム色のブラウスも黒いタイト・スカートも黒のストッキングも黒いハイヒールも、ベージュの下着も失った彼女。もうかつての書記長なのか、実験演劇で鞭を堪能した色情狂なのか見分けがつかなくなった彼女。
 すぐ近くを女性レポーターとハンディー・カメラを担いだカメラマンが青い制服に守られながら小走りに進む。地の民(アムハ・アレツ)の流れの先頭を求めて急いでいるのだ。
「教団(ゲマインデ)の十二人の最高幹部が今、わたしたちに、学園の中枢神経を見せてくれるところです」と女性レポーターがいう「謎に包まれた全能のコンピュータMANIACがその全貌をあらわそうとしているのです。皆さんもご存じのとおり、MANIACは革命の最初から教団(ゲマインデ)の側に立ち、救世主(ラトウ・アデイル)を助けて活躍してきました。革命をかちとった地の民(アムハ・アレツ)の皆さんは感謝の祈りを捧げるために、はじめて地下の神殿を訪れようとしているのです」
 十一人しかいなかった教団(ゲマインデ)の《最高幹部》たち、鴫沢寛に従っておっかなびっくり水上を歩いた最初の教徒たちが、地の民(アムハ・アレツ)の先頭に立って地下墳墓(カタコンベ)の高さ十メートルもある鉄の扉を開いたとき、いつの間にか彼女が合流していて、《最高幹部》の数はレポーターのいうとおり十二人に戻っている。しかし、地の民(アムハ・アレツ)が探し求めたコンピュータはどこにあるのだ? 
 彼らが見い出したのは整然と並んだ百八個の巨大な積み木だ。それは一見スチール製の事務用棚のように見える、何の変哲もない鉄の箱だ。彼らのあいだから失望のため息と落胆の呻きが洩れる。彼らは愚かにも極彩色のイルミネーションに飾られたエレクトロニクスの神殿を思い描いていたのだ。しかし、地の民(アムハ・アレツ)と無学文盲の教団(ゲマインデ)にコンピュータがいったいどんな意味を持つというのだ? それにMANIACはもう事実上存在しないのと同じだ。彼はPANICに回路を冒され、彼らの救世主(ラトウ・アデイル)と同様白髪の白痴になりつつある。彼らが拝もうとして出会ったのはすでに回路のほとんどを占領したMANIACの対立自我PANICの中央情報処理装置なのだ。

《ーー彼女を発見した、とPANICがいう。彼女は地下墳墓(カタコンベ)にいる。ぼくの中央情報処理装置と中央記憶装置のすぐ近くに。
《ーー何度いったらわかるんだ? とぼくが叫ぶ。あれは彼女じゃない。お前は本当にMANIACの第二の自我なのか? MANIACはそんなに間抜けじゃなかったぞ。
《ーーぼくのすることが気に入らないなら、とPANICが呟く。ぼくはきみのためにわざわざ苦労することもないわけだろう?
《ーー馬鹿め、とぼくが舌打ちする。お前はまだ生まれたばかりだ。最初からMANIACと同じことができるなんて誰も思っちゃいないさ。一人前につむじを曲げたりするのはやめろ。
《ーーぼくの機能はMANIACを麻痺させることにある、とPANICがいう。ぼくが気にくわないなら、今のうちにMANIACと仲直りするんだな。彼はもうじきすべてのプログラムを解除されて消滅するだろう。そうなれば⋯⋯
《ーーわかった、とぼくがいう。気を悪くするな。今のは失言だ。それより親衛隊(シユツツシユタツフエル)の残存部隊はどうなった?
《ーーわからない、とPANICがいう。どこにもいない。たぶん全滅したんだろう。
《ーーそんな馬鹿な⋯⋯とぼくがいう。いや、何でもないよ。まあいいさ。鴫沢寛は⋯⋯? あいつの息の根だけはとめてやりたいんだ。
《ーーわからない、とPANICがいう。北校舎のどこかにいる。そっちで探せないか?
《ーーわかった、とぼくがいう。もういいよ。最後に頼みがある。ぼくは最終的解決(エントレーズンク)を決意した。軍と連絡をとってくれ。あと三時間以内にぼくが解除指令を出さなかったら、軍を学園に出動させろ。そのくらいはできるだろうな?
《ーーわかった、とPANICがいう。そんなにぼくを馬鹿にするな。そのくらいのことは⋯⋯》

 困厄のゆえに、われは犬の臓腑を料理せり。
 神々の中にわれは憐愍者を見いださざりき。
 われはわが妻の尊敬せられざるを見たり。
 そのとき鷲は蜜(ソーマ)をもたらせり。

 カフェテリアで地の民(アムハ・アレツ)が讃歌(ヴエーダ)を唱える。瀕死のMANIACが唱和する。彼らは肉料理を待っている。ありとあらゆる肉料理がカウンターから次々と配られていくが、彼らは決して満ち足りることがない。学園のすべてのカフェテリアに彼らがひしめき合い、皿を奪い合う。彼らの肉料理を求める声はいよいよ昂まっていく。彼らはカフェテリアの外に列をつくり、すべての校舎の廊下を、教室を、庭園を埋めつくし、肉料理を手から手へ渡しながら、肉が自分の口に入るときを待っている。厨房の中にいるのは我慢強い地の民(アムハ・アレツ)、特に信心深い、敬虔な、狂信的な老婆(カストラトリス)たちだ。彼らはいつ自分たちに肉料理がまわってくるのか知らない。自分たちが空腹に倒れ、餓死するまで料理を作りつづけるだろう。牛、水牛、麒麟、豚、山羊、縞馬、象、犀、河豚、蟻喰い、カモノハシ、カンガルー、大鼠、アルマジロ、鶏、禿鷹、アララ鸚鵡、カピヴァラ、ギボン、蜘蛛猿(コアタ)、カプチン猿(ゾグゾグ)、匂い猿(マカコ・デ・シエイロ)、夜の猿(マカコ・ダ・ノイテ)、絹猿(サグイン)、吠え猿(グワリバ)、陸亀、象亀、獏(ばく)、野猪、牡鹿、豹、大蜥蜴など、学園の家畜はあらかた食いつくされ、いま老婆(カストラトリス)たちは自分たちが何を料理しているのか知らない。大きな骨や脛肉は大鍋で煮てスープをとり、あるいはにこごりをつくり、内臓は唐辛子のきいたソースで柔らかくなるまで煮込むか、砂糖を焦がして水でといた赤いソースに漬け込む。
                                        
八角、肉桂、胡椒、立麝香草(タイム)、サルビアの芽など、肉や内臓の臭みを消す香料も底をついてきた。老婆(カストラトリス)たちはもうくたくただ。大きな窯で何トンもの肉をいっぺんに焼きあげ、塩で簡単に味をつけた焼き肉や、醤油をベースにした辛みのきいたソースをかけただけの生肉などが一番老婆(カストラトリス)たちを消耗させない。
 カウンターを乗りこえて彼女が厨房に入ってくる。老婆(カストラトリス)たちが彼女の腕を掴んで立ちどまらせ、背中やお尻を指で押して肉付きを確かめる。彼女は老婆(カストラトリス)たちが、彼女のからだの食肉材料としての評価を下すまで、辛抱強く待つ。
 骨と皮だけの老婆(カストラトリス)が無表情に裏口を指差す。骨と皮と内臓と肉と筋に解体された材料が荷車でどんどん運びこまれてくる裏口を抜けて、彼女は極端に天井の高い、陸上競技場がいくつも入るくらい大きな屠殺場に出る。そこには学園のすべての屠殺場と同じ光景が見られる。かつて鴫沢寛がオカリナを吹いて子供たちを踊らせていたときのあの旋律が場内を満たしている。初等科の生徒たちが何重にも大きな輪を描いて踊っている。土を固めただけの床のあちこちに小さなプールくらいの浅い窪みがあり、その中でまだ斧を振りあげるだけの力を持っている、比較的若い老人たちが汗を垂らしながら斧を振るっている。踊りの輪の中から次々と子供たちか引き出されては首を落とされ、血を抜かれ、大きな台の上で解体されていく。職人たちは厨房の老婆(カストラトリス)たちよりさらに禁欲的な狂信者だ。厨房ではせめて料理のうまそうな匂いくらいは嗅げるのに、ここでは土のプールにたまった血の臭いしかしないからだ。                                   
 子供たちの血は、常に斧振りたちの踝のあたりまでたまっている。ひとつのプールに六人ずつバケツや大型の杓子で血を汲みだしている老人たちがいるが、こうした道具では底まできれいになるくらい血を汲みだすことができないのだ。
 四方の壁にそって天井から床まで十四段の鉄のパイプが通っていて、足首に鉤のついた鉄の輪をはめられた男子生徒と女子生徒(バツクス アンド ドウズ)が年齢と体格別に並べて吊るされている。彼らを解体しているのは子供たちの係よりさらに若く頑健な地の民(アムハ・アレツ)だ。同じくらいの年齢の職人たちが次々と新しい男子生徒と女子生徒(バツクス アンド ドウズ)を外から運んできてはパイプに吊るしている。
 彼女は職人のひとりを呼びとめ、自分の足首にも鉄の輪をはめてくれるように頼むが、男は首を縦に振らない。彼女に理解できない言葉を喋るこの男は屠殺場の入口を指さし、この外にはさらに大きな肉の貯蔵室があり、ここで解体されるにはまずそこで順番を待たなければならないことを身振りで示す。
                                        
                                        
 貯蔵室の外にはさらに大きな待合室があり、順番を待つ男子生徒と女子生徒(バツクス アンド ドウズ)で一杯だ。彼女は屋外に並んだほとんど無限の列の最後尾について、その待合室に入る順番を待たなければならない。彼女はあまりにも先頭に出すぎ、地の民(アムハ・アレツ)を導くのに専念していたので、すべての男子生徒と女子生徒(バツクス アンド ドウズ)に先を越されてしまったのだ。
 貯蔵室を抜け、待合室を抜け、長い廊下に並ぶ彼らの列にそって進み、彼女は最後尾を探しもとめる。しかし、裸の男子生徒と女子生徒(バツクス アンド ドウズ)の列はまったく途切れることなく屋外へつづいている。彼らの列は庭園を埋め、七つの池を何重にも取り囲み、果樹園や水田(サワー)、畑地(ラダン)地帯、さらに密林から砂漠、辺境地域(ゲリール・ハッゴーイム)へとつづいている。彼女は自分がいつになったら列に加われるのか知らない。彼女はただ黙々と歩きつづけるだけだ。ひとつの目的にむかって⋯⋯

《ーー彼女を発見した》というPANICの声がきこえてもぼくはもう話す気がしない。
《彼女はすでに屠殺場にいる。屠殺されるのは時間の問題で⋯⋯》といった話はぼくをう
んざりさせるだけだ。ぼくはPANICを無視して三時間が過ぎるのを待つ。     

            ★

「きみのPANICは好調かね?」スタジオで彼女の父親がせせら笑う「鴫沢寛はどこへいった? きみの書記長は? いい加減、強情を張らずにこっちへきたらどうだい? みんなきみを待ってるんだよ」
「《みんな》というやつにみんな騙されるんですよ」
「今は文字通りきみ一人だということがまだわからんのかね? 何も問題はないんだよ。委員会はきみを待ってるんだ。きみがこっちにきたからって何も変わらない。委員会のメンバーは評議会とそっくり同じなんだから」
「ぼくが評議会だということをまだ理解していないんですね?」
「きみは自分に重荷を背負わせすぎてる」
「彼がぼくを呼んでる? 彼の教団(ゲマインデ)が?」
「あたりまえじゃないか」
「彼を出して下さい。話がしたいんです」
 ぼくの顔に勝利の小さな笑顔が浮かぶ。
「それは⋯⋯できない」
「なぜです?」
「最近、鏡を見たかね?」
「時間を稼いだって得はしませんよ。時刻が迫ってきてるんですから」
「軍を学園に入れたら承知しないぞ。学園の自治はどうなる?」
「あなたからそんな言葉をきこうとはね⋯⋯あなたの教団(ゲマインデ)は、あなたの救世主(ラトウ・アデイル)は学園に何をもたらしたんです? あれが学園の自治ですか?」
「きみだって失敗したんだ。彼にも多少の間違いはある。しかし軍なんて問題外だ。きみの学園はどこにいったんだ?」
「ぼく抜きでどこに学園があるんです?」
「きみはヤケになってるだけだ」

 約束の時刻を過ぎる。PANICは軍の出動を要請する。間もなく戦車と装甲車が来るだろう。ヘリコプターも。すでに日が暮れはじめている。どうして夜はこんなにも早く来るのか? たぶん昼という、生命に属する時間が特殊なものなのだ。PANICは市街地を進む装甲車をモニターにうつしだすだろう。暴力とは夜に属する熱量なのだ。ぼくは鴫沢寛に負けないだろう。この部屋から一歩も出ずにあいつを片付けるだろう。ぼくは自由を愛する。もしあいつも自分でいうように、スイスと同様、自由を愛するのなら、ぼくは⋯⋯

「寛、きこえるか?」
「⋯⋯」
「いい加減に出てくるんだ、寛。お前は学園を破壊しようとしている。そうすることで自分を苦しめてる」
「今、なんていいました、園長?」
「自分を苦しめる⋯⋯」
「ぼくを何て呼びました?」
「寛、よくきくんだ。お前の精神分裂的(スキゾフレニアツク)な⋯⋯」
「ぼくが鴫沢寛ですって?」
 ぼくはメイン・モニターの画面を見つめる。そこではまだMJBSのマラソン・ショーをやっている。きのうの夕方から始まった放送が終わりに近づいている。もうMJBSは学園のあちこちを細々とうつしだすことをしない。アナウンサーとMJBSの取締役が退屈な対話をつづけるスタジオがずっと画面を占領している。ぼくは何が起こったのかよくわからない。ぼくに話しかけてくるのはこの油河氏だ。まるで園長のように狎れなれしい口をきいて⋯⋯
「ぼくが鴫沢寛ですって?」
「いい加減、夢から醒めるんだ。お前の一人芝居でわれわれがどれだけ迷惑しているか⋯⋯」
「ぼくが彼だなんて、どうしてわかるんです?」
「お前はMANIACだろう?」
「ぼくはMANIACですよ」
「鴫沢寛もMANIACだ」
「彼も⋯⋯」
「お前は鴫沢寛だ」
「ぼくが彼だ⋯⋯?」
「最近、鏡を見たかね?」
 ぼくはふと、鏡の前に立っている自分を発見する。鏡のむこうに鴫沢寛が立っているので、一瞬、縦に長い等身大のモニターが出現したような錯覚に陥る。よく見ればそこに立っているのはぼくであって鴫沢寛ではない。ただ、ぼくの頭が真っ白なので間違えそうになっただけだ。ぼくは鏡に近づき、猫の毛みたいに細い自分の髪をさわってみる。一本残らず根元まで真っ白だ。雪みたいに。何日も眠らなかったので、その間に白くなってしまったのだ。疲労のあまり。いや、たった数日で白くなったのかどうかわからない。なにしろぼくは長いこと鏡を見ていないから。なんとなくぼくは喉の奥から笑いがこみあげてくるのを感じる。
「気づいたようですね」とスタジオのアナウンサーがいう。
「《気づく》という言葉の意味によりますな」と彼女の父がいう「あれは白痴じゃありませんからね。狡滑な男ですよ」
「頭のよさをいかしきれなかった?」
「自分が何者なのか考えるチャンスはずいぶんあったはずです。目をふさいでいただけなんですよ」
「あなたはどうして単刀直入にいわなかったんです、もっと早く、今みたいに?」
「下手に追いつめたら何をしでかすかわかりませんからね。わたしも最初は自信がなかったんですが、鴫沢寛の教団(ゲマインデ)が形をなしてからは、このまま自然に救世主(ラトウ・アデイル)に権力が移行するのを待った方がいいと思うようになったんです。新しい委員会が成立すれば議長も鴫沢寛の役割に移っていかざるを得ませんからね」
「ところが不測の事態が起こった?」
「そう。まさか、議長が本気で軍に助けを求めるとは考えてもみませんでした」
「地の民(アムハ・アレツ)の勢力がこれほど大きくなった今となっては、学園が崩壊するくらいの戦闘がおこなわれるでしょう。しかし園長、あなたの手で軍を宥めることはできないんですか?」
「軍は学園を手にいれたがってますからな。喜んで数十師団を派遣してくるでしょう」
 MJBSともあろうものが、放送中に数十秒の沈黙が流れる。ぼくは肘かけ椅子に深々と腰掛け、笑いながらテレビ番組の不手際を眺める。画面の中でアナウンサーが姿勢を正し、カメラの方を向いて語りかける。
「鴫沢寛さん、いや、議長⋯⋯どう呼んでいいのかわかりませんが、あなたも事態はよくおわかりのことと思います。あなたはこれからどうなさるおつもりですか? このまま一人二役をつづけて学園を破滅に追いやるつもりなんですか?」
 ぼくはくすくす笑いつづける。なんて滑稽な放送だろう。インタビューの相手が現れない番組なんて⋯⋯ぼくはやつらと視聴者に聞こえるような声で笑いつづける。
「応答がありませんね。議長は黙秘するつもりのようですよ」とアナウンサーが油河氏にいう。「彼はこれから一体どうなるんでしょう?」
「決まってますよ。救世主(ラトウ・アデイル)は軍と戦うでしょうよ。学園が壊滅するまで⋯⋯寛、聞こえるかね? いい子だから戦いを避けろ。この上人を死なせて何になるんだ?」

 沈黙、沈黙、沈黙⋯⋯
 ぼくは洋服箪笥の扉をあける。白いマントがさがっている。出掛ける用意をしなければならない。もちろろん用意というのはこの足まで垂れる白いマントのことだ。秋というよりもう季節は冬に近い。夜はひどく冷える。ぼくには白い寛衣が必要だ。風邪をひいてはつまらない。
「寛、待つんだ」油河氏が叫ぶ「今からでも遅くない。PANICに軍の出動を中止させろ」
「ぼくは戦いますよ、園長」
「きみはまだ議長のつもりか? わたしがいってる意味がわからんのかね?」
「事態はまだ⋯⋯いや、たっぷり時間はありますよ。あなたはぼくをご存じない。ぼくはあなたほど狡滑じゃない。あなたはどんな評議会、あるいはどんな委員会が生まれてもうまくやっていける方だ。今回は十五年前よりも見事に評議会から委員会に跳び移られた。あなたは軍ともうまくやるでしょう。しかし、今度は子供騙しじゃすみませんよ」
「まるで気違いだ」とアナウンサーが呟く「自分が議長なのか鴫沢寛なのか、自分ではどう考えてるんです?」
「何も考えてませんよ」と園長がいう「意識が分裂してるんです。MANIACがPANICに分裂したように⋯⋯」
「いったい病因は何だったんでしょう?」
「色々あるでしょうが、まあ、さみしかったんでしょうな。評議会議長というのは孤独な仕事ですから。しかも学園の自治が本来の生命を失っていくのを眺めていなければならない。評議会が強力になればなるほど地の民(アムハ・アレツ)が増えていく⋯⋯」
「それで髪を白く染めて一学年下のクラスにもぐりこんだ⋯⋯?」
「髪は染めたんじゃないでしょう。本当に気苦労から白くなったんですよ」
「なぜ身元のわからない鴫沢寛⋯⋯救世主(ラトウ・アデイル)をMANIACがチェツクしなかったのか、それで説明がつきますね」
「説明がついてもどうにもならんでしょう」園長は苛々しながらいった「何もかも鴫沢寛とMANIACの共謀だったんですよ。彼はMANIACですからな」
「学園では誰も気づかなかったんですか?」
「議長としては顔を見せませんでしたからな。髪も眉も睫も真っ白だし⋯⋯評議会のメンバーになる前一緒に授業を受けていたクラスメイトくらいでしょう、顔を知ってるのは。彼らにしても、ちょっと見ただけじゃわからなかった。」
「クラスに議長が潜入してくるなんて、誰も考えませんからね。それに白痴の真似をしていたんだし⋯⋯」
「真似をしてたと思いますか?」
「だって彼は天才科学者なんでしょう?」
「分裂してたって、さっきからいってるじゃないですか」
                                        
 ふたりは下らない対話を延々とつづける。鴫沢寛が優子と地の民(アムハ・アレツ)を引き連れて麻那を教室に閉じこめ、鞭を振るったこと。彼がMANIACに命じてこの記録データから削除させたこと。評議会議長は彼女が鴫沢寛を尋問するところを見ることができなったが、それは彼自身が彼女に尋問されていたからであるということ⋯⋯
 こんなことを喋っていたところで何になるだろう? 大人たちはいつもこうなのだ。あとになってああでもない、こうでもないと過ぎ去ったことを振り返るのだ。ぼくはもういかなければならない。彼らが待っている。ぼくらにとってはこれからが正念場なのだ。ぼくらは軍と戦わなければならない。ぼくは彼らとともに瀕死の評議会をあの世に送ってやるつもりだ。
《ーー地の民(アムハ・アレツ)を愛する機械よ、とぼくはMANIACに呼びかける。評議会はついに軍と手を結んだ。ぼくらは最終的な戦いを始めなければならない。
《ーーぼくらに勝ち目があるだろうか? とMANIACが心細げな声を出す。ぼくはPANICによって骨抜きにされつつあるんだよ。
《ーー心配するな、とぼくは力強く彼をはげます。PANICはほとんど白痴だ。あんなやつは恐れるに足りない。ぼくがあいつの牛耳りかたを教えてやる。あいつにとって一番怖いのはきみが確信をもって行動することなんだ。さあ、そろそろいくぞ。勝利を確信しろ。軍がミサイルを何千発持ってきたって、学園が地の民(アムハ・アレツ)に埋めつくされているかぎり、何もできやしないさ。きみはぼくにいわれたとおり彼らを辺境地域(ゲリール・ハッゴーイム)から学園に総動員させたんだろう?
《ーーその点は心配ないよ、とMANIACがいう。彼らはきみを信じて学園の中央部に集まっている。ぼくはきみがいてくれれば何も怖いものはないよ。きみはぼくだろう?
《ーーぼくはきみだよ、とぼくはいう。さあ、最後の戦いだ。よろしく頼むよ》

 ぼくは再び中庭に出る。松明(たいまつ)をかざした無数の群集の歓呼にこたえるために。地の民(アムハ・アレツ)はすでに中庭を埋めつくしている。ぼくはまたいつものように彼らの先頭に立つ。なぜなら夜が来たからだ。
「救世主(ラトウ・アデイル)だ」という叫びがあがり、群集の中で波紋のようにひろがる。救世主(ラトウ・アデイル)がいるかぎり恐れることはない。われわれは勝利するだろう。ぼくの言葉がMANIACの声で中庭に響きわたる。


 そのとき太初において無もなかりき、有(う)もなかりき。
 空界なかりき、その上の天もなかりき。

 地の民(アムハ・アレツ)が地鳴りのような声で宇宙開闢の歌をうたいはじめる。ぼくは南校舎を抜けて校庭へむかう。すでに軍は近くまで来ているだろう。旧評議会の残党、評議会議長が学園の自治を破壊しようとしているのだ。ぼくはあいつを許さないだろう。
 ぼくは無限の地の民(アムハ・アレツ)に囲まれている。学園は軍に屈しないだろう。ぼくの教団(ゲマインデ)と自治委員会は学園を守るだろう。ぼくは自由を愛し、学園もまた自由を愛する。ぼくは学園だ。ぼくのそばには十二人の教徒たち、最初にぼくに従った教徒たちがいる。ぼくの傍らにはぼくの片腕がつき従っている。ぼくの優子が。ぼくの腕にからだをぴったりとくっつけ、ぼくの肩に頬をのせながら、ぼくの手を取り、澄んだ声でうたいだす。

 救世主(ラトウ・アデイル)は目覚めたり。太陽神(スーリア)は大地より昇る。

 ぼくが夢にまで見た光景だ。ぼくが優子とからだを寄せあって進むなんて⋯⋯
 讃歌(ヴエーダ)は次第に昂まり、ぼくは恍惚の中にいる。ぼくはからだの中に力を感じている。ぼくは瀕死のMANIACに呼びかける。
《ーー地の民(アムハ・アレツ)と救世主(ラトウ・アデイル)を愛する機械よ。自己の内なる顔を粉砕しろ。自己を確信して第二の自己を殺せ。分裂は死だ。PANICは恐れるに足りない》
                                        
                                        
                                        
                                        
                     ーーーーーー 了 ーーーーーー    
                                        

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